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敗戦までの中国語教育(報告ノート)
小 林
立 は し が き 一、中国語と教育制度 二、民間における中国語 三、陸軍と中国語 四、中国語と経験主義 む す び は し が き現在,われわれが「中国語.と呼んでいる漢民族の言葉は,明治以後,「漢
語.「酒譜.「支那語.「華語.をどと呼ばれて来た。これらの呼称は,それぞ
れの時期における日中関係を背影としているのであるが,今日では,「■中国語」
と呼ぶのが妥当であろう。我々が「中国語.と呼んでいる言葉は,中国では浜
語・漢文と呼んで,少数民族語と区別してこいる。中国では,解放後,「普通語」
(共通語)を中国大陸全体に普及させている。この「普通話」は,語彙は北方
語を核とし,語音は北京語音を標準とし,語法は現代の典型的を作品のものに ●●
よるということになっている。中央人民放送局の中国語は,この「普通話」の
典型である。日本における中国語教育の歴史は,江戸時代の長崎唐通事に始まって現在に
いたっている。唐通事時代の中国語は,「唐話」と呼ばれ,南方音であったの
で,近代日本の中国語(北京官話)とは区別されて:いる。だが,明治以降の中
国語教育もその源流として,唐通事時代の中国語教育を受けついで釆ているこ
とは言うまでもない。明治維新以後,日本の政治・経済・文化の各分野は,こぞって欧米諸国の先
進的制度や文化を受け入れることに国をあげて努力を傾けた。欧米の学問を吸
38 小 林 立 収するために,外人教師を雇い,海外へ留学生を派遣した。そのために外国語
教育がなされ,耳目をすべて欧米の方向へ集中Lた。従′って,明治初年にあっ
ては,各地に設立された外国語の学校は英語・独語・仏語が主として教授され た。明治以来,日本の学問の諸分野に連なる外国語は,英・独・仏の三外国語 が主流をなして来た。日本の近代化を至上命令とし,欧米先進国に追いつく努 力によって,日本の近代化は急テンポに推進された。しかし,反面,国内では 大衆の自由な成長がはばまれ,国外では,近隣諸国の犠牲を要求した。その結 果,日本は自己の内部矛盾によって1945年の破局へと突入したのである。 しかし,日本の外国崇拝の伝統は,戦後も一貫して保持されている。明治以 前は中国,明治以降敗戦までは欧米,敗戦後は米国といった調子で,事大主義 において何ら変りは凌いと言ってよい。 しかも,この拝外主義は他方においては,侮蔑主義とをって現われる。それ が脱亜セあり,朝鮮・中国といったアジアの近隣諸国への倣慢なる態度となり, 侵略とをって表われるのである。拝外主義と侮蔑主義とは,表姦を成している。 それ故,日本が欧米語学によって「ヨ1−・ロッパ化」の途を邁進して来た反面 は,朝鮮・中国への侵略のための条件づくりを意味していたわけである。 日本と中国の百年の関係はおよそ次の如くである。 (一)渾末から日晴戦争まで。原則として対等の国交を維持していた時期。 (ニ)日清戦争以後,甘露戦争を経て第一㌧次世界大戦とヴ.ェルサイ・ユ講和会 議前後まで。欧米列強の勢力鞄l覿設定政策のなかで日本が蛮要な担い手 にをる時期。 (三)中国が軍閥割拠時期から,国民政府による一・応の統一が進んだ時期。 (四)満州事変より全面的日中戦争の展開と,日本の敗北によって大陸から 全面的撤退を余儀をくされた時期。 (五)日本の単独講和による独立と国民政府と国交関係を樹立した時より, 中撃人民共和国の国連復帰まで。 この報告ノートでは,明治以降昭和二十年の敗戦までの時期についての大雑 把な概観を試みることにしたい。敗戦までの中国語教育(報告ノ岬り 39 ー、中国語と教育制度 明治までの中国語は「唐話」と呼ばれた。徳川時代,海外への唯一の窓であ った長崎には,長崎奉行の下に「唐通事」がおかれて,唐話はそれらの人びと によって世襲的に伝承されていた。維新の変革にともなって唐通事ほ廃された。 中国語が学校で正式に教授されたのは,明治四年二月(1871),外務省構内 に設置された「漢語学所」が最初である。これは外交上の必要にせまられ,通 弁を養成しようとするものだった。外務省の漢語学所はこの年,治国と修好条 約を締結した事態に対応して設けられたもので,明治になって上からとりあげ られた中国語教育の最初のものである。漠語学所の教師はすべて長崎唐通事の 出身で,生徒もそ・の子弟が多かった。 