点
著者
西川 吉光
雑誌名
国際地域学研究
号
12
ページ
85-101
発行年
2009-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00003691/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja平和国家の政軍システム:
旧軍用兵思想にみる問題点
西 川 吉 光
太平洋戦争の末期、日本軍は特攻という人類 上類例を見出し難い非情な作戦を実施した。終戦 まで 1年近くにわたり、特攻作戦は際限なく組織的に続けられた。わが国はなぜこうした外道の作 戦を実施するに至ったのか。その原因は大きく けて、(1) 作戦としての「特攻」に踏み切った日 本「軍」の特質や抱える問題点、(2) 特攻隊員を送り出した日本の「社会と文化」、そして(3) 勝機 を完全に失したにも拘らず戦争を止めることができなかった「戦争指導体制(政軍関係)」 の 3点か ら探ることができる。(3) は既に取り上げたので、本稿では(1) の観点からこの問題を 察したい。1
成期日本の軍事ドクトリン
・戦略守勢と戦術攻勢主義 明治 軍以来、日清・日露の勝利を経て、さらに時代が昭和へと下るにつれて、日本軍には、そ の戦術・戦法において極端なまでに攻撃を重視する思 と姿勢が支配的になっていった。それに伴 い、物量・技術面の不足は兵士の精神力をもって補うべしとする極端な精神主義も強まっていく。 この過度の攻撃重視と精神主義の風潮が合理的な作戦思 を妨げ、人命軽視が武勇の証との錯覚を 招き、やがては軍を挙げての特攻の組織的実施へ走らせる大きな素地となった。 幕末∼維新にかけて、西欧列強の脅威の中で近代国家の途を歩み出した日本の対外戦略は守勢を 旨とするものであった。1871年12月、兵部大輔山縣有朋は、兵部少輔河村純義及び西郷従道との連 名で「海陸兵備ノ件」と題する上申書を提出した。これは後年の国防方針に該たるもので、(1) ロ シアを想定敵国とし、これに対する軍備を諸政一般に優先すべきこと⑵軍の重点を漸次対内的より 対外的に移すべきこと等が指摘されたが、その本旨は、 海防禦に重点を置く守勢軍備論であった。 当時の日本の国力や国際関係から えて、安全保障あるいは国防戦略が守勢の方針を採ったことは 当然の判断と言えるが、その一方で、近代日本軍は陸・海軍ともにその 設時から攻撃重視の戦術・ 戦法を採用した。 明治新政府はその発足と同時に陸海軍を 設、1870年の兵部省布告を以て、陸軍はフランス、海 軍は英国を範とした。その関係で、軍事ドクトリンも翻訳という形で両国の教模類をそのまま取り 入れる傾向にあった。陸軍は1881年に「フランス歩兵操典」を翻訳し、日本初の「歩兵操典」を制定している。その後、普仏戦争でのフランスの敗北を受け、その前後に欧州を視察した伊藤や山県 は陸軍の範とすべき国をドイツへ切り替えるべきだと唱える。ドイツに留学し、さらに 館付武 官としてドイツ軍制の調査と研究にあたった桂太郎の献策を容れ、山県は明治10年代末から国内仏 派の抵抗を退け、ドイツ軍制への転換を進めていく。参謀本部の設置(1878年)や鎮台から師団制 への転換(1888年)はその一環だが、併せて陸軍はドイツの軍制・用兵を直接学ぶため、1885年に ドイツ陸軍参謀少佐のメッケルを陸軍大学 に招聘する。このメッケルによる教育を機に、日本陸 軍の用兵思想は急速にドイツ流に染まっていった。 ドイツ陸軍の戦術は、攻勢と短期決戦を特色とした。その著『独逸基本戦術』の中でメッケルは、 「プロシャ人は古来常に攻戦をもって主義となせり」と攻勢主義を評価し、別著『戦時師兵術』で は、「戦争の主意は敵を繊滅するにあり、吾は常に攻勢をなさんことに務む」と述べて殲滅戦や攻勢 主義を強調し、他方で、「守勢は弱者の採用する戦法なり」あるいは「守戦に決するは策略尽きたる 初歩」と、守勢や守戦を否定的に捉えた 。国土の統一と近代化に遅れ、しかも陸軍大国と隣接する 地政環境から、ドイツ陸軍は攻撃主義、それも「寡をもって衆を破る」戦法を旨とし、奇襲や先制 攻撃が重視された。「吾々は必ず緒に勝たねばならぬ。捷利を得るため機先を制し、敵の意表に出て、 宣戦の布告後に動員するが如きことなく、その以前に於て行動し、わが作戦に敵をして追従せしむ べきである」と語るメッケルの戦術思想は、大国に小国が向かう日本の立場に合致したものであっ た 。1891年 には「ドイツ歩兵操典」を翻訳した「歩兵操典」が 付された。日清戦争はこうした 翻訳操典で戦われた。日露戦争当時の歩兵操典も1898年版のドイツ歩兵操典をアレンジしたもので、 火力決戦主義を取るものであった。 海軍はどうであったか。日本海軍は当初は個艦の操艦訓練が主体で、それと並行して英国人教官 ウイルラン等の教本を翻訳しつつ戦術研究が始められた。明治20年、島村速雄中尉が英米の戦術書 を参照して「海軍戦術一般」を編纂したが、これが日本人の手による艦隊戦術書の鏑矢となった 。 日本海軍の用兵思想が固まるのは日清戦争前後で、まず「海軍演習教範」が出来上がり、1892年に これを補正して「海軍戦闘教範草案」が発布された。1898年には海軍大学 学生 村龍雄少佐らが 先の「海軍戦闘教範草案」を補正した「海軍戦時要務論」を作成。また1900年には「海軍戦務令草 案」が、さらに1901年には秋山真之少佐起草の「海戦に関する綱領」を骨子とする「海戦要務令」 が作成、部内配布され、これで日露戦争を戦うが、作戦、戦術の基本には攻勢主義が据えられた。 ・攻撃重視を求める日本の地政環境 強大な外敵の脅威に備えねばならない立場の近代日本軍が、陸・海軍ともに何故その 設時から 攻撃重視の戦術・戦法を採用したのか。攻撃主義を取る欧州諸国の用兵思想を模倣したこともその 一因だが、それだけではない。戦術面における攻撃主義の採用には、わが国の地政環境が関わって いた。まず第一に指摘すべきは、他国と直接国境を接せず、国土が海という天然の要害で囲まれて いる日本の地理的特性との関係である。日本を取り囲む海は、有 以来わが国にとって最大の“防 衛力”であった。万里の長城やマジノライン等大陸の諸国が隣国の侵略に脅威を抱き、営々と大要
