著者 根津 朝彦
雑誌名 社会科学
巻 42
号 1
ページ 179‑208
発行年 2012‑05‑31
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012796
多田道太郎の思想形成
─ 戦後思想の萌芽 ─
根 津 朝 彦
本稿は,多田道太郎研究がない状況に鑑み,彼の膨大な著作から自伝的記述を批判 的に再構成し,多田の学生時代までの思想形成を初めて明らかにするものである。
具体的には時期ごとに彼の体験,交友,思想的影響の在りようを検討した。幼少期 から軍隊時代まで通底するのは多田の不器用な資質であり,それが転じて彼の独自の 着想・学問観につながっていく。一方,京都での都市文化の摂取が多田の『複製芸術 論』の原点となる。
思想形成においては第三高等学校時代が最も重要である。そこでフランス語と文学,
生涯に渡る出会いがあったからである。戦時下の東京帝国大学では勤労動員などで学 問に専心できず,軍隊では数々の暴力に苦しみ,屈辱の記憶を刻印される。敗戦後に 改めて京都大学に入学し,そこで多田の戦後の再出発が準備される。
本稿の射程は,多田個人の思想に限定されるものではなく,そこから京都大学人文 科学研究所と『思想の科学』の相互作用,京都知識人の群像に迫る基盤研究を構築す るものである。
は じ め に
多田道太郎(1924 〜 2007 年)はフランス文学研究から出発し,コミュニケーション論 を軸に『複製芸術論』(勁草書房,1962 年),『しぐさの日本文化』(筑摩書房,1972 年),
『遊びと日本人』(筑摩書房,1974 年),『風俗学』(筑摩書房,1978 年)に代表される幅 広い発想先行型の仕事を広げ,京都大学人文科学研究所,『思想の科学』,日本小説を読 む会,現代風俗研究会といった知のネットワークの実相を探る上でも重要な知識人の一 人である1)。基本的なテキストとして『多田道太郎著作集』全 6 巻(筑摩書房,1994 年,
以下著作集と略記)2)が刊行されているが,意外なことに多田を本格的に研究したものは 皆無である3)。
唯一,基礎的な作業を果たしたものとして,「多田道太郎著作目録」があり,この労作 によって大方の著作の存在を確認することができる4)。また直接的な多田研究は存在しな
いものの,著作集の月報・解説対談,著作集刊行に際してのシンポジウムの記録5),多田 の著作の文庫版解説,多田の著作に対しての書評,多田の訃報に際しての追悼文といっ た関連文献から多田の人物像と仕事がどのように位置づけられてきたのかを参照するこ とができる。
このような先行研究の空白に鑑み,本研究では,多田の思想内容を詳しく分析する前段 階として彼の思想形成を丹念に再構成することを主眼とする。分析対象は,多田の戦後 思想の萌芽を探るため,1949 年 3 月に京都大学を卒業する学生時代までを扱い,彼の思 想形成を時期ごと(幼少期,中学三高時代,東大入学,軍隊時代,京大在学期)に掘り 下げる。多田自身にはまとまった自伝的著作はなく,著作集 6 巻に所収の戦争時代を回 想した「戦争をどう通ったか―豆自分史」があるだけである6)。ただし『ことわざの風 景』(講談社,1980 年,著作集 3 巻所収)を始め自伝的記述を散発的に含む文献も少なく ない。従って,多田の思想形成を探る手段として,多田以外の関連文献とつきあわせなが ら,著作集に未収録の文献にも手広くあたり自伝的言及を集積・検証する方法をとる7)。
本研究は,戦後日本の知識人の思想史研究に布置するものであり,全体的な見取り図 を示す研究は進展している8)。しかし,個別の知識人研究に視点を移せば,その蓄積は薄 く,しかも丸山眞男,竹内好,鶴見俊輔といったいわば「大知識人」ともいえるような一 部の知識人研究に偏重する傾向は否めず,そうした動向は戦後日本の知識人の多様な個 性に迫りえているとは言い難い。今田剛士は,「市民社会派」の知識人とは異なる大熊信 行を取り上げ,これまでの研究が「戦後の思想空間の重層性を立体的に抽出」できていな い点を指摘しているが9),本稿もそうした課題に取り組む系譜に連なるものといえる10)。 さらに本研究は,戦後日本の「論壇」に強い影響を及ぼした京都大学人文科学研究所(以 下,京大人文研と略記)の知識人群像の解明を進める基礎研究の意義をも有するもので ある。
1 幼 少 期
多田道太郎が京都大学を停年退官してから簡単な「略歴・著作目録」が作成されてい る11)。そこには小学校の記載と,中学校以上の学歴の入学年月が記されておらず,情報 が不足しているが,基礎データとなるものであり,以下の学歴の記述もその略歴を参照 した。
また多田の著作から自伝的記述を引く際に気をつけなければならないのは,多田自ら
が歴史意識に比較的疎い面を述べており12),実際に記述を引き合わせると厳密ではない 部分も見られる。従って,多田が具体的な年月を記している箇所も多少の誤差はありえ,
事実確定には注意が必要であることを冒頭に記しておく。
まず多田が小学校を卒業する時点までを幼少期とし,その足取りを追う。多田道太郎は 1924 年 12 月 2 日に京都で生まれる。多田が述べるように「満年齢と昭和の年号が一致す る」(6 巻 361)。では彼はどのような家族のもとに生まれたのであろうか。その情報は限 られている。多田の両親が具体的にどのような学歴・職業・人柄であったのか文献では ほとんど確認できない。父は多田嘉一郎(出生年不明,1983 年 7 月 19 日死去),母は多 田シナ(出生年不明,1980 年 10 月 15 日死去)という13)。多田には弟がいたようである
(山田談。5 巻 273 も参照)。
道太郎の叔父には,茶人で著書もある多田侑史(1915 年生まれ)がいる。時期は敗戦 直後の頃と思われるが14),多田はその叔父に同行し,奈良の「大和の山奥」にまで(下 記の三原藩以前の)先祖のルーツを探った小文があり,そこには「わたしの家は,御一 新のとき,大阪の商家へ入り多田と名のったが,それまでは三原藩の下級武士で勝原と いった。わたしの近い御先祖である」と書いている(4 巻 345。6 巻 363 〜 364 も参照)。
以下,多田の出生から順にわかる範囲で記載していく。多田は本によって,京都・大 阪・神戸と出生地が異なって書かれることがあるのは,生まれは京都,家業の店は「大 阪商人」,育ちは神戸であることに由来すると述べている。多田は 1924 年 12 月 2 日,母 の実家である「京都の下京」で粉雪の降る日に生まれた。そこで 1 週間ほど過ごし,父 方の祖父の家がある兵庫県の本山村(現在の神戸市東灘区の岡本)の家で育つ15)。叔父 の多田侑史は,大阪本町の「老舗の繊維問屋の家督継承者」とあるので16),道太郎の父 もその繊維問屋に従事していたのではないかと考えられる。
多田の祖父は 1918 年頃,本山に家を建て,その隣に 4 軒貸家をもち,1924 年にその うち 2 軒を谷崎潤一郎が借り,谷崎は多田道太郎が生まれた時に産着を祝いで贈ったと いう17)。多田はそこで 5 歳まで育ち18),その後は京都に引っ越して以降は京都で過ごし たと思われる19)。多田の祖父は 1872 年生まれで,日中戦争時には新聞の見出しを声に出 して読み,「皇軍堂々南京入城,ウン!」といったことを多田は記憶しており20)。戦前,
「祖父は膳で,それ以外の家の者はちゃぶ台で,そして使用人はまた膳で,というふうに 三段階になっていた」という(5 巻 58)21)。多田が京都に引っ越してからの実家がどこで あるのかは不明であるが,戦後に居住した京都市上京区(現在は北区)紫野東野町の可 能性が高い22)。というのも「私の子どものころ,氏神さまは京都の今宮神社だった」と
