九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
Basho-school in Kyūshū (Continued)
杉浦, 正一郎
https://doi.org/10.15017/2332916
出版情報:文學研究. 46, pp.31-80, 1953-08-25. The Kyushu Literary Society バージョン:
権利関係:
九 州 蕉 門 の 研 究
とい 風ふ にみ え︑
丁数
全舟六丁で一丁表裏に八行づ
4
記されてゐる︒
扱て︑﹃漆川集﹄は半紙本一冊︑薄茶色表紙︑題策は中央に﹁畔漆川土明撰﹂とあり︑柱は﹁うるし︵一ー三十六︶﹂
第で ある
︒ みしか紹介されず︑
九州蕉門の研究には甚だ不便を感じてゐた
︱ ︱
又板下は後の﹃芭蕉盟﹄と書法筆癖が類似してを
この度︑新に紹介する事になった﹃漆川集﹄は︑宝永四年刊︑
れてゐるのを知り得るのであるが︑今迄僅か﹃七異跡集﹄の
と記されてゐる︒﹁同﹂と一云ふのはその書の前掲俳書の列年と同じと一云ふので︑
と︑此年には﹃漆
J I l 集﹄の外に九州俳人の手になる﹃折目高﹄︵肥後軽鷹撰︶︑﹃七異跡集﹄︵豊後馬貞撰︶︑﹃嬢の宿﹄︵肥後 台軒撰︶︑﹃梅が香・彦山家﹄︵豊後野紅撰︶等の俳書が刊行さ
のであり︑今こ
4に新に﹃漆川集﹄を加へる事になった次 宝
永一
︳一
年の
事で
るあ
︒尚
︑
漆川
同 筑 前 土 明
一匁 五分
来その書名のみ知られてゐて︑その内容の批に知られなかった俳書である︒即ち同目録には
京の井筒屋庄兵衛板﹃蕉門俳書目録﹄の記載により︑従
杉 浦 正
ー ー
⇔
﹃ 漆 川 集
﹄ と 筑 前 嘉 穂 俳 壇 に つ い て ー ー
九 州 蕉 門 の 研 究
同目録による
郎
酒買に追手のか
4
るすゞみかな
寝て居るか螢の来やう只でなし 鶯
に 笠 の 緒 つ ま る 苓 か な
塚の菊田有隣と朱拙共捩の﹃芭蕉親﹄に
同 同 漆
J I 士 明
﹁寝て居るか螢の来やう只でなし同漆生土明﹂の句が一句それ卜\入集してゐる︒
又享保九年刊の漆生から桓近い飯
﹁初時雨ようあそぶのに照りか
4り
筑前漆生土明﹂の一句︑同年刊同じく朱拙後見の讃岐の大西吟墨撰﹃既望集﹄
後見の美作の杉山輪雷撰﹃星合集﹄に
﹁畠灸の持直してや念仏水チクセン漆生士明﹂の一句が入集してゐる︒
郡名である︒叉同一云一年刊の長野馬貞捩﹃七異跡集﹄に 源太夫で︑俳壇的に殆ど無名の新人で︑ ﹁土くれのすくなく走ルうつら哉
漆生源太夫土明﹂と見え︑
この年以前には嘉穂郡内野の荒巻助然捩﹃蝶姿﹄︵元緑十四年刊︶や同郡大脹の 大村知方撰﹃初便﹄︵同十四年刊︶同郡鯰田の朝三堂季水捩﹃土大板﹄︵宝永一一年刊︶にもその名を見出す事が出来ない︒
唯︑僅かに前年の宝永二年刊︑助然の﹃続山彦﹄に
﹁見ぬふりて被とおすやおほろ月
同嘉摩士明﹂の一句を見出すに過ぎない︒肩書の﹁嘉摩﹂と云ふのは嘉穂郡の旧
撰者土明は︑宝永一一一年刊︑魯九撰﹃春の鹿﹄に︑ り︑朱拙の筆になるやうである︒
九 州 蕉 門 の 研 究
土明の句は管見の辰りでは宝永六年刊︑
筑前嘉摩郡︵今嘉祗郡と一云︶稲築村漆生の人︑
t
こ朱拙
野見山氏
九 州 蕉 門 の 研 究
ところで漆川に就ては伊藤常足著
太﹃ 宰府 管内 志﹄
これによって本集を﹃漆川﹄と名づけたのである︒
︵天 保十 二年 成︶
此 組 て 木 の 葉 さ ら え よ 漆 川
朱 拙
腰 懸 て 春 待 烏 や 漆 川
知 方
梅 咲 て と る や ら 寒 し 漆 川
助 然
い さ り 込 む 山 松 寒 し 漆 川
同集書名は践に記す如く︑筑前の国にあるといふ漆川の古地名を︑
﹁我が方の最負﹂で︑朱拙旅寝の折︑﹁漆川﹂の題詠で人々の句を求めたのである︒. れ
ない
︒ 別
れ 場 に 狐 だ ま す な 郭 公
野 火 留 の 具 も 枯 野 の 嵐 哉 等五句を見出し得るに過ぎない︒尚︑注目すべき事はこの﹃芭蕉盟﹄に﹁土明娘九歳 鳥
の 寝 る 藪 に 火 と ぼ す 螢 哉 の二句が入集している︒これによると彼の娘も父の感化で︑幼くして俳諧を嗜んでゐたものと思はれる︒尚︑土明の生歿 享年共に不明︒現在︑漆生に野見山と一云ふ旧家が現存しているので︑調査の結果は或ひは墓や過去帳等見出し得るかも知
照りかけて遊びあきれし時雨哉
