オーストリアの鉱山業フロンティア:Broken Hill を中心に
著者 川? 茂
雑誌名 金沢大学文学部地理学報告
巻 4
ページ 29‑57
発行年 1988‑02‑26
URL http://hdl.handle.net/2297/11015
金沢大学文学部地理学報告,N04,1988
オーストラリアの鉱山業フロンティア
ーBrokenHillを中心に-
川崎 茂
筆者は,さきに「鉱山業フロンティアの諸相」と 題する小論、をものし,フロンティアの一類型として の鉱山業フロンティア(miningfrontier)について 概括的な展望を試みた。本稿では,19世紀における オーストラリアの鉱山業フロンティアについて,特 にBrokenHillの鉱山地などを事例に,若干の検討 を加えてみたい。
較研究で興味深いWRJacobsやM、W・Willisの 論稿などがみられた。Jacobsは,フロンティアにお ける原住民と白人の問題を取り上げ;この問題につ いて,オーストラリアとニューギニアとアメリカの 比較論を展開している5)。この中でJacobsは,アメ リカ=インディアンに対するオーストラリア原住民 (Australianaborigines)の場合について詳述して いる。また,北アメリカやオーストラリアにおいて Turnerのフロンティア学説力拡く取り上げられてい るのは,歴史家の関`し、事が;白人文明の進出と土地 開発に向けられている証拠だと言及しているなど,
興味深い記述が各所にみられる。
さらにWillisは,アメリカのカリフォルニアとオー ストラリアのビクトリアとの19世紀後半におけるフ ロンティアの上1コ較研究の問題を取り上げている6)。彼
ゴールド
はカリフオノレニアとビクトリアにみられる金,小麦,
潅概の3つのフロンティアに言及し,これらの各フ ロンティアはまずカリフォルニアてソ;人らjrL,そして 少し遅れてビクトリアでみられたと,両者のフロン ティアの連続性を指摘している。なおこのWillisは,
リージョン
フロンティアと地域力;かのTurner以来,紛れもな くアメリカ史の上において重要な意味を持ってきた と理解し,フロンティア概念における2つの側面,
エリア プロセス
す?96わち地域としてのフロンティア,過程としての フロンティアに着目し,オーストラリア=コロニーと の比較に関心を寄せるに至っている。
なお1952年にWP・Webbは,かの『ザーグレイ ト=フロンティア』と題する著作7)をものした力、彼 はこの中て;ヨーロッパを「メトロポリス」(Metropolis)
として,さらに南北アメリカ,オーストラリア,ニュー Iオーストラリアのフロンティア論
従来,オーストラリアのフロンティアについては,
フロンティアの比較研究(comparativestudy)の 中ごしばしばアメリカのフロンティアなどとの対 比において論じられてきた。
まず,アメリカ史におけるフロンティア学説て著 名なFJTurnerがり190蝉に発表した「アメリカ 史の諸問題」という論謝)の中で)アメリカのフロン ティアと,ロシア,ドイツ及びイギリス植民地のカ ナダ・オーストラリア・南アフリカなど,他の国々 のフロンティアとの比較研究の意義について言及し ている。しかし,Turnerの提起したフロンティアの 比較研究も,その後約半ut紀間は積極的に取り上げ られず,やっと1955年に及んて;P.FSharp力:
アメリカ,カナ父オーストラリア3国のフロンティ アに関する比較研究の問題を本格的に論ずるに至っ た3)。さらに1960年には,M・WMikesell域アメ リカ=フロンティアとその比較研究などについて研究 史的に概観し,特にカナ久オーストラリア,南ア フリカの場合について少し立ち入って検討を加えて いるのが注目される4)。
またずっと後の1970年代には,フロンティアの比
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ジーランド,南アフリカなどを「グレイトーフロン ティア」(GreatFrontier)としてとらえ,この両者 の相互作用の中に近代史のドラマを追い求めんとし た。すなわち彼の所論は,グレイトーフロンティアが,
16世紀以後における近代史の重要なファクターの 1つであったという仮説に基づいていた。このよう にWebb流でいえば;本稿で取り上げるオーストラ リアも,メトロポリスのヨーロッパに対するグレイ トーフロンティア(WorldFrontier)諸地域の1つ ということになる。あぐま-で本稿の関心は,西漸運 動にみるアメリカのフロンティア概念を基調として,
メトロポリスのヨーロッパ人がlオーストラリアで どのように移動するフロンティアを形成していった かにある。この場合のフロンティアは未開と文明が 接触する,移動して行く領域であるという概念的把 握に立っている。
ところでオーストラリアでは,「アメリカ西部」
(AmericanWest)に比較し得るものとして,未 開拓の奥地「アウトバック」(Outback)を挙げる ことができる。しかし,オーストラリアの植民研究 において,Turnerのフロンティア学説の導入は遅 く,1940年に至ってW・KHancockがその先鞭を つけた。Hancockは,1940年に刊行された『英連邦 国事調査』第2巻所収の「経済政策の問題1918- 1939」という報告の中ごTurnerの「アメリカ史に おけるフロンティアの意義」(1893)に見る「カンバー ランド峠に立って,-列になって前進して行く文明 のラインを見なさい」8)以下に続く有名な表現に対 応させて,次のように記述している。
「ブルー山脈の岩や茂みの障壁力、四半世紀の間,
ニューサウスウェールズの植民地を海岸平地部に封 じ込めていたがlそのブルー山脈の連山の中に1つ の有名な峠道がある。この峠に立って各フロンティ アが互いに西方に続くのを注意して見なさい。-
西方の平原を羊で充満させ,オーストラリア経済の 基礎を築いた牧畜業者のフロンティア(squatters,
frontier),オーストラリアに人口をもたらし,オー ストラリアを急進的な民主主義の国にした鉱山業渚卜 のフロンティア(miner,sfrontierLオーストラリ アの土壌や気候のコントロールを徐々に苦労して試 みてきた農民のフロンティア(farmers,firontier)。
ダーリング川西方数百マイルの所に立って,土壌や 気候のコントロールがそのフロンティアでなされて いる様子を見なさい。農民たちは乾燥によって打ち のめされ,西方へ移動する過程から脱落している。
牧畜業者たちと探鉱業者たちだけが通り過ぎて行く。
大陸の西方中心部では,乾燥力敢畜業者たちを打ち のめしている。ダイナミックな社会の縁辺部では,
