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建築家バルトニングの思想研究 : 序論・その生涯 の軌跡

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建築家バルトニングの思想研究 : 序論・その生涯 の軌跡

著者 市川 秀和, 白井 秀和

雑誌名 福井大学工学部研究報告

巻 43

号 2

ページ 425‑437

発行年 1995‑09

URL http://hdl.handle.net/10098/3641

(2)

建築家バルトニングの思想研究

‑序論・その生涯の軌跡ー

市川秀和牟 白井秀和

A Study of Thought to Architect Otto Bartning 

‑An Introduction; Life of Otto Barining (1883 ‑1959)

Hidekazu ICHIKA WA and Hidekazu SHIRAI  (Received Aug. 31, 1995) 

The object  ofis pap IS make clear  the  Life  of Architect  0O

Bartning(1883 ‑1959), who was one of the most important architects in modern  Germanyandeproject‑master of Germany's reconsuctionsafter the World  W E

! j

  ‑1 .はじめに

「歴史の問題、もしくは歴史意識の問題が、西欧、それもドイツ 語圏において、単なる講壇哲学においてのみならず、思想、文学、

造形芸術、さらにはデザインや都市計画あるいは教育問題にまでい たる、いわゆる知的、精神的生活といわれるもののありとあらゆる 領域において最重要な問題として意識されるようになってから既に 久しい。歴史の問題は現代の思想生活から取り除くことはできないJ 1)という指摘があるが、こうした問題視点は今日でもなおドイツの 知識人たちのなかでアクチュアルであり、いやむしろそれは、現代 のドイツにおいて一般的な立場をも含めてますますその重大性が認 識されていると言わなければならないだろう。建築・都市計画の領 域においても、それは然りである。例えば、近年のドイツの社会動

8大学院システム設計工学専攻 8・環境設計工学科

図‑1 O.Bartning 

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向のなかでは、かつてナチスドよって放火された旧帝国議会議事堂 (Reichstag)の再建計画、

欧州連合の経済拠点フランクフルトの新都市計画や、ベルリン中心部のアレクサンダ一広場新 整備計画ならびに現在建設中のベルリン博物館別館「ユダヤ博物館J計 画 な ど を 含 む 首 都 ベ ル リン再開発2)など、統一後のドイツにおける建築・都市計画に関わる課題は頗る多岐にわたっ て多く、さらにそのなかのどの課題に着目してみても、戦後ドイツの歴史意識に関する思想史 的解釈が費らす論議が広く深く浸透しているのを改めて認識するのである3)。つまり、単に一 方的な技術・開発の立場だけでは到底解決できないような、建築・都市についての歴史的思想 上の視座が、今日のドイツ社会における建築・都市計画論のなかに殊に求められているわけで ある。

以上のような論点を考慮の上に、本稿4)は、建築家オットー・バルトニンゲ OttoBartning  (1883"‑' 1959)  [図ー1]の思想研究のための序論をなすものである。敢えてバルトニングを ここで取り上げるのは、この人物こそが戦後ドイツの再建計画の中心人物であったのであり、

その上、両世界大戦聞においてもモダニズム建築を先導したドイツの重要な建築家たちのひと りとして活躍していた経歴をもつからである。未だ日本にほとんど紹介されていない建築家バ ルトニンゲの思想を研究することで、現代ドイツの抱える建築・都市計画論の歴史意識に関わ る課題に寄与するととを目的とするとともに、さらに深く考察をすすめて、人間の総合的な文 化としての建築・都市を、改めて思想史的な視座から洞察を加えようとするものである。そこ で本研究の第一報としてまずは以下に、このバルトニングというー建築家の生涯の軌跡に思想 史的考察を加えつつ報告することにしたい。

