南北朝後期における室町幕府政治史の再検討(下) : 足利義満と斯波義将
著者 山田 徹
雑誌名 文化學年報
号 68
ページ 243‑263
発行年 2019‑03‑15
権利 同志社大学文化学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000110
南 北 朝 後 期 に お け る 室 町 幕 府 政 治 史 の 再 検 討
︵ 下
︶
│
│ 足 利義 満 と 斯波 義 将
││
山 田
徹
︵第 三章
康 暦の 政変 前後 の画 期を どう みる か?
︵承 前︶
︶ 二 足 利義 満の 公家 社会 進出 義 満の 公家 社会 進出 をど う位 置づ ける か
以上 のよ うに 康暦 の政 変後 の政 治過 程に 注目 した 場合
︑次 に問 題と なる の は
︑こ うし た政 治過 程と 義満 の権 力確 立と の関 係を どの よう に理 解す るか
︑と いう 点で ある
︒ 周知 のよ うに
︑こ の康 暦・ 永徳 から 明徳 頃に かけ ての 時期 は︑ 義満 の公 家社 会進 出を めぐ り︑ 従来 から 注目 され て き た時 期で ある
︒康 暦元 年︵ 一三 七九
︶四 月の 右大 将拝 賀や 永徳 元年
︵一 三八 一︶ 三月 の室 町殿 行幸
︑同 年七 月の 任 大 臣大 饗な どへ の扈 従に 象徴 的な よう に︑ しだ いに 義満 が公 卿た ちを 従え るよ うに なっ てい くこ と︑ この 年の 後半 か ら 同三 年に かけ て︑ 後円 融天 皇︵ 譲位 後は 上皇
︶と の対 立を 経な がら
︑義 満が 実質 的な 朝廷 の中 心に 立っ てい った こ と な ど が知 ら れ てお り
︑﹁ 康 暦 元年
︵一 三 七 九︶ から 永 徳 三年
︵一 三 八 三︶ の わ ず か 四 年 間︑ 義 満 の 登 場 に よ っ て
︑ 公 武関 係 は 劇的 な 変 化を 遂 げ た﹂! と いわ れ て い ると こ ろ であ る
︒そ の よう な な か で︑ 公卿 を 処 罰す る な どの 権 力 的 な 振る 舞い や︑ 後円 融に 対し てみ せる 不遜 な態 度な どが 際立 つと ころ であ り︑ この 康暦
・永 徳年 間の 義満 は│
│公 家
― 243 ―
廷 臣の 日記 だけ をみ てい れば
││ まさ に我 が世 の春 を迎 えた 権力 者で ある かの よう にみ える ので ある
︒ 宗 教勢 力統 制の 進展
ま た︑ この 前後 を境 に︑ 義満 が宗 教勢 力の 統制 に成 功し 始め てい るこ とも 知ら れて いる
︒ 細川 頼之 管領 政治 期に は延 暦寺 の嗷 訴が 問題 とな って いた が︑ 康暦 の政 変以 後 に 義 満が 山 門 に神 輿 造 営を 約 し て!
以 後嗷 訴が なく なる こと
︑同 じ時 期に 幕府 の山 門支 配の 要と なる 山門 使節 が確 認で きる よう にな るこ とが 指摘 され て お り"
︑ 下っ て応 永二 年︵ 一三 九五
︶に 義満 が日 吉社 に参 詣し た際 には 座主 青 蓮 院 尊道 入 道 親王 以 下︑ 一 山を 挙 げ て 義 満を 歓迎 して いる
#
︒ま た︑ 興福 寺の 嗷訴 も康 暦二 年︵ 一三 八
〇
︶が 最 後と な り︑ 至 徳二 年
︵一 三 八五
︶の 春 日 社 参 詣以 降に 義満 の﹁ 南都 再興
﹂と 興福 寺へ の介 入が 進み
︑明 徳四
︑五 年︵ 一三 九三
︑九 四︶ まで の間 に官 符衆 徒を 直 接 支配 下に 置き
﹁雑 務検 断﹂ にあ たら せた
$
︒ この よう にし て延 暦寺
・興 福寺 の統 制は 順調 に進 んで いっ たの だが
︑そ の理 由と して 大田 壮一 郎は
︑北 朝を 通じ て 統 制を はか って い た 従 来の や り 方で は な く︑ 義満 が 直 接 的に 宗 教 勢力 に 対 する よ う に 転じ た こ とを 重 視 し てい る%
︒ 義 満が 公家 社会 に進 出し てそ の中 枢を 担う よう にな った 結果
︑そ のよ うな こと が可 能に なっ たわ けだ が︑ そう いっ た 点 を考 慮す ると
︑宗 教勢 力に 対し ては 先の よう な戦 略が 非常 に有 効だ った とい うこ とに なる だろ う︒ しか しな がら
︑こ こま で述 べて きた よう に︑ この 時期 の武 家関 係者 のほ うに 目を 向け てみ ると
︑義 満の 権力 確立 は と ても 順調 とは いい がた い状 況で あっ た︒ 少な くと も︑ 公家 の世 界の なか で身 分上 昇を 遂げ るこ とが
︑武 家関 係者 へ の 統制 に対 して
︑直 接︑ 有効 に作 用し てい たと 考え るの は早 計だ ろう
︒最 近石 原比 伊呂 は︑ 川合 康・ 市澤 哲ら の議 論 を 継 承 しつ つ
︑北 朝 天皇 家 と の 折衝 を 足 利将 軍 家 が独 占 す る 体 制 が 形 成 さ れ た こ と を 論 じ て い る&
が︑ こ の 石 原 説 も
︑ど ちら かと いえ ば武 家関 係者 の争 いに 朝廷
︵も しく は皇 族︶ が結 びつ くこ とを 予! 防! する とい う文 脈で あり
︑ひ と た び顕 然化 した 幕府 内対 立や 大名 の不 服従 が︑ 朝廷 の権 威︑ もし くは 朝廷 官職 に由 来す る権 威に よっ て解 決す ると ま
南北朝後期における室町幕府政治史の再検討(下) ― 244 ―
で は考 えら れて いな いよ うで ある
︒ ま た︑ 義 満 以 前 に 彼 の よ う に 近 衛 大 将 か ら 大 臣 へ と 昇 進 し た 将 軍 と し て 挙 げ ら れ る の は
︑源 実 朝 た だ 一 人 で あ り!
︑殺 害さ れて 源氏 将軍 が断 絶す るこ とに なっ た彼 の事 例や
︑よ り高 い身 分か ら 迎 え られ た そ のの ち の 鎌倉 将 軍 た ち の事 例こ そが 当該 期の 先例 であ った こと には 注意 が必 要だ ろう
︒そ もそ も︑ 現在 の研 究者 の視 点か らす れば 後の 義 満 がさ らに 大き な権 力を 掌握 して いく 点は 既知 の事 実だ が︑ 当時 を生 きて いた 人々 から すれ ば未 来の こと は自 明で な い
︒こ のよ うな 鎌倉 幕府 の先 例を 念頭 に置 くな らば
︑身 分上 昇が 将軍 権力 の確 立の 一助 とな る可 能性 より も︑ 将軍 の 傀 儡化 に帰 結す る可 能性 のほ うが むし ろ先 に想 起さ れた はず なの であ る"
︒ 第一 章で も述 べた とお り︑ 南北 朝時 代の 幕府 では
︑た えず 将軍 に密 着し て権 力を 握る 人物 が突 出し てい くこ とが 強 く 警戒 され
︑そ のよ うな 人々 が失 脚す る事 件が たび たび みら れた が︑ その こと は︑ 同輩 の有 力者 を駆 逐し なが らし だ い に 将 軍家 を 傀 儡化 し
︑幕 府 の 実権 を 握 った 北 条 氏が
︑武 家 政 治 の歴 史 的 前例 で あ った こ と と 無関 係 で は な い だ ろ う
︒以 前に も簡 単に 記し たが
︑義 満の 公家 社会 進出 が本 格的 に始 まる 絶妙 なタ イミ ング で康 暦の 政変 が発 生し た理 由 に つい ても
︑義 満の 身分 上昇 の兆 しが みえ たこ とに 頼之 と対 立す る人 々が 警戒 を感 じた
︑と いう のが 大き かっ たの で は ない かと 推測 され ると ころ なの であ る#
︵ さら にい えば 義満 が公 家た ちに 対 し て 傲慢 か つ 権力 的 に 振る 舞 い
︑自 身 が 権力 的な 存在 であ るこ とを 示し 続け た背 景に も︑ その よう な傀 儡化 の可 能性 が意 識さ れて いた こと があ った と考 え て おい たほ うが よい のか もし れな い︶
︒ 以上 のよ うに 考え るな らば
︑朝 廷の 問題 を︑ 大枠 では 将軍 権力 絶対 化の ため に権 威を 獲得 する 手! 段! とし て処 理し て い る佐 藤進 一説 にも 一考 を要 する
$
︒ まず 最低 限必 要な のは
︑﹁
︿ 天皇
│将 軍﹀ と︿ 将軍
│有 力大 名﹀ の二 つの 関係
﹂の
﹁二 重構 造﹂ を指 摘す る市 澤哲 の
― 245 ― 南北朝後期における室町幕府政治史の再検討(下)
議 論!