いう記述が見られ23),子ども時代の記憶として紫野からそう遠くない千本日活の映画館 に行き24),北野天満宮の縁日(2 巻 273)のことが書かれているからである25)。
それでは以下,具体的に小学校頃の時代について見ていくことにする。多田は,子ど も時代のことといった言及が多く見られるが,「ぼくの子供のとき(昭和一ケタ台)」と 書いているように(3 巻 240),それが小学校時代の大半と重なっているといえる。どこ の小学校に通ったのかは定かではないが,5 歳で引っ越したのならばそれは京都の小学校 であり,中学校の修了年月から逆算して,小学校は 1931 年 4 月に入学し,1937 年 3 月に 卒業したものと思われる。
この時期は,細かく時期を確定することは難しく,多田の後の思想形成の萌芽となる 2 つの記述に着眼する。すなわち,多田自らが「物くさ太郎」に「思想の原点」を,丹下左 膳に「憧れの原体験」を見出すことに注目する。なぜならば前者は『しぐさの日本文化』
『遊びと日本人』『物くさ太郎の空想力』の淵源,後者は『複製芸術論』の起源と見なせ るからである。
「物くさ太郎」に多田が子どもの時に惹かれたのは,多田のいう「生来無器用」(3 巻 304)の素質が関係しているに違いない。多田は,小学校の運動会が「頭痛のタネ」で,
競争では「羞恥と屈辱とあきらめ」を抱えて最下位で走る「運動神経がない」子どもで あった(2 巻 70 〜 71)26)。小学校の徒歩訓練では「右足を前に出すと同時に右手をふり あげ,先生に大いにしかられた」と書いていて,中学校の教練でも怒鳴られたようだ(3 巻 122,304,340 〜 341)。さらに運動神経だけでなく「手先が格別
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不器用」(傍点は引用 者)であった(4 巻 129)。他の子どもにも「道チャン道みちはば
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垂れて,紙がないので手 で拭いた」(傍点は原文)と名前と「糞尿のけがれ」を絡めてはやされて「ずいぶんみじ めな思いをした」と記している(4 巻 117)。また多田は腕力がなく「兵隊ごっこが何よ り嫌い」だったため,「女の子の仲間にはいりこみ,ままごと」をすることが多く,「お んなの中に男が一人」とひやかされたと書いている(4 巻 120)。
こうした多田の生まれつきの不器用さは軍隊時代で一層苦汁をなめることにつながる が27),幼少期に形成された劣等感は,後年の多田の学問のばねになる。この子ども時代 に,転がってしまった餅を拾うのも億劫がる「物くさ太郎」の挿し絵を見て28),「非常に 強烈なイメージが焼きつき,それがぼくの思想の原点をつくったような気がする」と述 べるように,その思いが「怠惰の思想」(1971 年)に結晶されるのである(4 巻 186)。
多田は小学校でも「級長にさえなったことがなかった」と回想しているものの(6 巻 383),「わりと優等生だったので先生にも好かれていた」が,校長の訓示が始まると「お
どけて「あ! 説教や」と叫んで」しまい「多田までが俺を裏切った」と怒られたとい う29)。優等生の片鱗はいくつか散見され,小学校の頃に多田は「赤い鳥」風の文章を「素 直にスラスラ書いて」いて30),朗読の才があったことから日本放送協会では朗読の体験 もする31)。新聞も一人で作成したことがあり,全て多田が記事,小説,漫画をつくり,数 号出したものの周囲の関心を集められずやめてしまった32)。講談を活字化した「野狐三 次」や「岩見重太郎」を胸躍らせて読んだとも述べている(6 巻 71)。
このような活字,広くいえばメディアへの関心をもつ中で,とりわけ多田が関心をもっ ていたのは映画である。農村と比べてもそれを享受できる都市の文化環境に多田がいた ということでもある33)。多田自身,「小さい時からリベラルな,おそらく大正のそうとう 成熟した資本主義」の中で育ったことで軍服に野卑な感じをもっていた34)。加えて「戦 前,私が子どものころ,京都は三大都市の一つ」であり(3 巻 344),「昭和七年当時,今 の東京にくらべ,京都のほうがはるかに文化の芸術の大都会だった」と多田は述懐してい る35)。多田にとって「複製文化のハシリ」は人気俳優などを写した日光写真であり,「複 製芸術のはじまり」は 1935 年頃に子ども用フィルムを買って映画会を家で行ったことで あり,中学時代には貧弱な写真機を入手して友人を撮影した(5 巻 271 〜 272)36)。
子ども時代に観た映画では「隣の八重ちゃん」(島津保次郎監督,1934 年)を挙げてお り(5 巻 98),多田が小学生の折に 4 つか 5 つ年上の学生だった叔母とも一緒によく映画 に行ったとも述べており,叔母と「エノケンのちゃっきり金太」(萩原耐監督,1937 年)
を観たことを記している37)。映画の中では多田は時代劇映画を好んだようで,鴨川べり の葵館という映画館で月形半平太ら無声映画を頻繁に観たと書いている38)。
特に力を込めて回想している映画は大河内傳次郎主演の「丹下左膳」(伊藤大輔監督)
である。1936 年の 2.26 事件のニュースに「たいした恐怖心もなしに」接する傍ら,多田 にとっては「丹下左膳の運命のほうが,切実な関心だった」。剣豪の似顔絵をかき,ハン コ彫りに熱中して,丹下左膳の映画の評判を聞くと千本日活の映画館にすぐ観に行った
39)。映画鑑賞より以前のことだろうが,活字でも『丹下左膳』を読んでいたようで,「こ ういう人間になりたいという憧れの原体験は,僕の場合は『丹下左膳』だった」と多田は 述べている40)。そして多田はチャンバラの映画・小説が大好きと自認し,「兵隊物はすご く嫌い,軍人が大嫌いだった」と明確に区別している。前者は芸術の問題であり,後者 は芸も何もなく「ボーンと鉄砲撃つだけ」の技術の問題であると説明している。「芸術が 遊び,遊びがそのまま芸になっている」時代小説と時代映画が好きで,その芸あるヒー ローに丹下左膳を多田は見出したのである41)。それは『複製芸術論』の原点といえるも
のであろう。
2 中学三高時代
多田が京都府立京都第二中学校に入学したのは 1937 年 4 月のことと思われる。京都第 二中学校は 1941 年 3 月に 4 年で修了した。多田が京都第一中学校の進学も志したのかど うかは定かでない。中学校時代の回想は他の時期と比べても少ない。中学 1 年か 2 年の ときに何度か単発で日記をつけたが,いずれも三日坊主で終わったという。多田は中学 時代に「自我の目醒め」があったのではないかと述べ,他人は狸の毛のように化けたも ので自分だけが人間だという「誇り高き孤独感に襲われた」と回想している42)。
日中戦争の頃にはやった愛国歌「父よあなたは強かった」の父をあなたと表現するこ とに憤慨した「国語の
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先生」がユーモアをもつ教員であったという記述はあるものの(6 巻 122 〜 123),漢文調で書いた「嗚呼 佐久間象山先生」という多田の文章が京都の 作文コンクールで一等に入選したとあるのが目を引く程度である43)。受験勉強に追われ たという要因もあるのかもしれないが,総じて中学校時代の回顧は量的にも乏しい。
その京都二中を四年で修了して第三高等学校に進学したことが多田の思想形成にとっ ては大きな転機となる。1941 年 4 月に第三高等学校文科丙類に入学し,1943 年 9 月に卒 業する(以下,三高と略記)44)。多田が三高に合格した時は「入試成績はビリに近かっ た」ようで,進学したフランス語を第一外国語とする丙類は「第三志望だったと思う」と 述べている45)。甲類(英語)と乙類(ドイツ語)どちらを第一志望としたのかは不明で あるが,フランス文学を出発点とする多田の進路はここに定まることになる46)。
