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第二次大戦に関する歴史的修正主義の現況(その1) : 論点(1)ドイツははたして「侵略国」であったのか

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一論点

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)

ドイツははたして「侵略国」であったのか-加 藤 一 郎 *

La Nuna Situacio de la Historika Revizionismo pri la dua Mondmilito (1)

La Disputa Punkto (1) Cu Germanio estis Agresiva Lando ?

-KATO 1 e iro

Rezumo : La Internacia Milita Tribunalo en Nurnbergo komdamnis Naciistan Ger-manion pro la agresiva milito. Sed tiu Tribunalo mem havis multajn problemojii, same kiel Tokia Milita

'

T

ribunalo. Ekzemple, Tribunalo aplikis la retroaktivan legon al akuzitojn. La jugistoj konsistis nur el membroj de la venkintaj landoj. Tribunalo kondaminis 'krimojn' de Naciista Germanio, sed senkulpigis tiujn de la ven

intajlandoj. Tialla Internacia Milita Tribunalo absolute ne estis justa tribunalo, sed venga tribunalo. Pasis duonjarcento post la dua mondmilio kaj Nurnberga Tribunalo. Venis la tempo,

kiam ni devas rekonsideri la historikan koncepton bazitan sur tiu maljusta Nurnberga Tribunalo kaj revizi la 'ortodoksan' historion pri la dua mondmilito

Enhavo'""-':

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Antauparolo : la problemoj de Nurnberga Tribunalo>

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N askigo de la historika revizionismo>

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Disputa punkto (1):Cu Germanio estis agresiva lando

?

> <はじめに:ニュルンベルク裁判の問題点> 我が国を「侵略戦争」を行なったと断罪し たいわゆる東京裁判とその後の占領軍とそれ に迎合する人々によって歴史教育ひいてはマ スメデ、ィアに定着せしめられた「東京裁判史 観」に対する批判は,ょうやく広く世に知ら れるようになってきた.しかしナチス・ド イツの指導者を裁いたニュルンベルク裁判に 対する批判は,我が国ではあまり知られてい ない.東京裁判に問題点があるとすれば,そ の先例かっ模範であったニュルンベルク裁判 *かとう いちろう 文教大学教育学部 にも当然同じような問題があり,いわゆる 「東京裁判史観Jに問題があるとすれば,ナ チス・ドイツを「侵略国」として断罪した 「ニュルンベルク裁判史観J(このような用 語はないが)にも当然同じような問題がある は ず で あ る . だ が 東 京 裁 判 史 観 」 を 批 判 する人々も,ややもすれば,ニュルンベルク 裁判で戦勝国側が「証拠J として確定した事 例をそのまま鵜呑みにしてナチス・ドイツの 「国家的犯罪」を糾弾している.だが,東京 裁判と「東京裁判史観」に対する批判は,当 然にも,ニュルンベルク裁判と「ニュルンベ ルク裁判史観」への批判に行き着かなくては ならないはずである. -

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55-ニュルンベルク裁判の法律上の最大の問題 は,東京裁判と同様に,事後法=遡及法に よってナチス・ドイツの指導者を告発したこ とであった.訴因の主なものは,平和に対す る犯罪,人道に対する犯罪,通常の戦争犯罪, 以上の犯罪を共謀・組織・実行した犯罪であ るが,このうち既存の国際法のもとでは,通 常の戦争犯罪(捕虜の虐待,民間人の殺害そ の他)だけが,犯罪として法律的に認められ たものであった.

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法律なくして刑罰なし」 という罪刑法定主義は,為政者の怒意的・専 制的な権力の行使を閉止する目的で長年にわ たって達成されてきた近代の民主主義的な法 律制度の根幹であった. したがって,これに 違反するニュルンベルク裁判は,当時の戦勝 国の憲法に照らし合わせても,まったくの憲 法違反であった(]). つぎの法律上の問題点は,裁判官がすべ てアメリカ,イギリス,ソ連,フランスと いう戦勝国だけから出ており,たとえ軍事 裁判であることを考慮したとしても,裁判 の中立性をまったく欠いていたことである(2)• す な わ ち , ニ ュ ル ン ベ ル ク 裁 判 は 国 際 軍 事裁判JCInternational Military Tribunal) ではなく,

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連 合 国 軍 事 裁 判 J(Allied Military Tribunal) であった.さらに,ソ 連はポーランド侵攻に見られるように,少 なくとも大戦当初は被告であるドイツの共犯 者ともいえるが,それが被告ではなく判事の 地位を占めてしまっている(3).また,裁判で の証拠の採用基準も近代の裁判基準から大き く逸脱していた.通常の裁判でならば,信頼 できないものとして却下されるような伝聞証 言が,犯罪を「立証」する証拠として採用さ れ,弁護側には膨大な裁判資料にアクセスす る機会,検事側の証人に対する交差尋問の機 会があまり与えられなかった.一方,弁護側 の証人はさまざまな脅迫を受けて,出廷を妨 げられたり,退廷させられたりした. もっと も問題であるのは,被告が逮捕・尋問の過程 で脅迫ひいては拷聞を受け,自分に不利な 「自白 Jを迫られていることであろう凶. 次の問題は,ニュルンベルク裁判はナチ ス・ドイツの「犯罪Jを断罪したが,一方で は戦勝国のこれに類似した「犯罪」を完全 に免責するというこ重基準を持っていたこ とである.平和に対する罪でドイツは告発さ れたが,ポーランド侵攻をドイツの侵略行為 と断定すれば,当然,東からポーランドに侵 攻したソ連の行為も侵略であり,さらに, フィンランドとの冬戦争にいたっては, ソ連 は侵略の答で国際連盟から追放されているに もかかわらず,ニュルンベルク裁判ではソ連 の「平和に対する罪Jは不問に付された. ポーランド人将校が虐殺されたカチン事件は, 今日ではロシアも当時のソ連が実行したと認 めている事件であるが,ニュルンベルク裁判 当時は,ソ連側の主張どおり, ドイツが実行 したこととされた(5).アメリカ軍によるドイ ツ兵捕虜の大量死問題も歴史の暗閣の中にあ る問題である.物議を呼んだ書物ジェームズ ・バクーの『消えた百万人』によれば,戦争 末期に膨大な数のドイツ軍捕虜を収容した連 合国の収容所の環境は,極めて劣悪であり, そのなかで

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万近くのドイツ人が死亡した, というのである(6).戦後, ドイツや日本の捕 虜収容所の劣悪な環境,虐待行為のみがマス メディアあるいは映画などで宣伝されてきた が,連合国の捕虜収容所を調査した「へン リー・アラード中佐の報告によればヨー ロッパの捕虜収容所の状況は日本軍の捕虜収 容所の状況よりもほんの少し良いか,せいぜ い同等であり, ドイツ軍の捕虜収容所の状況 よりも悪かった.~戦後,アメリカ人はア ラードが言及したのと同じ罪で日本人を処刑 した J(7).また, ソ連軍の侵攻によって,ソ 連占領地区で起きたソ連軍兵士による強姦・ 暴行事件の数は想像を絶するほどである(8)• さらに,戦争犯罪行為の範障に入るかどうか は別として,特記しておかなくてはならない F h u