少数の散在する探鉱者たちと好奇向、のある人類学者 たちだけが残り,時たま原住民保留地に侵入してい る。」9)
このようにHancockは,Turnerの1893年論文 を想起しながら,西進するオーストラリア=コミュ ニティに対する特異な自然環境の影響を生き生きと 記述している。かかるHancockの記述を,さきに比 較研究のところで言及したSharpとMikesellがと もに引用しているのが目につくが〕ここでは引用文 中に牧畜業者のフロンティア,鉱山業者のフロン ティア,農民のフロンティアの3つのタイプを挙げ て,オーストラリアの西進する動くフロンティアの 様相を述べていることに着目したい。特に鉱山業者 のフロンティアカネ「オーストラリアに人口をもたら し,オーストラリアを急進的な民主主義(radicalde‐
mocracy)の国にした」と述べているのが注目され る。なお,オーストラリアの鉱山業フロンティアに ついては,前記のSharpやMikesellがともに注に 掲げているF・Alexanderの『動くフロンティア:
アメリカの主題とそのオーストラリア史への適用』
(1947)の中でも牧畜業や農業のフロンティアとと もに取り上げられている'o)。
Turnerのアメリカ=フロンティアの場合上記 3つのフロンティア=タイプのほかに,インデイア
30
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-ADIAGRAMSHOWINGAUSTRALIADIVIDEDINTOTWOSECTIONSBY
THELINEOF‘§OFAPERSONPERSQUAREMILE,
TheeightstagesonthetmverseofAustmliaareshownonPhotos1-8(略)
第1図EmptyAustraliaとEconomicAustralia
[Taylor,G(1940):AzイsjmJmp5]
ンのフロンティア,毛皮商人のフロンティアなど,る以前のフロンティアの基礎としての自然的特性な フロンティアのより多様的な側面が示されている。どとともに,植民の核(nucleiofsettlement)と そしてTurnerは,フロンティアがアメリカの個人フロンティア経済(frontiereconomy)の特性の問 主義民主主義を生み育て,アメリカ化(Ameri‐題を挙げている。そして,フロンティア=タイプを-
canization)を推し進めたという仮説に立った。オー股化する機能的分類を示し,この中に鉱山業キャン ストラリアの場合前述したようにHancockは鉱プ(miningcamp)や製材業キャンプ(lumber 山業者のフロンティアがオーストラリアを急進的なcamp)のごとき,多くのいろいろな人たちを包含し 民主主義の国にしたと言及し,さらにAlexanderはた,特殊な商業的目的のためのグループーセッツル 前記/j、冊子の中て;フロンティアと民主主義の問題メント(groupsettlement)を取り上げている。な を取り上げている。また,さきのMikesellのごときおSauerは,かかる鉱山業キャンプにみるグルー は,Tumerのアメリカ化のように,オーストラリアプーセッツルメントに対し,牧場や農場などの場合 のフロンティアが,果たしてオーストラリア化(Aus‐ は,スカッタード=セッツルメント(scattered tralianization)を最も効果的に推し進めたかを問題setUement)として分類している。
にしている。オーストラリアの歴史地理を論ずる場合も,やは ところで;歴史地理学の課題として,フロンティ リフロンティアの自然的基礎や植民の核,フロン アの問題をいち早く取り上げた地理学者に,かのCテイア経済などの問題が重要である。かつてシド OSauerがある。Sauerは,1930年にものした「歴ニー大学の教授でもあったGTaylorは,著響オー 史地理学と西部フロンティア」と題する論稿'1)の中ストラリア』(1940)の中でオーストラリアの地理 で;歴史地理学の主要な問題として,人間力惟出すで最も著しい事実は,第1図に示したEとり"0,mと
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AzMzz/jZzとE'"PtyA"s〃/mの二大区分であると して,自然的環境などを中心に概観している'2)。オー ストラリア植民の歴史は,大陸の東部,南東部,
南西部などに分散隔離する狭い海岸平地部の植 民の核を中心に展開した。すなわちEbO"0籾jb AzMZzJjnの海岸部に分散する5つのポイント
(今日の州都)を核として,各コロニーの植民は アウトバックに向けて扇形に広がっていったo このように分散する植民の核にみる隔絶性が,
オーストラリアのセクショナリズム(sectional ism)を生み出し,その1つの例が軌道幅の違い にみる鉄道システムの不統一に示されていると,
力勤のMikesellは指摘している'3)。
さて,かかるセクショナリズムに対して,一方 でフロンティアの進展がオーストラリア化,い わゆるナショナリズムを喚起する上に力を有し た。渡辺真治は,さきのAlexanderの著作を取り 上げ,その中に掲げられている,ウェスタンオー ストラリアが連邦に加盟するか否かの投票につ いての詳細な統計に着目した。そして,フロン ティア地区の住民が連邦加盟に賛成多数である ことを示した,この統計資料こそ,フロンティア がナショナリズムを喚起する上に力を有するこ とを例証するものであるとして,その資料的意 義を強調している'4)。すでに筆者も,ウェスタン オーストラリアにおけるゴールド=ラッシュの 影響について概観した際に,東部から移ってきた多 くの金掘りたち斌かの連邦制に対して賛成の態度 を特に示したことに言及した'5)。隔絶|生の強いウェ スタンオーストラリアのコロニーも,1901年のオー ストラリア連邦の宣言とともに1つの州になったが,
特にゴールド=ラッシュなどにみる鉱山業フロン ティアの場合各地から集まってきたその構成者た ちには本質的にセクショナリズムが弱いと考えるの が至当であろう。
IIオーストラリアの鉱山業フロンティア 前述したように,W・KHancockは,さきの引 用文の中ご鉱山業者のフロンティアがオーストラ リアに人口をもたらしたことに言及しているが;ま さしく19世紀のゴールド=ラッシュは,オーストラ リアの人口増加に重要なインパクトを与えた。
カリフォルニアから飛び火したオーストラリアの ゴールド=ラッシュは,1851年4月に,シドニー西方 のブノレー山脈西斜面のBathurst付近で金が発見さゴールド
