• 検索結果がありません。

沖縄政治における「保守」と「革新」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "沖縄政治における「保守」と「革新」"

Copied!
32
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

沖縄政治における「保守」と「革新」

著者 平良 好利

出版者 法学志林協会

雑誌名 法学志林

巻 115

号 1・2

ページ 47‑77

発行年 2018‑03‑13

URL http://doi.org/10.15002/00023084

(2)

沖縄政治における「保守」と「革新」(平良)四七

沖縄政治における「保守」と「革新」

平   良   好   利

一、はじめに

1

)問題意識と課題   沖縄政治には本土で衰退した「保守」と「革新」という枠組みが今でも存在し、それを軸にして政治が展開されて

いる。言い換えると、革新勢力が力を失い、いわば全体として“保守化”している本土の政治状況とは異なって、沖

縄では保守勢力と革新勢力がともに健在なのである。つまり、僅かな例外を除いて戦後一貫して保守勢力が強かった

本土の状況とは異なり )1

(、沖縄では保守勢力も革新勢力もともに強かったのであり、逆にいえば保守勢力は本土におけ

るようには強くなかったのである。

  そのことを各種選挙結果からまずは確認しておくことにする。まず日本復帰前後から現在までの知事選挙をみると、

(3)

法学志林 第一一五巻 第一・二号合併号四八保守と革新が交互に県

政を担当しているのが

わかる )(

((表

1

) ()

(。興味

深いのは、二〇〇〇年

代に入るまでのおよそ

三〇年間、概ね一〇年単位で保革が入れ替わ

っていることである。

また一九九八年から二

〇一四年までは保守県

政が一六年も続くことになるが、それでも革新勢力がその間大き

く衰退することはなく、むしろ二〇一四年の知事選挙では一部保

守勢力と連携して翁長(雄志)県政を誕生させ、再び息を吹き返

すのであった )(

(。

  また県議会における保革の議席数をみても、両者が拮抗しているのがわかる(表

)。

  さらに衆参両院選挙をみても、保革が議席を分け合うというパ

ターンがみられるのである(表

・表

)。とりわけ、毎回一議

表 1 沖縄県知事選挙 第 1 回(197(.6) 屋 良 朝 苗(革新)

第 ( 回(1976.6) 平 良 幸 市(革新)

第 ( 回(1978.1() 西 銘 順 治(保守)

第 ( 回(198(.11) 西 銘 順 治(保守)

第 5 回(1986.11) 西 銘 順 治(保守)

第 6 回(1990.11) 大 田 昌 秀(革新)

第 7 回(199(.11) 大 田 昌 秀(革新)

第 8 回(1998.11) 稲 嶺 惠 一(保守)

第 9 回((00(.11) 稲 嶺 惠 一(保守)

第10回((006.11) 仲井眞弘多(保守)

第11回((010.11) 仲井眞弘多(保守)

第1(回((01(.11) 翁 長 志 雄(保守+革新)

表 ( 沖縄県議会議員選挙

第 1 回(197(.6) 自民 (0、社大 11、人民 6、社会 (、公明 1、無所属 ( 第 ( 回(1976.6) 自民 19、社大 10、社会 5、共産 (、公明 (、無所属 6 第 ( 回(1980.6) 自民 (0、社大 8、社会 6、共産 (、公明 (、民社 1、無所属 6 第 ( 回(198(.6) 自民 (0、社大 8、社会 5、共産 (、公明 (、無所属 7 第 5 回(1988.6) 自民 19、社大 6、共産 6、社会 (、公明 (、民社 1、無所属 8 第 6 回(199(.6) 自民 17、社大 7、社会 5、共産 (、公明 (、無所属 1(

第 7 回(1996.6) 自民 1(、社大 6、新進 6、社民 5、共産 (、公明 (、無所属 1(

第 8 回((000.6) 自民 15、社大 (、共産 (、公明 (、新進 (、社民 1、無所属 18 第 9 回((00(.6) 自民 11、社大 (、社民 (、共産 (、公明 (、結 1、無所属 ((

第10回((008.6) 自民 16、社民 5、共産 5、民主 (、公明 (、結 (、社大 (、そう 1、

無所属 9

第11回((01(.6) 自民 1(、社民 6、共産 5、公明 (、社大 (、結 (、民主 1、そう 1、

国新 1、無所属 1(

第1(回((016.6) 自民 1(、社民 6、共産 6、公明 (、社大 (、結 (、お維 (、無所属 10

*結(結の会)、そう(政党そうぞう)、国新(国民新党)、お維(おおさか維新の会)

(4)

沖縄政治における「保守」と「革新」(平良)四九

表 ( 衆議院議員選挙(沖縄県)

特別選挙(1970.11)西銘順治(自民)、瀬長亀次郎(人民)、上原康助(社会)、国場 幸昌(自民)、安里積千代(社大)

第((回(197(.1() 西銘順治(自民)、上原康助(社会)、国場幸昌(自民)、瀬長亀 次郎(人民)、安里積千代(社大)

第((回(1976.1() 瀬長亀次郎(共産)、玉城栄一(公明)、上原康助(社会)、西銘 順治(自民)、国場幸昌(自民)

第(5回(1979.10) 上原康助(社会)、瀬長亀次郎(共産)、国場幸昌(自民)、大城 眞順(自民)、玉城栄一(公明)

第(6回(1980.6) 上原康助(社会)、玉城栄一(公明)、小渡三郎(自民)、国場幸 昌(自民)、瀬長亀次郎(共産)

第(7回(198(.1() 瀬長亀次郎(共産)、国場幸昌(自民)、上原康助(社会)、仲村 正治(自民)、玉城栄一(公明)

第(8回(1986.7) 小渡三郎(自民)、上原康助(社会)、宮里松正(自民)、玉城栄 一(公明)、瀬長亀次郎(共産)

第(9回(1990.() 古堅実吉(共産)、仲村正治(自民)、宮里松正(自民)、上原康 助(社会)、玉城栄一(公明)

第(0回(199(.7) 西銘順治(自民)、仲村正治(自民)、上原康助(社会)、古堅実 吉(共産)、宮里松正(自民)

第(1回(1996.10) 白保台一(公明、1 区)、仲村正治(新進、( 区)、上原康助(社 会、( 区)

第((回((000.6) 白保台一(公明、1 区)、仲村正治(自民、( 区)、東門美津子

(社民、( 区)

第((回((00(.11) 白保台一(公明、1 区)、照屋寛徳(社民、( 区)、嘉数知賢(自 民、( 区)、西銘恒三郎(自民、( 区)

第((回((005.9) 下地幹郎(無所属、1 区)、照屋寛徳(社民、( 区)、嘉数知賢

(自民、( 区)、西銘恒三郎(自民、( 区)

第(5回((009.8) 下地幹郎(国新、1 区)、照屋寛徳(社民、( 区)、玉城デニー

(民主、( 区)、瑞慶覧長敏(民主、( 区)

第(6回((01(.1() 國場幸之助(自民、1 区)、照屋寛徳(社民、( 区)、比嘉奈津美

(自民、( 区)、西銘恒三郎(自民、( 区)

