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蜀漢・蒋碗政椹の北伐計書について

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蜀漢 ・蒋碗 政権 の北伐 計 書 につ い て(131)

蜀 漢 ・蒋 碗政 椹 の北 伐 計 書 につ いて

満 田

叫 岡

目次

は じめ に

蒋 碗 政権 の 軍事 政 策 と年 譜 蒋 碗 の 職 略 と蜀 漢 ・呉 「同盟 」 延 煕 六 年 一一蒋碗 政権 の實 質 的終 焉

終 わ りに一 陳壽 の 「 蜀 漢 國 史観 」 に 關す る一 考 察

は じめ に

蒋 碗 の北 伐 計 垂 につ い て は,先 行 研 究 に計 書 の存 在 につ い て の 指 摘 は あ る1 もの の,管 見 の 限 り王 夫 之 『讃 通 鑑 論 』 以 外 に 詳細 な考 察 は存 在 して い な い 。 そ の 『 讃 通 鑑 論 』巻 十 ・三 國 で は,次 の よ うに述 べ られ て い る。

蒋 碗 改 諸 葛 之 圖,欲 以 舟 師乗 漢 、 汚 東 下,襲 魏 興 、 上 庸,愈 非 策x。 魏

興 、 上 庸,非 魏 所 侍 爲 巖,而 其 贅 絵 之 地 也 。 縦 克 之   ,能 東 下 裏 、 奨 北

牧 宛 、 雛 乎?不 能 也 。何 也?魏 興 、 上 庸 、 漢 中 東 進 之 飴 険,士 卒 所 葱 以

阻 突騎 之 沖 突,而 依 険 自固,則 出険 而 魂 神 已 掴,固 不 能鍮 闘 限 以與 人 相

搏 也 。 且 舟 師 之 順 流 而 下 也,逸   ;無 與 遇 之 而 戒 心 弛,一 離 乎 水 而 衰 氣

不 足 以 生,必 敗 之 道 也 。 先 主 與 呉 共 争 子 水 而 且 潰,況 欲 以水 爲 勢,而 與

車 騎 箏 干 原 陸 乎?魏 且 履 實 地,資 宿 飽,坐 而 制 之 干 丹 、 清 之 淵,如 蛾 赴

焔,十 捕 而 九亡   。

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劉 裕 之 湖 河 、 潤 以 入 關 中,王 鎭 悪 等 以 歩 騎 馳 撃,而 舟 師 爲 其 纏,非 侍 舟 師 以 孚 人 子 陸 也 。 挑 泓 侍 拓 抜 氏 爲 之 守,拓 抜 氏 不 爲 泓 守,而 泓 弛 其 防, 故 獲 利 焉,非 猫 椅 舟 師 之 利 攻 人 干 千 里 之外 也 。 諸 葛 之 出祁 山,以 守 爲 攻, 即 以 攻 爲 守,知 習 干 瞼 者 之 不 利 干 夷,且 自固 以 待 時 攣,特 不 欲 顯 言 之 以 怠 厭 志 耳 。 碗 移 屯 而 東 西 防 遂 弛,x陰 平 之 祠,自 碗 始   。 碗 疾 動 而不 能 行,司 馬 艶 方 謀 纂 而 未 暇,故 蜀 猶 以 全 。不 然,此 一 墨 而蜀 亡不 旋 踵x。

これ を見 る と,王 夫 之 は 「曹 魏 に とっ て 魏 興 や 上 庸 は贅 鯨 の 地 で あ り,勝 ち と った と ころ で さ らに裏 陽 や簗 城,宛 や 洛 陽 を奪 う こ とはで きな い」 と述 べ, か な り手 嚴 しい 評 憤 を下 して い る 。 さ らに 「蒋 碗 が 魏 興 ・上 庸 攻 略 戦 を行 う こ とが で きず 司馬 艶 が 纂 奪 の 謀 に忙 しか っ た た め に蜀 漢 が 維 持 され た」 と し,

「蜀 漢 滅 亡 の 際 に 陰平 をxに 破 られ て し ま う元 凶 は蒋 碗 に あ る」 と して,蜀 漢 滅 亡 の 原 因 の0部 を蒋 碗 に蹄 して い る。 蒋 碗 の北 伐 計 書 は,こ の よ う な 王 夫 之 の見 方 の 通 りなの で あ ろ うか?

ま た,陳 壽 『三 國 志 』 か ら見 た蒋 碗 政 権 の 成 立 過 程 とそ の性 格 につ い て は, す で に拙 稿 で 論 じた2が,そ こで も指摘 した よ うに 中林 史朗 氏 は延 煕 元 年 の 詔 勅 の

須 呉墨 動,東 西 椅 角,以 乗 其 騒 。

とい う0文 を受 け て,蜀 漢 が 呉 の 動 き を 「主 」 と し,自 らは 「 從 」 の 立 場 を と る よ う に な っ た と し,ま た諸 葛 亮 の死 後 に生 死 を賭 け る よ う な戦 闘 が 行 わ れ な か っ た こ とか ら,諸 葛 亮 の 死 に伴 っ て蜀 漢 政 権 は理 念 上 終 焉 した と述 べ て い る。 ま た,渡 邉 義 浩 氏 も蜀 漢 が 盆 州 土 着 政 権 と化 して 正 統 性 を失 っ て い くこ とへ の 配 慮 を した た め 蒋 碗 の 北 伐 が 計 書 され た と して い る3。 果 た して, 蒋 碗 の北 伐 は 呉 の動 き を 「主 」 と し蜀 を 「從 」 と して い た の で あ ろ うか?ま た 蒋 碗 の 北 伐 は 政 椹 の 正 統 性 へ の 配 慮 の た め だ け に計 豊 され た の で あ ろ う か?本 當 に諸 葛 亮 の死 で も っ て 理 念 上 で も蜀 漢 政 権 は終 焉 して し まっ て い た の で あ ろ うか?

以 上 の よ う な問 題 意 識 を踏 ま え て,本 論 文 で は 陳 壽 『三 國 志 』 本 文 及 び斐

松 之 注(以 下,「 装注」 と略す)に 依 捺 して蒋 碗 政 椹 の 時 期 の 年 譜 を作 成 し彼 の

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蜀漢 ・蒋碗 政 権 の北 伐計 書 につ い て(133) 北 伐 計 書 に つ い て確 認 す る と と もに,陳 壽 『三 國志 』 か ら見 た 蒋 碗 政 灌 の性 格 と彼 の 「蜀 漢 國 史観 」 に つ い て 言 及 して い きた い と考 え て い る。

蒋碗 政権 の軍事 政策 と年譜

蒋 碗 政権 の 政 策 と當 時 の蜀 漢 の 動 き を見 る た め に,建 興 十 二 年(234年)に 諸 葛 亮 が 亡 くな っ て か ら蒋 碗 が こ の世 を去 る延 煕 九 年 十 一 月 まで の年 譜 を作 成 した(〔 表1〕 蜀漢 を中心 とした三國の動向 と天災 ・異民族反乱(234年8月 〜246年 11月))4。

まず は っ き りと わ か る こ と は,先 行研 究 で も指 摘 され て い る と こ ろで あ る が,確 か に蒋 碗 政権 下 で の大 規 模 な軍事 行 動 が ほ とん どな か っ た こ とで あ る5。

しか し,彼 は た だ 輩 に國 力 恢 復 と内 政 充 實 に努 め,守 りに徹 して い た わ けで は な か っ た よ うだ。

延 煕 元 年(238年)に 蒋 碗 は劉 輝 の詔 勅 を受 け て漢 中 に 出 陣 して 開府 して い る。 諸 葛 亮 の 死 後,漢 中 は呉 諮 と王 平 に任 され て い た が,政 権 首 班 が 漢 中 で 指 揮 を執 る膿 制 が 再 び 整 え られ,北 伐 の準 備 に入 っ た の で あ る。 この 直 前 に 遼 東 で 公 孫 淵 が 魏 に叛 旗 を翻 した こ と も北 伐 へ の 好 機 と捉 え られ た 可 能 性 が あ る 。

この 頃 か ら,蒋 碗 の 北 伐 計 壷 が 具 禮 化 して き た と考 え られ る。 こ の計 書 に つ い て は 『三 國志 』巻 四 十 四 蒋 碗傳 に記 され て い る。

碗 以 爲 昔 諸 葛 亮 藪 閣 秦 川,道 瞼 運 難,寛 不 能 克,不 若乗 水 東 下 。 乃 多 作 舟 船,欲 由 漢 、 汚 襲 魏 興 、 上 庸 。 會 奮 疾 連 動,未 時 得 行 。 而 厭 論 威 謂 如 不 克捷,還 路 甚 難,非 長 策 也 。 於 是 遣 尚書 令 費 禧 、 中監 軍姜 維 等 腐 指 。 陳壽 の この 文 章 を そ の ま ま受 け入 れ る と,蒋 碗 に は北 伐 をや る氣 が な か っ た わ け で は な く,む し ろ積 極 的 で あ っ た こ とに な る。 北 伐 は蜀 漢 建 國 以 来 の 國 是 で あ る 。 蒋 碗 は劉 備 ・諸 葛 亮 の 遺 志 をそ の ま ま受 けコ1'ぎ なが ら も,諸 葛 亮

とは異 な った 戦 略 を とろ う と して い た の で あ る。

魏 の 正 始 二 年,呉 の赤 烏 四 年,そ して蜀 漢 の延 煕 四 年(241年),漢 中 に あ っ

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た 蒋 碗 は 漢 水 ・河 水 を下 っ て 魏 興 ・上 庸 攻 略 を 目指 して 軍 を 進 め よ う と し た6。 實 は,こ の 蒋 碗 の 計 書 を實 行 しよ う と した 前 後 に,『 三 國志 』 巻 四 十 四 姜 維 傳 に

碗 既 遷 大 司馬,以 維 爲 司 馬,数 率 偏 軍 西 入 。 とあ り,ま た 『華 陽 國志 』 巻 七劉 後 主志 に も

輔 漢 將 軍 姜 維 領 大 司 馬 〔司馬 〕,(是 歳)西 征 入 莞 中。

とあ る よ う に,蒋 碗 は延 煕 二 年 を は じめ と して西 方 の地 理 に 明 る か っ た で あ ろ う姜 維 を た び た び涼 州 方 面 へ 出 撃 させ て い る。 そ れ も 「大 司 馬 府 の 司 馬 」

