日本における大学史研究の動向と課題 : 大学沿革
史編纂を中心として
著者名(日)
寺崎 昌男
雑誌名
東洋大学史紀要
号
4
ページ
1-34
発行年
1986
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002565/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja東洋大学史研究会第一回例会
日本における大学史研究の動向と課題
大学沿革史編纂を中心として
寺崎昌男︵東京大学教授︶
場日
時 一二月六日午後四時
所 東洋大学第二会議室
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一 司会︵編集長︶ 今日は東洋大学の大学史研究会第一 回例会を開くことになりました。お忙しいところをお 集まりいただき、ありがとうございました。まず、最 初に、編纂委員長福鎌忠恕先生からごあいさつをいた だきたいと思います。 編纂委員長 本日は年末のお忙しいところを多数お 集まりいただきありがとうございました。ご存じのよ うに、いよいよ東洋大学の百周年が近づきました。私 もこの仕事に関係して五年目になりますが、編集体制 もようやく整ってきました。内容を大きく分けますと、 資料を収集整理する部門と年史を編集する部門とから なっておりますが、いざやってみますと、なかなか問題が多い次第です。まず資料の収集整理が十分ではあ りません。また年史の編集も緒についた段階でありま す。 現在の時点で考えてみますと、十年前と比べて大学 史の編纂方法がすっかり変わってきております。今日 では情報が多く、むしろ多すぎて選択するのに苦しむ という状況です。そこで、斎藤編集長の意見もありま して、実際に編集にとりかかることもさることながら、 年史編纂の基本をまず考えてみようではないかという ことになりました。それには専門家をお招きして、ご 意見を伺い、その上であらためて基本的姿勢を確認し たいということになったわけです。 本日は、その方面の専門家でいらっしゃる寺崎先生 にお願い致しまして、大学の沿革史はどのようにする のがいちばん望ましいかを伺い、参考にさせて頂き、 御教示を賜わりたいと存じます。そしてできましたら、 こういう会を定例化しまして今後も続けていきたい所 存であります。ご挨拶は以上と致しまして、先生には 大変ご多忙のところ、本日はいわばボランティアとし てお話をお願いするわけで誠に申し訳ございません。 ﹃東洋大学百年史﹄編纂は、東洋大学二百年・第二世 紀につながる大事業でございます。 寺崎先生にはこれを機会に今後とも色々ご協力をお 願いしたいと思います。 司会 本日の講演者でいらっしゃいます寺崎昌男先 生をご紹介いたします。寺崎先生は、現在、東京大学 の教育学部教授で、教育学博士でいらっしゃいます。 先生には多数の著書、論文等がありますが、主著は﹃大 学教育﹄︵共著︶、﹃戦後の大学論﹄︵編著︶、﹃日本にお ける大学自治制度の成立﹄︵学位論文︶です。このよ うに、大学教育に関する著書、論文が多く、大学史研 究では、寺崎先生はわが国の第↓人者でいらっしゃい ます。 本日は、先生の専門領域であり、なおかつ日ごろ、 先生が大学史編纂に自ら携わってこられた経験をもと に、有意義なお話が伺えるのではないかと期待してお ります。非常にご多忙の中を本日の研究例会のために、 とくに時間を割いていただきました。どうぞよろしく お願いいたします。
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日本における大学史研究の動向と課題
一、 二、 三、 小 目 次 はじめに 二つの経験 戦前の大学沿革史ー三つの編纂スタイル 戦後の沿革史 いくつかの例 日本の編纂の特徴 その再吟味六五四
文書館の必要性 東京大学百年史編纂のトピック 沿革史はどんな役に立つか? おわりに 小さなアドバイスニつ一3
はじめに1二つの経験
わたくしがいま勤務しております東京大学は、七年ほど前に、百年を過ぎました。一つの学校が百年を迎える ということが、それ自体としてめでたいことなのかどうかは、議論の分かれるところだと思います。わたくしど ものやっています教育史の立場からみますと、学校というのは、そもそも﹁一代かぎり﹂というのが本当の姿で はないか、という見方も充分に成り立ちます。そういう目から見ますと、百周年というのは、全面的に祝ってい いことであるかどうか、議論の分かれるところだと思います。ましてや人間のつくった組織が百年永らえてきたわけですから、その間にはいろいろな光と陰を追っていると 思うのです。東大も勿論例外ではありません。百年史などを纒める際には、光の部分よりもむしろ陰の部分をしっ かり見つめるべきではないかということも、個人的に考えるわけです。しかし、光と陰を追いながら百年歩んで きたその成果を総体としてまとめておくということは、やはり意義のあることではないか。二百年に向けての百 年だったのだ、というおさえ方をしながら、学校沿革史というものをまとめなくてはいけないんじゃないかと考 えまして、いま東大の百年史編纂委員長という大変な仕事をやらせていただいているわけです。後ほど、時間が 許せば、わたくしどもの大学のいろいろな事情などもお話しして、これから百年史編纂に従事される先生方のご 参考になればと思っております。 わたくしごとから始めて恐縮ですが、わたくしはこれまで二度、学校沿革史の編纂に携わりました。一つは、 東大に七年前に移って参りますまで勤めていた立教大学の﹃立教学院百年史﹄を編集した際で、執筆者の一員に 加えられました。二度目が﹃東京大学百年史﹄ですが、その二度の経験はわたくしにいくつかの感慨を催させる ものがあります。 ﹁立教学院百年史﹄は、まだ大学﹁紛争﹂が終わって間もない時期に立案され、昭和四十九年に刊行されました。 この時に得た感触の一つは、大学史編纂というものは、これまで日本の大学人のメリットにあまりならない仕事 であったらしいということです。先ほどの編纂委員長先生のお話に﹁ボランティア﹂というお言葉がありました とく が、経済的にも、また学問的業績の上でも得にならない仕事であることは確かであります。ただ、そうなってき