第(7回((01(.1() 赤嶺政賢(共産、1 区)、照屋寛徳(社民、( 区)、玉城デニー

(生活、( 区)、仲里利信(無所属、( 区)

第(8回((017.10) 赤嶺政賢(共産、1 区)、照屋寛徳(社民、( 区)、玉城デニー

(自由、( 区)、西銘恒三郎(自民、( 区)

*第 (0 回までは中選挙区制(当選順位に沿って記載)。第 (1 回からは小選挙区制(比例当選は除 く)。

(5)

法学志林 第一一五巻 第一・二号合併号五〇席を争う参議院選挙では、保革が交互に勝利し、

それぞれが一議席を確保するというパターンがみ

られる。また興味深いのは、定員五名の中選挙区

制度の下で行われたほとんどすべての衆議院選挙

では、自民党が二議席、革新勢力が二議席、そし

て当時は革新勢力と協力していた公明党が一議席を確保するというかたちで、革新陣営がつねに三

議席を獲得して保守陣営よりも優位に立っていた。

また一九九六年から小選挙区制度へと移行し、し

かも本土においては革新勢力が大きく衰退して自

公連立や民主党の台頭といった新しい状況が出てくる中でも、沖縄では依然として保革の枠組みが存続し、三選挙区

(のちに四選挙区)のうち一選挙区を社民党が確保し続けたばかりか、二〇一四年の衆議院選挙では、なんと自民党

候補者がすべて敗北するという事態まで発生するのであった )5

(。

  以上の選挙結果をみてもわかるように、沖縄では「保守」と「革新」がともに強く、保革が拮抗する状況が今日ま

で続いているのである。

  いま一つ沖縄の政治状況が本土と異なるのは、保革のあり方についてである。沖縄では保守勢力と革新勢力が常に

対立していたわけではなく、ときに共産党まで含めて超党派で連携し、政府と対峙した。米軍絡みの重大な事件・事

故が起こった場合、超党派で県民大会を開いて政府に抗議したり、あるいは県議会で党派を超えて抗議決議を採択し

表 ( 参議院議員選挙(沖縄県)

特別選挙(1970.11) 喜屋武真栄(革新)

稲 嶺 一 郎(保守)

第 9 回(1971.6) 稲 嶺 一 郎(保守)

第10回(197(.7) 喜屋武真栄(革新)

第11回(1977.7) 稲 嶺 一 郎(保守)

第1(回(1980.6) 喜屋武真栄(革新)

補欠選挙(198(.11) 大 城 眞 順(保守)

第1(回(198(.6) 喜屋武真栄(革新)

第1(回(1986.7) 大 城 眞 順(保守)

第15回(1989.7) 喜屋武真栄(革新)

第16回(199(.7) 島 袋 宗 康(革新)

第17回(1995.7) 照 屋 寛 徳(革新)

第18回(1998.7) 島 袋 宗 康(革新)

第19回((001.7) 西銘順志郎(保守)

第(0回((00(.7) 糸 数 慶 子(革新)

補欠選挙((007.() 島尻安伊子(保守)

第(1回((007.7) 糸 数 慶 子(革新)

第((回((010.7) 島尻安伊子(保守)

第((回((01(.7) 糸 数 慶 子(革新)

第((回((016.7) 伊 波 洋 一(革新)

(6)

沖縄政治における「保守」と「革新」(平良)五一 たりするのは、その一例である )6

(。

  また革新勢力内部の動きをみても、その内部対立を超えて共闘を組み、保守陣営に対抗するといったパターンもみ

られる。たとえば、知事選挙では統一候補を擁立して保守陣営と対峙し、何度も革新県政を誕生させている。また衆

議院選挙では、社会、共産、社大(沖縄社会大衆党)で三議席を獲得することをめざし、一方の参議院選挙では統一

候補を擁立して一議席を確保することをめざし、それを実現させている。また公明党が革新陣営と協力し始めると、

衆議院選挙では社会、共産、公明で三議席を、一方の参議院選挙では社大党で一議席を確保することをめざし、実際

にそれを実現させるのであった。このように本土ではある一時期にしかみられなかった「革新共闘」が沖縄では冷戦

期を通じて存続しており、しかもそれはかたちを変えながら今も続いているのである。

  以上のことから、沖縄では本土の政治状況とは異なって「保守」と「革新」という枠組みが今も存続しており、しかも両者ともに強く、さらにはその保革のあり方も本土のそれとは違う側面を有しているのである。ではなぜ沖縄政

治はこうも本土のそれとは異なる側面をもっているであろうか。その理由を歴史の中から探り出してみようというの

が、本稿の課題である。あらかじめ述べておけば、沖縄政治が本土のそれと異なる側面を色濃くもっているのは、米

軍統治時代の歴史が大きく作用しているのではないか、ということである。つまり、沖縄が二七年間も本土から切り

離され、米軍統治下に置かれていたというその歴史的経験が、今に至る沖縄政治の原型を形づくったのではないか、

というのが筆者の見解である。したがって本稿では、米軍統治時代の沖縄政治の特質を抽出することを通じて、上記

の課題に迫ってみたいと思う。

(7)

法学志林 第一一五巻 第一・二号合併号五二

)予備的考察   まず本論に入る前に、この時代の基本的な事柄を確認しておきたい )7

(。まず米軍統治時代の沖縄で絶対的な権力を握

っていたのは、もちろん米軍である。その米軍側の統治機構(一九四五年~五〇年までは米軍政府、それ以後は米民

政府)の下に住民側の統治機構が置かれ、その統治機構は沖縄民政府(一九四六年~五〇年)→沖縄群島政府(五〇

年~五二年)→琉球政府(五二年~七二年)へと変わっていった。戦後初期に置かれた沖縄民政府は、その知事も議会議員も米軍によって任命され、しかも議会は立法機関ではなく、単なる知事の諮問機関に過ぎなかった。続いて設

置された沖縄群島政府は、その知事も議会議員も選挙によって選ばれたが、その体制は長くは続かず、一九五二年に

琉球政府が設置されるや、それが日本復帰の一九七二年まで続くのであった。

  この琉球政府における立法部門(立法院)と行政部門(行政主席)の選出方法は異なっており、前者の立法院議員

は選挙によって選出されたが、後者の行政主席は米軍によって任命された。したがって、琉球政府の設置以後は沖縄

の民意は主として選挙によって選ばれた立法院議員を通じて示されることになり、その立法院で展開される政党の動

きが重要なものとなる。また、米軍統治下の沖縄では院外で展開される大衆運動も重要であり、これを主導したのが

労働組合や各種民間団体とともに政党であり、したがってこの点からも政党の動きは重要なものとなる。

  米軍統治時代の沖縄における主要政党は、琉球民主党(のちに沖縄自民党)、沖縄社会大衆党、沖縄人民党、そして沖縄社会党の四党であった。この四党のなかでいち早く結成されたのは、瀬長亀次郎率いる人民党である。一九四

