戦 中 ・ 戦 後 の 専 修 大 学 を 語 る
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(2) 出席 者. 司. 平 成 一二 年 三月 二 一日 ( 土 )午 後 一時 三O 分i 四時 三O分. 本 学 文 学 部 の教 授 であ り ま し た青 木 美 智 男先 生 を編 集 主 幹 と し て迎. え、 名 称 はまだ未 定 ではござ います が昨 年 より、 専 修 大 学 一三O 年. ( 昭和 一八年予科 昭 和 二五年経済学部卒 ). 昭和 二二 年経済学部卒). てだ け ではなく専 修 大 学 の歴史 を後 世 に伝 え るた め の大切 な資 料 と. のお話 を お伺 いす ると と も に、 こ の話 を 一三O年 史 編 集 の資料 と し. 本 日は、 六 人 の校 友 の方 々 にお集 まり いただき ま し て、 学 生時 代. 五A 会 議 室. 樋口 義雄 氏 ( 昭和 二 二年予科 昭 和 二五年経済学部卒 ). 神 田校舎 八号館 ( 法科 大学 院 棟 ) 五階. 繁 住敏郎氏 ( 昭和 二二年予科. し て有効 に使 わ せ ていた だ き た いと思 います。. 史 の刊行 準 備 を進 め て いると ころ です。. 斉藤昇氏 ( 昭 和 二七 年商 経学 部 商 業 学 科 卒 ). これ ま で大学 史 資 料課 の業 務 は資 料 の収 集 や保 存 が中 心 で、活 用. 秩 父勇 一氏 長 谷 川 富 士雄 氏 ( 昭 和 二七 年商 経学 部 経済 学 科 卒 ). にま で手 が回 ら な いと いう よう な状 況 でござ いま し たが、昨 年 、青. こう と いう こと にな り、 『専 修 大 学 史 紀 要 』 と いう 研究 雑 誌 を今 年. 木 先生 が お越 し にな って、 大 学 の方 から も色 々と知 の発 信 を し て い. ( 昭 和 二七 年商 経学 部 経済 学 科 卒 ). 古 家 保 二氏. ( 専 修 大学 法 学 部 教 授 ). にな ってお り ます け れども、 本 日 の座談 会 の模 様 を掲載 させ ていた. 大谷 正. ( 専 修 大学 史 編 集 主 幹 ). だ き たく、 ご了承 を いただ き た いと思 います の でよ ろし く お願 い い. か ら刊行 す る こと にな り ま し た。 来 年 三月 に第 二号 を 刊 行 す る予 定 青 木 美智男. ( 専 修 大学 文 学 部 教 授 ). た し ます。. それ では私 の方 か ら、 本 日出席 の 一三O 年 史 の編 集 に携 わ る教 員. の紹介 を させ ていただ き た いと思 います。 今 、 申 し ま し た元文 学 部. 本 日は本当 にお忙 し い中 、 お集 ま り いただ き ま しで あ り がと うご. ござ いま し て、 そ のメ ンバ ー であ る新 井 勝紘 文 学 部 教 授 と大谷 正 法. 次 に、 専 修 大学 一三O 年 史 の編集ア ド バ イ ザ ー 部 会 と いう組 織 が. 教 授 で、現在、専 修天学 史 編 集 主幹 を され てお ります青 木 先生 です。. ざ います。 大学 史 資 料 課長 を務 め てお ります岩 崎 と申 し ます。 ど う. 学 部 教 授 です。. それ では こ こか ら は、 司会 お よび 進 行 を務 め る大谷 先 生 の方 か ら. ぞ よ ろし く お願 い いた し ます。. だ き た いと思 います。. それ ではお時 間 にな り ま し た の で、 そ ろ そ ろ始 め さ せ ていた. 新 井 勝紘. メ〉、 エミ. 専 修 大 学 は来 年度、創立 一三O年 を迎 え ます。 大学 史 資 料 課 では、. -10-. 場 日 所 時. 岩 崎.
(3) 戦中・戦後の専修大学を語る. よ ろし く お願 いし た いと思 います。. まとめた も の です。終 戦 とと も に大学 は、戦 争 か ら帰 ってき た学 生、. 新 し く戦 後 入 ってき た学生 に対 し て授 業 を始 め る ん です け れ ども、. 実 際 は昭 和 二O年 には再 開 でき ず、 翌 年 か ら授業 が始 ま った よ う で. す。 そ のと き に 一 つ大 き なテ l マ と し て、新 し い大学 を作 ろう と い. それ では、 これ か ら あ と の司 会・ 進 行 は法 学 部 の大谷 が さ せ. ていただき ま す。 お手 元 に二枚 の年表 のよう な も のを ご 用意 いたし. う動 き、 『専 修 大 学 百 年 史 』 ( 以後 、 『百 年 史 』 と略 ) に は 「大 学 復. です が、 こ の辺 も 『 百 年 史 』 を読 んだ だ け では、 あ る いは大学 史 資. ま し た。 大 体 、 昭和 一五年頃 か ら終 戦 後 の昭 和 三O年ぐ ら いま での. 今 度 刊行 す る 『 専 修大 学 の歴史 』 の執 筆 は、 戦 争 中 は こち ら の新. 料課 が保 管 し て いる資料 、 だけ では、 つか みづ ら いと ころが あ ります. 興 運 動 」 と書 い てあ りま す。 いろ ん な学 生 たち の動 き が あ った よ う. 井 が担当、 そ の後 の戦後 の部 分、昭和 三O年 ま では、私 が担当 と な っ. の で、 そ の時期 を体 験 され た先 生 方 に、 ぜ ひ と も お話 を お聞 き でき. も の です。. ています。 先 日から大学 史 資 料 課 で資料 を見 てお りま し たが、 実 際. れ ば と考 え てお ります。. つマ つい て、 年 表 の二枚 目 にあ る新制 大 学 への移 行 の問 題 を お聞 き. 11. の学 生 の動 向等 を一 不す資 料 が少 な いため、今 日は皆 さ ん に色 々な お 話 を 聞 か せ ていただ き、 こ の時 期 の専 修 大 学 の資 料 を後世 に残 す と. し た い。 昭 和 二 四年 が新制 大 学 の第 一期 にな って います が、今 日 い. ら っしゃ った方 では、 樋 口 先 生 、 斉 藤先 生 、繁 住 先生 を除 く他 の三. とも に、 我 々 の執 筆 にも ぜひ とも参 考 にさ せ て いただ き た いと考 え てお り ます。. 人 の方 は多 分 、 新制 の卒 業 にな るかと 思 います。. 旧制 か ら新制 への切 り替 え時期 の様子 や編 入 のあ り方 に つい て、. 本 日は戦 争 中 の専 修 大 学 の様子 、 当 時 の大 学 の幹 部 の動 向 、 あ る いは戦 中 ・ 戦 後 にお け る教 育 制 度 の変遷 、 そ のほか勤 労 動 員 や繰 り. 我 々 には よく わ か ら な い点 が多 い の で、 教 え ていただ けれ ば と思 い. それ か ら、新 し く 生 田校 舎 を買 って大 学 の発 展 の基 礎 が でき る の. 上 げ卒 業 、 徴 兵 猶 予 の停 止 と いう ような と ころを ぜひ とも お聞 き し. 今 日お集 ま り いただき ま し た方 々 では、 樋 口 先生 が戦争 中 に在 学. も こ の頃 です。 当 時 の大学 運営 の中 心 にな ってお ら れ ま し た のは、. ます。. し てお ら れ ま し て学徒 出障 を経 験 し、 戦 後 、 大 学 に帰 ってき てお ら. 今 村 力 三郎総 長 を はじ め、 大 河内 一男 学 長 、 それ か ら築 田欽 次 郎 理. た いと思 います。. れ ます の で、 最初 に樋口 先 生 か ら戦 争 中 、 あ る いは戦 後 のお話 を伺. 事 長 です。 そ の後 を 継 い で小 林 良 正学 長 、 鈴 木 義 男 理事 長 ・ 学 長 、. 川島 正次 郎 理事 長 ・ 総 長 らが、 専 修 大 学 の運営 を担 って発 展 さ せ て. いた いと思 ってお り ます。 それ か ら、 年 表 の 一枚 目 の下 の方 は終 戦 直 後 の専 修 大 学 の動 向 を. - -. 大 谷.