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たにはなってきた歴史があると思います。 ﹃立教学院百年史﹄の場合は、わたくし自身は非常勤講師だったころに依頼されたのですが、幸いなことに、 海老沢有道先生というキリスト教史の専門の先生がいらっしゃいまして、この先生が全責任をもって編集と最後 の詰めに当たられました。その時、海老沢先生はわたくしどもに、どうぞ学術論文を書くつもりでお書きくださ い、と言われました。さらに、一立教大学の歴史を書くという姿勢でなくて結構だ、近代日本におけるキリスト 教史、文化史、教育史の中に立教を位置づけるつもりで書いていただきたいと言われました。その言葉はわたく しにとって非常に頼りになる言葉でした。 ﹃立教学院百年史﹄は、三、四年後に見事に完結しましたが、わたくしの知っているかぎりで初めて、注の入っ た大学史となりました。それまでの学校史の中には、出典注をはじめ、いっさいの脚注がありませんでした。海 老沢先生の決断で注の入った文章を書いてほしいと言われまして、わたくしもいまより若かったものですから、 ファイトをもって﹁立教大学における大学への道﹂という章を書きおろしました。 二番目の﹃東京大学百年史﹄は、立教におりましたころから専門委員を依頼されていたのですが、東大に移っ てからは、本式にその中に巻き込まれてしまいました。東大でも最初の頃の企画ではどうだったかわかりません が、最後の詰めの段階では、少なくとも学術誌としても読むに耐えるものを作る、ということで、皆さんの合意 が作られてまいりました。このことは重要なことで、一学校の歴史が百年顕彰の物語になるのか、それとも真の 姿を伝える歴史になるかのわかれ道といってもよいと思うのです。すなわち、研究的、学術的に書くという覚悟
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をすることを通じて、執筆者は一個別大学の歴史という限定を免れてものを書くことができます。そうでなけれ ば、狭い家系の歴史や自己宣伝的自叙伝、あるいは顕彰的な偉人伝などと同類の仕事にしかならないだろうと思 うのです。 多くの大学で、最近新しい大学史編纂の動向があります。そしてここ十数年の間の日本の個別大学沿革史の編 纂の進歩は、大変なものだと思います。その進歩を支えるものの一つは、参加された方たちの多くが、仕方がな いから先人のことを書いてやろうとか、何々総長の時代というのを書こうとかというかたちでない、もっと違っ た考えをもって年史編纂に参加されるようになったことにあると思うのです。 一、
岺Oの大学沿革史−三つの編纂スタイル
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ここで日本の大学沿革史は、これまでどういうふうに編纂されてきたかということをお話ししたいと思います。 戦前にも、いろいろな大学が沿革史を刊行いたしました。 第一のスタイルは口承を中心にした記録史です。 いちばん早く出されたものとして目立つのは﹃慶応義塾五十年史﹄です。安政年間の創立から下って五十年と いうので出たのが一九〇七年、明治四十年のことです。 これなどは非常に小さな冊子で、コンパクトな内容でしたが、これを見ますと、創設者に近かった、篤志家的 な個人、あるいは集団によって書かれていることがわかります。これを第]のスタイルといってよいでしょう。菅学応先生とか学報編纂係の諸先生とかが、文献や、創設者福沢諭吉と長くお付き合いをした先輩の話にもと ついてお書きになりました。その分だけメリットもデメリットもあったように思います。メリットとしては、事 情がよくわかっておられるから、文献にない伝承的事実でもよくご存知のわけです。いま﹃慶応義塾五十年史﹄ を読みますと、コンパクトなんですが非常に面白い。口承でしかわからないことが書いてある。そういう自叙伝 的な興味がある。次に、何といっても愛校心が背後にありますから、それが読んでいるうちに伝わってくるので す。その意味では読むに値するものになっています。 このスタイルを追ったのがそのあとに出た﹃半世紀の早稲田﹄︵昭和七年︶だと思います。早稲田は慶応より 四半世紀後に半世紀を迎えたわけですが、﹃半世紀の早稲田﹄も、戦前に出たものの中では秀作の一つと言って いいと思います。いまではほとんど見ることのできなくなった写真、資料などが豊富にありまして、コンパクト ながらいい記録になっています。 第二のスタイルとして、同窓生とか、事務局の中にたまたまおられた理事の方が、何年史というので創立記念 史を書かれた例があります。﹃明治大学五十年史﹄︵昭和六年∀などがその一つの典型です。こういうものの特徴 の一つは、ティーチング・スタッフ、つまり、教授の先生方の手がほとんど入っていないということです。その 代わり、大学の経営史的な面での史料が多いわけです。たとえば、関東大震災後に大学をどうやって復興したか、 明治大学は大正九年に大学に昇格したわけですが、その昇格のときに要したお金をどうやって集めたか、こうい う点については実に熱意をもって書かれています。しかし、教育や学問の歴史を見ようとすると非常に雑で、あ
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まり参考にならない。つまり、戦前の学校史の二番目のスタイルのものは、歴史家としてのディシプリンがあま り反映されていないタイプの沿革史で、明治大学史はその一例だと思います。量的には、このタイプは大変多い。 三番目は、記念事業と日本史学のあるディシプリンとが結びついた場合です。一つの例は、昭和七年に出た﹃東 京帝国大学五十年史﹄です。これは部厚い全二冊本から成っていますが、部局史も通史のほうも、全部、集中し て執筆されています。服部宇之吉名誉教授のもとで、実際に仕事に携われたのは大久保利謙先生、それから当時 の平泉澄および今井登志喜の両助教授がこれにもう一つお加わりになって、二巻が完成しているわけです。 それを見てみますと、当時の日本史学のもっていたディシプリンと西洋史学がもっていたディシプリン等が、 いろいろなかたちでそこの中にぎゅう詰めにされていることがわかる。その点では、慶応や明治とはちょっと違っ ております。一つは、とにもかくにも史料中心主義で、実証性はあるわけです。たとえば、学内規則等や伺いな どがいっぱい盛り込まれています。あまりにも頻出しますので、叙述の部分は非常に簡単になっていって、読む ほうは無味乾燥の感を免れませんが、読んでみますと、いまはもう見ることのできなくなったような資料が複刻 されております。ただ、非常に急がされたとみえて、誤植がたいへん多いのですが、それにもかかわらず、五十 年史でしか見ることのできない史・資料が大量に盛り込まれているわけです。 もう一つは、ある種の皇国史観が入っているということです。たとえば、東大のオリジンの一つとして、幕末 の京都につくられた学習院のことが書かれています。一方、昌平坂学問所のことは、逆にまったく書かれていな い。昭和七年段階における日本史学のもっていたある種の傾向というものが、この中に含まれている。また、天