七年七月に結成された同党は、米軍権力に最も抵抗した政党であり、日本復帰後は日本共産党に合流している。続い

て一九五〇年一〇月に結成されたのは、平良辰雄を初代党首とする社会大衆党である。同党は「中道政党」としてス

(8)

沖縄政治における「保守」と「革新」(平良)五三 タートし、その後徐々に左傾化して革新勢力の要としての役割を果すが、復帰後は唯一本土政党との合流を拒み、いわば地域政党としての道を歩んでいくことになる。  次いで一九五二年八月に結成されたのが、この社大党を離党した初代行政主席の比嘉秀平を党首とする琉球民主党である。同党は「沖縄保守」の源流となった政党であり、一九五九年には沖縄自民党となり、復帰後は日本自由民主

党に合流している。そして最後に結成されたのが、沖縄社会党である。社大党を離党

した者たちを中心に一九五八年二月に結成された同党は、結党時から日本社会党の支

部的存在であることを公言し、のちに同党に合流していくことになる。

  詳しくは後述するが、一九五〇年代の末ごろから本土における保革対立の枠組みが 沖縄にも流入し、沖縄自民党は「保守勢力」と規定され、一方の社大、人民、社会の三党は「革新勢力」として規定されるようになる )8

(。この四党の立法院での議席数を確

認しておくと(表

5

) 9)

(、一九五〇年代は民主党と社大党がその勢力を二分し、六〇年

代に入ると民主党の後身である沖縄自民党が優位を保っているのがわかる。しかしだ

からといって、沖縄自民党が圧倒的に強かったわけではなく、一九六八年の主席選挙

では革新陣営の推す屋良朝苗が勝利するのであった。

  以上のことを踏まえた上で、まず最初に保守勢力について考察し、次いでそれに対

抗した革新勢力について検討し、最後にこれらの考察を踏まえた上で、米軍統治時代

の沖縄政治の特質を抽出してみたい。

表 5 立法院議員選挙 第 1 回(195(.() 社大 15、人民 1、無所属 15 第 ( 回(195(.() 社大 1(、民主 11、人民 (、無所属 ( 第 ( 回(1956.() 民主 16、社大 8、人民 1、無所属 ( 第 ( 回(1958.() 社大 9、民主 7、民連 5、無所属 8 第 5 回(1960.11) 自民 ((、社大 5、人民 1、無所属 1 第 6 回(196(.11) 自民 17、社大 7、人民 1、社会 1、無所属 ( 第 7 回(1965.11) 民主 19、社大 7、社会 (、人民 1、無所属 ( 第 8 回(1968.11) 自民 17、社大 8、人民 (、社会 (、無所属 (

(9)

法学志林 第一一五巻 第一・二号合併号五四

二、沖縄保守勢力について

1

)琉球民主党   初代行政主席の比嘉秀平を党首とする琉球民主党が一九五二年八月に結成されたことは、先にみた通りである。同党は自由主義と共産主義が対立する米ソ冷戦の国際情勢を強調した上で、みずからは「自由民主主義」に則って「庶

政の刷新を期する」政党であることを強調している )((

(。当時勢力を二分していた社大党がとりたて米ソ冷戦の論理を持

ち出さなかったこととは対照的に、民主党はみずからの存在を正当化するために冷戦イデオロギーを必要としたので

ある。

  この民主党が結成されるおよそ半年前、すなわち同年三月二日に第一回立法院選挙が行われるが、その結果は社大

一五、無所属一五、人民一であった。この無所属議員一五名と社大党を脱党した四名の立法院議員が民主党結成に参

画し、これによって立法院での議席数は民主一九、社大一一、人民一となって民主優位となる。しかし、その後に行

なわれた二度にわたる補欠選挙で民主党は連敗し一七議席へと落ち込み、しかも一九五三年一二月に奄美群島が日本

に返還されたことによって、奄美群島選出の立法院議員七名を失うことになる。こうして民主党と社大党は議席数で拮抗することになるが、翌一九五四年三月に行なわれた第二回立法院選挙では、社大党が一二議席を獲得して第一党

の座を占めることになる。任命主席をみずからの党首とし、米軍権力を後ろ盾にしていたとはいえ、民主党の権力基

盤は盤石ではなかったのである。

(10)

沖縄政治における「保守」と「革新」(平良)五五   この状況に危機感をいだいた民主党は、これまで以上に米軍側と協力し、社大党や人民党に「反米」や「容共」のレッテルを貼ることによってみずからの正当性を確保しようとする。選挙後に米軍に送った書簡で同党は、みずからが「軍の犬という悪宣伝のため」に「近い将来に於いて衰亡するのではないかと憂慮される」と述べて、「反米容共 者」の社大党と「共産主義者」の人民党に対して対策をとるよう要望する )((

(。これに歩調を合わせた米軍は、同年五月、

「沖縄における共産主義の先頭」に立っている者は人民党の瀬長亀次郎と大湾喜三郎、そして社大党の兼次佐一(党

書記長)であると名指しで批判し、さらに同年一〇月には沖縄から退去命令の出ていた奄美出身の人民党員をかくま

ったとして、瀬長ら人民党幹部を犯人隠匿幇助罪等で逮捕するのであった(いわゆる人民党事件)。かくして、民主

党は一九五六年三月の第三回立法院選挙において、一六議席を獲得して第一党の座を取り戻すことになる。

  しかし、その状態が安定したかというと、決してそうではなかった。選挙後同党を待ちうけていたものは、あの沖縄戦後史上有名な「島ぐるみ闘争」と、闘争中の比嘉秀平の死であった。この島ぐるみ闘争とはアメリカの軍用地政

策(軍用地代の一括払いや新規土地接収など)に対する沖縄住民の文字どおりの“島ぐるみ”の抵抗をさすが、この

闘争の戦列に民主党も加わることになる )((

(。いかに米軍の庇護下にあったとはいえ、住民の利害が脅かされた場合、同

党は住民の側に立って行動したのである。

  しかし深刻なのは、比嘉である。民主党の党首であり、また任命主席でもあった比嘉は、住民側と米軍側の利益が

一致する場合にはうまく対応できたが、両者の利害が相反した場合、極めて困難な立場に立たされることになる。つ

まり、米軍側に軸足を移しすぎると党から反発をくらい、逆に住民側に軸足を移しすぎると米軍から見限られるとい

う立場に置かれるのである。そして民主党も、この比嘉の対応次第では大きな影響を被ることになる。党首である比

嘉が米軍側に軸足を移した場合、同党は住民から支持を失って、党の存立基盤が揺るがされるからである。住民の支

(11)

法学志林 第一一五巻 第一・二号合併号五六持を最終的な基盤とする同党にとって、これは構造的な問題であり、また本質的な弱さであったといえよう。この米

軍と住民のあいだで板挟みとなった比嘉は、苦悩のなか同年一〇月、狭心症で急死する。

  この比嘉の死を受けて第二代行政主席に任命されたのが、那覇市長の当間重剛である。当間はどの政党にも属して

おらず、琉球政府は米軍の「代行機関」にすぎないことをはっきりと公言した人物であった。その当間が主席となっ

たことで民主党はみずからの後ろ盾を失い、結局のところ一九五八年三月の第四回立法院選挙では、これまでの一六

議席から七議席へと大幅に転落し、八議席を獲得した社大党に第一党の座を明け渡すことになる。いかに民主党が主席と米軍をみずからの生命線にしていたのかが、これによってよくわかる。