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のは, ドイツの敗戦によってドイツ人に襲い かかった悲劇的な運命である.その第一は, 敗戦後のドイツ人の大量追放処分である. 15 00万人以上のドイツ人が中央ヨーロッパ,東 ヨーロッパの自分の故郷から強制的に大量追 放された.旧西ドイツ政府の統計ではこの追 放 の 過 程 で ( 連 合 国 の 合 意 に よ れ ば ド イ ツ人の移動は秩序正しく人道的に行われるこ とJ とあるにもかかわらず,かなりの報復的 措置が取られた), 211万人が死亡ないし行方 不明となったという.第二は,連合国の占領 下に置かれたドイツでは,食糧不足のために, 敗戦から1950年の5年間で570万人の民間人 が 死 亡 し た 事 実 で あ る 数 百 万 の こ れ ら の 人々は,数年間にわたって毎日,勝利者の前 で緩慢に餓死していった J というのである. 第三に,旧西ドイツ政府は少なくとも150万 のドイツ軍兵士が連合国の捕虜収容所から帰 還していないことを認めている.合計すると, 敗戦とその後の占領によって死亡したあるい は行方不明となったドイツ人は1000万近くな り, これは戦争中に戦闘や空襲で死んだドイ ツ人の数よりも多いのである(9)• 敗戦後にドイツ人を襲った悲劇は別として, 以上のような連合国側の「犯罪」は,ニュル ンベルク裁判では免責され,さらに, この事 実すらもあまり知られることなく,強制的に 「歴史の暗闇」のなかに埋められてしまって いる. 最後に,第二次大戦の過程で生じたユダヤ 人の悲劇に関しても,ニュルンベルク裁判が ナチスの犯罪として断罪した事実のなかには, 今日では,事実とされていない事例もある. 例えば,いわゆる「人間石鹸J問題である. ニュルンベルク裁判では,ソ連検事スミルノ フが「人間の死体の完全な消滅という手段が 考え出された.すなわち,それは彼らの犯罪 の痕跡を消し去るだけではなく,ある種の製 品の生産の役立てられた.ダンツィヒの研究 所では,人間の死体から石鹸を作ること,工 業目的のために人間の皮膚をなめす実験が行 われた」と告発し裁判の判決も「犠牲者の 死体の脂肪から石鹸を商業生産する試みがな された」と断定した.だが, この「人間石 鹸」は,戦争中の連合国による反ドイツ宣伝 からでたものである.その宣伝によれば, ド イツはユダヤ人の死体から石鹸を作っており, その証拠にユダヤ人ゲットーに配給されてい る石鹸には rRJFJ CReines Jueden Fett, ユダヤ人の純粋脂肪)という記号が刻まれ て い る と い う の で あ る . し か し 噂 の も と の rRJFJは, rRIF Jの意図的な誤読であ り,戦時中に石鹸と洗濯用品の生産・配給 に責任を負った機関「帝国産業油脂洗剤局 CReichesstel1e f首rIndustrielle Fett und W aschmitteU Jの略語であった.今日では, 正統派の「ホロコースト史家」も「人間石 鹸Jの実在を否定している(10).大戦中にユタ守 ヤ人を襲った悲劇の実態についても,戦後半 世紀を経て,先入観とタブーを廃して,いっ たい何が起こったのか,あるいは起こらな かったのかを冷静に考察する時期にさしか かっていると思われるが,稿を改めて(論点、

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ホロコースト論争J)検討してみたい. 本小論の目的は,以上のようなニュルンベ ルク裁判の問題点を踏まえ,その裁判判決の 枠組みのなかで定着してしまっている,ヨー ロッパにおける第二次大戦に関する歴史観= 戦勝国の歴史観正史」に疑問を呈しつつ, 論点を整理することである. その前提として,まず「歴史的修正主義」 を紹介しておく. <歴史的修正主義の誕生> 第二次大戦に関する歴史的修正主義は,そ の前の第一次大戦の戦争責任に関する論争に 起源を持っている(11)• 第 一 次 大 戦 は 大 衆 民 主 主 義 の 進 展 「 大 衆 の 政 治 へ の 参 加 大 衆 の 情 緒 的 感 情の政治のプロセスへの反映」という事態が -

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57-イギリス,フランス, ドイツなどの参戦諸国 で進展した状況のなかで勃発したために,参 戦諸国の指導者は国民大衆を戦争に動員する ためにも,戦争の大義名分を宣伝し自国の 正当性を国内外にアピールすることに努めた. 各国は,戦争勃発直後から大戦にいたる外交 資 料 ( イ ギ リ ス 青 書J, フ ラ ン ス 黄 書J, ド イ ツ 白 書Jその他〉を公表した が, このような外交資料には, ことさら敵国 に開戦の責任を負わせ,自国の「正義Jを強 調するために,多くの省略や歪曲,ひいては 文書の偽造までもが含まれていた.とくに, 相手国の「非道Jを強調するための有効な手 段であったのが,相手国の軍隊の残虐行為を 非難することであった. ドイツ兵はベルギー 人の赤ん坊を食べたとか,赤ん坊を空中に放 り投げて,銃剣で突き刺したとかの告発宣伝 がなされた(これに類似した告発宣伝は,今 日でも,事実関係がまったく確証されること なく, I目撃者」のあいまいな「証言Jだけ を根拠に大東亜戦争期の日本軍に対しでもな されている).イギリスも, ドイツ軍は「死体 工場Jを持っており,そこでは物資を手に入 れるために死体がゆでられていると告発宣伝 した(戦後,イギリスはこれを戦時中の宣伝 であり, ドイツを侮辱したと釈明している). とくに,問題であるのは, ドイツの敗戦後 のヴェルサイユ講和条約第

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条 が 連 合 国 政府は, ドイツおよびその同盟国の攻撃に よって強いられた戦争の結果,その政府およ び国民の被った一切の損失及び、損害について は, ドイツおよびその同盟国にあることを断 定し, ドイツはこれを承認する Jと述べ,第 一次大戦の戦争責任をドイツおよびその同盟 国に一方的に帰してしまったことであった (ただし敗戦国の指導者の多くを一方的に 処刑してしまった第二次大戦の戦後処理と比 較すれば,ヴィルヘルム二世,ルーデンドル フ, ヒンデンブルクなど当時のドイツの戦争 指導者に対する個人的な戦争責任の追及はあ いまいにされたから,第一次大戦の戦後処理 はまだ「賢明」であったといえる). これに対して,当然のことながら,大戦 中から戦後にかけて, ドイツ政府およびド イツの歴史家たちは,戦争に関する自国の 大義名分を擁護してきた.