塞を築き上げてきたのに対し、日本は海のおかげで外敵を防ぐ苦労をほとんど経験せずに済んだの である。海が自然の要害、侵略を防ぐ防壁となり、我が国への侵略を防いでくれたことは歴 を回 顧するまでもない。しかし、この海の存在が日本人の戦術意識に微妙な影を落としたことも事実で ある。海という自然要害の存在は、民族の一体生や国家の統一確保を容易にした反面、対外脅威へ の備えを疎かにさせ、平和は無償の産物であるかの如き錯覚を生み出した。長い平穏な歴 の中で 防御(国防)努力がともすれば軽視され、「守りはただ」の意識が浸透する国が軍事力行 を真剣に え始めるようになるのは、強国の侵略が目前に迫りもはや海が障壁とならないか、逆に日本が海 を越えて他国に打って出る場合のいずれかである。つまり、平時には侵略排除に意を配る機会が少 なく、国家政策に占める軍事のウェートは小さいこの国で安全保障問題が浮上するのは、軍事大国 の侵略脅威が迫り国家の独立が危殆に する時か、逆に自らが外征を企図する場合となる。平時= 軍事不要、有事=攻勢主義となるのである。国土が天然の要塞だったおかげで、日本人は攻撃のみ を重んじ、防衛の観念に乏しい国民性を備えてしまったということだ。 しかも大国の侵略阻止(国土防衛)にあたっては、全周防御の困難生という問題が伴う。日本は、 狭隘な国土面積に比して長大な国境(海岸)線を擁している。そのため、全包囲を警戒し、我が国 への侵略を企図する敵を全周で防御するには莫大な経費がかかる。そのうえ日本列島は南北に長大 である反面、縦深が極めて浅く、ひとたび上陸を許した場合、敵兵力による列島の 断や首都への 進撃はいとも簡単に行える。「全周防御の困難性」や「縦深の浅さ」は、受け身の守りでは国土の防 衛が全うし得ないという問題を引き起こす。防衛作戦においても、こちらから外に打ってでるか、 攻勢をかけて敵の思うところで戦わないよう、終始戦争・戦闘の主導権を握り優勢下で戦わねばな らない。長い海岸線で縦深もなく、守りにくい地形ゆえに、いったん国土が戦場となると防御は至 難の業だ。「守らざるところなければ、薄からざるところなし」は兵理の原則で、防御に立てば日本 は不利を強いられる。ゆえに攻勢に出ざるを得ない面がある。そのため、平時は防御や防衛は意識 にさえ上らぬが、一旦国際関係が緊張し、あるいは国家発展の軸が軍事におかれた場合には、軍事 力=攻撃力の認識が芽生える。ここから、わが国では防御と攻撃が一体連続的なものと受け止めら れず、 離別個のものと認識しがちとなる。異民族との 流接触が常態で、侵略と防衛が日常普段 事の大陸国家では、防衛と攻勢(侵略)は表裏一体、継続一体的に認識されるが、日本においては 防御と攻撃は俊別して認識される傾向が強い。 さて、島国であること(天然の要害としての海の存在)や国境の長大さ、縦深の浅さに加え、日 本を取り巻く国際環境や国力も用兵思想に影響を及ぼしている。海で隔てられてはいるものの、日 本は中国、ロシア、それに太平洋を挟んで米国と、世界の三大国全てと隣接している。防御至難と いう我が国土の地理的要因ばかりでなく、天然資源の不在や工業生産力の低さという二重の意味で 国力の乏しい日本が、これら大国とがっぷり四つに組んでの長期戦を挑むことは困難だ。これら大 国との戦いに勝利するには、短期戦を前提とし、開戦初頭より各戦場において圧倒的な優位を収め、 攻勢をとり続けることで早期講和の機会を得なければならない。彼我の戦力格差を一挙に埋めるた め、短期間に勝敗の決着をつける戦法として奇襲や先制攻撃が重視されることになる。
これは国土の特徴に由来する日本の伝統的な戦法とも合致する。広大な平原に大規模な部隊が展 開し、互いに正面から激突する大陸国家では優勝劣敗の原理が即機能するが、狭隘かつ平地に乏し く、多くの山で集落が遮られているわが国土では、自国に敵を引き付け、広大な領土を活用し、ゲ リラ戦や冬将軍で敵の弱るのを待つ戦法が取り得ぬ反面、複雑な地形を利用しての奇襲が重視され てきたからだ。日本戦 では、義経のひよどり越えや信長の桶狭間の戦いが奇襲の代表例として有 名だが、近代における対外戦争でも、常に先制と奇襲が重視された。 をついて先制・奇襲を加え、 外に打って出る(攻撃重視)ことで、戦争と戦闘のイニシアティブを獲得する。日清戦争における 豊島沖海戦、日露戦争での旅順艦隊攻撃はともに宣戦の布告を待たずに急襲実施された。そして太 平洋戦争における真珠湾攻撃である。 武士道を説きながら、一方で日本が奇襲を重視するのは、国内戦での伝統に加え、持たざる国が 持てる国と戦うためのやむを得ざる戦術であった。太平洋戦争開戦前、山本五十六連合艦隊司令長 官は真珠湾攻撃を「桶狭間とひよどり越えと川中島とを併せ行う」(嶋田海相宛て昭和16年10月24日 付書簡)と称しているが、彼が真珠湾攻撃に拘ったのは、米国相手では長期戦となるが、日本はそ うした贅沢な戦いは出来ない。短期決戦に持ち込むには、開戦壁頭米太平洋艦隊を 砕し、戦意を 喪失させるしかないとの判断に拠るものであった。日露戦争の際、開戦壁頭の旅順閉塞が論議され たが、東郷はこれを採用しなかった。これを戦術的な失敗と捉えた山本は、初戦でのハワイ無力化 に強く固執したといわれる。日本軍が専ら敵兵力の撃砕にのみ攻撃の重点を置き、補給(ロジ)戦 に意を用いなかったことが戦後批判されるが、これも短期決戦主義の影響であった。平時国土防衛 を意識せずに済む反面、有事となれば防衛が困難な地理的特性や大国との近接性、さらには長期戦 を戦えない国力の限界や奇襲重視の伝統等、これらの要素が重なりあい、持つべき軍事力は攻撃力 として機能発揮すべしとの発想が生まれたのである。
2 守勢から攻勢への国家戦略転換と精神主義的攻勢主義の台頭
・帝国国防方針の策定 日露戦争での勝利を受けて、それまでの戦略守勢を基とした国家戦略は攻勢主義へと転じた。日 露戦争後の1907年 4月に策定された『帝国国防方針』では ⑴ 我が国権を侵害せんとする国に対し、少なくとも東亜に在りては攻勢を取り得る如くするを 要す ⑵ 一旦有事の日に当りては、島帝国内に於いて作戦するが如き国防を取るを許さず、必ずや海 外に於いて攻勢を取るにあらざれば我が国防を全うする能はず ⑶ 帝国軍事上の歴 を閲するに、往昔より今日に至るまで、退嬰の主義を取りたるは、徳川時 代のみ、其他は皆進取的ならざるはなし。乃ち近く明治27・28年、同33年及び37・38年戦役に 於いて、悉く攻勢を取りて、以て戦局の大捷を占め得たり。………此性格を益々発揮する如く せざるべからずとされた。そして、「帝国の国防は攻勢を以て本領とす。将来の敵と想定すべきものは、露国を第一 とし、米、独、仏の諸国之に次ぐ。……国防に要する帝国軍の兵備の標準は、用兵上最も重要視す べき露米の兵力に対し、東亜に於て攻勢を取り得るを度とす」と、米露を相手に海外に出向いての 積極的な攻勢主義が打ち出された。以後、日本は帝国主義路線を本格化させ、大陸への関与を深め ていく。 この方針を受けて「帝国軍の用兵綱領」でも、「我国方針に於いて作戦する帝国軍は、攻勢を以て 本領とす。