と して,で あ る。 こ れ は 「姜 維 が 蒋 碗 の 指 示 の 下 に西 方 に出 撃 した 」 とい う こ と を意 味 す る。 この 時 期 の 蒋 碗 と費 禧 ・姜 維 の 間 に は少 な く と も官 職 上 で は比 べ 物 に な らな い ほ どの 差 が あ り,蒋 碗 は諸 葛 亮 の よ うな 官 職 と権 力 を握 って い た 。7ま た,蒋 碗 は後 に政 権 首班 とな っ た 費緯 の よ うに,姜 維 をお さ え

きれ な い か ら兵 を小 出 しに して 出 撃 させ て い るわ けで は な い と考 え られ る8。

以 上 の黒占を踏 ま え て 考 え る と,こ の 時 期 の姜 維 は魏 興 ・上 庸 攻 略 戦 を念 頭 に 置 い た 別 動 隊 を指 揮 して い た と考 え る の が 適切 で あ ろ う。 「そ れ まで 諸 葛 亮 が 北 伐 を行 っ て きた魏 の 雍 州 ・涼 州 方 面 へ こ れ か ら も蜀 漢 の 北 伐 が 行 わ れ る」

と魏 へ 印 象付 け る牽 制 と して派 遣 され た もの と思 わ れ る。

しか し,結 局 蒋 碗 の 魏 興 ・上 庸 攻 略 計 書 は 中止 に 追 い 込 ま れ て し ま う。 北 伐 中止 の 理 由 に つ い て 考 え る際 に,『 三 國 志 』 蒋 碗 傳 に あ る記 述 に よ く注 意 し

て見 る必 要 が あ る。 重 複 す るが,も う一度 引用 した い 。

會 奮 疾 連 動,未 時得 行 。 而 罧 論 成 謂 如 不 克捷,還 路 甚 難,非 長 策 也 。 この 文 章 を見 る と,ま ず 先 に蒋 碗 の 持 病 が 起 こ っ た た め に 實 行 で きず,績 い て 反 封 派 が 多Xで あ っ た と さ れ て い る 。 こ の 陳 壽 の 文 章 か らす る と,北 伐 中 止 の 主 要 因 は蒋 碗 の 病 で あ り,そ れ が 引 き金 と な っ て劉 暉 の 聖 旨 が 下 され た と考 え られ る。 つ ま り,蒋 碗 の病 が な け れ ば,押 し切 っ て 北 伐 を行 う可 能 性 が あ っ た とい う こ とに な る。

と こ ろ で,漢 水 ・汚 水 を下 っ て魏 興 ・上庸 を狙 う とい う蒋 碗 の 北 伐 計 垂 に

限 らず,そ もそ も蜀 漢 の 北 伐 計 書 に とっ て重 要 な要 素 は呉 の 動 きで あ る。 蒋

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蜀 漢 ・蒋碗 政権 の北 伐計 書 につ い て(135) 碗 の 漢 中へ の 出 陣,開 府 に際 して,先 に引 用 した 『三 國志 』 巻 四 十 四 蒋 碗 傳

に あ る劉 輝 の詔 勅 の 「 呉 の基 動 を須 ち て」 とい う一 文 もあ る。

そ こで,蒋 碗 の 北 伐 計 書 が 實 行 され か け た 延 煕 四 年 の 呉 の 軍事 行 動 を確 認 して お きた い 。 『三 國 志 』 呉 書 本 文 と斐 注 を見 る と,蒋 碗 の北 伐 計 書 の記 載 が あ る この年 に確 か に呉 も魏 へ の軍 事 行 動 を敢 行 して い た こ とが わ か る。 『三 國 志 』 巻 四十 七 呉 主 傳(以 下,r呉 主傳』 と略す)に は

四年 … …夏 四 月,遣 衛 將 軍 全 珠 略 潅 南,決 葛 肢,焼 安 城 邸 閣,牧 其 人 民 。 威 北 將 軍 諸 葛 恪 攻 六 安 。 珠 與 魏 將 王 凌 職 干 布 阪,中 郎 將 秦 晃 等 十 鯨 人戦 死 。 車 騎 將 軍 朱 然 園簗,大 將 軍 諸 葛 理 取 祖 中 。 五 月,… …是 月,i魏 太 傅 司 馬 宣 王 救 焚 。 六 月,軍 還 。

とあ る。 この件 につ い て 「三 國志 』 巻 四 齊 王 紀 に は

二 年 … … 夏 五 月,呉 將 朱 然 園 嚢 陽 之 奨 城,太 傅 司 馬 宣 王 率 衆 拒 之 。 六 月 辛 丑,退 。

とあ り,こ の文 章 に注 され て い る干 寳 『苦 紀 』 に は

呉 將全 踪 冠 有 肢,朱 然 、 孫 倫 五 萬 人 園簗 城,諸 葛 理 、歩 驚 冠 租 中;珠 巳 破 走 而 奨 園 急 。 宣 王 日:「 祖 中民 夷 十 萬,隔 在 水 南,流 離 無 主,焚 城 被 攻,歴 月不 解,此 危 事 也,請 自討 之 。」 議 者 成 言:「 賊 遠 園焚 城 不 可 抜, 挫 干 堅城 之 下,有 自破 之 勢,宜 長 策 以 御 之 。」 宣 王 日:「 軍 志 有 之1將 能 而 御 之,此 爲 魔 軍;不 能 而 任 之,此 爲 覆 軍 。 今 彊 場 騒 動,民 心 疑 惑,是 社 稜 之 大憂 也 。」六 月,督 諸 軍 南 征,車 駕 送津 陽 城 門外 。宣 王 以 南 方 暑灌, 不 宜 持 久,使 輕 騎 挑 之,然 不 敢 動 。 於 是 乃 令 諸 軍 休 息 洗 沐,簡 精 鋭,募 先 登,申 號 令,示 必 攻 之 勢 。 然 等 聞之,乃 夜 遁 。 追 至 三 州 口,大 殺 獲 。 とあ る9。

五 月,呉 が 動 き始 め た。 衛 將 軍全 珠 が 葛 肢 に侵 入 し,威 北 將 軍 諸 葛 恪 は六

安 を攻 め,車 騎 將 軍 朱 然 らの 率 い る五 万 の 軍 勢 が 嚢 陽 郡 の簗 城 を包 園,大 將

軍 諸 葛 理 ・願 騎 將 軍 歩 驚 が租 中 に侵 入 した の で あ る。 そ れ に,.し て 魏 は,王

凌 ・孫 禮 ・胡 質 ら を派 遣 して 防 ぎ とめ た 。 全 珠 が 退 却 した 後 も奨 城 の包 園 は

嚴 しか っ た た め,六 月 に司 馬幣 自 らが 出陣 して朱 然 ら を撃 退 した の で あ る。

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『三 國志 』..二 十 四孫 禮傳 に は

明 帝 臨 崩 之 時,以 曹 爽 爲 大 將 軍,宜 得 良佐,於 床 下 受 遺 詔,拝 禮 大 將 軍 長 史,加 散 騎 常 侍 。 禮 亮 直 不 撹,爽 弗便 也,以 爲 揚 州刺 史,加 伏 波 將軍, 賜 爵 關 内侯 。 呉 大 將 全 珠 帥X萬 駅 來 侵 冠,時 州 兵 休 使,在 者 無 幾 。 禮 躬 勒 衛 兵 禦 之,職 於 葛 肢,自 旦 及 暮,將 士 死 傷 過 半 。 禮 犯 路 白刃,馬 被 数 創,手 乗 抱 鼓,奮 不 顧 身,賊 鍬 乃 退 。 詔 書 慰 勢,賜 絹 七 百 匹。 禮 爲 死 事 者 設 祀契 臨,哀 號 獲 心,皆 以 絹 付 亡 者 家,無 以入 身 。

とあ り,魏 の側 に とっ て も全 珠 の 軍 を防 禦 す る こ とが 樂 な こ と で は な く,干 寳 『晋 紀 』 に お い て 議 者 が 述 べ て い る よ うな簗 城 防 衛 に 關 す る封 慮 に は 問題 が なか った とは言 い切 れ な い こ とが 理 解 で き る10。

魏 の正 始 二 年 當 時 の 司 馬 諮 は 『 三 國志 』‑‑四 齊 王紀 に

景 初 三 年 … … 丁 丑 詔 日:「 太 尉 膿 道 正 直,壼 忠 三 世,南 檎 孟 達,西 破 蜀 虜,東 滅 公 孫 淵,功 蓋 海 内 。 昔 周 成 建 保 傅 之 官,近 漢 顯 宗 崇 寵 郵 禺,所 以優 隆篤 又,必 有 尊 也 。 其 以 太 尉 爲 太 傅,持 節 統 兵 都 督 諸 軍事 如 故 。」

とあ る よ うに,節 を与 え られ て そ れ まで どお り軍 事 を取 り仕 切 る こ と を認 め られ て は い た とは い え,曹 爽 に よ っ て 太 傅 に祭 り上 げ られ て い た 。 そ の 司 馬 酪 が,こ の 時 の 呉 の進 攻 に際 して は 自 ら望 ん で 焚 城 に 出 陣 した の で あ る。 彼 に よ る と 「現 場(焚 城)に 指 揮 す る者 が い な い う え に,遠 隔統 御 で は國 家 の大 難 を乗 り切 る こ とが で きな い た め」 とい う こ とに な る。 確 か に遠 隔 操 作 で は 軍 の指 揮 が 非 常 に 難 し くな る し,迅 速 な封 鷹 が で きな い で あ ろ う。 そ の 上, 呉 の 遠 征 軍 も大 將 軍 諸 葛 理,願 騎 將 軍 歩 鷲,車 騎 將 軍 朱 然,衛 將 軍 全 珠,威 北 將 軍 諸 葛 恪 とい う鐸 々 た る將 軍 をそ ろ え て い た 。 加 え て,そ の背 後 に荊 州 の 抑 え と して控 え て い る の が 呉 の切 り札 と も言 え る上 大 將 軍 陸 遜 と な れ ば, 魏 に とっ て確 か に 「國 家 の大 難 」 で あ っ た ろ う。 だ が,理 由 は そ れ だ け だ ろ