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年の統一以 来急速に繁栄してきたドイツ帝国は,その 繁栄をねたむイギリス,フランス,ロシア などの協商国によって政治的,軍事的,経 済的に包囲されてきた,協商国は

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月にドイツに突然戦争を仕掛けてきた,そ れゆえドイツの戦いは「防衛戦争」であっ た, ドイツの対ロシア宣戦布告は7月

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日 にロシアが総動員令を出したことの結果で あり,直接の開戦責任はロシアにある,な ど で あ る . し か し 敗 戦 国 と な っ た ド イ ツ は,ドイツの戦争責任を規定した上記の第

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条を含むヴェルサイユ講和条約を受け入れざ るをえず,少なくとも国際法的には自国の戦 争責任を認めることになった. だが,歴史学上の問題はそれによって解決 したわけではなかった.とくに,当初から自 国の参戦に懐疑的な世論を抱えていたアメリ カ合衆国では,

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年代にはいると,このよ うなドイツの戦争責任論を批判する歴史家た ちが登場してきた.彼らは, ドイツとオース トリア側は戦争をヨーロッパ全体に拡大する ことを望んでおらず,ロシアの急速な動員こ そが戦争勃発の契機となった,イギリスとフ ランスはアメリカに参戦させるために, ドイ ツの「平和的な願望」を意図的に隠匿し ド イツの残虐行為を誇大に宣伝した, したがっ て, ドイツの戦争責任を定めたヴェルサイユ 講和条約第

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条は「歴史的に不正確であり, 道義的に正当化できない J などと論じた. こうした主張を展開した歴史家たちは, ド イツ主犯説を骨子とした「正統的なj第一次 世界大戦論を「見直すJ, I修正する」こと を目的とする「修正主義者 Crevisionists)J と称した.この第一次世界大戦に関する歴史 F D

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的修正主義は,戦勝国の歴史家も含む歴史家 たちのあいだで激しい論争を呼び起こした. さらに,第二次世界大戦後の 1960年代には, ハンブルク大学のフィッシャーが, ドイツは 1914年の戦争の勃発に際して決定的な推進者 であり, ドイツ帝国は一貫して世界帝国にな るという目的を追求していたとする著作を発 表すると,当時の西ドイツの歴史家たちを中 心として第一次世界大戦の戦争責任論をめ ぐって激しい論争が起こった.しかし今日 では,第一次世界大戦をめぐる歴史的修正主 義論争は,沈静化しているようである.第二 次世界大戦に関する歴史的修正主義を「ホロ コーストの否定jとか「ナチズムの美化」と 非難する「ホロコースト史家Jリプシュタッ トでさえも,この第一次世界大戦修正主義に つ い て は 第 一 次 世 界 大 戦 修 正 主 義 者 の 主 張には,歴史的にみて納得のいくところが多 かった. ドイツだけに戦争責任があるわけで はなく,ベルサイユ条約は苛酷かっ報復的内 容を含み,ワイマール政権が崩壊してもおか しくないほどのむごい財政負担をドイツに課 した.フランスには確かに隠れた動機があっ た.アメリカの弾薬産業と銀行家は,戦争で 大儲けした.戦争はヨーロッパに平和をもた らさず,長い間懸念、となっていた紛争を一つ も解決しなかった J(12)と述べている. このように,第一次大戦の歴史解釈をめ ぐる論争は,参戦国双方が自国の大義名分 =正当性を擁護→戦争の終結と戦勝国を中 心とした国際秩序の再編成(ヴェルサイユ 体制)→戦勝国の大義名分の正当化(戦勝 国の歴史解釈がいわゆる「正史」となり, 敗戦国の歴史解釈は「偽史」となる)→戦 後の一定の冷却期間(戦争にまつわる憎悪 の感情の沈静化〉→「正史」への歴史学的 な疑問=歴史的修正主義の登場と論争

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正 史」の再検討と「偽史」の復権)→「正史」 「偽史Jを越えた客観的な歴史叙述の進行 というプロセスをたどってきた.今日では, この論争にさいして,感情的な対立がから んだり,論敵とくに修正主義者に対して人 格的な非難,ひいては政治的,経済的さら には物理的圧力が加えられたりすることは ない. しかし残念ながら,第二次大戦の歴史解 釈をめぐる論争は,

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正史J

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偽史Jを超えた 客観的な学術論争と歴史叙述という段階には 達していない(第二次大戦に関する歴史的修 正 主 義 に 共 感 す る 研 究 者 は 極 右J,

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ネオ ナチ J,

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反ユダヤ主義者」というきわめて政 治的・感情的な言葉でののしられ, しかも, 経済的・物理的な危害も含む圧力を「様々 なJ方面から受ける覚悟をしておかなくては ならないほどである)(13).わが国では,近年, 東大教育学部の藤岡氏の主宰する自由主義史 観研究会を中心に,いわゆる「東京裁判史 観 正 史 」 へ の 批 判 が 高 ま り , 圏 内 の 歴 史研究者,歴史教育者のあいだで「南京事 件Jやいわゆる「従軍慰安婦Jなどをめぐっ て蟻烈な論争がおこなわれているが, この自 由主義史観研究会の主張は,わが国における 第二次世界大戦に関する歴史的修正主義の流 れと位置づけることができる.しかしここ での議論は,大東亜戦争を中心とした日本の 近現代史に限定されており,ヨーロッパでの 世界大戦の歴史解釈にはふれられることは少 ない.それどころか,ややもすれば,ヨー ロッパにおける大戦の歴史解釈については, ニュルンベルク裁判に基づく「正史」の解釈 をそのまま受けいれるという傾向が見られる. だ が , 前 述 し た よ う に 東 京 裁 判 史 観 」 へ の批判は,当然,ナチス・ドイツを「侵略 国」と断罪したニュルンベルク裁判にもとづ く歴史観への批判に進まなくてはならないの である. < 論 点 ド イ ツ は は た し て 「 侵 略 国 」 で あったのか> 両大戦に敗北しヴェルサイユ条約とニュ ル ン ベ ル ク 裁 判 で 断 罪 さ れ た ド イ ツ は 侵 - 59ー