9‑2.一建築家をめざして

オットー・バルトニンゲは、 1883年 4月12日に、ライン河上流のパーデン地方の中心都市カ ールスルーエにて生まれた。この都市は、かつてフランス・バロックの都市・造園術を取り入 れたことから、対称形の幾何学的な都市プランをもつことで知られている。また古典主義の時 代には、建築家ヴァインブレンナ‑‑F.Weinbrenner (1766"‑'1826)やヒュープッシュ H.Hubsc h (1795"‑' 1863)らが、フランスの建築家、理論家であり、教育者でもあったデュラン J.‑N. ‑L.  Durand(1760"‑'1834)の合理的な設計手法を大いに生かし活躍していた5)、という建築・都市 に関する輝かしい歴史を刻む場所でもある。しかしそうした伝統にバルトニングは全く興味を 持たなかったという的。 1902年にギムナジウムを卒えた直後から翌年にかけて、バルトニンゲ にとっては決して忘れがたい大きな経験をする乙とになった。それが「世界一周の船旅Jであ った。イギリス 南北アメリカ 日本 中国 東南アジア諸国 スリランカ イスラム諸国を 船でめぐり、この時々に各々の土地において、バルトニンゲの眼に飛び込んできた世界のさま ざまな生きた人間の生活やその姿が、一建築家をめざすのに際しての最も決定的な契機になっ たのであった。さらに言えば、その後のバルトニングの建築家としての活躍を考慮に入れると き、既にこの頃から、その生涯のテーマとなる「人間と建築j との深い存在論的な関わりへの 思索や、その問いかけが始まっていたのであろうか。この旅の経験は生涯に亙って心に深く刻 まれる乙とになり、後に何度も原稿に起こすことが試みられて、最終的には死去する四年前の 1955年、 73歳の時に『愛する地球一一一若き頃の旅への晩年の回想録J7)とのタイトルにて出版

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図‑2 バルトニンゲ・世界一周の船旅の航路 1903

された。八百ページにも及ぶ浩識なとの著作には、旅路での細かな出来事が詩的に綴られてい るものの、スケッチ等の図版は全く含まれておらず、ただ唯一その旅路を示す世界図[図ー

2 J

が載っているだけである。その最初の章「出発 AUSFAHRTJは、次のような書き出しである。

旅立ちに際しての興奮には、あらゆる大きな冒険八の出発のように、そこには期待が含ま れているのだ。漠然とした願望から人は、突然に、苦境や安らぎヘ身を入れる。人はその 始まりを掴み、そして歩み出す。しかしその始まりには、その終わりが含まれている。そ の始まりと終わりは、その人の手のなかに、ひとつに結び合わされている。その結ぼれた 大きな環は、大海を超えて投げ出され、波聞に漂い揺れている。それが何処へと行き着く の か ? 希望がそれを引き寄せたり、諦念が訪箆わせたりするのか? その結び合わされ た環のあることだけが唯一確かであり、恐れながらも、人はその手でそれをしっかり掴も うとするのだ。..

バルトニンゲというひとりの人間の生涯にとって、 一建築家ハの旅路が、この世界の旅から始 まり、荒れ狂う大海での航海を経て、その世界の旅八と行き着いていったのだろうか。ところ で因みに四歳下のル・コルピュジエ LeCorbusier(1887~1965) が、同じように建築家をめざ す大きな契機となった「東方への旅(1911)Jに発ったのは、バルトニンゲとほぼ同じ年令だ ったが、その旅の記憶を保存する六冊のスケッチ帖は、そのル・コルピュジエの生涯に亙る「

制 作Jの原点になったとも言われている的。ならば、ル・コルピュジエの東方への旅には、そ の生涯にもつ意味での始まりと終わりが示唆されているのだろうか。

ともかく、バルトニンゲはその世界一周の船旅からの帰国後、一建築家をめざして1904年か

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ら1908年にかけて、カールスルーエとベルリンの工科大学にて建築を学んだ。その頃の時代の 機運とは、 1870年の普仏戦争の勝利仁よって誕生した、首相ピスマルク O.F.v.Bismarck(1815

‑‑‑‑‑89)の率いてきたドイツ第二帝国が、ますます外交政策や内需拡大、芸術文化を進展させ、

豊国強国を世界に誇示するただなかであったのである。

こうした背景におかれて、バルトニンゲの設計活動は25歳の1908年からベルリンにアトリエ を持って開始されたのだったが、そのバルトニンゲにとってさらに大きな転換点かっ起点とな ったのが、第一次大戦をはさむ1910年代から20年代にかけて、ベルリンを拠点に展開したドイ ツ表現主義建築の影響を受けたことだった。そのなかでも殊に、ブルーノ・タウトBrunoTaut  (1880‑‑‑‑‑1938)やゲローピウス礼Gropius (1883‑‑‑‑‑1969)らとの交友の中で、新たな時代に相応 しい建築について相互に考え合ったことに大きな意味があったであろう。世界の大きな動きが 限に見えて日に日に進展し、新しい技術が新しい建築の空間を生み出せる確信がどの建築家に も芽生え、何よりもそれが建築家にとって魅力的だった。第一次大戦直前の1914年 8月、ライ ン河下流沿いの大都市ケルンで催された、 「ドイツ工作連盟 DerDeutsche WerkbundJ主催の 大展覧会の模様は、その時代の建築家たちの意識をよく伝えていた。この時のブルーノ・タウ ト設計のパピリオン「ガラスハウス GlasshausJや グ ロ ー ピ ウ ス 設 計 の 「 工 場 兼 事 務 所 ピ ル Fabrik‑und BurogebaudeJが殊』こ注目されたが、そのほかにもムテジウス H.Muthesius (1861 

