六朝詩における﹁思旧賦﹂
“Si jiu F u
︵思 旧
” i n P oet ry u nde r t he Six D yn ast ies
賦 ︶河 野 哲 宏
要 旨詩に詠われる楽器として代表的なものは︑琴・箏・琵琶などの絃楽器だが︑笛・簫などの管楽器も少なくない︒先行研究では︑詩に描かれる楽器として言及されることが多いのは絃楽器であり︑管楽器についてはあまり研究が進んでいるとは言えない︒絃楽器が注目される理由として︑琴を例にとれば︑古来︑君子が好む楽器とされてきたように︑著名な事象・人物との関わりが多かったためだが︑笛に関わる典故も少なからず見られる︒その一つに︑向秀﹁思旧賦﹂がある︒本稿は︑先行研究ではあまり触れられてこなかった﹁詩に描かれた笛﹂に目を向け︑その中でも︑魏晋の際を生きた﹁竹林七賢﹂の一人︑向秀﹁思旧賦﹂に端を発する典故が︑詩にいかに描かれるのかに注目する︒六朝期の﹁思旧賦﹂詩を見れば︑すでに六朝期の作品において︑﹁思旧賦﹂を典故として用いることは︑確立していたと考えることができる︒その表現は︑顔延之﹁五君詠﹂﹁向常侍﹂の表現﹁山陽賦﹂を規範とした﹁山陽﹂型が多勢を占め︑その理由は︑﹁五君詠﹂が後代の詩人に﹁竹林七賢﹂を詠う際の規範の一つとして考えられていたことが挙げられ︑また︑﹁五君詠﹂の普及・規範化には︑当時の選集編纂が大きく影響したと推測できる︒
はじめに
詩に楽器を詠い込み︑更なる情感を加えることは︑しばしば見られる形だが︑とりわけ唐代において流行した︒
詠われる楽器として代表的なものは︑琴・箏・琵琶などの絃楽器だが︑笛・簫などの管楽器も少なくない︒先行研
究では︑詩に描かれる楽器として言及されることが多いのは絃楽器であり︑管楽器についてはあまり研究が進んで
いるとは言えないのではないだろうか︒絃楽器が注目される理由として︑琴を例にとれば︑古来︑君子が好む楽器
とされてきたように︑著名な事象・人物との関わりが多かったためと考えられる︒
しかし︑笛に関わる典故も少なからず見られる︒その一つに︑向秀﹁思旧賦﹂がある︒
本稿は︑先行研究ではあまり触れられてこなかった﹁詩に描かれた笛﹂に目を向け︑その中でも︑魏晋の際を生
きた﹁竹林七賢﹂の一人︑向秀﹁思旧賦﹂に端を発する典故が︑詩にいかに描かれるのかに注目する︒
向秀﹁思旧賦﹂は︑同じく﹁竹林七賢﹂の一人である嵆康を悼んだ賦である︒制作動機は︑﹁思旧賦﹂序に次の
ように書かれている︒ キーワード思旧賦︑向秀︑笛︑六朝︑詩
余與嵇康呂安居止接近︐其人並有不羈之才︒然嵇志遠而疏︐呂心曠而放︐其後各以事見法︒嵇博綜技藝︐於絲
竹特妙︒臨當就命︐顧視日影︐索琴而彈之︒余逝將西邁︐經其舊廬︒于時日薄虞淵︐寒冰淒然︒鄰人有吹笛者︐
發聲寥亮︒追思曩昔遊宴之好︐感音而歎︐故作賦云
︶1
︵
かつて私は嵆康・呂安と住居が近く︑彼らにはともに何物にも捉われない素晴らしい才能があった︒けれども︑
嵆康の志は高遠ではあるがまばらであり︑呂安の心は広大ではあるが気ままであり︑その後︑各々ある出来事
によって処刑された︒嵆康は幅広い技術や芸術を修め︑音楽においてとりわけ秀でていた︒まさに処刑される
という時に及んで︑振り返って自分の影に目をやり︑琴を求めてそれをつま弾いた︒︵その後︶私が西へ行こう
とした際︑嵆康の旧宅の近くを通った︒日は暮れ寒さが身にしみる︒嵆康の旧宅の隣人に笛を吹く者がいて︑
その音色は透き通って遠くまで聞こえる︒昔︑ともに遊んだ付き合いに思いを馳せ︑その笛の音色に心を動か
され悲嘆にくれる︒よって次のように賦を作った
右の記述に見られる通り︑﹁思旧賦﹂は﹁今は亡き友人を悼む﹂という構造が明確であり︑この構造は︑﹁思旧賦﹂
を典故として用いた唐代の詩に散見される︒
﹁思旧賦﹂が書かれた西晋から唐までの間に︑﹁思旧賦﹂は典故として︑詩へとその場を広げた︒しかし︑典故と
しての﹁思旧賦﹂は︑いつごろから用いられるようになったのだろうか︒
以下︑本稿は︑向秀﹁思旧賦﹂が典故として用いることが見えるようになった六朝期の詩
︶2
︵を対象とし︑﹁思旧賦﹂
六朝詩における「思旧賦」
の用いられ方︑その表現などを考察する︒
まず︑第一章では︑六朝詩における﹁思旧賦﹂を典故として用いた作品が︑どのような文脈・意味で﹁思旧賦﹂
を用いているのかを確認する︒次に︑第二章にて︑その表現の特徴に目を向けたい