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略国J とみなされてきた. し か し 「 侵 略 国Jあるいは「侵略戦争J という言葉の法律 上の定義およびこれをめぐる神学論争的な議 論はひとまずさておいて, 19世紀以降の国際 関係のなかで, ドイツの歩みをイギリス,フ ランス,アメリカなどの連合国諸国と比較し て,先入観を廃し事実に即して検証してお く必要があるであろう. まず, ドイツは後発資本主義国であり,統 一国家になったのは日本の明治維新よりもの ちの 1871年であった. したがって,海外植民 地獲得に乗り出したのもきわめて遅く,その 領土も狭かった.第一次大戦後は,ヴェルサ イユ条約によってすべての海外植民地と権益 を失っていた(ちなみに, もう一つのドイツ 民族の国家オーストリアはそもそもアジア・ アフリカ地域に海外植民地を持っていない). これに対して,周知のごとく,イギリスとフ ランスは植民地帝国であった.さらに, もと もとは新大陸の東部13州から出発したアメリ カは,土着のアメリカ人(いわゆるアメリカ ・インデ、ィアン〉の土地を収奪しながら新大 陸の西部へ進出し,メキシコと戦ってテキサ ス・カリフォルニアなどの西部地域を奪って, 19世紀半ばには太平洋沿岸に自国領を広げて いった(もちろん,アメリカ合衆国の「正 史」では,このことは「西部開拓」とか「フ ロンティアを求めてJ というように肯定的に 解釈されている).そして,アメリカ合衆国 は, ロシアからアラスカを購入して,太平洋 地域に進出を開始し 19世紀末には,独立国 家であったハワイ王国を武力によって併合し スペインと戦ってフィリピンを植民地とし しだいに東アジア地域において日本と対立を 深めていった. このように見てくると, ドイツは,その勝 利の絶頂の時機においてさえも,たかだか ユーラシア大陸から突き出したちっぽけな半 島であるヨーロッパを支配していたにすぎず, 全地球的見れば,その支配領域と支配下にあ る人口は,連合国諸国にはるかに及ばない. したがって,連合国・戦勝国の「正史Jがも ちいる「善玉・悪玉史観」を援用すれば,エ ジプト人やインド人にとって,ひいてはソ連 の支配下にあったウクライナ人,バルト諸国 の国民にとって, ドイツと連合国諸国とでは どっちが「悪玉Jで あ り 侵 略 国Jであっ たのかははっきりとしている(北アフリカ戦 線ではエジプト人はロンメルのアフリカ兵団 の活躍を歓迎しガンジーとならぷインド独 立運動の闘士チャンドラー・ボースは当初, ナチス・ドイツとの提携を画策していたし 独ソ戦の当初では,バルト諸国の住民,ウク ライナ人,ひいてはロシア人もドイツ軍をス ターリンの圧政からの解放者として歓迎した のである). 次に, ヒトラーが権力を奪取した1933年以 後のナチス・ドイツの対外政策を個々に検討 してみよう. これらの対外政策は,戦勝国の 「正史」の解釈では,侵略戦争を始めるにい たる計画のプロセスとされているものである. まず, 1933年の国際連盟脱退についてであ るが,これはドイツがジュネーブの軍縮会議 で軍備上の平等な立場を要求し,これが拒否 されたために生じた事件である.第一次大戦 後,敗戦国ドイツはヴェルサイユ条約で軍備 の縮少を強要され,それを実行してきたが, 実は戦勝国も国際連盟に加入するにあたって 軍備の縮少を義務づけられていた.その後, ドイツは国際連盟に加入し,ロカルノ条約 などでヨーロッパの集団的安全保障体制が確 立すると, ドイツもその体制の一員となった. したがって, この段階で,ヴェルサイユ条約 がドイツに課していた軍備上の不平等な立場 は当然再考されなくてはならなかったのであ る.ジュネーブ軍縮会議では,イギリスはこ のことに理解を示し軍備上の平等権を要求 するドイツを支持していたが,フランスはそ の国益と安全保障上の見地から,

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年間の 「試験期間」をもうけて, このあいだにドイ

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60-ツが軍縮を実行したならば,軍備上の平等権 をドイツにも認めようと主張した.結局,軍 備上の平等権を認められなかったドイツは軍 縮会議を脱退し,それを主催した国際連盟か らも脱退する.これを受けて,

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年, ドイ ツは,義務兵役制の復活を骨子とする再軍備 宣言を行なうが, これも軍備上の平等権を実 現するという路線に沿ったものであった.こ れに関するヒトラー自身の声明によると, 「ドイツ民族は,その政府においても,また その政党においても,当時は国際連盟および その創設者の平和主義的,民主主義的理想と まったく一致する見解をとってきた. しかし ドイツが条約締結国として,その義務を履行 していた間,それ以外の条約締結国はその義 務を遂行してこなかった.すなわち,条約締 結国である戦勝諸国は,ヴェルサイユ条約の 義務を自分達の方から一方的に破棄していた のである」というのである.ちなみに,たし かに,再軍備宣言以降, ドイツは急速に軍備 の拡充に着手するが,大戦に突入するのはわ ずか 4年後のことであり,実際は,兵員や装 備の面で連合国諸国よりも優位に立っている とはいえなかった帥 第一次大戦後,ザール地方の施政は,ヴェ ルサイユ条約によって国際連盟に委ねられ, そ の 将 来 に つ い て は

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年 後 の 住 民 投 票 に よって決せられることになっていた.

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月の住民投票では,

90%

以上がドイツと の合併に賛同した. したがって,ザール地 方の併合は,ヴェルサイユ条約の観点から しでもなんら国際法に反してはいない. ザール地方はドイツ固有の領土であり,そ の住民は故国に戻ったにすぎない. ヴェルサイユ条約は,フランスの国防上の 観点から,ラインラント地域にドイツが軍事 施設や兵員を置くことを禁止した.当然, ド イツは自国の主権を侵害する,このラインラ ントの非武装化という措置に不満を抱いてい たが,

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年のロカルノ条約によって, ドイ ツ,ベルギー,フランス,イタリア,イギリ スの5カ国によるヨーロッパの集団的安全保 障体制が確立されたという条件の下で,ライ ンラントの非武装化という事態を受け入れて いた. しかし,

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年代半ばになると,フラ ンスはチェコスロバキアおよびソ連と相互援 助条約を結び, ドイツに対する包囲網を作り 上げた.とくに,

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月のフランス・ソ 連相互援助条約は,国際連盟の機構内におけ る相互援助を規定しながらも,両国のいずれ かが第三国の侵略を受けたときには,国際連 盟理事会の決議がなくても,援助義務が自動 的に発動すると定めている.これは,対ドイ ツ軍事同盟であり,第一次大戦前の露仏同盟 の再現にほかならず,ヨーロッパの集団的安 全保障を定めたロカルノ条約に明らかに違反 していた. したがって, この結果, ドイツは ラインラントの非武装化を定めたヴェルサイ ユ条約の規定およびそれを保障したロカルノ 条約を遵守する義務から解放されたといえる. 事実,イギリスは, ドイツによるラインラン トの再占領という事態を前にして, これに抗 議するフランスを表面的には支持していたけ れども,内心では, ドイツが自国の領土の主 権を回復したことを認め,ひいては自国の外 交政策(対独宥和政策〉の成功であると考え ていたのである. 第一次大戦以前にはヨーロッパの5大列強 の一つであったオーストリア・ハンガリ一二 重帝国,いわゆるハプスブルク帝国は敗戦と サンジェルマン講和条約によって解体され, オーストリアは領土を縮小され,経済的にも 破綻した弱小国となっていた. この結果,か つてはドイツの統一めぐってプロイセンと覇 を競い,それなりの国家的な自尊心を持って いたオーストリアは,同じドイツ民族の国家 であるドイツとの合併を志向するようになっ ていた(I日.オーストリア共和国国民議会は 「オーストリアはドイツの1構成部分」であ ると決議しているしヴァイマール共和国憲 -