うか?名 誉 職 に祭 り上 げ られ た 司 馬 諮 が 出 撃 す る の は,ど う考 え て も尋 常 で は な い。

呉 は荊 州 の 糞 城 を攻 め,蜀 漢 は そ れ まで とは職 略 を変 え て漢 水 ・汚 水 を下

っ て 同 じ荊 州 の魏 興 ・上庸 を攻 略 しよ う と水 軍 を動 か し始 め て い た 。 しか も,

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蜀漢 ・蒋 碗 政灌 の北 伐計 書 につ い て(137) 漢 水 を さ らに 下 っ て い け ば,そ の 先 は嚢 陽 ・焚 城 に通 じて い た 。 以 上 の こ と か ら考 え る と,蒋 碗 は,蜀 漢 と呉 に よ る荊 州 にお け る直 接 的 な封 魏 挟 撃 作 戦 を思 い 描 い て い た の で は な い だ ろ うか 。 假 に も諸 葛 亮 の 衣 鉢 を受 け縫 い だ 蒋 碗 と もあ ろ う者 が,蜀 漢 軍 猫 で 北 伐 をす る よ うな勝 ち め の な い 職 い は しな か った で あ ろ う。 諸 葛 亮 以 来 の 傳 統 的 な 軍 事 ・外 交 政 策 の要 で あ る呉 との 同盟 關 係 を駆 使 し,諸 葛 亮 政権 期 とは違 い 直 接 的 に荊 州 にお い て魏 を挾 撃 す る一 これ が彼 の作 戦 だ っ た の で は ない だ ろ うか 。 蜀 漢 の 側 か らす る と,魏 興 ・上 庸 か らそ の ま ま漢 水 を下 っ て焚 城 に至 っ て 呉 軍 と合 流 もで き る。 奨 城 か ら新 野,そ して魏 の 都 洛 陽 は そ れ ほ ど遠 くな い 。 諸 葛 亮 の北 伐 以 降,敷 少 な い 勝 機 を何 とか見 出 そ う と して この よ う に 「呉 の基 動 を須 」 つ よ う な荊 州 に お け る直接 的 な封 魏 挟 撃 戦 略 を取 っ た の で あ ろ う。

しか し,ど うや ら蒋 碗 と呉 との 間 に は事 前 協 議 が 行 わ れ て い な か っ た よ う で あ る。 『 呉 主傳 』斐 注 『漢 晋 春 秋 』 に は,零 陵太 守 の股 禮 の上 書 と して,

零 陵太 守 股 禮 言 於権 日:「 今 天棄 曹 氏,喪 諌 累 見,虎 孚 之 際 而 幼 童 萢 事 。 陛 下 身 自御 戎,取 乱 侮 亡,宜 條 荊 、 揚 之 地,墾 彊二 巌 之 敷,使 彊者 執 戟, 廠 者 韓 運,西 命 盆 州 軍 干 朧 右,授 諸 葛 理 、 朱 然 大 衆,指 事̲i.陽,陸 遜 、 朱 桓 別 征 壽 春,大 駕 入 准 陽,歴 青 、 徐 。嚢 陽 、 壽 春 困於 受 敵,長 安 以 西 務 封 蜀 軍,許 、 洛 之 厭 勢 必 分 離;椅 角 瓦 解,民 必 内1.4..E,將 帥封 向,或 失 便 宜;一 軍 敗 績,則 三 軍 離 心,便 當 秣 馬 脂 車,陵 躇 城 邑,乗 勝 逐 北,以 定 華 夏 。 若 不 悉 軍 動 厭,循 前 輕 基,則 不 足 大 用,易 於 屡 退 。 民 疲 威 消, 時 往 力 蜴,非 出兵 之 策 也 。」 権 弗 能用 之 。

とあ り,ま た 『 呉 主傳 』 の 歩 驚 ・朱 然 の上 疏 に は,

七 年 春 正 月 … …是 歳,歩 驚 、 朱 然 等 各 上 疏 云:「 自蜀 還 者,成 言 欲 背 盟 與 魏 交 通,多 作 舟 船,繕 治 城 郭 。 又 蒋 碗 守 漢 中,聞 司 馬 諮 南 向,不 出 兵 乗 虚 以 椅 角 之,反 委 漢 中,還 近 成 都 。 事 巳 彰 灼,無 所 復 疑,宜 爲 之 備 。」

権 揆 其 不 然,日:「 吾 待 蜀 不 薄,聰 享 盟 誓,無 所 負 之,何 以 致 此?又 司

馬 整 前 來 入 紆,旬 日便 退,蜀 在 萬 里,何 知 緩 急 而 便 出兵 乎?昔i魏 欲 入 漢

川,此 間 始 嚴,亦 未 學 動,會 聞魏 還 而 止,蜀 寧 可 復 以 此 有 疑 邪?又 人 家

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治 國,舟 船 城 郭,何 得 不 護?今 此 間 治 軍,寧 復 欲 以 禦 蜀 邪?人 言 苦 不 可 信,朕 爲 諸 君 破 家 保 之 。」 蜀 寛 自無 謀,如 灌 所 簿 。

とあ る。 孫 権 は 「蜀 漢 が 寝 返 っ て魏 と同 盟 を 結 ぼ う と して い る 」 とい う歩 鷲 ・朱 然 の上 疏 に は心 を動 か され る こ と もな く,「蜀 に は そ う した企 てが ない」

と判 断 し,實 際 そ の推 察 どお りで あ っ た,と 記 され て い る 。

これ らか らわ か る こ とは,「 蜀 漢 は諸 葛 亮 在 世 時 の よ うに 朧 右 へ 出 撃 す る」

とい うの が 呉 の 朝 廷 に お け る 蜀 漢 の 戦 略 に 封 す る見 解 で あ っ た とい う こ とで あ る。 つ ま り,蒋 碗 は 公式 に は呉 との 事 前 協 議 は行 っ て い な か った の で あ る。

た だ,こ れ は蜀 漢 内 部 の こ と を考 え れ ば 納 得 で き る こ とか も しれ な い 。 次 章 で も述 べ るが,蜀 漢 内 部 の 意 見 は 蒋 碗 の 戦 略 に反 封 で あ り,そ れ 以 上 に蒋 碗 自身 が 病 に倒 れ て い た の で あ る 。 そ ん な状 態 で 呉 に封 して は っ き りし た約 束 は で きな か っ た と思 わ れ る 。 そ れ に,呉 が い か に あ て に な ら ない か は 諸 葛 亮 存 命 の と きか ら理 解 で きた こ とで あ ろ う。 この こ とが 呉 と連 携 を取 っ て い なか っ た理 由 の ひ とつ で は ない か と思 われ る。

と は い え,蒋 碗 の 漢 中 出 陣 の 際 に劉 暉 が 下 した 詔 勅 に呉 の 動 き と呼 磨 して 出 撃 せ よ とあ る こ とか らす る と,蒋 碗 は事 前 協 議 を して い な か った と して も 呉 の 出 撃 を 意 識 しな が ら北 伐 を進 め よ う と した 可 能 性 が 指摘 で き る。 ま た, 段 禮 や 歩 鷺 ・朱 然 は知 らなか っ た と して も呉 と蜀 漢 の 同 時 出 撃 案 につ い て孫 権 は 知 っ て い た,も し くは 隠 密 裏 に蒋 碗 と の事 前 協 議 を行 っ て い た 可 能性 も

否 定 で きな い。

司 馬 幣 は呉 や 蜀 漢 の こ れ らの 動 きを見 て 動 い た 可 能性 もあ る。 も し焚 城 が 落 と さ れ れ ば,そ れ だ け で も魏 は危 機 に 陥 る の に,そ れ に加 え て蜀 漢 が 荊 州 に 向 け て動 き始 め て い る。 挟 撃 作 戦 を未 然 に絶 つ た め に"太 傅"の 司 馬酪 が わ ざわ ざ出 陣 した と見 る こ とが で きる ので は な い だ ろ うか 。

蒋 碗 の 職 略 と蜀 漢 ・呉 「同 盟 」

こ こ まで 述 べ た こ とか ら把 握 で きる蒋 碗 の職 略 の特 徴 と して,戦 略 の 地 理

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蜀 漢 ・蒋 碗 政権 の北伐 計 書 につ いて(139) 的 中心 が 涼 州 方 面 か ら荊 州 方 面 に 移 っ て い る こ とが 指 摘 で きる。 た だ,こ れ は諸 葛 亮 の 北 伐 以 前 の 荊 州 を め ぐる箏 奪 戦 に再 び足 を踏 み入 れ よ う と して い た こ と を意 味 して い る と思 われ る。

そ もそ も荊 州 の 地 は曹 操 の 南 下 以 降 三 國 が 争 奪 を繰 り広 げ た地 で あ り,当 時 の 軍 事 的 要 衝 で あ った こ とは否 定 で き な い で あ ろ う。 この 地 をめ ぐって 三

國 は微 妙 な駆 け 引 き を繰 り広 げ て い た が,そ の 中 で蜀 漢 は 關 羽 の 敗 死 に は じ ま り,張 飛 ・劉 備 を は じめ幾 多 の将 兵 と と もに,結 局 荊 州 を失 う こ と と な っ た。 諸 葛 亮 は呉 との外 交 で は協 調 路 線 を取 り,魏 へ の攻 撃 は荊 州 方 面 へ は 出 な い で,漢 中か ら長 安 以 西 を狙 う職 略 を取 っ た 。 も っ と も,第 一 次 北 伐 で は 新 城 を治 め て い た孟 達 を勧 誘 して お り(結 局,司 馬麓 に阻 まれて しまった)11,荊 州 方 面 へ 出 よ う と しな か っ た わ け で は な い 。 と は い え,呉 と争 っ て で も荊 州 方 面 に 出 よ う と は しな か った こ とは疑 い な い。

しか し,蒋 碗 の 戦 略 は 「そ れ まで 諸 葛 亮 が 北 伐 を行 っ て い た 西 北 方 面 に姜 維 を派 遣 し牽 制 させ て お い て,主 力 は漢 水 ・汚 水 を下 る」 とい う もの で,し か もそ れ の戦 略 は呉 の朝 廷 も(少 な くとも公式には)把 握 して い ない もの で あ っ