)沖縄自民党   かくして、この状況に危機感をいだいた米軍は、親米勢力の再結集を促すことになる。そして一九五九年一〇月、

民主党所属議員と当間派の無所属議員などが手を結び、新たに沖縄自由民主党を結成するのであった。党首はのちに

第三代行政主席となる大田政作が就任するが、その大田の下で、党の組織化が強力に推し進められることになる )((

(。そ

の成果もあってか、翌一九六〇年一一月の第五回立法院選挙では、これまでで最高の二二議席を獲得して大勝するの

であった。こうして権力基盤を固めた沖縄自民党は、これまでのような米軍一辺倒の態度を変更して、日本政府およ

び本土自民党との関係を強化する方向に進む。日米双方と協力し、その双方から援助金を獲得して、それでもって沖縄の経済振興を図っていくというやり方で、みずからの正当性を確保しようとするのである )((

(。

  しかし、これで保守勢力が安定したかというと、決してそうではなかった。一九六四年に入ると同党は内部対立、

そして分裂という混乱をみせるのである。その混乱の背景には、またしても米軍との関係があり、新しく高等弁務官

(12)

沖縄政治における「保守」と「革新」(平良)五七 となったキャラワェイによる強権統治があった。予算案や法律案に対する米軍当局の事前事後調整が強化されたことや、医療法案や労働災害補償保険法など立法院で可決された諸法案がキャラウェイによって相次いで廃案にされたことなどが、この強権統治の典型的な例である )((

(。

  これに対して行政主席の大田政作が何の抵抗も示さず従順な姿勢を示したことから、沖縄自民党内では大田批判が 渦巻くことになる。同党は他の政党と同様に「主席公選の促進」や「自治権の拡大 )((

(」などを掲げていたが、このキャ

ラウェイの強権統治によってそれが阻害されるような事態になったわけである。結局、長嶺秋夫や吉元栄真ら有力幹

部を含む同党所属議員一一名(残留は七名)と、那覇市長の西銘順治らがこぞって脱党し、同党は五年も経たないう

ちに分裂という事態に陥るのであった。そして脱党組は、革新勢力の進めていた「主席公選、自治権獲得」闘争に合

流し、米軍側と対峙することになる。ここには住民側と米軍側の利害が相反した場合に深刻なジレンマに陥るという同党のもつ構造的な弱さが現われていると同時に、その際には住民側に立って行動するという同党のいま一つの特徴

もみることができよう。

  しかしそうはいっても、米軍権力をみずからの生命線としていたのが当時の保守勢力である。また米軍は米軍で、

沖縄統治をスムーズに進めていくためには、みずからと協調路線をとる保守勢力が分裂した状態にあるのは決して好

ましいものではなかった。キャラウェイの後任のワトソン高等弁務官は融和路線に態度を変え、彼らに保守合同を促

すことになる。一方、こうした米軍側の対応を受けて保守勢力も態度を軟化させ、また本土の自民党からの働きかけ

もあり、再び保守合同に向けて動き出すのであった。かくして、一九六四年一二月に脱党組と残留組がいま一度手を

結び、新たに民主党を結成することになる。党首には第四代行政主席に任命された松岡政保が就任し、その松岡を先

頭に立てて、翌六五年一一月に行われた第七回立法院選挙では、同党が一九議席を獲得して第一党の座を維持するの

(13)

法学志林 第一一五巻 第一・二号合併号五八であった。

  このように幾度も混乱と動揺を経験しつつ権力を維持してきた保守勢力であったが、その彼らを待ちうけていたも

のは、主席公選の実施である。沖縄返還がいよいよ現実のものになりはじめてきた一九六八年四月、ワトソンの後任

のアンガー高等弁務官が主席公選の実施を発表したのである。主席任命制がとられてから実に一六年ぶりに、住民は

みずからの政治・行政リーダーをみずからの手で選びとるという機会を与えられたわけである。この一大選挙に保守

勢力が擁立したのは、保守のホープである那覇市長の西銘順治であった。前年一二月に民主党は党名を沖縄自由民主党(沖縄自民党)に再び戻すが、その沖縄自民党の総裁の座に収まったのが西銘である。

  これに対して革新勢力は、日本復帰運動のシンボル的存在であった沖縄教職員会会長の屋良朝苗を擁立し、選挙戦

に臨むことになる。この西銘と屋良を本土の自民党と革新勢力がそれぞれ支援するなか、一九六八年一一月に行なわ

れた戦後初の主席選挙では、屋良が西銘に三万票あまりの差をつけて勝利するのであった。沖縄住民はみずからのリ

ーダーとして、革新勢力の推す屋良を選んだわけである。

  かくして、米軍の庇護下で権力を維持してきた保守勢力は、以後一〇年間にわたり“冬の時代”を迎えることにな

る。まず日本復帰後最初に行なわれた知事選挙(一九七二年六月)では、保守陣営の推す元行政主席の大田政作が屋

良に七万票以上の差をつけられて大差で敗北する。そしてその四年後に行なわれた第二回知事選挙(一九七六年一一

月)では、自民党は候補者を擁立することもできず、結局のところ民社党の安里積千代(前社大党委員長)を担ぎ出して選挙戦に臨むことになるが、これまた革新陣営の推す平良幸市(現社大党委員長)に三万票あまりの差をつけら

れて敗北するのであった。

  こうした長い“冬の時代”を抜け出て保守勢力が県政を奪還するのは、主席選挙で西銘が敗れてちょうど一〇年後、

(14)

沖縄政治における「保守」と「革新」(平良)五九 すなわち一九七八年に入ってからであった。任期半ばで平良幸市が病気で辞職し、それを受けて行われた第三回知事選挙で衆議院議員となっていた西銘が再び挑戦し、革新陣営の推す知花英夫(社大党)を二万六〇〇〇票差で破り、雪辱を果たしたのである。以後、西銘が三期一二年県政を担い、一九八〇年代はこれまでとは打って変わり“保守全盛”の時代となるのであった。  以上、ここまでは保守勢力の動向に焦点をあてて、同勢力が必ずしも強くなかったことをみてきたが、次節ではもう一方の革新勢力に焦点をあて、同勢力が必ずしも弱くなかったことを考えてみたい。

三、沖縄革新勢力について

1

)沖縄社会大衆党   まず沖縄の革新勢力を考える上で重要なのは、沖縄社会大衆党、すなわち社大党の存在である。本土においては

「五五年体制」以後、自民党に対抗する野党第一党の地位にあったのは、いうまでもなく日本社会党である。しかし

沖縄では、この日本社会党の支部的存在であった沖縄社会党はまったくの弱小政党であり、野党第一党の地位にあっ

たのは社大党であった。

  社大党がなぜ野党第一党の地位にあり、しかも一九五〇年代は琉球民主党と勢力をほぼ二分するほどの強さを持っ

ていたのかについては、同党の誕生経緯と党の性格をみる必要がある。同党は前述したように一九五〇年一〇月に平

良辰雄を党首として結成された政党であるが、その背景には同年九月に行なわれた沖縄群島政府知事選挙があった。

(15)