明治六年(1873),この漢語学所は「洋語学所」と合併して「外国語学所」 と改称し,所管を外務省から文部省に移した。これは前年の学制頒布によるも ので,すべての学校は文部省が管理するという主旨によるものである。明治六 年八月,開成学校の語学部と独逸学教場,および「外国語学所」の三者が合併 して,あらたに「東京外国語学校」が設立された。この「東京外国語学校」 (旧外語)には,英・傍・独・魯・漠の五カ国漕がおかれ,明治十三年にをっ て朝鮮語が設けられた。 ところで唐通事の中国語は南方昔(南京・福州・沖州語)であったが,明治 九年(1876)に,東京外国語学校漢語学科の中国語は南京語から北京語に切り 替えられた。その理由はこの年,日清修好条約が発効する年であり,日清外交 における公式な場での北京語の必要にせまられたからである。それ以来,日本 における中国語教育は北京語を以って行うこととをり,ふつう「清語」とか 「支那語」さらには「華語」というと,北京語を意味するのが通例となった。 明治六年に創設された「東京外国語学校」は,明治十八年(1885)に廃校と をり,久しい間,外国語を専門に教育する学校はなかった。廃校に至る過程は, 明治七年にはまず英語科が分離して「東京英語学校」とをり,明治十年には, 東京大学予備門および束京大学匠学部予備門となった。仏語と独語も明治十八
40 小 林 立 年には大学予備門に吸収された。そして大学予備門は翌明治十九年には第一・高 等中学を名のり,後に第一高等学校となった。 外語の廃校にさいして,英語・仏語・独語がエリー・ト・コースである大学予 備門に移ったのにたいして,魯譜,清語,韓語の三語科は東京南米学校の第三 部に吸収された。ところが魯・酒・韓の三語科の学生たちは,通訳や貿易を志 すとはいえ,アジアの大勢を談じ,天下を論ずる風があったから,旧外語解体 に際してのこの処置には大いに不満を感じて,大騒動を演じた。中国語の宮島 大八とロシヤ語の二葉亭四迷はこの処置を拒否して退学した組である。 明治十九年一月,東京商業学校の第三部は語学部と改称されたが,翌月には 語学部は廃止になった。語学部生徒のうち希望者には試験のうえ商業学校へ編 入学することを許可した。この語学部の廃止によって外国語学校の命脈はまっ たく失をわれ,「漢語学所」以来の中国語教育は名実ともにその跡を断った。 だが,明治二十二年(1889)にいたって,新たに選択外国語の一つとして,中 国語の科目が設置されることとをった。そ・の後,旧制の高等商業学校の多くが, 選択外国語の一つに中国語の科目を設けていたが,この明治二十二年の高等 商業学校のばあいが,その囁矢である。中国語は,学校制度のなかでは,商業 用譜という性格があたえられ,そうした位置づけがなされてきた。これは近代 日本の中国語教育にとって,制度のなかで与えられた唯一・の名誉ある座であっ た。 外交上の通弁養成を目的とした中国語教育が終ろうとする明治十九年(1886), 東京大学が帝国大学と改称し,分科大学をもって構成されることとなった。こ の年,文科大学の博言学科第三年に,中国語が一週三時間設けられた。博言学 科に設けられた中国語の学科名は「■支那語(俗語)」と記されているという。 明治二十二年(1889)の学科目の改正で文科大学漠文科に初めて中国語の科目 が設けられた。この年に帝国大学の漢文科において漢文と中国語との出合いが はじめて見られたわけである。 これ以外に,官立学校における中国語の専門教育は一時,途絶えたかたちに をった。これはヤがて日清戦争のさいの中国語人材の不足という結果をもたら
敗戦までの中国語教育(報告ノート) 41 した。そこで日清戦争が終った直後の明治二十九年(1896)の第九帝国議会衆 議院は l ̄束京外国語学校」(新外語)を設立するこ−とにした。明治三十年 (1897),東京商業学校の後身である高等商業学校附属外国語学校として,英・ 仏・独・露・清・韓の各譜科をもって発足した。そしてニ,明治三十三年(1899) に独立の学校になって,「東京外国語学校」と称した。これが今日の束京外国 語大学の前身である。そして消語科の主任には,宮島大八が迎えられた。明治 の後半から,大正・昭和にかけて,‘この東京外国語学校の支那語教育が果した 役割は大きい。東京帝国大学の「支那語」は漢学に従属したものであったが, 東京外国語学校の「支那譜」は専ら実用面を主とする明治以来の日本の中国語 の真面目を代表するものであった。