(4) いき ま し た。 これ ら に つい ても お話 を願 いた いと 思 います 。. 学 校 に入 り ました。. それ で専 門僧 堂 に入 り まし て二 年 。 その 後 専 修 大学 の 予科 に入っ た. 住職の 資格 を も らう ため にはまず専 門学 校卒業 でなきゃ いけ な い。. 勉 学 の 様 子 や、 それ か ら本 日出席 さ れ た方 では スポ ー ツ 方 面 で活躍. わ け です。 その 問 、 す でに総 持 寺 の 研究所 に籍 を お き まし て、 専 修. それ か ら、 何 よ りも我 々が聞 き た いの は、 当 時 の 学 生 生 活 です。. さ れ た方 が お ら れ ますの で、 そ う いう学 生生活 の 様 々な側面 に つい. た。 良 い坊 主 にな ろうと 思っ たん です。 し か し私 には仏 教 の 五欲 を. 大学 の 学 部 へ 入っ た頃 に総 持 寺 を卒業 し て曹 洞 宗の 教師 にな り ま し. 今 日は六 人 もの 方 が いらっ しゃ って下 さ いま し たの で、 御 一人 一. 守 れ な い。 不殺 生 と か いろん な こと を いう でし ょ。 ど う考 え ても守. て、 ぜひ と も知 り た いと いうの が我 々の 希 望 でござ います 。. O分 程 度 で、 それ ぞれの 学 生生活 、 あ る いは今 日お配 りし た年表 の. れ な いし ね。. 自 由 人 だ ったん です ね。 生 まれ たと き か ら寺 を継 げと いわ れ、 非. なか で我 々が 聞 き た いと 思っ ている こと に つい て自 由 にお話 いた だ き、 その 後 、 少 し休 憩 を取 り まし て、 こち ら か らの 質 問 に答 え て い. るため に豊 川妙音 寺の 専 門僧 堂 へ 入っ て、 すぐ に総 持 寺 に行 って、. 12. 常 にき つい目 に遭 いま し た。 何 も自 由 な こと はな い。 でも資 格 を 取. それ では順 番 と し ては、 先輩 の 方 か ら順 次 お話 を願 いた い。 最 初. そ れ で終 わ ったと 思っ た ら今 度 は、 「 駒 沢大 学 に行 け」 って いうん. ま し た。 終 戦 にな って専 修 大 学 に復 学 し たん です。 祖 父 が住 職 を務. - -. ただ けれ ば大 変 あ りが た いと 思 います。. に樋口 先 生 か ら口 火 を切 って いただ き、 次 に繁 住 先 生、 斉 藤 先 生の. 門僧 堂 に行っ たん だ か ら駒 沢 に行 ったっ て何 にも なら な いだ ろう」. です ね。 「 駒 沢大 学 に行っ た って何 にな るん だ」っ て いっ たの 。 「 専. そし て昭和 二七年 卒 業 の 方 々 に つい ては、 五十音 順 で秩 父 先 生、. と い った ら、 「いや、 行 け 」 っていう。 でも 行 か な か った。 それ で. 順 でお願 い いたし ます。. 長 谷 川 先 生 、 古家 先生と 、 こう いう順 番 でお願 いし た いと 思 います. 専 修 大学 の 予科 に入 り ま し た。. こ こな ら いろん な実 務 の 教 育 も受 け ら れ るし 、 いろん な資 格 もも. が よ ろし い でし ょう か。 それ では、 樋 口 先生 か ら よ ろし く お願 い いた し ます。. ら え るし、 学 校 の 先生 にも なれ るし と いうの で専 修 大 学 を選 ん だわ. てお り ますの で申 し上 げ てお き ます。私 は栃 木 の 曹 洞 宗 の お寺 に生. め て いた お寺 に住 み 、 葬式 の 手 伝 いを やり ながら通 いま し た。 その. け です。 その うち に学 徒 出 陣 、 特 攻 隊 と し て陸 軍の 飛行 戦 隊 に入 り. ま れ ま し て、 佐野 中 学 を出 た後 、 豊 川妙 音 寺 専 門僧 堂と いう学 校 に. 当 時 の 下 級 生 に秩 父 さん が いまし た。. 一番古 いと いわ れた樋口 でござ います。ち ょ っと経 歴 が変わ っ. 入 り ま し た。妙音 寺 と いうと 豊 川稲 荷 です ね。 その 豊 川稲 荷 の 専 門. 樋 口.
(5) 私 が専 修 大学 に入っ たの は昭 和 一 六年 四月 でし た。阪 谷 芳 郎男 爵. 演 説 会 を やっ てま し た ね。 だ か ら専 修 大学 っ ていうの は右 翼 の 学 校. じゃ な いか なん て いわ れ ていまし た。. 学 生服 も国 民 服 に替 わ りま し た。 専 修 大学 の 学 生 も全 員 、国 民 服. 軍の 指 導 が強 かっ たん です が、 専 修 大 学 が一 番 いう こと を 聞 いたん. 専 修 大学 」と 書 か れ ていま し た。 栃 木 の ほう ま であ り ま し. が専 修 大学 の 総 長の 時 です。 ど こ に行っ ても立 て看 板 には 「 男爵 阪. 谷芳郎. 看 板 には九月 入学 と 書 い てあ り、私 は良 い学 校 だと 思っ て入 学 を. じゃ な い です か。 あの 頃 早 稲 田行っ たっ て、駒 沢行っ たっ てみ ん な. になっ た。 それ で受 験 生 に嫌 わ れ る よ う にな り ま し た。 その 当 時 は. 申 し込 ん だ ら、 入学 は い つでも でき るん です ね。 これ にはま いっ た。. 着 物 です よ。 明治大学 に行っ たらみ ん な袴 で下 駄 履 いてるん です ね。. た。. そ こ で格 好悪 いか ら 「九 月 入学 なん て文字 は外 し てく れ。 僕 は専 修. でも専 修 大 学 は非 常 にま じ め な大 学 で、 き ち ん と 国 民 服 着 てゲ ー ト. ル巻 い てね。 本 当 にも う軍国 主 義っ てい' つん です か、 そ う いう学 校. 大 学 を選 ん だの に、 そん なの 困 る」 と 、 大 学 に申 し入 れ たん です。. その 頃 は予科 と 専 門部 と 学 部 が あ り ま し た。. だっ た です ね。. ほかの 大学 と 違っ て自 由 と いうの が な かっ た です ね。 報 国 隊 と か. 神 保 町の この 辺 り は専 修 大学 の 一角 だけ が焼け 残っ て いたん です。. -1 3 -. し か し、専 修 大学 の 学 部 には学 生 が ほと ん ど いな いん です ね。 学 部 に 一0 1 一五人 。予科 と 学 部 は人 が少 な いん です よ。 専 門部 には. に締 め付 け ら れ てね。 上級 生 が下 級 生の 服 装 をちゃ ん と見 て て、 帽. 全 然 違' つん です よね。. て いたと いうん でし ょう か。 だ か ら明 治 と か 日大と か早稲 田と かと. 子 に油塗 っ てるとぶ っ 飛 ば さ れ る。 そ う いう風 に非 常 に統 制 がと れ. 学 部 と 同 じ恰 好 を し た学 生 が雲霞 の ごと く いま し た。 専 門部 と いう の は大学 の 財源 だっ たん でし ょう ね、 こ こ には誰 でも入 れ ま し た。. 予科 は旧制 高 校 と 同じだっ たか ら当然 学 問の 内容 が違' つん です よ。 その ため専 門 部 に入っ た らみ ん な早 く卒 業 し てサ ラリー マ ン にな り. その 頃 は阪谷 さん が亡 く なっ て、 道 家 さん と いう政 治家 が学 長 に. あ れ は二 O年 の 九 月 です か。 僕 は飛行服 を着 て大学 に通っ てたん で. それ で終 戦 にな りま し て、内 地 に帰 っ てき て大学 に復帰 し ま し た。. な っ て いま し た。 彼 は この 大 学 を 私 物 化 し て、 当 時 流 行 っ て いた. す よ。 そし たら 「軍隊 に入っ て いた奴 は来 い、 今 の 大学 はた るん で. ま し たが、予科 と 学 部 の 学 生 は鍛 え ら れ ま し た。. 「 南 進 論 」 を唱 え て政 治 運 動 ば か り し て いま し た。 弁 論 部 を牛 耳 っ. です 、 そん な こと を いわ れ る必 要 な い でし ょう」 て いっ た ら ね、. る」 と 、 学 生監 が こう いうん です ね。 「 僕 は昨 日ま で戦 地 に いたん. 僕 ら は予科 で文科 系 です から、 そ う いう政 治 方面 にはあん まり関. 「いや、 今 の 学 部 は た るん でる」 と こう いうん です よ。 ま あ、 自 由. て右 翼 と 一緒 に講 演 会 を やっ てい たの も この 人 です。. わ らず に割 と冷 た い目 で見 ていたん ですけ ども 、 都 内 でも地 方 でも. 戦中・戦後の専修大学を語る.