法学志林 第一一五巻 第一・二号合併号六〇これまで米軍の任命によって知事が選ばれていたことを考えると、戦後初めて行われたこの知事選挙は、米軍占領下

にあったとはいえ、沖縄の「民主主義」にとってはまさに一大エポックであった。

  この知事選挙に名乗りをあげたのは、沖縄民政府工務部長の松岡政保、琉球農林省総裁の平良辰雄、沖縄人民党党

首の瀬長亀次郎の三名であったが、選挙は事実上、松岡と平良の一騎打ちの様相を呈した。松岡政保は一五歳でハワ

イ移民としてアメリカに渡り、米トライステート工科大学を卒業して長くアメリカで生活したあと、三九歳で帰郷

(一九三六年)し、沖縄製糖嘉手納工場で技師や工場長を務めた人物である。戦前はまったくと言ってよいほど無名であった松岡だが、戦後は米軍占領下でその“米国通”が買われ、民政府工務部長に抜擢される。地上戦で廃墟と化

した沖縄では各種インフラ建設など戦災復興が最大かつ緊急の課題であったが、その復興事業を一手に担ったのが、

この松岡率いる工務部である。民政府の一部局でありながらも同政府予算全体のおよそ五倍にものぼる膨大な復興費

を米軍から直接割り当てられていた工務部は、まさに当時絶大なる力を持っていたのである。

  対する平良辰雄は、第八高等学校中退後に沖縄県庁に入庁し、県出身者として初めて課長(振興計画課長)にまで

のぼりつめたエリートであり、戦時中は大政翼賛会沖縄県支部壮年団長なども務めた人物である。また、戦前は県農

業会会長を務め、戦後も農業組合連合会会長や琉球農林省総裁を歴任した人物である。この平良を支えたのが、民政

府知事の志喜屋孝信、副知事の又吉康和、行政法務部長の当間重剛、官房長の比嘉秀平、琉球海運社長の桃原茂太ら

であり、なかでも中心になって支えたのが、当間、桃原、比嘉の三名であった。

  平良の親友の当間は、京都帝国大学法学部を卒業し、戦前は那覇市長や大政翼賛会沖縄県支部長などを歴任し、戦

後は民政府で経済部長や行政法務部長を歴任し、のちに第二代行政主席となった人物である。また平良と中学が同窓

の桃原は、東京帝国大学法学部を卒業し、戦前は弁護士や県選出衆議院議員を務めた人物である。そしてのちに平良

(16)

沖縄政治における「保守」と「革新」(平良)六一 と袂を分かち初代行政主席となる比嘉は、早稲田大学文学部英文学科を卒業して英語教員となり、その後沖縄県立第三中学校の教頭を務め、戦後はその英語力と行政能力が買われて民政府で翻訳課長や官房長などを歴任した人物である。なお、つけ加えて言えば、選挙の実働部隊として平良を支えたのは、のちに保守勢力のリーダーとなる西銘順治ら本土の大学を卒業した若手インテリたちや、青年団の幹部らであった。  このようにみると、沖縄民政府内の「親松岡」と「反松岡」の対立、そして「戦前からのエリート」と「戦後の新興エリート」との対立が複雑に絡み合った構造をしていることがわかる。この一大選挙を制したのは、「反松岡」で

あり「戦前からのエリート」の平良辰雄であった。選挙結果は平良が一五万八五二〇票、松岡が六万九五九五票、瀬

長が一万四〇八一票と、平良が松岡に二倍以上の差をつけて大勝したのである。住民は占領下沖縄のリーダーとして、

米軍の庇護下で絶大なる権力を揮う松岡ではなく、米軍とやや距離を置いていた戦前のエリート平良を選んだわけである。また、続けて行なわれた沖縄群島議会選挙でも、平良の応援する候補者が二〇議席中一五議席を獲得する。か

くして、この平良陣営の圧倒的な勝利を背景にして結成されたのが、社大党であった。

  同党はイデオロギーを前面に打ち出すことなく、「ヒューマニズムを基底」とした「革新的政策」を実施する「国 民的政党」であることを強調している )((

(。そして、平良率いる沖縄群島政府の与党となるや、同党は、アメリカ統治か

らの脱却、すなわち日本復帰に向けた行動を開始することになる。まず一九五一年三月一八日に臨時党大会を開き、

日本復帰を要望する「声明書」を採択し、翌一九日には群島議会で日本復帰要請決議案を提案し、一七対三の圧倒的

多数でこれを可決する。そして瀬長亀次郎率いる沖縄人民党と協力して復帰署名運動を展開し、有権者の実に七二パ

ーセントの署名を集め、住民の復帰意思を内外に示すのであった。

  このように社大党が全力を挙げて日本復帰署名運動に取り組んでいる最中の同年六月、同党幹部の比嘉秀平がこれ

(17)

法学志林 第一一五巻 第一・二号合併号六二に冷や水を浴びせるような発言をし、党内から激しい反発を受ける。比嘉は共同通信社の記者に対して、次のように

述べている。「帰属問題について世論の実際を知るには署名運動よりも国民投票の方が當然だし、日本帰属の日が将

来くるとしても信託統治の期間は必要かつ必然的なものである )((

(」。この比嘉の発言にとりわけ怒りをあらわにし、比

嘉批判の急先鋒に立ったのは、のちに沖縄保守政界のドンとなる西銘順治ら若手の党幹部たちであった。比嘉と党幹

部の関係を修復しようという試みが何度もなされるが、結局のところ両者の対立は収まらず、比嘉は一九五二年三月

に党を離党することになる。そして比嘉は、同年四月に発足した琉球政府(これにより群島政府は廃止)の初代行政主席に米軍によって任命されるのであった。

  かくして、政治的に孤立した比嘉が手を結んだ相手が、あの群島政府知事選挙で平良に大敗した松岡である。この

比嘉と松岡が中心となって結成した政党が、前出琉球民主党である。ここまでの経緯をみれば、結成当初民主党が必

ずしも住民から強い支持を得られていなかったことがわかる。逆にいえば、一方の社大党が民主党と勢力を二分する

ほどの支持を得ていたことは、同党が群島政府知事選挙における平良の圧倒的な勝利を背景にできた政党であり、し

かも多くの住民が望む日本復帰の実現に精力を挙げて取り組んだという歴史的経緯をみればよくわかる。また、米軍

に庇護された民主党には賛成できないが、かといって「共産主義」のレッテルを貼られた人民党を支持するまでには

いかないような人々の受け皿になったことも、社大党が野党第一党の地位を維持しえた理由の一つとしてあったとい

えよう。

  一九五〇年代の末ごろから本土における保革対立の枠組みが沖縄に流入してくると、沖縄の政治空間は保革で色分

けされるようになり、そのなかで社大党は人民党や社会党とともに「革新勢力」として位置づけられることになる。

沖縄人民党が日本共産党と、また沖縄社会党が日本社会党とそれぞれ関係を深めていき、徐々にイデオロギー的な側

(18)

