五島の民間宗教者 について
‑ライフヒス トリー調査についての覚 え書 き‑
福 島邦夫 *
Shama ni cPr a c t i t i one r so ft heGo t oI s l a nds : No t e sont heI nt e r vi e wsofThe i rFo urLi f eHi s t or i e s
Kuni oFUKUSHI MA
A bs t r ac t :Thi spa pe rd i s c us s e st hep r o bl e m a c c o mpa nyl ngt heus eofl i f ehi s t o r i e si nt hes t ud yof s ha ma ni s m.Thel i f ehi s t o r i e soff o u rs ha ma ni cpr a c t i t i o ne r soft heGo t oI s l a ndsa r ei nt r od uc e d.One na r r a t i veha dbe e nr e c o r de dpr e vi o us l yb ySa s a kiHi r o mi kiofKo ma z a waUni ve r s l t ybu ti twa sa l s o r e c o r de db yt hea ut ho r. Theo t he rt hr e el i f ehi s t o r i e sa r ei n t r od uc e df r o mt hea u t ho r ' so wnr e s e a r c h.
I tbe c o me sc l e a rt ha tna r r a t i vei sde pe n de n to nt her e l a t i o ns hi pbe t we e nt hena r r a t o ra ndt hel i s t e ne r . I nt he c a s er e c o r d e db ySa s a kia nda ut ho ra r edi f fe r e n tf ro m e a c ho t he r ,be c a us eoft hes ha ma nt oo ki n t o c o ns i de r a t i o nt hevi e wpo i n tOft hel i s t e ne r .Tha td oe sno tme a nt hena r r a t i veoft hes ha ma ni saf i c t i o n
,be c a us et hes t o r yl St ol dt ope r s ua det hel i s t e ne r , t hes t o r y‑t e l l e rc ha nge st hena r r a t i vet oma kei tf a mi l i a r t ot hel i s t e ne r .
Ke ywor ds :l i f ehi s t o r y , s ha ma ni cpr a c t i t i o ne r , na r r a t i ve , s ha ma ni s m
序
五島の民間宗教者 につ いてはすでに佐 々木宏幹 に よる報告 がある
。1 その 中で佐 々木 は五 島の民間宗 教者 をシャーマ ン的職能者 と規定 してい る。興味深 い こ とに著者 と佐 々木 は 同 じ宗教者 にイ ンタ ビュ ー してい る
。しか し、その内容 は若干異なってい る。
本稿 で は五 島の民 間宗 教者 の ライ フ ヒス トリー を 記述 し、最後 にこ うした ライフ ヒス トリー を中心 と した聞 き書 きにお け る調 査者 とそ の対象者 の相 互 依存性 について若干の考察 を行いたい。 さて、私 は 以前 に こ うした シャー マ ン的職 能者 の ライ フ ヒス
*長崎大学環境科学部 受領年月 日 2 0 0 7 年 4 月 6 日 受理年月 日 2 0 0 7 年 5 月 8 日
トリー に関 して小稿 を記 した こ とが ある
。2 その中
で大橋英寿 にな らって、シャーマ ン的職能者 のライ
フ ヒス トリー を入盛 以前 ( 一次的社会化期)、入盛
期 、成盛 期、 ( 盛業期 も含 む) に分 けて考察 した こ
とが あった。今 もその考 えは変 わっていな
い 。 3こ
こで強調 してお きたい こ とは こ うした ライ フ ヒス
トリーはそれが真実で あるか、或いは虚構 であるか
は問題 で はない。それ は一種の彼 らの宗教的な信仰
内容 の吐露であ り、あるいは聞き手 に対 しての説得
( 宣伝)であるか も しれない と言 うことである。以
下 に述 べ るライ フ ヒス トリー は宗教 とい う話者 の
主観 的世 界 をのべ た もので あ るだ けに一部 の方 々
に とっては荒唐無稽 な作 り話であ り、学術的な検討
にあたい しない もの と考 え る方 もお られ るに違 い
ない。 そ の場合 には中野卓 『口述 の生活史‑ある女
福 島邦夫
の愛 と呪いの 日本近代 』 4 を参照 して頂 きたい。本 稿 はそ の精密 さや再 現性 に及ぶ もので はない こ と
は承知 してい る。また、何度 も再訪 して 「 部厚い記 述」を記 した もので もない。 しか し、読者 は社会学 ではす で に古典 として認 め られ てい る同書 で もそ の中に 日本 の呪術宗教 的 な世界 が
いきい き と語 ら れてい ることに気がつかれ るはずである
。本稿 は話 者 と聞き手 ( 私) との間に成 り立った会話 に基づ く ものである。テープ レコーダーで収録 した部分 もあ るが、テープをお こした文 をそのままには記 さなか った。後で記憶に残 ったもの、ノー トにとった もの を材料 に して文書化 した。従 って文責は私 にある
。なお、本名 は伏せイニシャル化 してある。公表 して 迷惑がかかることをおそれ るためであ り、そのほか の意図はない。以下個別事例 を述べ ることにす る
。i J
事例 1 S ・N ( 大正 10 年生)五 島市奈留町 7 0歳 (1990 年 2 月 25 日調査時)