︶3
︵︒
第一章
﹁思旧賦﹂が担う意味
本章では︑六朝期における﹁思旧賦﹂に基づいた典故を用いた作品︵以下では﹁思旧賦﹂詩と称す︶において﹁思旧賦﹂
が担う意味を確認する︒
まず︑典故として引かれる﹁思旧賦﹂の内容を確認しておく︒
將命適於遠京兮︐遂旋反而北徂︒
濟黃河以汎舟兮︐經山陽之舊居︒
瞻曠野之蕭條兮︐息余駕乎城隅︒
踐二子之遺跡兮︐歷窮巷之空廬︒
歎黍離之愍周兮︐悲麥秀於殷墟︒
惟古昔以懷今兮︐心徘徊以躊躇︒
棟宇存而弗毀兮︐形神逝其焉如︒
昔李斯之受罪兮︐歎黃犬而長吟︒
悼嵇生之永辭兮︐顧日影而彈琴︒
託運遇於領會兮︐寄餘命於寸陰︒
聽鳴笛之慷慨兮︐妙聲絕而復尋︒
停駕言其將邁兮︐遂援翰而寫心
︶4
︵︒
朝廷の命を受けて遠く都に行き︑やがて引き返して北へ向かった︒
黄河を渡るため舟を浮かべ︑山陽の旧居を過った︒
ひっそりともの寂しい広野を眺めて︑車を県城の片隅に停めた︒
嵆康・呂安の住居の跡を訪れようと︑狭く人気のない廬をめぐった︒
私は周の衰亡を悼む﹁黍離﹂の詩のように嘆き︑殷の都の廃墟を哀れむ﹁麦秀﹂の詩のように悲しむ︒
ただ共にいた当時を思い出して懐かしむだけで︑心は落ち着かずおろおろしてしまう︒
彼らの住んだ建物はまだ残っているのに︑二人の体と心はどこへ行ってしまったのだろう︒
昔︑秦の李斯は罪を受けた際︑黄色い犬を牽いてまた故郷の山野を歩きたいと嘆いた︒
嵆康はこの世を去るにあたり︑影を振り返って琴をつま弾いた︒
命を運命に託し︑余命がわずかであることを惜しんだのだ︒
聞こえてきた笛の音に二人の慷慨の念を聞き︑その素晴らしい響きは途絶えてはまた聞こえてくる︒
六朝詩における「思旧賦」
ここから去るにあたって私は車の傍らに佇み︑ついに筆をとって哀悼の心を書き記した︒
以上が︑﹁思旧賦﹂の全文である︒﹁思旧賦﹂は嵆康・呂安の二者を悼んでいるが︑行論の簡略化のため︑嵆康を
悼まれている人物として進める︒
まずは︑現在目睹し得る最古の﹁思旧賦﹂詩である︑詠史詩として向秀を描いた顔延之︵三八四︱四五六︶﹁五君詠﹂
﹁向常侍﹂を見てみよう︒
﹁五君詠五首﹂﹁向常侍﹂ 顔延之
向秀甘淡薄︐
深心託毫素︒
探道好淵玄︐
觀書鄙章句︒
交呂既鴻軒︐
攀嵇亦鳳舉︒
流連河裏遊︐
惻愴山陽賦︒
向秀は味もそっけもない生活に甘んじていたが︑
奥深い心を筆と紙に託し著作を残した︒
道を探っては物事の奥深さを好み︑
書物を読んでは内容の精神を理解しない解釈を卑しんだ︒
呂安と交わって鴻のように飛び上がった上︑
嵆康の知遇を得てこのような高みに上ったのだ︒
彼らといつまでも河で遊んで帰らなかったが︑
嵆康の死後︑その交遊を思い出して︑悲しみ悼んでは﹁思旧賦﹂を作った︒
顔延之が﹁五君詠﹂を制作した動機は︑﹃宋書﹄﹁顔延之伝﹂の記載によれば︑﹁地方へ左遷され永嘉太守となっ
たが︑顔延之はこれに対して非常に憤り︑そこで﹃五君詠﹄を作った
︶5
︵﹂ということである︒
また︑﹁五君詠﹂は︑﹁竹林七賢﹂の七人のうち︑山濤・王戎を除いた五人を﹁五君﹂として詠ったものだが︑顔
延之が﹁竹林七賢﹂から﹁五君詠﹂へという操作を行った理由も︑﹃宋書﹄巻七十三﹁顔延之伝﹂の記載によって︑﹁﹃五君詠﹄を作り﹃竹林七賢﹄のことを叙述したが︑山濤・王戎は高位に昇ったため退けられた
︶6
︵﹂とされている︒
しかし︑﹃宋書﹄の編纂者である沈約は︑﹁五君﹂に詠われた句を︑顔延之が自身を仮託しているとするが︑向秀を
詠った句は取り上げられていない
︶7
︵︒沈約の見方に従えば︑この詩では︑嵆康の死を向秀が悼んだことを述べている
と考えられ︑顔延之自身が自身の境遇を詠い込んだり︑特定の誰かを悼むのに﹁思旧賦﹂を用いてはいないと考え 六朝詩における「思旧賦」
られる︒この詩以前に﹁思旧賦﹂に言及した詩は見られず︑また︑顔延之以前に﹁竹林七賢﹂に関する典故を用いた作品
は︑以下の三例しか見られない︒
苻朗︵?︱三九〇?︶﹁臨終詩﹂︵如何箕山夫︒奄焉處東市︒曠此百年期︒遠同嵇叔子︒︶
謝霊運︵三八五︱四三三︶﹁道路憶山中︵道路にて山中を憶ふ︶﹂︵悽悽明月吹︒惻惻廣陵散︒︶
范曄︵三九八︱四四五︶﹁臨終詩﹂︵雖無嵇生琴︒庶同夏侯色︒︶
嵆康の処刑時の様子に言及した二作品︵苻朗・范曄︶は︑いずれも﹁臨終詩﹂であり︑処刑という同じ状況に陥っ
