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淀 屋 橋 ・ 大 江 橋 の 意 匠 設 計 図 案 懸 賞 競 技 の 意 義

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(1)

淀 屋 橋 ・ 大 江 橋 の 意 匠 設 計 図 案 懸 賞 競 技 の 意 義

│ 橋 梁に よ る 都市 景 観 構築 に つ いて の 一 考察

清 瀬

み さ を

は じ め に 一

︑ 中 之 島 と 淀 屋 橋 二

︑ 大 江 橋

・ 淀 屋 橋 の 意 匠 設 計 図 案 懸 賞 競 技 三

︑ 大 江 橋

・ 淀 屋 橋 の 設 計 競 技 の 歴 史 的 意 義

︵ 一

︶ 橋 梁 の 設 計 競 技

︵ 二

︶ 橋 梁 と 環 境 と の 調 和

︑ 建 築 家

・ 武 田 五 一

︵ 三

︶ 大 阪 近 代 の 橋 梁 景 観

︵ 四

︶ 和 風 の 意 匠 と 橋 梁 お わ り に

は じ め に 本論

の目 的は

︑大 正十

︵一 九二 一︶ 年に 大阪 市が 御堂 筋の 建設

︑淀 屋橋 およ び大 江橋 の架 け替 えに 際し て実 施し た 意 匠設 計図 案懸 賞競 技の 意義 を考 察す るこ とに ある

︒そ れは

︑我 が国 にお いて 橋梁 の意 匠形 式を めぐ る最 初の 設計 競

― 83 ―

(2)

技 であ り︑ その こと 自体 が日 本近 代の 橋梁 史に おい て画 期的 な意 味を もつ

︒さ らに 注目 すべ きは

︑土 木技 術者 では な く 建築 家が

︑橋 梁に よっ て美 しい 都市 景観 を構 築す ると いう 明確 な意 図を もっ て審 査を 行っ たと いう こと であ る︒ 淀 屋橋

・大 江 橋 は︑ 平成 二 十 年に 国 の 重 要文 化 財 に指 定 さ れ︑ ま た大 阪 市 で最 も 人 気の あ る 橋 梁 で あ る︒ 本 論 で は

︑第 一章 にお いて 近現 代の 中之 島と 淀屋 橋の 変遷 とそ の時 代背 景を 概観 し︑ 第二 章に おい ては

︑こ の設 計競 技の 概 要 を示 し︑ 審査 結果 を分 析す る︒ 第三 章に おい て︑ この 設計 競技 の行 われ た歴 史的 経緯 をふ まえ

︑設 計案 と審 査結 果 の 分析 を通 じて

︑審 査の 中心 とな った 建築 家・ 武田 五一 が橋 梁と 都市 景観 の構 築を どの よう にと らえ てい たの かを 検 証 する

︒さ らに 競技 設計 が︑ 橋梁 の芸 術性 にた いす る社 会の 認識 を変 化さ せる のに 貢献 した こと を指 摘す る︒ そし て こ の設 計競 技で 注目 され なが ら三 等に 終わ った 前衛 的な 意匠 図案 がコ ンク リー トと いう 建材 と結 びつ くこ とで 新た な 都 市景 観の 構築 を果 たし たこ とを 検証 する

︒そ れら の考 察を 通じ て︑ 仮設 の木 橋か ら永 久橋 の文 化に 移行 する 時代 に こ の設 計競 技が 果た した 意義 と大 阪近 代の 都市 景観 の特 質を 浮き 彫り にす るこ とを 試み る︒ 一︑