多田が三高時代を「中原中也,小林秀雄,太宰治などの洗礼を受けまして,そこからラ ンボー,ボードレールを読みして,ありきたりの文学青年として歪んでしまったわけで す。世の中の動きに対し,懐疑的になってしまった」と振り返るこの文章が,最も彼の読 書体験を明瞭かつ簡潔に述べているものである(6 巻 367)47)。これらの傾倒対象は,三 高卒業後の東大の学生時代にもまたぐことになるが,別の文章でも「旧制高校時代にボー ドレールをやり,文学青年になって,人生ごろっと変わっていった」といった記述(3 巻 438)や 10 代の頃に初期の小林秀雄を読み影響を受けたと述べている(6 巻 386)。三高 時代のことを指すと思われるが,中原中也の詩集,太宰治の小説集,ドストエフスキー の長篇小説を読むのを「生きがいにできた」とも書いている48)。
多田は三高に入学した当初のことも書いており,入学した当日位にドイツ語で「考え
る」を意味する語を含んだ「デンケンせよ」という言葉を上級生から命令されて戸惑っ た。ドイツ語の意味がわからなかったのではなく,思索のために考えるという発想が多田 にはなかったからだ。そこで夜に寮の上級生を訪ね,勇気を奮ってどうすれば考えること ができるのかと相談に行ったところ「相手の哲学青年」に嘲笑されたと述懐している(3 巻 190)49)。ゆえに西田幾多郎の『善の研究』も肌に合うわけがなく,「曰く不可解とい うことで,十六歳のぼくは非常に傷ついた」と発言している50)。
三高の授業では,恩師となる伊吹武彦との出会いがあった。1 年生の時に伊吹からフラ ンス語を教わり,フランス語に魅せられる。なぜ東京に行ったのか経緯は記されていない ものの,多田はこの 1941 年 16 歳で初めて東京に行き,渋谷の道玄坂の古本屋で革製の
『コンサイス仏和辞典』を購入した。同年の夏休み,その辞典を片手に初めてフランス語 の原書で読んだものがジッドの『狭き門』であった(6 巻 209 〜 211)51)。同じ三高時代 と推測されることとして,多田はジャン・ピエール・オーシュコルヌ52)の名を挙げて授 業を回想しているので,彼からもフランス語を学習したと考えられる(6 巻 185)53)。
そして多田の三高時代にとって欠かせないのが三高の文芸部仲間である。多田が正式 な文芸部に所属していたかは不明である。しかし,多田自ら三高の文芸仲間と徹夜麻雀と 文芸談義が混じった交友を楽しみ,その麻雀の際には中原中也訳『ランボオ詩集』を賭 けの対象としたと書いている54)。それに加えて三高の文芸部に所属していた花木正和55)
(1925 〜 1985 年,生前は松蔭女子学院大学教授),宮野尾文平56)(1923 〜 1945 年)を
「最良の友だち」と評していることからも57),濃密なつきあいをしていたことは間違いな い58)。
多田が 1 年生の時にアジア太平洋戦争が開戦する。大戦勃発を知り「身がひきしまっ た」ことを覚えていると書いているが,「一,二年文学にのめりこむと,たちまちぼくは ナマコみたいにぐにゃぐにゃになってしまった」と述べている(6 巻 367)。ここで三高 文芸部の部員で紹介しなければならないのは,多田が「友人平井啓之」と書くその人で ある(3 巻 408)。
後にわだつみ会に関わるフランス文学者となる平井啓之(1921 〜 1992 年)は,1940 年 に三高の文科甲類に入学し,第二外国語はフランス語を学ぶ。1942 年 4 月には「文芸部 のキャプテン」を務めていた59)。文芸部の仲間に中原中也を紹介したのも平井であった という。その頃の文芸部員にとって中原は憧憬の存在であり,三高の先輩ということも あり梶井基次郎も敬意をもたれていた60)。多田と花木は同級生で,多田は京都二中を四 修,花木は灘中学を四修で三高に入学した61)。一方,宮野尾文平は 1 年遅れの 1942 年に
三高に入学する。平井が 42 年 9 月,卒業年限の繰上げで東京大学に入学して,1 年生の 宮野尾が「文芸部のキャプテン」となった62)。この宮野尾は学徒出陣で戦死してしまい,
その詩人としての才能を平井,多田,花木いずれもが惜しみ,戦後になっても彼の存在 を忘れまいとして文章に留めている。
上記したごとくかれらの間では中原中也への傾倒が深かった。多田も 1941 年に中原に
「ぞっこんほれておった」と述べ63),三高の文学仲間の間では中原の詩が載っている『文 学界』を古本屋で発見した者は,自身の三高のマントを古本屋に預けてでもそれを確保 しなければならない不文律があったと花木が証言している64)。平井によって三高の文芸 部には 1942 年の時点で中原中也が紹介されていたが,花木は 1943 年の正月休み明け頃 に多田から中原の詩を初めて教わる65)。
当時の三高生の知的環境についても触れておく。平井によれば,橋川文三が当時の学生 を日本浪漫派,禊派,フランス象徴主義に区分していたのは実感にそうものであると述べ ている。平井は付け加えて,禊派は三高生におらず,日本浪漫派は少数であるかわりに,
「京都学派」による「世界史の哲学」に傾倒する者が多かったという。その中で平井は文 芸部に関してはフランス象徴主義派で占められていたと回想している66)。
また多田たちにとって大きかったのは,フランソア喫茶室(1934 年創業)を代表とす る喫茶店の存在であろう。多田が三高に入学する以前にフランソアには『土曜日』が置か れていたことでも知られるが,多田は授業を脱走して喫茶店に行ったこともあると思わ せるような文章を書いている(3 巻 293 〜 294。5 巻 147 も参照)。その喫茶店で「フラン ス文学を学ぶよりも,はるかに広く深く西洋文化」に触れることができ67)(5 巻 86 も参 照),同類の仲間と出会うこともできたのである(3 巻 294)。後に多田とも仕事をするこ とになる作田啓一は,フランソアを初めて訪れたのは京都一中時代の 1938 年頃といい68), 作田と平井啓之は京都一中で同級生であった69)。
一方,総合雑誌を多田がどれだけ読んでいたのかは詳らかでないものの,中学生の頃は 総合雑誌の存在自体ほとんど知らなかったといい,中学校の先生が「日本でインテリゲン チヤになるためには総合雑誌というものを読まねばならぬ」といった話を聞いたことを
「鮮やかに覚えている」と振り返っている70)。後年,多田の一人娘である多田謠子が 16 歳 の時に多田道太郎は彼女に向かって「謠子の年ごろだったら「中央公論」とか「改造」と かをいちばん読んでいた。そこに出てくる小説家は最も尊敬すべき小説家」であり,「昔 は外国の小説でも,定評のあるものはかならず読んだものだった」と語っている71)。これ が多田自身のことを述べているのか,一般論として言及しているのかは判然としないが,
以上の記述から,多田が総合雑誌に接しているとすれば三高時代以降であると思われる。
その他,ゴンチャロフの『オブローモフ』に夢中となりロシア文学を勉強したいと思っ たが「ロシア文学専攻の学科がどこの大学にあるか,調べるほどの気力もなく」とある ので,これは三高時代のことであろう。「ベッドからおりてスリッパをはくのも面倒くさ がった怠け者」を描いた『オブローモフ』への多田の関心は,前述した「物くさ太郎」の 系譜にあるものといえる(3 巻 329,441)。多田がドストエフスキーを読んでいたこと,
それにゴーゴリの『検察官』を「若いとき岩波文庫で読んで深い感銘をうけた」という 記述(2 巻 191。6 巻 370 も参照)を重ね合わせれば,ロシア文学にも強い関心をもって いたことがわかる。時期は三高時代か明言できないが,北村透谷の「徳川氏時代の平民 的理想」にも「驚きと感動」を受けたと書いている(2 巻 229)72)。