た。 先 に述 べ た よ うに,呉 の 將 帥 は,蜀 漢 の 蒋 碗 が 軍 事 同盟 の 発 動 に 際 して 諸 葛 亮 と同様 に漢 巾 か ら北 上 す る と考 え て い た の で あ る。 とい う こ とは,蒋 碗 の戦 略 は 敵 國 の 魏 だ け で な く同盟 國 の呉 の 豫 想 も覆 して,結 果 と して呉 と 荊 州 を挟 撃 し,一 部 で あ っ て も荊 州 を奪 う とい う 「漁 夫 の 利 」 を得 て,載 局

を打 開 し よ う と した とい う見 方 が で きる12。

また,そ れ まで は あ て に な らな か っ た呉 のA略 に蜀 漢 は苦 しめ られ て き た わ け で あ る が,荊 州 方 面 に職 略 の 中心 を移 す こ とで 真 の 意 味 で の 共 同作 職 が 可 能 と な り,そ れ に よ って(少 な くとも)u・ 局 を変 化 させ よ う と蒋 碗 は考 えた の で は ない だ ろ うか 。

しか し,結 局 荊 州 へ の 出 撃 は未 遂 の ま ま終 わ っ て しま っ た 。 蜀 漢 は本 格 的

に動 くこ とは で き なか っ た の で あ る。 しか も,先 に引 用 した文 章 の通 り,北

伐 中止 の 聖 旨 を蒋 碗 に傳 え た の は な ん と後 纏 者 とな っ て い く費 緯 と姜 維 だ っ

た の で あ る。彼 らが 蒋 碗 を 「さ とす に及 び」13北 伐 を 中止 させ た の で あ る。

(10)

{].40)

彼 らが 蒋 碗 の北 伐 を推 進 す る側 にい た か ど うか,は っ き り と した こ と は わ か らな い 。 た だ,斐 注 に引用 され た 史 籍 で は あ るが,『 三 國 志 』 巻 四 十 四 姜 維 傳 斐 注所 引 『漢 晋 春 秋 』 に は

吾 等 不 如 丞 相 亦 已 遠   ,丞 相 猶 不 能 定 中夏,況 吾 等 乎!且 不 如 保 國 治民, 敬 守 肚 稜,如 其 功 業,以 侯 能者,無 以 爲 希 翼 微 倖 而 決 成 敗 於 一 墨 。 若 不 如 志,悔 之 無 及 。

とあ る。 政椹 首 班 とな っ て か らの費 緯 が は や る姜 維 を抑 え るた め の 発 言 だ が, これ に加 えて,『 三 國 志 』 巻 四 十 五 姜 維 傳 にあ る よ うに 費緯 は姜 維 に常 に一 萬 人 以 上 の 兵 を与 え な か っ た こ とか ら も,蒋 碗 没 後 の費 禧 の 方 針 は 專 守 防衛 で あ った こ とが わ か る。 こ の こ とか ら考 え る と,彼 が 蒋 碗 の 北 伐 を推 進 して い たか ど うか は非 常 に疑 わ しい 。

一 方 ,姜 維 は ど う考 え て い た の だ ろ うか 。 費 禧 の 没 後,彼 が 中 心 に な っ て 内政 も顧 み な い よ う な北 伐 が 度 々行 わ れ るが,そ の ル ー トは い ず れ も諸 葛 亮 北 伐 の ル ー トと さ して 変 わ らな い 。 ど うや ら諸 葛 亮 の 北 伐 ル ー トに封 す る こ だ わ りと西 北 方 面 の 地 理 を よ く知 っ て い る とい う 自負 が これ に か らん で い る よ うで あ る。 加 え て,先 に も指 摘 した よ うに,姜 維 は魏 興 ・上 庸 攻 略職 の別 働 隊 を指 揮 して い た 可 能 性 が 高 い 。 以 上 の こ とか らす る と,姜 維 も蒋 碗 の北 伐 を積 極 的 に推 進 す る側 で あ っ た か ど うか は わか らな い が,仮 に反 封 で あ っ て もそ れ は侵 攻 ル ー トに封 す る 反封 で あ っ て,北 伐 自膿 に封 す る反 封 派 で は な い と こ ろが 費 緯 とは違 う と ころ で あ る。

た だ,少 な く と も言 え る こ とは,蒋 碗 の北 伐 に 際 して費 禧 と姜 維 は 少 な く と も主 た る役 割 を担 っ て お らず,(特 に費禧 は)と もす る と反 封 派 で あ っ た 可 能 性 が あ る とい う こ とが わ か る。

こ こ まで 述 べ て きた よ う に,蒋 碗 に北 伐 の 意 志 は あ り,行 動 に も移 した わ

け で あ るが,諸 事 情 の た め 本 格 的 に北 伐 を強 行 す る こ とは で き なか っ た。 蒋

碗 が 病 に倒 れ た り,そ れ もか らん だ た め で あ ろ うが 北 伐 反 封 派 を抑 え る こ と

が で き なか っ た り した 。 さ らに,こ ち らの ほ うが 重 要 か も しれ な い が,諸 葛

亮 の死 に よる 國 内 の 動 揺 を静 め,な お か つ 北 伐 を同 時 に遂 行 しな け れ ば な ら

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蜀漢 ・蒋碗 政権 の北 伐計 書 につ い て(141) なか っ た苦 し さが あ っ た。

蒋 碗 政 権 にお い て も諸葛 亮 政 権 と同様,統0に 向 け て の 北 伐 を敢 行 す る と い う蜀 漢 國 の 國是 を果 た す 「 正 統 な後 纏 者 」 た らん と した蒋 碗 と 「 蜀 の地 を 守 っ て くれ る だ け で い い 」 とい う巴蜀 の 豪 族 達 との 問 の 相 克 が くす ぶ り績 け て い た と考 え られ る。 た だ,蒋 碗 が 軍 を握 り,諸 葛 亮 の 基 本 政 策 を ほ とん ど そ の ま ま受 け縫 い だ政 治 を行 っ て い た た め に,豪 族 達 も表 立 っ た非 難 は起 こ せ なか っ た の で あ ろ う。

蒋 碗 政 権 の 特 徴 を整 理 す る と,諸 葛 亮 政 権 の よ うに 首 班 の 蒋 碗 一 人 に権 力 が 集 中 して お り,猫 裁 と もい え る よ う な状 況 で あ っ た こ とが まず 指 摘 で きる。

しか し,蒋 碗 自身 に諸 葛 亮 の よ うな"絶 封 権 力"を 築 こ う とい う意 志 が あ っ た か ど うか は わ か らな い 。 彼 は盆 州 刺 史 の役 職 を就 任 當 初 か ら譲 りた が っ て い た し,自 ら望 ん で得 た猫 裁 的 な"絶 封権 力"で は なか っ た こ と を考 え る と, む しろ,そ の氣 が なか っ た とい っ た方 が い い の か も しれ ない 。14加 えて,こ れ も諸 葛 亮 と同様 で あ る が,蒋 碗 は漢 中 に 開 府 し 「漢 中 に進 駐 しな が ら も成 都 朝 廷 を完 全 に掌 握 し,内 政 ・封 孫 呉 外 交 を リモ ー トコ ン トロー ル し」15て い た

と考 え られ る。

この よ う な膿 制 の 中 で,董 允 の存 在 が 大 きな もの で あ っ た こ とが 指 摘 で き る。 諸 葛 亮 は彼 を侍 中 に任 命 して い た が,彼 は劉 暉 を監 視 し,「 出 師 表」 に あ る"宮 中府 中倶 にr.:T,た り"と い う方 針 を現 實 の もの と して い た と考 え られ る 。 實 際,彼 が 生 きて い る 間 は劉 暉 が 安 逸 に耽 る こ と もな か っ た 。 だ か ら こ そ 官 職 は蒋 碗 ・費 緯 とは比 較 に な らな い が,諸 葛 亮 ・蒋 碗 ・費 緯 と と も に 四 英 ・四 相 と評 され た16の で あ ろ う。 董 允 は蒋 碗 とほ ぼ 同 時 期 に死 去 して い る。

宮 中 の 要 職 に あ る人 間 で劉 輝 の 享 樂 へ の 陶 醇 を遮 る もの が な くな っ た こ と を 意 味 して い た と見 られ る17。

延 煕六年一 蒋碗 政権 の實 質的終 焉

延 煕 六 年 十 月,蒋 碗 は 漢 中 か ら浩 に蹄 還 す る。 そ して 十 〇 月,蒋 碗 政 権 に

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(142)

お い て は延 煕 元 年 の 改 元 以 来 の大 赦 が 行 わ れ18,そ の直 後 費 緯 は大 將 軍 録 尚書 事 に昇 進 した 。 蒋 碗 が 政 務 を果 た せ な くな っ たか らで あ ろ う。 こ の 時黙 で蜀 漢 帝 國 の實 灌 は費 緯 に移 り,蒋 碗 政 権 は終 焉 を迎 えた の で あ る19。

これ 以 降,費 緯 が 政 権 首 班 とな っ た政 権 が 成 立 す るが,そ の 政権 に は諸 葛 亮 政権 や 蒋 碗 政 椹 との 明 確 な違 い が あ っ た。 先 に も指 摘 した よ う に,諸 葛 亮 政 椹 や 蒋 碗 政椹 で は 政権 首 班 者 の み に官 職 上 の権 力 が 集 中 して い たが,『 三 國 志 』 巻 四 十 四姜 維 傳 に

〔 延 煕 〕 十 年,遷 衛 將 軍,與 大 將 軍 費 緯 共 録 尚書 事 。

とあ る よ う に,録 尚書 事 に就 任 した人 物 と して 費 緯 だ け で な く姜 維 が 存 在 し て い た(蒋 碗が没 した翌年 〔247年〕に就任)こ とで あ る。 この こ とを重視 す れ ば, 蒋 碗 没 後 の 蜀 漢 は 費 偉 ・姜 維 政権 に よっ て担 われ た こ とに な る。 また,『 三 國 志 』 巻 三 十 三 後 主傳 斐 注所 引 『 魏 略 』 に は