た際の理想的な姿として言及されている︒また謝霊運詩の﹁広陵散﹂は嵆康が処刑に臨んでつま弾いた琴曲であり︑
嵆康の死を含意することは言うまでもない︒
以上の三作品からすると︑﹁竹林七賢﹂を典故として詩に用いることは︑嵆康を対象として始まったと考えられ
るが︑向秀を対象とすること︑つまり︑向秀の作品である﹁思旧賦﹂を典故として用いるのは︑顔延之﹁五君詠﹂﹁向
常侍﹂より先に遡れない︒
以下︑﹁思旧賦﹂が担う意味を大きく二つに分け︑﹁亡き友人を悼む﹂という構造で用いられているものを先に取
り上げ︑その後︑笛の音の素晴らしさを表す用例に進む︒
第一節 ﹁亡き友人を悼む﹂
﹁思旧賦﹂は︑向秀が亡き友人嵆康を悼んで作ったという性質上︑亡き友人を悼むという構造が明確である︒本
節では︑この構造を用いて︑亡き友人を悼むという意味で︑﹁思旧賦﹂を用いているものを取り上げる︒
﹁傷徐主簿︵徐主簿を傷む︶﹂ 何遜
客簫雖有樂︐
鄰笛遂還傷︒
提琴就阮籍︐
載酒覓楊雄︒
旅人の吹く簫は楽しさがあると言っても︑
隣家から聞こえる笛の音は﹁思旧賦﹂を作った向秀のように痛ましく感じられる︒
琴を提げては阮籍︵君︶のところへ行き︑
酒を戴いては揚雄︵君︶を探し求めるが︑君はもういないのだ︒
この詩は詩題からわかるように︑何遜︵四六七?︱五一八?︶が徐主簿の死を悼んだ作品であるが︑徐主簿がいか
なる人物かはわからない︒ 六朝詩における「思旧賦」
一︑二句目は︑向秀﹁思旧賦﹂を踏まえたものである︒﹁思旧賦﹂は︑向秀が今は亡き友人である︑嵆康を懐か
しんで作ったものであり︑ここでは︑自身を向秀に︑徐主簿を嵆康に擬えて友人への哀惜を表現していると考えら
れる︒また︑三︑四句目では︑琴/酒︑阮籍/揚雄という対立を立て﹁竹林七賢﹂の一人︑阮籍に言及している︒琴/
酒は︑﹁風流﹂という属性を示すものであり︑阮籍は︑琴を好んだ人物であり︑揚雄は︑﹁酒賦﹂を著している︒こ
の詩は︑詩題に言うように友人を傷む詩であるので︑徐主簿が琴/酒の大家である阮籍/揚雄と親しく交われるほ
どの風流な人物であるということを示しているのだろう︒
次は︑庾信︵五一三︱五八一︶﹁傷王司徒褒︵王司徒褒を傷む︶﹂の末尾の二句である︒
唯有山陽笛︐
淒余思舊篇︒
山陽で向秀が聞いたように笛の音が聞こえ︑
私に﹁思旧賦﹂のような悲しみに満ちた作品を作らせる︒
ここでは︑王褒を悼む自身を︑嵆康を悼む向秀に擬えている︒王褒は︑梁滅亡後︑江陵から長安へ連行され北周
に仕えることとなる︒庾信と共にその文才を称えられた人物であり︑庾信にとっては︑数少ない故郷を共にする友
人である︒この詩では﹁山陽笛﹂とともに﹁思舊篇﹂が言及されている︒
次は︑友人の死を悼む向秀の位置に︑友人である徐陵が置かれ︑作者・庾信が嵆康の位置に置かれるものである︒
よって︑厳密には﹁亡き友人を悼む﹂という構造を用いてはいないが︑友人︵庾信自身︶の死を仮構して︑行動を
促すということから︑﹁亡き友人を悼む﹂という構造を念頭に置いての用例と考えられる︒
﹁寄徐陵︵徐陵に寄す︶﹂ 庾信
故人倘思我︐
及此平生時︒
莫待山陽路︐
空聞吹笛悲︒
我が友よ︑もし私のことを思ってくれるなら︑
私が生きているこの時に思ってほしい︒
あの﹁思旧賦﹂にあるように山陽の道で︑
空しく笛の音を聞いて悲しむのを待たないでくれ︒
徐陵は︑庾信とともに︑梁の簡文帝・蕭鋼の文学集団に所属しており︑二人の艶麗な作風は﹁徐庾体﹂と称され
六朝詩における「思旧賦」
た︒この詩は︑徐陵が使者として陳から北周に来た際の作品と考えられるため︑﹁思旧賦﹂は︑自身が死んだ後に
悲しむのではなく︑今この時に南に帰れるように何とかしてほしいという願いを込めて用いられていると思われ
る︒次に挙げるのも︑﹁友人を悼む﹂という構造を用いたものである︒
﹁傷章公大將軍詩
︶8
︵︵章公大將軍を傷む詩︶﹂ 何胥
百萬橫行罷︐
三千白日新︒
短簫應出塞︐
長笛反驚鄰︒
槐庭慘芳樹︐
舞閣思陽春︒
所悲金谷妓︐
坐望玉關人︒
百万の軍勢は大将軍の号令で思うがままの行動をやめ︑
世界に新たな太陽が現れたようだった︒
かつては短簫が出塞に応じて響いたが︑
大将軍亡き今︑長笛が響いては隣人を悲しませる︒
槐の植えられた庭は損なわれ︑
昔︑お屋敷で演奏された﹁陽春﹂の曲が懐かしい︒
今は金谷園で舞ったような美しい妓女はもうおらず︑