(6) し たら、 その 当時 大学 の な か で自 転 車 部 隊 、 いわ ゆ る銀輪 部 隊 ー を. ら 居残 りの 学 生 、復 員 し た学 生 が怒 り狂 いま し てね。色 々と 探 りま. て いるん だ ね。自 分 で辞 令 を発 行 し て総 長 になっ ちゃ っ た。 そし た. 僕 が いた当 時 、学 長 だっ た小泉嘉章 さん が、 い つの間 にか総長 になっ. その うち 続 々と復 員 し た学 生 が帰 っ てき ま し た。帰 つで き た ら、. ア ド バ イ ス を も らっ て、 今 村 力 三郎 先 生の 総 長 就 任と な り まし た。. 学 を有意 義 な大 学 にし なきゃ いけ な いと いう こと で、 それ で色 々と. その 当 時 、朝 日新 聞 に いた先 輩 が来 まし てね、我 々 はもっと 専 修 大. な るの はだ めだ」と いっ た。 それ で我 々が いろ いろ検 討 し ていた ら、. の であん ま り社 会 の 評判 が良 く な い人 だ か ら、 あ あ いう人 が学 長 に. と いう。 私 は 「あの 人 は芸 者買 いを やっ た り酒 を飲 ん だ りし ている. 木 なん と かと いう何 かす ご いの が いたん です よ。 お れ を学 長 にし ろ. もっ てるの は専 修 大 学 だ け だっ たん です が、 そ う いう特 殊 な部隊 を. 経 緯 を少 し話 すと 、 学 生委 員 が直 接 、 今 村 先生の と ころへ お伺 い. の 風 が吹 い てく ると複 雑 にな る男 も いたん でし ょう ね。. もっ てまし てね。 その 自 転 車 が置 いで あっ たと ころか ら、 い つの 間. し たわ け です 。 そ し て事 情 を 今 村 先 生 にお話 し た ら 、 今 村 先 生 も. 「それ で良 いん じゃ な いか」 と いう こと でお出 ま し願 っ た。 先 生 は. にか自 転 車 が なく なっ ているん です。 他 にもピ ア ノ が小 泉学 長 の 家 に運 ば れ たと いう話 を 聞 い て、 大 学. が助 教 授 で非 常 に若 いん だ け ども、 あの 人 が良 いだ ろうと 先 生 か ら. 旦の 修 善 寺 に いま し た。 そ こに学 生 老 齢 で引退 さ れ て、 あの と き伊 一. でも復 員 し た連 中と いうの はみ ん な陸 軍少 尉 、 中 尉 です か ら、 ふざ. 話 があ り まし てね、 それ で僕 らの 学 生代 表 と 、 そ れ か ら大 河 内 先生. を私 物 化 し てるん じゃ な いかと 学 生 たち が怒 りま し て、 そ れ で学 生. つん で大 学 にねじ込 み ま し て、 そ こ で学 生大 会 けん じゃ ねえっ てい,. と 一緒 に修善寺 に行っ たわ け です ね。 そのと きの 代 表 は加 藤 君 です。. 代 表 が行 き ま し て、 色 々と 話 を し たら、 東 京 大学 の 大河内 一男 さん. を やっ たん です。 そう いう軍国 主 義 時 代 の 教 育 を し た人 が総 長 なん. その と き、 今村 先 生 と 大 河内 先 生 が加藤 君 と 一緒 に風呂 へ 入 っ たと. 大会 を開 こうと いっ てビ ラを貼 っ た ら、 これを大 学 が剥 がすん です。. てお か し いん じゃ な いかと 。 それ で小 泉 氏の 排 斥運 動 が始 まっ たわ. 今 村 先 生 が いう には、 「 大 河 内 君 、 君 は専 修 大 学 で頑 張 っ てく れ」. 聞 い てます。. 学 生 で部隊 を作っ て、 み ん な軍人 だっ たか ら総 長 の家 ま で入 り込. と 。 「君 は助 教 授 でま だ若 いけ ど も、 私 は非 常 にあ な た を信 頼 し て. け です。. み ま し た。 そし た ら いろん な問題 が出 まし て、 それ で小 泉 さん は退. るか ら、 任 せ るか ら やっ てく れ」 と いっ たと き に、 大 河内 先 生 が、. ん な に報 告 を し ま し た。 僕 は幹 部 を やっ ていたもの です か ら、 この. み 風 呂の な か でぼ ろぼ ろと 涙 を流 し たと 、 加 藤 君 は帰 っ てき た後 、. 陣 を決 意 し た。 次 に、 うちの 総 長 には誰 が良 いかと いう こと でま た学 生 大 会 を聞 き ま し た。 その と き変 な教 授 が い てね、 お れ が学 長 にな ると か、 鈴. -14-.
(7) 戦中・戦後の専修大学を語る. な あ って思 ってね、 それ で僕 は専 修 大 学 に いた右 翼 的 な先 生の と こ. 話 を聞 い てね。 ああ、 そ う いう熱 心 な人 なん だ、 大 河 内 先 生 は良 い. し ょう がねえん だか ら、大 河内 さん が来 るから待 て」 ってい ってね。. たん だ よ ね。 僕 は反 対 し てたの 。 「あん な先 生の 講 義 を受 け たつ で. その と きの 若 手 の 教 員 は当 然 助 教 授 で皆 さん が知 っているよう な. そ れ で翌 年の 六 月 か ら大 河 内 先 生 が中 心 にな って講 義 が始 ま ったわ. 樋口 さん 、 ど う し ても こ こに いた いか そうす ると 、 その 教 授 が 「. 有 名 な人 たち です よ。 後 に偉 く な った人 たち ば か り でね。 でも当 時. ろ へ行 き ま し てね、 「先 生 は この 大 学 で講 義 す る価 値 はあ り ます か、. ら、 廊 下 でも良 いか ら 置 い てく れ」と 、 それ ま で軍服 着 てたの が、. は一 生 懸命 専 修 大学 の た め に頑 張 ってく れ た。 我 々も復 員 軍 人 で、. け です ね。. 白 い背広 に着 替 え て来 るん だ ね。 あの 右 翼 の 先生 は今 でも生 き てる。. 助 手 の 先生 た ちと 同 年 代 だ から授業 を聞 き た いと 思 い講義 に 行 き ま. やめ て欲 し い」 ってい った。. 「ど う し ても専 修 大 学 に いた いか ら」 って い った け ど、 私 は断固 は. その うち に組 織 が固 ま り、段 々と 良 い大 学 にな ってき たわ け です. し た。. 日、 松 林 で勤 労 奉 仕 を や った。 あ そ こ に行 くと 思 い出し ま す よ。宮. ね。 だ か ら大 河内 先 生 って いうの は本 当 に、 も ち ろん 後 で悪 口 を い. ね た、 だ め だ って。 僕 ら はあの 先 生 に連 れ ら れ て宮 城 前 に行 って毎. 城の 横 に来 ると 「 専 修大学 の 予科 参 り ま し た」 と 声 を上 げ た こと を. 大 河 内 先 生の 思 い出 を も う少 し話 すと 、僕 は戦 後 卒 業 生の 第 一 回. う人 も いたけ ども 、 非 常 に立派 な方 でし た。. そ う いう経 験 が あ るの で、 「先 生 は専 修 大 学 に適 さ な いん じゃ な. の 大 会 で呼 ば れ て、 会 議 に出席 し たの 。 その と き僕 は大 河内 先 生 に. 覚 え て いる。. いか な」 と い った。 結 局 、 先 生 は女 子 系 に行 き ま し た、上 智 に行 っ. る。 それから体 育 会 へ金 を払 ってもう少 しグ ラウンドの整備 をと い っ. 卒 業 生 が多 いん だ か ら寄 付 を も ら って、 も う少 し校舎 を き れ い にす. そん な こと があ りま し て、 大 河内 先 生 は東 大の 経 済 学 部 出 身 、 そ. た ら怒 られちゃ ってね。 「 君 、 何 を いっ てん だ。 専 修 大 学 は体 育 大. たの か な。 よく会 いま し たけ ど ね。. れ か ら法 学 部 は杉 村 章 三 郎 先 生、 両 方 と も東 大の 学 部 長 でね、 そ こ. 学 じゃ ね えぞ」 っていわ れ て怒 ら れちゃ った。. ら費 用 を集 め て本 堂 を改 築 なん て いうの と は違 ' つん だ か ら」 と 。. 要 な い」 って大 河 内 先 生 に怒 ら れ ち ゃ って。 「 坊 さん たち が檀 家 か. だ か ら、 こ こ で費 用を集 め て、 それ で校 舎 を き れ い にす るなん て必. そ れと 、 「 僕 は君 たちの 四O 年 先 を 期 待 す る。 今 は校 舎 が あ るの. か らメン バ ー を集 め ま し て、 当 時 の 東 大の 助 手 や有名 な先 生 たち が 大 勢 いま し た。み ん な専 修 大 学 に来 て、 そし て僕 らの と ころ で授 業 や ってく れ たん です 。 それ が ち ょう ど一 年 後 の 昭和 二 一 年 でし ょう か ね。 それ ま で小 泉 先生 が講義 し ていたん です よ。学部の連中 は点 数 を取 りた いから行 っ.
(8) 立 派 な 先 生 だ っ た ね 、陸 上競 技部 の 部 長に な る っ て い う 話 も. あった んだ よ 。. 「 う ち は 体 育大 学 じ ゃね え ぞ」。 そう い う 気持 ち だ っ た の ね 。. あ の 頃 は 清 水 幾 太郎 と い っ て も 行 く 大 学 が な か っ た ん で す よ 。 当. 時 は 私 立 の 旧 制大 学 が 少 な か っ た で す か ら 。 新 制だ っ た ら い っ ぱ い. あ っ た け ど ね 。 後 で 清 水 先 生 は 学 習 院に 引 っ 張 ら れ ち ゃい ま し た 。. 学 習 院の ほ う が 給 料 が 良 い ん で す よ 。 残 念 だ っ た け ど 。 あ の 頃 良 い. 先 生 は み ん な 学 習 院に 行 っ た 。 一 部 の 先 生 は 学 習 院の 下 請 け み た い. な 感じ ね 。. そ れ で 専 修大 学 が よ う や く 軌 道 に の る わ け で す ね 。 そ の 頃 私 は も. 大 学に 金が あ っ た ら 今 頃 す ご い 大 学に な っ て い た か もし れ な い な 。. に 貧 乏 大 学 だ っ た の 。 こ の 辺 は 一 番 よ く 知 っ て る 。 あ の 当 時 、専 修. 向 こ う は 金 に あ か し て た ん だ よ 。 専 修大 学 は 金 が な く て ね 。 本 当. う 葬 式 ゃな ん や か や で お 寺 の ほう の 仕 事が 忙 し か っ た け ど 、大 河 内. の 人 は や め て 、大 河 内先 生 が 清 水 幾. ですよ。. で 来 た んで す 。 だ か ら 茨 城 の 多 額 納 税 者 の 息 子と か も三 人もい た ん. と か ね 。 慶応 や 早 稲 田を 落 っ こ ち た 奴 が こ こ な ら 入 れ る っ て い ・ つん. 奴 が 多 か っ た 。 有 名な 警 視総 監 の 息 子と か 、 三和 銀 行 の 頭 取の 息 子. その 頃 の う ち の 予 科の 学 生 は 、大 金持 ち の あ ん ま り 利 口じ ゃな い. 進 ん で る け れ ど も 哲 学 の 先 生 が い な い と 、僕 に 相 談 され た 。. 先 生 が う ち の 大 学 に は 哲 学 を 教 え る 先 生 が い な い 、こ れ だ け 経 済が. は もう いな いか ら 。. 今 、考 え る と 大 河 内先 生 も す ご い こ と や っ て る の よ 。 あ あ い う 先 生. 口. それ で 当 時 、高山 岩 男教 授 と い う 人 が 京 都 大 学 に い た の 。 で も そ. 太郎 君 っ て い う の が い る か ら 、 二十. 世 紀 研 究所 2 に 来 て て 暇 だ か ら 、専. た ん で す ね 。 親 の 引 き で ね 。 こ こ を 出 る と 旧 制高校 と 一 緒 、東 北 大. だ けど、予 科を 修了して から早稲 田大 学とか他の大 学 へ行 っ ち ゃっ. 僕 ら が 専 修大 学に 来 た 頃 は 早 稲 田な ん か 学 生 い な い ん で す も ん 。. 修大 学 に よ こ す と い う 訳で 清 水 先 生. た 。 清 水 先 生 は 神 田校 舎 の 木 造 の 部. 早稲田の 文学部なんか生徒がいないんですよ、みんな 兵隊へ行っちゃっ. 学 の 一 年 と 一 緒 で す か ら ね 。 み ん な 行 っ ち ゃっ た 。 も う そ う い う 時. 屋で 僕 ら と い つ も ダ ンボ ー ルで 寝 て. て ね 。 だ か ら う ち か ら 早 稲 田に 行 っ た の が ず い ぶ ん い ま す よ 。 あ の. が 入りま し た 。私が お願 いし て 総 合. た ん で す よ 。 二十 世 紀 研 究所 作 っ た. と き は 東 大 の 法 学部 を 除 け ば ど こ の 大 学 で も 大 体 入 れ た 。 東 大 の 文. 代だ っ た ん で す ね 。. ば っかりの頃だ った 。. 企 画 研 究会 の 会 長 に な っ て い た だ い. 正門前で清水幾太郎先生を囲んで(昭和22年). -16-. 繁 住 樋.