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皇の臨幸、皇后の臨御、あるいは勅諭等に関しては、実に綿密に書かれています。 松本清張氏などは、﹃小説東京帝国大学﹄の中で、﹃東京帝国大学五十年史﹄という無味乾燥な大学史があるが、 自分はここで違う大学史を書く、というふうに書いております。たしかにそういうふうに批判されるだけのこと はあると思いますが、今となっては、昭和七年にあれが出ていたことで後世の研究者やわたくしども年史に当る 人間がどのくらい助かったかわからない面があります。 東大では、これだけでは足りないというので、その後、昭和十七年から十九年にかけて、紀元二千六百年記念 事業と合わせて﹃東京帝国大学学術大観﹄というのが出ました。これは、前者が非常に制度史的であったのと異 なって、文字どおり学術内容史であります。 時局柄、社会科学の分野、とくに法学、政治学といった部門のところは書きづらかったと思われます。したが いまして﹃東京帝国大学学術大観﹄全五巻の中で、法学部だけは、法学部史としては書かれないで、全部、個人 論文集になっています。丸山真男氏の著名な論文﹁福沢諭吉の儒教批判﹂なども、そこに載っているわけです。 おそらく当時の法学部に対する国粋主義の立場からの批判に対する配慮があったのではないかと思われます。ま た経済学部も学説史中心の論文集の体裁となっていました。 こういう限界はありましたが、全体としてみれば、記念事業と史学ディシプリンとが結合したものと言ってい いと思います。 同じようなもので﹃第一高等学校六十年史﹄が昭和十四年に出ています。これは﹃東京帝国大学五十年史﹄と
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打って変わって、完全な年代的記述になっています。つまり、年月日をまずゴチックで出しておき、その下に事 項を連ねる。それも公的事項だけを連ねているという方針をとっています。他の大学史にも二、三の例を見るこ とができますが、非常に珍しい、純粋にクロノロジカルな体裁の沿革史です。解釈その他はほとんど加わってい ませんが、日付その他、類を見ない正確さをもっています。これの中心になられたのは、当時お若かった藤木邦 彦先生などであると伺っていますので、あるいは古代史的なディシプリンが入ったのかもしれない。そういう意 味では、たいへん注目すべき沿革史だと思います。 西のほうでは、三高の﹃稿本神稜史﹄というのがあります。これは膨大なタイプ印刷のかたちで残されていま す。数部だけつくられたのですが、若き日の林屋辰三郎文学士が執筆しています。その代わり、あまり大部すぎ て印刷もできなかったわけで、それを基にして、大城富士男先生という方が﹃神稜小史﹄という小さい本におま とめになりました。いま古本屋で時々見かけますのは、その﹃神稜小史﹄です。 また、﹃京都帝国大学文学部三十周年史﹄というのがあります。これは国史学の西田直二郎先生らが中心にな られたようですけれども、凝りに凝った本でありまして、聞くところによりますと、創立記念日のその日に印刷 されて持ち込まれた本だそうです。その数日前まで、図版の複製の色が気に食わないというので、その担当の先 生が印刷屋さんを泣かせたというほど、大変な凝りようだったということです。 このあたりが、おそらく戦前における日本史学研究と沿革史とのつながりを示すものでしょうか。その伝統は、 戦時下には途絶えてしまいます。わずかに戦中に出たもので、﹃京都帝国大学史﹄がありますが、これは昭和十
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八年の刊行です。公刊されたその時には、もはや全国に送ることができなかったらしく、非常にたくさんの部数 が大学本部に留め置きのまま、日の目を見ないで残されていました。これは昭和十八年の刊行ですから、たとえ ば滝川事件というような事件に関してはまったく記されていません。一人一人の先生の研究領域と学校の制度沿 革等が並んでいるものです。ひところは、古本屋で大変な高値がつけられていましたが、それも戦時下の刊行で 流布しなかったからだと思われます。
二、戦後の沿革史1いくつかの例
戦前はだいたい以上のような状況でしたが、戦後になるとこれが変わってまいります。まず一九六〇年代に注 目すべき沿革史が出ます。それは﹃東北大学五十年史﹄︵昭和三十五年︶です。 これは、戦後に出た大学史の中でも非常に出来のいいものです。同書の編纂されていた時期は、戦後新教育の 末期、新制大学の建設期でありました。﹃東北大学五十年史﹄がなぜよかったかといいますと、一つは、中村吉 治という社会史の専門家の先生が編集の中心に当たられまして、図書館学をやっておられた専門家の方がそれを 補佐され、史料的にも構成、叙述の面でも、堅実なものであった点です。もう一つは、各部局のほうから、戦後 における東北大学の成立の歴史を非常に細かく叙述されていることです。 一九六〇年代、東北大学は非常に苦しい時期だったと思います。それは、旧宮城師範学校および旧宮城女子師 範学校の二つを、戦後、東北大学が抱えたことにょります。その統合の経過は、東北帝大の側からも、旧師範学一11一
校の側からも、筆舌に尽くし難い錯綜したものでありました。戦後、占領軍の方針で、一府県の中には一国立大 学だけが許されるということになりました。ただし、人口三〇〇万人以上の府県の場合は二校以上あってもよい。 この方針からすると、ほとんどの旧帝大所在府県は、二校以上の国立大学があってよいことになって、旧帝大の ある所には、全部府県内に教育大学、学芸大学が別に出来たのですが、人口の少い宮城県は例外でした。東北大 学の中に宮城師範と宮城女子師範等を抱え込まなければならなかったわけです。 右の経過をどう書くかということが、一九六〇年代の東北大学の問題と重なっていました。そういう意味で、 叙述に非常に苦心が見られます。出典注などは書いてないんですけれども、当時、戦後の民主化の時代における 東北大学建設をどう考えるかという熱気のようなものが行間から感じられます。戦後に出た国立大学史の中でも 白眉に属するものと思われます。 もう少し後に慶応義塾の百年史︵昭和四十年完結︶が出ます。これは、長い歴史資料編纂の蓄積の上につくら れたものです。これも日本近代史を背景として編集・叙述された戦後の秀作の一つといえるでしょう。 これに対して、個人の執筆による歴史もないではありません。ごく最近のものでは﹃東京教育大学百年史﹄と いうのが出ました。これは同校の廃学のあと筑波大学になってから書かれた沿革史ですが、まったくお一人で書 かれたもので、戦後としては非常に珍しい例であります。ただ、内容に関しては、わたくしはあまり感心できま せん。というのは、一大学の沿革史の本式のものを一人で書くのはどだい無理だと思うからです。大学には、そ れぞれ異なる専門の学術教育体制が組まれているわけですし、通史としたところで、政策、制度、個人の動きと