そうした中,多田が入学する前年に平井が東京大学文学部仏文科に進学するのだが,翌 1943 年に多田も東大の仏文科に進学することになる。小林秀雄ら多田が影響を受けてき た対象からいって自然な選択といえるにせよ,多田自らが述べるところによれば,1942 年に入手した太宰治『晩年』によって東大の仏文科に行くことを決めたと書き残してい る73)。
3 東 大 入 学
多田は 1943 年 10 月74)に東京帝国大学文学部仏文科に入学するも,戦後に復員してか ら 1946 年 3 月に卒業せぬまま中退する。本節では戦時下で学業を十分に達することがで きなかった期間を扱う。1945 年 1 月には群馬での勤労動員があり,それ以前から勤労奉 仕等があったため,慣れない東京の下宿生活で勉強できたとしてもその期間は 1 年弱程 度であっただろう。多田の残した文献から,それぞれの細かい年月や前後関係を確定す るのは困難を伴うが,明らかな範囲で戦時下の東大入学後の生活を再構成していく。
東大の仏文科では,主任教授の辰野隆の教えを受け75),鈴木信太郎からはマラルメの 詩などを習う(6 巻 85)。1943 年に渡辺一夫から稀覯本である小林秀雄『一つの脳髄』を 贈られている。これは入学して直後頃のことであったと思われる。渡辺は「深キ渕ヨリワ レハ叫ブ」とラテン語で記し,「大学のわが友
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メートル多田へ」(傍点は原文)と蔵書印 入りでこの本を多田に贈った76)。こうして戦時下で大学生活を始めた多田であるが,同 級生の多くは学徒出陣で徴兵された。多田は自ら書いているように,徴兵制は 12 月 1 日 までで年度が区切られ,彼の誕生日が 12 月 2 日ということと,多田が中学を四年で修了
して年少だったために,多数の同級生よりも遅い 1945 年 4 月に徴兵されることになる。
結果として誕生日が 12 月 1 日からわずか 1 日違いだったことが生死を分けたことになる
(6 巻 363)。
多田が入学して間もなくの 43 年に,東大の仏文科でもこの学徒出陣のための送別会が あり,辰野や鈴木が場を盛り上げようとしても集まった学生たちの「笑いは低かった」と いい77),他方,渡辺一夫は終始無言だったようである78)。多田は,頼りない記憶と断り ながらも,出陣前夜は田淵安一(後に画家。3 巻 293 も参照)とともに,同級生の池田一 朗(後の脚本家で作家名は隆慶一郎)を送ったと書いている79)。この時の学徒出陣以降 であろうが,多田は仏文科で中島健蔵の講義をたった一人で受けたことがあると述べて いる80)。また多田は中島と言明していないが,戦地から帰ってきた中島に日本の戦況を 問うて,現地を見た中島の戦局認識による現実感覚の甘さを後の 1967 年の時点で批判し,
同時に当時実情を知りたいという気持ちがあったことを述べている81)。
多田にとって東大の魅力は図書館にあり,「通称ロックフェラー図書館」でヴァレリー の原書『テスト氏』の筆写に励む(3 巻 345)82)。また鈴木信太郎に懇請して稀覯本であ る中原中也の初版本『在りし日の歌』を借りて筆写している83)。多田は,当時はマルクス 文献もほとんどなく,外国文学の翻訳も少なく,そのかわり創元選書に良質な本が多く,
創元選書によって柳田国男などを読んだと述べている84)。また鶴見俊輔によれば,日本 語訳がなかったプルーストの『失われた時を求めて』を多田は戦時中,原書で読んでい た85)。
戦時下の東京での学生生活で,長らく京都に住んでいた環境から下宿暮らしをするこ とになった多田は,当時高円寺 6 丁目に住んでいたようだ(6 巻 211,363)。最寄りの駅 は中野であった。三高時代と比べれば,友人の言及も非常に少ない。同級生が学徒出陣に 出たことがその要因の一端であり,多田は高円寺の喫茶店によく通った(6 巻 84 〜 85)。
乗車する中野駅で「高円寺 1 枚」,喫茶店で「コーヒー」と注文,高円寺駅から帰る際に
「中野 1 枚」,と 1 日に 3 回しか言葉を発しないことが 1 週間続いた記憶があるという86)。 10 日間以上も人と一切会話をしないこともあり,その時期にはドストエフスキーの『悪 霊』を読んでいた87)。暇つぶしに映画「姿三四郎」(黒澤明監督,1943 年)を観ていた 頃,「下宿の壁をにらみながらドストエフスキーの世界にふかく入ろうと一心になってい た」(2 巻 236)。いずれにせよ多田が三高時代からドストエフスキーを継続して読んでい たことが推察され88),東大でもロシア語を学んでいたようだ89)。
上記のごとく,その頃の多田は孤独であり(6 巻 84 〜 85),それは「荒れた気持ちを
もつ文学青年」と「わたしは大へん観念的であった」(2 巻 236 〜 237)という自己形容 の言葉に結びつく。学生時代に東京で暮らしていると「何とか逃げだしたくてしかたな い。「東京」によって差別されてるようなかんじ」がしたと述べている90)。他方,これは 1943 年頃に京都から東京に移動する列車の際の話で,下記に引く文面から東大時代と思 われるが,一緒に乗り合わせた沖縄出身の親子とのやりとりに強い印象を残したことを 多田は述懐している。小学生の息子が多田に何度もちょっかいを出し,それに恐縮して たしなめる母親が多田と話を交わし,以下のような回想を多田は残している(3 巻 319 〜 320)91)。
どうしてこの母親のこと,姿かたちまで記憶にのこったのか。ぽつりぽつり話の穂 をつないでいると,彼女急に,私,沖縄人なんですと言う。ちょっと意を決して言っ たという感じであった。オキナワ人といわれても,私にはぴんとこなかった。へえ,
とでも間の抜けた返事でもしたらしい。
姿は大学生であっても,私は差別と搾取の歴史を知らぬ莫迦者であった。当時,学 生にそういうことを教える本も先生もいなかった。それでも彼女のことばの調子か ら,沖縄県人はただならぬ気持でいるのであるということは感じとった。
袖すりあった人びとのなかでも,この母子の姿は忘れがたい。
1944 年の可能性が強いが,多田は東大の在学中に海軍の方が楽と聞きつけ,海軍予備 学生の試験も受けている。結果は,肺活量は合格したものの,胸囲が狭く不合格であっ た(6 巻 364)92)。1944 年の夏か秋には,三高時代の友人の宮野尾文平を訪ねて金沢の陸 軍病院を訪ねにいっている(3 巻 410,4 巻 368 〜 369)。それに関連して,先に多田が鈴 木信太郎に頼み貴重な詩集『在りし日の歌』を借りてその内容を筆写したと書いた。い つ多田が京都に戻ったのかわからないが,多田の三高時代の友人花木正和は,多田から
『在りし日の歌』を 1944 年 11 月以降に筆写したと述べているので93),その時期に多田が 京都に帰省したのではないかと推察できる。
勤労動員・勤労奉仕に関しては多田がいつからどの程度従事したのかも詳らかではな い。「ちょうど大学(東大の文学部)の二回生の時でした。いろんなところへ勤労奉仕へ 行かされる」とあるので(6 巻 362),この記述を信用すれば時期は 1944 年 10 月以降と思 われる。比較的その体験を彼が記しているのは千葉と群馬での事例である。それ以外にも 上の一文だけでなく戦時中「何度も農村や工場へ行った」という言及があるため,いく
つか勤労動員に行ったことが推測される94)。日高六郎が現場監督役で静岡の勤労動員に 行き,同じく勤労動員をしていた多田は,そこで日高が「黙々としてひとりで肥えたご」
を担ぐ姿を見かけたと述べている。日高はそれを「昭和十八年だったか,春ごろ」と回顧 している。しかし多田がまだ東大に入学していないため,既述の 1944 年 10 月以降では なくなるが,早くても 1944 年の春であろう95)。多田は勤労動員では「なるべくさぼって いた」といい,仏文科の