<ライ フヒス トリー >
この信仰 はもともと母 の信仰であった。母は嫁姑 の 問題 に悩み、 「 心の杖 と柱」にす るために信仰 を始 めた。母 は一厘銭で御身 ( ごしん) を作 った。今私 は五円玉で作 る。真ん中に穴の開いた硬貨 を糸に通 して 「 善星皆来、悪星退散」 と記 した物である。 こ れ を御神体 として拝む。私 を育てて くれた祖母 も大 村藩の御殿 医の娘である
。( ちなみ に S.Nの弟 は 奈留町 で大 きな病 院 の院長 を務 め る医師で あ る) 母は養子 であったので苦労が多かったが、金銭的 に も苦労が多かった よ うである。母 の信仰 について、
弟 は一応科学者 のは しくれであるので嫌 ったが、私 は母 の苦労 してい るのを見ていた ので悪 く言 うこ とはない と思っていた。私 は女学校 を卒業 して 19 歳の時、大漣 にいる叔父 ( 医者)に呼ばれて中国に 渡った。 山下汽船 とい う会社でタイ ピス トを したが、
その会社 の立派だった ことは今で も覚 えている。一 度奈留島に帰 り、結婚 して再び中国に渡った。長男 が生まれ 、長男 を見せ よ うとして帰 って来た ら、そ のまま終戦 とな り、奈留島‑住む こ ととなった。私 が 24 , 5 歳の時、父が亡 くなった。 49 歳の若 さ であった。私が 27 歳 の頃には母の所 にはも うす で に、毎 日30 人 くらいの信者 さんが来ていた。 ある とき、大 きな木で彫 ったお大師 さんの像 を担いだ人 がやって きた。阿野サ ク ( 女) とい う人で、中国の 青島か らの引き上げ者 だった。「自分だけでよか ( 良 い)神様 を拝まないでみんなにも拝 ませた ら良かろ
う」 とい うことにな り、皆でお配 りしよ うとい うこ とになった。阿野サ クさんはお大師 さんを当時で 6 8 年前 にお配 り始 めた とい う。皆でお紀 り始 めたの は昭和 34 年頃だった と思 う。月待 ち と言って、毎 月集 まったが、神様 が降臨す る時刻 は夜おそ く 12 時過 ぎることは ざらだった。阿野サクさんに神様が 降臨 して、神 の言葉 をのべた。それ を トキヒラキ と 言 った。人がだんだん増 えて部屋 に入 らな くなった ので、亀井旅館 の隣の家 を借 りた。私 自身はあんま りこ うした宗教 の道 は好 きではなかったが私 自身 にもい ろいろ不思議 なことがあった。
〔 観音像 が鳴った話〕
観 音像 は も とも と篠 栗 の春 山観 音寺 にあった もの を、ある信者 さんがかわいい と言 って寺か ら黙って 持 ってきた物 らしい。母が配ってい る祭壇か ら、私 が 自分 のふ ところに入れ る とギ イー とい う音 が し た。広 い家で何 だ ろ う、船 か しらと思 ってい る と、
ギィギィギィと 3 回言った。 この辺では 「 毛の一本 立ち」 とい うが、全身がぞ うっ とした。母 は私が耳 のお慈悲 を受 けた といった。
〔リンの音〕
締麗 な リンの音が聞 こえた ことがあった。 「 京都 か ら買ってきたのですか。音のいい こと」 と私が言っ ている と母は 「 そんな物 はない」 とい
う 。本宅の方 か ら聞 こえてきて消 えてい く
。変だな と思 うことが 続いた。
〔 手に受 ける一入砿体験 1 〕
私が 50 代 に入 った頃だ とお も う。母がお大師 さま を拝みにいこ うと誘 いにきた。あま り気が進 まなか ったが、夫がち ょうど出張中であったので拝みにい くことに した。大師像 の前で、 「 すみませ ん。私 は 何 も知 らないか ら、南無大師遍照金剛 を唱 えます」
と言ってそれだけを唱えていると、三鈷 を持 った左 手が こ う上下 してい る
。( 手の上げ下げをや って見 せ る
。一福 島) ど うしたのだろ うか。 目が変 になっ たのだろ うか と思った。家 に帰って、母 に話す と 「 そ なたの心一つで ど うにで もなるぞ よ」 と言 われた。
急 にあ りがたい気持 ちになった。次の 日お礼参 りに
行 った。線香 をあげた。人間が偉 くな られて仏様 に
なった。死んだ人間にあげるお経 を上げて も喜ばれ
るかも知れない。 自我侶 ( ジカゲ)でお受 け取 りく
だ さい。お経 を読む とそれ に合わせて リンの音がす
る
。お遍路 さんが近 くに来ているのだろ うか。音は
遠 くにもな らず、近 くにもな らず私 のお経 に合 わせ
て鳴っている。一礼す ると横 にセイ シのばあちゃん
がきちん とすわっていた。母は 「よくぞ短い期間に
悟 った。 ほめて とらせ るぞ」 と言 った。セイ シのば あちゃん に も神 が乗 った とい う評判 があった。 「こ れが乗 った とい うことかね」と私がい うと、母 に 「 あ なたは心がきれ いだか ら乗 ったのです」 と言われた。
手 を合 掌す る とい うこ とは 自分 を磨 くこ とで はな いか。私 は損 を した。人 に遅れ を とらない よ うに し てきたっ も りだったが、私 はものす ごい遅れ を とっ た。いい方 に何で も解釈 出来 るよ うに 自分の心 を養 わなけれ ばな らない。御座 ( 集会)が あるとき、観 音 を出 して よいか と阿野先生に尋ね る と 「 観音 ヒケ ンの経」を読 め と言 われ た。私 は ヒケ ンの経 を知 ら ない と言 った ら、先生は 「 親 があんなに修行 してい るのに知 らないのか」 と言 って ヒケ ンの経 を くれ た。
「これ を一週 間 あん た の都 合 の良い ときに あげな さい。七遍読 めばいい」 と言 う。
長 短 が あ った が どこで切 って 良
いか わ か らない。
「 一年生 が本読む よ りあ さま しか ( ‑た くそでみ っ ともない) 」 と主人が言 った。一 目に七巻ずつお経 を一週 間 あげた。先生 につ いて弟子 に させ て くれ 、 手に下 り、足 に下が り必死ですがって跡 を追 い かけ た。 あっぱ よ一。 ( 驚 いた意味)弟子 にす る ともせ ん とも言 われ ないまま先生 について行 った。