土明 同
同`
に 次 の 様 な 説 明 が あ る の で 参 考 迄 に 次 に 引
あきら﹂として
宗祇の﹃指南抄﹄によって土明住処の漆生に求め︑
蝶 々 の 花 に 在 こ ぶ や 化 粧 水
化粧水・舟岡山
等の句は︑土ザ方の﹃蓑虫庵集﹄の﹁宝永二乙酉年﹂の項に︑
あ は れ 露 一 粒 撰 に 横 ま く ら 秋立ちてちらりとしけり念仏水
同 非 群
同 半
蝶/\の花にはこふや化粧水
伊 賀 土
残 方 『
生川 あり
︒
用し よう
︒
名にはいへど黒くも見えず漆川さすかに渡る人はぬるめり 又︑八雲御抄に漆川筑前︑又宗祇指南抄に漆川は嘉摩郡漆生と批俗に云︑在所など見えたり︒
一説に漆川︿御笠郡にありとす︑又一説に肥後国託麻郡漆島漆川ありとす︑なほよく考ふへし︒
本集は勿論︑宝永二年十二月︑朱拙が漆生に旅寝の折に彼の助力︑後見によって成ったもので︑採録の発句の多くが他 の朱拙後見俳書と同じく彼が箪集してゐたものを提供して︑土明に編者の名誉を担はしめたものと思はれ︑
に京の井筒屋から刊行されたのであった︒ところで本書三丁に見える︑
化粧水︑横まくら︑念仏水といふは豊後の名駿なりと朱拙が文に聞えければ 正月廿八日︑豊後朱拙より消息に所の名所の題を方々に配りて句を願ふよし依て
拾遺和歌集
〇 漆 川
九 州 蕉 門 の 研 究
一 四 今も嘉摩郡漆生村又漆
而して翌三年
九州蓄~門の研究
一 五
﹂4に暫く旅寝を重ねて﹁こ4ろ かの蕉門風狂の士︑ Jれは初期の彼の著作に見 謂はゞ当時談林の田舎俳士に過ぎなかった︒しかるに注目すべき事は後年の
に於 て︑
朱拙は宗 拙・半山とも号し︑豊後
H
田城内村の住︑医を業とした︒若年の折は偉学に励んで儒者として諸侯に仕官の希望があった
されたものと思はれる︒ 項目も含まれてゐたのかも知れず︑ て ︑ とあり︑此年正月既に朱拙には本書編纂の意図があり︑伊賀の土芳に句を求め︑句を求めてゐたものと考へられる︒然し︑かうした句稿の蒐集は﹃漆川集﹄撰集の為とみるより︑る俳書編集の意図のもとに行はれたともし思はれる︒前別︑
︑ ︑
非群の﹁秋立てちらりとしたる念仏水﹂の句が入集してゐる︒ 舟 岡 の 空 や 田 中 の 苅 残 し
又同様に半残︑
他のさうした名所によ
長野馬貞捩﹃七異励集﹄︵宝永︱︱一年刊︶第三に﹁念仏水﹂とし
或は初め朱拙の意図では﹁化粧水﹂﹁横まくら﹂等の
それが何かの事情で﹃七異跡集﹄編集の折に除かれたので︑土朋の﹃漆川集﹄に採録 次に本書の内容の解説に入る前に序者、坂本朱拙及び筑前嘉穂俳壇の状態に就て概述しよう。朱拙は四方郎•四野人・守
がならず︑遂に俳諧師になったと云ふ︵﹃亀山紗﹄﹃豊四俳諧古哲伝草稿﹄︶︒俳諧は同郷の井原四鶴門︑
談林風を嗜んでゐた様である︒彼の著﹃梅桜﹄の菊人序や︑
因や芭蕉と因みを結んでゐた様に述べてをり︑ 同じく﹃後れ馳﹄の風国序︑及び朱拙臭膏に依つて考へる に︑彼はこの辺諏の地にあって秀れた俳人に会ふ事も出来ず︑たゞ﹁詩俳の吟類をひねりて風興﹂に耽つてゐたらしく︑
﹃土大根﹄や﹃芭蕉盟﹄
この事実の正否は未だ明確になし得ないが︑
られる事実と矛盾する様に思はれる︒とまれ朱拙が蕉門俳人として立つ様になったのは︑元緑八年︑
広瀬惟然の九州行脚以後であった︒惟然はこの年の暮︑肥後小国より日田に吟を曳き︑
中村四国によって 非群等にも別題のもとに
﹃菊の香﹄︵元祗十年刊︶
にも朱拙及び日田俳人の句を多く録し︑
一周忌にも追善百韻を興行してゐる︒釣壺は﹃西
朱拙の﹁梅がかやかひなき闇の
九 州 蕉 門 の 研 究 をきなく疲をはらして︑日をかさねし閑さの余りに︑蕉門の寂あり︑
花ある事を勤め励まし﹂︵﹃後れ馳﹄風国序︶たので あり︑朱拙ほ惟然に随従して蕉風になじむ様になったのであった︒
の句は︑当時洛に住してゐた惟然が同地の風国と親しくしてゐた関係で︑風国の﹃初輝﹄︵元藤九年刊︶によって︑
蕉門俳壇に紹介される事となった︒惟然と風国との斯うした関係は︑例へば﹃惟然の研究﹄︵鈴木重雅氏著︶所引の殿田 良作氏旧蔵元藤十一年五月朔日付︑浪化宛風国書簡に﹁惟然も東武に罷在候て尊家様より入句申来候間︑
︵ マ
≫ )
も進上さしく様に申こし候﹂と見え︑
風国はは惟然の依頼によって西国の者共の句を越の浪化の集の句稿として寄せてを り︑浪化の﹃続有磯海﹄には朱拙及びその他日田俳人の句を多く採録してゐるのである︒