沖縄政治における「保守」と「革新」(平良)六三 面が強くなっていったのに対し、本土革新勢力と一定の距離を保っていた社大党は、この保革対立という政治空間にあってもイデオロギー色はあまり前面には出さず、いわば「中道左派」としてのポジションに立って行動したのである。そうした性格の社大党が野党第一党の地位を維持し、その社大党が人民・社会両党のあいだに立って、いわば

「まとめ役」としての役割を果すのであった。人的関係でも政策でも社大党に近い屋良朝苗 )((

(が革新統一候補として一

九六八年の主席選挙ならびに七二年の第一回県知事選挙に出馬したことや、あるいは社大党の委員長を務めた平良幸

市が同じく革新統一候補として七四年の第二回知事選挙に出馬したことなどをみても、社大党の存在がいかに重要で

あったのかがわかる。同党が革新勢力の「要」といわれたゆえんは、まさにこうしたところにあったのである。

)沖縄人民党と沖縄社会党   沖縄の革新勢力を考える上でいま一つ重要なのは、瀬長亀次郎率いる沖縄人民党の存在である。同党は前述したよ

うに最も反米的な性格をもった政党であり、日本復帰後は日本共産党に合流していった政党である。同党は、民主党

や社大党ほどには住民から支持を得られていたわけではなかったが、米軍統治下にあってはある一定の支持を得てい

たことは確かである。とりわけ、米軍への一貫した抵抗姿勢や聴衆をひきつける演説のうまさなどもあって、党首瀬

長亀次郎の個人的な人気は高かった。

  先に述べたように、米軍は一九五四年に瀬長を「共産主義者」としてレッテルを貼り、強引なかたちで逮捕・投獄

している。また五六年に彼が出獄し、那覇市長選挙で勝利して沖縄の中心都市の市長に就任すると、米軍は市への補

助金を打ち切って圧力をかけ、最終的には市町村自治法と選挙法を布令によって改正し、彼を市長の座から追放する

のであった。こうして米軍が弾圧を加えれば加えるほど、逆に瀬長人気は高まっていき、翌五八年一月の那覇市長選

(19)

法学志林 第一一五巻 第一・二号合併号六四挙では彼の支援した兼次佐一(人民党第二代委員長、社大党初代書記長)が当選したほか、同年三月の立法院選挙で

は瀬長率いる民連(民主主義擁護連絡協議会)が五議席も獲得するという快挙をみせる。また、日本復帰を目前に控

えた一九七〇年の国政選挙(衆議院選挙)において瀬長が二番手で当選したことは、彼の人気の高さを物語っている。

同党が日本共産党沖縄県委員会へと移行したあとも、県民の一部から根強い人気を得ているその背景には、こうした

米軍統治時代の瀬長および同党の「抵抗の軌跡」があったといえよう。

  最後に沖縄社会党であるが、同党は那覇市長に就任した兼次佐一を党首にして一九五八年二月に結成された政党である。本土における日本社会党が野党第一党の地位にあったのとは対照的に、沖縄社会党は社大、人民に次ぐ野党第

三党の地位にあった。また日本社会党が総評(日本労働組合総評議会)の全面的バックアップを受けていたのに対し、

沖縄社会党は沖縄最大のナショナルセンターである県労協(沖縄県労働組合協議会)と密接な関係にあったわけでは

必ずしもなかった。いやむしろ、県労協の幹部らは社会党よりも社大党を支持するところがあり、彼らが社会党の党

員となるのは、日本復帰を間近に控えた一九七〇年の国政選挙の時であった )((

(。この選挙で社会党は第二代党首の宮良

寛才ではなく、当時軍雇用員の解雇撤回闘争で一躍脚光を浴びていた全軍労(全沖縄軍労働組合)委員長の上原康助

を擁立し、その上原を県労協が全面的に支援し、当選させるのであった。労働組合と密接に結びついてきたこの頃か

ら、ようやく沖縄では社会党が存在感を示しはじめるのである。

  以上、社大、人民、社会各党の動きをみてきたが、これら沖縄の革新勢力の動きで興味深いのは、本土の革新勢力とは異なって協力関係が割合うまく機能していた、ということである。一九五〇年代前半に民主党に対抗して社大党

と人民党が協力して統一候補を当選させたり、あるいはその当選者を米軍が強引なやり方で当選無効を言い渡すと

(天顔事件)、両党で共闘を組んでそれに反対したのは、その一例である。また、沖縄社会党が結成されたあとは、同

(20)

沖縄政治における「保守」と「革新」(平良)六五 党も含めて三党が協力して日本復帰運動を推進したり、あるいは自治権拡大闘争などを行なうのであった。  さらに、この革新勢力間の協力という点で言えば、本土における革新勢力内部の対立関係が沖縄に持ちこまれたあとも、その対立関係を乗り越えて協力体制を維持することができた、という点は重要である )((

(。一九六〇年代前半に

社・共の対立関係が持ちこまれると、沖縄でも人民党系労組(共産党系)と反人民党系労組(総評系)の対立が生じ

ることになり、結局のところ労働運動は分裂することになる。また原水禁運動でも「人民」「反人民」の対立が生じ、

これまた本土と同様に二つの組織に分かれるのであった。しかし重要なことは、こうした「人民」「反人民」の対立

関係が日本復帰運動にも待ち込まれはしたが、結局のところ組織分裂までには至らず、復帰協(沖縄県祖国復帰協議

会)という統一組織の下で協力体勢を維持したということである。その理由について当時復帰協事務局長をしていた

吉元政矩は、次のように述懐している。「復帰運動は他の運動とは異なり、思想信条を抜きにした県民ぐるみの運動として捉えられていたからです )((

(」。当時最大の課題であった日本復帰を実現していくためには、党派的な対立を極力

排除しなければならないという認識が、革新勢力間にはあったのである。

  この内部対立を乗り越えた沖縄の革新勢力は、前述の通り一九六八年の主席選挙で屋良朝苗を統一候補に擁立し、

保守陣営に勝利することになる。保守陣営がその後“冬の時代”に入っていったのとは対照的に、革新陣営はそれ以

後一〇年もの間、屋良、平良県政を立て続けに誕生させ、まさに黄金時代を築き上げるのであった。

(21)

法学志林 第一一五巻 第一・二号合併号六六

四、米軍統治時代の沖縄政治の特質

1

)政策距離の近さ   以上の考察を踏まえた上で、最後に米軍統治下における沖縄政治の特質を考えてみたい。まず第一に注目すべきは、沖縄の主要四党がいずれも「日本復帰」を党の方針として掲げていたということである。つまり、四党ともアメリカ