乃ち海軍は敵手に対し、努めて機先を制し、其海上勢力を殲滅することを目的とし、陸 軍は敵に先ちて所望の兵力を、速やかに一地方に集合し、以て先制の利を占むるを目的として作戦 す」と、先制と集中(各個撃破)による短期決戦を目標とした攻勢絶対主義の えを明らかにした。 国家戦略・軍事用兵のすべてにおいて、攻勢(攻撃)主義が打ち出されたわけである。一方、日本 陸軍の用兵における攻撃主義は不変であったが、以下に見るように、それまでの火力重視を前提と した攻撃主義が精神主義重視の攻撃主義へと変質を遂げることになった。こうした国防方針、用兵 綱領を受け、「国防に要する兵力」として、陸軍は平時25個師団、戦時にはこれを50個師団に拡大し、 海軍は、戦艦 8隻、装甲巡洋艦 8隻の所謂88艦隊をめざすこととされた。海軍では、海上勢力(敵 艦隊)の殲滅が強調された反面、「一般商 航路等の防護は、此要旨に背馳せざる範囲内に於て実施 せらるるものとす」とされ、航路帯防衛の軽視が目を引く。シーレーンの防衛は長期戦を前提とす るものであり、また攻勢ではなく受け身の防御作戦として軽んじられたのである 。 ・精神主義の重視 日露戦の勝利は日本人の国家意識を著しく高揚させたが、軍においても外国の操典や兵書の翻訳 模倣から脱し、日本独自の用兵思想を構築する動きが出始めた。それは、攻勢主義を引き続き堅持 するとともに、精神力を非常に重視する形となって表れた。具体的には、1909年に「我が国独自」 とする陸軍の「歩兵操典」制定があり、大正に入った1914年には、大軍や大部隊の作戦や戦略の諸 原則を示した「統帥綱領」が成案している。 「歩兵操典」では初めて「綱領」が付され、劣勢な兵力が優勢な敵兵力を倒すため、攻撃精神を 軸とした白兵主義が採用された。歩兵操典は作戦用兵の骨格をなすが、それまでのドイツを模した 内容を日露戦争の体験から大幅に改め、日本的な内容に変えることになった。綱領は七項から成る が、その第一項は、「歩兵が軍の主兵」といい、第二項、第三項では肉弾攻撃や精神主義がうたわれ た。第二項では「戦闘の最終の決を与ふるものは銃剣突撃とす」とあり、第三項は、「攻撃精神は忠 君愛国の至誠と献身殉国の大節とより発する精華なり、武技之に依りて精を致し、教練之に依りて 光を放ち、戦闘之に依りて捷を奏す、蓋し勝敗の数は必ずしも兵力の多寡に依らず、精練にして且 攻撃精神に富める軍隊は毎に寡を以て衆を破ることを得るものなり」と凄まじいまでの攻撃精神と 白兵主義であった。 1907年に陸軍士官学 を率業し、この操典で育った河辺正三(開戦時陸軍大将)は、攻撃精神は 単に戦略戦術上の律則のみならず広く軍人の行動全般を支配する軍人精神の体現であり、軍人精神
の道義的発露であると理解していたと述べ、要するに軍人精神の充 するところが攻撃精神となり 鉄壁をも突破し、歩兵は白兵で最後の決を与え、寡を以て衆を破り得ることができるというのが操 典の全巻を通ずる旗幟であり、最後まで全軍の指導精神であったと論評している。関太常はその著 書『白兵主義』(1910年)のなかで、日本古来の戦闘法は純然たる白兵主義であったこと、この白兵 主義は日本独特のものであることを強調し、白兵は大和魂の結晶すなわち武士道の真髄であって一 種の精神が宿在していると述べ、白兵 用の極意は已れを捨てる覚悟と決心で敵にあたることであ る、この覚悟決心は身を殺して忠を為す世界に冠たる国民性に合致している。そもそも攻撃進 の 急速を要する時機には白兵の力に訴えて強行攻撃しなければならない、攻撃精神を発揮すれば抜け ないものはなく、戦って勝てないものはないと述べている。 もっとも、「日露戦争で少数兵力の日本軍が多数兵力の露軍に対して包囲戦術に出て成功したの は、編制、装備、戦法が露軍に勝っていたからであり、日本軍が精神力で優れていたからではない。 むしろ露軍の方が戦場では勇敢であった」。物量技術の立ち遅れをカバーするために精神主義を振 りかざした面もなくはないが、それだけではなく、実相は、ロシア軍との白兵戦に苦しんだ日本兵 が上官の命令を無視して潰走する事例が多かったことが関係していた。薄氷を踏む思いの勝利で あったから、今後の戦争において類似事案の再発は命取りになるとの危機感が強かったこと、また 陸軍内部における歩兵と砲兵の派閥意識も白兵主義を唱えた背景にあった。砲兵優位となることを 恐れ、陸軍の中心はあくまでも歩兵たるべしの思いが働いたものと思われる。ただその後の経緯を たどれば、重工業化に遅れ、軍隊の近代化火力の増大に行き詰まったために、精神主義が突出した 形で強調されていくことになる 。 こうした精神主義への傾斜は、大国ロシアを打ち破ったのは日本軍の精神力が預かっていたため との捉え方を浸透させることになった。しかし、大国を破ったのは日清戦争も同じであり、厳に日 露戦争の以前にも、日本人の精神力こそが戦争を決したとの発想が芽生えていた。例えば、日清戦 争後の1902年に作られた大畑重斎『青年軍人討論演説五千題』、これは青年が参加する討論会での模 範演説文を掲載したものだが、「軍備拡張と縮小の可否如何」に対する模範文では「兵は多数に依り て必ず勝つと云うものに非ず。精錬をもって勝つものなり、精錬の兵を以て之に当れば十倍の敵兵 を破る豈に難しとせんや、日清戦争の如きは其の好適例なり」とある。また岩井正治郎『陸海軍人 送迎演説模範』(1900年)でも、「兵の強弱は必ずしも其数の多少に因ると断言することは出来ませ ん、即ち彼の日清戦争に於いて彼が我に数倍の兵を有しながら彼の如き失敗を取りましたのは、全 く其の兵員の精鋭如何に因ることと私は えられます」とある 。 日清戦争に勝利した日本には、国力や兵員の多寡では劣っても、日本人がその優秀な精神力(= 日本民族の優秀さ)を発揮すれば、大国との戦争にも勝てるとの思い・心情が広まりつつあった。 日露戦争後、そうした意識が一層強まり、かかる民意を背景に、軍事のプロ達もそれを好適なマニュ アルの中に取り入れたと見るべきであろう。精神力の卓越性に軸を置いた民族意識は、和魂洋才論 と深く関わっていた。この論理は、西欧列強の誇る文明科学に対して近代日本人が抱くコンプレッ クスの代償として 生したが、中華帝国との戦いに際する民族主義の高揚を通して一層の先鋭化を