‑‑‑‑‑1927) 、フイツシャー T.Fischer(1862~1938) 、ヴェルデHenry van de Velde(1863~1957) 、 ベーレンス P.Behrens(1868~1940) 、ホフマン J.Hoffmann (1870~1956) などの建築家たち の作品群が一堂に建築されたのである。因みに時代の建築を担う人物たちが乙の展覧会を機に して、 60年代から70年代にかけて生まれた建築家たちから、 80年代生まれの世代へ、つまりタ ウト、ゲローピウス、ミース LudwigMies van der Rohe(1886~1969) やル・コルピュジエな どへと移っていくごとになる。ともかく、こうした新たな建築ヘ向けた機運が時代を大きく包 み込んでいるなかで、バルトニンゲは新鮮な刺激を浴びながら、新しい素材(コンクリート・

ガラス・スティール)を建築空間へ創造させていくことに関心を高めつつ、その成果は第一次 世界大戦後に次々と建築作品や著作のかたちとなって現われることになるのだった。そこでバ ルトニンゲの活躍の舞台を大まかに三つに設定して、つまり「プロテスタント教会建築Jと「

建築家教育j 、そして「第二次大戦戦後の再建計画j仁絞って以下に論じていきたい。

9‑3.

建築家バルトニンクの活動 3.‑1)  r人間と建築』への思索

一一プロテスタント教会建築の近代化を先導しつつ一一

第一次世界大戦前後からヴァイマール共和国を経て、ナチス政権下での第二次世界大戦八の 突入、そしてドイツの敗戦と連合軍による占領という、 20世紀前半におけるドイツ国内外の政 治・社会の動乱に相侠って、教会闘争がドイツ各地で徐々に起こり、著しい展開を生み出すこ

ととなった9)。それは、旧来の硬直した教会教義や教会組織の近代的な再編成や、戦争に対す る信徒や教会の責任あるあり方など、多くの問題を苧んだ激しい闘争が、教会組織の一内部だ けでなく一般市民をも巻き込んで展開した。殊にドイツ人の半数以上が含まれるプロテスタン ト教会(EvangelischeKirche)においてそれは著しかったわけである。因みに、ドイツでは今

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図‑3 r星の教会」計画案 1922.(平面図・断面図・模型)

日も同様、政治と宗教が分離していないため、一旦蜂起した社会の争乱は国内全体であらゆる ことを巻き込むことになり、非常に複雑な問題をも引き起こすことになるのである。

ところでバルトニングの最初の作品が、 1906年設計のオーストリア・シュタイア一マルク地 方の小さな町ペッガウの教会であったように、その一生涯に亙ってプロテスタント教会建築に 携わっていくことになる。そして先にも触れたように、時代の建築を先導する活躍を現わし始 めるのは、表現主義の建築家たちとの交友を経ての第一次大戦直後からである。ここではバル トニンゲの数多い設計のなかから教会建築にのみ限定していくと、例えばプロテスタント教会 建築の近代化の先駆作品として位置付けられ、バルトニングにとってもその生涯の記念碑的な 作品となったのが、 1922年に構想された 「星の教会J計画案[図‑3Jである。これは、先の19 19年にベルリンにて出版した著作『新たな教会建築について』の理念をさらに深めて計画案と

して構想したものであった。ここでバルトニンゲが根本的な課題として考えたのは二点あった ように思われる J0)。一つは、新しい技術と素材を生かした建築の空間や形態が、美術・博物 館、 学校、駅舎、 工場、庖舗や住宅などに既に現われているものの、教会建築には歴史的な伝 統にいつまでも縛り付けられるところが強く、近代的な建築の要素を取り入れるのが非常に困 難であるのを知何に挑んでいくか。しかしそのためにはもう一つ、キリスト教のなかでもプロ テスタントは、元来その信仰の教義上、造形芸術についての理解が困難であるために、そうし たなかでプロテスタントの教会建築を近代化していくには、神学的に如何に理解されなければ ならないのか。こうしたバルトニングのプロテスタント教会建築の近代化に向けた努力が、こ の1919年刊行の著作と1922年にまとめられた計画案「星の教会j に表現されているわけである。