れたというニュースが伝えられて以来,メルボルン 北西山地のBallarat,Bendigoほかなどにおいて急 激にその展開をみた'6)。かかるゴールド=ラッシュ により,1851年にはビクトリアのコロニーが,1788 年に最初に発足したニューサウスウェールズのコロ ニーから分離独立した。この分離後6年にして,ビ クトリアは,マザーーコロニ_のニューサウス ウェールズの人口を凌ぐまでになった。1850年代を 通じ,50万に及ぶ人々が大挙してビクトリアに集 まった.植民拠点である海岸地のシドニー,メルボ ルンから,奥地のいわゆるアウトパックヘ向けて前 進する動くフロンティアの主役は,いうまでもなく 金を求める人々の群であった。ここにゴールド=
ラッシュ独特の鉱山業フロンティアの展開がみられ,
各地にそのフロンティア=コミュニティーの形成を みた。ちなみに,かかるビクトリアのゴールド=ラッ シュカ喫機ごオーストラリアの人口は,1850年か ら1860年の間に40万5,000から114万6,000へと増 加した。なおビクトリアのフロンティアについては,
M・WWilhs力;前述のように,カリフォルニアの 連続したフロンティアとしてとらえているのが注目
される。
かかるビクトリアのゴールド=ラッシュとともに オーストラリアのゴールド=ラッシュを代表するも のに,1880年代後半から1890年代にかけてみられた ウェスタンオーストラリアのゴールド=ラッシュが ある。この様相についてはかつて詳しく検討した'7)
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ともあれ,1885年当時まだ3万5,000程度であっ たウェスタンオーストラリアの人口も,Kalgoorlie の金発見翌々年の1895年には約10万1,000を数え,
さらにKalgoorlieの富鉱床GoldenMileが産金 ピークをみた翌年の1904年には,実に人口は23万 9,000余にも上った。かかる人口増加は大陸東部か らの移住者を中心にみられ,ウェスタンオーストラ リア生まれや,ゴールド=ラッシュ以前から住んで いた,いわゆる`oldcolOmsts'は少数党となった。
ところで,このように人口増加を導いたゴール ド=ラッシュが,また農業などの発展にも大きな刺 激を与え,植民初期において重要な役割を演じたこ とは,すでに筆者も言及した'8)。いま第1表にみら れるサウスオーストラリアーコロニーの輸出構成に ついて概観してみよう。サウスオーストラリアは,
ゴールド=ラッシュのみられたニューサウスウェー ル式ビクトリアの北西方に隣接し,1836年に発足 したコロニーであった圦表中の1840年から1856年 までの輸出構成をみると,羊毛と銅と小麦が三本柱 をなしていた。1845年までは断然羊毛が第1位を占 めていた域1846年から銅が羊毛にとって代わって いる。そして注目すべきは,1851年以降に小麦が台 頭し,1853年~54年二には銅を追い越して首位に立っ ていることである。かかる小麦の台頭は,前述のご とく,隣のビクトリアにおいてゴールド=ラッシュ による人口急増がみられ,それがサウスオーストラ リアーコロニーの小麦生産に大きな刺激を与えたか らである。ビクトリアの人口急増がり小麦価格の急 上昇を導き,さらにサウスオーストラリアの小麦生 産に新しい市場を提供する結果となった。
サウスオーストラリアーコロニーの歴史は,St Vincent湾東岸の海岸平野に位置するアデレード を植民の核として,周辺・奥地へと前進するフロン ティアの歴史であった。その動くフロンティアは,
第1表からもわかるように,まず牧畜業者のフロン ティアが先行し,それに鉱山業者のフロンティア,
斌特に1890年代のCoolgardieとKalgoorUeを中 心とした,EastemGoldfieldsのゴールド=ラッ シュはその代表的なものであった。ウェスタンオー ストラリアのSwanRiverColonyが成立したのは 1829年であったが;その拠点パースはインド洋に注 ぐスワン川の河口から上流約20kmの河岸に位置し,
太平洋側のニューサウスウェールズの拠点シドニー から遠く隔たっていた。大洋と乾燥大陸に囲まれ,
隔絶した植民拠点パL-スから,周辺・奥地に向けて のフロンティアの前進は,当初自由移民の不振から 思うように進まなかった。ニューサウスウェールズ 同様に囚人労働力の導入を試み,一時流刑植民地の 性格を示したカネ地中海性気候のパース周辺では,
牧畜業者のフロンティアを中心に,農民のフロン ティアなどの展開が徐々にみられた。しかし,乾燥 地域をなすアウトバックヘの本格的なフロンティア の前進は,1890年代のゴールド=ラッシュ期を待た ねばならなかった。
パースから東方約400kmに位置するSouthern Crossは,その奥地のCoolgardie,Kalgoorheへの ゲートウェイをなし,文字通り,Coolgardieのマ ザーータウン,Kalgoorheのグランドマザー=タウ ンとしての性格を示していた。SouthernCrossの 東方奥地には,ユーカリのgumtreesの林などが続 く赤褐色土壌の波状平原が広がり,暑熱と厳しい渇 きにみる,その乾燥地域の自然環境がフロンティア の前進を阻んだ。それを突き進んだのが金を求める 人々のパーティ_てiCoolgardie,KalgoorUeこそ,
19世紀末のオーストラリアのアウトパックに形成 された,典型的な鉱山業フロンティアのコミュニ ティーであったといえよう。1903年に完成された,
バース近くのMundaringWeirからKalgoorlieま での約560kmに及ぶwatersupplypipelmeは,
EastemGoldfieldsの鉱山業開発と人間居住を支え,
またこのパイプライン沿いの農牧業地域の開発に貢 献した。
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第1表1840年から1856年までのサウスオーストラリアの耕作状況と輸出構成
Value Wheat andBread
StuffS Exportsas
鶴dFi:‘
Valueof Allother Exports
(Mostly Copper)as
%ofTot Exports Value
Wool Exportsas
%ofToL Exports Total
No.of
Year Acres
Cultivatorscultivated
Valueof Exports
(JEA)
1840 1841 1842 1843 1844 1845 1846 1847 1848 1849 1850 1851 1852 1853 1854 1855
2,687 6,722 18,940 28,690 26,906 26,218 33,292 36,440 48,912 44,973 64,728 80,971 97,214 113,457 129,699 203,423
(est.)