中 之 島と 淀 屋 橋 水

都大 阪 の 中之 島 は︑ 大 川を 分 け る 土佐 堀 川 と堂 島 川 間 の中 州 で あり

︑今 日 で は文 化 ゾ ー ンと 位 置 づ け ら れ て い る

︒上 流の 東か ら中 之島 公園

︑東 洋陶 磁器 美術 館︑ 中之 島公 会堂

︑中 之島 府立 図書 館︑ フェ ステ ィバ ルホ ール

︑国 立 国 際 美 術館

︑大 阪 市 立科 学 館︑ そ し て国 際 会 議場 な ど が集 ま る

︒古 く は上 中 之 島と 下 中 之島 に 分 か た れ て い た も の が

︑十 七世 紀の 終盤 以降 の埋 め立 てに よっ てひ と続 きに なり

︑東 は天 神橋 筋︑ 西は 天神 橋筋 を越 えて 拡張 し︑ 大正 初 期 にま でに とと のえ られ たの が現 在の 姿で ある

淀屋橋・大江橋の意匠設計図案懸賞競技の意義 ― 84 ―

(3)

江戸 時代 には

︑こ の島 に東 端の 備中 成羽 から 西端 の伊 予西 条 ま で︑ 全国 諸藩 四十 余り の蔵 屋敷 がひ しめ いて いた

︒川 口の 港 か ら運 ばれ てき た物 資は それ ぞれ の舟 入橋 から 蔵屋 敷に 運び 込 ま れ︑ 土佐 堀川 の南 岸に 軒を 連ね る豪 商た ちが 商い

︑相 場が 立 ち

︑銅 吹き 所か らは 精錬 の煙 が立 ち上 って いた

︒蔵 屋敷 と両 岸 を 渡す 橋は 淀屋 橋

︑大 江 橋 を含 め 十 二を 数 え た︒ 橋の 番 付 表!

に も 記 さ れ て い る よ う に︑ 中 之 島 の 上 流 か ら 並 び 掛 か る 天 満 橋

︑天 神橋

︑難 波橋 が﹁ 浪花 の三 橋﹂ とも ては やさ れる 花形 で あ った

︵図 1︶

︒ 淀屋 橋は 東の 前頭 四枚 目と

︑ま だま だ 実 力が お よ ばな い

︒今 日 の 横綱 の 地 位を 獲 得 する に は

︑淀 屋 橋 が中 之島 へと 結ぶ 御堂 筋自 体の 昇格 を待 たね ばな らな かっ た︒ 現在

︑島 と両 岸を 結び 分か つ合 計二 十二 の橋 梁︵ 図2

1︑ 2

2︶ は︑ 東端 の天 神橋 から 西端 の船 津橋

・端 建蔵 橋 ま で︑ 橋の 都の なか でも 形式

・構 造と もに 格別 の力 が注 がれ てき た︒ 近代 以前 には

︑我 が国 のほ とん どす べて の橋 は 木 橋で あっ た︒ 中之 島は 拡大 を続 け︑ 岸と 結ぶ 橋は

︑木 造の 桁橋 から 鉄橋 へ︑ そし て鉄 筋コ ンク リー トの 永久 橋へ と 架 け換 えら れて いっ た︒ 中之 島は

︑江 戸時 代も 今日 も︑ 地盤 沈下 とい う深 刻な 問題 をか かえ ては いる が︑ パリ のセ ー ヌ 川に 浮か ぶシ テ島 にた とえ られ る︑ 魅力 的な 水辺 の都 市景 観を 構築 して いる

︒ そ れら の 橋 梁の う ち で︑ 市内 最 大 の 人と 車 両 が往 来 す る 要衝 は

︑御 堂 筋と 中 之 島を 結 ぶ 淀 屋橋 お よ び 大 江 橋 で あ る

︒御 堂筋 は︑ 大正 末年

︵一 九二 五︶ 年に 着工

︑昭 和十 二︵ 一九 三七

︶年 に竣 工し

︑北 の現

・大 阪駅 と南 の南 海電 鉄 難 波駅 を結 ぶ延 長約 四キ ロメ ート ル︑ 幅二 十四 間︵ 四十 三・ 六メ ート ル︶ の大 動脈 であ る︒ 土佐 堀川 を越 えて 中之 島

1 浪華橋々繁栄見立相撲番付表 天保12(1841)年

― 85 ― 淀屋橋・大江橋の意匠設計図案懸賞競技の意義

(4)