なお、このバルトニングのプロテスタント教会建築論が広く認められて、 1924年31歳にしてケ

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ーニッヒスペルク(イマヌエル・カント)大学より「神学博士Jが授与されたことからも、バ ルトニンゲの思想の意義がもっ重大さをより認識することができるであろう。さらにまた、バ ルトニンゲの著作が出版された同年1919年といえば、近代を代表する神学者カール・バルト k arl Barth(1886~1968) の『ローマ書簡』が刊行された年でもあり、さらにその前の 1917年に はルドルフ・オットーRudolfOtto(1869~1937) の『聖なるもの』が、そして 1918 年にシュペ ンゲラーの『西洋の没落j (第一巻)の出版がそれぞれ続き、近代プロテスタント神学上にお いても殊に重要な時期であったことを付け加えておかなければならない。

ともかく、近代プロテスタント教会建築の先駆となったこのバルトニンゲの計画案「星の教 会J,こは、従来問題にされてきたプロテスタント教会での礼拝のもつ意味と建築空間との合致 しない計画的な難問などが考慮されており、なおかつコンクリートを教会建築に取り入れ、そ の素材的』こも空間的にも充分に生かされ発揮できていることに注目しなくてはならない。また 因みに、偶然にもとの同年にフランスでは、近代カトリック教会建築の簸型とされて讃えられ た「ル・ランシーの教会」が、オーギュスト・ベレー AugustePerret(1874~1955) によって 計画されていたのである。

その後に、バルトニンゲの視点はコンクリートからスティールとガラスに移っていく。これ までにも教会建築にスティールの素材を建築要素として使用するのは不可能であるとまで言わ れてきたにもかかわらず、バルトニンゲはスティールを教会建築の空間へと積極的に使いこな して、多様な形態の教会建築を生み出していくことになった。その代表的な作品として、ステ ィールとガラスとの素材的な調和を生かして空間の創造を実現化させた最初の作品「スティー ルの教会(1928) [図‑4J、またさらに洗礼と礼拝の神学的教義を建築空間のなかで強調した 作品「円環の教会(1930)J [図‑5J、そのほか「グスターヴ・アドルフ教会(1934)Jなどは注

目される 11)。

建築作品と著作を通してその思想を深めてきたバルトニンクにとって、制作とともに思索す ること、あるいは思索するとともに制作するととが重要であったのである。従来のプロテスタ ント神学では、信仰の純粋性において造形芸術「物Jは不要であるkの教義が強かったが、そ れに対してバルトニンゲは、建築家が作品の存在によって現わしめた空間の作用左、人間存在 が本来もつ精神的なあり方の作用とが相侠ってこそ、真の超越的な聖なる場所が開示されるの であり、さらに人間存在の深淵へと通じることにつながると主張したのであった。つまり、人 間存在のあり方と教会建築の空間性について考えることから発して、それを建築一般のことま でも含めて深めつつ、さらにその洞察は人間存在の根底へと向けられて、おのずとバルトニン ゲ独自な建築の思想が築かれていくのであった。晩年のバルトニンゲは哲学者ハイデガーの存 在論などにも近づきつつ、その姿勢は常に、一建築家であることと共に、人間であることの存 在の意味の重さを希求した、数少ない一人であったと思われる。建築家にとって建築を問うこ とと等しく、人聞を問うことの大切さを強調したと理解される。つまり「建築とはj と呼応し て「人間とは」と問いかけられ、その二つの存在のあり方が共に思索されたのである。建築に ついて考えることの意義が、人間4こついて考えることと等しく深いということが示唆されてい ると思われる 12)

(8)

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図‑4 スティールの教会 図‑5 円環の教会

3.‑2)新たな時代へ向けた建築家教育

一一パウハウス理念の原案をめぐって一一

ところでドイツの1910年代より、従来の伝統的なスタイルから意識的に遊離しようとする表 現主義建築のただなかに於かれたバルトニンクが、 「近代的な」建築家としてさらに成長する ことは先にも幾分触れた。それは具体的には、第一次大戦を終決に導いた社会的革命のなかで、

あらゆる芸術の作家たちが、ドイツ的な性格を強調しつつ自由な芸術的精神に則った美を希求 しようと集い、 1918年11月に建築家ブルーノ・タウトを代表にして「芸術のための労働評議会 Arbeitsrat fur Kunst Jを結成した。この時に顔を合わせた建築家たちには、ゲローピウス をはじめ、ペルツイツヒ H.Poelzig(1869~1936) 、マックス・タウ卜 Max Taut(1884~1967) 、 メンデルゾーン E.Mendelsohn(1887~1953) 、フインシュテルリン H.Finsterlin(1887~1973) や ル ッ ク ハ ル ト 札Luckhardt(1889~1972) など当時のドイツを代表する建築家ばかりで、そ のなかにバルトニンゲも加わっていたのであった 13)