(9) 戦中・戦後の専修大学を語る. て いv つん でね。 でも僕 は その 当 時 、 専 修 に入 ったん だ か ら、 こ こも. 学部、と く に言語学科 は学生 が 二人 しか いな いから い つでも入 れ る っ お願 い いた し ます。. 代 の 先生 で、繁 住 、 斉 藤 、 両 先生 です け ど、 それ では繁 住 先生 か ら. 良 い大学 だと い って残 り ま し た。. 私 が専 修 大学 の 予 科 へ 入 ったの は昭和 一 九年 。 土浦 中 学 、 今. す ね。 特 に応 援 団 の 連 中 は。 そ こ で学 生 大会 に出 て来 た学 生 に尋 ね. ん です。 専 修 大学 と いう名 前 では坊 主大学 と間 違 え る っていうん で. い方 で。 それ で中学 は 五年 ま であ り ま し たが、 途中 の 四年 で専 修 大. や はり その 頃 か ら運 動 部 に関 係 し ていま し た。 どう も学 問 的 には弱. は茨 城 県立土浦 第 二 口 同等 学 校と い ってます け ど、 こ この 出 身 です。. 最後 にも う 一つ、 専 修 大学 の 名 前 を変 え ようと いう運 動 が あ った. たん です。 君 、専修 っていう名 前 はど う いう患 昧 か知 ってるかと 。. 学 に進 学 し て来 ま し た。. いに い ってま し た けど、私 も 県 立の 中 学 か ら来 て、 学 生の 多 く が私. 専 修 大学 へ 来 て、 今 、 樋口 さん が、 す ご く悲 観 的 に弱 い学 校 み た. 絶 対 だ め だと 。 伝 統 があ るの に名 前 を変 え ちゃ だ め だと 。 だ か ら専. 立 や夜 間 か ら入 ってき たと か そう いう話 を聞 いたと き は、 多 少 は惇. 然 と し ま し た。 し か し や はり先 生の メ ンバ ー も よか った し、 我 々と. し ては そう いう意 味 では幸 せ な大 学 だ なと 思 ってま す。. 運 動 部 出 身 なん です け れ ども、 戦 争 で運 動 部 がも うみ ん な絶 え て. そん な こと が戦 争 前 後 です か。 その 後 はま た色 々と 我 々と はま た違. 事 にや ってく れ ま し たか ら私 は その 辺 で引 っ込ん で い ったん です。. 線 外 ・線 内 。 あと はア ドバ ンテ ー ジ 、 レシ ー バ ー だの 何 だの ってあ. の と き英 語 が全 然 使 え なく な り まし て、 ア ウト ・セl フじゃ な く て. たん です け れども、 県の 大会 へ 出 て、 県 では銅 メ ダ ルでし た が、 そ. し ま って、戦 争中の 記憶 っていうの は中学 四年の時 に、テ ニス部 だ っ. う世 界 があ りました。新制 大学 に つい ては私 ども にはわ か り ません。. 戦 後 、 昭和 二 一年 にな り ま し て、 陸 上競 技 部 が箱 根駅 伝 に出 場 す. 出 がござ います 。. 何 かを使 ったん だ ろうと 思 います。 そ う いう戦 争 中 の 運 動 部 の 思 い. れ はどん な言葉 を使 ったの か なと 思 って。 今 思 うと まあ、 優 先 と か. 大変 貴 重 な話 、 あ りがと う ござ いま し た。. 本 当 は質 問 も し た いん です が、 それ は後 に いたし ま し て、 次の 世. 大谷. 以上 この 辺 で。. そん な こと で、 色 々と あ り ま し たけ ど。 まあ、 その 後 は若 手 が大. 緒 にな っちゃ う から ね、 専 修 の 名 前 は。. し な か った ら経 済 大学 にな っちゃ ったん です よ。 東 京 経 済 大学 と 一. それ で専 修 大学 の 名 前 その ま ま で維 持 し たん です。 あの と き反 対. 修 で頑張 ろう じゃ な いかつ てね。. 大 学 と か、 専 修 経 済 大学 にし ようと いうの を僕 は反 対 し たん です。. 「 専 門 を履 修 す る」 こん な良 い名 前 はな いじゃ な いかと 。 東 京 経 済. 繁 住.
(10) るの に選手 が不足 し て いたら し く勧 誘 が来 まし て、 戦 争 中 は学 生 に. でも二 升 でも持 って歩 いた ら大 変 な時 代 で、 各 駅 ごと に検 閲 が あ っ. ていうの は簡単 な よう に今 は聞 こえ ます け ども、 当 時 はお米 を 一升. 肉 も な ければ何 も な い、 運 動 選 手 と し てはす こぶ る寂 し い話 なん. 対 し て上級 、中 級、初級 と いう よう な体 力章 と いうの があ りま し た。. に回 って歩 いたん です。私 も中 学 時 代 は、 校 内 では陸 上部 の 連 中 に. です けども、 たま たま箱 根 で肉 が出 て、 う まか ったと 思 っていたら、. て、 それを逃 れ な が ら合宿 所 へ届 け るわ けです 。. は負 け な いよ う な走 りを し て いたもん です か ら、 う っか り手 を挙 げ. 後 で表 の お土 産 屋 の お や じ さん た ち に、 「 学 生 さん が食 べたの は、. それ で上 級 の 人 います かと いう よう な こと で陸 上競 技 部 の 人 が勧 誘. てし ま いま し て、 それ で陸 上競 技 部 に呼 ば れ て、 昭 和 二 二年 に再 開. 犬 の 肉 だ よ」 なん ていわ れ た こと も あ り ます。 それ でも う ま か った. けど、我 々の 頃 は何 も なし で。 ま あ 、選 手 も そ ろわ な いと いう時 代. 今 ではO B が指 導 し てくれ た り 何 か し たりし てく れ るん でし ょう. わ け です。 そ う いう 思 い出 が残 っています。. さ れ た箱 根駅 伝 の 二区 を走 ら せ ても ら いま し た。 予算 は大学 の 経済 的 な面 か ら いくと 非 常 に厳 し か ったん でし ょう け れ ど も、一 応 合 宿 も小 田原 で行 いま し たし、箱 根 に つい ては用意 万端 整 え てく れ て、我 々も参 加 す る こと が でき ま し た。. でし た か ら。 軍隊 服 の まま で戦 争 か ら帰 ってき た学 生 たち が増 え、. 18. 当 時 は戦 後の こと で、 食 べ物 も な いし、 着 るもの も な い。 な いな. そ う いう時 期 です か ら、 テ レビ 中 継 も な い、 せ いぜ い ラジ オ の ス. だん だん 部 員 も増 え てき ま し た。. 袋 み た いなもん です け ども、 そ う いうもの を使 いま し た。 ラン ニン. ポ lツ ニュ ー ス に出 し ても ら う程 度 で、 母 校 愛 だ け で走 っていた わ. いづ く し で走 ったわ け です け れ ども、シ ュ ー ズ も レン タ ルし て、足. グシ ャ ツ も なけ ればト レー ニン グシ ャ ツ も な く て、 陸 上 部 O B が着. け です。 当 時 、我 々陸 上競 技 部 員 の 意識 と し ては、 六 大 学 には負 け. 駅 伝 では その 当 時 は 四位 、 五位 辺 りを 常 に押 さえ ていま し た。 私 の. それ が 一つの 闘 争 心 に近 い形 にな ったわ け です。 その 甲 斐 あ って. いうぐ ら いの 目 標 を も ってや ってき ま し た。. る な。 少 な くと も早 稲 田の 膜 脂 の ユ ニフォ ー ム を見 たら必 ず抜 けと. じ ん え. 1 ていたもの を も ら って着 たもん でし た0 私 なん か は幸 い にベ ルリン オ リン ピ ッ ク に出場 し た矢 沢 正雄 ( 昭 和 一四年 経 済 学 部 卒 ) さん と いう先 輩 が お りま し て、 その 先 輩 の を 着 せ ても ら って、 練 習 にも励 み が出 まし た。 物 が な いと いう こと に つい ては各 大 学 共 通 なん です け れ ども、 当. 戦争 の 終 わ り頃 、我 々 は勤 労 奉 仕 に従 事 し ていま し た が、 その 勤. 戦 後 と いうの は、 運 動 部 でいえば そ こいらの 話 にな るわ け です。. な い。 私 は先 ほど申 し上 げ たと お り茨 城 の 土浦 出身 です か ら、 田舎. 労 奉 仕 で八月一 五 日を迎 え て、 も う み ん なと 会 え な いと その と き は. 時 、 箱根 の 旅 館 に合 宿 に入 っても 、 米 が な いと ご飯 を 出 し ても ら え. の 叔父の 家 に頼ん で、米 を何 俵 か合宿所 ま で運ん だもん です。運ぶ っ. - -.