碗 卒,輝 乃 自撮 國事 。

とあ る こ とに加 えて,費 禧 が 漢 壽 に開 府 した の は 延 煕 十 五 年(252年)に な っ て か らで あ る20。 これ らの 記事 も考慮 す る と,費 禧 ・姜 維 政椹 で は諸 葛 亮 ・蒋 碗 の よ う な独 裁 的 な椹 力 を掌 握 した 人 物 が い なか っ た とい う こ とに な りそ う

で あ る。

これ 以 降 の 費 緯 と姜 維 の 政 治 姿 勢 は,劉 備 ・諸 葛 亮 ・蒋 碗 の 三 代 に比 べ る と,非 常 に極 端 で あ り柔 軟 性 を欠 い た もの で あ る。 費 緯 ・姜維 政 権 の 中 で も, 費 緯 は守 勢 化 して し ま い,封 して 姜 維 は北 伐 に積 極 的 な姿 勢 を示 して い る 。 この 二 人 の 方 向性 の封 立 の 中 で,蜀 漢 は 滅 亡 へ の 道 を走 りは じめ る こ と とな る。

蜀 漢 が この 世 に存 在 し績 け る た め に は,何 の た め に蜀 漢 とい う國 が 存 在 し

て い るの か を常 に問 い績 け る こ と を怠 って は な らなか っ た の で あ る21。 そ れ は

単 に 「漢 王 朝 を復 興 す る」 だ け で は説 得 力 を持 た ず,諸 々 の 人 々 の た め で あ

る こ と を行 動 で 示 さね ば な らな か っ た22。 費 禧 の場 合 は,外 征 を控 え る こ とで

魏 に勝 つ た め の 可 能 性 を絶 っ て しま っ た 。 姜 維 の 場 合 は理 念 が 先 走 っ た た め

か,少 な く と も結 果 と して 「軍 の 軍 に よ る軍 の た め のu・争 」 と言 わ れ て も仕

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蜀 漢 ・蒋碗 政権 の北 伐計 豊 につ い て(143) 方 な い よ う な北 伐 を頻 繁 に行 った の で あ る 。 彼 らは蜀 漢 國 存 在 の 意 義 で あ る

「漢 朝復 興 」 とい う國 是 ・建 國 理 念 を本 氣 で 行動 に移 そ う と して い た の で あ ろ うか 。

この よ う に見 る と,蒋 碗 の死 に よ っ て諸 葛 亮 の 「正 統 な後 縫 者 」 が 蜀 漢 か ら姿 を消 し,蜀 漢 自罷 が そ の存 在 意 義 と もい え る國 是 と建 國 の 理 念 を忘 れ 去 っ て し まっ た と考 え られ る。 そ して,そ れ が 決 定 的 と な っ た 年 が 延 煕 六 年 だ っ た の で あ る。

蜀 漢 國 にお い て,劉 備 ・諸 葛 亮 ・蒋 碗 と三 代 に わ た っ て 國 是 ・建 國 理 念 が 受 け 纏 が れ て い た 時 代 は,様 々 な 問 題 を抱 え な が ら も國 家 と して の ま と ま り を見 せ て お り,一 面 か ら見 れ ば盤 石 の 状 態 で あ っ た。 しか し,國 是 を有 名 無 實 化 して しま っ た 費 緯 ・姜 維 の 時 に政 策 の 極 端 化 が お こ り,國 を滅 亡 に 導 い て い っ て し まっ た。

蒋 碗 治 世 の 十 二 年 間 は,蜀 漢 が 劉 備 ・諸 葛 亮 以 来 の 國 是 を形 骸 化 し忘 れ 去 る過 程 で あ っ た。 蒋 碗 は,"漢 朝 復 興"と い う建 國 の理 想 をそ の ま ま受 け纒 こ う と した,い わ ば"正 統 な後 縷 者"で あ っ た 。 費 緯 ・姜 維 政権 の 時 代 に は, 諸 葛 亮 政椹 時 代 の よ う な本 格 的北 伐 を行 う意 圖す らなか っ た こ とを考 え る と, 諸 葛 亮 が 後 纏 者 と して 第 一 に蒋 碗 を指 名 した の は,真 の 後fl'者 が 蒋 碗 しか い な い と判 断 した た め で あ ろ うか 。

終 わ りに一 陳壽 の 「 蜀 漢 國 史 観 」 に關 す る一 考 察

蒋 碗 政権 期 にお け る魏 へ の軍 事 行 動 は ほ とん どなか っ た が,延 煕 四 年(241 年)の 動 きに見 られ る よ う に蒋 碗 の 北 伐 計 書 は諸 葛 亮 とは異 な って い る もの で あ っ た 。 蒋 碗 の 計 書 は 「そ れ まで 諸 葛 亮 が 北 伐 を行 っ て い た西 北 方 面 に姜 維 を派 遣 し牽 制 させ て お い て,漢 中 か ら魏 興 ・上 庸 に 向 け て漢 水 ・汚 水 を下 る」

とい う もの で,当 時 の呉 の 北 伐 の 動 き(こ ち らは實際 に軍事 行動 を起 こ した)も

考 慮 す る と,共 に裏 陽 ・焚 城 を狙 う 目的 が あ っ た と考 え られ る 。 た だ し,呉

との 間 に は事 前 の 協 議 は無 か っ た よ うで,蜀 漢 は呉 の 動 き に便 乗 す る 形 で

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攻 撃 を謀 っ た よ う に見 受 け られ る。 魏 の 側 で は この年 の 呉 の 軍 事 行 動 に封 し て 太 傅 と な っ て い た 司 馬 灘 が 反 封 意 見 を 退 け て 自 ら出 陣 して 防 い で い る が,

これ は呉 の動 き以 外 に も蒋 碗 の計 書 に氣 つ い て い た た め で あ る可 能性 もあ る。

しか し,結 局 蜀 漢 は 蒋 碗 の病 と多 数 の北 伐 反 封 派 の 意 見 に よっ て 北 伐 を敢 行 で きず,費 緯 と姜 維 が 蒋 碗 を諭 して断 念 させ た の で あ る。

蒋 碗 政 灌 の特 徴 と して は諸 葛 亮 政 権 の よ う に首 班 の 蒋 碗 一 人 に権 力 が 集 中 して お り,猫 裁 と もい え る よ うな状 況 で あ っ た こ と,蒋 碗 は漢 中 に 開 府 しな が らも内 政 ・封 孫 呉外 交 を リモ ー トコ ン トロー ル して い た こ とが 學 げ られ る。

封 照 的 に,蒋 碗 没 後 の 費 緯 が 首 班 と な っ た 政権 で は,録 尚 書 事 に費 禧 だ け で な く姜 維 も就 任 して い る こ とや(r魏 略』 による と)蒋 碗 没 後 は劉 輝 が 自 ら國事 を撮 っ た こ と,費 緯 が 開府 した の は首 班 とな っ て か ら六 年 後 の延 煕 十 五 年 で あ っ た こ とか ら,官 職 や権 限 で 費 禧 が 優 位 を保 っ て い た と は い え費 禧 ・姜 維 政 権 とい うべ き二 頭 禮 制 で あ っ た こ と,諸 葛 亮 ・蒋 碗 の よ うな独 裁 権 力 を掌 握 して い た 人物 が い なか っ た こ とが 指 摘 で きる。

『三 國 志 』巻 四 十 四 の 評 を見 る と蒋 碗 と費 禧 は 同様 に扱 われ て お り,と もに 諸 葛 亮 の 規 範 を受 け縫 い で方 針 を改 め な か っ た とあ る。 しか し,『 三 國 志 』 蜀 書 の 内容 を よ く見 る と,諸 葛 亮 ・蒋 碗 の 政権 と費 禧 ・姜 維 の 政 権 との 問 に は 明 らか に相 違 黒占が あ る 。 諸 葛 亮 ・蒋 碗 に は(少 な くとも官職上 の)"絶 封 権 力"

と北 伐 へ の 意 志 と内 政 を掌 握 した上 で の 戦 略 が あ っ た が,費 緯 ・姜 維 に は官

職 上 で も"絶 封 椹 力"が な く,北 伐 に 關 して も費 禧 は消 極 的 で あ り,姜 維 は

内 政 を顧 み な い 軍 事 行 動 を起 こす な どの 偏 りを見 せ て い る。 この よ う に見 る

と,陳 壽 に よる蜀 漢 國 史 観 で は,諸 葛 亮 ・蒋 碗 の 政権 の 性 格 が類 似 して お り,

蒋 碗 一 人 が 「諸 葛 亮 の 正 統 な 後,1'者 」 で あ る の に封 して,費 禧 や 姜 維 の 政権

は 諸葛 亮 や 蒋 碗 の 政 椹 とは性 格 が異 な っ て い る だ け で な く,陳 壽 の 本 文 を見

て い る と諸 葛 亮 の 政 策 を受 け 繹 い で い な い 政 椹 と して 描 か れ,滅 亡 へ の 階段

を歩 ん で い く過 程 が示 され て い る よ うに見 受 け られ る。 陳壽 の 「蜀 漢 國 史観 」

に つ い て は,費 緯 ・姜 維 政 灌 期 か ら蜀 漢 の 滅 亡 に至 る歴 史 を 陳 壽 「三 國 志 』

か ら見 て お く必 要 が あ る と思 わ れ るが,こ れ に關 して は稿 を改 め て 述 べ て い

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蜀 漢 ・蒋 碗 政権 の北 伐 計叢 につ いて(145) き た い と考 え て い る 。

1王 仲 攣 『 魏 晋 南北 朝 史』 上冊95〜96頁 には

在 蒋 碗 執 政 的十 二 年 中(公 元二 三 四 一二 四六 年),蜀 漢 没有 大 學 北 伐。 蒋 碗 錐 有 自漢 中乗 漢水 東下 襲 撃 曹魏 的打 算,但 由於朝 野 間的議 論,認 爲漢 水 淺急,如 果 出兵 不 能取 勝,撤 退 時就 會 遇到 困 難,伯 重 踊 號 亭 之敗 的 覆轍,因 此 没 有 進 軍 。

とあ る。 また,ラ 賠 勾公 「 談 蜀 國滅 亡 的原 因」(『文 史哲 』1982‑51982年),中 林 史 朗 「 試 論,蜀 漢 政権 の成 立過 程 と其 の存 在 意義一 ドラマ と して の三 國鼎 立」(以 下,