M
助手(森有正と推定)から「つらいのはあなただけではない んです。全国民がこうして働いているときに,あなただけがそういう態度であることは 非常に困ったことです」という苦言の手紙を受け取ったことも紹介している(6 巻 362)。千葉での勤労奉仕も時期は推測するしかないにせよ,群馬の勤労動員の直前であろう か,逆算して 1944 年の秋か冬ではないかと考えられる。その千葉の農家で多田は「蚤と 戦いつつボードレール」を読んだ(3 巻 338,345)。割合に克明なのは徴兵前の群馬県太 田の中島飛行機製作所での勤労動員である。これは多田が 1945 年 1 月から 3 月の期間に 零戦など戦闘機のエンジン組立ての見習工として作業にあたった(6 巻 362)96)。東大の 文学部の寮・合宿所で多田は寝泊まりしていたようで,相部屋のことも書いている(6 巻 362)97)。群馬では,平泉澄の講演も「共鳴できずにひとり畳の上で寝そべっていた」と ころ,平泉門下の右翼学生にリンチを受けたが,多田は「政治的なことはほとんど興味」
がなく,それが物くさ太郎からオブローモフに惹かれた多田の性分であった(3 巻 345,
6 巻 362)98)。
群馬では
B29 の空襲を受け,その恐ろしかった経験が骨身にしみていると書いてあ
り99),それは 1945 年 2 月を指すと思われる。多田が 3 月のいつまで群馬にいたのかは わからない。硫黄島陥落の情報を同部屋の森本哲郎(後の朝日新聞社記者)に吹聴して,周囲に日本の敗戦を示唆した森本がリンチを受けたはずとは書いているが(6 巻 362 〜 363)100),前後関係は不明である。3 月 10 日の東京大空襲の際は,東京におらず群馬で勤 労動員をしていて,多田の高円寺 6 丁目の下宿は本もろとも焼失した(6 巻 211,363)101)。
群馬の勤労動員が終わって一端東京に戻った可能性が高く,それから京都に帰ったと いう。京都へ戻ると,赤紙が来ており,1945 年 4 月に徴兵されることになる。徴兵までの 2 週間ほどはヴァレリーとボードレールを耽読したと多田は書いている(6 巻 363)。三高 時代からの系譜とはいえ,東大図書館や,千葉の農家での記述と合わせると,東大の在学 中は特にヴァレリーとボードレールを読んでいたと考えられる(5 巻 254 も参照)。当時,
多田は徴兵で死を予想し,ラテン語を交えて自分にクレド(信じる)ということなくして これから死を迎えることの恐れを日記に書き残したと振り返っている(4 巻 354)102)。出
征時には京都駅で家族が見送りをし,母が握手をした。握手する習慣がなかったので多 田には「ショッキングな事件」で,それは「お別れというつもり」の握手であった103)。
4 軍 隊 時 代
多田が徴兵されたのは 1945 年 4 月 1 日である(6 巻 361)。以降,敗戦を経て 9 月下旬 の野戦病院からの「脱走」までが彼の軍隊時代である。多田は「昭和二十年」とは「内 面的には屈辱の歴史」であったと表現する(6 巻 361)104)。ゆえに彼にとって「戦争体験 は語りたくない。語ろうとすると,どこか,取り乱してしまうところもあり,言うにい えぬ後ろめたいところもある」のだが(3 巻 386),それだけに「戦争ということ,戦争 にまつわる死ということ,それに心の奥ではこだわり」続けてきたのである(6 巻 325)。
それを一番まとまった形で語ったのは本稿の冒頭で触れた 1990 年 1 月 10 日の講演をも とにした「戦争をどう通ったか」である。本節も多くはこの回想(6 巻 361 〜 370)に依 拠して書いていくことにする。
多田が陸軍の歩兵二等兵として徴兵されて配属となったのは広島の西部第二部隊で あった。「区役所の気まぐれのように」広島行きになったと多田は記しており(6 巻 364),
1945 年 4 月 1 日に入隊して広島駅北側の練兵場(東練兵場と思われる)で 45 年 6 月下 旬まで訓練を受ける(3 巻 286)105)。その内容は,主に手榴弾による肉弾攻撃の模擬訓練 である(3 巻 286 〜 287,6 巻 364)。軍隊には岩波文庫を 2 冊(うち 1 冊はランボー『地 獄の季節』「だったか」と多田は述べている)持参したが,それをひもとく余裕は皆無で あった106)。
同年 6 月下旬に多田の属する部隊は広島から完全武装で夜行列車に乗り博多に移動。そ こから行軍で福岡県北部の芦屋に移動した(6 巻 364 〜 365)。そこでは月 1 回風呂屋に 行くことが許され,多田によればその順番は炭鉱労働者,朝鮮出身労働者,多田を含む 初年兵の順という「三段階の差別」があり,最後に彼が入る頃には炭塵水のような風呂 であったという(6 巻 365)。戦争末期の 45 年 7 月には玄界灘に浮かぶ孤島の大島守備隊 に配置される(6 巻 361)。大島に着いた時から脱走したかったと述べている(6 巻 365)。
そこでは米軍の上陸に備えていくつもの穴を掘り107),敗戦は大島で迎えることになる。
ここで多田が「屈辱の歴史」と書いた実相を見ていく。一言でいえば,それは軍隊内 で多田が受けた有形無形の暴力を指す。多田は,軍隊内には「広島のお百姓さん」が多 く,かれらは肉体的に頑強で軍隊に適性があったと述べている。それに比べて多田は,彼
の幼少期で見てきたごとく肉体的に不器用で「最低の兵隊だった」と振り返っている(6 巻 365)。彼がいた中隊には帝大生・帝大卒は多田だけであり,「社会的復讐の的」にさ れ,「東大の学生がそんなこともできないのか」と「毎日靴やスリッパでビンタを受ける」
日々に苦しめられる(6 巻 365 〜 366)。班内の古兵 4 〜 5 人に 5 〜 6 時間連続してビン タを受けたこともあった108)。その上で多田は自身の実体験の特異性を省みて以下のよう に述べている(6 巻 366)109)。
ですから広島の人というと,真先に恐怖が先立ってしまって(笑),戦争の被害者の 代表としての広島という実感は,ぼくには湧きにくかったわけです。そのとき同じ内 務班の古兵殿に朝鮮出身の一等兵がいまして,その人からももちろんビンタを受け ました。つまり広島の人も朝鮮の人も,当時のぼくにとっては日常の迫害者であった わけで。実体験というものの幅の狭さを感じます。格別の状況にいたわけですから,
それだけで一般論はとても言えないということなんです。
とりわけ多田が軍隊で最も屈辱的と書いているのは,お腹が減って残飯を手ですくっ て食べた経験だと述懐している。炊事当番などで屈辱的なことが多くあり,「迫害されて,
いちばん底辺に追い込まれたときに,もっとも卑しいことをしたという。これはぬぐい 去ることのできない屈辱でして,これを忘れるわけには参りません」とまで多田は書い ている(6 巻 366)110)。
多田が迎えた敗戦時の推移については,8 月 14 日夜に大島の海岸のタコ壺で米軍の接 近に備え,翌 8 月 15 日に敗戦を知ることとなる。その日にも「おまえみたいな非国民」
のせいで負けたのだとビンタを受けた。8 月 17 日にはなおも大島守備隊の隊長が断固玉 砕との方針を出しながら,翌日 8 月 18 日はその中隊長が遁走し,多田は軍隊の構造の性 質をまざまざと見せつけられることになる(6 巻 368 〜 369)。9 月になっても軍隊は解散 せず(3 巻 386),多田は三木清らもかかった疥癬になり(6 巻 368),9 月に内地の九州北 岸の鐘ヶ崎にある陸軍野戦病院に送られる。しかし,疥癬の治療には砂浜に立地する野戦 病院は悪条件で,生命の危険を感じ 9 月下旬の深夜,病院から脱走する。そのまま博多 までどうにか辿りつき,豚などを運ぶ貨物列車で京都に向かう。その途中,数ヵ月前ま でそこで訓練を受けていた広島が原爆(当時多田は原爆を知らなかった)で焦土の地と なっていることに愕然とする(3 巻 386 〜 387,6 巻 361,369)。またこの貨物列車の乗車 中,祖母の形見であったスイス製の腕時計を盗まれたことを多田は何度も書いている(3