(11) 戦中・戦後の専修大学を語る. 思 い込 ん で、 手 なん か握 って、 ま た い つ会 え るかわ か ら ねえ なん て. こと を し て勤 労 奉 仕 に精 を出 し てや ってまし た ね。. あん ま り格 好 の 良 いもん じゃ な か ったけ れ ども、 と にか く そう いう. 戦 争 が終 わ って、 陸 上競 技 の 試 合 に出 たの は二 二年 です。 その 前. 別 れ たん ですけ ども、 何の こと はない、 その 翌 日すぐ 会 え る よう な 状 態 でし た。. も う 日本 は刀 、 鉄砲 ではな く て、 文 化 でいくん だと いう こと で、. 二 年の 夏 頃 に陸 上 部 に勧 誘 され て入 ったわ け です か ら、 二O年 の一. 俺 たちの 仕 事の 範 囲 が終 わ った か ら早 く帰 ってき たん だ」 って い っ. 土浦 の 学 生を 集 め て、 町の 中 の 講 堂 を その 土地の 学 校 の 校 長 先 生 な. 勤 労 奉 仕 も厳 し い労 働 で、 我 々 は午 前 中 ぐ ら い に早 番 で帰 って、. ても 聞 い てく れ なく て。 「それじゃ あ、 お前の 勤 労 奉仕の 方角 はど っ. どを 説得 し て使わ せ ても ら いま し た。 歌 手 の 方 たち なん か にお願 い. と 二一 年 を挟ん で、私 は田舎 に帰 って学 生 を集 め て文 化運 動 と いう. ち だ」 って いわ れ て、 上野 か ら松 阪 屋の 方 角 を指 さし た ら 「あ っち. し て、 ソプ ラノ やア ルト 歌手 など、 それ ぞ れの 特 徴 の あ る芸 大 の 教. 上 野 辺 り で座 った り何 か し ての ん き な こと を や ってると 憲 兵 に、. へ一 民れ」 なん て いわ れ てね、 それ で駆 け足 なん ていわ れ て解散 。 途. 授 ク ラ スの 方 々が土 浦 へ 来 て、 歌 っても ら うと いう よう な運 動 を や. か、 そう いう こと を やり ま し た。. 中 でも ち ろん 横 丁 へ 行 って、 遊ぶ と い ったもん ですけ れ ども、 そう. り ま し た。. 「お前 ら学 生の く せ に今頃 何 でこの 辺 に いるん だ」 っていう、 「いや、. いう よう な思 いがあ りま し たね。. て本 に向 か って勉 強 す ると いうの にど う し ても なじ め な い方 で。そ. そ う いう激 動 の 時 代 です し、僕 ら は体 育 会 系 です から、落 ち着 い. く我 々も死ぬ こと だけ を考 え る教育 を受 け て、ボ スト ン バ ッ グ の 中. れ でも や っぱ り それ な り に希 望 を も って、 戦 後 の 目 標 も つけ てや っ. これ は陸 上部 へ 入 る前の 話 です。 戦 争 中 の 勤 労 奉 仕 では、と にか. にか ばん でも入 ってた ら、 それを 種 に脅 され たもん でし た。私 は土. てき た つも り です。. 新 制 大学 の 話 をと いう こと でし たの で少 し お話 し ますと 、我 々は. 浦 から通 ってたもん です か ら、上野 の 駅 を降 り ると 、昭 和 通 りの グ リーン ベ ルト がも う死人の山 にな ったり、 いわ ゆる東京大空 襲 があ っ. ら。胸のと ころ に専修大学 報国 隊 、誰 々と いう名 札 を つけ て、 まあ、. それ でも学 生の 本 分 に つい ては いわ ゆ る勤 労 奉 仕 の 報 国 隊 です か. の 跡 地 辺 りを探 し て いると いう話 も聞 き ま し たけ ど、 最終 的 には今. 大 学 も あ ち ら こち ら広 いと ころを、 埼 玉 県の 朝霞 や、 昔 の 士官 学 校. た ら、 新 制 大学 にな ると や っぱ り広 さが要 求 さ れ ると いう こと で、. 大 学 が狭 いと 感 じ ていまし たか ら、 広 い敷 地 が あ ると 良 いなと い っ. 戦 争 中 なの で学 生 服 じゃ な く て、 何色 ってい' つん です か ね。黄 色 っ. の 生 田 にな り ま し た。. た 三月 一O 日 でし たか ね、 深 川 辺 り が やら れ た頃 は。. ぽ いよう な、 いわ ゆ る国民 服 です よね。 あの 色 でみ ん な そ ろ って、. -19-.
(12) 学生代表でちょっと見に行って‑れというんで、私たちもその当. 時、福永忠一先生(当時、総務室長) に案内してもらって生田に行 きました。やれプールがあるだの何だの、とても華々しい話を聞か されて、威勢よ‑行ったら、そのプールは貯水池だったんですけど ね。. それでも広いところではあるし、また丘の上にもあったし、大喜. 品の積み込み作業などをやらされました。4. 空襲の最中でもあったし、かなり危ない勤労奉仕でした。他にも. 同じ仲間で勤労奉仕のために日本鋼管に行ってる者もいました。. でアダム・ス‑ス. ですか、インビジブルハンド、いわゆる経済. 授業で記憶に残っているのは、「外国書講読」 の「神の見えざる手」. はほっといても良いんだと、というようなことを英語で習ったこと. 経済学の授業で印象に残っているのはそのぐらいで、ほとんど経. が印象に残っていましたね。. というんですが、駅に近いそば屋へ入れてもらって、結局そばじゃ. 済学については何も覚えていません。まあ、結局戦後のどさくさと. びで見せてもらって、帰りに福永先生と稲田登戸、今は向ヶ丘遊園. な‑て、さつま芋のふかしたのをご馳走になって帰ってきたことも. いうことで学問へのやる気を失わせられたというか、本人次第なん. いうので出てきたら休講、休講で全‑うんざりさせられていた。そ. ですが、しかし戦後になって'本格的に大学の授業が再開されたと. ありました。. 私の印象ではそういうところです。あとはまたお話いただければ お答え申し上げます。. 排斥運動というのが全学的に広がったんですが、考えてみると、我々. ういうところにもって、小泉総長の不祥事なんかが出てきて、総長 大谷. のやってきたのは何のこともない、先輩の樋口さん辺りがすっかり. ありがとうございました。次に繁住先生と同級の斉藤先生か. ら、お話をいただきたいと思います。. お膳立てをして、こっちはそれに乗っかって反対、反対なんていっ. それで感激したのは、すっかり教授会のメンバーが一新されて、. てて、実際のところは樋口さんにやってもらったということです。. 予科時代は何のことはない、もう勤労奉仕ばかりで授業はほとんど. 経済学部では舞出長五郎の 「経済原論」、それから大河内一男の. 斉藤です.私も繁住さんと同じ1九年に予科に入りました。. ない。いきなり日暮里のドラム缶工場に引き出されたり、それから. 「経済政策」、これ辺りは本当に緊張して、これは東大と同じだとい. 斉藤. 常磐線や東武線の沿線の住宅が空爆などで延焼すると鉄道がストッ. うようなことでね、非常に感激して授業を受けたもんですよ。. やっぱり名教授が壇上に立つと、LIんとして、一瞬も逃さず話. プするというんで、沿線の住宅疎開などの労働に駆り出されまして ね、それで家屋の撤去作業をやらされたり、陸軍の芝浦倉庫で軍需. 20.