に学 び
︑︵ 1︶ 有 力大 名 に 左右 さ れ る 幕府 内 の 対立
・抗 争 と いう 根 本 的 な問 題 と︑
︵ 2︶ 朝廷 や 有 力 寺 社 な ど
︑
︵1!
︶と! 結! び! つ! く! こ! と! で! 政 情 を 不安 定 化 させ う る 問題 の 二 つ を切 り 分 けて と ら える こ と で ある
︒そ し て そ の う え で
︑ こ の段 階の 足利 義満 が︵ 2︶ の問 題の 克服 に向 けて 次々 に手 を打 って いき
︑め ざま しい 成果 を手 にし つつ あっ た反 面 で
︑な お︵ 1︶ の問 題に つい ての 根本 的な 解決 策を みい だせ てい なか った こと を強 調し てお くの が妥 当で ある よう に 思 われ る︒ 三
斯 波義 将の 位置 斯 波義 将の 力量
?
この よう に康 暦の 政変 と義 満の 権力 確立 との 間に は︑ 従来 いわ れて きた よう なか たち での 因果 関 係 を必 ずし も認 めづ らい とい わね ばな るま い︒ とこ ろが 筆者 も︑ この よう な状 況下 で一 点︑ 義満 の権 力確 立に とっ て︑ きわ めて 大き な意 味を もつ 点が あっ たと 考 え てい る︒ それ は︑ 義満 と管 領と の関 係が
︑斯 波義 将の 管領 就任 によ って 変化 した と思 われ る点 であ る︒ 康暦 の政 変 ま では
︑大 名た ちの なか で権 勢を 握っ た人 物が 突出 して いく こと が警 戒さ れ︑ 彼ら を失 脚さ せる 政変 がた びた び生 じ た が︑ これ 以後
︑管 領が 諸大 名か らの 反発 を受 けて 失脚 する 事件 は生 じて いな い︒ すな わち
︑第 一章 で指 摘し た︽ 突 出 への 掣肘
︾が 問題 とな るよ うな 状況 では なく なっ たわ けで ある
︒こ の変 化は
︑何 によ って 生じ たの だろ うか
︒ その 点を 考え るた めに 先行 研究 を見 渡す とき
︑比 較的 よく 目に つく のが
︑斯 波義 将の 政治 的力 量を 評価 する 議論 で あ る︒ たと えば
︑古 いと ころ でい えば 斯波 義将 の禅 宗と の関 係を 論じ た今 枝愛 真が
︑康 暦の 政変 以後 に義 将が 管領 を 務 めて 以降
︑禅 林が
﹁着 実な 発展 を遂 げる こ とが で き た﹂ 背景 と し て︑
﹁義 満 の 偏 重を 矯 め つつ
︑側 面 か ら当 代 禅 院 に 理 解 ある 庇 護 を寄 せ た 義 将の 対 禅 宗政 策 が 当を 得 た 適 切な も の であ っ た こと に 負 う 点が 少 な くな か っ たと 思 わ れ
南北朝後期における室町幕府政治史の再検討(下) ― 246 ―
る
﹂と 評価 して いる
!
︒ま た︑ 佐々 木銀 弥は
﹁義 将に 課さ れた 役割 は︑ ライ バル 細 川 頼 之に ひ き つづ き 管 領の も と に 幕 府の 職制 を統 制し
︑鎌 倉幕 府の まっ たく の模 倣と いわ れた 諸制 度を
︑将 軍・ 管領 体制 のも とに 一元 的に 再編 成す る こ とで あっ た﹂ とし たう えで
︑﹁ 義 将は 地味 に幕 府の 内 部 をと り し きり
︑専 制 将 軍・ 日 本国 王 と して の 義 満の 権 力 の 基 盤を 固め た功 績は 高く 評価 せね ばな らな い﹂ と述 べて いる
"
︒ また 最近 では
︑榎 原雅 治が
﹁頼 之の 去っ た幕 府で は斯 波義 将を 首班 とし た幕 政運 営が 行わ れた
︒そ れは 次項 で述 べ る よう な幕 府の 権限 強化 を主 眼と した もの で︑ 義満 とは おお むね 良好 な 関 係 のな か で 推移 し た﹂ と 述べ て い る#
︒ こ の 一文 目の みを 読む と︑ 義将 の主 導性 をど の程 度 評価 し て いる の か わか り に く いが
︑二 文 目 の文 意 か ら︑
﹁斯 波 義 将 を 首班 とし た幕 政運 営﹂ と﹁ 義満
﹂を 書き 分 けて い る こと は 確 実で あ る
︒そ の うえ で
︑二 文 目で 言 及 さ れる
﹁次 項
﹂ を 参照 する と︑
﹁ 幕府 の権 限強 化﹂ とは 京都 の支 配権 の確 立 や 一国 平 均 役賦 課 な ど に関 す る 内容 を 指 して お り
︑こ れ ら の 権 限強 化 が 義! 満! と! い! う! よ! り! も!
﹁斯 波 義将 を 首 班と し た 幕 政運 営
﹂に よ るも の だ と理 解 し て いる こ と が 読 み 取 れ る
︒義 将が 義満 から 独立 して 政治 力を 発揮 する 余地 があ った こと を重 視す る表 現で あり
︑な かな か特 徴的 な評 価で あ る とい わね ばな るま い︒ ここ まで 極端 では ない にし ても
︑山 田邦 明は
﹁新 管領 斯波 義将 を中 心と して 幕府 の政 治が 平穏 に運 営さ れ﹂ てい た と 認識 して おり
$
︑小 川剛 生は 前章 でも 引用 した よう に﹁ 義将 の穏 健な 執 政
﹂に よ って 義 満 と大 名 の 間の
﹁決 定 的 な 破 局が 回避 され てい た﹂ と述 べて いる
︒む ろん
︑個 々の 論者 がそ れぞ れ何 をど の程 度評 価し てい るの かに は︑ ある 程 度 違い があ るこ とだ ろう
︒し かし
︑そ れで も全 般に いえ ば︑ この 時期 の斯 波義 将の 政治 的力 量を 評価 する 見方 が非 常 に 根強 いも ので ある とい わね ばな るま い︒ 管 領奉 書と 政務
こ の時 期の 義将 につ いて たし か に注 目 さ れる の が︑ 康 暦元 年 の 管 領就 任 以 降︵ 第二 次 斯 波 義将 期
︶
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の 発給 文書 現存 数が
︑細 川頼 之以 前の 執事 と比 べる と︑ 格段 に増 加し てい ると いう 点で ある
︵小 川信 によ れば
︑三 四 七 通と の こ と であ る!