別科は夜間の授業で,昼間の業務の余暇を 利用Lて中国語をまなぶ者が集まった。そのなかには,日露戦争をはじめそ・の 後の日本の戦争のたびごとに,「大陸雄飛」を夢みる一般の社会人や漢文の教 師そ・して軍人などがいた。 その後,明治三十六年(1902)の専門学校令によって設立された官立高等商 業学校には,ほとんど例外をく中国語がおかれた。東京高等商業学校のちの一 ツ橋大学,神戸高等商業学校のちの神戸大学,山口高等商業学校のちの山口大 学,長崎高等商業学校の四高等商業学校には選択外国語の一つとして「拾語」 が設けられた。このように明治三十年代には,中国語は高等商兼学校の選択外 国語として,商業・貿易用語としての位置づけがをされた。ヤがて各地に設立 された旧制高等商業学校(小樽・名古屋.・福島・大分・彦根・和歌山・横浜・ 高松・高岡等)には,いずれも選択外国語の一つとして中国語がおかれた。そ の他,私立の高等商業学校にも多く中国語の科目が設置されていた。 香川大学経済学部の前身である高松高商は,大正十三年に創設されたが,Ll】 国語は「支那語」として当初より設置されていた。専任教官として栗山茂(昭 和46年4月29日天皇誕生日,勲三等に叙せられ,旭日中級輩を授与さる), 非常勤講師として外人二名が中国語を担当した。新制大学発足に伴い,昭和24 年より「支那語」は「撃語」と名称変更した(香大経済学部・教務係より教示 いただいた)。
42 /ト 林 立 私立大学では拓殖大学(前身は台湾協会学校)や早稲田大学(1900年から中国 語設置)にも中国語がおかれた。大正十年(1921)には,大阪外国語学校(の ちの大阪外国語大学)が設立され,中国語をはじめ東洋諸語学を特色とした。 昭和の年代に入ると,日本の中国侵略はそ・れまでにない積極性と露骨さをも って来るo「満州事変」「日華事変.を経て,中国への日本人の関心は,異常な 高まりを見せた。このをかで,中国語教育も文部省に注目され,昭和十三年に 師範学校・中等学校の漢文教師を活用して,それに若干の中国現代文(時文) の知識を教育Lて,漢文という教課の−・部に,「時文.の授業を行わせること にした。このような新しい事態は明治以来の中国語教育には見られなかったも ので,「日華事変」の所産といえる。だが,それは漢文の附属物として,時局 的な−・種のアクセサリ・−・として採り上げられたにすぎをかった。従って,「時 文」が,外国語として取り扱われる可儲性は,極めて少なかったと言わざるを 得いのである。 以上で明らかなように日本の教育制度においてエリ・−ト養成の官立の旧制高 等学校においては,戦後の昭和二十一・年,第一・高等学校に第二外国語としてお かれるまで,中国語はついに一度も設置されることはなかったのである。 学校制度のなかで,たまたま中国語の科目が設置されても,語学として認め られることをく,高等商業学校のをかの第二外国語として,かろうじてその地 位を保つことができたにすぎない。日本の中国語は学校教育の制度の中では片 すみに押しヤられ,文化性を認められず,卑俗化されて,実用語としてしか活 路を与えられをかった。教育制度のなかで虐待された日本の中国語の活路は, いきおい民間人によって採りあげられて来た。民間の人士や対中国関係の諸団 体で迎え.られた中国語は,対中国侵略という国策の線に沿って学習され教育さ れた○民間での中国語の採りあげ方牲,目本と中国との関係の実際的な場面で 具体的に活動する人びとの必要性に立脚していた。中国に対する政治的・経済 的・軍事的を−・方的を働きかけの中で活動する人びとにとって,中国語は必要 を道具だった。明治初年から昭和二十年までの期間における日本の中国語教育 には多少の変遷がみられても,根本においてそれは,中国侵略のために行われ
敗戦までの中国語教育(報告ノーり 43 て来たと言えるのである。 ニ、民間における中国語 日本の中国語は実際的な場面で必要を実用語として学習され教育されてきた。 明治初年における民間の中国語教育の学校として,代表的なものに「日清杜」 と「興亜会支那語学校」があった。 「日清社」は広部将の創設にをる個人的な叫・杜塾である。広部椅は欧米のカ が中国をはじめ日本にも波及して来る中で危機感を抱いていた。欧米のカを排 除するには中国との和親提携が必要であると考え,そ・こに中国語の必要性を強 調し,日清杜を設立したのである。日清社は明治八年(1875)から明治十年 (1877)までで,西南役が起きて学生が四散し,ついに解散することとなった。 