〔 入砿体験 2〕
50 代 にはいって少 したった ころ、三本神社 とい う 平家の落人 を配 った神社 に行 った。太上様 ( 太上神 仙 鎮宅霊符 尊生 とい って本 尊 で あ る‑ これ につ い ては後述す る一福 島) の 日であった。 多 くの人 が集 まっていた。お経がすんだ時、 白でつ の結び を した 姿がぽん とでた。 (目に見 えた。)次 に烏帽子 を被 っ た姿がでた。その烏帽子 は普通の ものではな く、だ だっぴ ろい烏帽子であった。 ( あ とで聞いた話だが、
それは兜の下に被 る烏帽子 であると言 う)そ うこ う してい る うちに斜 め横 の年 取 った人 の姿が戦 をす る ときの ざんぎ り頭 を しているのがみ えた。その姿 の膝 まで の ものを見せ た。 「 私 は何 も知 りませ ん。
神仏 に配 られ る人な らば、 どうぞ これ をお受 け取 り くだ さい」 と法華経 の短 い ものをあげた。おわった とたん、 「 無礼者 !下が りお ろ うぞ」 とい う自分 の 声が出て気 がっいた。男 の衆 も女の衆 も私か ら離れ て円座 に座 っていた。若 い宮崎 さんが しくしくと泣 いていた。私 は 自分 の声 で我 にかえった。私 は心の 中で 「ごめんな さいね。 ごめんな さいね」 と何度 も 謝 った。 「 太上 の頼みで あ る。 二代 目を嗣 ぐものが いな
いか ら、行か ら行‑ とつないで くれ」 と自分 の 口か ら出た。 自分 の中で何 て ことを言 ったんだろ う
。冗談 じやないわ よと思 った。母 に何 だ ろ うか と尋ね
た。私 は烏帽子 をかぶ った人の絵 を描いた。阿野先 生 は 「 や っぱ りお慈悲 をいただいたね」 と言 った。
「 神 は上か ら見た ら、膝 まで見 える
。下か ら見た ら 全身が見 える」 と先生 は言われた。
一 ケ月 ほ どしてか ら網 元の家 に呼ばれた。拝みの依 頼であった。先生が 「N さん、お香 を焚 きな さい」
と言 った。母 が 「 おお ばんぎゃあか ( 大それ た こと を) 」 と言 った。先生 と同格 か、同 じ位 の人 でない と香 は焚 けない。先生が 「 その人の幸せ を念 じなが らお香 を焚 きな さい」 と言 った。先生は衣 を手 に持 って、 「 衣 の袖 にた とえた ら、行 が ほ ころびた ら縫 い、また縫い とい うふ うに しなが ら、行 か ら行‑ と 重ねれば よい。行 が破 れた ら、またや り直せ ば よい」
と言 った。 それ な ら私 に も出来 る と思 った。 「 一週 間行 をせ よ。 三 日目に人 が来て無言 の行 が破れ る
。またや り直せ ば よい」私 は 「 行者 のまねは出来ない。
家庭 の閑暇 に手 を合 わ させ て もらいます」 とお願い した。 阿野サ ク さんは長崎 に引き取 られ て帰 った。
83 歳でな くなった。昭和 51 年 4月 26日であっ た。お母 さんが一人 になった。母 が私 に トキ ヒラキ (口か らお慈悲がで ること)を しろ と言 った。 しば らくしてか ら、母 が私 に席 を譲 り、私 が導師 を勤め、
母が脇導師になった。
<宗教活動 >
1. おみ くじを降 ろす ( 神様 の言葉 を聞 く) 学校 の試験、家 出人、尋ね人、失せ物 ( お金がな くなった場合 、おみ くじを降 ろすな とい う。問題 の もとにな るか ら、方角 をお しえる。例 えば家 にある な どと教 える) 「 返 る物 はか えるよ。 返 らん とは返 らん よ。」 ときれ いな気持 ちでいれ ば良い。 心の広 場 を作れ ば神様 が来 る。
2. 金物 あげ
海 の 中に鉄類 をは じめ金物 を捨ててはい けない。
竜宮の庭 を汚す。特 に刃物 を捨てることは よ しとし ない。 そ の場合 、御 幣 をあげて、海 に流す。 「 すみ ませ ん。みて ぐらを流 しますか らお許 し下 さい。セ ン リ ・セ ラ ドの神 ( 大海原 の神 ) 」 と言 う。魚 が と れ るよ うになって、魚 をお礼 に持 ってきた人が
いる。
3. 念波 ( ねんば、生霊 ともい う)
人 を恨 めば 自分 に戻 って くる。 自分 の周 りの弱
い人 に良 くない ことが起 きる
。念波 を一年半お くられ た ことがある。念波 は必ず戻
って くる。母 が毎晩就寝時 になると眠れ ない。母は
そ こでエイ ッと言 って返 した。今度 は相手の人が眠
れ な くなった。次は母 がまた眠れ ない。そ うい うこ
とが続 いた。私が手 を合 わせ た ところ、手が上 に上
福 島邦夫
が って弓 を放つかた ちになった。 「 ‑ どき放 ちて」
と口か ら出た。 これ は下関にある一宮 とい うお宮 の 宮 司 さんか ら習 った祝詞 の言葉 であ る
。「 すみ ませ ん」相手 の気持 ちが良 くな るよ うに と祈 った。身 に かか らない よ うに切 り払 うこともあ るが、相手の心 が柔 らか くなるよ うに、きれいな気持 ちでい るよ う に祈 るこ とが一番 だ。私 は この人 のおかげで生霊 、 死霊の区別 がわかった。
( 神歌)
その時々に心に浮かんだ ものを神歌 として、信者 と 一緒 に歌 う
。「 心を清 め、行 を積み、祭壇 を清 め、経 を読み、そ の身その けん、ほこ りな く六波羅密 の行 をせ よ」 *
昭和 43 年 3 月 3日の 日付 あ り。
「 愛の光 に生 きなが ら、心の鏡みが きて、六根清浄 の身の積れ をいっの間 にや ら洗い さ り 」 *昭和 43 年 3 月 3 1日の 目付 あ り。
「 六波羅密 を行 じては神仏 ( かみ)のお慈悲 を宣揚 す、十界‑如体験 と人心化導道 に生 き」 *年号な し
〔 修行〕
神 の知 らせ は行 を積 んだ人 、積 まない うちにで る人 もい るが、行 を積 んだ人 の方が強い。身の行 、 口の 行 がある
。口の行 は 口で唱 えるもの、または無言 の 行 がある
。身 の行 としては、裸 足 の行 、 ご飯 断 ち、
お茶断 ち、朝 ご飯抜 き、 ご飯抜 きの行等がある。最 後の行 は六波羅密 の行 である。本来 山か ら山‑ と渡 る行であ るが、家庭人 としては出来 な