斯うした関係は又朱拙を風国に近づける事にもなった︒﹃梅桜﹄には﹁追加﹂として風国・朱拙・泥足・惟然・壷中一 座の歌仙が納められてをり︑此頃朱拙は上洛して風国その他在洛の蕉門俳人達にも親んだものと思はれる︒
と記してをり︑朱拙以外の日田俳人との深い交情も推察される︒
朱拙の﹃後れ馳﹄
﹁豊後朱拙此春登りあはんなといひ来しけるに﹂といふ前警ある﹁もろともに影を踏へき花の陰 の﹁四方郎とあつまのかたの遊吟あらかしめちきりて﹂の前書のついた﹁月花や共に四方のこ
4ろさし よって風国と朱拙との親密な関係が理解されよう︒で元藤十四年七月風国死去の際には︑
には序を与へてゐる︒﹃泊船集﹄の
西国の者共の句 そして風国は
風国﹂の句や﹃初便﹄
風国﹂の句等に さくり足﹂の発句を立句として日田俳人達ははるかに追善興行を催し︑
の詞﹄︵元緑十五年刊︶に﹁洛の風国︵中略︶予が里の風騒と水魚のごとし︑洛にて馴染たるも在︑深切の誹友なれ^云々﹂
初めて
斯くて惟然の頭陀に納められてゐた朱拙及び日田俳人
三六
便﹄に ゐ
る︒
九 州 燕 門 の 研 究
筑前直方にて 粟の穂をこぼしてこ4
ら 喘 鶉
飯塚にて ならないのであり︑
斯くて朱拙ほ﹃梅桜﹄︵元禄十年刊︶︑﹃後れ馳﹄︵同十一年刊︶︑﹃今日の昔﹄︵同十二年刊等︶の撰集を相次いでものし︑
叉多くの蕉門高弟と親しい関係を持つに至って九州蕉門俳人として不動の位置を築くに至った︒
正秀門と見る説があるが︑以上の考察からも従ひ難いと思ふ︒但し後年︑享保年代に入って親しく正秀と交際してゐた様
﹃l
放烏集﹄︵元謀十四年刊︶に元緑五年の路通の九州行脚の折の句と思はれる 豊前の国猪膝にて の句が見えるが︑猪膝は現在の田川郡猪位金村猪膝であり︑
惟 然
蹄通も此地方を通過したものと考へられる︒
の句が﹃後れ馳﹄に見える︒元誅十一年長崎に帰省してゐた去来は翌年上洛の時にはこ\を通過したと思はれる︒﹃初
夏 草 の 落 つ く ほ と や 旅 心
さて
︑ 次に嘉穂俳壇の状態について概観するが︑
ではあるが︑これは俳友程度の関係と思はれる︒
一 七
叉惟然も一九詠八年九州行脚の折︑同地方に杖を曳いて
嘉穂郡に接し︑猪膝を通過するには必ず嘉穂地方を通らねば 路 通
同地方は朱拙の行脚以前に於ては俳壇的に殆ど未開拓地であった︒
なほ︑従来一部に朱拙を
﹁む き'
\に わか る
4空の秋の雲 鞍手地方俳人の最初のものである︒ し
てゐ る︒
﹂の時は嘉穂地方俳人との交渉は見られないが︑
且つ
﹂れはその前句に﹁朱拙に別る四句﹂と前書して掲げ
やがて紫 Jれが蕉門俳書に見える
鞍手池方では可成り交渉が行はれたらしく︑
の句が見える。この様に―-•三の蕉門高弟逹が此地に行脚の足を連んでゐるもの
4何ら俳壇的成果も見る事が出来ない。
元蒜十年秋︑朱拙は長崎を訪れ︑
﹃今日の背﹄に直方ー丹山・外川︒顔野ー一定・如雪・杉明・直水・友水の句が入集してをり︑
翌年の朱拙撰 元蒜十二年秋︑博多に旅寝を重ねてゐた朱拙は︑肥前田代の寺崎紫白女の招諮によって田代に笈を連んだが︑
鯰田滞在中︑後の
白女その他田代の俳人逹を指導する様になり︑こ入に紫白女の女性撰最初の俳書﹃菊の道﹄︵元緑十三年刊︶か朱拙後見 によって刊行される関係が結ばれた︒朱拙はこの旅の時︑嘉穂の鯰田から直方︑黒崎迄行脚してをり︑
﹃土大根﹄の撰者季翠︵季水︶の許に泊り︑
の季翠の句が初めて見られるのである︒即ち︑
筑即鯰田季翠﹂といふ句で︑
られた句の中の一句の一つである︒
交誼を結んだものと思はれる︒﹃菊の道﹄には嘉穂池方俳人の句として鯰出 元緑十四年二月︑朱拙は再び嘉穂蛾方に笈を遅んで内野の荒巻助然亭に旅泊し︑俳諧に就て助然と親しく応答し︑
助然が久しく笈底に貯へ置いた蕉門高弟の句に︑朱拙蒐集するところの句稿を与へ︑序文を寄せて︑
俳書﹃蝶姿﹄が上梓されたのである︒助然は︑
こ4に同地方最初の
管見の限りではこの年の三河の白雪撰﹃きれ
k¥
﹄に初めて入句してゐる
同埴の卯七と俳諧を興行し︑次いで筑後柳川︑
筑前 鞍手
︑ 同黒崎と行脚の足を延ば
行 秋 や 花 に ふ く る
\ 旅 衣
九 州 蕉 門 の 研 究
去 来
一 八
九州輩~門の研究 翌十五年正月︑朱拙は牛隈の大村知方を援助して﹃初便﹄が成った︒本集には惟然が践を寄せてゐる︒
の退
ヵ
海 つ き ほ 昨 日 の 花 を 上 寒 み