「興亜会」は個人的結社である振亜杜が解消発展して設立された組織で,設 立と同時に支那語学校を附設して中国語の教育をおこなった。 明治二十年代になると,民間の中国語教育も中国貿易と結びつけて行われる ようにをった。日本の産業資本は国外の市場を求めるまでに成長し,中国貿易 の必要性が大いに宣伝されるにいたった。この時期の代表的な中国語学校に, 「日清貿易研究所」があり,そ・の他には渋沢栄一・らの設立した「韓酒語学校」 などがある。 ■ ̄l]酒貿易研究所」は,荒尾精によって上海に設立された。商業・貿易に必 要な科目のほかに,英語・中国語を設けた。この時期のl]中の提携・善隣は, 僻するところ日本自身のためのものである。日清督易を表面に打ち出してはい るものの,その根底は幕末よりうけつがれた対外硬・対外進出という考えかた で,甘酒貿易論という当時の合言葉を外皮として着けていたにすぎなかった。 「韓酒語学校」は当時の産業資本が朝鮮・中国に進出するための ̄F■働きをす る日本の庶民を対象として設けられたものであった。授業は夜間授業だった。 このことは国内で得られない立身出世の夢を海外進出に託した日本の庶民が, 夜学で苦学する姿を如実に描き出しているのである。 明治三十年代に入ると,日本は「臥薪嘗胆」のスローガンの下に,あたかも
44 小 林 立 仇敵にたいする態度で中国侵略を開始した。この時期の中国語教育は,「善隣 章院」と「束亜同文書院」の設立が大きな意味をもっていた。 「善隣書院」は儒教的精神を説き,中国進出を叫んだ宮島大八の設立にをり, 大陸雄飛の夢をいだいた庶民が中国語を通して中国大陸にその夢を実現しよう と集まった。 この頃の中国語はなんらかの実践団体と結びついていた。そ・のような団体の なかに,「東亜会」,■1司文会」をどがあって,やがて「東亜同文会.が生まれ, その事菜の一つとして「束亜同文書院」が上海に設立されたのである。 この時斯は日清戦争の瞳後であり,台湾に対する植民地政策が表面にあらわ れ,−・時的ではあるが台湾語教育が盛んに怒った。だがこれは台湾における日 本語の使用によって,ごく短期間で台湾語教育は姿を消した。 しかし明治四三年(1910)から大正三年(1914)にかけて,台湾における生 藩討伐事業が比較的長期にわたって行われた結果,この時期にはふたたび台湾 語教育がブ・−ムを呼んだ。台湾では「満州」より,もっと徹底して日本語が強 制され,戦時中には家庭でも中国語を使わせず,日本語だけを用いるのを「国 語家庭」と呼んで,中国語を尊かうとした。「台湾語」というのは日本での呼 称であって,本来は中国語の関南方言を主とし,一部,客家方言が使用されて いたものである。尚,台湾が日本の領土になったのは日清戦争によってである。 それ故,「カイロ宣言」(蒋:介石・チャ、−チル・ル・−ズベルト)では,台湾は中 国に返還されるべきことが明記されている。 明治三十年代のおわりより明治の末年にかけては,日露戦争後におけるいわ ゆる満州経営の時期に入り,庶民の中国進出の夢は中国語につながっていた。 大正の年代に入ると,中国語教育はやや衰退したかに見える。これはテキス トの発行などからも,その事実は認められるという。いわゆるシベリア出兵ヤ 日本の対中国二十−・カ粂問題等にみる対外進出がおこなわれてい凌がら,国の 内外から厳しい批判がなされていた時期の中国語学習者は実際にはその数が減 少したかのようである。こうした現象のうちには大正デモクラシーを,一応の 背景として考えられるのではなかろうか。
45 敗戦までの中国語教育(報告ノー・り 他方,大正の時期に入ると,学校制度が体制をととのえ,社会一・般はいわゆ る学校出を歓迎し,社会と学校のつながりが切りは夜すことのできをい関係に なっていた。明治初年より学校制度の外にあった中国語教育も,なんらかの学 校における外国語科目として教授されていた。それ故,中国語学習者の姿は, 某某学校卒業者という看板のかげにかくれて,実際は表面にあらわれていない ことにもよる。こうした現象はこの時期以後すべてに言えることである。 だが日露戦争を経て,雨滴州鉄道株式会社が設立され,日本の「満州経営」 が本格化していき,日本人の関心が「満州」へむけられる時期が釆た。そして 「現地」という場合,百万をこえる日本人が居住していた釆北地方がある。「関 東州」は日露戦争以来,日本の「租借地」だったし,「満州国」は十三年の歴 史を有した。