「中林前 掲 論文 」 と略 称)(『 土浦 短期 大學 紀 要 』141986年),渡 邉 義浩 「 蜀漢 政権 の支 配 と盆 州 人士 」(『史境 』181989年,『 三 國 政権 の構 造 と 「 名 士 」』 汲 古 書 院 2004年 第2章 第2節 「蜀 漢政権 の支 配 と盆 州社 会 」)に も蒋 碗 の北 伐 計 書 に關 す る記 述 が あ り,そ れ につ い て は拙 稿 「諸葛 亮妓 後 の 「 集 團 指導 髄 制」 と蒋 碗 政権 」

〔 以 下,「 拙 稿1」 と略称 〕(『創償 大學 人文 論集172005年 』)で も指摘 して い る。

2拙 稿1参 照 。

3ち な み に羅 開玉 〔 新撰 〕 『三 國志 』(『二 十五 史新 編 』 上 海 古 籍 出版 社1997年) に も

蒋碗 封 北 伐 之事 井不 忽 公 認真,但 也 撰 出 架式,率 軍 出屯 漢 中。

とあ り,蒋 碗 は北伐 をす る構 えを見せ ただ けで,實 行す る氣 は なか った とされ てい る。

4魏 の 景初 年 間 に つ い て は,平 勢 隆郎 「 景 初 の年 代 に 關す る試論 」(池 田温 〔 編 〕

『日中律令 制 の諸 相 』 東 方書 店2002年)が あ る。 ここで は,景 初 改元 の特 殊性 を指摘 して,景 初元 年 が 實 際 は237年 で景 初 は 四年 まで あ っ た こ と,そ の た め青 龍 四年 は最 初 には あ った が景 初 改 元 で削 られ,そ れが 正 始 改元 の後 で復 活 した こ と, 正 始 改 元 の後 に暦 が書 き換 え られ て237年 が あ らため て景 初 元年 と され て,景 初 は 三年 まで とされ た と述 べ られ て い る。本 論 文 の年 譜 は この平 勢氏 の説 には依擦 して い ない が,注 意 す る必 要が あ る と考 えて い る。

5『 晋書 』 宣帝 紀 には,建 興 十三 年(235年)に 馬岱 が魏 に侵 攻 して牛 金 に撃 退 され た とあ るが,『 三 國志 』 に はそ の よ うな記 事 はな い。 また,本 文 中で指 摘 した よ う に姜維 が しば しば涼 州へ 侵攻 して いた 。

6『 三 國志 』‑¥四 十 四蒋 碗 傳 に よる と,蒋 碗 は延 煕元 年 か ら船 の建 造 な どの準備 を 開始 して い る。 この こ とや,『 三 國志 』の 記述 を踏 まえ る と,魏 興 ・上 庸 攻 略へ 向 けて 具体 的 な行 動 にで る よ うにな るの は延 煕 三年 〜 四年 頃 だ と考 え られ る。 ち なみ に,『 資治 通鑑 』 で は延煕 四年 とされて い る。

7拙 稿1参 照 。

8『 三 國志 』 巻 四十 五姜維 傳 に

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維 自以練 西 方風 俗,兼 負 其 才武,欲 誘 諸莞 、 胡 以爲 羽翼,謂 自朧 以西 可 断而 有 也。 毎欲 興 軍大學,費 緯 常裁 制不 從,與 其 兵不 過 萬人 。

とあ る。

9『 晋 書』 巻 一宣 帝紀 に もほぼ 同 じ内容 の記 載 が あ る。

10『 三 國志 』 巻 二 十 四孫 禮傳 を見 る と,曹 爽 との關係 が 良 くなか った こ とが わか る。

この こ とも影響 して い た可能 性 は考 え られ る。

11『 三 國志 』.;三 明帝 紀 ・同斐 注所 引 『 魏 略 』・『 苦書 』..宣 帝紀 参 照。

12た だ,蒋 碗 が呉 と連携 を取 って い なか っ たの は,魏 の裏 をか くた め に直 前 まで 同 盟 國 で あ る呉 の裏 もか い てお い た ほ うが良 い と判 断 してい た ため だ と考 え る こ とが 可 能 で ない こ とは ない。

13三 國志 巻 四十 四蒋 碗 傳 には

於 是 遣 尚書令 費 緯,中 監 軍姜 維等 喩 指。

とあ り,岡 崎 文 夫 『 魏 晋 南北 朝 通 史』(弘 文 堂1932年)に は

この と き蜀都 の輿論 はむ しろ消 極 的に転 向 を示 した ご と く,費 緯,姜 維 の両 人 そ の 旨 を傳 えて 蒋 碗 を さ とす に及 び,彼 はつ い に 浩 城(錦 州)に 徒 屯 し,軍 事 方 面 に おい て姜維 を重 用 し,こ れ を して もっ ぱ ら甘 粛 方面 の 守備 に當 た ら し

む る こ とに した。

とあ る。

14拙 稿1参 照 。

15石 井仁 「 諸 葛 亮 ・北 伐 軍 團の組 織 と編 成 に一 蜀 漢 にお け る軍府 の発 展 形態 」(『東 北學 学 東 洋史 論集 』 第 四輯1990年)50頁 参 照 。

16『 三 國志 』董 允傳 斐注 所 引 『 華 陽 國志 』 に は

時蜀 人以 諸葛 亮,蒋 碗,費 緯及 允 爲 四相,一 ・ 號 四英 。 とあ る。

17た だ,安 田二 郎 「 西晋 武 帝好 色 孜」(『東 北 大學 東 洋 史論 集』 第七 輯1998年,の ち 『六朝 政治 史 の研 究 』京都 大 學 出版 會2003年 第2章 所 収)に よる と,蜀 漢 の 劉 暉 も孫 皓や 司 馬炎 と同様 に子女 の納 宮 を介 して有 力 姓族 や 良家 との個 別 的 な結 び つ きを強化 す る 目的 で後 宮 充 實 策 を行 お う と した とい う可 能 性 を示 唆 され てお り, 董 允 の役 割 につ いて は さ らな る検 討 が必 要 で あ る。

18蒋 碗 ・費 緯 治 世 の20年 間 に大 赦 は5回 施 行 され た。 そ の 中で蒋 碗 の治 世(建 興 十 二 年 〔234年〕 〜延 煕 九 年 〔246年〕)の 間 に行 わ れ た大 赦 は4回(建 興 十 二 年, 延 煕元 年,延 煕六 年,延 煕 九年)で あ る。 しか し,詳 細 に見 る と,蒋 碗 が實 質 的 に 政 権 を握 っ て い た9年 間 に は建 興 十 二 年 と延 煕 元 年 の2回(蒋 碗 政 権 の 成 立 と改 元 〉

しか な く,あ との3回 は費 緯 政権 の11年 間 に行 わ れ た こ と に な る。拙 稿1参 照 。 なお,拙 稿1で は校 正 が 間 に合 わ なか っ た ため,蒋 碗 治 世 で の大 赦 は3回 とあ り, 延 煕元 年 の大赦 が抜 け てい る。 ここで改 め て訂 正 させ て いた だ く。

19詳 細 は拙 稿1参 照。

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蜀 漢 ・蒋 碗 政構 の北伐 計 書 につ い て(147>

20『 三 國志 』巻 四十 四費 禧傳 参 照 。 21中 林 前掲 論 文参 照 。

22「 漢朝 復 興」 とい う大 義名 分 だ け で は巴蜀 の 人 々が つ いて こなか っ た こ とは,『 三

國志 』 巻 四十 二 の諸傳 を見 れ ば想 像 に難 くない。

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(148)

〔 表1〕 蜀 漢 を中心 と した三 國 の動 向 と天災 ・ 異民 族反 臥(234年8月 〜246年11月) 凡 例Il『 三 國志 』魏 書 ・蜀 書 ・呉書 はそ れ ぞれ 『 魏 志 』・『 蜀 志』・『 呉 志 』 と略 す

H:年 號 は蜀漢 の もので統 一 した。魏 の景初 年 間 につ いて は暦 の 問題が あ るが, 景 初 の年 代 につ い て は,平 勢 隆 郎 「景 初 の年 代 に關 す る試 論 」(池 田温

〔編 〕 『日中律 令 制 の諸 相 』2002年3月)参 照 。 こ こで は景 初 元 年 は西 暦 237年 と考 えて お く。

年 月(蜀 漢) 西暦年 事項 典拠

建 興12年8月 234年 諸葛 亮 の死 後,楊 儀 と魏 延が 争 い,i魏 『 蜀 志 』後 主傳 ・楊 儀

延 討 た れ る 。 傳 ・魏 延 傳

大 赦 。 『 蜀 志 』後 主傳

左將 軍 呉諮 を車騎 將 軍 ・假 節 ・漢 中都 『 蜀 志 』後 主傳 督 とす る 。

丞相留府長史の蒋碗 を尚書令 とし國事 『 蜀志 』 後 主傳 ・蒋碗

を統 括 せ しむ。 傳

(呉 の嘉 禾3年)諸 葛 恪 を丹楊 太 守 と 『 呉 志 』呉 主傳 ・諸 葛 し,山 越 討 伐 を 行 わ せ る 。 恪傳

建興12年 呉 は諸 葛 亮 の死 を聞 くと,魏 が 蜀 を奪 『 蜀志 』宗 預傳 い取 るので は ないか とい う不 安 か ら蜀

の救 援 とい ざ とい う ときの分 割 に備 え て 巴丘 の兵 を一 万人 増 員 した。 蜀 は永 安 の兵 を増 員 し,ま た宗預 を呉 に派遣

して 封 処 し た 。

諸葛 亮 が死 去 す る と,呉 は是 儀 を派遣 『 呉志 』是 儀傳 して 同盟 ・友 好 關係 を さ らにか ため さ

せ る 。

建 興12年9月 朔 日,呉 で は霜 が 降 りて穀 物 に被 害が 『 呉志 』呉 主傳

出 た 。

建 興12年11月 呉 の 黄 龍3年(231年)2月 か ら 太 常 『 呉志 』 呉 主傳 ・呂岱 播 溶 が 呂岱 と と もに五 万 の兵 で武 陵 の 傳 ・播 溶傳