︒現 段 階で は さ らに 増 加 す るだ ろ う︶
︒ その 理 由 は簡 単 で
︑そ れ まで 引 付 頭人 奉 書 で処 理 さ れ て いた 所務 沙汰 関係 の濫 妨停 止・ 沙汰 付命 令が
︑管 領奉 書で 出さ れる よう にな った ため であ る︒ また
︑当 該期 以降 に は 宛行 状の みな らず
︑安 堵状 にも 管領 が施 行状 を付 すこ とが 一般 化し て い く"
が
︑こ の よう な 機 能的 な 変 化を 背 景 に し つつ
︑義 将の 発給 文書 が多 数残 存し てい るこ と自 体は 間違 いな いと ころ であ る︒ しか し︑ この 点を 評価 する にあ たっ ては
︑管 領制 の成 立と いう 論点 に関 連し て進 めら れた 小川 信の 分析 を踏 まえ て お く必 要が ある
︒小 川は 当該 期に おけ る義 将署 判の 発給 文書 と義 満の 発給 文書 を比 較検 討し
︑そ の内 容が それ ぞれ 軍 事 動員 関係 から 所領
・所 職関 係ま で多 岐に わた るこ とを 述べ たが
︑ど の分 野に おい ても 義将 の奉 書が 副次 的・ 補助 的 な 役割 を果 たす もの であ った と結 論づ けて おり
︑﹁ 遵 行命 令 の 発給 以 下︑ 将 軍の 諸 権 限 を補 助 す る行 政 的 諸活 動 を 主 要 な任 務と した
﹂と して いる ので ある
#
︒つ まり
︑あ くま で将 軍義 満を 補助 する 存 在 と いう の が 小川 の 評 価な の で あ り
︑そ の点 で先 に示 した 諸研 究で 示さ れる イメ ージ とは 大き く異 なっ てい ると いわ ねば なる まい
︒ 次の よう な実 例に も留 意が 必要 だろ う︒ 次の 二通 の文 書は
︑壬 生兼 治の 所領 であ る若 狭国 国富 荘・ 近江 国押 立保 の 領 家職 につ いて
︑半 済を 停止 して 兼治 に渡 し付 ける よう に命 じた 管領 斯波 義将 の奉 書で ある
︒
︻史 料五
︼$
︵﹃ 壬 生家 文書
﹄五 七号
︶
︵ 若
︶
︵今
︶
︵ 円
︶
□ 狭国 々富 庄領 家職 事︒
□度 大儀
︑官 長者 為重 役人 之間
︑以 別儀 止半 済︑ 所被 返付 一□ 也︒ 不日 可被 渡付
︒若 有 緩 怠者
︑可 有殊 沙汰 之状
︑依 仰執 達如 件︒ 永 徳元 年七 月十 七日
左 衛門 佐︵ 花押
︶ 一色 修理 大夫 入道 殿
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︻史 料六
︼︵
﹃ 壬生 家文 書﹄ 六九 七号
︶ 近 江国 押立 保領 家職 事︒ 今度 大儀
︑官 長者 為重 役人 之間
︑以 別儀 止半 済︑ 所被 返付 一円 也︒ 不日 可渡 付︒ 若有 緩 怠 者︑ 可有 殊沙 汰之 状︑ 依仰 執達 如件
︒ 永 徳元 年七 月十 七日
左 衛門 佐判 佐々 木亀 寿殿 二 通は ほぼ 同文 で︑
﹁ 官長 者﹂ であ る壬 生 兼 治が
﹁今 度 大 儀﹂ にお い て
﹁重 役 人﹂ であ る た め︑ これ ら の 所領 の 半 済 を とど め る 旨 が命 じ ら れて い る︒ こ こに み え る﹁ 今 度大 儀
﹂と は 永徳 元 年 七月 二 三 日 の任 大 臣 節会 と さ れ てお り!
︑ そ れで 問題 なか ろう
︒ この 事例 で注 目さ れる のは
︑こ の二 通の 管領 奉書 に先 んじ て︑ 次の よう な史 料が みら れる 点で ある
︒
︻史 料七
︼︵
﹃ 壬生 家文 書﹄ 五三 号︶
︵ 将︶
﹁□ 軍御 自筆
兼 治 所 領 事 永 徳 元 三 廿 九
﹂ 御 書之 趣︑ 跪以 拝見 仕候 了︒ 抑兼 治所 領事
︑早 速可 下知 也︒ 義満 謹言
︒
︵ 足 利 義 満
︶
三月 廿九 日
︵ 花押
︶ こ の書 状は 宛所 を欠 くが
︑内 容と 書札 礼か らこ れは 兼治 に直 接あ てた もの では なく
︑義 満が 丁寧 に自 筆書 状を 執筆 す べ き貴 人に 対し て出 され たも ので ある
︒義 満を 教導 しつ つ公 家社 会に 迎え 入れ つつ あっ た二 条良 基あ たり が候 補に な り えよ うが
︑と もか くも 壬生 兼治 が所 領回 復の 口添 えを もら える よう 誰か に頼 み︑ この 三月 二九 日に 内諾 を得 たこ と が わか り︑ 管領 奉書 で処 理さ れた
︻史 料五
︼︻ 史 料六
︼の 案件 の背 景に
︑義 満の 意志 があ るこ とが わか るの であ る︒ 別の 事例 もみ てお こう
︒永 徳三 年︵ 一三 八三
︶七 月一
〇日
︑吉 田兼 熈は
︑越 前国 片屋
・鳥 羽両 荘と 丹波 国味 間二 品
― 249 ― 南北朝後期における室町幕府政治史の再検討(下)
勅 旨田 につ いて
︑中 山親 雅を 通じ て義 満へ 訴え を出 した
︒そ うす ると 義満 は︑ 文書 正文 を一 見し ただ けで
﹁元 自不 可 及 子細 事 也
﹂と 述 べ︑ 前者 に つ いて は 管 領斯 波 義 将 に命 じ る こと
︑後 者 に つい て は 追 って 沙 汰 する こ と を 約し た!
︒ そ れを 受け て兼 熈は 二二 日に 義将 邸を 訪れ
︑義 将は 急ぎ 沙汰 する 旨を 回答
︒そ して 二五 日付 で次 のよ うな 文書 が発 給 さ れた ので ある
︒
︻史 料八
︼︵
﹁ 吉田 家日 次記
﹂永 徳三 年七 月二 八日 条︶ 吉 田社 領越 前国 片屋
・鳥 羽等 事︒ 半済 事︑ 去五 月十 日当 社小 神四 所神 宝以 下盗 失之 間︑ 彼両 所当 年所 務以 前一 円 被 返下 者︑ 可調 進云 々︒ 目安 如此
︒早 不日 止半 済之 儀︑ 可打 渡雑 掌之 由候 也︒ 仍執 達如 件︒ 永 徳三 年七 月廿 五日
宮内 大輔
在 判
甲斐 美濃 守殿 義 将自 身の 守護 分国 への 命令 であ るた めに 管領 奉書 とい う形 式で はな く︑ 守 護 代奉 書"
とい う 斯 波家 内 部 の文 書 形 式 で 出 さ れて い る が︑ これ が 義 満 から の 命 を受 け て のも の で あ るこ と は﹁ 吉 田家 日 次 記﹂ の前 後 の 記 事 か ら 確 実 で あ る
︒そ の 一 方で
︑丹 波 国 味間 二 品 勅 旨田 に つ いて は 中 沢信 基 が 権 利を 主 張 して い た ため
︑少 し 遅 れ て 九 月 一 二 日 付 で
︑わ ざわ ざ義 満に よる 寄進 状と いう 形式 で吉 田家 の権 益回 復が 認め られ るこ とと なっ た#
︒ この よう な経 緯か らは
︑事 案に 応じ てさ まざ まな 文書 形式 を柔 軟に 使い 分け なが ら︑ 義満 の意 志が 示さ れて いる こ と
︑義 満 が 直接 署 判 した 御 判 御 教書 や 寄 進状 で は なく
︑管 領 奉 書 や守 護 家 内部 の 文 書し か 出 さ れて い な い ケ ー ス で も
︑義 満の 内意 が背 後に ある ケー スが あっ たこ とが わか るだ ろう
︒す なわ ち︑ どれ ほど 管領 奉書 が多 く発 給さ れて い よ うと も︑ それ は管 領斯 波義 将の 裁量 が大 きい こと を意 味し ない ので ある
︒ こ うし た 一 連の 諸 点 は︑ 筆者 が 以 前 にと く に 所務 沙 汰 に 注目 し つ つ述 べ た この 時 期 に おけ る 変 化と 密 接 に 関 係 す
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る!