いか ら、上 に 述べた行 の うち一つ を一 ケ月す るこ とによって、十 界 に入 る
。そのほかの行 としては、布施 ( 金銭 の問題 だけでな く、心の布施 でなけれ ばな らない。)、忍苦 (
いかな ることに も耐 え忍べ)、持戒、知恵 ( 行 を しなが ら、
心 をみが け)、善 ( 一 日‑善)、戒律 ( ‑善戒 を守 る) 不殺生、不悪 口、不倫 盗、不両舌、不邪淫、不慢会 、 不妄語、不暖意 ( 腹 を立てない)不給討 、不邪見
[ 本尊]
観音一貧 しい人 を救 わんがため、手伝 い をそ なた に して も らいたい。気 の合 う相手が出来 た と言 った。
亀蛇合形 ( キダゴウギ ョウ)合形 の中にも七十二符 の神様 が
いる。役行者 、弘法大師、不動 明王、七十 二符 な どである。
御身 (ゴシン) 5 円玉 を 7 2 個積 んで この神様 の真 言 を入れ てお く
。お金 を留 めてお くことは良 くない のでお祭 りの時福銭 としてお盆に載せ る。 ( 先述) 七十二符 の掛 け軸‑お かけ軸 を持 って きたのは奈 良 尾 の人で ある。
神棚 も勝手に信者 さんが作 って くれた。神棚 を作 っ た ときおみ くじがでた。いつ もの声で 「 わきいず る かな。 わきいず るかな。天地の恵みの恩 な くて、は こぶみやす ぎ 」 と出た。その時不思議 なことがお こ った。お参 りに来た人は 12 人だったが、帰 る とき に一人入れ違 い に入 って きた。 「 あ ら、 ど うしよ う か」 と思 ってい る と 1 個お化粧部屋 に湯呑 みがある の を思 い出 した。 「13 個 もあ るぞ よ」 と神様 がお っ しゃった。観音様 がお聞かせ 下 さったのだ と思 う。
お下 りにな るのは 自分 が配 ってい る神 で これ は裏 の祭壇 にある
。これ は 自分だけで配 ってい る。 は じ めて下った神 で 80 歳 くらいのお姿である。皆様 の 神 は表 の祭壇 にい る。 4 5 歳 くらいのお姿で顔 は丸 顔 で 「
いつで も来い」 とい う男性 の姿 を してい る
。千早 をかけた姿である。お経 を唱 えて、「 善星皆来、
悪星退散」 ととなえると 「 おすが り」がある。
「 おす が り」 とい うのは人 の話 を聞いてい ると心の 中に声 が ある。 「 半分 聞け、今 のは嘘 ぞ」等 と注意 して くだ さる時 もあ る し、 「 おみ く じ」でず っ と諭 され るこ ともある。先年 もお祭 りの晩 に拝 んでい る と 「 台風 が来て風 が大変強 くなる」 と出た。皆 に電 話 して来 ない よ うに勧 めた。台風 がきたが、 この家 だけ瓦が飛 ばなかった し、ガ ラス も割れ なかった。
[ 祭礼]
百万遍 をす る。観 音様 の命 日は新 の 17日であ る
。そのほか太上神仙鎮宅霊符尊上 ( 太上様)の祭 りを す る。期 日は 1 月 7日、 2 月 8日、 3 月 3日、 4月 4 日、 5 月 5 日、 6 月 7日、 7 月 7日、 8 月 15日
( 大祭一月見の宮 といって 150 名位 くる。) 9 月 9 日、 10 月 21日、 11 月 7日 、 12 月 27日であ る。正五九は主月 (しゆげっ) と言 って大 きなお祭
りをす る。福 岡にも道場が 2 つ 出来てい る。
[ 災因論 ]
かぜ‑具合 の悪 い とき、この辺 の人 はかぜ にあたっ たん じゃないだ ろ うか と言 う
。奈 良尾 の人 は特 に
「 風 どく ( ふ うどく) 」 とも言 う。 「 行 き会
いかぜ」
「 なだかぜ」 とも言 う。 これ は霊の作用で、行 き会
い
かぜ とい うのは悪いのにあたった時で、お破いを す ると取れ る
。念波 のかかった もの、生霊 と死霊の くっいた もの、それ に狐 の乗 った ものな どい ろい ろ な場合 がある。生霊、念波 は離れ に くい。普通 の仏 さん ( 死者)のついた ものは離れやすい。仏様 の さ わ り ( 死者)の場合、神様 では ど うにもな らないの で仏様 ( 観音、弘法大師、不動等)で破 ってあげる。
私 は仏様 を脇仏 として配 ってい る
。そのおかげでた
くさんの人が救われた。
[ 免許]
免許状 は母 の時代 に四国の石鎚 山 よ り受 けてい る
。8 月 15 日の大祭 の時 に はお米 を袋 に入 れ て そ の 上 に御 幣 を立てて、石鎚 山 と思 って拝む。御礼報謝 と言 って御初穂 を石鎚 山にあげる。役 の行者 も配 っ てい る。
[ 特殊 な行]
胸 中三寸 ( むねなか さんず ん) の行
アイ ウエ オ を清音、濁音 を全部言 う。例 えば 「 パパ パパ、 ビビビビビ、ブブブブブ」 と唱 えた後 、その 後 で神 歌 ( 前述) を言 う。
三番 目の娘 に嗣がせ るつ も りである。調査時 に若 い 娘 さん ( 胸 中三寸 の行 を した。) 目の不 自由な老年 の女性 ( 大正 8年生) が来 ていた。そ の 2人 が組み になって行 を した。
2.
事例 2 Y ・T 奈 良尾町 68 歳 (1990 年 2 月 24日調査時)
奈留町 S ・Nの弟子で ある と言 う。
<ライ フ ヒス トリー ・成砿体験 >
私 は この家 にお嫁 にきて 4 3 年 にな る。 30 歳 の少 し前 にな る ころ、主人 が長 崎‑大 阪間 の フェ リー の 仕事 に就 いたので、一年 ほ ど長崎 に行 って住 んだ こ とがある。その ころ、長崎 の法華経信仰 の人 に会 う。
奈 良尾 の鍋 倉神社 の こ とな ど奈 良尾 の こ とに詳 し かったので、主人 が興 味 を持 って信仰 してい る うち、
妻 の私 の方 が体 が妙 なふ うになった。他人の腹 の中 が見 え、声 が聞 こえるよ うになった。電車 に乗 って いて も相 手 の言葉 が聞 こえて くる
。「 紙 を買 って こ い。字 を書かせ る」 と言 う声が聞 こえ、字 を書 くと 普段私 の書 く字 は下手 なのに大変上手 にかけた。神 様 、仏様 に よって書 か され たのだ と思 う。法華経 の 行者 に 「 神 上 げ」 の祈祷 を して も ら うと 「 十一面観 音様 が ご苦労 してお られ ます」 と出た。 「しか し、