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いったものを全部含む﹁正史﹂を一人で書くことは不可能ではあるまいかと思うのです。個人の執筆による大学 沿革史は、独立した著作物として出版社から刊行される場合は別ですが、正史として書かれるものとしては適さ ない。その意味では、非常に残念な百年史だと思います。 他方、協業方式と申せばよいか、そういう編集方式があります。とくに最近広がってきた傾向なんですが、日 本史のディシプリンだけでなく、教育史、ミッション系の学校であれば宗教史、仏教系の学校であれば仏教史、 教団史等々をやっておられる方々の協力が協業的に行われる方式です。これはたいへん重要なことであると思い ます。大学沿革史というのは、そもそも、異なるディシプリン間の総合史であるべきだと思うのです。 わたくしどもの﹃東京大学百年史﹄などは、日本史と教育史の協業ということで目下進行しています。幸い、 日本史の専門の先生方が、近代における教育史の研究について比較的理解の深い方々であったということが、そ の基礎をなしています。この基礎にもとついて、教育史という、従来、日本史の一部かもしれないが、文化史の また片隅に置かれていた分野の研究者との協力を誘発されたと思います。このことは、どの大学の沿革史の場合 でも大事なことではないかと思います。
三、日本の編纂の特徴1その再吟味
こんなふうに、戦後には新しい沿革史編纂の動向が生まれたのですが、 言えるでしょうか。 これを振り返ってみてどういうことが一13一
一つは、日本における個別大学沿革史が編纂される特徴を再吟味しておく必要があるのではないでしょうか。 第一に本格的歴史家が、個人的責任においてある学校の歴史を書くという伝統が、決定的に弱いということがあ ります。先ほど、そういうものが大学の公的な正史として出た場合に限界があると申しましたが、個人著作とし ては大いにあっていいわけですし、さらにいえば、そういう個人著作を、あえて大学が、権威を認めて委嘱する ということがもっとあってもいい。ところが、この習慣、伝統がないわけです。 これはヨーロッパやアメリカの場合と大いに違うところです。ヨーロッパ、アメリカの大学沿革史は、名声の ある歴史家に対し、個人的に委嘱し、その歴史家が書くわけです。いちばんポピュラーなものの一つは、C・E・ マレットの書いた﹃オクスフォード大学史﹄二巻などですが、これは、中世史の権威であるマレットが、大学の 委嘱を受け、自らの責任で、自らの名前でオクスフォード大学八百年の歴史をまとめるわけです。そういう伝統 は数かぎりなくありまして、ドイツでもそうですし、アメリカなどでも数々その例が見られます。その背景に、 そういうものを引き受ける史学家集団があり、歴史研究の伝統に文化史的な流れがあるからだと思います。そう いう意味では、日本の大学沿革史というのは、まだまだ第一歩を踏みだしたばかりだと思います。 第二に、大学の内部システム、つまり、教育に関するシステム、学術成果を生みだしたシステム、管理に関す る諸制度等々と社会的な諸動向との関係をおさえるということが非常に弱いということです。日本でこれに成功 している沿革史はまだほとんどないのではないかと思います。 ﹃東京大学百年史﹄でも例外ではありませんが、専門委員として参加されておられる大久保利謙先生などは、
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編集委員会でたびたびこのことの重要性をおっしゃいました。すなわち、一大学が、明治期なら明治期の社会・ 国家、大正期の政治、昭和期の戦争というようなものに対してどういう役割を果たし、どういう貢献、関わりを もったか、こういう点をきちっとおさえる必要があるということです。 そういうご意見がむしろ高齢の先生から出され、わたくしどもを勇気づけました。後の時代になるほど叙述が 困難になりますが、明治期に関しましては、たとえば、明治維新期における国民教育制度のつくられ方と、その 中における東大の発生、あるいは内閣制度成立期における伊藤博文その他の憲法制定作業とのかかわりにおける 帝国大学制度の成立、あるいは日露戦争を契機として起きた七博士事件の位置づけ、帝大を生みだした官僚制の 形成、こういうものをきっちりと押えて東京大学史を書いてほしいと励まされ、相当程度書くことができました。 一般に、右のようなことは、ヨーロッパやアメリカの大学史ではごくあたりまえのことで、植民地の形成に対 して大学はどういう役割を果たしたか、あるいは、中世の学問文化の形成に対してオクスフォード、ケンブリッ ジはどのような役割を果たしたか、それらを書いてないものはありません。そういう意味では、まだ日本の大学 沿革史はそこまで行っていないという弱みを、全体としては含んでいると思います。 第三に、史料の蓄積とその学術的利用の伝統が弱いということです。こちらのような私立大学の場合は、その 弱点がかなりカバーされています。とくに、部分的にしか戦災の被害を受けておられない大学の場合は、学内史 料の蓄積はかなりあるわけで、その点では恵まれていると思います。 ただ、国立大学の場合は、非常に困難だといえます。一つは、史料保存についての責任主体不在の体制です。
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永久保存書類というのはたしかにあります。それらはおおむね非公開のもので、そういうものについては、官庁 の責任においてきちんと保存されている。たとえば、教授会の記録とか評議会の記録などは全面的に保存されま すが、それは非公開性の強いものです。それに対して、それからちょっと外れた資料、たとえば学生の在籍関係 を示すようなもの、試験の問題、時間割りに関するものなどは、ほとんど保存されていない。毎年の時間割りな どは官庁では永年保存の文書と考えていないからです。 ところが、現実に大学沿革史を編纂していきますとこうした史料が大変重要になってきます。たとえば大正八 年度からは東大は九月入学制度をやめ、四月入学制度になります。その時に時間割りはどうなっていたのか、四 月入学で入ってきた旧学生と九月入学で入ってきた新学生とでは、時間割りの配列にどのような変化があったか。 こういう問題になると、時間割りが残っていないからわかりませんし、ひいては正確な沿革史が書けません。そ ういう意味では、官庁としての国立大学がもっている、秘密主義にほとんど近い非公開原則と、責任主体の不在 体制との結合は、沿革史研究の最大の障害となります。 私立大学ではどうか。立教におりましたころは、沿革史料の保存がまず図られていませんでした。一時期学生 が発行した新聞とか、戦前のある時期に学院が責任をもって刊行していた大学新聞などは、その後だれも読む人 がいませんから、図書館の隅にホコリをかぶったまま長年置いてある。開けてみるとバラバラッと砕けそうにな るような感じで残っています。しかし、そういうものを見なければ書けない史実もたくさんあるわけです。 一方で、オフィシャルな文書も、大学の中に保存されていませんでした。具体的にいいますと、いつ立教学院