統治からの脱却をめざしていたのである。本土では一九五二年の対日平和条約の発効によってアメリカ占領を終わら

せるが、一方の沖縄は同条約第三条によって引き続きアメリカの統治下に置かれることになる )((

(。この第三条に基づく

米軍の支配体制を打破して日本に復帰するというのが、これら四党の最大課題であった。しかも留意すべきは、この

外国支配体制からの脱却がイコール沖縄独立ではなく、日本国への復帰であったということである。したがって、外

国支配からの脱却をめざす独立派とその支配体制に寄生する体制擁護派との対立という構図ではなく、沖縄の主要政

党はその濃淡こそあれ、すべて“体制打破”勢力としての側面を持っていたのである。

  第二に注目すべきは、日本本土の政治状況とは異なって、沖縄ではイデオロギー的対立が弱かったということであ

る。講和・独立したあとの本土では、とりわけ「五五年体制」の成立後には、アメリカを中心とする自由主義陣営に与して「資本主義経済システム」「欧米流民主主義」を擁護する自由民主党と、「親ソ」「親中」路線をとって国権型

社会主義をめざす左派優位の日本社会党が対立する政治構図、すなわち「自由主義」か「社会主義」かといったイデ

オロギー的対立の構図が政治の主線を形づくっていたといえる )((

(。

(22)

沖縄政治における「保守」と「革新」(平良)六七   しかし、沖縄では野党第一党の社会大衆党が「社会民主々義のよさ」を取り入れるとは言いつつも、「必ずしも社 会主義の繁栄を願う政党ではない」と表明していた )((

(。また当時最も反米的な政党であった人民党も、「共産主義」の

実現を掲げていたわけではなかった。これら両党とは異なり唯一「社会主義」の実現を謳っていたのは社会党である

が、同党は当時沖縄で大きな影響力は持っていなかった。したがって、沖縄では「自由主義」か「社会主義」(共産

主義)かといった体制そのものをめぐる対立はなかったのである。いや、なかったというよりも、自由主義陣営の盟

主であるアメリカに直接統治され、しかも共産主義陣営と戦うための主要基地群のあった沖縄では、そもそも共産主

義を認める余地はなく、よってこうした対立自体が成り立ち得なかったのである。

  これに関連して言えることは、むしろ米軍統治下にあっては保守勢力のほうが、米ソ冷戦のイデオロギーを必要と

したということである。多くの住民が日本復帰を望むなか、革新勢力が保守勢力よりも日本復帰を強く主張し、また米軍権力と対峙したことによって、革新勢力はそれだけでみずからの正当性を確保することができた。しかし一方の

保守勢力は、米軍権力を後ろ盾にしていたがゆえに、その正当性を確保するためには「自由主義」や「反共」などと

いった冷戦イデオロギーを必要としたのである。

  この体制をめぐる対立に関連していま一つ言えることは、本土では日米安保条約をめぐって保革の対立が繰り広げ

られたが、一方の沖縄ではそもそも安保条約は適用されておらず、これをめぐる対立も起こりえなかったのである。

復帰協元事務局長の吉元政矩は、当時を振り返って次のように述べている。「日米安保条約は沖縄に適用されていな

った。安保の議論というものは、日常的な五〇年代、六〇年代の復帰運動のなかでは必要なかった )((

(」。

  以上のことを考えると、米軍統治時代の各党の政策距離は、本土のようには離れていなかったといえよう。つまり、

自由主義か社会主義かといった体制をめぐる対立もなく、これと密接に関連した日米安保条約をめぐる対立もなく、

(23)

法学志林 第一一五巻 第一・二号合併号六八しかもどの政党も日本復帰を最大の課題としていたことから、沖縄における政党間の政策距離は、意外にも近かった

のである。

)沖縄政治における争点   このように政策距離が近いなかにあって保革が対立したものは、日本復帰を実現していくための方法についてであ

る。まず革新勢力は、一九六〇年に復帰協という統一組織をつくり、沖縄と本土で「国民運動」を強力に展開し、住民の復帰意思を内外に示すことをめざした。つまり、大衆運動を盛り上げることによって日米両政府に圧力をかけ、

それによって復帰を実現していくことをめざしたのである。一方、この復帰協への参加を呼びかけられた沖縄自民党

は、「抵抗や闘争によって住民の悲願である祖国復帰をかちとろうという考え方には多くの難点がある」という談話

を発表し、復帰協への参加を拒否している )((

(。このように大衆運動に否定的な態度をとった同党は、「祖国との一体化」

政策なるものを打ち出すことになる。すなわち、現在の厳しい国際情勢を考えれば「今すぐに祖国復帰が実現でき

る」とは「全く考えられない」ため、「祖国との実質的一体化を図る」というアプローチをとったのである )((

(。

  同党が言うには、「祖国と切り離されて、現在われわれが特に著しく不便不自由をしている点」は、第一に米軍の

布告・布令などによって「満足な自治ができない」こと、第二に法域を異にするため「本土との往来や交易がスムー

ズにゆかない」こと、そして第三に「本土政府の庇護や援助を受けるのに種々の不便不自由がある」ということである。したがって、この「三つの障壁」を日本、アメリカ、沖縄の三者間の信頼と理解を深めていくなかで、一つ一つ

取り除いていくというのが同党の主張であった。そしてそれが実現すれば、「祖国とのつながりにおいて、東京都民

や鹿児島県民と何ら異なるところのない国民生活ができて、実質的に 4444祖国と一体となることができる」(傍点は平良)

(24)

沖縄政治における「保守」と「革新」(平良)六九 というのである。  この両者の態度をみてもわかるように、日本復帰という目標は同じであっても、そのアプローチは大きく異なっていたのである。そして両者のアプローチを比較すると、住民に訴える力としてはやはり大衆運動を強力に推進した革新陣営のほうが強かったといえよう。一九六八年の主席選挙で革新陣営の推す屋良朝苗が勝利したことについて日本政府沖縄事務所は、次のような興味深い分析をしている )((

(。「さまざまの要因を押さえて、屋良政権を誕生させたもの

は、(中略)二三年にわたる異民族支配への拒絶反応、言葉をかえていえば、祖国復帰の熱願であり、祖国復帰に取

り組む政治姿勢のいかんであった」。つまり同事務所は、対日平和条約の発効後一貫して沖縄の日本復帰運動の中心

的存在であった屋良が当選するのは「自然の成行き」であった、というのである。

  このように「祖国復帰に取り組む政治姿勢のいかん」が主席選挙の勝敗を分けた、というのが同事務所の分析であったが、ちょうどそのころから復帰の具体的な中身をめぐって保革のあいだで対立がみられるようになる。すなわち、

在沖米軍基地に対してどういうスタンスに立つのか、またその米軍基地の根拠となりうる日米安保条約に対していか

なる態度を示すのか、さらには日本復帰後の生活や経済をどう考えるのか、といった問題が前面に浮上してくるので

ある。

  これに対する沖縄自民党の態度は、日米安保条約を支持し、その安保条約の適用下に在沖米軍基地を置く、という ものであった )((

(。もっとも、このように安保や基地の問題を取り上げてはいるものの、同党が重視するのはやはり生活

や経済の問題であり、復帰後は「本土と沖縄が緊密に連携し、施政権分離によって生じたあらゆる面の格差を是正す

るとともに、国の適切なる施策によって沖縄の総合開発計画を具体的に推進する」ということを強調している )((

(。こう

した生活・経済重視の保守陣営に対し、革新陣営は「反戦平和」の考えを前面に持ち出した上で、安保条約の廃棄と

(25)