座ってかつて玉関門のかなたまで遠征した大将軍が見えないか目を遠くへやる︒
何胥︵生没年不詳︶は︑南朝陳の人である︒悼まれる章公がいかなる人物かはわからない︒章公が音楽を好んだ
のかどうかもわからないが︑詩全体において音楽に関わる事物が用いられており︑その内の一つが﹁思旧賦﹂であ
り︑﹁亡き友人を悼む﹂という構造が見られる︒
以上の四篇は︑すべて﹁亡き友人を悼む﹂という構造を用いており︑典拠である﹁思旧賦﹂に沿った用例である︒
第二節
﹁笛の音の素晴らしさ﹂
本節では︑﹁思旧賦﹂に見られる﹁亡き友人を悼む﹂という構造を用いていないものを取り上げる︒
﹁聽百舌詩︵百舌を聽く詩︶﹂ 劉令嫺
庭樹旦新晴︐
六朝詩における「思旧賦」
臨鏡出雕楹︒
風吹桃李氣︐
過傳春鳥聲︒
淨寫山陽笛︐
全作洛濱笙︒
注意歡留聽︐
誤令粧不成︒
庭の木々は朝陽に照らされ︑
私は寝室を出て鏡に向かう︒
吹く風に桃の花が咲く気配が感じられ︑
春を告げる鳥の声が聞こえてくる︒
その鳴き声は向秀の聞いた隣家からの笛のようでもあり︑
王子喬の吹く笙の音のようでもある︒
はっと楽しげな人々の声に気付いてみれば︑
化粧をするのも忘れて百舌の鳴き声に聞き入っていた︒
劉令嫺︵生没年不詳︶は︑﹃文選﹄の編纂に関わったとされる劉孝綽の妹である︒
この詩は︑夫である徐悱の死の前後どちらの時期の作か詳らかにしない︒夫の死後であれば︑夫の死を悼む方向
で捉えられるが︑夫の死の前であれば︑百舌の鳴き声の素晴らしさを描いた作品となるだろう︒
五句目に﹁思旧賦﹂が用いられており︑その対句となる六句目には︑王子喬の次の故事が用いられている︒
王子喬とは︑周の靈王の太子の晋のことである︒笙を吹くのを好み︑鳳凰の鳴き声のようだった︒伊水・洛
水周辺に遊び︑道士・浮邱公を連れて嵩高山に登ってしまった︒三十数年後に︑王子喬を山上にて探している
と︑桓良という者が現れ︑七月七日に︑緱氏山の山頂で私を待つよう家族に伝えてくれと伝言した︒約束の日
に︑王子喬は鶴に乗って山の頂きに下り立った︒その姿は見えるがそこまで行くことができない︒王子喬は手
を挙げて人々に別れを告げ︑数日の後去っていった
︶9
︵︒
夫の死後の作とすれば︑これを踏まえて︑夫の死を王子喬の登仙に擬えており︑俗界に留まる自身との隔たりを
描いていると考えられ︑﹁思旧賦﹂とともに︑百舌の鳴き声によって悲しみがこみ上がってきたと考えられる︒
夫の死の前の作とすれば︑百舌の鳴き声の素晴らしさを描いており︑その鳴き声は︑向秀の聞いた清新な笛の音︑
王子喬の吹く鳳凰の鳴き声のような笙の音のようであることを言うのだろう︒
詩全体から受ける印象からすると︑視覚よりも聴覚・嗅覚による詩作である︒そして末尾にて︑﹁化粧を忘れる﹂
と言うところからすると︑悲しみを詠うよりも︑百舌の鳴き声に夢中になる姿を描いたものだと思われる
︶10
︵︒その場
六朝詩における「思旧賦」
合︑﹁思旧賦﹂の﹁亡き友人を悼む﹂という構造は用いていないが︑音に関わる典故として﹁思旧賦﹂に描かれる﹁笛
の音の素晴らしさ﹂が認識されていた点は読み取れる︒
次に見る周弘讓︵生没年不詳︶﹁賦得長笛吐清氣詩︵賦して長笛吐清氣を得る詩︶﹂は賀徹︵生没年不詳︶の詩と同題で
ある︒周弘讓は︑周弘正︵四九六︱五七四︶の弟であり︑賀徹は︑南朝陳の至徳︵五八三年︶︑隋に修好の使者として
赴いているので︑ともに同時期の人と考えられる︒よって︑この二作は︑同座にて競作されたとも考えられる︒題
下注に﹁詩紀云︒魏文帝善哉行︒悲絃激清聲︒長笛吐清氣︒﹂とあり︑詩題の﹁長笛吐清氣﹂は︑魏文帝・曹丕﹁善
哉行﹂から採られたとわかる︒曹丕﹁善哉行﹂の冒頭四句を左に挙げる︒
朝日樂相樂︐
酣飲不知醉︒
悲弦激新聲︐
長笛吹清氣︒
天子が太陽を祭る際の﹁朝日楽﹂を楽しみながら︑
思う存分酒を飲んでもまだまだ酔いは回ってこない︒
悲しげな琴の音は新しい曲を奏で︑
長笛は清らかな音色を響かせる︒
第四句﹁長笛吹清氣﹂で長笛の音の清らかさを言う︒これは︑馬融﹁長笛賦﹂序にある﹁吹笛為氣出精列相和﹂
を踏まえたものだろう︒
而為督郵無留事︐獨臥郿平陽鄔中︒有雒客舍逆旅︐吹笛為氣出精列相和︒融去京師逾年︐蹔聞甚悲而樂之
︶11
︵︒
督郵として各地を巡り仕事も済ませたので︑一人︑平陽という砦の中で横になっていた︒ちょうど洛陽から来