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が専門学校として認可されたか、また、いつから立教大学という名前を付けていいということになったか、その 通知はいつ来たかということも資料がなくて学内ではわかりませんでした。これらは、本来ならば大学の中にそ の通知が保存されているべきです。しかし、保存されていないので、仕方なく迂回作戦をとり、都の公文書館で 調べたり、官報を探すことをいたしました。また学生の在籍者数も、大学の中の史料では正確に残っていません でした。そこで、文部省の年報に載っている﹁全国公私立専門学校一覧﹂というものを集大成し、やっと立教学 院における学生数の変化が明らかになったわけです。しかし、さらに知りたいのはその下の記録です。どんな地 域から、どういう学生が、いつ入ってきたか、途中で退学していった学生の推移はどうか、ということがわから ないと、本当に自信のある歴史は書けない。ましてや、何々学部、何々学科、何々教室というものの歴史を書く ときには、それらはきわめて重要な史料になってまいります。学科によっては、長年、数人しか生徒がいなかっ たという学科もあるわけで、東大などでもそういう学科や講座は沢山あります。そのような学科・講座の場合ど んなところから学生が来ていたのか、その学生たちは本当に卒業したのかどうか、前歴としてどんな教育を受け てきたか、どんな学校を卒業してきたかなど、こういうことがわからないと書けないのですが、立教に限らずど の大学にもそれらを示す史料は揃っていません。そういうようなことを考えるにつけても、史料の蓄積とその学 術的利用の伝統が弱いということは大きな問題で、今後克服してゆかねばならない問題点だと思われます。 第四に、近年見えてきた新しい希望はなにかについて、ふれておきたいと思います。 ひとつは、先ほども申しましたが、協業方式が増加してきたということです。﹃専修大学百年史﹄などもその
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例です。また一方で、史料集や資料編が整備される計画が出来てきた。これも著しい変化です。これに先鞭をつ けられたのは、わたくしの知るかぎり、明治学院大学ではなかったかと思います。明治学院大学は次々に史料集 を刊行されまして、それ以後、大学史をつくるのに史料集を出すということが常識化してまいりました。たとえ ば﹃北海道大学百年史﹄は明治年間だけの史料ですが、北方資料室に保存されてきた札幌農学校資料を複刻刊行 されました。これで北海道開拓使並びに北海道庁初期の時代の札幌農学校の歴史が全部わかるようになりました。 その他、独協大学も史料集を次々に刊行されていますし、同志社も全四巻の沿革史の半分、二巻は史料集にあて られています。東大は十巻のうちの三巻を資料編に当てていますし、明治大学などでも、次々に史料集が刊行さ れています。 考えてみれば、府県史とか内閣制度史、議会制度史などを書くときに史料集を合わせて出すのは当然のことだっ たわけですが、それが大学史編集にやっと及んできたといえます。今後、この勢いが止まることはなく、また、 資・史料集は沿革史研究の中心になるものの一つだと思われます。 第五に、﹃研究紀要﹄が刊行されるようになりました。明治大学、東京大学、早稲田大学にそのことが行われ、 こちらの東洋大学でも、現在、三号まで紀要を出しておられる。これは大事なことだと思います。 こんなことをいうのは差し障りがあるかも知れないのですが、大学の公的刊行物として出される沿革史に、本 当のことを徹底的に書くことはできないと思います。いかに実証的に書くことを心がけても、少々は飾りが出る と思いますし、こういうことこそ書かねばならないという、そのことが書けない、ということはあるのです。書
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かれていないことが実はいちばん面白いんですよと、つい言いたくなる。 ところが、そういうことも、研究的なルールにのっとれば、研究紀要には出せるんです。もちろん研究紀要に 出す論文は、たとえ研究ノートであろうと、論文であろうと、学術的歴史研究としての基本的要件は備えておか なければいけません。また、プライバシーにかかわるようなことがら、とくに学生、生徒のプライバシーにかか わるようなことについては、細心の注意が必要だと思います。 右のようなことに注意しながら、研究紀要に学術的な論文をのびやかに出しておくということは、一方で正史 としての沿革史を書く際の何よりの基盤になります。 最近、わたくしは個人的にも経験いたしました。戦後の教育改革が行われる際に、東大ではいろいろな意見が 出て、旧来の帝国大学のあり方を変えなくてもいいという意見から、そうではないという意見までありました。 それらを全部集大成されたのが、南原繁という戦後初期の総長です。その南原総長と占領軍とのかかわりや、南 原総長が学内で果たされたさまざまな役割、南原総長が占領軍に働きかけられた内容などがだんだんわかってま いりました。 これらを見ると、ある部分では、従来の歴史や教育史の叙述が確かであったこともありますし、ある部分では これまで知られなかった南原総長や大学側の、占領軍への譲歩を証する資料も出てまいりました。これらは、そ のままのかたちでは通史の中ではなかなか書けないことです。しかし、紀要論文としてならば書くことができま す。そういう意味では、研究紀要を出して、研究論文や研究ノートの紹介を豊かにやっておくことは、本格的な
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沿革史をやっていく上できわめて重要なことだと思います。研究紀要の刊行は、最近芽生えている芽としては重 要な点だと考えています。 また、別の例ですが、戦時下に大学および大学人がどのような行動をとったかというようなことは、まだ、記 すことの難かしいテーマの一つであります。俗にいうとヤバいテーマです。しかし、そういうものも、研究紀要 の中では、かなり大きく取り上げられている例があります。早稲田大学などは立派です。﹁十五年戦争下におけ る早稲田大学年表﹂という年表が記されていまして、それを見ますと、登場人物にはおそらく現存のスタッフも おられると思いますが、そういう方の行動もきちっと書いてあります。 こういうことは、後世の歴史研究にとりましても、また、歴史家として沿革史にかかわる立場の人間にとりま しても、きわめて大事なことだと思うのです。そういう意味で、研究紀要の刊行が進んでいるということは、た いへん貴重なことだと思います。 第六に、最近の大学沿革史は、学術書としての体裁をかなり大胆にとっており、いまや出典注をかかげること などは常識になっています。北海道大学、同志社大学、その他、最近出ました本格的なものには、全部、出典注 が書かれています。出典注並びに補注を書くことで、いわゆる正史の限界を救っています。あることを書いて、 これに対してはこのような反論があるということを書くだけでも、重要な進歩だと思います。これは今後、確定 されていく方向だろうと思っています。
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四、沿革史はどんな役に立つか?