︒鎌 倉時 代以 来の
﹁徳 政﹂ 的な 政治 規範 を背 景に しつ つ︑ 式日 を設 定し た評 定 や 引 付な ど を 日常 的 に 運営 し な が ら 所務 沙汰 にあ たる よう なあ り方 が南 北朝 中後 期ま では ある 程度 維持 され てい たが
︑細 川頼 之執 政の 末期 であ る永 和 年 間を 起点 に︑ その よう な場 での 審議
・決 裁を おこ なう 事例 がみ られ なく なり
︑奉 行人 が個 別的 に伺 いを 立て る形 式 に 変化 する
︒こ のよ うな 変化 は︑ 鎌倉 時代 以来 の政 治姿 勢が 放棄 され なが ら義 満と いう 個人 の﹁ 仰﹂ が重 要に なっ て い く過 程で ある とい えよ うが
︑そ のよ うな 変化 が進 みつ つあ るな かで 義将 は︑ 義満 から の指 示を 受け つつ 管領 奉書 を 発 給す ると いう 役割 を果 たし てい たの であ る︒ 義 満へ の扈 従と 奉仕
ま た︑ 義将 の行 動と して 興味 深い のが
︑義 満の 外出 にま めま めし く従 って いる こと であ る︒ 先に も触 れた が義 堂周 信の 日記 であ る﹃ 空華 日用 工夫 略集
﹄を みて いく と︑ 等持 寺で 仏事 をお こな う際 に︑ 義満 に 従 って 管領 義将 がと もに 入寺 して いる 事例 を多 数確 認で き"
︑ なか には その 場で 交 わ さ れた 会 話 など を 記 して い る ケ ー スも ある
#
︒そ のほ か︑ たと えば 康暦 二年 四月 二三 日の 二条 良基 邸へ の 御 成 の際 に
︑一 色 範光
・饗 庭 氏 直と と も に 従 って いる こと がわ かる
$
︒ま た︑
①康 暦二 年五 月一 三日 の義 堂 周 信の も と への 御 成︑
②永 徳 二 年︵ 一三 八 二
︶一
〇 月 一 三 日の 西 芳 寺で の 紅 葉 見物 の 御 成︑
③永 徳 三年 三 月 二 日の 建 仁 寺方 丈 西 軒落 成 時 の 御 成
︑④ 至 徳 三 年︵ 一 三 八 六
︶二 月三 日の 大慈 院へ の御 成な どに も︑ 義将 が﹁ 官伴
﹂の 一人 とし て そ の 名を み せ てい る%
︒こ れ らよ り
︑義 将 が 義 満の 外出 に従 う事 例が 決し て少 なく ない こと がわ かる だろ う︒ この よう な外 出時 の扈 従以 外で も︑ 義堂 周信 が呼 び出 しに 応じ て参 上し た際 に 義 将 が義 満 の 側に い た とい う 記 事&
や
︑義 満が 急に 義将 を呼 び出 した とい う記 事な ど'
も 確認 でき る︒ 以上 のよ う な 点 から
︑義 将 の 奉仕 ぶ り は顕 著 で あ る よう に見 受け られ ると ころ であ る︒ 脆 弱な る管 領
もち ろん 義将 も︑ 先述 のよ うに 永徳 元年 に細 川氏 復帰 が取 り沙 汰さ れた 際に は抗 議の 意を 示し て︑ 管
― 251 ― 南北朝後期における室町幕府政治史の再検討(下)
領 職の 辞意 を表 明し てい た︒ また
︑下 って 明徳 二年
︵一 三九 一︶ 三月 一二 日に は︑ 管領 を辞 任し て越 前へ 下向 して い る が︑ この 直後 に細 川頼 之が 上洛 して きて いる こと から
︑そ の動 きに 反対 し た も のだ っ た こと は 明 らか で あ る!
︒ し か し︑ 以上 のよ うな 諸点 を総 覧す るな らば
︑義 将は 日常 的に は︑ 義満 に対 して 従属 的な 立場 に甘 んじ てい る印 象を 強 く 受け ると ころ であ る"
︒ この よう な義 将の 立場 を考 える 際に 最も 重要 と思 われ るの が︑ 彼の 基盤 の脆 弱さ であ ろう
︒本 章一 節で も述 べた よ う に︑ 細川
・山 名・ 土岐 各氏 は内 乱期 に現 地で 隣接 する 複数 ヶ国 にわ たる 分国 を形 成し
︑こ の時 期の 幕府 政治 上︑ 無 視 でき ない 勢力 と化 して いた
︒そ の一 方で
︑斯 波氏 のよ うに 一ヶ 国程 度し か分 国を もた ない 勢力 は︑ 幕府 内の 政治 状 況 の変 化に よっ て︑ 守護 職を 簡単 に失 って しま うよ うな 脆弱 な存 在に 過ぎ なか った
︒実 際に 義将 は一 度︑ 討伐 を受 け て 分国 をす べて 没収 され
︑そ うし た弱 さを 思い 知っ た経 験も 有し てお り︑ その 点を 考慮 する と︑ この 段階 にお ける 義 将 の取 り得 る政 治的 選択 肢を それ ほど 広く 考え るこ とは でき ず︑ 義将 が義 満を 立て 続け て従 属的 な姿 勢を 取り 続け た 背 景 は︑ こ の点 と の 関連 で 考 え てお く べ きだ ろ う#
︒ 佐 藤 進 一 が 執 事
・管 領 職 の 争 奪 を 幕 府 政 治 史 に 直 結 さ せ た 結 果
︑こ れま で斯 波高 経・ 義将 父子 につ いて は過 剰に 評価 され てき た感 があ るが
︑少 なく とも この 時期 の義 将を 評価 す る にあ たっ ては
︑旧 来の よう にそ の政 治的 力量 を重 視す るよ りも
︑こ のよ うな 立場 の脆 弱さ と義 満へ の従 属性 を重 視 し てお く方 がよ いよ うに 思わ れる
︒ 先 ほど 康 暦 の政 変 以 後に 執 事
・管 領 がそ れ ま での よ う に 諸大 名 た ちか ら 警 戒さ れ る こ とが な く なっ た 点 を 述 べ た が
︑そ れも この よう に斯 波義 将と いう 基盤 の弱 い人 物が 管領 に据 えら れた こ と と 深く 関 わ って い よ う$
︒ これ ま で つ ね に権 力を 集め るこ とが 警戒 され てき た管 領と いう 立場 にあ る義 将が 実際 の行 動に よっ て︑ 義満 への 従属 化を 示し た こ とに は︑ 少な くと も在 京し てい る諸 氏に 対し て︑ 義満 の権 力を 強く 印象 づけ る面 があ った はず であ る︒ そう した 点
南北朝後期における室町幕府政治史の再検討(下) ― 252 ―
を も念 頭に 置き つつ 本稿 では
︑康 暦の 政変 によ る変 化の なか で義 満の 権力 確立 にと って 最も 重要 だっ たの は︑ 義将 の 管 領任 用に よっ て義 満と 管領 の関 係が 大き く変 化し たこ とだ った とい う説
!