従って,小学校から大学予科にいたるまで,中国語が設置され, 小・中学校では関束局在満教務部編の教科書が用いられた。しかし,中国人に 日本語を強制することに重点がおかれた。ここでは中国人を「満人」,中国語 を「満語」と呼び,一段と低いものと見倣していた。この「満語」なるものは, 実は中国語のことであって,本来の満州語とは全く別の言葉である。さきの 「台湾語」と同様,「満語」なるものも,植民地におこなわれる言葉に対する日 本人の特別な扱い方から発たいいまわしにすぎない。 このような時期,大正九年(1920)ニ月には,「大連語学校.が英語教育者 岡内半歳によって大連に設けられた。大連語学校は日本人には英語・中国語を 教育し,他方,中国人に日本語を教育する三年制の夜間授業を行った。この大 連語学校は,いわゆる「満州」においても,すぐれた語学教育の学校としてそ の名をうたわれた。 これとは別に,大正十年代に満鉄および関来庁が中国語教育奨励の目的で, それぞれ語学検定試験の制度を設けて,lヨ本人の中国語学習熱を刺激した。 昭和の年代になると,中国語教育はそれまでにない盛況を呈した。日本の中 国侵略が本格簡になるにともをって,中国語学習者も激増し,中国語教育は盛 んになった。「支那語」教育の「黄金時代」が牒たのである。 しかし中国語それ白身は,明治時代と同じテキストが使用されて,実用語と
46 小 林 立 はいうものの,もはゃそれは形骸をとどめるものとなってしまった。 日本の中国語は,明治以来の日本の中国進出と歩調をあわせ,学問とは無縁 な場で庶民にひそむ士族的・儒教的意識をささえとして学ばれて釆た。国内で の立身出世の限界への不満は,中国大陸へのあこがれをいだかせた。国内での 立身出世の夢が破れた大衆が,「狭い日本に住みあきた」と唱えつつ中国大陸 に進出していったのである。上からの中国進出の政策に吸いあげられ,その尖 兵として,大衆は文字どおり身命を惜しまなかった。そのために中国語の学習 は最も手近かな出世コ・−スとして大衆に受けとめられたのである。 三、陸軍と中国語 明治以来昭和二十年(1945)までの約八十年間は,戦争にあけくれた時期と いって過言ではない。その軍事行動の対象はほとんど中国であった。それ故に, 陸軍は中国語を重視して,その教育にカを入れて釆た。「支那語」にとって陸 軍はきわめて恵まれた場であった。しかし「支那語」をヤり「支那通」となっ たものは,ドイツ語を学んだ「西洋型のもの」か らは,・一段低く見倣されてい た。日本陸軍の兵制が,フランス式からドイツ式に変ったのは明治二十年頃で あるから,「支那語」は将来予想される中国大陸での戦場での戦闘を有利にす るための補助的な実用手段でしかをかったからである。 政治的・外交的実用語から出発した近代日本の中国語教育は,日本が中国に
軍事的侵略をすすめ,そこを占領するたっれて,軍用語から警務用語・窓兵用
語へとその領域を拡大していった。近代日本の中国語教育は,中国・朝鮮など 近隣諸国を踏台にして,日本の富国をとげて釆た近代日本の歴史を抜きにしては考えられない。「支那語.時代の中国語教育の盛衰は,日本の対中国進出の
強弱の度合と正比例していた。いいかえると,1930年代に入って「満州事変」 から「日章事変」へと,日本の中国侵略が本格的にをると共に,「支那語」教 育も,その「黄金期」をかたちづくったのである。 中国語学習の目的が「商務」と「軍事」の二つの効用のためにある以上,中 国語は陸軍の諸学校でも教えられた。明治十年(1877)ごろ,広部精が共同社敗戦までの中国語教育(報告ノート) 47 というところで中国語を教えた。この共同社は将校の学習所であった。近衛の 参謀長がその長となっていたことは,陸軍の作戦上の見地から中国語の必要性 を考え.ていたものであろう。また陸軍の中国語教育は,はじめは委託のかたち をとって,「興亜会支那語学校.に陸軍教導団生徒のための別課がもうけられ, 下士官,下級将校候補者に中国語を教授した。 陸軍自身が本格的に教え.るようにをったのは,明治十二年(1879),参謀本 部管西局長であった桂太郎の意見により,旧来京外語の卒業生を採用し,北京 に留学生を派遣したのにはじまる。彼らは帰国して,各鎮台や士官学校で中国 語教授の任にあたった。陸軍士官学校は明治十四年にできたが,創立当初から 中国語課員がおかれた。 陸軍における中国語教育の先駆者は福島安正である。福島安正は陸路を単騎 で旅行し,シベリア横断して帰国した福島中佐である。