ところで、沿革史研究をやること、沿革史を編纂することの意義と有用性、つまり何の役に立つかということ についてはどうでしょうか。これは簡単には申せません。 大上段の言い方をしますと、大学の現在および未来における改善・改革のためのパイロットになるということ は言えると思います。その前提は、現在並びに将来にわたって生起する諸問題の歴史性が、沿革史にきちんと記 されているということです。 いろいろな管理機関、国立でいえば教授会や評議会、私立でいえば理事会や教授会で繰り返される制度改革の 問題のなかには、五年前も十年前も同じベースで議論し、同じような結論を出そうとして、しかもいまだに結論 は出ていないといったことがらが多々あります。 一例をいいますと、わたくしは東大で大学院関係のある制度研究小委員会というのに参加させられました。そ の委員会の中で、東大の文科系の大学院研究科は学位が非常に出にくいのはなぜか、どう改めていったらいいか という議論が出されました。また、ある研究科はたいへん閉ざされていて、ごく一部の研究者養成機能しか果た していない、これはどうしてだろうか、という問題も議論されました。そういう議論のときに、戦後の改革当時 の東大の記録を見ていると、その背景がはっきりわかります。つまり、戦後教育改革において、東京大学という 大学は、一般教育を重視するという点では、戦後新学制の中心の理念を大胆に受け入れた。したがって、教養学一21一
部というものをつくる一方、大学院では理想に燃えて、数物系研究科とか人文科学研究科といった新しい研究科を つくり、学問の総合化をはかろうとした。ところが、大学院の水準に対しては、絶対に戦前の水準を落とすまいと いう覚悟をしたため、いかなる意味においても、東大大学院は学術研究者の養成しか果たさないという強い合意 があって、戦後の大学院がこの合意に基づいて出来たことがわかるわけです。学位も出しにくくなりました。 ところが、その合意が崩れたときがあります。それはいつかというと、高度経済成長期であります。高度経済 成長期に、主として理科系の大学院あたりから、そうは言っておられないという意見が強力に出され、その延長 において、いまや全学において大学院を国内的にも国際的にもいかに開放すればよいかが、問題になっている。 こういうような”問題の流れ“が、沿革史研究を通じてわかってまいります。そういう意味では、現在および将 来に個別大学がもっている問題についての案内役といいますか、問題の歴史性を、本当の沿革史が教えてくれる ということがあるわけです。よかった、よかった、めでた、めでたの沿革史では、こういうことはわかりません。 もう一つ具体的なことで申しますと、いま東大だけが 時限の授業は一時間五十分です。他の大学は、全部、 一時間半を一時限と計算することになっています。京都大学を調べてみますと、これも一時間半です。これも歴 史が明らかにしてくれました。大学の事務のほうから、それはなぜかと聞かれましたが、これはごく簡単なこと なのです。 明治期、大学は休み時間というのを設けていませんでした。一時限は二時間という単位で講義していたわけで す。ところが、後に、学生が遅れて来たり、二時間半もしゃべる先生がいたのでは困るというので、休み時間が
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出来てきました。これが十分間の休み時間なので、授業時間は一時間五十分となって、少なくとも本郷の専門学 部では戦後変えられていないわけです。戦後の、新制大学の単位計算方式にもかかわらず、この点は従わないと いうことが暗々裡の学内合意になった。これが現在の一時間五十分のもとになっているんです。 事務の人にこの説明をしたところ、ああ、そうですか、沿革史は役に立つんですね、と言われました。わから ないことがわかるという点では、意外な効用性を発揮します。またしばしば、どうでもいい、つまらない制度が 慣習的に残っているということもわかることもあり、そんなことはすぐやめてしまったらいいではないかという 答えが出てくることもたまにあります。教学側にとっても、経営側にとっても、パイロットになることができる のです。 第二の理由は、大学の一般史の基礎が提供されるということです。日本では、大学史研究そのものが後れてい ましたので、個別大学沿革史を生かすべき大学一般史がないというのが、いまの大きな問題です。一方、厳密な 歴史家から見ますと、。お祭り“で出した沿革史などはとても使えた代物ではない、あれは第三次史料だと考え られています。たしかに大学沿革史も、あまり本格的に編まれなかった。この両方からの原因が相乗いたしまし て、いまのところ、大学一般史に対して基礎を提供しうるということにはなっていませんでしたが、これからは 違うと思うのです。 たとえば、経営史、経済史における会社史といったものの重要性は、かなり広く認められています。それがな ければ、経済史、経営史の基本部分というのはわからないというぐらい重要だと思います。
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アメリカやヨーロッパでは、ビジネス・アーカイヴズというのがありまして、会社が沿革史の資料を丁寧に保 存しています。たとえば、東インド会社の会社史がいかほど経済史研究に寄与したかということは、申し上げる までもないことです。それと同じ意昧を個別大学の沿革史とその史料というのは持つだろうと思います。したがっ て、個別沿革史が充実してくれば、まだ百何十年にしかならない日本の近代大学史というのも、また進んでくる のではなかろうかと考えています。 わたくしは、大学史研究セ、、・ナーを、十年間にわたり、科学史や法制史や西洋教育史の方たちと一緒に運営して まいりましたが、そういう中で、日本においても少しずつ大学一般史研究の流れが生まれてきています。おそら く大学一般史研究そのものの流れと沿革史の編纂事業とは、相まって、これから協力関係に立っていくと思いま す。 それから、いうまでもありませんが、個別大学の沿革史は、科学史、学問史、社会史、あるいはイギリスなど でいわれているインテレクチュアル・ヒストリーに対する大きな貢献となると思います。インテレクチュアル・ ヒストリーがいちばん盛んなのはイギリスだと思いますが、オクスフォード大学のカレッジの歴史資料とか、ケ ンブリッジの歴史資料とか、最近だとロンドン大学のアーカイヴズであるとか、そういうものがなければ、イン テレクチュアル.ヒストリーの基礎はできないと思います。大学がいかなる知的生産をなし、いかなる人材を、 どのようなかたちで社会に送り出すことができたかを通じて、国家、社会のインテレクチュアル・ヒストリーに 貢献してきたか、といったような研究は日本の歴史研究をやる場合にも非常に重要だと思いますが、日本の場合、
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これまではなかなか進みませんでした。社会史等についてこれほど強い要求が出て来、これまでと異なるかたち の歴史が求められている現在、日本史学における弱点も補強する必要があるかもしれません。近・現代日本史は、 わたくしどもの目から見ますと、どうしても政治史中心であるようにみえます。もっと社会政策史とか人間形成 史、あるいは文化史、さらに子供そのものの歴史などを含んだ教育史学を含んだ日本史学が、いまや求められて いると思うのですが、そういうものに対する寄与という点では個別大学の史料研究と蓄積、本格的沿革史の貢献 は、はかり難いと思うのです。