に渡 ると

︑御 堂筋 を挟 んで 大阪 市役 所 と日 本銀 行大 阪支 店が 対峙 する

︒中 之 島は

︑政 治・ 経済 の中 心で もあ る︒ 淀 屋橋 は豪 商﹁ 淀屋

﹂の 名前 にち な むが

︑そ の名 自体 が︑ すで にし て大 阪 人の 琴線 を刺 激す る︒ 淀屋 橋南 詰︑ 下 流側 には 淀屋 の屋 敷跡 を記 す碑 が設 置 され てい るが

︑江 戸時 代初 期か らこ の 島を 開発 し︑ なに わの 経済 的拠 点へ と 発展 させ

︑何 より も土 佐堀 川に 淀屋 橋 を架 けた とさ れる 豪商 であ る︒ 交通 量 もさ るこ とな がら

︑こ の橋 は大 阪市 内の 橋梁 中︑ ゆる ぎな い第 一位 の人 気を 誇 る!

︒ 歴史 性︑ 橋自 体の 美し さ︑ 周囲 の環 境 と の 調和 が そ の理 由 と して 挙 げ ら れる

︵図 3

〜3

︶︒ ま た平 成二 十年 十月

︑両 橋は

︑大 正十 年︵ 一九 二一

︶年 に始 まっ た大 阪市 第 一次 都市 計画 事業 の代 表的 橋梁 とい う歴 史的 価値 のた めに 国の 重要 文化 財に 指 定さ れた

︒周 辺環 境と の調 和を 意図 した 意匠 設計 競技 によ って 建設 され た橋 梁 デザ イン 史的 価値

︑そ して 地下 鉄御 堂筋 線と 一体 的に 造ら れた ため の特 種な 基

2−1 現在の中之島橋梁および文化施設関連地図

2−2 江戸時代の中之島蔵屋敷と橋地図 淀屋橋・大江橋の意匠設計図案懸賞競技の意義 ― 86 ―

(5)

礎 構 造 も指 定 理 由に 挙 げ ら れて い る︒ 現 在の 淀 屋 橋の 昇 格

︑そ し て大 阪 近 代の 水 辺 景観 が 構 築 され て ゆ く き っ か け は

︑大 正末 期に 実施 され た両 橋の 意匠 設計 競技 であ った

︒そ れは

︑我 が国 にお いて 橋梁 をめ ぐる 最初 の設 計競 技で あ る

3−1 淀屋橋 土佐堀川 鉄筋コンクリートアーチ橋 全長53.5 m 幅36.5 m.昭和10年 南詰下流側よ り見た

3−2 淀屋橋 南東上流側よりみた

3−3 淀屋橋 西側舗道のバルコニー

― 87 ― 淀屋橋・大江橋の意匠設計図案懸賞競技の意義

(6)

二︑ 大 江 橋・ 淀 屋 橋の 意 匠 設計 図 案 懸賞 競 技 大正

十三

︵一 九二 四︶ 年六 月︑ 鉄橋 であ った 淀屋 橋・ 大江 橋を 架け 替え る意 匠案 の全 国公 募が 告知 され た︒ 正確 な 設 計競 技名 は﹁ 大阪 市都 市計 画広 路大 江橋 及淀 屋橋 両橋

﹂で ある

︒合 計六 十二 点の 応募 があ り︑ 建築 家の 宗兵 蔵︵ 明 治 元治 元

︹一 八 六四

︺│ 昭 和十 九

︹一 九 四四

︺年

︶︑ 大 澤 三 之助

︵慶 応 三︹ 一 八六 七

︺│ 昭和 二 十︹ 一 九 四五

︺年

︶︑ 武 田五 一︵ 明治 五︹ 一八 七二

︺│ 昭和 十三

︹一 九三 八︺ 年︶

︑ 片岡 安︵ 明治 九︹ 一八 七六

︺│ 昭和 二十 一︹ 一九 四六

︺ 年

︶︑ 古 宇田 實︵ 明治 十二

︹一 八七 九︺

│昭 和 三 十︹ 一九 六 五︺ 年︶ の 五名 が 審 査 員を 務 め た︒ 大谷 龍 雄 案が 一 等 に 選 ばれ

︑一 等か ら三 等︑ 佳作 一席 から 五席 まで

︑表 彰さ れた 八人 につ いて は審 査評 と図 案が 残る

!