(13) 戦中・戦後の専修大学を語る. を 聞 き漏 らす ま いと し てメ モ を と るとい う よ うな、 非 常 に緊 張 し た 一時 期 があ り ま し たけ れ ども、 まあ、 その 後 は学 生運 動 の 延長 で中. それじゃ あ、 五 十音 順 で秩 父先生 から よ ろしくお願 いいたし ます。. 今 、 司 会 の 大谷 先生 か ら お話 あ り まし たけ ども 、 今 こ こ に い. い こと です け れ ども、 運 動 部 の 活 躍 なん か に つい て、 私 が学 生自 治. 専 修っ ていうの は非 常 に地 味 な大 学 と いう印象 は、 これ は拭 え な. ど樋口 先 生 も お話 あ り まし た よ う に学 部 と専 門 部 と、 大学 予科 と が. 二年間 就 学 し、 途 中 で新制 大 学 に強 制 移 行 し ま し た。 その 頃 は先 ほ. る三人 は新制 で入っ たの ではなく、 専 修 大学 の 大学 予科 に入 学 し、. 身の 薄 い学 生 生 活 になっ てし まっ たと いう よう な こと です ね。. 会 の 代表 やっ て いた頃 は、 箱 根駅 伝の 応 援 の ため、 これ は学 生自 治. あ って、 新制 に強制 移 行 し たの は予科 の 学 生 だけ です 。. それ で、 個 人的 な ことを申 し上 げ ます と、 父親 が広 州湾 上陸 作 戦 、. 会 と体 育 会の メ ン バ ー が合 同 で、 あ れ は箱 根 の どの 辺 だっ たか、 旅 館 に前 もっ て泊 まり に行っ て、ト ラック を 一台動員 し て、 それ に乗っ. う こと で三 回 も陸 軍 に召 集 を受 け ま し て、 ま あ出征 軍人の 家 に相 当. それ か ら満 州事 変 、 それ か ら終 戦 直 前 の と ころ では国 土防 衛隊 と い. 駅 伝 に つい て思 う こと は、野 球 で いえば六 大学 と同 じ よ う に駅 伝. す るよう な家 で、 進 学 さ せ ても ら え る ような家 庭 状 況 じゃ な か った. て駅 伝の 応 援 を し たと いう記憶 が あ ります 。. では、 専 修 大学 は常 にその メ ン バ ー に入っ てたわ けだ よ ね。 以上 で. ん です。 した がっ て夜 学 だ け でも行 き た いという こと で、 ずっ と通. よう に昼 間 の 学 生 と いうの は軍需 工 場 に行 って勤 労 動 員 を し た り、. 後 になっ て夜 学 でよかっ た な っていうの は今 、 先 輩 たちの お話 の. し てきで お り ます。. す。. あ りが と う ござ いま し た。 あ と か ら きっ と質 問 さ れ ると思, つ. ん です け ども、 こち らの 新 井 先 生のゼ ミ は常 に箱 根駅 伝 の 選 手 が在. 畑 で芋 作 りを し たりと か ね、 軍 需 工 場 で爆 撃 を受 け て亡 く なっ た先. そう な状 態 の 中 で、私 ら夜間 学 生 は灯 火 管 制 はあ り ま し たが、授 業. 籍 し て います。 毎 年、 先 生 は学 生 と応 援 に行っ てお ら れ ます が、 ま. 今 、 樋口 先 生 、繁 住 先 生 、 斉 藤 先 生 と いう順 番 で、 それ ぞれ戦 争. は フルに受 け る こと が でき ま し た。 結 果 的 には恵 ま れ ていたん だ な. 輩 も お ら れ るん です け ど、 と にか く勉 強 を ろく にし てな い、 かわ い. 中 に大学 の 予科 に入 学 され、 戦 後 に旧制 大 学 を卒 業 さ れ た 三人 か ら. あ と今 では思 ってお り ます。. 学 と専修大 学 だけしかなか ったん です。 それ で専修大学 にや っと取 っ. それ で夜 間 の 大学 予科 を 受 け よう と し たと き に、東 京 には中 央 大. お話 いただ き まし た。 あ との 三 人の 皆 さん は、 ち ょう ど 一番 最初 の 新 制 で入 ら れ た方 だ と思 いますの で、 お話 を いただ き た いと思 います。. -21-. 秩 父. た そ う いう議 論 を し て いただ いた ら良 いと思 います。. 大 谷.
(14) し た。. では学 生自 治 会 、 二部 では学 生会 の 活 動 に向 け ら れ、 非 常 に盛 ん で. 騒 動 が う その よう な状 態 で、 今 度 は逆 に、 学 生の エ ネ ルギ ー は 一部. わ った昭 和二 二年の 四月 に入 学 し てま いり ま し た。 それ ま での 学 園. ても ら ったと いうの が実態 です。 終 戦 直 後 、 小 泉総 長 追放 運 動 が終. て、 二 一歳の と き には高 等 文 官 で大礼 服 を着 れ る よう な若 者 が いた. と にか く東 大在 学 中 に高 等 文 官 試 験、 あ る いは外交 官 試 験 に合格 し. た。自 分の 家 庭 状 況 か ら す ると 比 較 しょ うも な い格 差 ですけ ども 、. の が超 エ リー ト コ l スだ ったん です ね。 それ は私 にと っても夢 でし. 同( 第 一高 等 学 校 )、 東 大 に進 学 す ると いう で修了 し て、 そし て二 口. て復 学 を し ようと いう人 が大 勢 お り ました。 軍隊 出 身 の 人 は定 員の. ん 落 ち てく る東 京 にず っと いま し た。 それ が終 戦後 にな って、 食 料. し か し そ れ にはと ても及 ば な いど ころか、 戦 争 中 は爆 弾 がばん ば. ん です よ。. 十 分 の 一し か入 学 でき な いと いう制 限 が あ った よ う に聞 い てお りま. も なく、栄養失 調 にな って、親 が疎 開 し ていた福島 県 に行 き ました。. 当 時 は、 先 ほど来 、 お話 も あ り ま し た よ う に、 軍隊 か ら帰 って来. す。. 学 生会 の 代 表 には、 後 に公 認会 計 士 に合格 し た人 と か、 大学 の 教. 持つ てな いん です。 そん な こと が あ りま し て、 勉 強 はも う良 いやと. び級 で専 修 大学 の 予科 に入 った。 です か ら私 は中 学 校 の 卒 業 免 状 は. 22. た った四ヶ 月離れ て学 年末試 験を受 けなか ったば っかり に学校 に 戻一 っ. てみ た ら留 年 だ ったん です よ。 四ヶ 月 し か休 ん でな い、 し か も成績. 年 を二 度 やり ま し た。. 員 にな ったと か、 そ う いう人 たち が意 外 に多 いん です。私 らの 同 級. 思 って いると ころ に 一年 生の 学 級 委 員 を引 き受 け てく れ ってい わ れ. - -. 私 らの 予科 の 同級 生 に警 視 庁 の 巡 査部 長 の 半 田さん と いう方 が い て、 ノ ー 卜 貸 し てくれ な ん て いわ れ た こと も あ るん です け れ ども、. がク ラ ス で二 番 だ ったの で、 「必 ず追 い つき ま す か ら戻 し てく だ さ. ってい った け ど 「だ め だ」 って いわ れ て、 悔 し ながら も同 じ学. と にか く結 構 年 を食 った人 が多 い。 それと 意外 に社 会 経 験 を し て い る人 が多 く て、家 が貧 し いか ら じゃ な く て、 結 局 旧制 中 学 卒 業 後 に 勉 強 を し直 そうと いう人 が中 心 なもの です か ら意 外 に情 熱 が あ りま. 生 では菱木 昭 八朗 ( 後 に法 学 部 教 授 ) が 二部 の 予科 B組 にお りま し. ま し た けど、誰 も手 が挙 が ら な いもの です から、 学 生委 員 にな りま. その と き にも う これ 以上 こ こに い てや るもん かと いう感 じ で、 飛. た。 彼 は軍服 を着 て いま し たの で、 「軍隊 に行 ったの か」 って聞 い. の 大 河 内 先 生 が経 済 学 部 長 で入 ってき て、 後 に学 長 にな りま し た。. 年間 、 学 生委 員 を や って いる途 中 に先 ほど来 お話 それ で予科 の一一. し た。. 戦 前 は小 学 校 六年 を 五年 で修了 し て、中 学 五年制 の と ころを 四年. う いう状態 でし たね。. た ら、 「いや、 着 るもの な いか ら古 着 屋 で買 ってき たん だ」 と 、 こ. し た。. し、 Lー.
(15) の が あ りま し てね。 専 修 大学 の 評価 を上 げ るため に成績 の 悪 い人間. 科 目 以上の 者 は進級 させ な いと。 いわ ゆ る 「 大 河 内 旋 風 」 っ て いう. ラ スの 学 級 委 員 六人の うち 四人 が落 第 し ていたん です ね。落 第 点 二. 二年 になっ たと き全 学 の 学 級 委 員 会 が あっ て出席 し た ら、予科 二 ク. き にはそれを しっ か り やり ま し た。. て いう要 望書 を出 し たか」 っ ていわ れ た。 それ で次の 予科 二年の と. の男 たち はまじめ に授業出 ているから落第点 は絶対 やめ てくだ さ いっ. ら、 先 輩 に聞 い てみ ると、 「先 生 に試 験 の 範 囲 が ど う な るの か。 こ. 鈴 木 君 が転 学 し て行 き ま し た。 ほか に内海 兄 弟 が 明治 大 学 へ 転 校 し. 結局 四人 が落 第 し て、 それでど こ行っ た かっ て いうと早稲 田大 学 に. 前 もっ ていっ てく れれば良 いの に、 後 でいわ れ たもの です か ら、. ジ から何 ページ ま で」 と か いわ れ てね。 その 情 報 をみん な に流 し て、. 惑 を か け な いか ら決 め てく だ さ い」 っ て いう と、 「 教 科 書 の 何 ペl. 「何 でお れ が お前 ら に いわ な け れ ば いけ な いの か」 っ て、 僕 が 「 迷. ま し たが、 「先 生 、 授業 の 試 験範 囲 を教 え てく だ さ い」 っ ていう と、. その 時 の 先生の なか には後 に常務 理事 になっ た森 下 澄 男 先 生 が い. て行 き ま し た。 日大 へ 行 っ たの も います。 そん なん で 一学 年 に学 級. と にか くみん な が落 第 点 を と ら な いよう に努 力 し たの が予科 一一 年の. は落 第 させ る こと になっ た。. 委 員 が二 人 し か残っ てな い。. 学 級 委 員の 仕 事 でし た。. それ か ら、 当 時 は教科 書 が足 り な いん です よ。 じゃ あ、 学 生 が本. を作 り まし ょう と。 結 局 、 謄 写 版 で刷 っ て五 円 で売 る。 と にか く大. 科 書 は自 分 たち で作 っ て学 生 に分 け てあげ る。 そ う いう ことを やっ. 23. も う 一人の 古 谷 哲 雄 君 ( 昭 和 二七 年商 経 学 部 卒 ) と私 が残 っ たん です け ど、 古谷 君 は後 に三菱 化 学 を 経 て聖 徳 大 学 で電算 担 当の 教 授. にな り ま し た。. 専 修 大 学 に資 金 が な く て、新制 大学 の 単 位履 修の 説明書 の 原 稿 を書. て いた。 奨 学 金 も 一O O 万円の 枠 が あっ たけ れ ど、 教 務 課の 平 田さ. 学 は資金 が な いか ら、単 位履 修の ガ イ ドブ ッ ク を刷 っ てあげ る。 教. いた けど印刷 す るお金 が な いと いう。 学 生 は資金 があ り、 私 が た ま. ん や杉 山 さん が結局 審 査 でき な いから 、 学 生会 の 委 員 に推 薦 し てく. その うち に、 新制 大学 にな ると いう こと にな り ま し た。 と ころが. た ま学生会 内 組 織 に新 制 大学 協 議会 を作 っ て副 委 員長 やっ ていま し. れ と いわ れ て、 奨 学 金 の 予備 審 査 ま で教 務 課 に代わ っ てやっ て いま. と いう よう な こと で新制 大 学 二年 次 に編 入 し てか ら 三年間 、 学級. たの で、 教 務 課の 資料 を学 生 が作 っ てあ げ る、 説 明 も す ると いう こ. 「 大 河 内 旋 風 」の 後 で多 くの 仲 間 が落 第 し た後 、 学 級 委 員会 に出. 委 員 を続 けま し た。 最初 の 二年間 の バ ッヂ は真 総 で でき た陸 軍の 襟. し た。. 席 し た ら、 「お前 、 自 分 た ち だ け助 かっ た か らっ て大 き な顔 し て委. 章 み た いなごっ ついもの でし たけ ど、 あ との 三年間 は社 会 人 にふ さ. と を買 っ て出 まし た。. 員会 に来 ちゃ だ めだ よ。 何 を やっ ているん だ」 と、 こう いわ れ たか. 戦巾・戦後の専修大学を語る.