五、東京大学百年史編纂のトピック
最後に、﹃東京大学百年史﹄について、若干のことを申し上げたいと思います。 ﹃東京大学百年史﹄は、大学﹁紛争﹂前に一度、企画されたそうです。しかし、大河内総長のころ、大学﹁紛争﹂ により、編纂委員会は、立ち消えとなりました。昭和四十九年、当時の林健太郎総長のもとで編集委員会が組織 されまして、最初の委員長は日本史の笠原一男教授でした。そして、二年間、委員長を勤められ、最初の基礎を 築かれました。その後、土田直鎭教授が委員長になられ、そのもとで六年間運営されました。この間は本当に大 変でした。通史編、資料編が各二巻、部局編四巻の計八巻でやっていく計画だったのですが、資料を集めること も容易ならないし、通史を書くのはまだまだということで、当初三、四年間の計画だったのが九年間かかりまし た。その間、通史編と資料編を両方並行してやったものですから、昨五十九年の春、両方の第 巻目を一緒に出一25一
す羽目になりました。巻数も二巻ふえて十巻になりました。 昭和五十八年春から、土田教授が急に国立歴史民俗博物館長として出られたものですから、わたくしが委員長 の役を仰せつかりました。とにかく本の顔を見せなくてはならないということで、資料編一、通史編一の二つを 一年間に出して刊行事業をすべり出させるという役割を担わされたわけです。 それにつけても思うのですが、これから東洋大学史をおまとめになる際は、ぜひとも資料編を先に完結するつ もりになられた方がいいと思います。多くの府県史でもこのようにしています。福島県史とか、必ず地方史は資 料編から先に出ています。それがほぼ出来上がったところで通史編にかかればいいのです。わたくしは委員会の 発足当時、まだ東大にいませんでしたが、右の二つを同時に刊行していくような計画をした点、東大の当初計画 には甘さがあったということを、痛感いたしました。しかし、委員会内の協力のおかげで、通史一、二と資料一、 二と二年間に四冊出すことができまして、来年の三月にまた残りの二冊を出して、やっと通史と資料を同時完了 し、部局史の刊行につなぐというところまでになりました。しかし、こんな息詰まるやり方は、歴史書刊行に当 たってやめたほうがいいと思います。 理想としては、研究紀要の中で少しずつ史料の紹介をし、さらに研究が進み、その中で確実な資料集が生まれ、 それが目鼻がついたころに通史、部局史が出るというかたちが、いちばんいいめではないかと思います。 もの 次に、物が出ない間の責任者は非常に辛いということです。やっています、やっていますと言い続けなくては いけなくなる。東大の場合がそうでした。土田前委員長は﹁まもなく出来ます﹂と言い続けられた六年間だった
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と思います。幸い先生が”大物“だったからそれで済んだのですが、わたくしなどにはとてもあの芸当はできな いと思います。 東洋大学の記念事業がどういうかたちになっているのか、理事の方々、先生方、編纂委員の先生方がどういう 構成で参加しておられるのか詳細には存じませんが、お金や物のほうの責任をもっていらっしゃる方々は、歴史 書の刊行にはバカバカしいほど時間がかかるという覚悟をおもちいただいたほうがいいと思います。 東大の場合は、その点で恵まれました。幸いなことに、記念事業の幅が大きいのと、いろいろなトラブル といっても、ちょっとグラウンドを掘ってみたら遺物が出てきたり、遺跡が出てきたりして、建物が何も建たな いといったことですが のために記念事業が進まなかったため、百年史も進みが遅れてもあまり文句を言われ ませんでした。とくに、資料編が大変です。どの範囲の史料を入れ、どこを削るかということも難しいですし、 どれが第一次史料であるか等もわかりにくくなっています。明治以後の内規等であっても、規則がつくられた過 程で、原案から公的なものに行くまでの間、どんなかたちで修訂削除されていったかということ自体非常にわか らないものが多い。 戦後のガリ版刷りの文書等に至ってはなおさらでして、ザラ紙にガリ版刷りのために消えかかっている。そこ へもってきて、戦後の、すぐにじむようなインクで書き直したりしてあるものですから、ひょっとしたら近世や 中世の文書を読みとるのと同じくらいの読解力が必要かも知れません。そういうことが多々ありますので、思い がけない手間を食うわけです。 27
それから、整理されてない文書が山積しています。﹁文部省往復﹄などという文書綴があるのですが、これには、 文部省関係の書類がことごとく綴じてあって、目次などつくっていませんから、こういうものの目次づくりから しなければならないということです。文書の素性もわからないことが多い。同じような文書が一つの簿冊には八 点あるとすると、別の簿冊には九点あり、しかも七と八のところはダブっているとか、こういうところは大変で す。そういう点でも、たいへん時間がかかるということを覚悟していただいたほうがいいと思います。
六、文書館の必要性
いま、わたくしどもは坂の六合目あたりまで来ていまして、あと一押しというところなんですが、いまとくに 一 28 希望しているのは、文書館をつくってほしいということです。大学史文書館でも、東京大学史史料センターでも いいから、そういうものをつくっておかないと、うっかりすると、重要文化財級の史料が廃棄される恐れがあり ます。実際の話、人事課で定年まで係長で終わられたような方が、﹁この史料は大事だから﹂との一言で重要な 書類を守り抜いて来られたといった事実もあるのです。かつてわたくしは、自分の学位論文をそういう史料を使っ て書きました。そのころは事務の方のご好意だけが頼りでしたが、そこで見せていただいたものの中に、アッと 驚くような史料が隠れていました。 たとえば、東大に在職したすべての外国人教師の、当時書かれた履歴、あるいは、東大がある時期に東京府内 の私立法律学校五校を監督した際の記録などが、事務関係の簿冊にフッと紛れ込んでいました。篤志家の事務職員がおられないかぎり、そうした貴重資料も﹁合法的に捨てられてしまう﹂ことが多いんです。 そういう点では、文書館というものがどうしても必要です。二十年原則でもいい、三十年原則でもいい、公開 についてのルールはあとで決めることとして、ともかく史料は一カ所に集め、整理保存しておく必要があると思 います。 この点では、私立大学のほうが進んでいまして、とくに努力しておられると思うのは、早稲田大学の大学史編 集所や同志社大学の社史編纂所などです。ああいうところへ行きますと、実に貴重な、物品を含んだ史料があり ます。新島蓑が、同志社の生徒を前にして、自分の腕をムチ打ったというエピソードがありますが、その時折れ たムチの現物などもちゃんと保存されています。 先のことになるでしょうが、東洋大学でも、学術的利用を前提とした大学史史料の保存.利用機関をおつくり になったほうがいいのではないかと思います。国立大学では、そういうシステムを作ることが大変むずかしくて、 そんなに大切なら国立公文書館に持っていったらいいでしょうぐらいのことを言われかねませんが、私学はもっ と自由に自主的につくれるでしょうから、大いに努力なさったほうがいいと思います。
おわりに1小さなアドバイスニつ
最後に、東大史編集のこれまでの長い歩みを見ておりまして、具体的な留意点を二つだけ申し上げておきたい と思います。一29一