も うそ うなった らど うしよ うもない。南無妙法連華 経 をあげな さい」 と行者 が言 う。 それ か ら 10 年 間 苦 しかった。一人 で苦 しんだ。主人が帰 ってきて奈 留 島の漁 労長 になった。その頃か ら落 ち着いた。奈 良尾 の人 たちは皆基 山の中山不動 ( 中山身語正宗) を信仰す る
。私 も基 山には 4 , 5回行 ってい るが 、 お得度 はいただいてい な
い 。私 が この よ うになった のは 「 フ ミフセホ ウセ」 と言 って父母 のおかげを受 けてい るせ いである。父 が他人‑の奉仕 をよくして きたおか げであ る
。[ 災因論]
死霊 かぜ ‑かぜ がつ く場合 、かぜ はほ とん ど死霊 さ んである。道 で足 が痛 くな る。肩 が重 くな る。休 ん でいて も、布 団の中でそ うな る場合 がある
。死霊か ぜ で ある
。奈 良尾 では 「 フ ウ ドク」 とい う。筋炎 で あ る。 「 は し りフ ウ ドク」 とも言 う
。奈 良尾 のT さ んはフ ウ ドクを 口に含 んで吹 くと言 う。
[ 本尊]
十一面観 音、太上神仙 鎮宅霊符神尊主、他 に役行者 、 弘法大師 、亀蛇合形 、奈 良尾産土神社 、おひか りさ ま ( メシア教 の神) な どG
[ 宗教活動]
い ろい ろな相談 を受 ける。縁談、試験 の祈願 、家 出 人 の捜索 、家 出人 の足止 めの祈祷等 である
。家 ば らい をす る。
月祭 り‑ 旧の 17日で ある
。お加 持‑お経 を唱 えなが ら、お数珠 で悪 い ところを なで る。 ( ひ どい場合 は大般若経 で破 う。)手が 自然 に悪 い ところ‑ い く。 そ してお か げ を頂 き、直 る
。見せ て くれ る‑ どの方 角 の病 院 に行 けば良い か を 教 える。従前 の病院 に行 って も直 らなかった人 が直 る。病気 の場合 、病院 に行 って も直 らない人 は 「 お す が り」 ( 先祖 の霊) がかか ってい るこ とが あ る。
先祖 が頼 みがいの あ る人 にたのむ ので あ る。 「 お し らせ 」 とも言 う。 「 お しらせ 」 は誰 に出 るかわか ら ない。
[ おす が りの例]
1) 長 崎 のNTTに勤 めてい る女性 がお なかが痛 む と言 ってお願 いに来た。私 は 「これ は先祖 がお す が りしてい るね。手術 を しない方 がいい」と言 った。後 で医者 に診 て も らった らや は り手術 を し な くて もいい とい うこ とだった。私 は毎 日お経 を 上 げな さい とすす めた。 そ うす る と良 くなった。
も う一度 、今度 はその方 のお母 さんがおなかが痛 い と言 ってや ってきた。今度 は病気 である と出た。
医者 に診 て も ら うと子宮筋腫 であった。手術 を受 け今 は ピン ピン してい る
。2) 有川 の人 で潜 水病 で体 が冷 えて直 らない人 が いた。生活保護 を受 けてい る人 で大変であったが、
車 を運転 してい るので、一週間 こち ら‑来 てみ な
さい と言 った。 3日間通 ってきた。そ うす る と下
半身 がポ ッポ ッと熱 くな る と言 って きた。他 の祈
祷 師 さんの ところ‑行 った ら、 「 海 の 中に も う一
度潜 ってその場所 の石 を拾 うて くれ ば直 る」と言
ったそ うだ。潜水病 の治療 で も う一度海 中に潜 る
の も理 にかなってい るが、私 はその体では無理 だ
福 島邦夫
と思い、私は 「 毎 日お茶 をあげて、南無阿弥陀仏 と唱えれ ば直る」と勧 めた。 4 日後 にはその人は も う直 っていた。
3) 私 の友達 の息子 さんが 3 1 歳 で鹿児島で危篤 状態 になった。 けいれんがきて、片方の手 を親 、
も う片方 をお嫁 さんが押 さえた。佐賀 の祈祷師の M 先生 に頼まれたが、鹿児島だか ら、遠 くていけ ない。私 にも電話があった。私 も足が悪 くて寝て いるとその人の顔 が出て くる。けれ ども、その顔 はその割 に心配そ うな顔ではなかった。 N 先生に 相談す ると 「 あ ら、ふ うちゃん。 この人はおすが りよ。病気 じゃなか と」 と言われた。私が 2 , 3 日あ とに電話す ると 「 今か ら電話 しよ う」と思 っ ていた とおっ しゃ られた。す っか り良 くなってい た。
4) 妹 は長崎 で習字 の先生 を してい る
。妹 の息子 は当時高校生であったが、家 に帰 って毎 日寝てい た。妹 は息子に寝てばか りいてなんだ と叱った。
そ うす る と反対 に息子は怒 り、 「自分 は兵隊で死 んだ何 々だ。 そんなに粗末 にす るな」 と言 った。
息子はず っ と機嫌が悪かったが、翌 日お墓 に連れ て行 くとその墓誌 には息子 の言 った通 りの名前 が書かれていた。その前でお経 を上げると息子の 気持 ちはす うっ と良 くなっていった。原爆 で死ん だ人の墓でその霊 を背負 ってきたのであろ う。妹 も私 と同 じ体質なのである。
[ 見せて くれ るの例]
主人のお じい さんが入院 した時であった。私は 「ど うか助か って くだ さい」 とお願 い した。 「 孫の ラン ドセル を背負 って学校‑い く姿を見せて くだ さ い」
とお願い した ら、お じい さんの顔が浮かんだ。その 顔 にタオルがかかっていたが、それが半分め くれて いた。そ うして助かった。次にまたお じい さんが病 気 になった。今度はお不動 さんが顔 を押 し上げてい る姿がみ えた。 N 先生 ( 事例 1 ) に尋ねた ところ、
先生が紐 で引っ張ってい るか と聞いた。いいえ手で 押 し上げてています と答 えた。 ( 手 を見せ る‑福 島) それな らば助かるとおっ しゃった。本 当に助かった。
神様は 3 回までは救 って くだ さるが、 4 回 目は駄 目 だ とい う。
病気は先祖 を配れば直 る。 しか し、本 当の病気 もあ るので私 は医者 をすす める
。3.