て
ロ
の ほ
尻 力'
ら げ
か ら 上
雪 下 の 肴 も の
吹ぱが
れ た る 木
が 寒 ン
此年 冬︑
朱拙は又々嘉穂地方を訪れ︑
^
以下 略︶ ど け る
の 沙
汰 の
サムライ士
に は 血 の た り て
ら し の 月
の帰途田代を訪れ︑同地の寺崎晩柳を後見して﹃放鳥集﹄を編集︑上梓せしめた︒
ものであるべく序文も亦朱拙の筆になるものである︒
同地の散木亭に旅寝してゐる︒
我が旅ねをとはれし好事とともに︑散木亭に落こぼれて た け も 見 よ せ て 軽 し 雁 の 羽
この 時︑
一 九 藤 助 知 散 朱
その践に﹁筑紫
乎 然 方 定 木 拙
その句稿多くは朱拙の与へるところの
に過ぎない新人であった︒﹃鰈姿﹄は地域的な関係で筑前︑特に鞍手・嘉穂地方の俳人の句を多く採録してゐる︒例へば嘉 穂俳人として鯰田ー季翠・素岬︒上穂波ー冷村︒天道町ー遊水︒大隈町ー土偶堂︒嘉磨ー知方︒
野ー助然・――一郎次•長太夫・万水•藤乎・野然・辰之助・白之・水露等の俳人の名が見える。朱拙は此年二月、
近くの朱拙の指導下にあった人々︑
定・殉方・助然•藤乎.冷村・野涼・鬼紅・此及・又推等の俳人達が集まり、朱拙の句を立句に俳諧が興行された。
内野から 太郎丸ー共紅・野涼︒内
蝶 鳥 に か せ
筑前の比及亭興行 それから東北二里程の鯰国の朝三堂季水を尋ねた︒こ
4
に旅寝を璽ねてゐる間︑直方の一定・市水等の人々︑
の助然も訪ねて︑逝いて間もない丈草・去来等の事や俳壇の動向について頻りに話が交はされた︒
丈草の飛揚もむなしく︑去来の阪鞍のとりはづして︑なにとやら風雅もさうた\しきおりから︑四方郎 の旅ねゆ\しく︑笈もかくしつなどき︑/\とて︑こ
4
の風士等も訪れ来れば ぎ 当
雪 ま つ か 胴 声 せ ば る 烏 の 声
夜 道 打
耳
根 摺
た て
る
大 鴨
根 年
宝永元年冬︑朱拙は筑前内野の助然の亭に足を休め︑それから近くの穂波の比及亭を訪れた︒
助然亭にまろびこみしは︑しぐれ月の廿日あまり一日になむ
の
の
声
ねたが︑この時野披は内野の助然の許をも訪れてゐる︒
元緑十五年から同十六年にかけて志太野披が九州行脚に来たり︑ 波の住としてゐるのはいぶかしくおそらく誤りであらう︒
季 朱 朱
水
拙︵続山彦︶
拙︵土大根︶
その他内野
久留米・日田・博多等に俳壇勢力拡弧の為の旅寝を重
本集には筑前穂波として助然・冷村・鬼紅・野涼.叉推・此及、嘉磨—梅披・舎若・散木の句が見える。
こ4に助然を穂
て ︑ この比︱つの撰あり︑初たよりといふ﹂と述べてをり︑知方が朱拙に師事し︑その教を受けてゐた事は明白である︒
筑前好士大村氏知方子我が翁の風流をあまない
︵中 略︶ よの常︑朱拙によりて琢磨せられけるとぞ︒終に共功あらはれ
九 州 蕉 門 の 研 究
四0
九 州 蕉 門 の 研 究
八 朔 の 名 に 呼 か し や 萩 の 花
四
魯九の﹃春の鹿﹄︵宝永三年刊︶には同地方俳人の句が収められてゐる
3
本書は入集作者の俳号の上に本名が害加へら れてゐて甚だ便利であるので次に引川してみよう︒尚︑土期の句は前別したからこょには繰り返さない︒
魯
九 内 野 助 然 亭
宝永二年には助然撰﹃山彦﹄﹃続山斉﹄が板行された︒この﹃続山彦﹄に﹃漆川﹄の撰者士明の名が初めて見えるので ある︒この年八月︑九州行脚中の美濃の孤耕庵魯九が博多から嘉穂地方に足を入れた︒ たのに反澄して編集されてゐる様に思はれる︒
朱拙は又季水亭滞在中に季水に助力して﹃土大根﹄の編纂に取りかしり︑
曾木・野涼・市水・知方等の句を録し︑又朱拙と季水との俳諧問答を多く記載してゐる︒践に季水は﹁四方郎と一時戯興 の事︑泄に広がれといふにはあらねど︑我がかたの者のたよりならしめむと﹂思ひ上梓した事を述べてゐる︒然し内容を 閲するに前年の知方の﹃初便﹄と吾仲の﹃枕かけ﹄との問に編集様式の類似について間題が起り︑.吾仲等から非難を受け
︵ 以 下 略
︶ 名 月 に 落 て 塞 け て 夜 の 速 き
翌年上梓した3
本集には助然・季水・一定・
助
然 昏 帳 ふ み あ ふ 足 の お ほ き さ
木 念 比 な 旦 那 を そ し る
ゥ^
上 日 よ く で も
口 出 し て
定 元 の 十 月
曾 朱
拙
一日のとやきとなし侍りぬ
ト デ ラ
短 衣
荒る
形
も
冬 野 の 旅 鶉