この表現主義の芸術雰囲気が強く漂うグループ「芸術のための労働評議会jの中において、

建築家たちの間では、 「新しい時代に向けた建築家教育Jについての話し合いが続けられてい たのである。ここで付け加えておくと、 20世紀の初め頃より、幼児期から大学までに至る一般 教育や専門的な芸術・技術教育など、教育全般に亙る改革運動が教育関係者の中で着実に進め られていた事実も当然忘れてはなるまい。そうした時代の傾向とも相侯って、その建築家たち による会合の中で、新たな建築の制作とともに「新しい時代に向けた建築家教育Jについても 大きな課題として受けとめられたのであろう。その建築家教育をめぐる論議のなかで、大きく

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積極的な発言をし、交わされる多くの意見を取りまとめながら、さらに建築家教育のプログラ ム作成にまでに進展させた人物が、ごのバルトニンゲであったわけであるは}。またそれと同 時に、そのバルトニング作成の建築家教育プログラムが基になって、それをまずは実践へと移 すのに努力したのがゲローピウスだったわけであり、その実践教育の場とは、周知の通りあの

「パウハウス BauhausJに他ならないのである。ただ確かに従来のバウハウス研究成果におい て明らかなように、あの第一次大戦直後の国内が全く動乱しているなかで、迅速に行動し、パ ウハウスの開校にまで行き着いたゲローピウスの功績は疑がいのないごとだが、同時にそのバ ウハウスの原案とも言えるパルトニンゲの建築家教育プログラムの重大さもここで強調してお きたい。さらにその上、ここでバルトニンゲのパウハウスとの関わりに着目するいまひとつの 理由に、バルトニンゲが実際に教育活動をしていたという事実があるからである。そのことを 以下に、ゲローピウスのパウハウスとの関わりから指摘しておきたい。

ところで、 1919年に政府機関をも置かれた古都ヴァイマールにおいて、国立パウハウスが開 校した。その伝統的なヴアイマールの場所に、パウハウスという教育機関が新たに設置される ことになった誘因のひとつには、 19世紀初めの古典主義の時代から存続する芸術学校が存在し ていたためでもあった 15)。つまり、パウハウス設置には既存の芸術学校の実験的な改革の意 図も含まれていたのであろう。またとの時期には広く教育全般仁亙って、従来の教育課程を改 革する運動が徐々に高まっていたことは既に触れた通りである。そこでパウハウスの発足する 時点で、ゲローピウスの招聴した先進的な若い芸術家たちが現に参加したわけであるが、実際 それだけでなく既存した芸術学校の保守的な教授たちを含めての、総合芸術教育機関パウハウ ス成立だったわけであり、パウハウスの新たな造形運動が展開されていく内部には、実は最初 から問題をかなり含んでいたのであった。しかしともかく周知のとおり、パウハウスのヴァイ マール時代にも新たな造形の追求において大きな成果を膏らしたが、結局デッサウ仁移転を余 儀なくされたのは、政府機関との経済的調整の難航もさることながら、従来の保守的な教授た

ちとの内部闘争が激化したことが最大の原因であったろう。

そこでグローピウスの率いる若い芸術家たちが去った後のヴァイマールには、従来の教授た ちを含めての、教育機関パウハウスは残されたわけである。ゲローピウスたちと保守的な教授 たちとの紛争の後の、混乱した芸術学校を引き受け、現代にもなお継続する大学へと整備した のが、バルトニンゲなのである。ゲローピウスたちが完全に去った1925年 4月からバルトニン ゲは、ヴァイマール・パウハウスの校長になって、本来自分がまとめた原案の教育プログラム を実践へと移していくととになったわけである[図

‑ 6 J

。著名な歴史家ペヴスナーによると、

ゲローピウス以上にバルトニンゲが新たな建築家教育の実践に成功したのだという見解が示さ れている 16)。実際バルトニングがどういう実践を取っていたのかは、ゲローピウスとバルト ニングとの建築家教育についての比較研究から明らかにせねばならないだろうが、ここでは指 摘のみに止めておきたい。なお因みに付け加えて、 1925年時点では、ヴァイマールとデッサウ にて「二つのバウハウスJが事実上存在したわけで、その後バルトニンゲとグローピウスの間 で話し合いが重ねられて、結局バルトニンゲのヴァイマール・パウハウスは、今日の「ヴァイ マール建築大学j という名称に落ち着くことになった 17)。そして1930年にナチスに加わって いた建築家パウル・シュルツェ=ナウムブル P.Schultze‑Naumburg(1869~1949) によって 19

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のアトリエを一方に持ちながら、学生たちとともにいくつ かの設計を通じて、建築家教育の実践に努めたのであった [図

‑ 6 J

。ゲローピウスやミースなどの同世代の建築家た ちが国外ヘ移っていくなかで、バルトニンゲは大戦中を国 内亡命者として、ハイデルベルクの教会事業に関わりつつ、

僅かな制作をも続けながら、終戦を待つことになった。

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. . . .  