た人が宿に泊っており︑笛を吹いて﹁気出﹂﹁精列﹂の相和曲を演奏した︒私は洛陽を離れて一年以上になる
ので︑しばらく聞いていると悲しみがこみ上げ︑同時に楽しみもした︒
馬融﹁長笛賦﹂序に見える︑近隣の人が笛を吹くのを聞き︑その音色に悲しみがこみ上げるという構造は︑﹁思
旧賦﹂序と同じ構造である︒漢代に成立した﹁長笛賦﹂の方が先であるため︑向秀が﹁思旧賦﹂を書く際に︑表現
の型として用いたと考えられる︒
それでは︑﹁長笛吹清氣﹂を主題とした周弘讓﹁賦得長笛吐清氣詩︵賦して長笛吐清氣を得る詩︶﹂と賀徹﹁賦得長
笛吐清氣詩︵賦して長笛吐清氣を得る詩︶﹂を見る︒まずは︑周弘讓の前半四句である︒
商聲傳後出︐
龍吟鬱前吐︒
六朝詩における「思旧賦」
情斷山陽舍︐
氣咽平陽塢︒
商という音階は馬融﹁長笛賦﹂が伝わって登場し︑
長笛の龍の鳴き声のような清らかな響きは民が怨みに思う奢侈な音ではない︒
その響きは向秀に嵆康を悼ませるのに足り︑
馬融が平陽塢で聞いたように清らかな響きである︒
続いて︑賀徹の前半四句である︒
胡關氛霧侵︐
羗笛吐清音︒
韻切山陽曲︐
聲悲隴上吟︒
異民族に対する北の地では混乱が忍び寄り︑
羌笛の清らかな響きが聞こえてくる︒
向秀が山陽で聞いた笛の音は痛切で︑
楽府﹁隴頭吟﹂は悲しげな響きだ︒
両作に見える﹁思旧賦﹂は︑悲しげでありつつも︑響きの清らかさを描くのに用いられている︒注意すべきは︑
笛の音色の清らかさを示す典故として︑﹁思旧賦﹂が﹁長笛賦﹂とともに引かれていることである︒﹁善哉行﹂では︑
笛の音の清らかさを示すのに引かれるのは﹁長笛賦﹂であったが︑周弘讓と賀徹の作品では︑﹁思旧賦﹂が用いら
れている︒これは︑当時︑﹁長笛賦﹂とともに﹁思旧賦﹂が笛を描く代表的な作品として認識されていたことを示
している︒
以上の三例は︑いずれも﹁亡き友人を悼む﹂という構造を用いず︑﹁笛の音の素晴らしさ﹂を称えるために﹁思
旧賦﹂が用いられている︒﹁思旧賦﹂が︑笛の音によって︑感情を喚起された作品と考えれば︑この三例は︑﹁思旧
賦﹂を挙げ︑そこに記される感情によって︑笛の音の素晴らしさを証立てていると考えられる︒
以上︑六朝期に見られる八例の﹁思旧賦﹂詩を見てきた︒顔延之﹁五君詠﹂﹁向常侍﹂は詠史詩という性質上︑
向秀を描くという前提を持つことから︑特定の人物を悼んではいない︒しかし︑最も早くに﹁思旧賦﹂に言及した
と考えられるため︑﹁思旧賦﹂典故の端緒を開いたと言えるだろう︒
残りの七例では︑半数以上が︑詩題に﹁傷﹂という字を用いることからわかるように︑﹁思旧賦﹂の亡き友人を
悼むという構造が用いられている︒﹁亡き友人を悼む﹂という構造を用いたものの他︑三例︑馬融﹁長笛賦﹂とと
もに引かれ︑﹁笛の音の素晴らしさ﹂を称えるものが見られた︒
六朝詩における「思旧賦」
これまでの考察から︑六朝期において︑すでに﹁思旧賦﹂を典故として用いることは定着していると認められる
だろう︒詩中において﹁思旧賦﹂が担う意味として︑﹁亡き友人を悼む﹂︑﹁笛の音の素晴らしさ﹂という二つの意
味が見られたが︑これは︑一つの故事を二つの視座から眺めたものと言える︒﹁思旧賦﹂の構造として︑﹁亡き友人
を悼む﹂ということは非常に明確である︒しかし︑その構造は笛の音によって喚起された感情として言表されてい
る︒これを裏返せば︑向秀を悼ませるほど素晴らしい笛の音ということであり︑詩人が︑感情と笛の音のどちらに
焦点を当てるかによって︑﹁思旧賦﹂の用いられ方が変わるということだろう︒
第二章
﹁思旧賦﹂を示す表現
前章では︑詩中に見られる﹁思旧賦﹂の担う意味に注目した︒本章では︑﹁思旧賦﹂を用いる際の︑その表現に
着目したい︒
煩雑ではあるが︑前章にて確認した︑﹁思旧賦﹂詩の作者・該当句を今一度挙げる︒
・劉宋
顔延之﹁五君詠五首﹂﹁向常侍﹂︵流連河裏遊︒惻愴山陽賦︒︶
・梁
何遜 ﹁傷徐主簿﹂︵客簫雖有樂︒鄰笛遂還傷︒提琴就阮籍︒載酒覓楊雄︒︶
劉令嫺﹁聽百舌﹂︵淨寫山陽笛︒全作洛濱笙︒︶
・北周
庾信 ﹁傷王司徒褒﹂︵唯有山陽笛︐淒余思舊篇︒︶ ﹁寄徐陵﹂︵莫待山陽路︐空聞吹笛悲︒︶
・陳
周弘讓﹁賦得長笛吐清氣詩﹂︵情斷山陽舍︒氣咽平陽塢︒︶ 賀徹 ﹁賦得長笛吐清氣詩﹂︵胡關氛霧侵︒羗笛吐清音︒韻切山陽曲︒聲悲隴上吟︒︶ 何胥 ﹁傷章公大將軍﹂︵短簫應出塞︒長笛反驚鄰︒︶