︒ 公

募の 要件 は︑ 以下 のと おり であ る︒

"

大 江橋

・淀 屋橋 とも 幅二 十間

︵三 十六

・四 メー トル

"

橋 長は 大江 橋が 四十 五間

︵八 十一

・八 メー トル

︶︑ 淀 屋橋 が三 十間

︵五 十四

・五 メー トル

"

主 構造 は鉄 骨鉄 筋コ ンク リー トア ーチ 橋

"

二 橋は 同一 形式

"

周 辺の 建築 物お よび 背景 と調 和し 両橋 間の 道路 意匠 もあ わせ て設 計す る

"

賞 金は 第一 等 千 円︑ 第二 等 五百 円︑ 第三 等 三 百円

︑選 外佳 作 百円

淀屋橋・大江橋の意匠設計図案懸賞競技の意義 ― 88 ―

(7)

公募 の条 件に 挙が って いる 周辺 の建 築物 を含 め た環 境 を 確認 し て おき た い

︒ま ず︑ 土 佐堀 川 か ら中 之 島 に 渡る と

︑ 御 堂筋 西側 を占 めて いた のは

︑明 治三 十六

︵一 九〇 三︶ 年に 竣工 した 辰野 金吾

︵嘉 永七

︹一 八五 四︺

│大 正八

︹一 九 一 九︺ 年︶ 設計 にな る日 本銀 行大 阪支 店で ある

!

︒辰 野は

︑お 雇い 外国 人と して 帝 国 大 学で 最 初 の建 築 家 教育 を 行 っ た イギ リス 人建 築家 コン ドル

Josiah Conder, 1852 − 1920

︶の 薫陶 を受 け︑ 明治 十二 年に 卒業 した 日本 人建 築科 第一 期 生 であ る"

︒ 日銀 大阪 支店 は︑ 煉瓦 の躯 体に 分厚 く白 御影 をま とう 二階 建て で

︑ロ ー マ 神殿 風 の オー ダ ー を飾 っ た 玄 関 を構 える

︒や や扁 平な 円蓋 を正 面玄 関上 に載 せた

︑い かめ しく 重厚 な古 典建 築で ある

︵図 4︶

︒ 筋向 かい

︑上 流側 には

︑片 岡 安の 設計 にな る大 阪市 庁舎 が 大正 十︵ 一九 二一

︶年 に竣 工 し た

︵図 5︶

︒ 片 岡 は 日 銀 の 技師 をへ て辰 野と 設計 事務 所 を経 営し つつ 関西 に根 を張 り

︑日 本生 命や 銀行 建築 を多 数 手が けた

︒こ の大 阪市 庁舎 は 大正 元︵ 一九 一二

︶年 に設 計 競技 が行 われ

︑片 岡が 一等 図 案を もと に実 施設 計を 行っ た もの であ る︒ 中央 に塔 屋を

5 旧大阪市庁舎 片岡安設計(大正10年)と 鉄橋(明治44年竣工)時代の淀屋橋 絵葉書 図4 日銀大阪支店 辰野金吾・葛西萬司・長野宇平

治設計(明治36年)と鉄製杭橋脚橋時代の淀 屋橋

― 89 ― 淀屋橋・大江橋の意匠設計図案懸賞競技の意義

(8)