を︑ 提起 して おく こと にし たい
︒ むろ ん︑ 何度 も強 調す るよ うに
︑こ の時 期の 義満 にと って 深刻 かつ 根本 的な 課題 だっ たの は観 応の 擾乱 以来 広域 的 地 域権 力と 化し た数 氏の 動向 であ り︑ それ が義 将の 管領 任用 によ って 解決 され るわ けで はな かっ た︒ 最終 章た る次 章 で は︑ その よう な問 題が 克服 され る過 程に つい て簡 単に 見通 しを 示し てお くこ とに した い︒ 第四
章 義満 権 力 の確 立 へ 土
岐頼 康の 死去 と東 国・ 西国 下向
突 出す る数 氏 の問 題 が 克服 さ れ るき っ か け にな っ た のは
︑嘉 慶 元 年︵ 一 三八 七
︶ 一 二月 二五 日︑ 反細 川の 巨頭 の一 人で あっ た土 岐頼 康が
︑本 拠地 美濃 国小 島 荘 で 死去 し た こと で あ る"
︒ この の ち 義 満 は嘉 慶二 年︵ 一三 八 八︶ 五 月二 六 日 に 左大 臣 を 辞任 し た のち
︑#
同 年 九 月 には 東 国 に$
︑ そし て 翌 康応 元 年
︵一 三 八 九︶ の三 月に は西 国に 下向 した こと が知 られ てい る︒ 田中 義成 によ って
﹁義 満の 遊覧
﹂の 一環 とさ れる
%
この 二例 の う ち︑ 西国 下 向 のほ う は︑
﹁ 鹿苑 院 殿 厳 島詣 記
﹂﹁ 鹿 苑 院殿 西国 下向 記﹂ の二 書が 残さ れて おり
︑比 較的 詳し い情 報が わか る︒ 略述 する に︑ 三月 四日 暁に 都を 起ち
︑そ の 日 のう ちに 兵庫 に到 着し て赤 松千 菊︵ 満弘 か︶ が饗 応︒ 六日 に讃 岐国 宇多 津へ と到 着し
︑翌 七日 には そこ で細 川頼 之 の 饗応 を受 ける
︒続 いて 讃岐 国佐 柳・ 安芸 国高 崎を 経て 一〇 日夜 に厳 島に 到着
︑翌 一一 日に 社参 を果 たす
︒そ のの ち 一 二日 には 周防 国下 松に 到着
︒翌 一三 日に は周 防国 府中 の三 田尻 にて 大内 氏の 饗応 を受 けて いる
︒ この 時点 では 九州 への 下向 も企 画さ れて いた との こと だが
︑大 風に よっ て最 終的 には 渡航 を諦 め︑ 一八 日か ら帰 途
― 253 ― 南北朝後期における室町幕府政治史の再検討(下)
に つき
︑周 防国 竈戸 関︑ 安芸 国蒲 苅黒 島・ 忠海 浦を 経て 二一 日に 備後 国尾 道に 到着 し︑ そこ で山 名義 熈・ 時熈 らの 饗 応 を受 けた
︒次 ぐ二 二日 には 讃岐 国宇 多津 へ進 み︑ 翌日 を一 日過 ごし た後
︑二 四日 は備 前国 牛窓 で赤 松氏 の饗 応を 受 け
︑翌 二五 日に 播磨 国室 津に 入っ た後 は陸 路を 進み
︑二 六日 に帰 京し た︒ この よう な行 程の なか で︑ とり わけ 細川
・大 内・ 山名 各氏 など によ る饗 応や
︑諸 氏と の対 面が 特記 され てい るこ と か らみ て︑ 現地 に所 在す る諸 大名 との 接触 が主 要目 的で あっ たと 思わ れ!
︑本 稿 で みて き た 経緯 を 考 慮す る に
︑在 国 し て京 都の 政権
・領 主社 会か ら距 離を とっ てい た細 川・ 山名 両氏 をは じめ
︑大 内氏 など
︵九 州に 下向 する こと が予 定 さ れて いた こと を考 慮す ると
︑九 州の 諸氏 も本 来は ここ に含 まれ てい た可 能性 が高 い︶ との 接触 をは かり
︑彼 らの 出 方 をみ なが ら︑ 康暦 の政 変後 に生 じた 緊張 を清 算す る道 を探 るよ うな 側面 があ った と思 われ る︒ おそ らく
︑残 存史 料 の 少な い東 国下 向の ほう も︑ 土岐 氏一 門の 在国 組︵ 康行 ら︶ に饗 応さ せ︑ また 駿河 まで 下向 して 鎌倉 公方 足利 氏満 を は じめ とす る関 東の 人々 とも 接触 をは かる もの だっ たの では ない かと 推測 され ると ころ であ る︒ 少な くと も頼 康死 後 に 左大 臣を 辞し て臨 んだ この 二つ の下 向に つい ては
︑度 々の 南都 下向 や明 徳元 年︵ 一三 九〇
︶九 月の 気比 社参 宮な ど と 一括 して 考え るべ きで はな く"
︑ この よう な独 自の 政治 的位 置を 押さ えて おく べき であ ると 考え る︒
﹁御 物か たり
﹂の 背景
こ の西 国下 向の 帰途
︑二 三日 を 宇 多津 で 過 ごし た 際
︑今 川 貞世 が
﹁廿 三 日は こ ゝ にと ゝ ま り 給 て︑ 武蔵 入道 めさ れて 遥に 御物 かた り有 ける とか や︒ 何こ とに か有 けむ
︒涙 をを さへ てま かて ける とき こゆ
﹂と 書 き 記し てい るこ とは すで に触 れた
#
︒義 満が 六日 に宇 多津 へ到 着し て以 降︑ 細川 頼 之 が 基本 的 に 行動 を と もに し て い る 点を 考慮 する と︑ これ はた んに 再会 を 喜ん で の﹁ 御 物か た り﹂
﹁ 涙﹂ では な く
︑そ の 間の 半 月 の出 来 事 を踏 ま え た う えで のも のだ った と考 えざ るを えな い︒ それ につ いて は︑ 次の 二点 が即 座に 想起 され る︒ 一つ が︑ 周防 で義 満を 盛大 にも てな した 大内 義弘 が︑ これ を機 に上 京す るこ とに なっ たと 思わ れる 点で ある
︒義 弘
南北朝後期における室町幕府政治史の再検討(下) ― 254 ―
は 明徳 の乱 時に 京都 での 戦闘 に参 加し てい るこ とか らみ て︑ 恒常 的に 在京 する こと にな った もの と思 われ るが
︑細 川
・ 土岐
・山 名各 氏と とも に内 乱期 に広 域的 な基 盤を 確保 して いた 大内 氏が
︑義 満に 忠誠 を誓 って 上京 する こと をこ の と きに 決し たの だと すれ ば!