図 6 バルトニンゲの講義風景

3.3)戦後の廃嘘と再建のはざまで 一一ドイツ工作連盟会長として一一

1945年 5月、大戦の終決に至り、ドイツは四連合軍による分割された管理の下で、悲惨な廃 撞と化した国土に復興作業が開始された。そうした中でのドイツ人の内面に、いち早く大戦間 の過去を忘却して全く新たな国を創造したいという意志が多く見られ、またそうした国民の心 境が復興を早めるととにも繋がったのである。それは知識人たちの中でもそれほど大差なく生 じていた。殊に大戦中、ナチスに何らかの加担をした経験のある者にとっては当然でもあった だろう。しかし中には、過去に対する精神的な葛藤が既に生まれていたのである……次のよう な自問によって、 「あのゲーテやベートーヴェンを生み出した精神を受け継ぐ我々ドイツ人が、

なぜ、あのような残虐なナチスの行動を生み出しえたのか」と。敗戦直後の暗い廃撞のなかで、

精神的な虚脱感を隠しきれないなかで、過去のことを持ち出すのはおのずと避けられていた。

過去よりも明日の一日を生きるのが先決だった。しかしそれが、後に一部の知識人たちから徹 底した批判を生み出すことにもなるのだが……何故、われわれ自身の過去を直視しないのかと

このような精神的なメンタリティーは統一後の今日に至っても継続している。歴史意識の問 題が広く深くドイツ人のこころに刻まれるごとになった。また、こうしたドイツの歴史につい てのメンタリティーを把握していないと、戦後の再建が責らす意味を十分に認識できないので はなかろうか。建築・都市にとっても全く同様であって、廃撞と再建のはざまにて、ドイツ圏 内にある建築家たちに今後の時代に対する責任が重く課せられていたわけである。

こうした戦後直後のドイツにおいて、復興事業の中心的な立場におかれたのがドイツ工作連 盟であり、その会長に就いたのがバルトニンゲだった。物的な課題と共に精神的な謀題が山積 みになった状態の中で、ドイツ工作連盟を指揮して復興の先導する責任を負ったわけである。

こうした時に不思議にも国民の意識を集めたのが、パウル教会とゲーテ・ハウスの即時再建に 関わる問題であった。 1948年は国民議会発足百周年に当たり、第一回国民議会が行なわれたパ ウル教会の再建が注目され、それと同時に1949年はゲーテ生誕二百年であり、ゲーテ・ハウス の再建が要請されたわけである。この時どのような再建のあり方をするかが関われたのである。

しかしこれもよく考えてみれば不可解な時流であって、国民の大多数が今なお貧しい生活を強 いられているという時に、再建問題は活発になったのである。それは先に指摘した戦後直後の 空際化した精神的なあり方と相侠っているのだろう。そして当然、こうした問題』こも工作連盟 が関与することになる。両再建にあたって、あの1920年代に築き上げたドイツの先進な建築家

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の近代的なスタイルにするのか、それとも中世の趣をそのままに戻すのか。その結果は今日に 見るように、中世そのままが再建され、さらにそれに倣って、ドイツ全土の各都市が中世の街 並に戻すことを考えるようになったわけである。このことからも、歴史意識と建築あるいは建 築家の立場が、深く結びついていることを認識しなければならないだろう 18)

A)廃壊の国土に教会の再建を願って

また敗戦直後の混乱期に、最も信頼でき安心できる組織は教会しかなかった。少なくとも国 土が荒廃した中で精神的な支えが失われたドイツの国民のひとりひとりにはそう思えたし、教 会の鐘の音や心の安らぎを求める祈りの場所が求められたのであった 19)。そうした機運のな かで、プロテスタント教会は敗戦後すぐに、 1945年10月 fシュトゥトガルト宣言j をまとめて、

大戦聞の責任を認識して告白し、今後の教会や信徒のあり方を明確に提示したのであった。そ れと同時にバルトニンゲは、教会指導者であり政治家でもあったゲルステンマイアー E.Gerst enmelerから、祈る場所のない廃櫨kなった国土に教会を緊急に建築するように相談を受けた のである 20)。そしてバルトニンゲは、占領管理の下に建材など自由に入手できないなかで、