右の詩群を通覧すれば︑﹁思旧賦﹂に言及した表現が二つに大別できる︒一つは︑﹁山陽﹂という嵆康の旧居があっ
たとされる地名に何らかの語を足したものであり︑もう一つは︑﹁鄰家から聞こえてきた笛﹂を示すものである︒
ここでは︑前者を﹁山陽﹂型︑後者を﹁隣笛﹂型として︑考察を進める︒
前章で分類した二つの意味と︑その際の表現に関して言えば︑﹁笛の音の素晴らしさ﹂として用いたもの︵劉令
嫺・周弘讓・賀徹︶は︑すべて﹁山陽﹂型であり︑その他の﹁亡き友人を悼む﹂という意味では︑﹁山陽﹂型︑﹁隣笛﹂
型の両者が見られる︒ここから︑特定の表現が特定の意味に結びついてはいないと判断される︒
それでは︑﹁思旧賦﹂詩八首のうち︑﹁山陽﹂型が六首を占めているのは︑何故なのか︒
﹁山陽﹂は︑都・洛陽から見て黄河の対岸にある孟津を含む河内郡に属する山陽県を指し︑嵆康の旧居があった
六朝詩における「思旧賦」
とされる︒梁の庾肩吾︵?︱五五〇?︶も﹁賦得嵆叔夜︵賦して嵆叔夜を得る︶﹂で次のように触れている︒
廣陵餘故曲︐
山陽有舊鄰︒
広陵には古い曲を残し︑
山陽には昔寓居が有った︒
この言及から︑嵆康の旧居が﹁山陽﹂に有ったことは︑良く知られていたと思われる︒
しかし︑詩中に﹁山陽﹂の二字だけが置かれたときには︑字義の通り﹁山の南側﹂を示す場合もある︒また︑﹁山
陽﹂は︑漢の献帝が魏の文帝・曹丕によって封じられた地でもあり︑必ずしも﹁山陽﹂=嵆康とはならないだろう︒
そこで︑詩人たちは﹁山陽﹂型では︑﹁思旧賦﹂を示す﹁賦﹂や︑﹁思旧賦﹂の内容に関連する﹁笛﹂﹁路﹂﹁舎﹂﹁曲﹂
といった語を加え︑﹁山陽﹂という地名を嵆康に関わるものとして限定して用いている︒
それに対して﹁隣笛﹂型は︑﹁思旧賦﹂序︑あるいは本文に描かれる﹁鄰家から聞こえてきた笛の音﹂という部
分を取り上げて用いている︒
右に挙げた一覧を﹁思旧賦﹂詩が制作された時期とその表現に注目してみれば︑梁代以前に﹁思旧賦﹂に関する
典故を用いた作品は︑顔延之﹁五君詠﹂のみであることがわかる︒
顔延之は﹁山陽﹂型で﹁思旧賦﹂に言及している︒ここから︑顔延之以後の詩人は︑﹁五君詠﹂﹁向常侍﹂の表現
を︑﹁思旧賦﹂に言及する際の規範として見ていたのではないかと推測できる︒この推測は︑前章で見た︑向秀の
作品である﹁思旧賦﹂を典故として用いるのは︑顔延之﹁五君詠﹂﹁向常侍﹂より先に遡れず︑顔延之﹁五君詠﹂﹁向
常侍﹂が﹁思旧賦﹂詩の端緒を開いたという考察と矛盾しない︒
さらに︑﹁思旧賦﹂のみではなく︑﹁竹林七賢﹂を詩に詠うということに範囲を広げれば︑顔延之が﹁五君詠﹂で
用いた表現は︑その後多くの詩人に踏襲されていることが見出せる︒
例えば︑阮籍を詠った﹁阮歩兵﹂の末句である︒
物故不可論︐
途窮能無慟︒
人の善し悪しを論じることはないが︑
ただ行き詰まっては慟哭するばかりだ︒
右に見える﹁途窮﹂は︑庾信や杜甫らに好んで用いられている
︶12
︵︒
また︑李白は﹁酬王補闕翼恵荘廟丞宋泚贈別︵王補闕翼︑恵荘廟丞の宋泚の贈別に酬ゆ︶﹂において︑嵆康を詠った﹁嵆
中散﹂の末句を下敷きとして句を作っている︒ 六朝詩における「思旧賦」
﹁嵆中散﹂︵末句︶
鸞翮有時鎩︐
龍性誰能馴︒
鳳凰のような翼が時には傷つこうとも︑
龍のような性質は誰にも飼い馴らすことはできない︒
﹁酬王補闕翼恵荘廟丞宋泚贈別︵王補闕翼︑恵荘廟丞の宋泚の贈別に酬ゆ︶﹂︵部分︶
鸞翮我先鎩︐
龍性君莫馴
︶13
︵︒
私の鳳凰のような翼は断ち切られたが︑
君たちは龍のような性質を飼い馴らされたりしないでくれ︒
さらに︑自身を阮咸に仮託し︑次の阮咸を詠った﹁阮始平﹂の冒頭に見える﹁青雲器﹂も好んで用いている
︶14
︵︒
仲容青雲器︐
實禀生民秀︒
阮咸は高潔な人格であり︑
真にその天分は人民より秀でている︒
以上のように︑顔延之﹁五君詠﹂は︑後代の詩人に︑﹁竹林七賢﹂を詠う際の規範として考えられていると判断
されるが︑それは︑﹁思旧賦﹂についても同じことと考えられる︒つまり︑﹁山陽﹂型は︑顔延之以前には﹁思旧賦﹂
詩が見られず︑顔延之の後︑梁代以降に五篇見られ︑﹁五君詠﹂が後代の詩人が参考にするべき規範となったこと
から︑﹁山陽﹂型で﹁思旧賦﹂を示す典故表現は︑顔延之﹁五君詠﹂﹁向常侍﹂に始まったと考えられよう︒