戴 き︑ 垂直 線を 強調 した イタ リア 中世 末期 か ら の政 庁舎 建築 の系 譜を ひく

︒そ して

︑市 庁 舎 の背 後に は︑ 明治 三十 七︵ 一九

〇四

︶年 に 竣 工 し た 府 立 図 書 館 が 控 え る

︒こ の 図 書 館 は

︑白 御影 石を 貼り めぐ らせ

︑高 い階 段上 に 立 ち上 がる ロー マ神 殿風 の列 柱廊 玄関 と美 し い 円蓋 を特 色と する

︒古 代ロ ーマ のパ ンテ オ ン を 遥 か な 淵 源 と す る 完 璧 な 古 典 様 式 で あ る

︒ま さに

︑日 本人 建築 家第 一世 代に よる 西 洋 の歴 史様 式の 習熟 を物 語る

︑麗 々し く重 厚 な 大建 築物 の集 合地 であ った

︒ 競技 設計 の公 募者 たち は︑ これ ら大 家に よ る 壮麗 な建 築群 に調 和す る橋 梁を 構想 しな け れ ばな らな かっ た︒ ここ に︑ 提出 図案 の中 から 各受 賞者 の配 景 図 一 点 の み 示 す

︵図 6

1〜 6

︶︒ そ れ ら の 図案 を検 討す ると

︑第 三等 図案 以外 は︑ ど れ もが 市庁 舎と の調 和を 意識 して いる

︒橋 脚

6−3 淀屋橋大江橋意匠設計図案懸賞 競技 第三等図案 大澤浩 図6−4 淀屋橋大江橋意匠設計図案懸賞

競技 選外佳作第一席 早笋五 朗

6−1 淀屋橋大江橋意匠設計図案懸賞 競技 第一等図案 大谷達蔵 図6−2 淀屋橋大江橋意匠設計図案懸賞

競技 第二等図案 伊藤正文

淀屋橋・大江橋の意匠設計図案懸賞競技の意義 ― 90 ―

(9)

部 分を 張り 出し て垂 直線 と立 体感 を作 り 出 し︑ 橋灯 を大 きめ に設 定し

︑装 飾を 組 み 込ん で古 典的 で重 厚な 意匠 を工 夫し て い る︒ 橋灯

︑柱 塔の 形式

︑そ して 細部 の 装 飾に はそ れぞ れ意 匠の 工夫 が認 めら れ る

︒審 査概 評で は︑ 様式

︑コ ンク リー ト の 特質 の生 かし かた

︑柱 塔や 橋灯

︑装 飾 の 意匠 的妥 当性

︑橋 脚部 にお ける 船舶 航 行 への 配慮 の有 無な どが 評価 の観 点と な っ てい る!

︒ 審査 の結 果︑ 大阪 市の 大 谷 龍 雄 案 が 一 等 に 選 ば れ た

︒審 査概 評は

︑大 谷案 が 第 一等 に選 ばれ た理 由と し て

︑和 洋 折 衷 で あ る こ と

︑ 概 観が 端正 でし かも 力強 い こ と︑ プロ ポー ショ ンが 洗 練 され てい るこ と︑ そし て

6−7 淀屋橋大江橋意匠設計図案懸賞 競技 選外佳作第四席 忽那仁 作

6−8 淀屋橋大江橋意匠設計図案懸賞 競技 選外佳作第五席 山本富 一朗

6−5 淀屋橋大江橋意匠設計図案懸賞 競技 第選外佳作第二席 鈴木 久

6−6 淀屋橋大江橋意匠設計図案懸賞 競技 選外佳作第三席 植實宗 三郎・鈴木参一・喜多村政良

― 91 ― 淀屋橋・大江橋の意匠設計図案懸賞競技の意義

(10)

コ ンク リー トの 特質 を生 かし た様 式表 現で ある こと を挙 げて いる

︒一 方︑ 柱塔 装飾 がく どい こと を惜 しん でい る!