︑ それ は義 満に とっ て︑ 非常 に心 強い もの だっ たは ずで ある
︒ そ して も う 一点 が
︑山 名 時義 が 病 に 伏し て い るた め
︑備 後 国 尾道 ま で 出て く る こと が で き なか っ た と い う 点 で あ る
︒こ れだ けで あれ ば饗 応の 場に 出て こな いた めの 虚偽 の理 由で ある 可能 性も 消え ない が︑ 実際 に時 義は この 時か ら 二 ヶ月 も経 たな い五 月四 日に 没し てお り"
︑ 病と いう のは 事実 だっ たと 考え ら れ る︒ 土 岐頼 康 が 七〇 歳 と いう 老 年 だ っ たの に対 して
︑山 名時 義は 系図
・家 譜に よれ ばま だ四 一歳 もし くは 四 四 歳 の壮 年 で あっ た#
︒頼 康 に続 き
︑反 細 川 の 強硬 派で あっ た時 義が 本当 に死 の床 にあ ると いう 情報 を義 満・ 頼之 がつ かん だの だと する と︑ それ も彼 らに とっ て は 朗報 だっ たに 違い ない
︒﹁ 遥 に御 物か たり
﹂と
﹁涙
﹂は
︑以 上の よう な観 点か ら考 えて おく 必要 があ ろう
︒ 時義 も没 した この 年の うち に土 岐氏 分国 に軍 勢が 派遣 され てい た よ う で$
︑ 翌康 応 二 年︵ 一三 九
〇︶ の 閏三 月 二 五 日 に康 行の 籠も る美 濃国 小島 城が 陥落 した のだ とい う%
︒ また
︑並 行し て時 熈・ 氏幸 らの 討伐 も 命じ ら れ た らし く&
︑ そ うし た討 伐を 経る こと で︑ 翌明 徳二 年︵ 一三 九一
︶四 月三 日に は念 願 の 細 川頼 之 上 洛が 果 た され た'
︵た だ し︑ 明 徳 三 年︵ 一 三九 二
︶三 月 二日 に は︑ 細 川 頼之 も 没 した
︶(
︒そ し て︑ 明徳 三 年 末 の明 徳 の 乱を 経 て︑ 義 満 の 権 力 も 確 立 する こと とな った ので ある
)
︒ むす
び に かえ て かつ
て佐 藤進 一は 南北 朝後 期の 政治 史 につ い て︑
﹁ 斯波 派
﹂と
﹁細 川 派﹂ とい う 二 つ の大 名 集 団の 党 派 抗争 を 重 視
― 255 ― 南北朝後期における室町幕府政治史の再検討(下)
し つつ
︑康 暦の 政変 以後 に義 満が 直轄 的基 盤の 構築 や権 威獲 得に 成功 し︑ 権力 を確 立し てい くさ まを 描き 出し た︒ 本 稿 では
︑こ うし た佐 藤の 見解 に対 して 検討 をお こな い︑ 以下 のよ うな 結論 に至 った
︒
︵1
︶細 川頼 之執 政期 を通 じて
︑山 名︑ 土岐
︑斯 波︑ 佐々 木京 極 の 各氏 が 段 階的 に 反 細 川に 傾 い てい っ た こと は 確 実 だ が︑ 少な くと も細 川頼 之執 政の 当初 から
﹁斯 波 派﹂
︑つ ま り 斯波 氏 を 中心 と し た 固定 的 な 大名 集 団 が存 在 し た と いう 確証 はな かっ た︒ また
︑今 川貞 世ら が属 して いる とさ れて きた
﹁細 川派
﹂の ほう は︑ まっ たく 確認 する こ と が で きな か っ た︒ 康暦 の 政 変 の発 生 は︑ 幕 政を 主 導 する 細 川 氏 に反 感 を 感じ る 勢 力が 段 階 的 に 増 加 し た と い う
︑史 料に もみ える とお りの 説明 で考 え るの が 最 も自 然 で あり
︑そ う み な すほ う が︽ 突 出へ の 掣 肘︾
︵突 出 し た 権 勢を 誇る 人物 に対 して
︑そ のた びご とに 反対 派が 形成 され てそ の人 物を 没落 に追 い込 むが
︑党 派の 継続 性は そ れ ほど 高く ない
︶と いう 観応 の擾 乱以 来の 政治 史的 枠組 みを 考慮 して も自 然で ある
︒
︵2
︶康 暦の 政変 で細 川頼 之が 没落 した 後︑ 幕府 の表 面的 な 政 策は 反 細 川と な っ た が︑ 義満 自 身 が細 川 氏 の復 帰 を 強 く 望み
︑ま た細 川氏 も簡 単に 討滅 され るよ うな 存在 では なか った ため に︑ 政変 後も 対立 の構 図が 継続 する とい う 新 たな 事態 が生 じて しま うこ とと なる
︒そ うし たな かで
︑義 満は 頼之 弟の 頼元 を赦 免し て上 洛さ せる こと に成 功 す るが
︑結 果的 に山 名時 義が 京都 を離 れる こと とな り︑ おそ らく 土岐 頼康 も前 後し て京 都を 離れ たも のと 推測 さ れ る︒ その よう な意 味で
︑こ のよ うな 康暦 の政 変以 後の 政治 過程 には
︑義 満の 求心 力を 損な うよ うな 面が あっ た と いわ ねば なる まい
︒
︵3
︶こ のよ うな 康暦 の政 変前 後の 政治 過程 を考 える 上で 最 も 本質 的 な のは
︑戦 乱 期 に 隣接 す る 複数 ヶ 国 に勢 力 を 扶 植 した 細川 氏・ 山名 氏・ 土岐 氏な どが
︑容 易に 討伐 しえ ない 存在 と化 し︑ 幕政 上で も無 視し えな い存 在に なっ て い たこ とで ある
︒従 来︑ 義満 の権 力確 立を 考え る際 に︑ 義満 の公 家社 会進 出が 重視 され てき たが
︑そ れは この よ
南北朝後期における室町幕府政治史の再検討(下) ― 256 ―
う な突 出し た有 力大 名た ちの 問題 に対 する 直接 的な 処方 箋に は︑ 必ず しも なり えな かっ た︒ ただ し︑ こう した 各 氏 とは 異な って 脆弱 な基 盤し か持 たな い斯 波義 将が 管領 に据 えら れ︑ 義満 に対 して 従属 的な 姿勢 を取 り続 けた こ と には 意味 があ り︑ 以後 は管 領が 将軍 を奉 じて 実権 を握 るこ とが 警戒 され るこ とは なく なっ た︒
︵4
︶こ のよ うに 突出 した 有力 大名 の問 題が 克服 され
︑義 満 の 権力 が 確 立す る の は︑ 土 岐頼 康 と 山名 時 義 の二 人 が 相 次 いで 没し
︑そ の後 継者 たち が討 伐さ れた 結果 であ った
︒ 以上 のよ うな 本稿 の議 論は
︑佐 藤に 由来 する 従来 の議 論 の問 題 点 をあ ぶ り 出す な か で 個々 に み えて く る 諸 要素 を
︑ 可 能 な 限り 幅 広 く視 野 に 入 れ︑ それ ら を 整合 的 に 説明 で き る よう 試 み たも の で ある
︒推 測 を 交 えた 部 分 も 含 ま れ る が
︑以 上の よう な理 解に よっ て︑ 旧来 の説 明よ りも 多く の点 を整 合的 に説 明で きる よう にな り︑ また
︑制 度史 的論 点
︵管 領・ 守護 の交 代︶ を政 治史 に結 びつ ける 際の 佐藤 の手 法 自 体に 対 し ても
︑疑 問 を 提 示す る こ とが で き たの で は な い かと 考え てい る︒ もち ろん
︑た とえ ば康 暦前 後の 画期 をさ ほど 評価 でき ない とす るな らば
︑突 出し た実 力を もつ 土岐
・山 名両 氏を 討 伐 する こと が︑ なぜ 康応
・明 徳の 段階 で可 能と なっ たの かと いう 点は
︑さ らに 問題 とな るだ ろう
︒ま た︑ 本稿 のよ う に 斯波 義将 の基 盤の 脆弱 さを 強調 する 場合
︑な ぜ義 将が その のち 幕府 の重 鎮 に なり 得 た のか
"
と いう 点 も 問題 と し て 残 るは ずで ある
︒こ うし た諸 点に つい て︑ 十分 に分 析を おこ なう 紙数 は残 され てい ない
︒今 後︑ さら に検 討を 深め て い きた いと 考え てい る︒
! 註
註 小 川
﹃ 足 利 義 満
﹄︑ 九 四 頁
︒
― 257 ― 南北朝後期における室町幕府政治史の再検討(下)
!