それでは︑﹁思旧賦﹂に言及する際に︑なぜ顔延之﹁五君詠﹂﹁向常侍﹂の﹁山陽﹂型が優勢を誇ったのだろうか︒
先行する作品を踏まえることは︑詩に限らず︑多くの表現形式で採用される技法である︒しかし︑顔延之﹁五君
詠﹂﹁向常侍﹂が規範となったことは︑先行するという要因だけでは説明がつかない︒以下︑推測による部分を含
むが︑背景となる選集編纂について︑先行研究を参照しながら愚見を述べてみよう︒
本稿で度々言及してきている顔延之﹁五君詠﹂が作られたのは︑顔延之が生きた劉宋期だが︑その顔延之の伝を
沈約が編纂したのは︑斉の武帝のころ︵在位四八二︱四九三︶であり︑沈約はさらに当時の詩歌選集である﹃集鈔﹄
十巻を編纂している︒﹁はじめに﹂で触れたように︑沈約は︑﹁顔延之伝﹂において︑﹁五君詠﹂のいくつかの句を︑
顔延之自身を仮託したものだと言って引用し︑さらに︑﹁竹林七賢﹂を論究の主題とする﹁七賢論﹂を撰している
六朝詩における「思旧賦」
ことから考えて︑沈約は﹁竹林七賢﹂に並々ならぬ関心を抱いており︑沈約の﹃集鈔﹄十巻には︑顔延之﹁五君詠﹂
が収録されていたのではないかと推測される︒当時︑文壇の領袖であった沈約の編纂になる﹃宋書﹄や﹃集鈔﹄︑﹁七
賢論﹂は︑多くの文人の目に触れたことであろう︒
また︑﹃文選﹄にその名を冠する昭明太子・蕭統︵五〇一︱五三一︶は︑﹁詠山濤王戎詩二首并序︵山濤王戎を詠ずる
詩二首并序︶﹂という︑﹁竹林七賢﹂のうち顔延之が詠わなかった山濤・王戎の二人を詠っている︒その詩序に︑﹁顔
延之﹃五君詠﹄は山濤・王戎のことを詠わなかったので︑私は二人を詠ってみた
︶15
︵﹂と言い︑顔延之を意識していた
ことがわかる︒
そして︑昭明太子・蕭統﹃文選﹄には︑向秀﹁思旧賦﹂はもちろん︑顔延之﹁五君詠﹂も録されている︒﹃文選﹄
の編纂過程についての推定として︑岡村繁氏は次のように言う︒
このように考えてくると︑従来あまり研究者にかかる優れた先行選集︵引用者注沈約﹃集鈔﹄十巻など︶が
存在する以上︑やがて後年﹃文選﹄が編纂される際︑この編纂事業は︑従来われわれが闇雲に想像していたほ
どに編纂者たちの多大な労苦を必要とする大事業ではなく︑実は︑作品選択にしても文体分類にしても︑その
膳立ては殆ど既成の諸選集によって完了しており︑編纂者は︑そうした諸選集の上に乗っかって︑適宜そこか
らめぼしい作品を採択してゆけば︑それで大部分は処理できたのではないだろうか︒つまり﹃文選﹄は︑その
大部分が︑元来の詩文作品群から直接採録した第一次的選集ではなく︑既成の選集の中からさらに然るべき作
品を選擢した︑いわば第二次的選集であった可能性が極めて大きいように思われる
︶16
︵︒
右の岡村氏の述べる説は︑興膳宏氏の指摘する通り︑﹁必ずしも﹃文選﹄は既成のより大きな選集にもとづいた
﹃第二次的選集﹄ではなかったとはいえないが︑またそうであったと断定することもできない﹂が︑興膳氏も︑﹁﹃隋
志﹄に著録されるような歴代の選集によってアンソロジー編纂のノウハウが蓄積され︑改良されながら︑最終的に
﹃文選﹄という成果に結実したとも考えられるのではないか
︶17
︵﹂と︑﹃文選﹄と他の選集との関連は否定していない︒
沈約・蕭統が︑﹁竹林七賢﹂に関心を抱いたことは確かではあるが︑当時編纂されたすべての選集に﹁五君詠﹂
が採録されていたかはわからない︒しかし︑東晋以降︑様々な表現形式で﹁竹林七賢﹂は言及されてきており︑﹁竹
林七賢﹂に対する関心も高かったと考えられる︒であれば︑﹃文選﹄以前の選集においても︑顔延之﹁五君詠﹂が
採録されていた可能性が高く︑当時の文人に良く知られた作品であったと考えても問題ないだろう︒さらに︑興膳
氏の﹁ある領域において一つの典型が確立すると︑その権威は絶対のものとなって︑それまでに大なり小なりの影
響力を発揮した書は︑急速に存在感を喪失してゆく例を︑私たちはすでに中国の学術文化史の上で少なからず見て
きた︒⁝中略⁝﹃文選﹄の場合もおそらくその例外ではなかっただろう
︶18
︵﹂という見方に従えば︑﹁五君詠﹂の普及・
規範化に﹃文選﹄が大きな影響力を有していたと推測できる︒
梁代以後の﹁思旧賦﹂詩を作った詩人の生没年では︑何遜が最も早く︑四六七?︱五一八?である︒﹃文選﹄の
成書がいつなのかは確定されていないが︑おそらく蕭統の在世中︵五〇一︱五三一︶であることから︑何遜は﹃文選﹄