見ることになった。日露戦争前後の新渡部稲造による武士道ブームを受けて、この意識は武士道の 名をもって自賛されることになる。しかしそれは江戸期の士道とは異なり、山本常朝の『葉隠』や 宮観山や熊沢蕃山等の反儒武国論、水戸学に範を求めようとするものであった。また、武士とい う階級は維新によって否定されており、しかも特定の一階級にのみ機能する倫理規範を国民全体の 精神とすることにも抵抗があった。国民皆兵で兵士の大半は農民の出である。彼らに新政府が倒し た旧武士階級の倫理を直裁に説くわけにもいかない。そのため、武士道の名に変えて用いられた呼 称が大和魂であった。日本国民全体に れる尚武の精神、死をも恐れぬ勇敢さは、忠君愛国の精神 とも共鳴、相互に影響を及ぼしながら、日本民族の精神的アイデンティティとなっていく。日露戦 後、陸軍が精神力を持ち出すことで敢闘と攻撃主義の重視徹底を図ったことは、軍内部の用兵上の 事情にとどまらず、時代の潮流や思潮と連動する文脈の下に実施されたと見るべきであろう。 精神主義の重視は、海軍でも見て取ることができる。ロシア海軍と戦った日本海軍は、戦後、米 国を自らの仮想敵に据えた。但し対米戦に対する 迫感からではなく、海軍力整備の上での対抗目 標として米海軍を選んだ。強大な米海軍を打ち破るべく海軍が えた戦略は、バルチック艦隊を対 馬沖で迎え撃ったのと同じ発想に立つものであった。太平洋を西進する米太平洋艦隊に対し、まず 潜水艦や基地発進の航空部隊による攻撃で逐次その力を弱め、最後は日本近海での艦隊決戦でこれ を撃滅するというものである(漸減邀撃戦略)。この戦略の根底にあるのは、「寡を以て衆を制する」 短期決戦思想で、兵力を集中させ、敵の機先を制し、不意を討つことが重視された。日露戦後の1910 年、「第一改正 海戦要務令」として海軍大臣から 布された。「海戦要務令」の「第二篇 戦闘」 では、「第一 戦闘の本旨は攻勢を執り速に敵を撃滅するに在り。故に状況已むを得ずして一時守勢 を執ることあるも、苟も時機を得ば決然攻勢に転ずべきものとす。第二 戦闘の要訣は先制と集中 にあり。先制の利を占むるには克く戦勢を観察し機を失せず敵の弱点に乗じ迅速果敢なる攻撃を行 うを要し、集中の実を挙げむには……我が全力を以て敵の 力を撃つの時機を補足するを要す。第 三 決戦は、戦闘の本領なり。故に戦闘は常に決戦によるべし。……決戦は犠牲を厭わず敵に接近 して果敢なる攻撃を行ふを以て要訣とす。」とされた 。 翌年には、秋山真之が「海軍戦術講義」を完成した。それは「基本戦術」と「応用戦術」に か れ、「基本戦術」では、戦術の要素や戦闘力の要素としての、攻撃力、防御力、運動力、通信力の特 質、戦闘単位としての各種艦 の個艦性能、将来性、艦隊の編制並びに編紬方法の利害得失、新造 艦 造の基準に至るまで幅広く論及されているが、その要点は、攻勢主義を作戦・戦術ドクトリ ンの基本とした点である 。日露戦争の終了後、連合艦隊の解散に際し東郷平八郎司令長官がなした 訓示は、「百発百中の一砲能く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚らば我等軍人は主として武力を 形而上に求めざる可らず」とされた。これも秋山の手になるものといわれるが、訓練の重視と並ん で精神主義を強調する姿勢が見て取れる。 「一歩でも前へ」、「外へ出る」攻撃第一主義は、国威の発揚と国家権益の拡大が国家至上の目標 とされた当時の時代風潮とも合致するものであった。攻撃重視を実行するには死をも恐れぬ勇敢な 兵士が必要となる。そのため、攻撃重視は必然的に精神力の強調となる。兵士に求められる強靱勇
敢な精神力は、いまや大和魂と呼ばれる国民精神へと格上げされた。そして精神主義の強調が一層 攻撃重視の観念を加速させ、両者は相乗的に影響しあっていくのである。
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力戦への対応と精神主義:大正∼昭和初期の用兵思想
・帝国国防方針の改訂 第 1次世界大戦が終了した1918年、帝国国防方針が改正された。その特徴は、(1) 想定敵国につ いては、旧方針ではロシア、米国、ドイツ、フランスの順序であったが、新方針では、陸軍は、ロ シア、米国、シナの順序とし、海軍は、米国を第一の想定敵国とした (2) 兵力については、陸軍 の常時二十五個師団、戦時二十五個師団、計五十個師団を、常時二十個師団、戦時二十個師団、計 四十個師団とした。海軍は、八隻の戦艦隊二と八隻の巡洋戦艦隊一という二十四隻の主力艦隊案、 すなわち八八八艦隊案とした。(3)「国防方針」において、「長期戦に堪えうる覚悟と準備とを必要 とす」という字句が付加された。(4) 用兵綱領については、新たに対米、対支作戦に、陸海軍の用 兵が規定され、対米作戦、対支作戦について述べられたこと等であるが 、指摘すべきは⑶である。 「長期戦に堪えうる覚悟と準備とを必要とす」と長期戦、持久戦の思想が初めて明記されたが、軍 事戦術や軍事ドクトリンに係る問題として取り扱うまでには至らなかった。 その後、帝国国防方針は大正12年にも改訂された。その「国防方針」では、「近き将来に於ける帝 国の国防は、我と衝突の可能性最大にして、且強大なる国力と兵備を有する米国を目標と」され、 想定敵国が露、米、支 の順序が、米国を第一かつ唯一のものとし、露支は「親善を旨とし、之が 利用を図ると共に、之を威圧する実力を備ふるを要す」との威圧的親善方針に変わった。また、初 度制定時と同様に「攻勢作戦を以て敵を帝国の領土外に撃破し、速やかに戦争の局を結ぶにあり」 とし、海外における攻勢作戦と速戦速決の短期戦を軍事戦略の基本ドクトリンとしたが、これに加 え新たに「これと同時に海外物資の輸入を確実にして国民生活の安全を保障し、以て長期の戦争に 堪ふるの覚悟あるを要す」と 力戦に対する原則論が記述された。しかし、大戦の諸教訓が出揃っ たこの時期になっても、 力戦や持久戦に対する具体的な対処方針は見あたらない 。日本の国力の 限界や欧州との国際環境の違い、明治以来の短期決戦、殲滅会戦主義の強さから、 力戦に対する 問題意識はあったものの、これを正面から見据えて政戦略を再検討する試みは見送られた。国家 力戦に対するこの認識の甘さが、太平洋戦争で禍根を残すことになる。 陸軍の内部では、将来戦において火力、砲兵を重視する立場と、戦闘の重点は近距離戦闘にあり、 至近距離での白兵戦、肉弾戦が今後も主体とする派の間で論戦も行われた。しかし、戦争の形態は 国民戦争へと推移しているが、現実問題として日本の国力は欧米に比して乏しく生産力も低い。そ うした状況で導き出された結論は、長期戦を行う国力が日本に無い以上、徹底した攻勢により短期 戦に持ち込まねばならないというものであった。この えの背景には、日本陸軍は欧米と戦う軍事 組織ではなく、ソ連を仮想敵国とし中国における権益を守る役割を担うものであり、大正末期には 両国とも革命騒ぎで国力が弱まり、「素質劣等なる敵に対する作戦」を えればよいとの発想があった。大戦後の軍縮機運、シベリア出兵の浪費等も加わり、近代化に向けた抜本改革は行われなかっ た。そして 1928年に「歩兵操典」の改正がなされたが、1909年制定の「歩兵操典」が打ち出した精 神主義や歩兵主兵主義、白兵主義の原則は踏襲された。