203,423
15,650 40,561 29,070 66,160 82,268 131,800 287,659 275,’'5 465,878 373,842 545,040 540,962 736,899 731,595 694,422 686,959
8589080410137333●■●●■●●●●●●●●●●■57582470194752615876553222221324
4.7 31223357766552229247448047583843 ●●●●●●●■●□●●●●●●5526098260003777
ひ|』、)(叩叩)(》『)(叩一死】・幻如」《(ぐへ)(卯叩叩》(叩】.)【》〃。(叩Ⅱ)(如叩)《小叩)(叩一M》①●●●●●●●●●●●●(虹〈)△、一一(叩叩〉△河」△(u『〉△幻卯一一4如一△(叩叩〉△勾夘一一勺0口((、】〉(曲『〉F尾口)『ⅡⅡ坐『ⅡⅡ▲屯Ⅱ0凸『Ⅱ0△、エユ)(望、)▲扣」▲(こぶ)
1,269 1,714 1,837 1,846
2,821
5,321
1856 1,398,86729.7 42.0 28.3
Sb"ブイccfSA・Shz姉"、ノRagfs彪巧m27z28L
MWilliams:TwoStudiesintheHistoricalGeographyofSouthAustralia
[G・HDuryandM、I、Logan(ed.):SソZJzノリ’s吻Az4s加比〃
aqg7zZP伽p、83.
農民のフロンティアが続く図式を示した。特にビク トリアのゴールド=ラッシュ以前の1840年代に,銅 鉱山の開発による鉱山業フロンティアの展開力、サ ウスオーストラリアのコロニーでみられたことは注 目に値する。この1840年代におけるサウスオースト ラリアの銅鉱山業こそ,オーストラリア金属鉱山業 の先駆をなすもの石それだけにサウスオーストラ リアの鉱山業フロンティアは,オーストラリア大陸 における最初の本格的な鉱山業フロンティアであっ たといっても過言でなかろう。
筆者はかつてサウスオーストラリアの初期植民と 鉱山業について詳論した'9)域このコロニーの人口 動態をみると,1840年末に14,610を数えたものが 1844年2月の最初のセンサスでは22,390,そして
1851年1月センサスでは実に63,700と人口の急増 を示した。かかる人口増加は,耕地開発によるとい うよりは,相次いで発見された銅鉱山の本格的な開 発によってもたらされた。例えばアデレード北方の 奥地CentralHillCountryの波状丘陵地方面に人々 の注意を引き付けたのは,1842年発見のKapunda
や,1845年発見のBurraなどの銅鉱山の登場であっ た(第2図)。アデレードの北方,約80kmのKapunda や約160kmのBurraなどの付近一帯は,1840年代当 時,まだハンドレッドの公布地域外にあったが,
羊飼いが銅鉱山を発見したというエピソードを残し ているように,銅鉱山登場前にすでに牧畜業者のフ ロンティアを形成していた。
新しく形成されたKapundaやBurraなど,サウ
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かかるBrokenHillについて,早くは1940年にC MZiererカネアメリカの地理学会の横綱誌AA.A、
Gに,「オーストラリア最大のminingcamp」とし て詳細に取り上げている20)。なお,このBrokenHill は,1923年にシドニーで開催されたPan-Pacific Congressの折にはエクスカーション先として選ば れ,この実地見学とそのガイドブックなどを通して すでに広く知られていた。この1923年当暁シド ニー大学教授であったGTaylorも,上記Broken Hill巡検に参加した力;後年、トロント大学に転じて からの彼の著作『オーストラリア』21)(1940)や『都 市地理学』22)(1949)などの中でも,好んでBroken HUlに言及している。特にTaylorが『都市地理学』
の著作でW鉱山町」(minmgtowns)なる1つの 章を設けていることは特筆に値する力;この章で前 記Zierer論文をも引用し,BrokenHillについて興 味深い記述を展開しているの力牲目される。
その後1959年にRJSolomonがニューサウス ウェールズ地理学会の機関誌?肋AzMzzJm〃cc‐
qg"Z,"eγに,1883年から1958年にかけてのBroken Hillの発達様相に関する意欲的な論文を発表してい る23)。このSolomonにしても,またさきのZiererや Taylorにしても,その場所の地理的環境との対応の 問題を軸に,BrokenHillの集落発達やその性格な どについて取り上げている。
かかるiUp理学者にみる共通的な分析視角に対して,
筆者は,そのような視角に関心を向けながらも,あ くまで鉱山業フロンティアという視角に立って,
BarrierRangeにおけるBrokenHillなどの、m‐
mgcampsについて若干の検討を加えてみたいと思
う。
BrokenHillは,ニューサウスウェーノレズに属する とはいえ,その西端のBarrierRangeにあり,州都 シドニーの西方約1,125km,サウスオーストラリア との州境まてり約56kmといった内陸に位置し,当初か ら海への出口をサウスオーストラリアのアデレード スオーストラリア銅鉱山地の鉱山業フロンティアは,
イングランドのCornwall地方からやってきた多く の鉱山業者たちを中心に形成され,まさしく Comwall風の`httleCornwall'そのものであった。
これらのダウンは,鉱山集落であると同時に中心集 落としての機能的性格をも示す,いわゆるフロン ティア集落としての役割を果たした。それだけに銅 山閉山後も周辺農牧業地域の羊毛や小麦によっ て支えられ,marketcentre,regionalcentreとし て存続した。筆者がかつてBurraの現地で観察した,
sheepcars,oldmmingarea,grainsilosの3つの 景観は,牧畜業者鉱山業者農民の3つのフロン ティアを軸とした,この地域のフロンティアの歴史 と,このダウンの機能的性格を象徴するかのようで あった。1870年には,アデレードからこのBurraま て鉄道が開通し,ここにBurraはその鉄道末端基地 として,奥地の農牧業地域拡大の拠点となった。さ らに1880年代には,本稿で取り上げるニューサウス ウェールズのBrokenHm鉱山地とを結ぶ物資運 搬輸送のゲートウェイとしての役割をも担うに至っ た。