﹁ 日 吉 神 輿 御 入 洛 見 聞 略 記
﹂︵
﹃ 群 書 類 従
﹄ 神 祇 部
︶︒
"
下 坂 守
﹁ 山 門 使 節 制 度 の 成 立 と 展 開
﹂︵
﹃ 中 世 寺 院 社 会 の 研 究
﹄ 思 文 閣 出 版
︑ 二
〇
〇 一 年
︑ 初 出 一 九 七 五 年
︶︒
# 註
⑸ 早 島 著 書
︑ 早 島
﹃ 足 利 義 満 と 京 都
﹄︵ 吉 川 弘 文 館
︑ 二
〇 一 六 年
︶︒
$ 稲 葉 伸 道
﹁ 南 北 朝 時 代 の 興 福 寺 と 国 家
﹂︵
﹃ 名 古 屋 大 学 文 学 部 研 究 論 集 史 学
﹄ 四 四 号
︑ 一 九 九 八 年
︶︒
% 大 田 壮 一 郎
﹁ 室 町 殿 と 宗 教
﹂︵
﹃ 室 町 幕 府 の 政 治 と 宗 教
﹄ 塙 書 房
︑ 二
〇 一 四 年
︑ 初 出 二
〇 一 二 年
︶︒
&
石 原 比 伊 呂
﹁ 義 詮 期 に お け る 足 利 将 軍 家 の 変 質
﹂︵ 註 石 原 著 書
︑ 初 出 二
〇 一 二 年
︶︒ 前 提 と さ れ た 川 合 説 は
﹁ 武 家 の 天 皇 観
﹂︵
﹃ 鎌 倉 幕 府 成 立 史 の 研 究
﹄ 校 倉 書 房
︑ 二
〇
〇 四 年
︑ 初 出 一 九 九 三 年
︶︑ 市 澤 説 は
﹁ 南 北 朝 内 乱 期 に お け る 天 皇 と 諸 勢 力
﹂
︵﹃ 日 本 中 世 公 家 政 治 史 の 研 究
﹄ 校 倉 書 房
︑ 二
〇 一 一 年
︑ 初 出 一 九 九 六 年
︶︒ ' 将 軍 と い う 枠 を 外 し て 武 士 全 般 に 拡 大 す る と
︑ 平 清 盛
・ 重 盛
・ 宗 盛 の 三 人 が 加 わ る が
︑ 彼 ら も 決 し て 吉 例 と は い え ま い
︒ ( こ の 点 に つ い て は
︑ 以 前 に 拙 稿
﹁ 書 評 と 紹 介 松 永 和 浩 著
﹃ 室 町 期 公 武 関 係 と 南 北 朝 内 乱
﹄﹂
︵﹃ 日 本 歴 史
﹄ 七 九
〇 号
︑ 二
〇 一 四 年
︶ で も 簡 単 に 触 れ た
︒ ) 筆 者 は 以 前
︑﹁ 義 満 の 公 家 社 会 進 出 が 進 展 し 始 め た ま さ に そ の 時 期 に 康 暦 の 政 変 が 発 生 し た の も
︑ こ う し た 動 き を 武 家 側 で 主 導 し た 頼 之 が 絶 大 な 権 力 を 握 る こ と へ 危 惧 が 高 ま っ た た め だ っ た と 考 え ら れ る
﹂︵ 註 拙 稿 六 一 頁
︶ と 述 べ た が
︑ そ れ は こ の よ う な 点 を 意 識 し た 表 現 で あ る
︒ た と え ば
﹁ 客 観 的 に は 義 満 が 自 立 し
︑ 権 力 と 権 威 を も ち は じ め た こ と に よ り
︑ 管 領 の 地 位 が 相 対 的 に 低 下 し た こ と が 頼 之 失 脚 の 原 因 で あ っ た
﹂ と す る 伊 藤 喜 良 の 見 解
︵ 伊 藤
﹃ 足 利 義 満
﹄ 山 川 出 版 社
︑ 二
〇 一
〇 年
︑ 一 六 頁
︶ な ど と 対 立 す る 見 解 で あ る
︒ な お
︑ こ の よ う に 義 満 の 公 家 社 会 進 出 の 素 地 が 細 川 頼 之 管 領 期 に 準 備 さ れ て い た こ と を 強 調 す る の が 最 近 の 研 究 の 特 徴 で あ る
︒ 代 表 的 な も の と し て
︑ 家 永 遵 嗣
﹁ 足 利 義 満
・ 義 持 と 崇 賢 門 院
﹂︵
﹃ 歴 史 学 研 究
﹄ 八 五 二 号
︑ 二
〇
〇 九 年
︶︑ 註
⑽ 拙 稿
︑ 水 野 圭 士
﹁ 細 川 頼 之 政 権 と 持 明 院 統 の 分 裂
﹂︵
﹃学 習 院 大 学 人 文 科 学 論 集
﹄ 二 六 号
︑ 二
〇 一 七 年
︶ な ど が 挙 げ ら れ る
︒
* 註
⑷ 佐 藤 論 文
︑ 一 五 二 頁
︒ + 市 澤
﹁ 中 世 王 権 論 の 中 の 足 利 義 満
﹂︵ 註&
市 澤 著 書
︑ 初 出 二
〇
〇 四 年
︶︒ , 今 枝 愛 真
﹁ 斯 波 義 将 の 禅 林 に 対 す る 態 度
﹂︵
﹃中 世 禅 宗 史 の 研 究
﹄ 東 京 大 学 出 版 会
︑ 一 九 七
〇 年
︑ 初 出 一 九 五 六 年
︶︑ 四 六 八 頁
︒ - 佐 々 木 銀 哉
﹃ 日 本 の 歴 史 八 室 町 幕 府
﹄︵ 小 学 館
︑ 一 九 七 五 年
︶ 三
〇
〜 三 一 頁
︒
南北朝後期における室町幕府政治史の再検討(下) ― 258 ―
! 榎 原 雅 治
﹁ 一 揆 の 時 代
﹂︵
﹃ 日 本 の 時 代 史 一 一 一 揆 の 時 代
﹄ 吉 川 弘 文 館
︑ 二
〇
〇 三 年
︶ 一 三 頁
︒
"
山 田 邦 明
﹃ 室 町 の 平 和
﹄︵ 吉 川 弘 文 館
︑ 二
〇
〇 九 年
︶ 六 三 頁
︒
# 註 小 川
﹃ 足 利 一 門 守 護 発 展 史 の 研 究
﹄ 四 五 九
〜 四 七 四 頁
︒
$ 亀 田 俊 和
﹁ 室 町 幕 府 安 堵 状 の 形 成 と 展 開
﹂︵
﹃ 室 町 幕 府 管 領 施 行 シ ス テ ム の 研 究
﹄ 思 文 閣 出 版
︑ 二
〇 一 三 年
︑ 初 出 二
〇
〇 五 年
︶︑ 松 園 潤 一 朗
﹁ 室 町 幕 府 の 安 堵 と 施 行
﹂︵
﹃ 法 制 史 研 究
﹄ 六 一 号
︑ 二
〇 一 二 年
︶・
﹁ 足 利 義 満 期 の 安 堵 政 策
﹂︵
﹃ 日 本 歴 史
﹄ 七 七 五 号
︑ 二
〇 一 二 年
︶︒ 松 園 論 文 は
︑ 義 満 期 に お け る 安 堵 施 行 実 施 の 理 由 を
﹁ 管 領 の 権 力 拡 張 志 向
﹂ に 求 め る 亀 田 説 を 批 判 し た も の で
︑ そ の 点 に お い て 基 本 的 に 賛 同 で き る が
︑ 綸 旨
・ 院 宣 の 施 行 事 例 ま で と も に 表 に 入 れ て し ま っ て い る 点 な ど
︑ 松 園 論 文 に も 問 題 と 思 わ れ る 部 分 が あ る た め
︑ 注 意 が 必 要 で あ る
︒ な お
︑ そ の 一 方 で
︑ 松 園 が
﹁﹁ 安 堵
﹂ 施 行 は
﹁ 特 別 訴 訟 手 続
﹂ の 拡 大 と し て の 一 面 も 有 し て い た
﹂︵
﹁ 室 町 幕 府 の 安 堵 と 施 行
﹂ 六 七 頁
︶ と す る 点 は
︑ き わ め て 重 要 で あ る
︒ 要 す る に
︑ そ れ ま で 所 務 沙 汰 の 範 囲 で 処 理 さ れ て い た 案 件 が
︑﹁ 安 堵
﹂ と 呼 ば れ る 文 書 で 処 理 さ れ る よ う に な っ た と い う こ と な の だ が
︑ だ と す れ ば
﹁ 安 堵
﹂ 施 行 に つ い て も
︑﹁ 安 堵
﹂ の 展 開 と い う 文 脈 の み で は な く
︑ 後 述 の よ う な 所 務 沙 汰 の 変 質 の 一 環 と し て 論 じ る べ き と い う こ と に な る だ ろ う