右の中︑直方の住以下は嘉穂でなく︑鞍手に属するが便宜こ入に挙けておいた︒
旅寝して﹁龍門爆布之記﹂を馬貞の﹃七異跡集﹄の為に書与へた朱拙は︑
野
吟
め︑十二月に嘉穂の漆生︑士明亭に笠をぬいだ︒﹃七異励集﹄には助然・土咀・知方・其紅の句が入集している︒
では何時もの朱拙来遊の時の様に俳人遂が集まり︑漆川についての題詠がなされたり︑歌仙が巻かれたりした︒
四方郎のたしずまゐを戯れに画して茅屋になぐさめるおりから︑愛の連衆に遠近の友もまろびこみて︑ 夕 飯 は な く と も す ま せ 初 月 夜
七 夕 や 移 り と ゞ け て 草 の 上
土咀亭 歩行神につかれた如く遠く筑前地方に足をす
4
此年秋八月︑豊後玖珠の馬貞のもとに
小屋瀕宗十郎
曾 小野上洞平次其ヽ
月 に つ れ て 尾 も は た ら く や 賜 の 声
ラ こ と
i粛b
そ 渡 る 雁
出 格 子 の 二 間 な を り こ て あ ふ た
て 月 夜 哉
竹 藪 の 間 を ぬ け て や 早 稲 の か さ
村 雨 に 崩 れ て 散 る や 稲 雀
雲 色 の の ほ せ て 来 る や 渡 り 烏
鈴 ふ つ て 馬 も 戻 る や
九州益~円の研究
早 稲 の 花
直 方 吉 右 ヱ 門 外
原 田 平 助 衣
土 多 助 二 郎 季
正 円 寺 百
荒 巻 三 郎
楚
大 庭 太 右 工 門 藤
荒 巻 佐 平 次
四
助
乙 紅
J f l
振 フK 之産
乎 殊
" "
此滞在中︑朱拙は何時もの編集癖にとりつかれ︑俳壇的に有名でない新人土明に蒐集の句稿を提供し︑且︑
与へて一集の撰者たることをす4
めた︒その序に﹁此所︑西に助然︑北に季水︑南に細方おりて︑各々その手をかためた
句吹ばやの精兵四人がこ4ろを合せ
り︒今亦此主東方を塞げつれば︑いかなる吟人狂客入替/\あら手を寄せたりとも︑
て茶つけ攻にせめ付たらば︑っゐにやり句を出させず︒
きやっこ豆腐も座中にたまらず︑大勢に頭巾をおろさせむ事︑日をかぞへて待べし﹂と述ぺてゐるのに依ると︑
に入って急に九州地方の俳壇勢力拡張に乗り出した野披を初め︑
壇の結束を強固になす為に︑こ4
に土明を後見して四たび朱拙は撰集に当ったものと考へられる︒
扱て﹃漆川集﹄は発句二百句を先づ名所・餞別留別贈答
. .
哀傷井懐旧・祝言•以後季題を四季の順序に大凡配列してを
九 州 蕉 門 の 研 究
︵ 以 下 略
︶ 浪
/ ヽ
・ 中 に 鑓 も う ち 喰 ふ
あ と て な き 姫 路 の 盆 の か す か な り
内 は 意 地 と 又 降
四
その他の行脚俳人逹に対し︑朱拙の指導下にある嘉穂俳
声先の高名には大盃を投出して右往左往に飲ちらさば︑むくつけ
︵ 漆 川
︶ 朱
拙 知
方
あ り 有
キワ ク
生 綿
の
甫
道 て 肴 の と れ ぬ 月 の 比
季
水 噂 ば か り に 御 触
つ し や む
大 胆 な 舟 て 仕 当 る 分 限 に て
今 年 も 雪 は 西 国
が 勝
宝永年代
野 助
士
情 然 明
序文を書き
田の聴雪亭での作である事は明らかである︒ の吟なるよし﹂といふ添書があるが︑これは編者の間違ひで︑に﹁蓬左の人々に迎ひとられて︑暫く休息する産︑箱根越す人も有るらし今朝の雪﹂と︑あると全く同形で見える︒句又﹃如行子﹄にも見え︑それには﹁四日はみのやの聴雪にとゞめらる\︑その夜の会﹂と前書があり︑十二月四日︑
﹁崎水の宇鹿とぶごの地に別るとて﹂の前書ある朱拙の句は︑宝永二年二月十
H
︑椿底舎︑その他を訪れたときの作である︒宇鹿は日田に十日間租滞在して去ったのであるが︑ 次に集中の発句についてニ・三愚考を述べてみよう︒ 百・風然.至州・冷村・一器・梅旭︒
九 州 蕉 門 の 研 究
Jの句はその折の送別吟で 酉田宇鹿が遥々日田に吟杖を曳き︑
熱 ﹂ の
貞享四年十二月の卯辰紀行の折の吟で︑﹃笈の小文﹄の中 巻顕の芭蕉の﹁箱根越す人もあるらし今朝の雪﹂には﹁天和の初
り︑部類としては可成り乱雑な様である︒そして巻頭には芭蕉︑巻末には朱拙の句をそへてをり︑
穂俳人との歌仙一巻を納め︑践は土明自ら﹃漆川﹄の来歴について記し︑
てゐる︒作家の総数は九十五人︑うち五十人が九州俳人︑残り四十五人が九州以外の俳人である︒
のは江戸・尾張・美濃・越中・湖南・京・大坂・伊賀・伊勢の俳人で︑