明治十六年からこ年ち かくの北京の日本公使館付武官をしている間に,トーマス・ウエードの『語言 白選集』をもとにして,教科書『自適集平灰四声聯珠』を編んだ。この『四声 聯珠』は陸軍中将・山県有崩の序文を付して明治十九年,陸軍文庫の名で出版 された。 福島安正のあと,神尾光臣(大将)・青木宣純(中将)・柴五郎(大将)・坂 西利八郎(中将)といった「支那通」の軍人が生れた。 陸軍は兵法・軍制ともにヨ・一口ッパに学び,中国侵略を主目的に編成されて いたから,中国語に語学修業の根幹を求めた将校は出世街道から速かった。し かし中国語は「戦争語学」と言われるように,戦争の度毎に学習熱が燃えあが った。 日清戦争のときには,陸軍白身が『兵要支那語。(近衛第一・旅団・1894年), 『日清会語』(参謀本部,1894年)をどを出版する一・方,民間からも『軍用商 業会話自在支那語独案内.』(柏原政次郎・1895年)といった会話書が続出し た。 日蕗戦争のときには,更に多数の会話吾が出版され,その後,日中両国間の 緊張度に比例して中国語熱は上下した。
48 小 林 立 そして昭和の年代に入り,「満州事変」「支那事変」に至って,中国語ブーム は絶頂に達した。その頃,出版された学習番・参考書の類は,まさに汗牛充棟 もただならぬという。軍部みずからも『日支会話』(参謀本部,1933年),『速 成満州語自修書』(関束軍参謀部,1934年)を出版している。 戦争の時期,もっとも中国語教育が熱心におこなわれたのは,窓兵下士官に 対してだった。憲兵隊の教材の一つ,『支那語教程』(中支那派遣憲兵隊教習隊, 1943年)を見ると,「手ヲ挙ゲロ。俺ハ憲兵ダ,オ前ノ身体検査ヲスル早ク服 ヲ脱ゲ」といった「問答」を中心に発音解説がついているという。『窓兵支那 語会話。(1942年),『軍用支那語大金』(1943年)など,「動くな射ち殺すぞ」と いった文例をあつめたこれらの会話書(/)は,「軍事」中国語の典型的をもの である。日本の陸軍は,第二次大戦中にアメリカが軍人用につくった「Spoken Chinese」(1944年)のような言語理論をふまえ.た会語書を遂に生むことはなか った。中国侵略を主目的として編成された日本の陸軍の性格から生ずる差と見 てよかろう。そ・のようを日本の陸軍においては,また戦時中,「兵隊支那語」 が横行した。「テンホ、−」 (非常に良い),「ノーテンファイラ」(お前は馬鹿 だ)といった「兵隊支那語」は勿論中国語ではなく,「シナ」風日本語である。 既に日清戦争の時,「アンボンタン」(馬鹿),「ポコペン」(駄目)などの中国 語(一?!)が日本にもたらされた。「兵隊支那語」には性的罵言が多いのが特 色である。戦後はこういう「兵隊支那語」はすくなくなったが,「チャンチ.ユ ウ」といった言葉が何の不思議も孜く用いられている。これらは,いずれも硝 煙の染みついた侵略語なのである。 四、中国語と経験主義 日本は敗戦によって「大陸進出」の夢がやぶれると,一・時さかんだった中国 語ブームはさめた。新制大学にをって第二外国語の制度が−・般化し,それに中 国語を加える学校もかなりあったので,教育制度としては戦時中よりととのっ て釆たが,選択者は蓼々としていた。 戦前から戦後にかけて,中国語クラスには運動選手や「外国語が不得手だか
49 敗戦までの中国語教育(報告ノー・ト) ら中国語をえらんだ.という学生が多数いたという。 このように中国語を外国語としてみない,あるいはせいぜい車外国語として しか見ない中国語観は戦後も長く尾を引いている。昭和十五年(1940),曹川 幸次郎が「支那語の不幸.という文筆を『文芸春秋』に発表し,三つの論点を 述べた。第一・点は中国語はいわゆる「同文.であることにより,外国語として 意識されにくい。第二点として,外国語だと意識されても,ヤさしい外国語で あるという思想が中国蔑視を根底にして存在してこいる。第三点は,漢文訓読法 による不都合で,中国語をことばとして読まずに,漠文訓読法によって,国語 に訳してしまう。この方法は,中国語を外国語であると意識させるのを妨げる のに有効である,と。 日本で漢文といわれる文章は,いうまでもなく中国の古典語である。しかし, そ・の文章の読み方,すなわち返り点・送りガナによる訓読は翻訳された日本語 であって,もはや中国語ではない。しかも,その翻訳は中国語の本来のリズム を全く無視したものである。 