それどころか精神主義が一層強調され、綱 領に「必勝の信念」なるものが付加された。これは物量の不足を精神力で補うという日本陸軍の標 語、スローガンとなっていく。長期戦に耐えられぬ国力の不足を、精神力という抽象的で計量化で きないファクターによって補おうとしたわけである。 ・必勝の信念 1928年、陸軍は統帥綱領の改定に引き続いて「歩兵操典」を改定し、翌年には砲兵操典の改正と ともに、諸兵種共通の原則書である「戦闘綱要」を制定したが、この時、砲兵論争の反動として改 正歩兵操典、改正砲兵操典、戦闘綱要の共通綱領に登場したのが「必勝の信念」であった。 綱領第一は、「戦闘一般の目的は敵を圧倒磯滅して迅速に戦捷を獲得するに在り」と、クラウゼ ヴィッツ以来の伝統的な敵野戦軍磯減思想をうたいあげた。クラウゼヴィッツ論の論理的帰結は兵 力の大量集中論であり、したがって綱領第二の前段は「戦捷の要は有形無形の各戦闘要素を綜合し て敵に優る威力を要点に集中発揮せしむるに在り」と規定したが、この要点への兵力集中による量 的優越確保の論理をみずから否定したのが第二の後段および第三の「必勝の信念」であった。第二 の後段は、「訓練精到にして必勝の信念堅く軍紀厳正にして攻撃精神充澄せる軍隊は能く物質的威力 を凌駕して戦捷を完うし得るものとす」と、第一次大戦が物的威力の戦争に他ならなかった事実を 正面から否認した。綱領第三は「必勝の信念は主として軍の光輝ある歴 に根源し周到なる訓練を 以て之を充実す。赫赫たる伝統を有する国軍は 々忠君愛国の精神を砥礪し益々訓練の情熱を重ね 戦闘惨烈の極所に至るも上下相信碕し毅然として必勝の確信を持せざるべからず」という全くの精 神主義であった。 精神至上主義は、「蓋し勝敗の数は必ずしも兵力の多寡に依らず精錬にして且攻撃精神に富める軍 隊は克く寡を以て衆を破ることを得るものなればなり」(綱領第六)、「資材の充実、補給の円滑は必 ずしも常に之を望むべからず。故に軍隊は堅忍不抜克く困苦欠乏に堪え難局を打開し戦捷の一途に 邁進するを要す」(綱領第八)と、至るところに示された。これらの綱領は、日露戦争の従軍体験も 第 1次大戦の主戦場も経験していないエリート軍部官僚の手になる机上の作文であった 。 この時期、海軍は1916年に「海戦要務令」の第 1次改訂を行ったが、その綱領は「先制は戦勝の 要訣なり。戦闘の要は優をもって劣を撃つにあり。戦闘は攻勢を取るを常とす」と述べ、先制や攻 勢を強調した。 に「決戦は戦闘の本領なり。戦闘は常に決戦に依るものとす」とも述べ、先制主 義、攻勢主義、決戦主義を作戦ドクトリンとして明確に示した上で、優勝劣敗の用兵原則を強調し た 。「海戦要務令」は1920年に第 2次改訂がなされたが、先制・攻勢主義と艦隊決戦主義は踏襲さ れた。
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死の強制」と攻撃偏重主義
・軍部官僚と精神主義 帝国国防方針は昭和に入り、1936年にも改訂がなされた。そこでは先制主義と短期決戦を戦略ド クトリンとして堅持しつつも、「帝国は其の国情に鑑み勉めて作戦初動の威力を強大ならしむること 極めて緊要なり。尚将来の戦争は長期に亙る虞大なるものあるを以て、之に堪ふるの覚悟と準備と を必要とす」と述べ、さらに、 力戦対策や持久戦対策の必要性をも併せ強調した。しかし前方針 と同様に、持久戦に関する具体的な方策記述はどこにも見当たらず 、用兵綱領も「帝国軍の作戦は ……攻勢を取り速戦即決を図るを以て本領とす」との短期決戦思想を掲げるだけで、長期戦に臨ん での具体的な方針は示されなかった。 2年後の1938年に陸軍は「陣中要務令」と「戦闘綱要」を合わせて「作戦要務令」を制定したが、 攻勢重視は変わらなかった。「軍隊は常に攻撃精神充 し士気旺盛ならざるべからず 攻撃精神は忠 君愛国の至誠より発する軍人精神の精華にして鞏固なる軍隊士気の表徴」であり、「勝敗の数は必ず しも兵力の多寡に依らず 精練にして且つ攻撃精神に富める軍隊は克く寡くを以て衆を破ることを 得る」とされた(綱領第六)。そして「必勝の信念堅く軍規至厳にして攻撃精神充 せる軍隊は、能 く物質的威力を凌駕して戦捷を完うし得る」ことを強調した(綱領第二)。このほか方面軍、軍以上 の大兵力運用の原則を定めた「統帥綱領」があったが、「作戦指導の本旨は、攻勢をもって、速やか に敵軍の戦力を撃滅するにあり」という攻勢による敵兵力殲滅の思想と、「勝敗の主因は依然として 精神的要素に存すること古来変わることなし」の精神至上主義が貫かれており、陣地戦や退却は「特 異の作戦」として矮小的に扱われ、防御については全く欠落していた 。 また、中国戦線での非近代的軍隊との戦闘が昭和陸軍に悪影響を与えた。中国軍には勝てても、 近代化された優秀な砲兵を擁する軍隊には勝てない危険性を、田中隆吉陸軍省兵務局長は「偕行社 記事」(1941年 9 月号)にペンネームで投稿している。 「将来若し近代化せられたる北方若しくは南方の軍隊と戦ふに際し、対支 軍の戦闘に於いて得 たる教訓乃至経験に基き訓練せられたる軍隊を以て果して所期の戦果を挙げ得るであらうか。砲兵 なく かに迫撃砲のみの支援の下に防御しある敵陣地に対する攻撃法を以て、機械化せられたる優 勢なる砲兵と戦車を有する敵に対し、果して現在の訓練を以て足れりと言ふべきであらうか」と 。 「必勝の信念」は、見たくないものを見ない、 えたくないものを無視できる都合の良い経文で あった。相手の議論を封ずる役割も演じ、昭和陸軍の固着閉鎖非合理の思 図式を最も明瞭に物語 る標語となる。1941年 7月に参謀本部作戦課兵站班長として着任した 政信中佐は、米英を相手に 戦って戦勝の確信があるのかという質問に対し、「荷も日本軍人たる者が必勝の信念を失って任務の 達成ができると思うか…戦争というものは、勝ち目があるからやる、ないからやめるというばかり ではない……勝利を信じて開戦を決断するのだ…日本軍が必勝の信念を抱いて作戦すれば、必ずや 勝利はわが手に帰する……勝算の有無を問題にする前に、まず必勝の信念を抱け……それが武人た るものの心がけだ…ただ言えることは、勝利はこれを信ずるものが勝つ」と言い放っている 。大正末∼昭和初期にかけて、軍の官僚主義化が急速に進みつつあった。藩閥に代わり近代官僚主 義が機能するようになったことは日本軍の近代化を示すものであったが、実戦経験を持たない彼ら 官僚は、特定脅威が喪失した緊張弛緩の中で、近代化の立ち遅れや長期戦への対応を冷静に思索す るよりは、互いの派閥抗争に明け暮れるようになる。