川・白雪・木因・刑ロ・魯九・如行・千川・怒風・素覧.嵐青・浪化・洒堂・丈草・正秀・許六.楚江・智月・去来・為
有・諷竹・舎羅・士芳・半残・非群・万乎・涼英等︑蕉門名家揃ひの卸々たる顔触れである︒
九州俳人は豊前・豊後・筑前・肥前・肥後の人々で︑特に半数の廿二人は筑前の俳人である︒参考迄に筑前俳人の名を
掲げる。野吟・一定・是寸・知方・助然・季水・甫遁・野情·野涼・轟輪・又推・紅玉・其紅・市水•松袢・散木・為
芭蕉.惟然・杉風・野披.其角・嵐雪・史邦・露
九州以外の俳人と云ふ その中に漆川を詠んだ諸俳人の発句八句を並ペ 四四 次に前掲の朱拙及び嘉
九 州 蕉 門 の 研 究
四五
橙 の 火 に 先 お ち
つ き ぬ む め 筑紫廻国の春をむかへて︑山里に生海鼠あり︑浦里にこんにやくあり︑何事もとぼしからず
の 花
野 紅
て凍菟が日田を出立した日時と行先とを知り得る︒ あ る︒
この文中泰軒とあるのは﹃蟻の宿﹄︵此の書はまだその発見が報告されてゐない未紹介のもの である︶の撰者︑肥後の泰軒で︑ー阿誰軒の目録には﹁台軒﹂と見えてゐる︒
旅立つていったのである︒この時の日国俳人との交歓の様は前記りん女の﹃若卿﹄に詳しい︒
書によると︑共後も両者の間に文通が行はれてをり︑五月朱拙が愛児を失った際︑
朱拙の﹁蓑虫の荷は﹂の句の前書﹁伊勢の涼菟︑我が郷に年をへて︑睦月の十日あまり︑
涼菟は﹃中やどり﹄︵宝永二年刊︶︑﹃しるしの竿﹄︵同一一年刊︶
ると宝永元年十二月︑中津から耶馬浚を経て日田に入り︑此処で越年してゐるのである︒
亭
の餞別吟をものしてゐる︒
初 花 に 列 ま で 取 て 別
餞
別
力、 な
あり︑りん女自筆稿本﹃若卿﹄によると︑朱拙はこの外に
涼
努︵ しる しの 竿︶
によ 肥後の方に赴けるに﹂に依つ
早速宇鹿は哀傷の句を寄せてゐるので
故郷のよめなに喰あき︑ほこのつくしもつみすて︑ひとりすらねたましかるべき折からのた
4ずまひな るに︑風納泰軒のかたをも我がものにとり絵られし崎陽の宇鹿子に別侍るとて
ー同じく日田に旅寝してゐたが宇鹿と共に
宇鹿の﹁稲妻も﹂の句の前
朱
拙
﹁今:色時に鰹や﹂の句の作者荊口は大垣藩士宮崎太左衛門︑前書中に見える千川はその次男岡田治左衛門︑
藻士で︑此句は恐らく千川が江戸詰めで出府の時︑父荊口が酒についていましめたもので︑千川は大酒飲みか︑
酒に関する彼の句を捜したが﹁菊の香やふるき難波の呑手共﹂︵﹃韻塞﹄︶の一句しか見当らなかった︒
哀傷の部には丈草と去来の悼句が見えるが︑この蕉門の篤実な二俳人は前年の宝永元年に歿してゐる︒
十七年一一月廿四日︑去来ほ宝永元年九月十日に死去してをる︵三月十三日改元︶︒去来の悼句を詠んでゐる朱拙には﹃芭蕉
甕﹄にも﹁十
H
洛にして去来の墓参に﹂と前書した﹁追日我が友よ十日の菊の形﹂の句が見られるが︑
﹁正月を出して見せうそ﹂の去来の句は﹃既望﹄に﹁稚きものを愛して﹂として入集してをり︑﹃芭蕉盟﹄には﹁いとけ なきものを愛して﹂と前書して見え︑それ卜\中七が﹁見せうか﹂となってゐる︒
と云ふ事は︑朱拙が余椙此句に関心を有してゐた事を示してゐる︒
は去来最晩年の作であらう︒元緑十七年春の吟とすると︑長女登美が十歳︑
西女﹂の﹁兄弟の顔見合せて﹂の句の前書に﹁亡父西国が七めぐりの齊に﹂と見えるが︑
ば前引﹃古哲伝草稿﹄︵著者不詳・文化文政頃成か︒日田市橋本正樹氏蔵︶によると元緑八年四十九オで歿してゐるので︑ ﹁肥後小国 いふ事になる︒ 渉があったのであらうか︒ 本集には又彼の﹁名月序﹂が収められてゐる︒ でもあったのかQ
海 山 に 事 は か
4
じ な 四 方 の 春
九 州 蕉 門 の 研 究
酉鶴門の中村西国
然も此句が見られる最初の集が本集だとすると︑これ
次女多美が八オのいたいけ盛りの初春の句と
斯<朱拙系の三俳書に採録されてゐる
去来生前に朱拙と交 涼 四六
菟︵
郎ち丈草は元蒜 酒乱の癖 同じく大垣 同
九州葎~門の研究
の二つの形で従来知られてゐたもので︑﹃栞集﹄は後年刊行されたものであり︑﹃前後園﹄︵元緑二年刊︶は他流の言水の 撰でいづれも信用度のうすいものであった︒共の後貞享四年秋執筆の真蹟が現存することが発見されて︑
里 の 子 等 梅 折 の
はれるのである︒
こ
せ 牛 の 鞭
四七 句形も真蹟の方
︵ 前 後 園
︶
魯九が宝永二年に日田を訪れた時日を大 此事は今迄どの俳書にも見られな
..