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61-法 も ド イ ツ 系 オ ー ス ト リ ア 人 は ド イ ツ と の合併後, ドイツ国民議会に参加する権利を 与えられるべし J と規定している. ヴェルサイユ講和条約は民族自決権の理想 を掲げ, この結果,多民族国家が解体して, ポーランド,チェコスロヴァキアなどの国々 が誕生したが,問題は,この民族自決権をド イツ民族だけには認めなかったことである. 周辺諸国家にとって,強力なドイツ民族の統 一国家の誕生が国益上脅威であることは十分 理解できるとしても,ヴェルサイユ条約とサ ンジェルマン条約がドイツとオーストリアの 合併を禁止したのは,明らかに二重基準であ り , ドイツ民族にとっては不公平な扱いと 写ったのも当然である. ドイツでナチス党が政権を握ると,オース トリアでも, ドイツとの合併を望むオースト リア・ナチス党が勢力を伸ばし国民の支持 を集めつつあった. したがって,オーストリ ア政府のナチス化→ナチス・オーストリア の成立→オーストリアの衛星国化→ドイツ とオーストリアとの合併という流れが, ごく 自然となっていた.事実,みずからもオース トリア人であり, ドイツ民族の統一国家の結 成 を 念 願 し て い た ヒ ト ラ ー も オ ー ス ト リ ア問題は革命によっては決して解決されない. .・・私は過激な手段による解決ではなく, 改良的な方法が取られることを望んでいる J とややもすれば武装蜂起などの急進的な手段 に訴えようとするオーストリア・ナチスの指 導者に諭している(6).ところが,オーストリ ア政府首相シューシュニクは,合併へと向か う自然な流れを阻止しようと,合併の是非を 問う国民投票の実施するという博打にでた (この方針は,イタリアのムッソリーニ

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これは(国民投票の提案)は誤りであ るJ)にも,イギリスのチェンバレン首相

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シューシュニクは軽率で愚かな行動を起 こした J)にも賛同されなかった.それまで, 漸進的な方法ですみやかに合併を達成しうる と考えていたヒトラーは,

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日に ドイツ軍をオーストリアに進駐させた. この ドイツ軍のオーストリア進駐は,オーストリ ア国民の大歓迎を受けた. ドイツ軍は歓声と 花 束 の な か で 行 進 し ド イ ツ 軍 は オ ー ス ト リアに侵入した.というよりも住民の全面的 な熱狂のなかを進軍した Jo71という有り様で あった.

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日の国民投票では,

99%

が合 併に賛成したのである. 戦後,オーストリアはナチス・ドイツへの 共感と協力を極力否定し自分たちはむしろ ヒトラーの侵略の犠牲者であると主張してき た.戦勝国による「正史」のなかで,犯罪的 侵略国家と断罪されたナチス・ドイツ

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世紀最大の極悪人」との熔印を押されたヒト ラーとの協力関係を否定しようとする主張は, 自国の生き残りと国益を考えたオーストリア の立場を考えると理解できないわけではない. しかし合併当時,オーストリア人がドイツ の合併を熱狂的に歓迎した事実,ひいてはド イツの戦争政策に積極的に協力した事実は否 定できない(]日. オーストリア・ハンガリー帝国の解体に よって生まれたチェコスロヴァキアは,一見 チェコ族とスロヴァキア族というスラヴ族の 国家であるかのように見えるが,その実, 複雑な民族的な対立を抱えた多民族国家で あった.

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特に全人口の

23.3%

を占めていた ドイツ人は(チェコスロヴァキア国民議会に 一一引用者)代表を送っていず, ドイツ人 は共和国に非協力的な態度を保持しつづける ことになった.Jω とりわけ, ドイツとの国 境地帯に帯状に広がるズデーテン地方は,歴 史的にも地理的にもドイツ圏に所属しており, この地域の人口の

98%

をしめるドイツ系住民 は当然にも,チェコからの分離とドイツとの 合併を望んでいた. したがって, ドイツがズ デーテン地方の割譲を要求し始めると,イギ リスもこのドイツの要求には歴史的な根拠が 十分にあるとみなしていたのである. ドイツ

(9)

-チェコ関係が緊張し戦争の危機が高まる と,イギリス首相チェンバレンは,みずから ドイツに赴いて,ズデーテン地方の割譲を承 認しこの件についてチェコ政府に働きかけ るとまでヒトラーに約束している.イギリス, フランス両国は,チェコがズデーテン地方を ドイツに割譲しなければ, ヨーロッパの平和 もチェコの国益も維持できなくなるとの共同 勧告書をチェコ政府に突きつけたのである. イギリスとフランスの主導のもとでズデーテ ン地方をドイツに割譲するという路線の完成 が. 1938年 9月30日のミュンへン協定であり, ここでは,調印したドイツ,イギリス,フラ ンス,イタリアが割譲の実行について責任を 負うとされたのである. ミュンヘン協定では,ズデーテン地方が分 離した後のチェコスロヴ、ァキアの残った領土 については,保全されることが定められてい た.ところが,この分離によってチェコ中央 政府の権威は失墜し ドイツ人以外の圏内少 数民族の分離独立活動も活発となった. こう したチェコの国家的な解体状況に乗じて, ポーランドが軍事侵攻を企てて,テッセン地 方を併合しハンガリーもスロヴァキア併合 を企てようとした.スロヴァキアは独立を宣 言しチェコ政府はスロパキア,ハンガリー, ポーランドによる併合を恐れて, ドイツに保 護を求め, ここにチェコスロヴァキア共和国 は解体して,チェコ部分にはボヘミア・モラ ヴィア保護領が成立しスロヴァキアはドイ ツの保護国となった.イギリスとフランスは, チェコスロヴ、ァキア自体の解体とミュンへン 協定違反に憤激し,いわゆる「対独宥和政 策」からの転換へと向かうが,ズデーテン地 方の割譲を認めれば,チェコスロヴァキアと いう脆弱な多民族国家が解体へと向かうのは, 自然の成り行きであったといえよう(だから こそ,チェコ政府はズデーテン地方の割譲に 必死に抵抗しようとしたので、ある).さらに, 中世以来の長い f中欧史」という歴史的なス パ ン で 見 れ ば ボ ヘ ミ ア を 保 護 国 化 し た こ とには,計画的なものはなく,邪悪な動機も なかった. ヒトラーは革命的であったとされ るが,たんにもっとも保守的な方法で前世紀 の行動様式に戻ったにすぎない.ボヘミアは ずっと神聖ローマ帝国の一部で、あり. 1815年 から 1866年まではドイツ連邦の一部であった. そして 1918年までは, ドイツ系のオーストリ アと結び付けられていた. こうしてチェコ史 では,従属ではなく独立が珍しいことであっ た.