事例 3 Ⅰ ・S 大正 1 年 生 富江 町生 76 歳 (1987 年調査時)
福江市職人町 「 お大師 さん」 「 福江の弘法 さん」等 呼ばれている。
<ライ フヒス トリー >
実家の姓 は尾崎 といい、先祖 は仏師であった。小 さ い ときか らお寺が好 きで、お寺の 日曜学校 に通い、
「 いい ことを しなけれ ばな らない 。」 とい う教 えを 受 けた。
( 主人の病気) 20 歳で結婚 したが、結婚 10カ月 で主人が病気 になった。 10 年間病床 に伏 していた が、私が 30 歳の ときに亡 くなった。主人が亡 くな った とき、夢枕 に弘法大師があ らわれ、 「 す がって くる人 を助 けてあげよ。そ うすれば、おまえにこ う い うものを授 けよ う」 といって、の し袋 のよ うなも のを右手 に出 した。三分の一 を伊勢、三分の一 を高 野、三分の一 をそなたの小遣いにす るといった。 も らうだけではな く、いまは不 自由な人に援助 を した い とい う気持 ちが出て、お参 りしたひ とにお しる L に何か さしあげている。わた しは弘法太子 をまえか ら配っていた。
( 穴弘法)弘法大師 との縁 は長崎市内の穴弘法にあ る。 12 歳の とき母が死んで、 13 歳の とき義母が 長崎か らやってきた。義母 は穴弘法 ( 長崎市内の真 言宗寺院) を信 じて いた。今 田師 は昭和 15 年 、 18 歳 の時に長崎 にいった ことがある。その時に腸 チフスをわず らい死 にかけた とき、義母は穴弘法‑
いき、霊水 をもらってきてのませた。帰 るときに再 び元気 になった ら、穴弘法の土を踏 ませ ると約束 し てきた。しか し、結局 タンカか らタンカ‑ と運ばれ、
土が踏 め な か っ た 。
27 歳 の とき、私は黒瀬 にいた。色の 白い 白髪 の人 が泊まった。その人は 「 あなたの 目には見 えません。
私の 目には見えます。 あち らの大師 さまがまばたき を してお られます。あなたはお大師 さまに足 をむ け て寝 られ ません」 と行 った。 あ とでノー トにかいた 名前 をみ ると佐世保市岡本法善 とあった。いま調べ て もこのひ との名 はわか らない。 18 歳 の時、チフ スにかかったが、結婚 してか ら、 25 年後また腸チ フスのよ うな病気 にかかった。下痢が続 いて病気 は 直 らなかった。なんで、こんな病気 になるのか と思 い、い ざって仏壇 にむか うと 「 穴弘法」 とい う言葉 が とつぜ ん浮かんだ。 「 ゆる して くだ さい。お腹 が なおっ た ら、土 を踏みます」 と約束 した。それが、
旧の八月十四 日、八月十五 日、八月十六 日になった ら、 ピタッと直った。俄悔 をす るといって穴弘法‑
お参 りにい くことに したのだが、その時,私の主人
のい とこにあた る人 がきていた。私 の 口をついて、
「 二人 の者 お ともを申せ 」 と出た。 ( その人 は今長 崎 の香焼 にい る。)その人 は 自分 も一緒 にお参 りし たい と申 し出たが、その時わた しが弘法 さんになっ て、 口をついて言葉 がでた。 「 そなたの義理 ある母 が 申す には 自分 の腹 をい た めた子供 な ら死 んで も かまわん、義理 ある子供 な ら死なせ ん。そなたは 2 0歳 の ときに石 ぶ た をかぶ らね ばな らない身 で あ ったが、 ‑」 「申 し訳 あ りませ ん。 25 年間わすれ たおわび に毎年 まい ります」それか ら毎年参 ったが、
70 歳 を超 えたのでいまはいっていない。弘法大師 との因縁 は岐宿町、白石 に弘法大師が中国にいった 時 に水 を採 った時 の船 をつ ないだ大石 が あ る とい
う 。
1) ( 霊感)夢一霊感 には哲学の勉強が必要だ。夢 を 見た とき、ただの夢 と思 って捨て る と必ず戒 めを受 ける
。20日間 も血 を吐いて寝込 んだ こ とが ある
。しか し、素晴 らしいおかげを受 けるこ ともある
。お 手伝 い に行 って 「この雑 巾をあ らってい らっ しゃ い」 と言われ て、水の無 い ところで ど うしょうかな と悩んでいた。夢 の中で天 を向いて仰 ぐと目の前 に ひ しゃ くとお けが現れた。病人 をみて、八分通 りあ の世にいってい る人はだめ、二分現世 に残 ってい る それ をなん とか生かす努力 をす る。 4 0 数才でガ ン にかかってい る人が 30 年 も生 きた ことがある
。め くらで もあきます。い ざ りで もたちます。若松町神 仏 ( こ うぶつ)の中島吉次郎 とい うひ とはい ざ りで あったが 、立っ よ うにな った。御 礼 に松葉杖 30
cm ぐらいのを納 めた。
その銘 若松町神仏 ( こ うぶっ) 昭和 37 年 10 月吉 日 中島吉次郎 4 5 歳 と し る し た ものが現 地 にある。
2) ( 霊感 )す がた‑祭壇 に向か って、拝む と因縁 がその姿 になってあ らわれ て くる。動物 の因縁 があ るとその形相 になった り、お金 の因縁 があると手 を 握 ってはなれ な くなる。因縁 を祈祷 によっては ら う。
因縁 はた たみ に しみつ い たイ ンクの よ うに落 ち に く
い 。玉之浦 は昔 は裕福 な ところで八十八 ヶ所 をつ くっ た。佐 野おふ とい う人が発起人であるが、その人 は 雨 ごいのお陰 をいただいた とい う
。その人が山にい って行方不明になった。私 もその ころ四人の子供 を 生んで貧 乏だ ったが、その人の こ とが気 がか りで、
歩いて行 った。夢でお座敷 か らスー ツ と毘沙聞 さま があがった。 き ょ うはお ばちゃん帰 って くるよとい った ら、本 当に帰 ってきた。玉之浦で病人 を拝む時 は毘沙聞天が 「 必ず Ⅰはいかんな らん とい う 」 Sさ
ん ( 未 亡人で Ⅰ氏の一番弟子か ?)が毘沙聞天 にい った とき も、朝具合 がわ るかったが、 ( 胃が冷 たか ったが)先生のお供 してい くじやけに何 もなか と思 った ら、良 くなった。
3 )カゼ を落 とす。 カゼには生霊、死霊 、生死霊の 三つがあ り、生霊 とは他人の恨み、生死霊 とは恨み をのんだまま、死んだ霊の ことであ りこれが一番落 ちに くい とい う
。大宝院 ( 西の高野) 旧 8 月の 17日、 18日 現 在 は 10月 大宝院の祭 りには佐賀 にい る友人の僧 侶、真言宗の先輩や後輩がお手伝 いに くる
。御縁 日
には七福神 のお姿 を安置 した。 Ⅰ氏の教会 の縁 日は 毎月 20日で ある
。‑ ( 主人が 20日に亡 くなった ので)二十 日祭 をす る
。行事 はお接待 である。お昼 にお茶 、ち り紙 な どを配 る。御祈祷 は二十 日祭 では しない。弘法太子 に止 め られてい る。全体の御祈祷 を して個人の御祈祷 は しない。
<修行 >四国八十 八 ヶ所 にお参 りにい った。 昭和 47 年 、昭和 56 年 、昭和 62 年いずれ も 6 月にい った。毎年 、参詣 に行 くところは五島のなかでは玉 之浦 の七 岳神 社 で 旧正月 の 28 日毘沙 聞天 の祭 り がある。そ こにも八十八ヶ所がある。長崎市穴弘法
‑い く
。日にちはきめてはいな
い 。4.