.
七回忌は元蒜十四年に当る︒尚︑句中のくゐなの季から夏に歿したことがわかる︒﹃古哲伝草稿﹄や﹃亀山紗﹄︵森春樹 著・文政十︱︱一年成︶には西国は一子を肥後小国奴留湯家に蓑子にやった事が記されてゐる︒
. .
湯︶の父の意味で﹁亡父西国﹂と記したと思はれなくもないが︑然し支考の﹃簗日記﹄に﹁なにがし西国といふおのこの ゆかりの人にておばせば﹂の記が述あるが︑父子の関係をゆかり人と一云ふのはどうもしつくりしない︒
主人国湯が西国の
実子と一云ふ感じがしない︒私には国湯妻の俳号が四女と云ふのは西国の女の意味で号してゐる様に思はれる︒
が国湯に嫁いだと考へる方が︑菌湯をさして西国の﹁ゆかりの人﹂と云ふ言葉にぴったりする様である︒実子の国湯に父 の迫善句がないのに︑七回忌に養子先の嫁が義理の父の追善句をわざ/\発表するのもどうか︒西女は西国の娘の様に思
﹁若竹や﹂の朱拙の句の前書によると︑朱拙は宝永二年五月七日一子を亡くしてゐる︒
かった事実である︒又これと関係した魯九の﹁籠り居る﹂の句の前書によって︑
よそ明らかになし得たのは倖せであった︒
芭蕉の﹁里の子よ鞭おり残せ梅の花﹂の吟は
さ と の こ よ 梅 お り の こ せ う し の む ち
真︵
蹟.
栞集
︶
西国の一女 酉女ぱ夫惣左ェ門︵俳吾国
の発句及び前饗によってその関係が考へられてゐたが︑
Jれとて年代を叩確になし得ない︒﹃古哲伝草稿﹄には翁歿後翌 柳
さ
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春.~ ま
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味 丸
朱
枡 主 は 誰 山 吹
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ノ
味 丸
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共
角 寝てかどへ蓮にさそふあさげらけ
﹁しのばずが池へは私宅より一二十余丁なり
朱拙と其角の交渉は明らかでない︒たゞ﹃星合集﹄の
然し本書の﹁肥前の舟中口号﹂の前書により︑
博士が元緑囮年以前の句とされる
︐が信頼され︑年代も貞享四年頃のものと考へられるに至ったのである︵穎原退蔵博士著﹃芭焦俳句新講﹄参照︶
Q
がこの書の所載句はそれらと又句形を異にするものであって注目される︒添書に﹁天和のはじめ︑
ての吟なり﹂とあり︑年代がや
4おくれるだけ勿論この記事も疑ほしいがあるひほ何か依るところがあったのかも知れ 去来の﹁他の海に高飛したる﹂の句は﹃芭蕉盪﹄にも見え︑﹁長崎へ赴く道中﹂と前書かあるー︶
は﹃芭蕉.去来﹄の中で﹁これは五月中の作とせねばならぬから︑
恐らく元緑四年以前のある時の事であらう︒﹁高飛し たる﹂などといふのにも︑何かもっと若い折の語気が感ぜられる﹂と述ぺてをられる︒
のは︑元緑十一年の去来の長崎旅行の時期が秋に当つてゐたからである︒
元緑十二年夏︑長崎滞在中の去来が所用か何かで肥前の海上にあって吟じたものとも考へられる様である︒
十八丁に朱拙宛の其角書簡の一部が記載されてゐるが︑この句は助然の﹃続山彦﹄に
共角﹂として入集してゐる︒
ひと
4せ晋子と六味丸の店にまかりて︑短冊のぞミ侍るに
九 州 蕉 門 の 研 究
四八
︶れについて頴犀博士 浪土なにかしのもとに
と こ ろ
九 州 蕉 門 の 研 究
四九
行脚 中の 露川 と長 崎で 会し てゐ る
﹃︵ 西国 曲﹄
︶︒
年として︑朱拙が江戸難波橋に其角を訪うた時︑共角がものした﹁送朱拙兄序﹂と云ふものが掲げてある︒
愛に
これによると
朱拙は十一月から翌年五月迄江戸に滞在してゐた様であるが︑元緑八年冬は惟然と共に日田に朱拙はゐたのであるし︑
の年月にさうした期間を見出し得ず︑従って其角生前の朱拙東武行には私は今のところ疑問を持つてゐるのである︒唯︑
この書簡によって朱拙と共角と︑二人の間の交誼がある程度考へられる︒
﹁しらぬ火や夜寒さのほる﹂の怒風の句はその前書﹁肥後の国八代の海にしらぬ火見物に罷りて﹂とあり︑九州行脚中不
元詠十一年支考来遊の時は朱拙と共に黒崎に に州
あり
︑
知火見物に八代を訪れた事がわかる︒怒風は九州には属々杖を曳いてをり︑
をり︵﹃巣日記﹄︶︑元藤十二年野披が長崎に旅寝の頃には又長崎にあって共に名月を賞してゐる︒
制作年代は明確でないが︑元緑十二年の九州行脚中の吟か︒
この句は叉前書なしで寸木撰﹃花の市﹄︵正徳二年刊︶にも見える︒
﹃山彦集﹄と云ふのは﹃続山彦集﹄の事で︑
その後享保元年にも九
曾米の﹁牛売て伯母の道きる時雨哉﹂の句は﹁山彦集に去来とあやまりたるから愛に改め侍る﹂と添書があるが︑
︑︑
︑ 成租同集﹁牛売て伯父と道きる時雨かな﹂の句の作者は去来となってゐる︒
しかも後の蝶夢の﹃去来発句集﹄︵明和八年刊︶には追加としてこの句を収め︑故安井小洒氏の﹃蕉門名家句集﹄も去来の 部に収め︑如れも誤を襲うてゐるのである︒これが本集によってその正誤がはつきりしたわけである︒
梅丸の﹁月雪と集めて梅の﹂の句の前書の﹁宗因を師とし︑はせを翁をしたふしれもの﹂と一
kふのは朱拙を指してゐる
様に思はれる︒朱拙は﹃土大根﹄中に﹁拙︑大坂の客舎にあるころ西山宗因にむつびて連俳の事を問ひて一字々﹂と述べ︑
又同 集に
﹁拙 が日
︑︑ しか りひ と
4生故翁︵芭蕉︶難波の旅店にいまそかる比︑文通に此事を問ひたるに﹂とも一