J

(

扮さらに,ソ連と相互援助条約を結んで いるチェコの首都プラハからベルリンまでは 飛行機で 1時間半であり,チェコにソ連の航 空基地が設置される可能性があったという, ドイツの国防上の観点も考慮しておく必要が あるであろう. オーストリア併合とチェコスロヴァキアの 解体によって,ヴェルサイユ条約の結果, ド イツ系住民が圧倒的多数を占めながら, ドイ ツ本国とは切り離されている地域は, リトア ニア南西部のメーメル地方とポーランド回廊, ダンツィヒだけとなった.いずれも, リトア ニアとポーランド両国に海港,海への出口を 与えるために割譲された地域であるが, この 結果,東プロイセンがドイツ本国から切り離 された「飛び地jとなるというきわめて不自 然な状態が生じていた. リトアニア国家のなかでメーメル地方は自 治体となっていたが,その議会ではドイツと の連携・合併を支持する議員が圧倒的であり, リトアニア中央政府もこの地方を領有する歴 史的根拠がないことを熟知していた. 1939年

3月2

2

日, リトアニアはメーメル地方の割譲 を承認した. 残されたのは,ポーランド回廊とダンツィ ヒであった. ダンツィヒは歴史的に見ても,まったくド イツの町であり,住民の大半はドイツ人で あった.また,ポーランド回廊は東プロイセ ン地方をドイツ本国から切り離していた.さ - 63ー

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らに,ポーランドに在住するドイツ人は少数 民族として, しばしば不利な立場に置かれ, 迫害を受けていた. ドイツ国民の関心は, オーストリアとかチェコスロヴァキアのドイ ツ系住民よりも,むしろダンツィヒとポーラ ンド回廊のドイツ系住民の運命に向いており, このドイツ国民の関心を背景にナチス・ドイ ツがダンツィヒとポーランド回廊の返還を要 求したとしても,それはきわめて自然であっ た.実際,オーストリア併合,ズデーテン地 方の併合と比べても,このダンツィヒとポー ランド回廊返還の要求は,とりたてて「過酷 な」要求ではなく,オーストリアとズデーテ ン地方の併合を積極的に認めたイギリスが, この要求を否定する根拠はないしのちに, イギリスがドイツに対して宣戦布告した後で も ,

r

なぜダンツィヒのために戦わなくては ならないのかJという非戦的な気分がイギリ ス国民のあいだに広く存在していたほどで ある. また, ドイツの要求は,ポーランド側がダ ンツィヒを返還し東プロイセンとドイツ本 国とを結ぶ鉄道と自動車道路をポーランド回 廊に建設することを認めてくれれば, ドイツ 側はポーランド回廊とポーランドの西部国境 を保障するという,きわめて寛容なもので あった. これは,ヴェルサイユ条約による ポーランド領をほぼ承認するという意味で, ポーランドには有利な条件であった. ヒト ラーは,ポーランドとの関係を改善して,ソ 連に対抗する同盟をポーランドとのあいだに 結ぼうとしており,オーストリア問題,チェ コスロヴァキア問題でのイギリス・フランス の動きからしても,ポーランド側は譲歩する ものと考えていた(21). だが, このヒトラーの思惑は誤算であった. ポーランドは, ドイツには寸分の譲歩もしな いことを決意しており, ドイツ側がダンツィ ヒの現状を変更しようとするならば,それを 「開戦理由J とすると声明した.ポーランド はチェコスロヴァキアの二の舞いになるまい と考え,軍事的にも自らの力を過信していた (ドイツがポーランドに侵攻したとき,ポー ランド軍は防衛よりも,むしろ逆に反撃して ベルリンに進撃しようとまで考えていたこと は良く知られている).さらに,前述したよ うに,ズデーテン地方の割譲を認めれば, チェコスロヴァキアという多民族国家の解体 は必然的であったにもかかわらず,この解体 によって「裏切られた」と感じたイギリスの チェンバレン首相は,ポーランドの軍事力を 過信して,ポーランド政府を支援することを 表明しポーランドとの相互援助条約を結ん でしまった.ただしイギリスは表面的には ポーランド支援を表明していても,実際には, ポーランドのためにドイツとの戦争に突入す ることをためらっており,駐ポーランド・イ ギリス大使ヘンダーソンを介して, ドイツと の和解交渉に入ることを9月 1日直前まで, ポーランド政府に働きかけている. 1939年9月 l日, ドイツがポーランドに侵 攻したことで,同国と同盟条約を結ぷイギリ スとフランスは道義的にはドイツに即座に宣 戦布告すべきであり,ポーランド政府はその ことを懇願した.しかしイギリス,フラン ス両国がしたことは,厳重な抗議をドイツに 申し入れただけであり(しかも,当初は回答 期限をつけないで),イタリアのムッソリー ニがミュンへン会談のときのようなヨーロッ パ会議を提案してきたときには,それに希望 をかけようとした(とくに,フランスは, ド イツに対して強硬姿勢をとることに反対であ り, ドイツ軍がポーランドでの軍事行動を中 止すればポーランド問題に関する5カ国会議 を開催するという路線に固執していた.) 9月 2日になっても,チェンバレン首相は

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5カ 国会議はドイツ側の撤兵回答が未着のために 難航しているJと述べているが,結局,チェ ンバレン首相は議会内の強硬派に押され 9 月 3日 に ド イ ツ に 宣 戦 布 告 し フ ラ ン ス も '-64

(11)

-遼巡しながらもイギリスに続いて宣戦布告 した. 国際連盟脱退からポーランド侵攻にいたる 諸事件において,ナチス・ドイツの行為は 「侵略的」であったのか,あるいは「侵略戦 争」を準備したものであったのか.既存の国 際秩序を軍事力を使って変更しようとしたこ とを「侵略」と呼ぶのであれば, ドイツの行 為は,軍事力を背景とした一連の桐喝外交ひ い て は 軍 事 力 に 訴 え た と い う 意 味 で 侵 略 的」と呼ぶことができるかもしれない. しか しこのような「侵略行為Jによってドイツ が獲得した成果は,第一次大戦で失ったドイ ツ領あるいはドイツ系住民が圧倒的な地域 (ザール,ラインラント,オーストリア,ズ デーテン地方,メーメル,ダンツィヒ,ポー ランド回廊)を「失地回復Jしたことであっ た.これを「侵略的J と呼べるのであろうか. 第二次大戦は第一次大戦の継続であった. もとをたどれば,

1

8

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年のドイツ帝国の成立 によって,それまでイギリス,フランス,プ ロイセン,オーストリア,ロシアの5大強国 の勢力均衡に基づくヨーロッパの国際秩序 (1

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世紀の前半から中頃にはウィーン体制) が崩れたとき,強いドイツ帝国を覇権国家と してヨーロッパの国際秩序を改造するのか, それともこのドイツ帝国を弱体化する方向で ヨーロッパの国際秩序を改造するのか,どち らの路線を選択するのかという問題にヨー ロッパは直面した.第一次大戦では, ドイツ が敗れ,後者の路線が勝利を収め,これが ヴ、ェルサイユ体制となった.しかし敗戦の 混乱から急速に立ち直ったドイツは,この大 戦で失ったものを取り返しヴェルサイユ体 制=改造されたヨーロッパに再挑戦しようと した.これが第二次大戦であった. しかし ドイツは再度敗北し今度は領土の縮小だけ ではなし東西に分割されて,互いに敵対す る国家に分断された.つまり,イギリス,フ ランス, ロシア,アメリカという連合国諸国 はその軍事力によって, ドイツを

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年のド イツ帝国の成立以前の段階に押し戻したので ある.もしも,連合国による「正史」を