Ⅲ鉱山業フロンティアとしてのBarrierRange 地方
ところでiオーストラリアにおける19世紀の鉱山 業フロンティアとして,さらに注目すべきものに,
ニューサウスウェールズ西端のBrokenHiUで代表 されるBarrierRange地方がある(第2図)。
オーストラリアのBrokenHiUといえばうかって
は世界屈指の銀・鉛・亜鉛の鉱山地として,さらに
はオーストラリア最大の本格的な鉱山業中心地
(miningcentre)として広く知られた。また BrokenHillは,長い間オーストラリア最大の企業 として,ニューカッスルの鉄鋼業をはじめ広く鉱工 業界に君臨してきたBrokenHillProprietaryCo、
Ltd(BHP.)の発祥地でもあった。
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第2図BrokenHiUとAdelaideの周辺
[Bartholomew,J、(1950):コルACノセノU2""dMzzsq/Mbab畑CeqgmP/2)ノヒp、105の一部]
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やPortPirieに求めてきた(第2図)。後述のごとく,
1883年にはBrokenHil'て鉱脈が発見され,1888年 に1つのmunicipalityの成立をみたが,早くも1887 年には400km有余隔たったSpencer湾岸のPort Pirieまで鉄道で直結された。またアデレードからの サウスオーストラリアの鉄道システムの中に早急に 組みこまれていったが,これに対し州都シドニーと の間が鉄道で結ばれたのはずっと後の1927年のこ とであった。このようにBrokenHillは,当初から 自分のコロニーの植民拠点シドニーより,むしろ南 西約508kmの距離にある,他のコロニーの植民拠点 アドレードとの方が経済的にも文化的にも関係が深 かったという,まことに輿1床深いアウトバックのコ
ミュニティーであった。
さてBrokenHillは,海抜高度約300m,ニユー サウスウェールズの西縁中央部を北東一南西に 走るBarrierRangeの南縁部に位置した。Barrier Rangeは,南東のダーリング111流域と北西のフロー ム湖内陸流域を分かつ地塁性山地で,若干の起伏を 示す古い摺曲帯の波状高原の様相を呈した。概して 植生の乏しい岩勝ちな景観が広がる中に,saltbush (Aノソ'2,伽)やbluebushのごとき背の低い植生の 茂みが赤・灰色土壌を覆い,いわゆるsemi-desertの 景観を繰り広げていた。BrokenHillの年平均降水 量は241mmで,10インチに満たないsemi-aridな気 候を示した(第13.14図)。その上降水量は不確実で 年による変動が大きく,さらに夏の最高気温がしば しば35℃以上に及ぶ高温が高い蒸発率を導き,植生 の乏しい内陸高原の雨量効果を一層小さくした。そ の結果地下水の酒養も乏しく,BarrierRange各所 のcreekも,すべて間欠河流でいかなる永久河川も みない典型的な渇きの環境を構成していた。した がって後述するように,しばしば厳しい旱魅に遭遇し,
なによりも水供給の問題を解決することが安定した 人間占居の上には不可欠であった(第13図)。
かかるBarrierRangeを含めたターリング川西
方のいわゆる西ダーリング地方は,ニューサウス ウェールズのコロニーにとって,文字通り「極西部」
(FarWest)であった。この西ダーリンク、地方の BarrierRangeに最初に入り込んだヨーロッパ人は,
探検家CharlesSturt(1795-1869)24)とその-行 であった。それは1877年にヨーロッパからの最初の 船団がSydneyCoveに到着してから,実に半世紀 有余も過ぎてからのことであった。Sturt-行は,
オーストラリアの中央内陸奥地探検を目指して 1844年:8月にアデレードを出発し,その10月にタL-
リング川沿いのLaidley'sPound(今日のMenindee Lake)に至膣した。この南西のCawndUla湖岸でキャ
ンプを張った後,BarrierRangeに向かって北西方 向に旅し,BrokenHill北東丘陵地にある今日の StephensCreekReservoirの場所に至っている。
Sturtは,この丘陵地域を植民地大臣Stanley卿の 名にちなんでStanley,sBarrierRangeと命名した。
1845年にはシンプソン砂i莫に入ったが;-行は渇き と暑熱と砂丘列などに行手を阻まれ苦難の旅を続け,
途中副官の死にも出会った。Sturt自身健康を害し,
1846年1月には一行とともにアデレードに立ち 戻っている。
このSturtの探検後10年余りの間に,牧畜業者た ちはターリング川沿い各地に羊牧場を設けた力;西 方BarrierRangeのBrokenHill周辺平地部でも 1866年ごろまでに少数の羊大牧場の成立をみた。例 えはうBrokenHillの北東l4km余のところに牧場諸 施設の立地をみたMountGippsStationのごとき は,借地面積が約90万エーカーにも上る大規l莫な牧 場℃その範囲はBrokenHillに及んだ25)。しばし ば`desert,とまで呼ばれるこの地方のsemi-aridな 自然環境城当然牧場面積を広大なものに導いた。
なおかかる大牧場も隔絶性に悩み,最も近い海港 PortPirieまでにしても,前述のごとく南西に陸路 400km有余もあり,ずっと近い南東のダーリングⅢ 河港Menindeeなどからの河川交通利用も,雨の降
37
山の3km有余東方に,SUvertonのtownshipが 1883年に測量されている.このSilvertonのtown‐
Shipは,1880年代に入り,BarrierRangeにおける 鉱業活動が活発化するにともない,法秩序を維持す る412要からも,それらを統轄する新しい中心地とし て設けられた。当初,BarrierRangeの鉱業活動は すべてAlbertDistrictの管轄下に置かれ,mimng leasesや、mer,srightなどの許可申請は,ダーリン グ川沿いの中心地Wilcanmaなどで行われていた がうここにSilvertonがそれらの機能を担当するこ
ととなった28)。
1880年代以降,Silvertonの北方には,Day Dream鉱山などのApollyon鉱山地域や,
Purnamoota,Maybellほかなどの鉱山地域の形成 をみているがSilvertonは,それら北方諸鉱山地域と,