Kつ
てゐ
る︒
他
九 州 蕉 門 の 研 究
その序中にも﹁於乎亡師いまそからば此体段をゆるし給はん や﹂と記してゐるのである︒宝永以後朱拙は九州地方の俳人達に斯うした事を話し廻つてゐた様であるが︑
た如く初期の彼の足跡から考へて疑はしく︑例の﹁宗祇の蚊帳﹂のたぐひと思ほれるが︑
﹃漆川集﹄の所載句について述べたい事は未だ外にもいろ/\あるが︑紙数の加減でこの位にしておかう︒
﹃漆川集﹄板本の発見によって斯うした幾つかの未知の事柄が明らかになったのは誠によろこばしい︒
尚︑最後に述べたい事は︑宝永・正徳・享保にハげて九州には野披・孟遠等の勢力が可成り扶植され︑
前・筑後・肥前・豊後方而の勢力は侮り難いものがあった︒田代の紫白・紫青等の俳人逹︑内野の助然︑
後年披門に走り︑野披の指導を受ける様になり︑朱拙は可成り苦しい状態に浴入るのである︒然し︑
穂俳壇の多くの人々は篤実に朱拙の指導下に結束を固めてゐた様で︑亨保九年︑
後見のもとに﹃芭蕉堕﹄を編集刊行したが︑﹃芭蕉盟﹄には土朗・知方の句以外に多くの同地方俳人の句を見出す事が出
来るのである︒
︵一
九五
三年
七月
二十
五日
︶
とまれ︑この 特に野披の筑
筆を掴くに当り︑貴重な﹃漆
J I ﹄集原本の翻刻紹介を許された︑その所蔵者九州大学教授田村専一郎氏︑並びに本稿の執筆に多く の援助を受けた九大文学部特研生大内初夫君に裸甚なる謝意を表する︒
した策略が既に朱拙には必要になって来てゐたのであら
, , . . ̲ ; o
又﹃芭蕉藍﹄に芭蕉から直接おくぢれたと一云ふ付合を並べ︑
同地飯塚の菊田有隣が久方振りで朱拙の
斯うした時なほ︑嘉 その他の人々ほ
蕉門故老逹と対抗するにば斯う
五0
︶れは前述し
九 州 蕉 門 の 研 究
五一 歳 旅 乙 酉 冬 錯 月
はしめならすやなと戯れ捨て︑此ギの鐙下に足をのはしてふしぬ︒
漆川は野見山氏土明の撰躙.なり
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土明語`らく︑凡風雅堅地ならされは︑表詞うつくしうぬりま→しても︑いつとなく打
ァ4
ク j
ヲ
はかされて︑花鳥の入物口惜うなりもてゆける︒世の中の有さまを此名に寄せてまもれるなりと︑於乎風蔀男なるかな
C他
南に知方お
日俳城の英雄となりて︑乾坤の箱に造物の出し入︑心のま
4ならん事疑ひあらし︒此所酉に助然︑北に季水︑
フサ
りて︑各その手をかためり︒今亦此主東方を塞けつれは︑いかなる吟人狂客入替/\あら手を寄セたりとも︑
コ
^ サ キ ヲ
* サ カ ッ キ ナ ヶ
り句を出させす︒声先の高名に→大盃を投出して︑右往左
セメ
精兵四人かこ4
ろを合せて︑茶つけ攻にせめ付たらは︑つゐにや 往に飲ちらさは︑むくつけきやつこ豆腐も座中にたまらす︒大勢は頭巾をおろさせむ事︑日をかそへて待へし︒
機を照らして︑あふなき処を仕てとらは︑蕉翁何ン人そ︒つとめよ/\︑もとより此筋→人の心を種子として︑萬の笑ひの
﹂ ニ オ
諧 誹
俳 諧 漆 川 集 序
漆
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変に応し 句吹はやの
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尾 州 露
JI[ 真 野 は 一 一 度 勢 多 に は 今 や 初 時 両
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︑ 横 ま 念 仏 い ふ は 豊 後 の 名 跛 な 朱 拙 か 文 に 聞 え け れ 化 は 粧 は
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ら ︑ 葛 飾 の 郡 は な れ し 花 の 雲
芭 蕉 症 眺 望
天 和 の 初 の 吟 な る よ し
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九 州 蕉 門 の 研 究
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九州韮~刊の研究 薄着 す る 我 引 と る な 冬 か つ ら
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笠 の 端 や 昼 中 暮 て 汗 拭
の や 山 吹 の 瀕 の 定
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悼多を出るとて 山 雀 の 家 を 尋 ぬ る 霜 蹄 哉
鯛 の 背 を 詠 め
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九 州 蕉 門 の 研 究
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九 州 蕉 門 の 研 究
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九 州 蕉 門 の 研 究
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九 州 蕉 門 の 研 究
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