いろいろ苦心した末に設計プランをまとめて、全土に48の緊急教会を設置する努力をしたので あった。その設計プランにはAとBの二つのタイプがあり、形態や素材に対しても簡素にまと められている[図‑8]。

B)  r人間と建築』を聞い続けて

さらにもうひとつ触れておきたいのは、復興作業がすすめられる一方で、国民のなかでは芸 術文化への渇望が徐々に高まり、いろいろな行事が催されたことである。先に触れたゲーテ博 物館の再建運動もこうしたなかから生まれた。例えばダルムシュタットでの「現代音楽のため の国際夏期研究会議J (1946)が毎年聞かれるようになり、ベルリンでの f国際作家会議J ( 

1947)や「文化のための会議Jが聞かれ(1950)、パイロイト音楽祭の再開(1951)などのこ うした大行事のほかに、各都市の劇場や映画館なども再開されたり、新聞・雑誌などの発行が 始められていた。

そしてことで敢えて取り上げるのは、諸芸術の作家たちによる公開対話「ダルムシュタット 会議Jである。 1950年からフランクフルト近郊の文化都市ダルムシュタットにて開始され、 19 51年の第二回目においては「人間と空間j というテーマで、建築家バルトニンゲが総合司会を

しながら対話が進められた。基調講演の哲学者ハイデガ‑‑M.Heidegger (1889~1976) の「建

てること 住むこと 考えることjやスペインの哲学者・社会学者オルテガJ.Ortegay Gasse 

t (1 883~ 1955)の「技術の下での人類の神話」のほかに、多くの建築家たちが発表報告し合い、

これからの人間と建築について活発な対話がされたわけである。敗戦後の廃撞となったドイツ のなかで、誰もがこれからの期待と不安を抱いて生きてゆかなくてはならず、乙の時に出席し た建築家や哲学者、芸術家たちは、ある責任感をもちながら語り合ったのではなかろうか。翌 年この公開対話記録は、バルトニンゲの編集によって出版された 21)。因みに第一回目は f今 日の人間像j というテーマにおいて、美術史家ゼ一ドルマイーヤ‑‑H. Sedlmayrと画家・教育 者イッテン J.ltten(1888~1967) が基調講演[図 -9] をし、第三回目は「人間と技術 j とい うテーマだった。

(12)

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図‑9 ダルムシュタット会議J1950年 第 一 回 テ ー マ 今 日 の 人 間 像J 記録新聞;左=イッテンの基調講演「近代芸術の可能性J

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右=ゼ一ドルマイヤーの基調講演「近代芸術の危機J

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(13)

ともあれ、戦後の廃撞と再建のはざまのなかで、ドイツ工作連盟会長という重責を担いつつ、

さらに教会の緊急再建や、これからの新たな時代に向けて人聞と建築を如何に考えていくのか を課題に開催した公開対話など、バルトニンゲはその生涯を最期まで建築家としての立場を貫 いただけでなく、さらに哲学者・神学者・教育者・作家という姿も持ち合わせていた。しかし それ以上に深い思索と実践とのなかで、ひとりの人間として生きる意義を希求しつつ生きたと 言わなければならないだろう。 1959年 2月20日ダルムシュタットにて、バルトニンゲの75年の 人生は閉じられた。

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以上のように、建築家バルトニンゲの多様な生涯を大まかではあるが考察を加えながら辿っ てきた。こうした概観を通して、バルトニンゲの功績のなかでも殊に重要な三点、つまり「プ ロテスタント教会建築の近代化j 、 「パウハウスをも含めた新たな建築家教育Jと「敗戦後の 復興計画j について、おおよそ理解されたと思われる。今日のドイツの建築・都市計画にも繋 がるこれらの課題を、今後さらに詳細に研究していかなくてはならないと考える。はじめにも 記したとおり、本稿はそのための序論である。

〈 註 〉

1)三島憲一 f歴史なき時代の歴史意識ヘJ Ii'思想j1974.10. 