前述したThackarmgaやPinnaclesの南方諸鉱山 地域との中間的な位置にあった(第3図)。SUverton 北東方のDayDream鉱山では,1882年12月に富 鉱が発見され,後の1885年6月には,Barrier RangeSilverCompanyによって,この地方最初の 製錬所力殻けられるに至っているがb鉱石不足など ですぐに製錬所閉鎖をみた。後にBrokenHiUのB HP・鉱山の鉱石を製錬するために再開された力、
1886年4月には最終的に閉鎖するに及んでいる29)。
またSilvertonの北東約29kmのところにPuma‐
moota(Leadville)の小さなtownshipが設けられ たがlこの周辺には多くの鉱山が1884年に開坑をみ ている。1884当時,このPurnamootaのtown- shipには約400人が住み,商店・ホテル・学校など があり,シドニー商業銀行や郵便・電信などの施設
も所在した30)。
さてSUvertonの人口は,1883年9月当時約250ケ 3ケ月以内に500程度までに土曽カロした力、翌1884年 6月にはWBrownがWardenならびにMining Registrarとして正式に任命され,人口もこの年末 には中国人を含め1,745を数えるまでに至っている らない年には不可能であった。
ところ面このように牧畜業者のフロンティアが,
1860年代にはBarlierRangeにまで及んでいる力;
かかる白人の進出以前には,この地方でもオースト ラリア原住艮いわゆるアポリジニーの狩猟・採集 の移動生活がみられていた。BarrierRangeでは,
アボリジニーのグループが河床などの水溜り waterholesや,平地・山麓のcreeks,行き止まり 流床のbillabongs,などに留まって生活をかろうじ て支えてきたが}waterholesなどが干上がったと きには,彼らは東方のダーリング111方面に移動した。
西ダーリンダ地方のアボリジニーは,一般に親切で 戦争に熱中しない穏やかな人々であったといわれる。
なお,Coronastationなどの場珍合のように,アボリ ジニーに襲われたが,すぐ退けたと伝える牧場も あった26)。
さて,BarrierRangeにおける鉱石の発見は,前 述したサウスオーストラリアのKapundaやBurra などにおける銅鉱発見の場所と同様に,牧畜業者の フロンティアの到来域その動機となった。植民の 拡大で人々がアウトバックの鉱化地域(mineraliz‐
edarea)に足を踏み入れるようになり,当然鉱石発 見の機会が多くなったことはいうまでもない。
このBarrierRallgeでも真先に金があるというゴールド
噂が多くの探金者たちを引き付けたが!結局ビクト リアなどのように本格的なゴールド=ラッシュの展 開をみるまでに至らなかった。しかし1875年末に今 日のBrokenHillから余り遠くないBarrierRange 南西地区のThackaringasheepstationで銀・鉛 の鉱石が初めて発見されたが,このThackarmga に登場したPioneermmeこそ,後のBrokenHillに 象徴されるBarrierRangeの銀・鉛・亜鉛諸鉱山 の先駆をなすものであった27)。
このThackaringa鉱山地北方のUmberumberka
(`nativerat-hole,)で1881年に銀鉱脈が発見さ れ,その翌年に開坑されるに至っている斌この鉱
38
口
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第3図BrokenHill周辺地域における19世紀末期の鉱山分布 [Keams,RHB(1973):B"AFC〃H7ZZma3-Z8Q3おもて表紙裏掲載]
39
31)。このSilvertonにはたちまちcanvas(tents)
やironshantiesの群がる生活空間が形成され,
silverfeverに浮かされた人たちがサウスオースト ラリア方面から馬車や徒歩でオ甲し寄せ,商店やホテ ルなどもすぐにできた。1884笄旦中にSilvertonで発 行された認可数は,mmeralleasesが1,222,busi‐
nesspermitsが937,mmer'srightsが114に及んだ 32)がbこれらから当時のBarrierRangeにおける鉱 業活動の様相をある程度判断することができるであ ろう。
ともあjlL,Silvertonを中心にまず半径35km程度 の範囲内で,いわゆるBarriersilverfieldの開発 が1880年代以降進み,多くの鉱山がbush空間に相 次いで登場し,激しい興亡を繰り広げた。かかるア ウトバックにおける鉱山業フロンティアの展開過程 において,あくまでその主役を演じたのは,いうま でもなく1883年以降登場のBrokenHillの諸鉱山で あった。
Gipps牧場の関係者君前記のRasp,James,Poole,
McCullochのほか,羊管理人のGUrquhart,倉庫 管理人て帳簿方のGAMLind,牧場使用人のP、
Charleyから構成され,全員この投機に70ポンドを 出すことに同意したという33)。
ちなみに上記7人の内,BrokenHillの事実上の 鉱山発見者と目されるRaspは,ドイツ生まれて;
MountGipps牧場の前はビクトリアの牧場で働い ていた。1869年にオーストラリアに渡ってきた斌 それ以前はハンブルグの化学系会社に勤務しており,
英語・仏語をも流暢に話し,単なる無学の牧場使用 人ではなかった。MountGipps牧場の経営者で;シ ンジケートの中心人物McCullochは,スコットラ ンドのグラスゴーで生まれ,大学卒後南米で牧畜業 を経験した。1875年ごろ,彼のいとこからMount Gipps牧場の経営を譲り受けた爪当時のビクトリ アの首相SirJamesMcCulloch(1819-1893)が 彼の叔父であるという名門の出身であった。
牧場見習いのいわゆるmcノセビz"りであったChar‐
leyは,ビクトリアの産金地で著名なBallaratで生 まれ,メルボルンの法律事務所で働いていた力、健 康上などの理由で医師からアウトバックの生活を勧 められ,MountGipps牧場で衝1くことになったと いう。Jamesは,南ウェールズ生まれで地元の炭 鉱で働いた後1877年にサウスオーストラリアに渡 り,著名な銅山地のKapundaに住んだ。彼はサウ スオーストラリア各地て井戸・ダム・フェンスなど の請負い仕事に従事していたが,たまたまMount Gipps牧場での仕事のときに,前述のごとく,パート ナーのPooleとともにRaspと接触を持つに至った。