を目にしてないかもしれない︒時期的に︑その次に位置する劉令嫺は︑生没年不詳だが︑﹃文選﹄編纂に関わった
とされる劉孝綽の妹であるため︑おそらく︑﹃文選﹄を目にしていたはずである︒そして︑それ以後の詩人も目に
したことだろう︒ 六朝詩における「思旧賦」
顔延之︑何遜以後の詩人は︑何胥を除いて︑すべて﹁山陽﹂型で﹁思旧賦﹂に言及していることから︑﹃文選﹄
以前の選集や﹃文選﹄によって︑﹁五君詠﹂は﹁竹林七賢﹂を詠った作品としての地位を確立し︑それにより︑詩
人が﹁竹林七賢﹂を詠う際の規範の一つとなったのではないかと思われる︒
おわりに
本稿では︑笛を描いた詩の考察の一つとして︑向秀﹁思旧賦﹂を典故として用いた﹁思旧賦﹂詩を考察した︒第
一章にて考察した詩群を見れば︑唐代には︑まとまった量の﹁思旧賦﹂詩があるが︑すでに六朝期の作品において︑
﹁思旧賦﹂を典故として用いることは︑確立していたと考えることができるだろう︒そして︑その表現は︑顔延之﹁五
君詠﹂﹁向常侍﹂の表現﹁山陽賦﹂を規範とした﹁山陽﹂型が多勢を占める︒その理由としては︑﹁五君詠﹂が後代
の詩人に﹁竹林七賢﹂を詠う際の規範の一つとして考えられていたことが挙げられ︑六朝期の選集編纂に関する先
行研究から︑﹁五君詠﹂の普及・規範化には︑当時の選集編纂が大きく影響したと推測した︒
唐代に入ると︑﹁思旧賦﹂に言及する際の表現として︑﹁山陽﹂型よりも﹁隣笛﹂型の量が増加するが︑この点に
関しては︑別稿にて考察を加えたい︒
注︵
︵ 1︶﹃文選﹄︵成都︑中華書局︑一九八一年七月︑第一版︶︑二二九頁︒
2︶
六朝期の詩の引用には︑すべて逯欽立輯校﹃先秦漢魏晋南北朝詩﹄︵北京︑中華書局︑二〇〇六年一月︑第一版北京第五次印刷︶を使用する︒︵
3︶
当然︑現在伝わる詩のみが︑諸詩人の作品すべてではない︒よって︑本稿は︑現存する作品による考察という限定的な考察となる︒︵
4︶
前掲﹃文選﹄︑二二九頁︒︵
5︶
原文﹁出為永嘉太守︐延年甚怨憤︐乃作五君詠﹂︵﹃宋書﹄︑北京︑中華書局︑一九七四年︑第一版︑一八九三頁︶︒︵
6︶
原文﹁作五君詠以述竹林七賢︐山濤王戎以貴顯被黜﹂︵前掲﹃宋書﹄︑一八九三頁︶︒︵
︵ 一麾乃出守︒﹂詠劉伶曰﹁韜精日沉飲︐誰知非荒宴︒﹂此四句︐蓋自序也︒﹂︵前掲﹃宋書﹄︑一八九三頁︶とある︒ 7︶﹃宋書﹄に﹁詠嵇康曰﹁鸞翮有時鎩︐龍性誰能馴︒﹂詠阮籍曰﹁物故可不論︐塗窮能無慟︒﹂詠阮咸曰﹁屢薦不入官︐
8︶
題下注に﹁詩紀云︒章字上疑有闕文﹂とある︒︵
9︶
原文﹁王子喬者︐周靈王太子晉也︒好吹笙︐作鳳凰鳴︒遊伊洛之閒︒道士浮邱公︐接以上嵩高山︒三十餘年後︐求之於山上︐見桓良曰︐告我家︐七月七日︐待我於緱氏山巓︒至時︐果乘白鶴駐山頭︒望之不得到︒擧手謝時人︐數日而去︒﹂︵﹃列仙伝﹄︶︒︵
10︶
この詩が夫の死を含意しているかどうかは︑現段階ではわからない︒本稿では︑ひとまず︑夫の死を含意していないとしておくが︑別稿にて更なる考察を加えることとしたい︒︵
11︶
前掲﹃文選﹄︑三六七頁︒︵
12︶
阮籍の行き詰まりを表現した﹁途窮﹂も︑﹁五君詠﹂に始まり︑その後︑杜甫らに好んで用いられたことは︑後藤秋正氏﹁﹃窮途﹄補記詩語のイメージ﹂︵﹃北海道教育大学紀要﹄人文科学・社会科学編︑五三巻一号︑二〇〇二年九月︑二七〜四二頁︶に指摘があり︑拙稿﹁杜甫の﹃竹林七賢﹄観﹂︵﹃人文研紀要﹄第七七号︑二〇一三年︑二九〜七五頁︶にて︑後藤氏の指摘に基づき杜甫詩を分析した︒︵
13︶
瞿蛻園︑朱金城校注﹃李白集校注﹄上下︵上海古籍出版社︑一九八〇年七月第一版第一次印刷︶︑下︑一一一七頁︒
六朝詩における「思旧賦」
︵ 14︶
以上の李白の﹁竹林七賢﹂に言及した詩については︑拙稿﹁李白の﹃竹林七賢﹄観﹂︵﹃大学院研究年報﹄︵文学研究科篇︶第四三号︑二〇一四年二月︑一〇一九〜一〇三九頁︶にて考察した︒︵
15︶
蕭統﹃昭明太子集﹄巻一﹁詠山濤王戎詩二首﹂︑詩序の原文は﹁顔生五君詠︐不取山濤王戎︒余聊詠之焉﹂︵﹃四庫全書﹄上海古籍出版社︑一〇六三冊︑一九八七年八月︑第一版︑六五一〜六五二頁︶︒︵
16︶
岡村繁著﹃文選の研究﹄︵岩波書店︑一九九九年四月︶︒︵
17︶
興膳宏著﹃中国文学理論の展開﹄︵清文堂出版︑二〇〇八年︑三月︶︒︵
18︶
前掲﹃中国文学理論の展開﹄︒