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度回転させた観点、から,

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年のサライェ ヴォ事件から

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年のドイツの占領・分割に までいたる諸事件を眺めた場合,連合国の戦 争行為と戦後処理の方をはるかに「侵略的J とみなすこともできるのである.そして,今 日,自分の故郷ともいえるプロイセン地方の 大半を失ったドイツが,再び「失地回復」を 目指して軍事力に訴えた場合,それもまた 「侵略Jとして断罪されるのであろうか. (以下次号〉 注 (1) フランスの人権宣言第8条 は 法 律 は 厳格かっ明白に必要な刑罰のみを定めな くてはならず,何人も犯罪に先立つて制 定公布され,かっ適法に適用された法律 によらなければ,処罰されないj と述べ ている人権宣言集~,岩波文庫, 132 頁. (2) これに対して,東京裁判ではインドや フィリピンなどの中立国からも判事が召 請されているが,中立国インドのパル判 事が,いわゆる「日本無罪論」と展開し たのは周知の事実である.さらに,ニュ ルンベルク裁判の検事側スタッフ(取り 調べ官その他)のなかには,ユダヤ系出 身者が多く,このために,裁判は「復讐 裁判」的な色彩を一層強くしたという指 摘もある.ニュルンベルク裁判の継続裁 判の裁判長を勤めたアメリカ高裁の判事 は 私 は7ヶ月前に,今日私の知って いることを知っていたら,ここ(ニュル ンベルク)へは決して来なかったであろ う.この法廷を開く際,指導思想として 告示された高遁なる理想は,実現されな かった.検察当局は,有罪判決を求める 個人的・野心的な努力や復讐心に影響さ -

(12)

65-れ,客観性を維持することを怠った.こ この全体的空気は不健康である.ついこ の近年アメリカ市民になったもの(主と して亡命ユダヤ人をさす)が,司法関係 者,書記,尋問官として働いていた.こ れら人々の個人的過去は, ヨーロッパへ の憎悪感情と偏見にとらわれていた」と 述 べ て い る . マ ー ザ ー 著 , 西 義 之 訳 『ニュルンベルク裁判~, 1979年, TBS ブリタニカ, 443頁. (3) マーザーはこの点についてこう指摘して い る し か し ニ ュ ル ン ベ ル ク で 敗 れ た ドイツを裁く席に座った署名団の一つ, ソ ヴ ィ エ ト が 一 被 告 た ち と 同 じ く -(ポーランドに対する)侵略戦争を準備 し 1939年 9月半ばからその戦争を遂行 しただけでなく,さらに加えて 1939年12 月14日,イギリスとフランスの発議で, ソヴィエトはフィンランド攻撃を理由と してすでに国際連盟から追放されていた こと,そしてロンドン協定調印の日,す なわち 1945年8月8日,日本に対して宣 戦布告を行なったこと-これらはニュ ルンベルクでは黙殺されてしまった. ソヴィエトはポーランド,フィンラン ド,日本に対して明々白々な侵略戦争を 行なったが,このことはニュルンベルク で、は何一つ疑いをだしはさまれることも なかったしついに罪を問われることも なかった.いやそれだげではない.共犯 者が,なんとかつての共謀者を裁く法廷 に出ていたのであって,これはもしナチ スとソヴィェトの裁判実態を例外とする と,近代のあらゆる司法体系において想 像を絶する出来事であった.Jマーザー, 前掲書, 403-404頁. (4) 弁護団の証人や援助者は,ときどきこ ろあいをみて,また執勧に脅迫を受けた りして,強引に出廷させてもらえなかっ たり,あるいは退廷させられたりするこ とも珍しくなく,さらには自分たちの声 名を検閲されたり,押収されたりしたう えで,検察側の証人にされたりした. 1946年 5月なってやっと刑務所入りを したオスワルド・ポールは,アメリカお よびイギリス役人から尋問を受ける際, 椅子に縛りつけられ,意識を失うほど殴 りつけられ,足を踏まれ,ついにワル ター・フランクの有罪を証明するものを 文書で出すと約束するまで虐待された. アルフレード・ヨードルが指名した証人 は19名のうち,時間がないという理由で, わずか4人しか法廷で発言できなかった. ナチス親衛隊カール・ヴォルフ将軍は, エルンスト・カルテンプルンナーのため に証言しようとしていたが,あっさり精 神病院に入れられてしまった. これに反して検察側によって証人やそ の文書の申し立てを適切とみなされたと きはいつも,それらは法廷では自由に使 用することができた. しかし検察側の一 定の証人たちが,ややもすると,弁護団 側の反対尋問にもちこたえられそうもな いと判断されると,検察側や法廷は単な る宣誓供述書で満足するのだった. この 種の宣誓供述書は,裁判の経過中に,数 千通も書かれたのであった.Jマーザー, 前掲書, 150頁.

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5

)

ちなみに,ソ連側によって偽造されたカ チン事件についての報告書に署名したソ 連調査団のメンバーであるアカデミー会 員ブルデンコと総主教ニコライは,のち にアウシュヴィッツ調査団のメンバーと もなっている. (6) 戦争終結直前の 1945年4月以降,野ざ らし不衛生な環境,病気,飢餓がもと で,膨大な数のあらゆる年齢層の男たち に加えて,女子供までが,フランスの収 容所で死んだ.その数は,確実に80万を 超えたし 90万以上であったこともほぼ -

(13)

66-確実であり, 100万を越えた可能せいす ら十分にある.捕虜の生命を維持する手 段を持ちながら,あえて座視した軍に よってこの惨事は引き起こされた.救他 団体の救援の手は米軍によって阻まれた. 真相は隠され,赤十字やル・モンド, フィガロには虚偽の情報が与えられた. そして,記録の破棄や改憲が行われ,あ るものは秘密のファイルに入れられた. このようなことは今日にいたるまでつづ いている.Jジェームズ・バクー著,申 橋昭訳『消えた百万人~, 1993年,光文 社, 11頁.

(7) J ames Bacque Answers a Critic,

http://www.kaiwan.com/....-.ihrgreg/ ihr/misc/bacque_letter .html (8) ナチスに批判的で,連合軍による「解 放」を待ち望んでいたルート・アンド レーアス=フリードリヒでさえも,ベル リンでの、ノ連兵の暴行についてこう記し ている.

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((やつらはわれわれの娘を凌辱 した.やつらはわれわれの妻に暴行を加 えた》と男連中は怒っている. ((一度な らず,いや六度も,いや十度も二十度 も》街では,他の話題はない.そして, 他の思念もない.自殺の気分があたりに 漂っている.娘たちは屋根裏に隠され, 石炭山を掘ってその中に隠され,老婆の ように変装させられている.ほとんど誰 一人,寝るべき場所に寝ていない. ((名 誉を失ったのは,すべてを失ったこと だ》とある錯乱した父親は言い,十二度 凌辱された彼の娘の手に綱を一本渡した. 従順な娘はそのまま行なって,最寄りの 窓の鉄の十字仕切りに綱をかけ,首をく くった. ((凌辱されたら,死ぬしかない のよ》と,敗戦の二目前,女教師が女生 徒ばかりのクラスに言った.女生徒たち の半分以上がこの命令をそのまま実行し 最寄りの川に身を投じて辱めをそそいだ. 名誉を失うのは,すべてを失うこと.服 毒あるいは拳銃,綱あるいは刃物.何百 人という娘たちが自殺したのだった.J ルート・アンドレアス=フリードリヒ 著,飯吉光夫訳『舞台・ベルリン,あ るドイツ日記1945/ 48~ ,朝日イブニン グニュース社, 1986年, 27頁.