Pooleは,イングランドのCornwall地方生まれご サウスオーストラリアのKapundaで偶然James と出会い,彼のパートナーになったと伝える。
Urquhartは,スコットランドのInvernessで生ま れ,幼い時にオーストラリアに渡り,メルボルン で育った。彼は若くして叔父の経営するKinchega牧
ⅣBrokenHillにみるフロンティア=コミュニ ティーの諸相
(1)7人のシンジケートとB・HP,
1883年はBrokenHill鉱山史の始まりで;オース トラリア鉱業史の上で注目すべき年であった。この 年の9月5日に,さきに触れたMountGipps牧場 の境界見廻人であったCRaspがbDJames,J・
Pooleの2人の井戸掘り人とともに,BrokenHill のminerallease(以下M、Lと略す)Nol2に当た る場所を,錫鉱脈の露頭と考え,はじめて採鉱権の 区域を定める杭打ちをなしたと伝える。Raspらは,
申請登記の後に,直ちにこの場所でMountGipps 牧場を経営していたGMcCullochにその旨を報告 した。このMcCullochの提案己‘syndicateof seven,が結成さ】'し,ここにBrokenHillの鉱山開発 はまずこのシンジケートによって推し進められるこ
とになった。この組織の7人は,すべてMount
40
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第4図1885年のBrokenHillLode
[Curtis,LS(1908):T/zeHiSわびq/B伽e〃〃Lpl6とpl7の間に掲載]
(補)図中の①(Hotel)②Sully,sStore&PO③PoUceStation④(Bank)⑤JamiesonCamp(14M.L)
場で働いていたがう19歳の時に隣のMountGipps 牧場て仕事を得るに至っている。最後のLmdの来歴 は不明である34)。
さて,以上7人のML・は,第4図のNolOからNo l6までに当たる7つのblockS35)から構成され,それ らは長さ3km有余の鉱脈ラインに沿って南西一北 東方向に並んで分布した。最初に登記した前記のNo 12は,Rasp,James,Pooleの名義に,その後すぐ 登記されたNo13はMcCuUoch,Nol4はUrquhart,
Nol5はLind,さらにNolOはMcCulloch,Rasp,James,
NollはCharley,Nol6はLmdPoole,Charleyの各 名義となった。
これら7人のシンジケートのメンバーたちは,い わゆる`TheBrokenHillMmmgCompany,を組織 し,1885年の4月には,前のコロニー鉱山検査官で あったWJamiesonを年500ポンドの給料で最初の 会社マネージャーに,また経験豊かな鉱山業者SSleep を年260ポンドの給料て坑内マネージャーにそれぞれ 採用し,会社の経営に当たらせた。しかし,この年 の7月16日に,Silvertonのホテルで最初のシンジケー トの会議が開催され,結局1885年8月10日付で前記 会社はTheBrokenmllProprietaryCompany,
Limited,に編成替えされることとなった。この新会 社こそかの`theBHP.,として,1939年にBroken Hillでの稼行を休止するまて;文字通り当地方に君臨
した代表的な大鉱山会社であった36)。
ところで前期7人の内,LmdとUrquhartはB HFの結成前に自分の持株を手放している。新しく
9人のメンバーカⅧわり,結局シンジケートは14人 の構成員となった。したがって1885年のBHP、発 足時のシンジケート構成員14人の中に,McCulloch,
RaspCharley,James,Pooleの5人の名をみる37)
域この中のPooleはすぐに持株を売却し,一時期 サウスオーストラリアのBurraやKapundaで生活 した。Jamesも持株をかなり処分し,後にはKapunda のmayorを7年間務めた。残りの3人は多くの富を
得たがり特にBrokenHillの街路名ともなったRasp とMcCuUochの2人は,BHP・の大株主として 重きをなした。鉱脈発見者Raspがドラマチックに富 を蓄積した様子は,オーストララシア銀行Silverton 支店の原簿に記録されているという。彼はアデレー ドに住む女性と結婚し,アデレード北郊Medindieに 大きな邸宅を構えたが}鉱山業への関心を持ち続け,
PrmcessRoyalMiningCompany,WestColhe CoalfieldCompanyの鉱山会社や,KalgoorlieBank ofEnglandCompanyのdirectorにもなっている。
かのMountGipps牧場経営者McCullochは,B HP・最?初の役員会議の一員となり,後にはロンドン に定住してケロンドンBHP、の代表者のほ力〕Mount LyeUMiningやRaUwayCompany'sLondon boardのchairmanなどをも務めた。なおCharleyは,
8年間にわたるアウトバックーライフがb彼の健康を 回復せしめただけでなく,多くの富をもたらす結果 となった。彼はアデレードに住む女性と結婚したが,
後にシドニー北西のHawkesburyRiver地方North Richmondの歴史的に有名なBelmontParkを購入 し,30年以上にわたってHawkesburyDistrictAg riculturalAssociationの会長を務めた。なお彼の息 子はナイトの爵位を受けている。
さて,BHPの創立趣意書8)をみると,資本金 32万ポンド,1株20ポンドで1万6,000株となってい る。この内1万4,000株は,本来のシンジケート構成 者14人に配分され,残りの2,000株は,メルボルン・
シドニー・アデレード・Silvertonの株式仲買人を通 して公開された。そして暫定的に9人のdirectorsが 置かれた力、その中にMcCullochとSFHawkms の2人のMountGipps牧場関係者の名がみられた。
HawkinsはMountGipps牧場の大工であったが;
前期7人中のUrquhartの持株を手に入れた。なお 新会社の取引銀行はCommercialBankofSouth Australiaとなっている。またBHPは,会社創 立の目的として,従来BrokenHillMimngCom‐
42
イ戸
ノ、
PLANOFTHEBROKENHILLLEASES ASATl893