(16) の とき に 大 学へ 寄贈 し まし た。. し た 。 そ の 五 個 は創 立 一 O O 年. わ し い 銀 製 の し ゃ れ たパ ッ ヂ で. スが 七 円 。今 、 三 O O 円ぐ らい し ます が 、そ れ を 一日 一 箱ず つ 買っ. い うことで 引き 受け て、 当時コロナとい う たばこ が一箱一O 円、 ピー. じゃ あ 学生 が 協 力し まし ょう と。 とに か く資 金 作り を し まし ょう と. も 出 てき ま し た 。 も う と に か く. 上 げ な き ゃ い け な い と い う問 題. かし なきゃ な らない 、 授 業料も. う の が あ っ て 、 神 田 校 舎 を何 と. そ の 頃 に 学内 経 営 協 議 会 と い. に お 金 を 出そ う っ てい う の はす ご い 反 対が あ っ て、 三 回 ぐ らい 学生. 業 料 値上 げで す ら反 対 が あ る 最 中 に 、 神 田 校 舎 の 建 て替 えを す る の. 0 0 0 円、 こ れ を 寄 付 す る 運 動を 始 め よ う とし まし た。 け れ ど も 授. 円× 三 O 日× 一二 ヶ月 とい う こ とで 、 年 に 二五 O O 円、 四年 で 一0. たつもり で、 そ の お 金 を 大 学に 寄付 し よ う 、 とい う よ う な 考 えで 七. で す が 、 だ ん だ ん 文 句 を い う 人 間 も減 っ てき て、 そ れ が 承 認さ れ. 大 会 を 聞 き まし た。. し たら 上 げ られ る か 、 も う 学 校. て、 そ れ で 神 田 の 旧 校 舎 が取 り 壊さ れ 、 新し い 校 A盆 宍 今 の 一代 前 の. イン フ レ です カ ら 、 月 謝 を ど う. の 先生 方 が 悲 鳴 上 げ てい まし てね 。 当時 は 、 学生 が 一番 偉い ん で す. も の で す ね 。 そ れ を 奥 村 組 に 発 注 す る 運 び に な っ たと 、 こ う い う こ. 私の 大 ざっ ぱな 記 憶で す け ど 学生 が 昼 は三 0 0 0 人 位、 夜 は三 二. とで す 。. よ 。 学生 は授 業 を 聞くお 客 さ ん で お 金 を 出す 人 。 教 員や 職 員はそ の 月 謝 の 値 上 が り に よ っ て、 収 入が 、 つ 斗まわJ 給 が 上 が る か 上 が ら な と い う こ と で し た。. 0 0 人 位お り まし てね 、 学生 会 はす ご く金 持 ちだ っ た。 で す か ら一. そ の 当時 、 評議 員で 税 理士 の 加 藤 圭 三 さ ん ( 昭和 一 八年 専 門部 計. 部 の 学生 会 か ら、 援 助 金 を 提 供 し よ う と い う こ と で 、 私 の 聞 い た話. 球 だ とい っ ても か ぼ ちゃ 食っ て勝 てる か な ん てい う 時 代 で 、 結 局二. 部 の 方 は 先ほ ど の 繁 住 さ ん の 話 で は な い で す け れ ど も 、 駅 伝 だ 、 野. 理科 卒) が 持 っ てき た風 呂 敷包 みの お 金 で 教 員と職 員に 給 料 を 払 っ. じゃ 五 O 万 円 。 今 の 価 値 で は五 O O 万 か 一 0 0 0 万 円で す ね 。 そ れ. に な っ て授 業 料 改 定 の 話し 合い とか を や っ てお り まし た。. たと い う よ う な こ と を 聞い てお り ます け ど も、 とに か くす ご く資 金. また学生 会 に はそ う そ う たる 人 物 が お り まし た。 今 で も 付 き 合っ. を 運 動部 に 寄 付 し たと。 そ の 位の 意気 込 みが 二部 に はあ り まし た。. そ の よ う な 理 由 で 、 今 村 総 長や 築 田 理 事 長の 寄 付 で 生 田 校 舎 を 購. てい る 員 保 潤一郎 さ ん ( 昭和 二四年 経 済学部 、 一六年 法 学部 卒) は. 繰り に 困 っ てい まし た。. 入し たけ れ ど も、 神 国校 舎 の 改 築 な ん か で き な い わ け で す よ 。 そ れ. -24-. 上段左より昭和22.......23年、 下段左より同24....... 26年の学級委員のパッヂ(秩父氏寄贈). で す か ら今 村 総 長は出席 し ませ ん で し たけ ど 、 築 田 理事 長が 中 心. カ.
(17) 戦r:IJ・戦後の専修大学を語る. ど、 こう いう人 が先 輩 で、 私 が彼 の 次 の 会 計 委 員 を やっ た時 代 です. 一橋 大 学 で博 士号 取 っ て、 大東 文 化 大の 学 部 長 を やっ ていま し たけ. で、 一日 に軸 五本 なん です。 だ か ら ラン プ に火 を点け るの にも大 変. 停 電 す ると ま ず それ で明 か りを点け ていま し た。 当 時 マ ッ チ は配 給. を 大事 に持っ ていたん ですけ ど、 と にか くマ ッ チ が な いと電気 マ ッ. な時代 な ん です よね。 私 らの よう に煙 草 を吸 わ な い人間 は、 マ ッ チ. その お か げ で卒 業 し て間 も な く、校 友 会 長 が、 新 し い形 で山崎 修. チ なん ていっ て、 コード か ら ニクロム線 で熱 を起 こし て、煙 草 を吸っ. か ら ね、 皆 さん 本 当 に切 瑳 琢 磨 し て助 け 合っ て いま し た。. 一さん ( 大 正 五年経済科 卒 ) と いう方 になっ て、一 三年 間 続 くん で. てる人 を大勢 見 かけ る時 代 です か ら ね。. それ で、停電 にな ると、総 長 がおられる隣の 小 遣 い室 にバ ッ テ リー. す が、 その と き に二部の 卒 業 生 が中 心 になっ て、戦 前 卒 業 の 役 員 ば か り で構 成 され てるの が不満 だ と いう こと で 「 専 互 会 」 と いうの を. それ で校 友 会 の 役員 に戦後 の 人 聞 を もっ と登 用す べき であ ると い. はも う顔 が見 れ る程度 で黒 板 は見 え ま せん よ ね。 そ う いう雑 用 を学. 行 っ て、 思一 に充 電 し たバ ッ テ リー を持 っ てき て授 業 を続 け る。 それ. を取 り に いくの が学 級 委 員の 仕 事 なん です。 それ で手 探 り で降 り て. う要 望 を出 し た と ころ、 昭 和二 九 年 一 一月 になっ て、 その う ち 三分. 級 委 員 が やっ ていま し た。 ほとん ど毎 日の よう に停 電 があっ たの で. 作っ たん です よ。. の 一か 四分 の 一が選 ば れ たん です ね。 その な か に私 も 入っ てお り ま し た。. あっ たと いう噂 なん ですけ ど、 そ こだけ は電 灯 が埋 々と点 い てるん. それ が富 士 見 町、 今 の 靖 国 神 社 の 右側の ほう に、 進駐 軍 の 宿 舎 が. 二 年 専 門部 経済 科 卒 ) 名 誉 会 長 と私 だけ が当 時 入っ ていまし た。. です。 専 修 大 学 は道路 が ち ょっ と離 れ ていた だけ なの に電 気 が点 い. それ で、 と. 一 五年 専 門 部 経 済 科 卒 )、 副 会 長 を やっ た山 口 省 三郎 先 生 ( 昭和 一 六年 専 門 部 経 済科 卒 ) な ど は入っ てま せん でし た。 二 九年 度 の 校 友 会 の 改革の と き から、 参 画 さ せ て いただ いた と いう こと です。 あ と 『百 年 史 』 など に、 戦 後 まも な い頃 に、 二部 はろう そく で授. 業 し たと いう記述 があ り ます が、私 は知 り ま せん 。 実 を い います と私 は自 分 の 会社 か ら石 油 ラン プ を持っ てき て、 そ れ に灯油 を詰 め て、教壇 の 後 ろの 開 い ていると ころ にし まっ と いて、. の 教 育 局 に陳 情 し よう と いう運 動 が始 ま り まし て、 そ こ で、 専 修 大. その と き に夜間 学 生連 盟 と いうの が でき て、 電 気 の 特 配 をG H Q. 業 大学 と改 称)。 その ぐ ら いし か な いん です よ。. よ。 その 一 二 校 目 が戦 中 に でき た興亜 工 業 大学 ( 戦 後 すぐ に千 葉工. は大 学っ て いうの は全 国 で私 立 大 学 が 二 一校ぐ ら いし か な いん です. そ こ で二部 の 学 生 で、 東 京 都 内 の 大 学 や専 門学 校 の 連 中 が、 当 時. てな いの で不 満 が あ り ま し た。. にか く その 後 に、 校友 会 長 を務 め た林 一夫 先 生 ( 昭和. その とき に名簿 を 見 ると、 後 の 校友 会の 幹 部 では、千 葉 博 ( 昭和. ね.