もともと漢文訓読法は,日本人が中国文化を受容するための便法であった。 だが,そ・のため日本人の中国像に大きなゆがみを生じさせた。それは中国を 「同文同種」の国として日本の事象から安易に類推して眺めさせるからである。 をぜ中国の古典語を外国語として学ばず,訓読法という便法にとどまったのか と言えば,日本が中国文化の圧倒的な影響下にあったからである。漢学は外国 研究としての中国研究ではなかった。ことに徳川時代には宇宙の理法と人倫の 秩序とを共通の原理で説く栄子学が官許の学とされ,漢学は世界認識の学問と して権威をもった。 他方,中国語のほうは鎖国のため中国との交流がすくをく,わずかに長崎な どで唐通事によって世襲的に学ばれていたにすぎをい。 明治維新以後,日本は中国を進出の対象とすることにより資本主義的発展を はかった。かくて古典中国への伝統的尊崇と,侵略の対象としての現実の中国 への侮蔑とに,日本人の中国観は二分した。日清戦争以後とくにその傾向がは っきりした。この分裂した中国親は,漢文と中国語の分裂として現われている。
50 小 林 立 こういう分裂は,いまも漢和字典と中国語辞典とが無関係に存在していること にも象徴されていると言えよう。 漢文と中国語とは学科としてもまったく関係なく存在しながら,なお中国語 を外国語として見をいのは,現代中国語をも訓読によって解せるという安易な 先入観があるからではないだろうか。その上に,中国の古典は尊重しても,現 代のものはたいしたことがないという中国へ・の侮蔑感がかさなっていると考え られる。 明治のはじめ,正則英語と変則英語という二つの英語があったという。変則 英語とは,発音をいいかげんにした速成英文解読法をいう。この分類法でいけ ば発音の初歩から教える中国語は正則で,漢文流に中国語を理解しようとする のは変則ということになる。 明治以後の中国語教育は会語の習得が中心だった。しかし,会話中心の中国 語はこれをいくら学んでも「エリ・−ト」にはなれない。漢文流による日誌主義 も変則であるとすると,中国語教育は,変則ばかりで正則のない語学であった ことになる。 中国語教育の中心が会話主義にあったことは,中国を侵略の対象してしか見 ず,日本より低い国としか見ない中国観にもとずいていた。従って,教育の仕 方や教科書がそうであっただけでなく,学習者も会話主義を求めたのである。 戦前においては中国語を学ぼうとするもののほとんどが,会話志望者だった。 そして,会話主義には実利追求だけでなく,西欧列強の圧迫下にある東亜の 「解放」という理想のもとに,大陸に「雄飛」した人びとの中国に対する親近 感が心情としてあったとはいえ.,「近代化」に遅れた中国に対する軽侮の念と 抱きあわせになっていたことは,ヤはり否定できをいだろう。 日読主義は会話主義にくらべて文献を読もうというのであるから学問的に見 える。しかし,中国語にたいする軽視ではどちらも同じである。 たしかに漢字が共通であることは,日本人が中国語を学習するうえでの利点 になる。とくに抽象名詞には日本語と共通したものが多く,発音を別にすれば 限で見ただけでわかる。だが,この利点が実は落とし穴なのである。たとえば
51 敗戦までの中国語教育(報告ノーり 「文化」という語をとっても,日本語の文化と重さなる部分と重さをらぬ部分 とがある。・そして,単語もさることをがら落とし穴の最大のものは日本語と中 国語との構造のちがいが見おとされることにある。たとえば「客人釆了」と 「釆了客人」の二つは,全く認識の構造が臭っている。しかし漢字の字づらで 「お客が来た」としか解さむ,その差を考えようとしをいことである。しかも, 解放後の中国語には新しい単語が続々とうまれている。そ・れは中国の発展を反 映するものであって,「同文同種」といった先入観で漢字の字面にたよること は,困難になる一・方である。 明治初年の中国語は,長崎唐通事の「唐詩」を受けついで明治の社会に根を おろした。外務省の「漢語学所」は唐通事出身者を教師として,唐通事のテキ ストを用い,唐通事の教育法を基礎として中国語の授業をおこなった。唐通事 の唐話は芸道における伝承と同様,封建的家学的を伝承の学であった。こうし た家学的精神は明治初期の中国語に受けつがれた。
発音にしても発音の原理が説明されるのではなく,教師が発音した音声を理