︒ 本 稿 に は そ う し た 点 を 十 分 に 論 じ る 余 地 は な い も の の
︑ 今 後 そ う し た 点 を 検 討 し て い く 必 要 が あ る と 考 え て い る
︒
% 註 小 川
﹃ 足 利 一 門 守 護 発 展 史 の 研 究
﹄ 四 七 四 頁
︒
&
﹃ 壬 生 家 文 書
﹄ 五 七
・ 六 九 七 号 ' 註
⑸ 松 永 著 書 二
〇 八 頁 な ど
︒ な お
︑ 同 じ く
﹁ 今 度 大 儀
﹂ の た め と し て 久 我 家 に も 家 領 の 遵 行 を 命 じ た 文 書 が 出 さ れ て い る が
︑ 久 我 家 の ほ う に 発 給 さ れ た の は 義 満 の 書 状 で あ っ た
︵﹃ 久 我 家 文 書
﹄ 一 二 一
︵ 二
︶ 号
︶︒ (
﹁ 吉 田 家 日 次 記
﹂ 永 徳 三 年 七 月 一
〇 日 条
︒﹁ 吉 田 家 日 次 記
﹂ に つ い て は
︑ 天 理 大 学 附 属 天 理 図 書 館 に 申 請 し て 頒 布 を 受 け た 写 真 に よ っ て 確 認 し た
︒ ) 斯 波 家 で は
︑ 守 護 代 以 下 の 発 給 文 書 で 奉 書 形 式 が 使 用 さ れ る
︵ た と え ば 応 永 七 年 四 月 二 六 日 付 の 尾 張 守 護 代 甲 斐 将 教 奉 書
︵﹃ 大 徳 寺 文 書
﹄ 三 一 一
〇 号
︶ な ど が
︑ 同 じ 形 式 で あ る
︒ こ の よ う な あ り 方 は 遡 っ て 貞 治 三 年 一
〇 月 二 七 日 付 の 沙 弥 某 奉 書
︵﹃ 八 坂 神 社 文 書
﹄ 一 六 四 七 号
︶ や 応 安 三 年 四 月 五 日 付 の 沙 弥 是 鎮 奉 書
︵ 同 一 六 四 四 号
︶ に ま で 遡 る
︶︒ こ の こ と を 考 慮 す る と
︑ こ こ に み え る 宮 内 大 輔 も 守 護 代 と 考 え て 間 違 い な か ろ う
︒ な お
︑ こ の 時 期 に お け る 京 都 周 辺 の 大 名 家 の 被 官 層 で 八 省 大 輔 の 官 職 を も つ 人 物 は 珍 し い
︒ 応 永 一 九 年 の 棟 別 銭 関 連 記 事 に み え る 細 川 兵 部 大 輔 入 道
︵﹁ 東 寺 百 合 文 書
﹂ ツ 函 一
〇 六 号
︶
― 259 ― 南北朝後期における室町幕府政治史の再検討(下)
の 事 例 な ど を 考 慮 し た う え で
︑ 斯 波 被 官 の 細 川 氏 で あ る 可 能 性 を 指 摘 し て お き た い
︒
!
﹁ 吉 田 家 日 次 記
﹂ 永 徳 三 年 九 月 一 五 日 条
︒
"
拙 稿
﹁ 室 町 幕 府 所 務 沙 汰 と そ の 変 質
﹂︵
﹃ 法 制 史 研 究
﹄ 五 七 号
︑ 二
〇
〇 八 年
︶︒
#
﹃ 空 華 日 用 工 夫 略 集
﹄ 康 暦 二 年 八 月 七 日
︵ 義 詮 月 忌
︑ 以 下 各 月 七 日 は 同 様
︶︑ 一
〇 月 晦 日
︵ 尊 氏 月 忌
︑ 以 下 各 月 晦 日 は 同 様
︶︑ 一 一 月 七 日
︑ 一 二 月 三 日
・ 四 日
・ 七 日
︵ 義 詮 年 忌
︶︑ 康 暦 三 年 二 月 二 六 日
︵ 直 義 年 忌
︶︑ 四 月 七 日
︑ 九 月 二 七 日
︵ 開 山 忌
︶︑ 一
〇 月 七 日
︑ 一 二 月 二 日
︵ 義 詮 年 忌
︶ 条
︑ 永 徳 二 年 正 月 三
〇 日
︑ 六 月 七 日
︑ 八 月 七 日
︑ 永 徳 三 年 六 月 七 日
︑ 永 徳 四 年 四 月 七 日
︑ 至 徳 二 年 六 月 晦 日
︑ 至 徳 三 年 二 月 七 日 条
︒ そ の ほ か
︑ 永 徳 二 年 九 月 二 五 日
︵ 日 野 宣 子 百 日 忌
︶︑ 一
〇 月 晦 日
︑ 一 二 月 二 日
︵ 義 詮 年 忌
︶ な ど も
︑ 記 載 か ら 義 将 が そ の 場 に い る こ と が わ か る
︒
$ た と え ば
︑ 康 暦 二 年 一 一 月 七 日 の 等 持 寺 へ の 御 成 の 際 に
︑ 義 将 が 等 持 寺 八 講 の 再 興 を 建 言 し た こ と な ど は よ く 知 ら れ て い よ う
︵﹃ 空 華 日 用 工 夫 略 集
﹄ 同 日 条
︶︒
%
﹃ 迎 陽 記
﹄ 康 暦 二 年 四 月 二 三 日 条
︒ た だ し
︑ 義 将
・ 範 光 の 二 人 が
﹁ 参 仕
﹂ と 記 さ れ
︑ 饗 庭 氏 直 は
﹁ 祗 候
﹂ と 記 さ れ て い る
︒
&
﹃ 空 華 日 用 工 夫 略 集
﹄ 永 徳 二 年 一
〇 月 一 三 日 条
︑ 永 徳 三 年 三 月 二 日 条
︑ 至 徳 三 年 二 月 三 日 条
︒
① で は
﹁ 官 伴
﹂ は 義 将 一 人
︒
② で は 二 条 良 基 ら 公 家 関 係 者 五 人 の ほ か 義 将 と 弟 義 種 が 従 い
︑
③ で は 義 将
・ 義 種 の ほ か 饗 庭 氏 直 が 従 っ て い る
︒
④ は 公 家 関 係 者 五 人 の ほ か に 従 っ て い る の は 義 将 の み で
︑ 彼 が 御 剣 役 を 務 め て い る
︒ な お
︑ こ の よ う な
﹁ 官 伴
﹂ の ほ か
︑ 義 満 に は
﹁ 僧 伴
﹂︵ 禅 僧 た ち
︶ も 従 っ て い る
︒ '
﹃ 空 華 日 用 工 夫 略 集
﹄ 康 暦 二 年 一 一 月 一 五 日
・ 一 八 日
︑ 至 徳 元 年 九 月 二 日 条
︒ (
﹃ 空 華 日 用 工 夫 略 集
﹄ 永 徳 三 年 六 月 二 九 日 条
︒ )
﹁ 神 護 寺 交 衆 任 日 次 第
﹂︑
﹁ 武 家 年 代 記
﹂︑
﹁ 東 寺 王 代 記
﹂︒
* と く に
︑ 永 徳 元 年 に い っ た ん 義 満 と の 間 に 緊 張 が 走 っ た と 思 わ れ る が
︑ そ れ 以 後 に も 義 満 に 仕 え る 様 子 が と く に 変 わ っ た よ う に は み え な い 点 に 注 意 し て お く 必 要 が あ る
︒ + 逆 に い え ば
︑ 細 川 氏 の よ う な 勢 力 が 突 出 し て 幕 府 の 実 権 を 握 る こ と へ の 危 惧 が 強 か っ た こ と も
︑ そ の よ う な 彼 自 身 の 基 盤 の 弱 さ と 表 裏 の 問 題 だ っ た 可 能 性 も あ る
︒ , 本 稿 で は 細 川
・ 土 岐
・ 山 名
・ 大 内 の よ う に 広 域 的 な 地 域 権 力 と 化 し た 大 名 が 幕 政 を 左 右 す る こ と を 強 調 し て き た が
︑ そ の よ う な 勢 力 に 左 右 さ れ な い 権 力 を 義 満 が 確 立 し て い く に あ た っ て 重 要 だ っ た の は
︑ 御 料 所
・ 奉 公 衆 な ど の 直 轄 的 基 盤 の 確 立 よ
南北朝後期における室町幕府政治史の再検討(下) ― 260 ―