F ̄
第5図1893年当時のBrokenHillLeases
Ⅸeams,RHB(1973),”・cjfうら表紙裏に掲載]
いわゆる`BrokenHill'で,その名はごつごつした 岩の頂の様子からつけられた。この小山は3km有余 にわたって北東一南西方向に走る細い尾根の最も高 い部分で;両側に広がる波状平原から約45mの起伏 を示していた。その尾根の頂は巨大な鉱脈の露頭に よって形成されていた。その鉱脈は幅が3mから36 m程度に及び;場所によっては大きな黒い岩塊が表 面に露出していた。それはいわゆる`gossan,と称す る鉄を含む鉱脈露頭の赤さび堆積物黒色の酸化マ ンガン,結晶した鉛の鉱脈ほかなどから構成されて いた40)。
この北東一南西方向に走るBrokenHillの鉱脈軸 は,南西のThackaringaから北東のダーリング川沿 いのWilcanniaに通ずる道筋にほぼ沿っていた(第 4図)。この道筋は,クィーンズランド内陸部やニュー サウスウェールズ北西部の牧場からアデレードの市 panyが所有していた,BarrierSilver-fieldの
Yancowlnnacountyにおける11のML(面積457 エーカー余)において,銀・鉛その他の鉱産物を採 掘することをうたっている。この1885年の終りに は4万2,866ポンドに値する約3,000トンの鉱石が採 掘された。新会社BHPの初代マネージャーには,
前会社に引き続いてJamiesonが再調印した域その 後は14人のシンジケートの1人WRWilsonの兄 弟であったSRWilsonがマネージャーを引き継い だ39)。
(2)鉱区地域と居住空間の設定
第5図のごとく,BHP(BrokenHillSyndi‐
cate)が鉱脈ラインの中央部を占め,その北東部に
`NorthMme,,南西部に`SouthMme,ほかなどの 諸会社のML力鉱脈の軸線に沿って続々と成立し た。かかる諸会社のML・が並ぶ鉱脈ラインこそ,
43
場に向けて家畜を追う商人のいわゆる`drover'sroute’
であった41)。なお,第4.5図のごとくMLNo8.
9の場所て;MountGipps牧場とKinchega牧場と を区分する東西に走る直線境界フェンスが鉱脈と交 差しており,鉱脈の大部を占めるNo9以北は,前記 のごとくMountGipps牧場の区域に属していた。
Raspらが鉱脈を発見した1883年は大変な旱魁の 年てiMountGipps牧場の南隣のKinchega牧場 では約3万頭の羊が死に,その死体とそれを焼く臭 いが一帯を覆ったと伝える42)。
ところでBrokenHiU鉱区地域のいわゆるML調 査カネ1884年8月からEHDawsonによって進め られ,BHP、の発足したその翌年の8月には,鉱 脈軸のML・区域を囲む地域がtownshipreserveと して宣言された43)。このように鉱区調査や鉱山会社 発足などにみる鉱山開発態勢の整備とともに,居住 空間設定の動きがみられた。それまではmulgascrub 以外何もなく,わずiかに2.3のtents(又はhumpies)
がみられた程度-ごhouseは,BrokenHillMimng Companyのマネージャ_てあったJamiesonがBlock l4に建てたものが最初であったという44)(第4図).
1885年の6月には,BrokenHill最?初の宗教活動 がBibleChristianMethodistによって始められ,
また同年9月2日には,BrokenHiUで初めて子供 が生まれたことがSilvertonの出産登録簿に記録され ているといわれる45)。ProgressCommitteeが同じ 年の11月に結成ざ札その会長にBHP・初代マネー ジャーの前記Jamiesonカ選ばれたぶこの委員会最 初の仕事は,scrubの中に郵便道をつけることであっ た。なお1886年1月1日にBrokenHm最初の正式 な郵便局が発足したが;それまではWSullyの商店 内で郵便サービスがなされた。鉱山に近接した便利 な場所にホテル・下宿屋や各種商店の進出力湘次ぎ,
また井戸も掘られて,この新しいminmgcampにお けるコミュニテイーーライフカ漸次機能し始めた。
さて,BHP・を中心に鉱山開発力緒に就くや,
まず,1886年3月から政府測量官THGoodwmに よって集落調査力始められ,その翌月には完了をみ ている城その集落の場所は,第4.11図のごとく,
鉱脈露頭Blockl4の北西に接近して定められた。こ の占有地域は4分の1平方マイル(160エーカー)程 度の面積である46)がiこの地域を第4図にみるごと く北東一南西に通り抜けるtrackカメききの郵(吏道で 基軸のいわゆるAIgentStreetである。このArgent St.は,後にBrokenHillの中,Lv街路を名実ともにな したが(第9図),GTaylorも指摘するように47),
家畜追いたちが通り過ぎた,いわゆる前述の`drovers,
trail'の小道を大体踏襲したものと考えられる。この
`drovers'trail'は,丁度この場所では鉱脈露頭の軸線 とほぼ平行してみら札これを大体踏襲したとする ArgentSt.と,これに直交する街路からなる方形ブ ロックの`gridpattem'がりその後のBrokenHnlに おける街路パターンの基本となっている48)。第6図 に示された1886年の集落占有地域こそ,BrokenHiU 市街地発展の文字通りの核をなし,中心街区を形成 するに至った。かかる市街地発展パターンは,かつ て取り上げたウェスタンオーストラリアのKalgoorUe の場合と同じである49)。1886年7月には,この新し いtownshipをWiUyama(`youth')と命名するこ とが宣言されたがlこの土着地名は一般向きでなく,
BrokenHillのオリジナルなタイトル力嚇いて用いら れた。
この1886年から1887年にかけて,新しく教会・学 校・病院・ホテル・銀行などが開設され,また短命 ながら新聞Bmbe〃HiZJTY伽8sが発刊されるなど,
コミュニティー=ライフの充実が漸次進められた。医 療サービスは,当初,Snvertonの3人の開業医や,
1886年設立のB、HP・の一時的な病院施設に依存し ていたがb1887年5月にBrokenHiU最初の病院が 前記W・Brownによって開設された。1886年末当時 の人口約3,000でtents,shantieshutsなどの一時 的な居住施設が未だ混在して群がる占居様式を繰り
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