くつなしに学習者は真似しなければならなかった。 かつて中国語には文法がない,などと言われていた。西欧文法を模範祝す−る 文法観からすれば,格変化とか,性による差などのない中国語には「文法」は 存在しない。しかし,中国語を侮蔑の対象としてしか眺められない「文法観」 をるものが,いかに中国語の文法についての無知を基礎にしているかは,中国 語研究が発展する中で,証明されつつあるといえよう。いかに未開の種族でも, 一・定の法則のもとに言語が用いられているのであって,中国語のみがその例外 であるわけはない。ただかつての中国語教育には文法書らしいものはなかった, と言ってもよい。そして文法書のない中国語教育が明治以来おこなわれて釆た ことは経験主義的教育法のしからしむるところであった。 その理由は日本の中国語教育は学問とは無縁な場でのみ採りあげられたため, 科学的方法論で研究しようとする必要がなかったためである。学習者は習った 中国語が自分の生活にすぐ役だてばよかった。そこには学習上の疑問はおきな い。たとえ疑問がおきても「支那人がそう言うから」の−・語で片づけられ,科/ト 林 立 52 学的に突きとめようとはされをかった。こうした学習者のなかから教師が出て くる。この悪循環をくりかえしながら,明治時代のテキストが,そのまま版を 重ねて,昭和二十年まで中国語教育に使用されたわけである。1945年までの中 国語の教科書のほとんど大部分は,すべて同様な内容をもち,発音の説明から 内容の配列まで,まったく相似したもので,どれもみな同一・の著者の手に成っ た感があるという。著者それぞれの独創もなければ,新規の工夫もなく,そう したものが数限りなく出版されている。質的な進歩に代わって,盈的なひろが りの上に,明治以来の中国語教育のあゆみがあったと言われるわけである0 そ・のような中国語教育の世界とは異なった世界において,明治二十年代,伊 沢修二は中国語の発言を組織的にして中国語学習を効果的にしようという意図 から,漢字の往昔の記号を発案した。伊沢修二は,当時の中国語教育界とは 別個の世界で独自の立場から中国語の発音記号を案出した。そして大正五年 (1916)には大連において,自分の記号を使って中国語発音の講習会をひらき, その実験を試みたばかりで濠く,さらに翌年の大正六年(1917)十月から,中 国語講習会を開いて本格的に中国語教育を始めようとしたが,そ・の年の五月に 世を去った。当時の日本の中国語教育は,伊沢修二の研究成果を受け入れもせ ず,そうした研究態度を自分たちの教育のなかに採り入れようともしなかった のである。
む す び
明治四年(1871)外交上の通弁養成を目的として誕生した日本の中国語教育 は,昭和二十年(1945)まで,実用語としてのみその生きる道をあたえられて きた。しかもそれは前近代的な意識をささえとし,唐詩の家学的精神をよりど ころとし,経験主義を唯一の権威として,七十五年の命脈を保って釆た。そう した長い期間,停滞したままその命脈を保ちえた所以は,明治以来昭和二十年 までの間の,日本のたえ.まない中国進出があったからである。逆にまた日本の 国策に吸いあげられ,事あるごとに時局に便乗した日本の中国語教育は,つい に実用語としての殻を突き破れず,実用語の範囲の中で,軍用語・警務用語・敗戦までの中国語教育(報告ノーり 53 見物旅行用語というようをキワ物用語へ拡大して,新しい空気を吸っていたわ けである。 日本の敗戦は「支那語」の生命にとどめをさした。「支那語_Jは大日本帝国 とその運命を共にした。ここに中国語教育史のいわゆる第山期は終りを告げ, 第二斯がこの時以後から開始されたのである。 参 考 文 献 (一)『近代日本の中国語教育』六角恒広著,淡路章房,1962年12月刊。 (二)『日本人の中国観』安藤彦太郎著,勤草昏鼠 昭和46年3月刊。 (三)『講座中国』(Ⅴ日本と中国)貝塚茂樹・桑原武夫編,筑摩番房,1968年1月刊。 (四)『日中関係とは何か』(「日本と中国」第二巻)朝日新聞社編,昭和46年11月刊。 (五)『支那語教育の理論と実際』倉石武四郎著,岩波番店,昭和16年3年刊。 な払「満州」関係の論文に,那須清著『旧満州地区における中国語の教育・ 研究に関する覚え番』(−),(二),(三),付録一,ニ,(九州大学教蕃部文学 論輯第十三,十四,十五号)がある。 (72,2,28) 附記:「報告ノート」は,上記の参考文献のうち,(一)六角恒広著『近代日本の中 国語教育』と(二)安藤彦太郎著『日本人の中国観』に全面的によっており, 横のものを縦にしたにすぎないと言って過言ではない。記して両先達に謝意 を表したい。