(18) 科 から私 が代表と な り、中 央 大学 に何 回 か集 ま った こと があ ります。. 学 の 旧制 学 部 か ら松 浪 敏 雄 さん ( 昭和 二 四年法学 部 卒 ) と 、 大学 予. ん です。. 神 田五大 学 が中 心 にな って夜間 学 生連 盟 で電 気 の 特 配 の 運 動 を し た. その と き議 長 を や ってお ら れ たの が中 央 大学 の 松 津 修 さん 。 日本. あ りがと うござ いま し た。 いろ いろ我 々もわ か ら な い こと が. あ り ます け どお許 し く だ さ い。 それ で、 つづ き ま し て長谷 川 先 生 お. 現在 の 日本 鉄鋼 連 盟) の 事 務局 に いたの で会 い に 鉄鋼 経営 者 連 盟 ( 行 った こと があ ります。 この 方 は後 に公 認会 計 士 にな ってN H Kの. 科 系 の 学 校 に進み た いと 思 って、 専 修大 学 を見 学 し に行 き ま し た。. 私 は工 業 学 校 を卒 業 し ま し たが、 戦 後 、社 会 の 変 化 か ら文. 願 い いた し ます。. 体 経営 者 協 会の 税 務指導 を し ています。 それ か ら、 日大 の 代 表 が柾木 一策 さん 。 後 に参 議 院 議 員 の 全 国区 に立 候 補 し たの で、ポ スタ ー を貼 ってあ げ た りし てみ ん な で手 伝 っ. れ が後 にな ったら茅ヶ 崎 の 市 長 にな っていま し た よ。 私 の 会 社 の 上. 画館、お風 呂屋 さん と 、昔懐 かし い町が残 ってい てた いへん気 に入 っ. れ る町並 は、空 襲 か ら焼 け残 り、 数 々の 本 屋 さん や外 食 券 食 堂 、映. 私 の 家 は二 O年 の 空 襲 で焼 け てし ま いまし たが、 神 田の情 緒 あ ふ. 司 が大 岡越前 祭 で越前 守 の 姿 を し て いる写 真 を持 ってき て知 ったん. た こと を覚 え ています。. こう いう連 中 で電 気 の 特 配 要 求 を や ったん です よ。 当 時 は早稲 田. 階 建 ての 鉄筋 コ ン ク リー ト の 校 舎 が あ って、 一階 の 中 央 部 には掲 示. ると 、 二階 建 の 木 造 校舎 、 左 側 に 一階 建 の 木 造 図書 館 、 正 面 には三. 当時 の 専 修 大 学 は町の なか にあ って、 南 側 道路 の 右 側 の 門 か ら入. 大 学 には理工 学 部 が な く て、 早 稲 田高 等 工 学 校と い いまし た。高 等. 板 と 事 務 室、 それ か ら、 右 奥 の 地下 一階 には食 堂 があ り ま し た。. それを 見 て専 修 大学 を受 験 し ようと 思 い、 昭和 二二年 に予科 の 二. 部 に入 学 し まし た。. 乗 り換 え て水 道 橋駅 を下車 し て歩 い て八分 。 それ が今 では地 下 鉄 の. 家 か ら大 学 ま では約 一時 間 か け て通 いま し た。私 鉄 と 国鉄 を二 回. 女 子 専 門 学 校 も、 都 立女 子 専 門 学 校 ( 現 ・首 都 大学 東 京 ) だと か. 三回 線 を利 用 し ますと 神 保 町 ま で約 三O 分 で大 学 へ 来 ら れ る よ う に. つ ってい ったもん です よ。. ど、 二階 級 特 進 し て新制 大 学 にな っての さば っているじゃ な いか っ. ま た 日大 も高 等 工 学 校 。 今 では早 稲 田の 理工 がす ご いと か いう け. 工業 学 校 でも な いん です よ、 その ま た 一つ格下の 乙 種の 学 校 でし た。. 建 設 を設 立 し て日本 橋 に自 前 の ビ ルを建 てま し た。. です。 その ほか早 稲 田 は長谷 部 平 吉 さん が代 表 で、後 に彼 は長谷 部. たん です けど、 四九O O 票ぐ ら いし か取 れ な く て落 選 し ま し た。そ. 長 谷川. 公 認会 計 士の 番 組 で紹介 さ れ る ほどの 人 物 です。 東 京 都 中 小 企 業団. 谷. 大 妻女 子 専 門 学 校 ( 現 ・大妻女 子大学 )と かも出席 し ていまし たが、. 26. 大.
(19) 戦中・戦後の専修大学を語る. な りま し た。 ま た当 時 は、 専 修 大学 前 か ら、 渋 谷 方 面 へ行 く市 電 も走 っ ていま し た が、こ れ はも う なく なっ てし ま いま し た。 大 学の 周 りの こと を少 し話 し ますと 、大 学 に隣接 す る東 側 の 道路 を は さん で、 天 理教の 布 教 所 が あ りま し た。布 教 時間 にな り ますと. 先 生 が いまし た が、 そ う いう先 生 方 は ほと ん ど全 部 兼 任 だっ たと 思. います。 それ で二 四年の 新 制 大学 になっ てか ら やっ と 専 修 大学 の 専. 任の 先 生 が決 まっ て、 授 業 す ると いう よう になっ てき て充 実 し たわ. け です。. です から先 生 はも う超 一流の す ば ら し い先 生 が来 ていま し た。 大. 神 田校 舎 の 敷 地 は、 専 修 大学 が移 転 し てく る以前 は大 き な池 だっ. ら し かっ た なと 思 います。 僕 たち は東 大並 み の 高 い教 育 を受 け てい. な先 生 が いた時 代 が ずっ と つ寸 つい てき たん で、 そ う いう面 ではす ば. 河 内 先生 にも習っ た記憶 が あ り ます 。 と にか く そ う いう ふう な立派. たみ た い で、 大 雨 が降 ると 神 田川の 水 が溢 れ、 この 池 に流 れ込 ん だ. ると 自慢 を し て いた友 達 も大 勢 いま し た。. 太鼓 の 音 が響 い て授業 中 は煩 いと 思 っ たもん です。. と 聞 いた こと があ ります が、 今 では神 田川全 体 の 岸 壁 補 修 工 事 が完. し、 大 学 にも協 力 し て いま し たか ら、 二七 年卒 業 の と き、 神 田校 舎. 私 は、予科 Bク ラ スでし たが、 秩 父 さん は、 学 級 委 員と し て活 躍. 神 田校 舎 の 改築 工 事 の 時 、 地 下 三階 ま で深 く掘 り下 げ た ら、 地 下. の 増 改築 に貢 献 さ れ た感 謝 状 を今 村 総 長 、築 田理事長 か ら受 け てい. 新 制 大学 の 移 行 の 頃 の 話 を少 し さ せ て いただ くと 、 昭 和 二二年 に. 27. 成 し て水の 出 る心配 も な く なっ た よう です。. か ら海 底 で見 つか る貝 殻 が沢 山 出 てき たの で、 周 り は海 を埋 め立 て. 授 業 やク ラ スの 思 い出と し ては、 当 時 は秩 父 さん が お話 し た よ う. ア メ リカ の 教 育 使 節 団 の 勧 告 をv つけ て、 文 部省 は新 し い教 育 制 度の. ます 。. に、 電 気 事 情 が悪 く授 業 時間 中 に停 電 す る こと が たび たび あ りま し. 一環 と し て旧制 大 学 を新 制 大学 に移 行 させ る こと を発 表 し ま し た。. ていた こと がわ かっ た次第 です。. た。ク ラ ス委 員 が点 し た蝋 燭 の火 や ラン プ の 明 か り で、辛 うじ て授. ると いう こと で、 大学 の 設 置が認 めら れ な く て、 慌 て て建 設 委 員 会. 専 修 大学 の 場合 は、 神 田校舎 の 用地面 積 一一 0 0 0 坪だ け では狭 すぎ. 最近の 教 壇 は随 分低 く な り まし た が、 その頃 の 教 室の 教 壇 は七 0. を作 り、 用地 を探 し ま し た。 いく つかの 候 補 地の な か か ら生 田校舎. 業 を続 け て いま し た。. セン チ 位 あっ て、 一列 目の 席 に座 っ て授 業 を 聞 い てますと 、 先 生 の. も交 渉 し て、 月賦 で購 入 でき るよ う になっ た。非 常 に苦 労 し たん で. の 約 四万 坪も あ る広 い用地 が決 定 し て、 専 修 大学 は 日本電 気 と 何 度. 当時、授業を受 けも つ先生と いうの は大 河内 一男 先生の関係もあっ. す。 こう やっ て用地の ほか、 教 員の 資 格 問 題 、 専 任 教 員 の採 用 な ど. 靴 が目 に入 りと ても気 にな り ま し た。. たん でし ょう け ども、 内 田義 彦 先 生 と か いろん な有 名 な経 済 学 部 の. - -.
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