巻 280,388,5 巻 266,6 巻 369)。
こうして多田の軍隊時代は終焉を告げるが,多田の戦争体験は,軍隊内で受けた自身へ の暴力による迫害の記憶が先立ち,戦後になって多田が広い文脈で戦争体験をどのよう に捉え返しているのかは十分に明らかではない。ただし,その痕跡をうかがえるようなも のとして,いくつかの記述がある。1963 年に放送された大島渚の「忘れられた皇軍」に 言及していることは注目されるが,肝心のその作品をどのように受け取ったかという部 分は記載に乏しい(2 巻 332)111)。またこれは戦争責任の認識が社会的にも変容する 1970 年代以降の記述であるため,それ以前に多田がそのような思いを抱いていたのかは判断 が難しいところであるが,「朝鮮を植民地にし,姓をうばい,日本語を強制したとは,何 とおろかなことであったか」という記述(6 巻 138。5 巻 135 も参照)や,「日本軍が中国 を侵略して日の丸を立てるたびにいやな感じがぼくはした」といった言及も見られる112)。 ただ,植民地支配責任や戦争責任の意識よりも,多田の著作の中で総体的にアジアへの 記述の少なさからいって,むしろ「厭戦派」(3 巻 288),「厭戦的な気分」113)の方が認識 軸になっていると考えた方が実態に近いはずである114)。
5 京大在学期
多田が京都に戻ったのは 1945 年 9 月下旬と思われる。すぐに東大に復学はせず,45 年 は京都にいたようだ115)。敗戦直後の状況というと,叔父・多田侑史の家業である大阪の繊 維問屋の店は空襲で全て焼けてしまったが,兵庫の岡本の家は焼失しなかったという116)。 以下は多田道太郎の家族を指すのか判然としないが,母は疎開先の農村で田植えをし,息 子はじゃがいもを煮ていた,と書いている一文が道太郎の家族とすれば117),こうした暮 らしを送っていたのかもしれない。戦後の食料難の中,ヴァレリーの原書を売り,その お金で東京の新橋の闇市にて焼芋を買ったことも多田は何度か述べている118)。また敗戦 直後には幼少期に一緒に映画を観た叔母が結核のため 30 歳にならない年齢で早世してい る119)。
それでは多田は戦後をどのように考えたのか。苦しんでいた軍隊時代,多田はもし軍 国組織が崩壊すれば,京都の河原町の目抜き通りを逆立ちして歩いてもいいと思ってい たという。しかし実際にいざ戦後を迎えてみるとそれは逆立ちをするほど期待にあふれ るものではなかった。敗戦直後,友人の平井啓之に「これからの社会に希望がもてるか」
と聞かれ,「虚脱」した多田は「イヤだな」と返答したようだ120)。自らの戦争責任の実感
はなかったが(2 巻 237 〜 238),かといって戦争中にだまされたという言辞は「欺瞞の上 塗り」で自慢すべきことでは全くないとも考えていた121)。多田の根本には,この戦後に 現出した状況とは自分で変えたのではなく,変えられたものという認識があった122)。む しろ多田にとって敗戦後しばらくは「暗黒時代」だったとまで後に言及している123)。
そして多田が東大に戻ってきたのは 1946 年であった。西田哲学や哲学自体に興味はな く,戦時中と同じく多田が興味あるのは東大図書館の蔵書であった。しかし東大文学部 の事務窓口に出頭すると,多田の取得単位は 1 つもなくて,卒業するまで後 2 年かかる といわれた。単位を取得できていなかったのは,勤労動員や徴兵によって授業に専念で きなかったためであろう。結局,多田は戦後廃墟となった東京に一人で暮らし続けるこ とに不安を覚え,京都で大学生活に復学することを決める。たが,京大の転学の締切り には間に合わず,46 年に京大を受験して大学生活を一からやり直すことになった124)。京 大で学生生活に再び戻ったのは,旧制三高時代の恩師らの励ましもあったという125)。こ の恩師とは伊吹武彦もその一人であったに違いない。
1946 年 4 月に多田は京都大学文学部文学科(フランス語学フランス文学)に入学する
(以降,仏文科と記す)。多田は戦前戦後の有名なフランス文学者の大半に習うことになっ たというが126),京大在学時にどのような教育を受けたのかは判然としない。これは正規 の授業ではないが,戦後直後に生島遼一の自主講義(場所は京都の知恩寺と思われる)に 参加し,ハムをもらいながらプルーストの『失われた時を求めて』を読んだという(3 巻 234)。京大の在学中にはプルーストばかり読んだとも書いている127)。その時の仏文科の 主任教授は太宰施門であろうが,管見の限り,多田が太宰施門に言及している文章は見 出されない。落合太郎にはかつて習ったことがあると書いており128),言語学講座に所属 していた落合は 46 年 12 月まで京大におり,当時は文学部長であった。
この時期の多田への思想的な影響を考える上で欠かせないものとして『世界文学』が 挙げられる129)。創刊号は 1946 年 4 月号で 1950 年 3 月号の 38 号まで刊行された。これは 多田の恩師である伊吹武彦が編集の中心となり,桑原武夫を含め京大・東大の仏文関係 者らの多くが寄稿した雑誌である。平井啓之も東京駐在の編集員としてアルバイトして いた130)この『世界文学』を多田が手に取っていないとは考えづらい。むしろ毎号欠かさ ず目を通していたと想定するのが妥当であろう。多田は同誌 49 年 3 月号と同年 4 月号で サルトルの『唯物論と革命』の前半部分を翻訳しており,伊吹から仕事をもらったと述 べている131)。
それから多田は 46 年 9 月には京都で同人雑誌『檸檬』を創刊する。戦後の出版事情も
あり,この『檸檬』は創刊号で潰れてしまう。この創刊号は,戦死した宮野尾文平追悼号 であった。この雑誌名は梶井基次郎に因んだもので132),多田や花木正和ら三高時代の仲 間が参加した133)。花木は京大の仏文科に 1944 年 10 月に入学し,48 年 3 月に卒業する。
親友の花木がいたことで,東大時代より多田の孤独は減じたに違いあるまいが,京大時 代の交友関係も文献からはよくわからない。49 年にロダンバック『死の都ブリュージュ』
を多田と共訳した黒田憲治は三高・東大の出身のようだが,多田と親しくしていたと推 測される(6 巻月報 8〔山田稔〕)134)。
上記のごとく多田が受講した京大仏文科での授業がどのようなものであったのか定か でない一方,より克明なのが彼の読書体験である。その筆頭に挙げられる対象は野間宏と 花田清輝である。1946 年に多田はダンスを習いに行く。そこで「どうしてそんなけった いなステップになるのや」といわれ,自尊心が傷つきダンスはやめてしまうのだが,その 時ダンスの教習所に抱えていったのは野間や花田の本であったようだ(3 巻 311 〜 312)。
多田がいつ野間宏を読んだのか正確な時期は明らかではないが,46 年に発表された「暗 い絵」に感銘を受け135)(6 巻 315 も参照),47 年に発表された「顔の中の赤い月」は 1967 年時点で多田は戦争の遺産は同作品に尽きると主張している136)。多田は,48 年に発表さ れた「炎に追われて」も読み,その作品に感動して野間にファンレターを送る。1958 年 の回想時点で多田がかつてファンレターを書いたのは唯一これだけで,野間からもすぐ に返事があったという137)。以降,多田は 54 年の『真空地帯』論を始め138),いくつかの 野間作品の解説を書くようになる。