(9) Cf., The Fate of German Civilians 1945 -1950. Paper for the Thirtieth Annual Conference of the N orthern Great Plains Historians, Brandon, Manitoba, September 27/30, 1995. (10) 例えば,正統派の「ホロコースト史家」 デ ボ ラ ・ リ ッ プ シ ュ タ ッ ト は 戦 時 中 の噂とは違って,ナチスはユダヤ人の死 体を石鹸生産用に使っていなかった」と, また,いわゆる「ホロコースト修正主 義Jを厳しく批判するテイル・パスティ アンも「戦争中に配給された石鹸に刻み 込まれたRJFという文字が『ユダヤ人 の純粋脂肪 CReinesJuden Fett) ~を 意味するのだ,というような第三帝国で 広まっていた『噂』は,たしかに事実に 沿うものではない」と述べている.また, やはり正統派の「ホロコースト史家Jの ラウル・ヒルパークも,カナダでのツン デ ル 裁 判 で の 証 人 と し て 手 短 に 答 え れば,私は,人間の脂肪から石鹸がつく られたということを信じていなし、Jと述 べている.デボラ・リップシュタット著, 滝川義人訳『ホロコーストの真実~

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下), 1995年,恒友出版, 129頁.テイル・バ ス テ ィ ア ン 著 , 石 田 他 訳 『 ア ウ シ ュ ヴィッツとアウシュヴィッツの嘘~ 1995 年,白水社, 211頁. http://www. webcom.com/ .-..." ezundel/english/ dsmrd/ dsmrd09hilberg .html

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第一次大戦および第二次大戦に関する 「歴史的修正主義Jの流れを,批判的に 整理したものとしてリップシュタット, -

(14)

67-前掲書(上),第2章「歴史の見直し J, 「歴史的修正主義Jの立場から整理した も の と し てH.E.Barnes,ThePublic Stake In Revisionism ,http://www . kaiwan.com/ "'-'ihrgreg/ihr/jhr/v01 / v01p205-Barnes.htmlがある. ( 12) リップシュタット,前掲書(上), 96頁.

ω

例えば, リ ッ プ シ ュ タ ッ ト は 歴 史 的 修正主義」に共感を寄せるイギリス人の 歴史家デ、ィヴィッド・アーヴインク守につ いて「ナチ総統の熱烈な崇拝者である アーヴィングは机の上にヒトラーの写真 を飾り, ヒトラ一山荘の訪問を聖地巡礼 と称し・・・ J(リップシュタット,前 掲書(下), 79頁)というような表現を 使っているが,こうしたいわば人格的な 非難は,学術論争とは無縁であろう.ま た, ドイツの歴史家論争のなかで第三帝 国 時 代 の ド イ ツ 史 の 「 修 正J,

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見直 し」を提唱したベルリン自由大学教授エ ルンスト・ノルテ (ErnstNolte) は 1988年に自動車を放火されているが,そ の犯行声明は,ノルテが「ファシズムと ドイツ連邦共和国の連続性」を代表して お り 反 動 的J

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反共的」な「アカデ ミー自由連盟」の一員であるので攻撃し たと述べている.さらに,いわゆる「ホ ロコースト修正派Jに対する圧力ひいて は弾圧は,わが国での「マルコポーロ」 誌廃刊事件にも見られるように,世界各 地で生じている.

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マルコポーロ」誌廃 刊事件をめぐる詳細については,当事者 で あ る 西 岡 昌 紀 氏 の 著 書 『 ア ウ シ ュ ウィッツ「ガス室」の真実~,日新報道, 1997年を参照していただきたい. (14) ヒトラーがラインラント進駐,ウィーン 進駐などの軍事的冒険に乗り出そうとす るたび、に, ドイツ国防軍の首脳はドイツ の軍事的劣勢を理由に, ヒトラーの方針 に懐疑的な立場をとった.A.J:Pテイ ラ ー は ド イ ツ の 軍 事 力 に つ い て 戦 争 勃発直前のヨーロッパは, ドイツの軍事 力の影に脅かされていた.だが,そのド イツの軍事力は常に誇張されていたので ある.英国の情報機関は, ヒトラーに反 感を抱いているドイツの将官から多くの 情報を入手していたが,彼らはいつでも ドイツの再軍備の規模を実際の2倍以上 に見積っていた.たとえば, 1938年に英 国空軍参謀本部は,前線で使用可能なド イツ航空兵力は英国の 2倍であり,また 航空機の生産数も将来英国の2倍となる であろうと報告している.また,民間の 権威ある機関では戦争の最初の2ヵ月間 に死者は60万人に達すると見ていた. し かしながら実際には, 1938年にドイツの 前線に配置されていた航空兵力は,英国 のそれより 60%多いにすぎず,予備兵力 は英国より劣っていたのだ.英国の航空 機生産数は1938年中にドイツを凌いでい た.また,第二次世界大戦中に空襲で死 亡した英国人の数は 6万人にすぎなかっ たので、ある. ドイツは,単独爆撃行に用いる航空機 を保有しておらず,またそうした戦略を 持ってもいなかった. ドイツ空軍は地上 軍と協力して戦闘に参加するよう構成さ れていたのである.ヨーロッパ各国の空 軍の中で,戦略爆撃の有効性を認めてい たのは英国空軍のみであった一ーもっ とも,それを実行に移すための航空機か 量的にも質的にも準備できたのは1944年 になってからのことではあったが. この ように,英国は自らが作り上げたドイツ の脅威に不安をおぼえ,また同時に,実 際はありもしない自分たちの力にすがっ ていたのだj と述べている.

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テイラー著,古藤晃訳『第二次世界大 戦~,新評論社, 1981年, 31-32頁. ( 15) 今来陸郎編『中欧史~,山川出版社, 111 頁. -

(15)

68-(16) A.J.P.テイラー著,吉田輝夫訳『第二 次世界大戦の起源~ ,中央公論社, 1977 年,136頁. 仰向上,

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頁.

U

8) ナチス・ドイツのエリート集団であった 親衛隊では,オーストリア人の比率は総 人口に占める割合に比して高かったとい う.ジョン・ヴイツ著,久保田誠一訳 『ヒトラーの外交官~ ,サイマル出版社, 1992年, 157-162頁を参照していただき fこL¥ U9) 矢田俊隆編『東欧史~,山川出版社, 361 頁. 側テイラー w第二次世界大戦の起源~ , 239-240頁. (21) もしも,この地域がこれまでのように 「平和的に」 ドイツに割譲されれば, ド イツはヴェルサイユ条約で失ったいわば 固有のドイツ領をほぼ「失地回復」した ことになる. したがって, ドイツが軍事 的な手段に訴える必要は消滅し少なく とも, 1939年9月の時点で, ドイツの ポーランド侵攻に端を発する第二次大戦 は起こらなかったかもしれない. -

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