異 民 族 を討 伐 ・平定 し,こ の 月武 昌へ 蹄 還 。

建 興12年 盧 陵 の 叛 徒 の 李 桓 ・(南 海 郡 の)羅 属 『 呉 志 』 呉 主 傳 ・呂岱

らが 反 齪 を起 こ した。 傳

建 興13年1月 235年 中軍 師楊儀が免職 とな り漢嘉郡に流 さ 『 蜀 志 』後 主傳 ・楊儀

れ る 。 傳

建興13年 i魏の青龍3年3月 以 降景初 年 間 にか け 『 魏 志 』 明帝紀 ・楊 阜

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蜀 漢 ・蒋碗 政 権 の北 伐計 書 につ い て(149) て,許 の宮殿 の造 螢 や洛 陽宮 の修 理 ・ 傳 ・高堂 隆傳 造 螢 が行 わ れ,楊 阜 ・高 堂 隆が 明帝 に

諌 言 。

建 興13年4月 蒋碗 が大 將 軍 ・録 尚書事,費 禧 が 尚書 『 蜀 志 』 後主 傳 ・蒋 碗

令 とな る 傳 ・費 緯傳

建興13年 夏 盧 陵 の李 桓 ・路合,会 稽 郡 東冶 の 随春, 『 呉 志 』呉 主 傳 ・呂岱 南 海郡 の羅属 らが 反齪 を起 こ し,詔 を 傳

受 けた 呂岱 が劉 纂 ・唐 杏 らを指揮 して 討 伐 した。随 春 はす ぐに降伏 して,偏 将 軍 に任命 され た。

建興13年7月 (呉の嘉 禾4年)呉 で は電 が 降 った。 『 呉 志』 呉 主傳 建興13年8月 この年 の春,孫 権 が 数千 家 の兵 を派 遣 『 魏 志』 満 寵傳

して江 北 で 田作 させ る。 満寵 は8月 に 諸屯 衛 を襲撃 ・撃破 させ,穀 物 を焼 き 払 わ せ る 。

建 興13年 この年,魏 の幽州 刺 史王 雄 が刺客 を送 『 魏 志 』鮮卑 傳 って朝 比 能 を暗殺 。

建 興13年 この年,馬 岱 が 出撃 したが,司 馬 酪 の 『 晋 書 』宣 帝紀 派 遣 した牛 金 に撃退 され る。

建 興13年 この年,武 都 の氏 族 の符讐,強 端 が 率 『 苦 書 』宣 帝紀 い る六 千 人が魏 に来 降。

建 興13年 こ の 年,魏 で は 關 東 が 磯 う 。 『巫 童 日 目 』 宣 帝 紀 建興14年 春 236年 (呉 の嘉 禾5年)一 つ が 五 百銭 に相 当 『 呉 志 』呉 主傳

す る大 銭 を鋳 造 し,官 吏 や民 衆 か ら銅 を供 出 させ 買 い取 り,盗 鋳 の罰則 も定

め た 。

建興14年2月 呉 の輔 呉將 軍 張 昭死去 。 『 呉志 』呉 主傳 ・ 張 昭傳 建 興14年 呉 で は 中郎 将 の 吾藥 が 李桓 を捕 らえ, 『 呉 志 』呉 主傳

将 軍 の唐 苔 が羅属 らを捕 らえた(2月

〜 夏)。 吾 棄 は会 稽 の 山越 討 伐 に も關

与 。

建興14年7月 高句麗王位宮が呉 の使者の胡衛 らの首 『 魏 志』 明 帝紀 を幽州 の役 所 に届 ける。

建興14年 冬 鄙 陽の賊 徒 彰旦 らが反 齪 を起 こ した。 『 呉志 』 呉 主傳

建 興14年 武都 の琢族 の王 符健(符 讐 の兄?)と 『蜀 志 』 張 疑 傳,『 華 そ の民 四 百戸 あ ま りを広都 に移住 させ 陽國志 』巻七劉 後 主

る 。 志

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こ の 頃(234〜236年),陸 遜 が 魏 の 江 『 呉 志 』 陸遜傳 夏 太 守途式 を陥れ て罷 免 に追 い込 む。

建興15年2月 237年 (呉 の嘉 禾6年)陸 遜 が 彰 旦 らを討 伐 『 呉 志 』呉 主傳 し,年 内 に 全 て を打 ち 破 る 。

(中郎將 の周砥が鄙陽での徴 兵 を願い 『呉 志 』 陸遜傳 出て,陸 遜 の反封 を押 し切 って 許可 を

取 り付 けたが,す ぐに呉遽 らの反齪 が 起 きて周砥 は殺 され た。 陸遜 が討 伐 を 願 い 出て 出撃 し,打 ち破 っ て精兵 八 千 人 を 手 に 入 れ,鄙 陽 ・豫 章 ・盧 陵 三 郡 が平 定 され た。)

建興15年6月 (魏 の景 初 元 年7月)呉 の 朱 然 らが 江 『魏 志 』 明 帝 紀,『 呉 夏 を包 囲 したが,魏 の荊 州刺 史胡 質 ・ 志 』 朱 然 傳 ・『呉 志 』 蒲忠 らが これ を攻撃 した ため退 却。 朱 然傳斐 注所 引 『異

同評 』

以前,呉 と高句 麗 が好 を通 じて遼 東 を 『 魏 志 』 明帝 紀 ・公 孫 襲撃 し よう と した ため,幽 州刺 史 の冊 淵傳

丘倹 が 遼東 の南 境 に駐 屯 し,同 時 に公 孫淵 を召 し寄せ よう と した ことが あ っ た。 この時 期 に,公 孫 淵 が反 旗 を翻 し 雨 が 績 い た こ と もあ っ て冊 丘 倹 は 退 却。 公孫 淵 は 自立 して燕王 と称 し,年 號 を 「紹 漢 」 と す る 。

建 興15年 青,菟,幽,翼 の 四 州 に 命 じ て 海 船 『 魏志 』 明 帝紀 を 作 らせ る 。

建 興15年8月 (魏 の 景 初元 年9月)翼,菟,徐,豫 『 魏志 』 明 帝紀 の 四州 が洪水 に見舞 われ る。

建 興15年10月 (呉 の嘉 禾6年10月 〉 魏 の盧 江 郡 主 簿 『 呉 志 』呉 主傳 ・朱桓 の 呂習 が投 降 と城 門 を開 け る とい う内 傳

応 を申 し入 れ,呉 か らは衛 將 軍 全琢 と 前將軍朱桓が盧江 に派遣 されたが,呂

習 の 投 降 が%1Nり で あ る こ と が わ か り, 退 却 。 職 果 は 挙 が ら な か っ た 。

建 興15年 冬 諸葛恪 が 山越 討 伐 を終 える と,北 に出 『 呉 志 』呉 主傳 ・諸葛 て盧 江 に駐屯 し,鷹 江 や院 江 で屯 田 を 恪傳

行 い,隙 を窺 っ て紆 を襲撃 しそ の地 の

住 民 を全 て捕 虜 に して連 れ臨 っ た。 さ

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蜀 漢 ・蒋 碗 政権 の北 伐計 叢 につ いて(151) らに壽 春 の攻 略 を計 ろ う と したが,孫

権 が 許可 しなか った。

建 興15年12月 (魏 の 景 初2年 正 月)司 馬 酪 が 遼 東 『 魏 志 』 明帝紀 攻 撃 のた め 出陣。

延煕元年1月 238年 蜀 漢 は改 元,大 赦 。 『蜀 志 』 後 主 傳 ・『魏

志』明帝紀 延煕元年春 (呉 の赤 烏 元 年)呉 で一 つ が 一 千 銭 に 『 呉 志 』呉 主傳

相 当す る大銭 を鋳 造 。

延煕元年夏 呂岱 が盧 陵 の反Lを 討伐 。 『 呉志 』呉 主傳 延煕元年7月 (魏 の 景 初2年8月)焼 当 の 莞 王 芒 『 魏 志 』 明帝紀

中 ・注 詣 が 叛 乱 を起 こ し,涼 州 刺 史 (徐遡)が 諸郡 の 兵 を指揮 して討 伐 し, 注 詣 の首 を斬 る。

延煕元年8月 (魏 の 景 初2年9月)司 馬 諮 が 公 孫 淵 『 魏 志 』 明帝紀 を裏 平 で包 囲 し撃 ち破 り遼 東 を平 定。

同月,蜀 漢 の 陰平太 守 ・彦惇(彦 化?) 『 魏志』明帝紀斐注所 が守善莞侯 の宕輩 の螢 を攻撃。雍州刺 引 王沈 『 魏 書 』 史 ・郭 准 が 廣 魏 太 守 ・王 賛 と南 安 太

守 ・游変 を派遣 して討伐 させ るが,游 突 の軍 は破 られ王賛 はQ死 。

延煕 元年11月 大 將 軍 蒋碗,漢 中へ 出 陣 し,開 府(← 『 蜀志 』 後 主傳 ・蒋碗

遼 東 ・公 孫 淵 征 伐?)。 傳

(魏 の 景 初2年12月)6月 に 倭 か ら の 『 魏志 』東 夷傳 使 者 が帯 方 郡 に着 き,洛 陽 に送 られ,

この 月 にな って 「親魏 倭王 」 の卑弥 呼 に詔 書 が下 る。

延煕 元年12月 (魏 の 景初3年 正 月1日)魏 の 明帝 崩 『 魏志 』 明 帝紀 ・齊王 御。 曹 芳が 帝位 に就 き,大 將 軍 ・曹爽 紀 ・曹 爽傳

と太 尉 ・司 馬諮 が補 佐 す る。

延熈元年 呉 では中書典校の呂壱が公文書 を監査 『 呉志 』 呉 主傳 ・顧 雍 す る権 限 を利用 して椹 力 を振 る い,さ 傳 ・諸 葛 瑛 傳 ・歩 鷲 さい な こ とや で っち上 げ た事 件 で 人 々 傳 ・陸 遜 傳 ・播 溶 傳 を陥 れ て いたが,こ の頃 に悪事 が発 覚 な ど

して謙殺 され た。

延 煕2年1月 239年 (魏 の 景 初3年2月)司 馬'IC:が太 傅 と 『 魏志 』 齊 王紀 ・曹 爽

な る 。 傳a

延煕2年3月 蒋碗 が大 司馬 に昇進 し,姜 維 は大 司馬 『 蜀志 』 後 主傳 ・蒋碗

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府 司馬 とな って たび た びJ中 な ど西 方 傳 ・姜 維傳 へ 侵 入 。