2)木村直司編『未来都市ベルリン』東洋出版 1995.などを参照されたい。

3)辻 ほ か 編 『 ド イ ツ の 言 語 文 化 一 社 会 誌 の こ と ろ み ← 』 日 本 放 送 出 版 協 会 1988.、 三 島 憲 一『戦後ドイツ その知的歴史』岩波新書 1991.や、日独シンポジウム報告書『真の豊かさ を も と め て 一 日 独 の 政 治 ・ 経 済 ・ 社 会 シ ス テ ム と 価 値 観 を 探 る 一 』 日 独 協 会 ・ ベ ル リ ン 日 独センター 1994.など。

4)本稿は先の拙稿「建築家・哲学者としてのバルトニンクの生涯J (1995年度日本建築学会 北陸支部研究報告集第38号所収)にかなり訂正・加筆したものである。

5)杉本俊多「ドイツ新古典主義建築の造形理念に関する研究J (東京大学学位論文)1979.  や川向正人 r19世紀歴史主義建築の建築史的研究J (東京大学学位論文)1985.ならびに、

堀内正昭「ドイツのルントボーゲンシュティールに関する研究J (東京都立大学学位論文) 1986.などを参照されたい。

6)  E.Pollak  Otto Bartning, Berlin, 1926. 

7)  O.Bartning:Erde geliebte,spaet Tagebuch einer fruehen Reise, Hamburg. 1955.  8)中村貴志 f建築論の射程一一ル・コルピュジエの手帖をめぐってj 日本建築学会大会研究

協議会資料 1990.

9)詳しいことは、雨宮栄一『ドイツ教会闘争の展開』日本基督教団出版局 1980.や河島幸夫 F戦争・ナチズム・教会 現代ドイツ福音主義教会史論』新教出版社 1993.などを参照のこ と。

10)  O.Bartning:Religion und Kirchbau.  in:Kunst und Kuenstler, 21. 1923. 

(14)

W.Pehnt  Die Archtektur des Expressionismus,Stuttgart, (1973),1981.  邦訳(長谷川章訳) r表現主義の建築(上・下)J(SD)鹿島出版会,1988. 藤 井 正 一 郎 『 近 代 建 築 再 考A(SD)鹿島出版会,1970.

長 久 清『教会と教会堂』日本基督教団出版局 1988. 加藤ほか『教会建築』日本基督教団出版局 1985.

12)  O.Bartning(Hrsg.);Kirchen,Handbuch fuer den Kirchenbau,Muenchen, 1959., p265.  13)  r芸 術 の た め の 労 働 評 議 会jやドイツ表現主義仁ついては以下のものなどを参照。

Arbeitsrat fur Kunst 1918‑1921,Ausstellung mit Dokumentation,Berlin,1980.  山口 康『ドイツ表現派の建築』井上書院 1972.

菊盛英夫『文学的表現主義』中央大学出版部 1970. 土肥美夫『ドイツ表現主義の芸術』岩波書賠 1991. 神林恒道編『ドイツ表現主義の世界』法律文化社 1995.

14)  J.Bredow/H. lerch:Materialien zum Werke des Archtekten Otto Bartning,Darmstadt,19  83.,p17., Herbert Ricken;Der Architekt,Zwischen Zweck und Schonheit,Leipzig,1990.,  p92. 

15)  Weimar‑Lexikon zur Stadtgeschichte,Weimar,1993.など。

16)  N.Pevsner  Academies of Art,past and present,Cambridge,1940.  邦訳(中森・内藤訳) r美術アカデミーの歴史』中央大学出版部.1974. 17)  Hans M. Wingler;BAUHAUS, We imar‑Dessau‑Ber 1 in‑Chicago, MIT, 196 2. 

邦訳(宮内嘉久編) (j'パウハウス』造型社 1969.

18)  Der Deusche Werkbund‑1907, 1947, 1987,…, Frankfurt,1987. 

19)  A.ゲロセール(山本ほか訳)

r

ドイツ総決算』社会思想社 1981., p336‑ 20)  L.Schreyer;Christliche Kunst des XX.Jahrhunderts,Hamburg,1959.,p97‑

21)  O.Bartning(Hrsg.);Mensch und Raum,Darmstadt, 1952., Reprint, Braunschweig, 1991. 

〈図版出典〉

[図‑lJ A.C.‑Janer and M.M.Foley;Modern church architecture,A Guide to the Fro and Spirit of 20th Century Religious Buildings,New York.1962.,p128. 

[図‑2J O.Bartning;Erde geliebte,spaet Tagebuch einer fruehen Reise.Hamburg,1955.  [図 3,4,5,6.JJ.Bredow/H. lerch:Materialien zum Werke des Archtekten Otto Bartning. 

Darmstadt,1983. 

[図‑7J Georg Zimmermann;DARMSTADT, Darmstadt~1985.

[図‑8J Der Deusche Werkbund‑1907,1947,1987,…, Frankfurt,1987.  [図‑9JAlltag  in  Darmstadt‑1850‑1900‑1950,Darmstadt,1993. 

参照

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