他方,上記の 46 年のダンスに通った年とずれるものの,多田は 47 年に花田清輝の『復 興期の精神』を読んで衝撃を受ける(2 巻 391)139)。同書は京大そばの本屋ナカニシヤで たまたま目にした新本として買ったという140)。多田は,花田のレトリックにより「脇腹 にどすんとブロウを食らったように感じた」と述べている141)。花田個人を尊敬したわけ ではなく(2 巻 392),花田の本の内容も十分に記憶しているわけではないと断りながら も,多田は花田の文体に強い影響を受け,「私は誰のエピゴーネンかといえば,やはり花 田清輝のエピゴーネンである」とまでいっている142)。その他の多田の読書経験として彼 は 48 年刊行の小田仁二郎『触手』を挙げ,最も浅薄で無意味なものに重要な意味が込め られているという思想に大きな影響を受けたと記している(6 巻 315)143)。48 年頃に多田 は大山郁夫の講演も聞いている144)。
1948 年 11 月には,桑原武夫と鶴見俊輔が京都大学人文科学研究所に着任する。多田は 桑原と鶴見と知り合ってからは両者と一生のつきあいとなる。48 年秋頃,多田は初めて
桑原武夫と面会もしている145)。こうして多田にとって新たな転機が訪れるのであるが,
京大の学生生活を終えるにあたり,多田がどのような卒業論文を書いたのかは不明であ る146)。卒業論文の題目自体は「ラシーヌの悲劇」であったようだが,この辺りの事情の 不透明さは,先に述べたように主任教授の太宰施門への言及のなさが関係しているのか もしれない。大学卒業の間際に誰かは明記されていないが,進路志望を聞かれ新聞社と 答えたところ,大学の教員に「キミは大学に残ってはどうかといわれ,ふらふらとその まま大学に」残ったという147)。
その言の通り,多田は 49 年 3 月に京大を卒業して,同年 4 月には大学院に進学しなが ら,同時期に人文研で始まったルソー研究の共同研究に無給の研究生として選考試験を 経た上で採用される。人文研で桑原武夫や鶴見俊輔のもとで共同研究に携わるためであ る。桑原が主導した京大人文研の共同研究の出発点で多田は参加しており,49 年 12 月に は助手に採用されるが,以降の多田の歩みは別稿に譲らなければならない。かくして多 田の戦後思想の萌芽を育んだ長き学生時代はピリオドを打つのである。
お わ り に
最後に,多田の思想形成に関して本論で明らかにしたことをまとめておく。「1 幼少 期」では多田の小さい頃からの不器用さ・運動神経のなさと,学校の勉学への適応性が同 居していることがポイントである。前者は,多田に劣等感を植えつけ,それゆえに「物く さ太郎」に対する共感を喚起し,これまでアカデミズムが看過してきたしぐさや遊びの 文化,怠惰の思想に後年,多田が着目する素地を生みだす148)。後者は,優等生として三 高・東大・京大への進学を準備すると同時に京都という都市の文化環境の享受を彼に可能 とさせる。とりわけ丹下左膳を始めとする時代劇映画への傾倒,日光写真,自宅での映画 会の開催,一人での新聞づくりといったメディアに対する関心が,多田の『複製芸術論』
の原点となっていることが示された。
「2 中学三高時代」は,まず多田が過ごした京都二中時代への言及の少なさに果たして 沈黙の意味を見出せるのか,日中戦争が開戦する時代状況と合わせて今後考察されなけ ればならない。その上で,多田の思想形成にとって最も重要なのは三高時代である。入試 成績の結果,フランス語を学ぶ文科丙類に入学したにせよ,ここで多田の進路を決定づ けるフランス語と文学への邂逅があったからである。アジア太平洋戦争が開戦する戦時 下の情勢とはいえ,三高文芸部に集った花木正和,宮野尾文平,平井啓之らの友人,フ
ランス語を教わった伊吹武彦という恩師との出会いは,多田の文学的関心と自己肯定感 を育てたことは疑いえない。
三高時代では多田,花木,平井の文献から相互の影響の強さを検証した。多田の小林 秀雄,太宰治,ドストエフスキーの傾斜とともに,中原中也,ランボー,ボードレール の詩への深い接触が,詩一般に求められる多義性を読み解く姿勢を培い,後年の多田の 発想を重視する学問方法につながったのではないかと考えられる。また東大と京大の両 仏文科を結びつけるような伊吹武彦の存在は,以降の多田の支えとなったであろう。加 えて西洋文化の窓口となったフランソア喫茶室を始めとする喫茶店の文化的な媒介機能 の重要性を多田の青年期に即して確認した。
「3 東大入学」と「4 軍隊時代」は戦争末期にあたり,多田の人生を流転させる。多 田は東大の仏文科に入り,辰野隆,鈴木信太郎,渡辺一夫らの教えを受ける機会を得た ものの,同級生の多くは学徒出陣で出征し,東京での孤独な一人暮らしを送る。海軍予 備学生の試験にも失敗し,学業に専念できぬまま,勤労動員に駆り出される。動員先の 群馬の中島飛行機製作所では
B29 の空襲を受け,その間,多田の下宿は東京大空襲で焼
失した。多田は自らを「差別と搾取の歴史を知らぬ莫迦者であった」とし,徴兵による 死を予感しながら,確固とした信じるものもなきままにヴァレリー,ドストエフスキー,ボードレールを引き続き読んでいた。
そして 1945 年 4 月に多田は陸軍の歩兵二等兵として徴兵される。多田の不器用な素質 と,戦後思想の萌芽の交点がこの軍隊期にあたる。京都の都市で育った「学歴エリート」
であった彼は,広島の農家出身の兵士が多数を占める部隊で「民衆」と遭遇し,多田は
「最低の兵隊」として「社会的復讐の的」とされた。暴力による迫害は,内面的に屈辱の 連続以外の何物でもなく,学校秀才と不器用さの間にある溝が極点に達し,前者が後者 に凌駕されるアイデンティティの瓦解があったと見るべきであろう。その意味の掘り下 げは今後の課題であるが,自己の弱さと自由主義に基づく多田の逆説的な発想を重視す る仕事の根元がこの軍隊時代にあったのではないだろうか。1965 年に多田は,自由とは 一つの理念であり,それが生きて作用するには自分たちの抑圧・屈服・抵抗の体験の質 にかかっていると述べ,「みじめでコッケイな抵抗」こそ「将来の思想の養分がある」と いう言及に,彼の軍隊体験を潜り抜けた思想的昇華が認められるからである149)。と同時 に朝鮮出身の兵士に殴られた事例のごとく,多田の実体験の狭さと,戦時下の拠り所が 西洋文学にあったゆえに,戦後多田の言及にアジアの存在が薄かったように考えられる。
敗戦は玄界灘の孤島大島で迎え,疥癬となりながら命からがら京都に逃げ帰る。結局,
東大は中退し,改めて入学した「5 京大在学期」において多田自身,戦後の歩みを立て 直す期間になったと思われる。具体的には,多田がフランス文学研究者の出発点となる 足取りをここで整え,野間宏や花田清輝への沈潜は,多田に戦争体験の意味づけとそれ を乗り越えていく表現手段を準備したに違いない。続いて 1948 年 11 月に桑原武夫が京 大人文研に赴任することで,多田は 49 年 4 月に京大人文研の共同研究に参加することと なり,以後の多田の人生を決定づけ,1950 年代から戦後思想の萌芽を現出化していくの である。
以上の結果,本稿では先行研究なき状況から多田道太郎の思想史研究を行う上での基 盤を築きあげた。それは多田一人の思想に限定するものではなく,多田に楔を打ち込むこ とで,三高文芸部のフランス象徴主義派に読みとれる「戦中派」による抵抗の水脈,『世 界文学』に展開された京大・東大の仏文科を機軸とする知的ネットワーク,何よりも京 大人文研と『思想の科学』の相互作用の解明に資するものである。さらにこれは別稿の 研究に俟たなければならないが,多田の「非・反アカデミズムの視座」といえるような 彼の学問観の形成を検討することで,従来の思想史研究では評価しづらかった知識人の 対象を広げる意義が開けてこよう。