(呉 の 赤 烏2年)使 者 の 羊 衙 と鄭 冑, 『 呉志 』 呉主 傳 將 軍の孫恰 を遼東 に派遣 して魏 の守將

張持 ・高慮 らを撃 ち,そ の配 下 の男女 を 捕 虜 と し た 。

延煕2年9月 (魏 の景 初3年10月)魏 の鎭 南將 軍 ・ 『 魏志 』 齊王 紀 黄 権 が車 騎 將軍 とな る。

延 煕2年10月 呉で将軍の蒋秘が南の異民族を討伐 し 『 呉志 』 呉主 傳 たが,配 下 の塵式 兄弟 が 反Lを 起 こ し,

零 陵 ・桂 陽 ・交 州 ・蒼 悟 ・諺 林 諸 郡 が 不 安 定 に な っ た が,呂 岱 ・唐r%¥に よ っ

て 一 年 余 りで 鎭 圧 さ れ て い る 。

延 煕3年 春 240年 越 嵩太守 の張疑 に越 篤郡 を平定 させ る。 『 蜀志 』 後主 傳 魏 は旱(景 初3年12月 〜 正 始 元 年3 『 魏志 』 齊王 紀

月)。

延 煕3年4月 魏 の車騎 將 軍 ・黄権 死去 。 『 魏志 』 齊王 紀 延煕3年11月 呉 は磯 う。 公 の倉庫 を開 い て貧 窮 者 を 『 呉志 』 呉主 傳

救 濟 。

延煕3年 姜 維 が 朧西 に 出陣 。郭 准 は軍 を進 め て 『 魏志 』 郭涯傳 彊 中 まで追撃 し,姜 維 は退 却。 郭 潅 は

そ の ま まlti族 の 迷 当 ら を 討 伐 。 従 川頁な 氏族 の三 千 余部 落 を鎭撫 し,關 中 に強 制移 住 させ る。

延煕4年 241年 蒋碗,漢 水 ぞ い に川下 り作 戦 を計 画 し, 『 蜀志 』 蒋碗傳 魏 興 ・上 庸 攻 略 を は か る 。

延 煕4年1月 呉 で は大 雪,平 地 で も三尺 積 もる。 『 呉志 』 呉主 傳

延煕4年4月 衛將軍全珠が葛 破に侵入 し,威 北將軍 『 魏志 』 齊 王紀 ・孫 禮 諸葛恪 は六 安 を攻 め,車 騎 將 軍朱 然 ら 傳 ・胡 質 傳 ・王 凌 傳,

の率い る五万の軍勢が嚢 陽郡の焚城を 齊 王紀斐 注所 引干寳 包 囲(『 三 國志 』巻 四本 文 で は五 月), 『晋 紀 』,『呉 志 』 朱 桓

大將軍諸葛理 ・駆騎將軍歩鷲が祖 中に 傳 附朱 異 傳,『 暦 書 』 侵 入 し た 。 魏 は,王 凌 ・孫 禮 ・胡 質 ら 宣帝紀

を 派 遣 し て 防 ぎ と め る 。

延 煕4年5月 呉 の太子 孫登 死 去 。 『 呉志 』呉 主傳 ・ 孫登 傳 延 煕4年6月 全珪が退却 した後 も焚城 の包囲は厳 し 『 魏志 』齊王紀斐注所 か っ たた め,六 月に司 馬整 自 らが 出 陣 引 干 實 『否 紀 』,『 晋

r

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蜀 漢 ・蒋碗 政 権 の北 伐計 書 につ い て(153)

して朱 然 らを撃 退、 書』宣帝紀

延 煕4年10月 蒋 碗 ・費 禧 会 談 。 『 蜀 志 』後 主傳

延 煕5年1月 242年 姜 維,偏 軍 を率 い 漢 中 よ り浩 県 に蹄 り,駐 屯 。

『 蜀 志 』後 主傳

馬 忠,蒋 碗 に詔 勅 を傳 える。 『 蜀 志 』馬 忠傳 延煕5年3月 魏 は正 始2年 か らこの 月 にか けて,廣

漕 渠 を開 き准北 を灌概 す る(長 江 ・准 水へ 軍 を動 か す 際 に も使用)。

『晋 書 』 宣 帝 紀 ・『魏 志 』 郵交傳

延煕5年 (魏 の正 始3年)高 句 麗 王 位 宮 が 西安 平 に侵 入 して 略奪 を働 く。

『 魏 志 』東夷(高 句 麗) 傳

延煕5年 (呉 の赤 烏5年)建 安 ・鄙 陽 ・新 都 で 山民が 反 齪 を起 こ し,鍾 離牧 らが鎭 圧 。

また,合 浦郡 高涼 の賊 ・循弩,南 海 郡 掲 陽 の曾夏 らが反 齪 を起 こす が,い ず れ も鍾 離牧 が鎭 圧 。

『 呉 志 』鍾 離 牧傳,同 傳 斐 注 所 引 『会 稽 典 録 』

延 煕6年9月 243年 (魏 の正 始4年)司 馬 酪 が 箭 で 諸 葛恪 を撃 つ。

『 否 書 』宣 帝紀

延煕6年10月 大 司 馬 蒋 碗,漢 中 よ り 蹄 途 に つ き, (重 態 に 陥 っ た た め?)浩 に と ど ま る 。

『 蜀 志 』後 主 傳 ・蒋 碗 傳

姜 維,鎭 西 大將 軍 ・涼 州刺 史 となる。 『 蜀 志 』姜 維傳

延 煕6年11月 蜀 漢 で大赦 。 『 蜀 志 』後 主傳

費 緯,大 將 軍 ・録 尚書事 に昇進 。 『蜀 志 』後 主 傳 ・費 緯

一 傳

延煕6年12月 魏 で は卑 弥呼 の使 者が 朝 貢。 『 魏志 』齊 王紀 延煕6年 魏 で は准 陽渠 ・百 尺渠 を開 き,頴 の南

北 の諸 阪 を修理 す る。

『 晋 書 』宣 帝紀

延煕7年 閏月 244年 (魏 の正 始5年2月)曹 爽,夏 侯 玄 ら が 司馬 酪 らの 反.,を 押 し切 っ て蜀へ 出 陣。蜀 漢 は費 緯,王 平 を中心 に漢 中 を 防衛 。 曹爽 は5月 に魏 へ蹄 還(こ れに よ り蒋碗 と費緯 の閲歴 ・声 望 が並 ぶ)。

『魏 志 』齊 王 紀 ・曹 爽 傳 ・夏 侯 玄 傳 ・郭 准 傳,『 蜀 志 』 後 主 傳 ・ 王 平 傳 ・費 禧 傳,『 晋 書 』 宣 帝 紀

延 煕7年9月 費 緯,成 都 に 蹄 還 。 『 蜀志 』後 主傳

費 緯,領 盆 州 刺 史 と な る(〜12月)。 『 蜀 志 』 費 緯 傳 ・『華 陽國志 』劉 後 主志 延煕8年 245年 呉 で太 子(孫 和)派 と魯 王(孫 覇)派

の封 立 激化 で,張 休 が 自殺 。

延煕8年2月

呉 の 丞 相 ・陸 遜,死 去 。 『 呉志 』呉 主傳 ・ 陸遜傳

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{].54)

延 煕8年7月 呉 で將 軍 の馬 茂 が反 齪 を起 こす が,鎭 『 呉 志 』呉 主傳 圧 さ れ る 。

延煕8年8月 呉で校尉の陳勲に屯田兵 と工兵三万 を 『 呉 志 』呉 主傳 率いて句容中道 に運河を掘 り小其か ら

曲阿 の雲 陽西 城 を結 んで,そ こ に商人 の交易場 を配置 して食糧倉庫 を建てさ

せ た 。

延煕8年12月 費 緯,漢 中守 備 視 察 。(後 継 者 と して 『 蜀 志 』後 主傳 の デ モ ン ス ト レ ー シ ョ ン?)

延煕9年1月 246年 呉 が粗 中 に侵 入 。司 馬 熱 は再 び攻撃 さ 『呉 志 』 呉 主 傳 ・『晋 れ る こ とを懸 念 し軍 を留 めて湾水 の南 書』宣帝紀

で 防 ぐこ とを進 言す るが,曹 爽 は従 わ ず 。果 た して攻撃 を受 け,萬 人 を超 え

る被 害 を出す 。

延煕9年2月 魏 の 幽州 刺 史 ・冊丘 倹(・ 王 預)が 高 『 魏 志 』 齊 王紀 ・冊 丘 句 麗討 伐(正 始5年 〜7年)。 倹傳 ・ 東 夷(高 句 麗)傳

延煕9年5月 丑丘倹が減豹討伐。 『 魏 志 』齊 王 紀

延煕9年6月 費 緯,成 都 に 蹄 還 。 『 蜀志 』後 主傳

延煕9年 秋 大 赦 。 『 蜀 志 』後 主傳

延 煕9年11月 蒋碗 死去 。 『蜀志 』 後 主傳 ・蒋碗

参照

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(注)本報告書に掲載している数値は端数を四捨五入しているため、表中の数値の合計が表に示されている合計

項目 浮間 赤羽⻄ 赤羽東 王子⻄ 王子東 滝野川⻄ 滝野川東 指標②ー2 同じ 同じ 同じ 同じ 同じ 同じ 減少. ランク 点数 浮間 赤羽⻄

  に関する対応要綱について ………8 6 障害者差別解消法施行に伴う北区の相談窓口について ……… 16 7 その他 ………

令和元年11月16日 区政モニター会議 北区

結果は表 2

原子炉冷却材浄化系沈降分離槽 ※1 原子炉冷却材浄化系受けタンク 燃料プール冷却浄化系受けタンク 復水浄化系沈降分離槽 ※2 復水浄化系受けタンク

(注)本報告書に掲載している数値は端数を四捨五入しているため、表中の数値の合計が表に示されている合計

評価書案 316,317 ページの樹木 の伐採、残置、移植を含めた記載 や、ABCD の診断の活用のあり方の 記載に関しても、