法学志林 第一一五巻 第一・二号合併号七〇米軍基地の撤去を主張することになる )((

(。かくして、この復帰の内実をめぐる政策論争のなかで、保守勢力は「経済問

題」重視、一方の革新勢力は「基地問題」重視というかたちで、両者の特徴とイメージが定着していくのであった。

  しかし、この「経済」と「基地」に関する両者の政策を詳しくみると、それほど両者のあいだで大きな違いがあっ

たわけではなく、むしろ同じ方向性を持っていたことがわかる。基地を全面的に撤去するかどうかは別にして、米軍

基地の整理縮小をめざすという点では保革ともに一致しており、また基地経済からの脱却を図るという点でも両者の

あいだに違いはなかった )((

(。したがって、こうした基地の整理縮小や経済振興といった地域レベルの問題では、両者のあいだで本質的な違いはなく、ただその力点の置きどころが異なっていたのである。

)保革対立と“中道性”

  以上のことから考えると、沖縄政治の特質の一つは、その政党間の政策距離が近いこと、すなわちそこから導き出

される“中道性”というものにあったといえるのではないだろうか。したがって、保革対立の政治空間のなかにあっ

ても、両勢力がときに超党派で行動したり、あるいは同じ方向性をもって行動することができたのは、この“中道

性”というものが土台にあったからではないか、というのが筆者の見解である。しかも保革対立の枠組みが入ってく

る前の一九五〇年代を考えると、各政党間の政策距離はより近いものがあり、たとえば民主党と社大党を合同させよ

うとする動きがこの時期それぞれの党内から何度もわき上がったことは、その政策距離の近さを示しているといえよう )((

(。また、両党だけでなく人民党も一緒になって前出の「島ぐるみ」闘争をやってのけたのも、この政策距離の短さ

をよく物語っている。

  さらに、その“中道性”の奥に何があるのかを考えてみれば、そこには各党ともに「沖縄のため」、すなわち沖縄

(26)

沖縄政治における「保守」と「革新」(平良)七一 という地域利益を何よりも優先的に考える態度があったといえるのではないか。沖縄の抱える課題は米軍統治時代は大きく分けて二つあり、その一つは米軍統治体制の打破すなわち日本国への復帰であり、いま一つが米軍統治下にあっても住民の生活を豊かにすること、すなわち沖縄の経済振興を図っていくことであった。前者の課題により熱心に取り組んだのが革新陣営であり、後者の課題により関心を示したのが保守陣営であった。また日本復帰後の課題も大きく分けて二つあり、その一つが米軍基地の問題、いま一つが本土との格差是正や経済振興の問題である。前者の課題により深く関心を注いだのは革新陣営であり、後者の課題により熱心に取り組んだのが保守陣営であった。したがって、沖縄の革新勢力が本土のそれとは異なり今日に至るまで住民から支持を得て、力を維持しているのは、このように米軍統治時代はその外国支配体制からの脱却を、そして日本復帰後は米軍基地問題をみずからの課題とし、それに正面から取り組んだからであったといえよう。しかも、沖縄戦という熾烈極まる地上戦を経験した沖縄においては、革新勢力の唱える「反戦平和」の思想は現実的な重みをもって住民に受け止められていたのである )((

(。

  以上のことを考えると、沖縄の抱える現実的な課題を保革それぞれが分担して引き受けた、ということである。こ

の保革の関係について沖縄選出の元衆議院議員嘉数知賢(自民党)は、次のように述べている。「保守が基地の段階

的整理縮小を求めてきたのに対し、革新側は即時返還という主張だった。ただ、『基地を減らす』という根本的な部

分では共通する面もあった。保守は、沖縄を〔経済的に〕発展させるために国の力を借りる必要があるという現実路

線に立つ一方で、基地に起因する事件事故には厳然と抗議してきた。〔一方、基地に対する〕革新側の強い反発が政

府に『沖縄を放っておいてはいけない』という意識を持たせ、顔を向けさせる役割を果たした。対政府という視点で

見た場合、一定の歩調を合わせて問題解決に取り組み、切磋琢磨しながら沖縄を発展させてきたという側面もある。

結果において、保革対立が相乗効果を果たしてきた部分がある )((

(」。

(27)

法学志林 第一一五巻 第一・二号合併号七二

  このようにみてくると、沖縄政治を特徴づけるものは何と言っても保革の対立であるが、その保革の政策距離は意 外と短く、それゆえ沖縄政治の根底には“中道性”というものが横たわっていたといえよう )((

(。少し言葉を換えて言え

ば、基地とその根拠になっている日米安保条約の是非という国家レベルの問題が沖縄には存在するため、どうしても

国政レベルにおける保革対立の政治のありようが流れ込んでくる側面はあるものの、その一方で沖縄は一地方という

側面ももっているために、他の都道府県と同じように政治勢力間の政策距離が接近してくるという側面も持ちあわせ

ているのである。したがって、国政レベルと地方政治レベルの両方の特徴をあわせもっていることが、沖縄政治の特徴の一つであるといえよう。

五、おわりに

  「保守」

「革新」という言葉が冷戦時代の産物であるとするならば、その冷戦が終わったあとの沖縄政治はどのよう

に変化していったのだろうか。本土においては保革の枠組み自体が消滅し、一方の当事者であった革新勢力が力を失

い、いまでは政治全体の“保守化”が進んでいるといえる。それに対して沖縄では、保革の枠組み自体が存続し、し

かも両者の政策距離はより接近してきているのである )((

(。

  日本復帰以後、政府と連携して経済振興に力を注いだ沖縄では、米軍基地への依存度も減少してきており、復帰時には県民総所得の実に一五パーセントを占めていた基地関連収入も、いまでは五パーセントに低下してきている。し

かも、基地への依存度が減ってきているばかりか、いまではその基地が経済発展の「阻害要因」になっているという

認識が広まっているのである。たとえば、米軍基地の跡地である那覇市の新都心地区は、返還前と比べてその直接的

参照

関連したドキュメント

アメリカとヨーロッパ,とりわけヨーロッパでの見聞に基づいて,福沢は欧米の政治や

(県立金沢錦丘高校教諭) 文禄二年伊曽保物壷叩京都大学国文学△二耶蘇会版 せわ焼草米谷巌編ゆまに書房

[r]

学校の PC などにソフトのインストールを禁じていることがある そのため絵本を内蔵した iPad

結果は表 2

EC における電気通信規制の法と政策(‑!‑...

  BT 1982) 。年ず占~は、

また︑郵政構造法連邦政府草案理由書によれば︑以上述べた独占利憫にもとづく財政調整がままならない場合には︑