事例 4 Y ・H 奈 良尾町 中山 ( 昭和 6 年生) 59 歳 (1990 年調査時)
中山不動 、中山身語正宗
は じめは J ・H ( 祖母)が習 った。 ( 明治 10 年 11 月‑昭和 28 年 10 月 数 えの 77 歳 でな くな る。)母 のM ・Hが跡 を継 いだが数 えの 40 歳でな くなった。 中山不動 は今 は赤 い不動 なので あるが、
それ以前 は黒い不動 が配ってあった。現在 の ものは 宗祖 寛恵 上人 が昭和 8 年 に 中山に来 た とい ううわ
さがある
。その時に持 ってきた もの と思 う
。<ライ フ ヒス トリー >
この近 くの福 見高井旅 の村 は隠れ キ リシタ ンの村 で 自分の家は 「 チ ンカ ン、チ ンカ ン とお経 を上げる」
と言われ て、か らかわれた。家で こ うい うことを し
ているのが子供心 にいやでたま らなかった。 16 歳
の時、脳膜炎 になって高い熱 がでた。祖母 は子供 を
3 人な く してい るので孫は 2 人育てたが、も う駄 目
だ と思 っていた とい う。苦 しい ことばか りの人生だ
と祖母 は思ったそ うで ある。有川 の方 に医者 がいた
ので、来て も らうよ うに頼む と晩の 9時か ら10 時
頃になってや っ と着いたそ うである
。「 命 は も う3
福 島邦夫
目と持 たない。死亡届 を有川 まで書 いて届 けるのは 面倒 だ 」 とその場で書いて行 ったそ うである。荘L 母 は母 に先 立たれ、孫 まで先立たれ るのはかなわん と 一生懸命 おすが りを して行 を した。 3日後 に助 けて もらった。私が 目覚 める と頭 の上の毛がそ ってあっ た。そ して、おばあちゃんの額 が青 かった。 「ど う したの」 と聞 くと私が暴れ ておばあちゃんを放 り投 げたそ うです。頭 と足 の裏 を一生懸命冷や したそ う です。お不動 さんが私 を助 けた。他人 のために人 を 助 け る人 になれ と得 度 させ られ た のが 17 歳 の時 です。縁 あって養子 に来て くれ る人 と結婚 した。大 変思いや りのある人だった。おばあちゃんが亡 くな ったのは、私 が数 えで 23 歳の時で あった。おばあ ちゃん は 自分 がな くな る とい うこ とがわか って い た。年 の晩 ( 大晦 日の晩)だった。私 に言った。 「 机 の上で習 うことはいつ で もいいが、仏 さまに習 うこ
とはいまの うちに習 ってお け」 と言 ってな くなった。
古い信者 さんたちが残 っていた。そんな人たちか ら はっぱをかけ られて、私 はわか らないまま、泣 きな が らお参 りを した。好 きではなかったが、宿命 であ ったか らや った。母 は一度 大分 に行 ったけれ ども、
結局跡 を継 ぐよ うになって戻ってきた。出来 ないで 泣 いてい る と、丸川大吉丸 のお じい さんにあた る人 にひ どく叱 られた。 「 大和 尚も小僧 か ら始 まるぞ」
と
。今 か ら思 えば叱 られてかえって よかった と思 う
。長男 は進 んでや った。私 は反対 で あったけれ ども
。高野 山に行 くと言 って 自分か ら行 った。 中山身語正 宗 になる人 は女性 が多い。五島に 7カ所 、奈 良尾 に 3カ所 あ る
。母がな くなった時は こころ残 りで、母 は 自分 が
いただいたお慈悲 をお ば あちゃん にお い ていった。母 がな くな る ときも母 は 自分 はあ と3日 の命だ と知 っていた。来年 この教会 の 50 年祭 をす る。
[ 宗教活動]
旧暦 の 17 日に開眼 法要 をす る。 この辺 は月夜 間 ( つ きよま) と言 って 17日が漁 の休みである。 こ の 日に大漁祈願 をす る。
オ ンピー月 に一回、以前 は 28 日で あったが去年 よ り 18日に変わった。奈 良尾岩瀬浦 、福江の方から 何人か くる。漁のお願 い、海上安全 、大漁祈願 、家 内安全 、入試合格祈願 な ど。最近二つの会社 が倒産 し景気 は良 くない。覚永上人は 5日、大師は 2 1日 にお祭 りをす る。
家は らい、地鎮祭 を奈 良尾方面です る
。御参拝 は 2 月 21日で祖廟参拝 をす る。長男 は今月 に 2 回参拝 してい る。
少 し離 れ た場所 にお 堂 と御 滝場 をそ な えた道場 を 持 ってい る。
この ほか奈 良尾 には 口で息 を吹 きか けて病気 をな おす とい う K ・T (89 歳‑1990 年 2 月 24 日 当時)が
いる。 自宅 を訪ねたが、不動明王の掛 け軸 のほか数珠、錫杖 な どの法具があった。 20 代 の頃 足が悪 く、それ を直すために続 けて三回、四国八十 八 カ所 を回った。 大音寺 ( 五十番 )か ら打 ち始 め、
一 日に二里 も歩いた。最初 に回った時に別府 の行者 、 佐藤豊弘師に会い指導 を受 けた。 山で御利益 を受 け た。 自分で 自然 に力 となって出て きた。若 いお嫁 さ んの二十歳 くらいの人 を直 した。 この人 は足 も肩 も 体 も痛 く、お医者 さんでは原 因がわか らなか った。
そ うい う人 を直す。 まず 、数珠 では らい、お経 を唱 え、 口で吹 く、主 に奈 良尾 の人がや って くる。 2 カ 月 くらい通って くれ ば直 る。免許状が飾 ってあった。
免許書、 K ・T 右不動明王崇敬人 修行 ノ徳 二依 り 加持免許 ヲ証ス 昭和 3 5 年 2 月吉 日臨済宗大本 山 大徳寺派 ( 中略)佐藤豊弘
考察
さて、以上 ライ フ ヒス トリーだけを述べ るだけで は こ うした シャーマ ン的職 能者 の全貌 を説 明で き ないので、宗教活動や経 ってい る本尊な ども合 わせ 記述 して きた。
最後 にこ うした ライ フ ヒス トリー研究のは らむ問 題 について若干 の考察 を述べてお きたい。紙数 の都 合 で多 くを述べ るこ とがで きないので、一点だけ論 じて本稿 を終わ るこ とにす る
。それ は ライ フ ヒス ト リー調査 の相互依存性 とい うことである。最初 に述 べた通 り、佐 々木 と私は同 じ対象 を相手 に聞き書 き を した。文中の事例 3 、 Ⅰ・Sと略 された人物であ る。佐 々木 の記述 をそのまま ここに引用す ることに す る。
「Ⅰ・Sは富江町に生まれ育 った。福江 に移 り住 ん だのは昭和 3 6 年で ある。彼女の旧姓 は尾崎であ り、
尾崎家 の先祖 は 四代 前 に 山 口県 か らや って きて富 江 の藩 主 に仕 え、藩 主か ら屋敷 を賜 るほ ど働 いた。
廃藩 となってか らの尾崎家 は仏師 を職 とし、五島各 地の仏像 を彫 った り修理 した りした。 Ⅰ・Sの祖父 は仏 師 の仕事 は 自分 に向い てい な
いか らと弟 に後 を継 がせ 、 自らは篤 い信仰家 として生涯 を過 ごした とい う。彼女 は六人兄弟 中唯一の女子 であったが、
十二歳 の時母が亡 くなったので、家事 を手伝 い、寺
‑行 ってお経 を読む のが好 きであった。二十歳 の と
き、洋服店 を営んでいた Ⅰ家 に婚入 したが、結婚生
活十 カ月 に して主人が病 に倒れた。病院の世話 にな っても経過 が良好ではなかった。夫の病気 を治す に は信仰が必要だ と考 えた彼女は、夫 に五島の札所巡 りを強 く勧 め、もし信仰 に入 らなけれ ば離別す ると まで言い切 った。翌 日夫 は信仰 に入 ると言ったので 八十八 カ所 を巡 って "お大師 さん"を信仰 した。何 度巡ったかは憶 えていないが、夫は一進一退 を繰 り 返 しなが ら十年生 きた。彼女は二十一歳 の ときに、
四国の仏具店か ら大師像 を迎え、仏壇 にお稚 りした。
彼女が三十歳の とき夫 は死去 し、彼女 と子供三人が 残 された。夫の死後、彼女はますます信仰 に励む よ
うになった 。」 5
以上が佐 々木 による聞き書 きである。筆者は当時 こ の論文 を読んだ ことがあ り、五島にホ ウニンとい う 民間宗教者 が存在す るの を知 っていた。 しか し、
Ⅰ ・Sと知 りつつ、意図 して調査 を したのではな く、
たまたま五島を訪ねたお りにこの Ⅰ・Sにた どり着 いたのである。イニシャルだけでは探 しよ うがなか った。 しか し、彼女はホ ウニン として有名 であ り、
当時福江 の町で よく知 られた存在であった。以上読 んでみ る と佐 々木 の聞 き書 きの精微 な こ とがわか る。
次に入盛期のことについての記述 を引用す る.