事なかれの保身主義と、軍を牛耳り、あるい は出世の踏み台とする権勢主義が 錯跳梁する中で、先例踏襲一辺倒の教範至上主義者も、中央の 指示を殊 に無視し、大言壮語して暴走を繰り返す自己顕示欲に取りつかれた軍閥幹部も、ともに 自らの正当性を訴えるため、精神力一辺倒の攻撃精神を錦の御旗として振りかざす点は共通であっ た。 ・戦陣訓 日本陸軍は中国大陸で勝利していたわけではなかった。線の支配はできても面での制圧はできず、 広大な戦線を維持するだけで精一杯であったのだ。奥地へ奥地へと、いつ終わるともわからぬ泥沼 のような戦争が続く中、兵士の士気も低下し、規律は乱れ、現地での略奪や強姦、戦場逃亡など犯 罪行為が増加した。 1938年、板垣征四郎陸相の名で制定された「作戦要務令」は、こう規定している。「(軍紀の)弛 張は実に軍の運命を左右するものなり。而して軍紀の要素は服従に在り。故に全軍の将兵をして身 命を君国に献げ至誠上長に服従し其の命令を確守するを以て第二の天性と成さしむるを要す」。 華中派遣軍の軍紀風紀の乱れを問題視した軍中央は、ここでも、さらなる忠義と自己犠牲の徹底 という精神主義による問題の解決をめざした。それが 2年の歳月をかけて作成された「戦陣訓」で ある。41年 1月 7日、陸軍大臣東条英機は『戦陣訓』を上奏し、翌 8日の陸軍始の観兵式に際して これを全軍に示達した。戦陣訓作成にあたって、その国体観や死生観については、井上哲次郎、山 田孝雄、和 哲郎、紀平正美などが参画、文章は島崎藤村や佐藤惣之助などが相談にあずかった。 戦陣訓は、「序」、「本訓」、「結」の三綱から成り、「本訓」は三節に かれ、第一節が皇国・皇軍・ 軍紀・団結・協同・攻撃精神・必勝の信念の七項目。第二節が敬神・孝道・敬礼挙措・戦友道・率 直窮行・責任・死生観・名を惜しむ・質実剛 ・清廉潔白の十項目。第三節が戦陣の戒(いましめ)・ 戦陣の嗜(たしなみ)の二項目である。そして第二節「名を惜しむ」の項で挙げられたのが、 「恥を知る者は強し。常に郷黨家門の面目を思ひ 々奮勵して其の期待に答ふべし。」 「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」 の心得であった。 攻撃重視や精神主義が強調された日本では、捕虜禁忌の意識が強かった。「捕虜になること」も、 また「敵の捕虜に対して」もである。日露戦争までは捕虜になることは罪悪でなかったといわれる が必ずしも事実とはいえない。国際法遵守が一等国の証と理解されていたので、外国捕虜の扱いに ついては(内心では侮蔑しながらも)列国の目を意識して厚遇を施したが、日本軍兵士が捕虜にな ることについては、武士道に反する行為として軽蔑する社会意識は強かった 。この えが時代を下 るにつれて強まり、やがては戦陣訓となる。戦陣訓によって、捕虜になるならば死を命じられ、捕
虜禁忌は決定的となった。橋川文三が指摘したように、ナチズムの哲学が「我々は闘わねばならぬ」 であったとすれば、戦時体制下の日本精神はまさしく「我々は死なねばならぬ」というものだった 。 明治後半から深まりつつあった精神主義の強調が、戦陣訓で遂に「戦果に先んじて死を求める」域 にまで達したのである。 ・山本五十六の航空主兵的攻撃主義 陸軍が近代化の遅れと長期持久戦能力の劣勢を「攻撃精神」と「必勝の信念」の堅持によって補 おうとしたのに対して、軍縮条約によって対米 7割の確保を断念させられた海軍では、 艦制限を 克服すべく「月月火水木金金」の猛訓練が続けられた。また如何ともしがたい米海軍との戦力格差 を補う一助として、国粋主義的な世情も影響し、海軍大学 では精神力を重視した日本最古の兵術 書「開戦経」が講じられている 。それは「日本は神武の国であり、誠の国であり、日本の戦争は誠 の国の正義の戦争であるから神の加護により必ず勝利する」という観念的なもので、軍紀の厳正や 個人の武勇を重視した精神主義的な教えであった。他方、日米関係が悪化する中、力を得たのは先 制奇襲の攻撃主義であった。長期持久の戦は対処不能として思 の枠から外され、あくまで速戦即 決、早期決戦で対米戦、「先制の利益を占め攻勢を取り速戦即決を図るを以て本領とす」(用兵綱領)、 「決戦は戦闘のが構想され本領なり。故に戦闘は常に決戦によるべし」(海戦要務令)の教えが強調 された。 以下は、真珠湾攻撃計画に携わった源田実の発言である。 「太平洋を西進してくるであろう米国艦隊を途中に遺し、潜水部隊、水雷部隊、航空部隊などを もって漸減作戦を実施し、彼我の勢力がほぼ伯仲したところで、全力決戦を行う……。当時の日本 海軍は、ワシントン条約によって主力艦保有トン数が、対英米 6割に押さえこまれていたわけです。 この 6割海軍でいかにアメリカに勝つかーそれが海軍の最大のテーマだったわけです。そこで え 出されたのが、相手の兵力を少しずつ減らしていって兵力が対等になったところで決戦に持ち込む というこの作戦だったわけです。ところが、図上演習で、邀撃作戦を展開してみると、何度やって もわが海軍は勝利を収めることができない。兵器の性能、兵員の質が同じならば兵力数が多いほう が勝っという、いわゆる N2の法則が冷厳に働くわけです。六が十に勝つには精神力や技術力、用兵 能力などにおいて、不足する四を補ってあまりあるほどのものがなければならない。確かに、わが 海軍は、それこそ“月月火水木金金”の体制で猛訓練に励んでおったわけですが、それで、敵を凌 駕できるかといえば、そんな確証はどこにもないわけです。私は、こうしたことから、対米英戦で 勝算を立て得る見込みを理論的に求めるならば、もはや旧来の兵術思想にはない新しい えに基づ き、兵力構成と戦法とを組み立てるしかない。当時にあっては、航空主兵論のみが、これに対応す ることができる唯一のものだと思っておりました。」 連合艦隊司令長官山本五十六も、戦艦主兵の艦隊決戦に持ち込んで勝つという軍令部の発想では 期待する戦果は到底得られないと えた。それではズルズルと長期戦に引き込まれ、日本はジリ に陥り、やがて敗れざるを得ない。しかも航空機の発達で、戦艦主兵による艦隊決戦自体起こる可
能性がほとんどなくなっているではないか。 「劣勢のものが優勢なものに立ち向かうには、まず劣勢のものが自主的な作戦をしかけ、先手を とらねばならぬ。そして、その後も続けて敵の痛いところを衝き、敵に反撃の機を与えず、敵が守 勢をとるほかない窮地に追い込む、それしかない。その一方で南方資源地域を確保すれば、いわゆ る長期不敗態勢を確立できることになる」。 初戦で決定的な勝利を得れば、敵の戦意を喪失せしめることもできると山本は判断した。劣勢の ものが守勢をとり、優勢の側が攻勢をとれば、主導権を敵に握られる。空母による本土空襲等が繰 り返されれば、日本は国民性の盲点を衝かれ、内から敗れ去ることを山本は危惧した。彼が日露戦 争に出陣したとき、ロシアのウラジオ艦隊が太平洋 岸に姿を現し、これを見た国民がパニックを 起こした事実が山本に衝撃を与えたのであった。1940年 5月 7日、米太平洋艦隊のハワイ常駐が 表された。ルーズベルトの対日威嚇措置であったが、山本に攻撃目標を与えることとなった 。陸軍 が精神主義で戦いに臨もうとした時、海軍は航空機を用いた攻撃第一主義によって、戦争を優勢の うちに短期講和に導く方途を探ろうとしていたのである。