今後の課題は,多田の思想内容を,これまで論じてきた多田への文学・思想作品の影響 関係と照らしながら具体的に分析していくことである。その際,本稿で参照してきた多田 の自伝的著作は当然ながら時期ごとに彼の再解釈が込められていることが考えられ,よ り詳細な史料批判を行う必要がある。とりわけ敗戦後から間もない多田の 1950 年代のテ キストを重点的に解析することが求められる。また多田の思想形成に迫るためには戦後 の位置づけだけでなく,例えば三高時代の一次資料150)の発掘が不可欠である151)。多田 の周囲に存する鉱脈の開拓は始まったばかりであるが,本研究は,京都知識人の戦後思 想史といえるような道筋を切り開くものとなろう。
注
1 )例えば著作集・全集類に限っても中井正一,末川博,鶴見俊輔,花田清輝,和歌森太郎,
九鬼周造,長谷川如是閑,今村太平,鶴見和子らの月報もしくは解説を多田が執筆してい ることからも,多田の広範囲に及ぶ思想的関係が想起できよう。また多田には塚崎幹夫と の共訳書にロジェ・カイヨワ『遊びと人間』(講談社,1971 年,講談社学術文庫版は 1990 年)があることもよく知られている。
2 )全 6 巻の各タイトルは,1 巻『ラ・フランス』,2 巻『複製のある社会』,3 巻『しぐさの日 本文化』,4 巻『日本人の美意識』,5 巻『現代風俗ノート』,6 巻『ことばの作法』である。
各巻に「解説対談」があり,全て多田道太郎と加藤典洋によるものである。なお『多田道 太郎著作集』からの引用・言及は,煩雑なため(1 巻頁数)のように表記する。
3 )芳澤毅「遊びにおける「自由」の問題―多田道太郎の『遊び論』をめぐって―」(『琉 球大学法文学部紀要 社会学篇』第 26 号,1983 年)が多田の文献に焦点をあてた数少な い研究であるが,多田の思想総体に迫るものではない。
なお安田常雄は,日本近代の思想史研究で生産力主義と結びつく「勤労=勤勉思想」の研 究は多数あるのに対して,多田道太郎『物くさ太郎の空想力』(冬樹社,1978 年)でも述べ る「遊ぶ思想」「休む思想」の重要性に触れ,この視角からの文化研究が乏しい問題を提起 している(安田常雄「コメント 「大衆社会における文化と主体」の論じ方について」『日 本史研究』475 号,2002 年 3 月,175 頁)。
4 )木股知史・岩城万里子「多田道太郎著作目録」(『武庫川女子大学生活美学研究所紀要』第 4 号,1994 年)。同紀要と多田道太郎記念文庫の閲覧に際しては武庫川女子大学生活美学研 究所の関係者の方に便宜をはかっていただいた。記して謝意を表したい。
5 )佐々木幹郎・竹田青嗣・清水徹・多田道太郎ほか(司会加藤典洋)「多田道太郎の仕事―
著作集の刊行を記念して」(『明治学院論叢 国際学研究』第 14 号,1995 年)。
6 )初出は多田道太郎「戦争をどう通ったか―豆自伝として」(『時間・空間・体験』明治学 院大学国際学部付属研究所,1993 年)。
7 )2011 年 12 月 28 日には,生前の多田道太郎と交流の深かった作家の山田稔氏(元京都大学 教授)に聞書きを行った。聞書きの内容に触れる場合,本文に表記する形で(山田談)と する。山田稔『マビヨン通りの店』(編集工房ノア,2010 年)に所収の「転々多田道太郎」
というエッセーは,多田の人物像を鮮やかに照射したものだが,ここで扱う多田の学生時 代までの時期と対象が異なるため,聞書きの内容とともに主として別稿で言及する予定で ある。
8 )都築勉『戦後日本の知識人 丸山眞男とその時代』(世織書房,1995 年),米原謙『日本的
「近代」への問い―思想史としての戦後政治』(新評論,1995 年),小熊英二『〈民主〉と
〈愛国〉 戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社,2002 年),竹内洋『革新幻想の戦 後史』(中央公論新社,2011 年)などを参照のこと。
9 )今田剛士「大正平和論と戦後日本 大熊信行の「国家悪」」(『社会思想史研究』34 号,2010 年)181 頁。
10)根津朝彦「荒瀬豊の思想史研究―ジャーナリズム批判の原理」(『国立歴史民俗博物館研 究報告』第 163 集,2011 年)も参照。
11)「夛田道太郎教授 略歴・著作目録」(『人文学報』第 64 号,1989 年,京都大学人文科学研 究所)。目次の氏名部分は「多田道太郎」と表記されている。同研究所の初期『所報』や多 田自筆の書簡にも「夛田」と書かれる場合があるので,こちらが正式の表記と思われるが,
本稿では多田と記す。
12)例えば「歴史意識とか地理意識はあんまりないんです」(2 巻 394),(勤勉の思想が近代の 思想に由来しているのかという文脈で)「そういう歴史的な問題は,私には不得手だけれど
も」(4 巻 190),「過去は大事だと思いますが,年代記風な歴史の序列とかシステムという のはだめだ,という直感があります」(5 巻 376)と述べている。後述の注 19 も参照。
13)多田謠子ほか『私の敵が見えてきた』(編集工房ノア,1987 年)355 頁。同書は,多田道太 郎の一人娘で 29 歳で早死にした多田謠子(三里塚闘争など社会運動に携わる弁護士として 生涯を送った)の遺稿集であり,多田道太郎の両親の名と没年は同書にある「多田謠子年 譜」による。
14)『アサヒグラフ』1964 年 7 月 3 日号 42 頁に掲載された「生卵とご先祖」によれば,多田が 叔父とこの大和行きに連れ立ったのは「もう二十年も前」と書いている(4 巻 345)。
15)多田道太郎・安田武『関西 谷崎潤一郎にそって』(筑摩書房,1981 年)219 〜 220 頁。
16)森彰英『武智鉄二という藝術 あまりにコンテンポラリーな』(水曜社,2011 年)188,252 頁。
17)多田・安田,前掲『関西』8 頁。
18)『毎日新聞』1995 年 2 月 20 日付大阪本社版。
19)『読売新聞』1962 年 6 月 21 日付夕刊の「わたしは歴史にも地理にもくらい。しかし三十数 年,京のまちでくらしてきた」という一文が根拠である。
20)多田道太郎『からだの日本文化』(潮出版社,2002 年)233 頁。
21)多田道太郎ほか『冬住まう 京都の記録 第 6 巻』(時事通信社,1974 年)241 頁も参照。
22)思想の科学研究会〔編〕『思想の科学 会報 第 1 巻』(柏書房,1982 年)103 頁。住所の記 載は 1954 年 12 月 1 日付発行の会報にある。この多田の住所は大徳寺や今宮神社の近くで ある。
23)多田,前掲『物くさ太郎の空想力』72 頁。
24)尾崎秀樹・多田道太郎『大衆文学の可能性』(河出書房新社,1971 年)152 頁。
25)なお多田は小学校の 4 年頃「母親の実家に預けられていた時期」があったと記している(加 藤典洋・多田道太郎・鷲田清一『立ち話風哲学問答』朝日新聞社,2000 年,9 頁)。
26)多田道太郎『新選俳句歳時記』(潮出版社,1999 年)61 頁も参照。
27)「ぼくの人生は,肉体的な不器用さ,最低の兵隊だったということが日本社会に適応できな かったいちばんの原因だと思います。教練とか体操などの不器用さ,不適応がぼくの動か しがたい素質ですね」と多田は述べている(6 巻 365)。
28)多田,前掲『物くさ太郎の空想力』222 頁によれば,「物くさ太郎」を子ども時代,絵本で 見たとある。
29)多田道太郎・谷川俊太郎『日本語グラフィティ』(河出書房新社,1987 年)119 頁。
30)同上,92 頁。
31)多田,前掲『物くさ太郎の空想力』157 頁。
32)同上,156 〜 157 頁。
33)多田道太郎・鶴見俊輔『変貌する日本人』(三省堂,1986 年)13 頁も参照。子ども時代,デ パートで買ってほしい物を母親が買ってくれないと「わんわんと泣きわめいた」とも書い ている(5 巻 21)。