「 Ⅰ・S は夫の死後、お大師 さまが唯一の頼 りにな り、常に尊像 を礼拝 し、札所巡 りを続行 した。 ある 日、尊像 に経文 を唱えていると、経机 の下で声が し、
「 すがって くる人は助 けてあげよ。 」、 「 助 けてやれ ば包みを出すぞ」と言っているのが聞 こえた。また、
夢枕 にお大師が立 ち、 「 お前は経文 をあげる以外 に 生 きる方法がない。」 と告 げた。彼女 は人助 けこそ 自分の使命であると自覚す るよ うにな り、修行 に精 を出 した。その うち何処か らともな く人がきて 「 あ なたは信仰 の人であるか ら、あなたのお大師 さまは 有難い。お参 りさせて くだ さい」 と重箱 に入れた米 を供 えて くれ るよ うになった。子供が病気になって も病院 に行 く金 がな くこまった ときには、尊像 に
「 お金があ りません。なん とか して下 さい」 と祈願 した。す ると夢の中で大師は 「 か くか くの経文 をあ げると悪霊は退散す る」 と教 えて くれた。子供 の水 落ちに腫物ができ、 リンパ腺が腫れた とき、大師の 指示 によって一週間水垢離 を とり、拝 んでや ると、
水落ちの腫物か ら膿 がでて治った。ます ます信仰 に 自信 を深 めた彼女は、白装束の姿で只狩 山の御堂で 七 日七晩の間寵 り断食修行 を繰 り返 した。修行 を重 ね る毎に霊感 は高ま り、問題があると、その解決法 が 目に映 り、耳に聞 こえ、夢に出るよ うになった と
い う。それはすべてお大師 さまが知 らせ教 えて くれ るのだ と彼女は納得 している。依頼者 が多 く集 まる よ うにな り、生活が楽 になった頃、夢 の中で声が し て、 「 いただいた布施 の三分 の一は高野 山に、三分 の一は伊勢神宮に供 え、残 りはお前のものにせ よ」
と命 じられ、彼女は現在 もこの指示 に従 っていると
い う 。」 6
二種 の ライ フ ヒス トリー を比べ て大 きな矛盾 はな い。先祖 は仏師であること、主人 を 10 年間看取っ て亡 くしたこと、弘法大師 を信仰 していることな ど、
いただいた布施 の三分 の一は高野山に、三分 の一は 伊勢神宮 に供 え、残 りはお前の ものにせ よ」 と命 じ
られ、彼女は現在 もこの指示 に従 ってい るとい う点 な どである。 これ らは彼女のス トー リーの一貫性 を 物語 るものである。 しか し、先 にのべた よ うに二種 の ライ フ ヒス トリー は話者 と聞 き手 の相互作用 の 上に成 り立ってい るものであるか ら、そ こには若干 のずれがある。長崎市 にある穴弘法の信仰が私の聞 き書 きでは大 きな人生の転機 ( ェ ピファニー) 7 に なってい るのに比べ、佐 々木の場合 はそれ に触れ ら れていない。む しろ、熱心な弘法大師信仰が語 られ ている。佐々木の場合 、只狩 山の御堂での修行が述 べ られているが、私の調査ではそれが欠落 している
。それは、聞き手の属性 、佐 々木は仏教系の大学の教 員であ り、私は地元長崎の大学の教員 であるとい う 点を彼女 は考慮 し、説得力 を強めるためにあるいは、
彼女が とっさに脚色 したものかも知れない。 しか し、
ふつ うの会話 で我 々 自身 も同様 な こ とは行 ってい る。その点だけをもって全て虚構であ り、何の根拠 も持たないもの とした ら、彼女 を当時訪ねていた毎 日 2 0 名 を越 す信者 の存在 は ど う説 明で き るで あ ろ うか。筆者 には民俗宗教の調査者 として、それ ら を全 く捨て去って しま うことはできない。 ライ フヒ ス トリー の聞 き書 きは一つ の リア リテ ィー に収赦 できるものではな く、私がまた別の時に訪ねた時に はまた、 さらに別 のス トー リーが語 られ るか もしれ ない。聞き書 きについては多 くの問題 がすでに論 じ
られてい る
。 8この小論では一つの問題 点のあ りか
を示 す だ けに と どめ て、 将 来 の考 察 にそ な えた
い。
9福 島邦夫
脚注、参考文献
1佐 々木宏幹 「 長崎県五 島の女性祈祷師」『シャー マニズムの人類学』所収 1984 年 、弘文堂
2 北部九州 におけるシャーマ ン的職能者 について‑
特 にその成盛過程 をめ ぐって 『民俗宗教第 5 集 シャ ーマニズムの世界』所収、 1995 年、東京堂出版
3 大橋英寿 『沖縄 シャーマニズムの社会心理学的研 究』 1998 年、弘文堂参照
4 中野卓 『口述の生活史』 1977 年 、お茶 の水書 房刊
5
佐 々木 、前掲書 、p . 1 60
6
佐 々木 、前掲書、p. 1 63‑ 1 6 4
7 桜井厚 『イ ンタビューの社会学』、せ りか書房 、 2 005 年
8
桜井、前掲書
9