5 精神主義的攻撃至上主義がもたらした悲劇
・防御軽視の武器体系 軍隊の 命は、攻め寄せる敵兵力を打ち破り、軍事的な勝利を得ることにある。それゆえ、自ら の軍隊に精強さを求めるのはどの国も共通だが、攻撃だけを唱えれば自ずから防御が疎かになって しまう。攻撃と防御の相関関係の中に位置する軍隊に対して過剰なばかりの攻撃重視の姿勢を求め ることは、結果的にその精強さを阻害、弱体化することにもなる。防御軽視の弊害は、航空機や艦 等ハードウエア(武器体系)のコンセプトに影響を及ぼした。零戦は、日本が生み出した第 2次 世界大戦当時世界最高水準の名戦闘機であった。他国に例をみない時速500キロ以上という高速性能 や素早い出撃を可能にする上昇力、大陸や外洋での行動圏を広げる行動半径、さらに20ミリ機銃と いう重装備等抜群の性能を誇っていた。開戦初頭のフィリピン作戦で、零戦は世界を驚かせた。台 湾南部から発進した陸攻隊106機と零戦隊86機はバシー海峡を越えて800キロ以上離れたルソン島ク ラークフィールドとイバの米軍基地を攻撃し、敵機100機以上を撃墜破するという戦果を上げた。日 本の戦闘機がこれほどの長距離を、しかも洋上を越えての作戦を遂行できるとは米軍は夢想だにし ていなかった。 だがその反面、(大型馬力のエンジン生産力がなく)1千馬力という限界から防弾性能が犠牲にさ れた。零戦の防弾装置は極めて 弱、というよりも皆無であった。それは日本の軍用機すべてに共 通する問題でもあった。防弾や防御力は、飛行機設計にあたって軍部の要求項目に入っていなかっ た。旋回性能を高くし、敵機よりも小回りが効けば、背後に回り込まれることもなく防弾装備は不 要という理屈にも一理はある。しかし戦局半ば、米軍戦闘機の性能が向上し零戦搭乗員の犠牲が増 え始めた時にも、防御対策は十 に講じられることはなかった。開戦当初、優勢を占めた零戦だが、1千馬力の零戦に対して米軍は 2千馬力のエンジンを備えたグラマン F6F 等を投入、しかも 1対 1 の空中戦では不利なため、零戦 1機に 2機で対応するという戦法を徹底した。そのため零戦の防弾 力の欠如は致命傷となり、パイロットの損耗を著しく加速させた。これに対し米軍は防弾装置に力 を入れた。日米の生産力の開きを えれば、少しでもパイロットや機体を有効に い、その生命を 長引かせる努力が日本に必要であったはずだ。 攻撃優先・防御無視の設計思想は、航空機に限らない。太平洋戦争で最大の攻撃戦力となったの は航空母艦であったが、日本はこの空母でも防御を軽視した。情報軽視の姿勢から、空母搭載機の 内訳を攻撃機最優先とし偵察機の数を りこんだことがミッドウエイ作戦敗北の原因をなしたが、 問題は空母運用の面にとどまらない。一挙に 4隻の空母を喪失する事態を招いたのは、空母の防御 構造が極めて脆弱であったからだ。攻撃能力を最大化すべく搭載能力の増大に拘り、防火対策が疎 かなため、被弾した場合、艦内での引火や誘爆を防ぐ構造が不十 だったのである。空母赤城はわ ずか 1発の命中弾で沈没したが、これは敵の投下した爆弾の破壊力以上に、搭載航空機の爆弾や燃 料への引火誘爆を許したためであった。日本では、1機でも多くの航空機を積み込めるよう自艦防御 のための構造施設は完全に無視されたが、米軍においては引火、誘爆を防ぐための区画構造を取り 入れた設計になっていたばかりか、消火や応急活動などダメージコントロールの概念と教育を取り 入れていた 。 防御軽視の 艦思想は一般の水上艦 においても然りであった。渡洋来攻する想定敵艦隊(=米 機動部隊)をわが近海に迎え討つとき、少しでも有利な態勢を占めようと、各個艦は防御力や乗員 の居住性を犠牲にし、また航続力も極度に切りつめて、1ノットでも高速を、一門でも多く大砲や発 射管をといった調子で速力と攻撃力ばかりをを重視した 。その反面、対潜・対空防御機能は軽視さ れた。同じ火砲でも、戦艦の大砲は攻撃用兵器として重視されたが、高角砲等対空射撃兵器は防御 用として軽んじられ、大砲を扱う兵士は兵隊のエリート、対空射撃の受け持ちは「鉄砲屋敷のクズ」 と呼ばれた。攻撃武器は重視するが防御を前提とした装備は必要を認めず、の風潮がレーダー開発 の遅れという致命的な欠陥を生み出した。レーダーは防御兵器でしかなく、しかも電波を出し自ら の位置を相手に暴露することは隠密奇襲重視の日本軍の思想にそぐわなかったのだ。 ・戦線の野放図な拡大 ハードだけでなく、攻撃重視防御軽視の姿勢は戦略というソフト面でも大きな欠点を抱え込んで いた。それが顕著に現れたのが野放図な戦線の膨脹拡大化であった。戦争当初、日本軍は既存の満 洲、中国大陸、インドシナに加えて、西はインド洋、太平洋においてはアリューシャンからソロモ ン、 瑚海へと地球を半周するほどの広大な領域を占領した。 長期持久が予想される場合には、必要最小限の戦面を維持することに限定されなければならな かったが、戦争指導に展望がなく、勢いに任せて、進めるならばどこまでも進撃を続けるという姿 勢が支配した。少しでも前に出て自陣を拡大することが国土防衛にも通じるという意識であったが、 国力を遙かに越えた戦線の拡大は攻勢終末点を完全に誤り、やがて連合軍の反撃が本格化するや各
方面で 崩れとなった。そもそも日本の後方支援能力を越えた膨大な戦線を抱えたうえに、敵航空 機や潜水艦の攻撃で前線への補給線が相次いで寸断された。増援補給を受けられず、見殺しとされ た前線部隊は、やがて戦陣訓に基き玉砕という凄惨な敗北を強いられていった。 ・守りの軽視 攻撃至上主義は、前へ前へと戦線を押し進めるベクトルは生み出すが、進むばかりで立ち止まる ことができず、あるいは退く術を忘れることによって敗北を招いた。攻撃偏重に加えて短期決戦主 義を採ったことも、攻めるばかりで守りを疎かにする姿勢を生み出した。これが占領地域の防御体 制を疎かにし、ただでさえ乏しい持久力や長期戦継続能力を一層脆弱なものとさせたのである。広 大な正面戦線のさらなる拡大にばかり目が向き、その背後に位置する占領地の防御、自給体制の構 築は疎かにされた。海軍はソロモンの死守に拘り続け、トラックやマリアナの防御は終始手付かず であった。それが44年 2月のトラック空襲や同年 7月のサイパン陥落を招いたのである。 ・持久戦思想の欠落と思 の停止 精神主義的攻撃至上主義がもたらした第四の弊害は、持久戦思想の欠落である。短期戦主義の下 で華々しい攻撃ばかりが評価され、もともと淡白な国民性も影響して、ぱっと散る美意識が支配し、 長期抵抗のためのゲリラ戦法が採用されなかったことだ 。日本は物的に長期継戦能力に乏しいだ けでなく、精神的戦術面においても長期戦への対応を怠ったのである。敵正面戦力の攻撃にばかり 関心を払い、輸送 や補給線の破壊に関心を示さなかった。自らのシーレン防衛にも配慮がなされ ず、継戦能力の急速な低下を引き起こした。 第五に、精神主義的攻撃至上主義は思 の停止をも招いた。敢闘精神が鼓舞され、攻撃前進ある のみの軍隊も、一旦戦局が劣勢に傾くや、受け身の戦い方や心構えが無いため思 停止状態に陥り、 突撃一辺倒の策をただ繰り返すだけで、必要以上の犠牲を兵に強いたのである。無謀な突撃は軍人 精神の精華と称 されたが、敗北や撤退は攻撃精神の不足と指弾されるばかりで、眼下の戦局に適 宜適切に対応する思 の柔軟性と合理性を奪い取っていった。この悪弊にさらに輪を掛けたのが、 軍部にはびこった官僚主義であった。 注釈 1) 拙稿「明治国家体制の政治と軍事」『国際地域学研究』第 5号、141∼167ページ。 2) 黒川『近代日本の軍事戦略概 』(芙蓉書房出版、2003年)80ページ。 3) 篠原 宏『陸軍 設 』(リブロポート、1983年)430ページ。 4) 篠原 宏『海軍 設 』(リブロポート、1986年)342ページ。 5) 下芳男『日本国防の悲劇』(芙蓉書房、1976年)78∼83ページ。 6) 大江『日本の参謀本部』(中央 論社、1985年)136ページ。 7) 日霞戦争二於テハ突撃成功ノ戦例極メテ少……夜問敵前至近ノ距離二迫リ翌日我砲撃ノ為敵兵萎縮シ在ル 機会ヲ利用シタル場合ノミ成功セリ蓋シ同戦役ノ如ク不十 ナル砲兵ノ支援ノ下二昼間遠距離ヨリスル歩兵ノ
近接ハ南山ノ如ク敵兵微弱ナルカ或ハ地形特別二有利ナル場合ニノミ進 シ此接敵行動スラ其代償トシテ我ニ ハ多大ノ損害ヲ要求……戦例二徴シ過去二於ケル我突撃ノ結果ヲ按スルニ遺憾ナカラ第一次突撃ノ失敗後反復 セラレタル第二次、第三次ノ突撃ノ成功シタル例二乏シ」と日露戦争は白兵突撃で勝ったという 式の教義に 反論を唱えた研究が大正七年、参謀本部により出版された。大部 の執筆は参謀本部内国戦 課の沢田茂大尉 と推察されている。沢田は日露戦争当時の歴戦者が要路にいた結果、日露戦 の研究が遠慮したものであった ことを昭和五十年代に回想している。前原透監修『戦略思想家事典』(芙蓉書房出版、2003年)391ページ。 8) 一ノ瀬俊也『明治・大正・昭和 軍隊マニュアル』(光人社、2004年)68ページ。 9 ) 実 譲『海軍大学教育』(光人社、1993年)332ページ。 10) 黒川、前掲書、81ページ。 11) 下、前掲書、91ページ。 12) 黒川、前掲書、144ページ。 13) 1928年に発行された藤谷芳三郎『改訂 歩兵須知』では、「攻撃精神」を次のように説明する。「攻撃精神と は自ら進んで敵を攻撃し之を打ち破らんとする気概をいうのである。この攻撃精神は忠君愛国の誠心と身心を 抛って国家に尽さんとする軍人精神をいうのである。攻撃精神旺盛な時は戦争に於いて兵力兵器其他の不足な 所を補い能く勝者となることが出来る。故に一時防勢に立つの已むを得ない時でも結局攻勢に転じなければ勝 つことは出来ない、単に兵員の多少の如きは殆ど勝敗に関係がない位である、彼の日露戦役に我軍が終始寡を 以て衆を破り連戦連勝を博した所以は実にここにあるのである。」一ノ瀬、前掲書、165ページ。 14) 黒川、前掲書、116ページ。 15) 黒川、前掲書、195ページ。 16) 大江志乃夫『天皇の軍隊』(小学館、1988年)258ページ。 17) 前原、前掲書、398ページ。 18) 前原、前掲書、396ページ。 19) 一ノ瀬、前掲書に詳しい。 20) 橋川文三『日本浪曼派批判序説』(未来社、1960年)参照。 21) 実 、前掲書、196ページ。開戦経は、同書付録 2。 22) 千早正隆 他『日本海軍の功罪』(プレジデント社、94年)52∼3ページ。 23) 吉田昭彦「日米海軍航空決戦の明暗」『丸別冊戦争と人物 2』(潮書房、1993年)158ページ。 24) 明治28年(月日不詳)、海軍が日清戦争後の経営に入るに当たり、西郷大臣は山本軍務局長に、将来の国防方 針の樹立とそのための施策実施方法案を作成するよう、内訓を与えた。山本局長は戦後の東洋情勢、世界列国 の極東に対する態度、日本の立場を広範囲にわたって研究、 察した。山本は、海軍の想定敵となすべき第一 にロシアを挙げるとともに、「主戦艦隊の編成は甲鉄戦艦六隻、一等巡洋艦六隻」とするいわゆる六六艦隊の 設案を答申したが、併せて山本は、「従来我海軍に於ける艦 を観るに恰も裸体にて大刀を帯し、以て堅甲を鎧 いたる敵に対せるやの概ありき。是れ我が伝統的精神に因るものにして亦経費上の節約制限にも由ることなら ん 。即ち曩きには浪速、高千穂等の 造に際しても其の 体部の防護に比して過大の観ある砲煩を装備せる が如き此の例なりとす」と献策、 艦に当たっては、攻撃力、防御力双方のバランスのとれた艦 を造るべき としている。海軍歴 保存会『日本海軍 第一巻』(海軍歴 保存会、1995年)388ページ。 25) 太平洋戦争では多くの部隊が玉砕していることもあるが(つまり、持久抵抗の組織的な遊撃戦の実施を上官 が命じず、バンザイ突撃で散れという命令に終始しているため)、ゲリラ戦は少ない。サイパンでは日本軍壊滅 後も一部の兵士が生存、47人いたので47士と呼びあった彼らは戦後まで抵抗を続けて、グアム島でも玉砕後師 団参謀の武田英之中佐が残存する兵士2500人を率いてジャングルでゲリラ戦を指導したというが、その実態は 米軍に対するゲリラ攻撃のための活動というよりは、現地住民の協力も得て(あるいは略奪を続けて)の生存 自活行動と見た方がより実態に近い。いわば敗残兵の食料狩りである。行動の基本も軍としての編成に基づい たものではなく、偶然的な出会いで生まれた個人関係で動いているケースが多く(指揮編成が解かれており)、 階級よりも個人の力量如何でリーダーが決まっていった。それは、部隊としての行動あるいは指揮系統に基づ
いた組織的作戦行動とは言い難いもの。ルバング島での小野田寛郎の場合、陛下の命令がない以上投降できな かったというが、原住民の食料強奪などで身を表せなかったという本音の事情がある。陛下の命令が出たので 投降するというのはあくまでも名目に過ぎなかった。」藤井忠俊『兵たちの戦争』(朝日新聞社、2000年)第 3章 参照。