第一は、事務局の方の理解ある協力の必要性です。東大の中では幸いにして、半ばは、先生方のなさることだ からやってください、事務のほうは何も言いませんというような姿勢にも支えられ、半ばは、百年史は大事業だ ろうという理解にも支えられ、わたくしたちは、相当に自由に史料集めとその利用を行うことができました。 たとえば、戦時下に東大総長であった内田祥三という先生がおられますが、この先生のお宅から戦時中の評議 会記録および学部長会議の記録その他の関連史料が発見され、小型トラックニ台分ぐらいの分量になりました。 そこには、あらゆる戦時下の記録の謄写版刷りの記録と、その上に内田総長がエンピツまたはペンで書き込まれ た一人↓人の方の発言が克明に残っています。内田祥三氏は建築学の先生で、頭の回転と手の運動を別に行うこ とのできる特異な才能をもっておられた方ではないかと噂されていますが、まさに公的記録の欠を補う覚え書き の集積が含まれていました。 これは、いまにしてみれば非常に重要な記録です。東大当局がもし秘密主義であったら、そういう記録は使っ てくれるなと言われたかもしれませんが、幸いなことに、われわれはそれを自由に使わせてもらっています。三 十年原則でも決まって、そのルールを守るようになれば、もっともっと自由に公共のために使うことも可能になっ てくると思います。 事務局の方の沿革史編纂に対する協力が事業の成否をわかつことになると思います。おそらく東洋大学でもこ のことは重要なカギになるでしょう。 第二はプラクティカルな点ですが、東大の編集委員会では、成稿にする前の原稿を、一度タイプ印刷の稿本に
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する方針が立てられました。これからはワープロの発達などにより違ってくるかもしれませんが、生の原稿を読 んで校訂するということは実に苦痛です。そこで、東大では二段階にして、タイプ印刷の稿本を必ずつくるよう にしました。そして行間をゆっくり開けて組み、十分に手を入れ、それを印刷屋に回すということにしたのです が、これは非常によかった。非公開の稿本なのだという意識で書けば、執筆者はかなり自由に書けます。それに 手を入れて、元の百パーセント生原稿とは比較にならないほど、校訂しやすい原稿になります。よしんば一ペー ジ全部死んでしまっても、タイプ活字の横に書き込んだ原稿のほうが、生の原稿用紙に書いたものより印刷所に とってもずっとよいわけです。ですから、たとえワープロででも、稿本を先につくられたほうがいいと思います。 もう一つのよさは、一つの原稿を数人で検討することができるところにあります。沿革史をつくっていて最後 の難関は校訂作業です。老婆心ですが、ぜひ稿本をおつくりになってください。そしてその稿本は非公開にして おかれたほうがいいと思います。いま生々しく感じておることなので、一言申し上げました。 これで終わります。御清聴ありがとうございました.. 司会 ただいま日本における大学史研究の学問的な裏づけについて、豊富なご経験に基づいた貴重な数々のこ 提言、ご意見を賜わりました。自分でやっておりますと、なるほどなあと心に響くものを感じるわけですが、わ たくしどももいろいろ困難な問題にぶつかっ.ておりますので、今日、先生から伺った貴重なお話を十分理解して、 立派な編集を計画したいと思っております。
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︵質疑応答︶ 問 稿本については、私どもも必要だと感じてい るのですが、非公開にしたほうがいいというお考え はどういうところから来ているのでしょうか。 寺崎 私の頭にあるのは早稲田大学の例なのです。 早稲田大学では、﹃早稲田大学百年史稿﹄をまず公刊 されて、それから正史を出しておられます。よほど 余裕があればあれもいいと思うのですが、ああいう かたちで稿本がまず公開されてしまうと、逆にそれ が正史を拘束することになるのではないかと思うの です。 私どもでも、稿本原稿には執筆者名はちゃんと入 りますが、そのままのかたちで世に出るのではなく、 修正は専門委員等に任せるという合意ができていま す。一方、稿本として非公開ではあるものの、ある 章節はある人のプロダクツである、ということがわ かるようにしてあります。 たとえば、稿本が大学院生の執筆によって書かれ たもののような場合、その書いた方が大学の教員公 募に応募されるような際に、自分の業績として表示 したい方がいらっしゃるわけで、そういう時には使っ てよろしいということになります。私は委員長とし て何枚かその証明書を書いたことがあります。 問先生のご経験の中で、ある時代に入学した学 生について、どういう時代的背景をもち、どういう 種類の学生が入ったというようなことを扱った五十 年史なり百年史はないでしょうか。たとえば、戦争 中の十五年の歴史をつづった大学もあるというお話 でしたが、そういうものについてはいかがですか。 寺崎私の知るかぎりでは、そういうものを扱っ た大学史はほとんどないようです。私の記憶では、 いちばん熱心に書かれているのが慶応義塾百年史で
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すが、これも明治の初めごろのものです。慶応義塾 は全道府県から学生を集めたこともあって、実に詳 しく塾員名簿を調べておられます。でも現代になっ てくるにつれて、そういうことが少なくなってきて います。 一般には、沿革史ではどうしても制度史が中心に なるのですね。大学に入ってきた学生たちの活動、 たとえば、協同組合をつくったとか、あるクラブ活 動をしたとか、スポーツではこういうふうに頑張っ たとか、こういう団体をつくったとか、研究会をやっ たとかという記述は実に少ないのです。東大の.百年 史も、一生懸命そのあたりを入れようと思ったので すが、せいぜい入れられたのはスポーツ活動や学生 生活の実態調査成果などです。一ヵ年にかかった学 費とか、授業料などはつかめるのですが、そういう もの以上になると入れられません。 私の知っているかぎりでは、早稲田大学の紀要に、 早稲田大学における女子学生聴講の歴史が書かれて いまして、それは専門家が詳しく調べたので、論文 にしてもおもしろいものになっていますが、そうい うデータが本史に生かされる例はむしろ少いのでは ないかと思います。 問 学生証書はどうなのでしょう。私の父のころ は、大学一年から二年に上がるときも修了証が出ま したね。明治十六年に、東大文学部の一年から二年 に上がるときの修了証書があるのですが、あれは途 中から卒業証書一本になったのですか。 寺崎 そうです。途中から卒業証書一本になりまし た。まただんだん教授のサインなどもなくなって、 大学の総長が出すようになりました。 問 私の父が東大を卒業したときのアルバムがあ るのですが、赤門から卒業生が出てくるような写真
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がありまして、明治天皇が亡くなったか何かで、み んな喪章を付けています。 寺崎 東大ではいま発見されているアルバムでい ちばん古いのが明治三十三年のものです。あとは関 東大震災の直前のものです。 問 東京帝国大学法科大学卒業生一同となってい ますね。 寺崎 写真の保存はいちばん大事だと思いました。 東大は写真はほんとうに少い。大学が出したアルバ ムよりも﹃文藝春秋﹄の特集の写真集のほうがおも しろいのです。口惜しいことに、あの人たちのほう がいい写真を持っているということです。大学内に は建物の写真だけしか残っていないといっていい位 です。写真は早めにお集めになったほうがいいと思 います。 司会 貴重なお話を伺いありがとうございました。 34