︒ 公募 の顛 末と して は︑ 淀屋 橋お よび 大江 橋は

︑審 査員 の武 田五 一と その 弟子 で大 阪市 技師 の元 良勲 が第 一等 案に 修 正 を加 えて 建設 され た︒ 変更 点は 橋塔 をバ ルコ ニー に変 えた こと

︑装 飾を 排除 した こと が挙 げら れる

︒両 橋は 昭和 五 年 五月 末日 に着 工し

︑同 十年 四月 末日 に竣 工し た︒ 総工 費は 一〇 八一 二五 五円 であ った

︒ 三︑

設 計 競技 の 歴 史的 意 義 この

淀屋 橋意 匠設 計競 技の 歴史 的意 義と して 次の 五点 が指 摘で きよ う︒ 1 橋 梁を めぐ る設 計競 技が 初め て行 われ たこ と︒ 2 周 囲の 建物 や背 景︑ 道路 との 調和 が公 募条 件に 掲げ られ てい るこ と︒ 3 審 査の 観点 にま ず美 的な 様式 の評 価が 置か れて いる こと

︒ 4 大 正末 期か ら昭 和初 期に かけ ての 建築 設計 競技 では

︑和 風を 加味 する こと が条 件と なる が︑ ここ では それ が問 題 に され てい ない こと

︒ 5 審 査の 観点 にコ ンク リー トの 特質 と造 形あ るい は構 造と が適 合し てい るか どう か︑ とい うこ とが 挙が って いる こ と

︵一

︶橋 梁の 設計 競技 まず 第一 点目

︑国 内で 初め ての 橋梁 の設 計競 技で ある とい うこ とに つい て︒ 技比 べは

︑古 代ギ リシ アの 詩比 べか ら

淀屋橋・大江橋の意匠設計図案懸賞競技の意義 ― 92 ―

(11)

初 期ル ネサ ンス 期に おけ るフ ィレ ンツ ェ洗 礼堂 扉レ リー フ︑ オリ ンピ ック に至 るま で︑ 個人 が他 と区 別さ れる 実力 主 義 を前 提と する

︒も ちろ ん︑ 人間 社会 のこ とで ある から 背後 に根 回し があ り︑ 必ず しも 公募 の主 旨が 全う され ない こ と はあ るだ ろう

︒ま た複 数の 審査 員に よる 平均 値が 出さ れる ので 突出 した 個性 や時 代を 先取 りす る趣 味が 選ば れな い 負 の側 面も 否め ない

︒し かし

︑そ うい った 負の 側面 を差 し引 いた とし ても

︑少 なく とも 無名 の新 人に も登 竜門 を提 供 し

︑誰 もが 実力 を試 す公 正な 方法 であ る︒ さら に競 技を 通じ てそ の分 野や 課題 が世 間の 耳目 を集 め︑ 社会 に認 知さ れ る 可能 性を 開く

︒ 日本 近代 にお いて

︑紙 の上 に図 面を 引い て建 物を 構築 する

﹁建 築家

﹂と いう 職業 もそ のよ うな 設計 競技 を通 じて 社 会 的に 認識 され るよ うに なっ たこ とは 歴史 的事 実で ある

︒ま た︑ 建築 物が 機能 的側 面の みな らず

︑美 的な 評価 の対 象 と して

︑ま た建 築家 が絵 を描 きつ つ創 造す る芸 術家 であ る!

と 意識 され るよ うに な っ た こと も 特 筆し て お かね ば な ら な い︒ 建築 にお ける 設計 競技 の早 い事 例と して は︑ 明治 三十 四︵ 一九

〇一

︶年

︑大 阪で 北浜 の愛 珠幼 稚園 の園 舎設 計 を 課題 とし た事 例が あげ られ る"

︒ 本格 的な 設計 競技 は︑ 大正 デモ クラ シー を 背 景 に︑ 官公 庁 や 美術 館 な どの 公 共 建 築 をめ ぐっ て次 々と 開か れる よう にな った

︒明 治末 期か ら他 の都 市に 先ん じて

︑大 阪で 設計 競技 が実 施さ れた こと の 一 因に は︑ 経済 力を 回復 した 実力 主義 の︑ 民の 町と いう 都市 の性 質が 挙げ られ よう

#

︵二

︶橋 梁と 環境 との 調和

︑建 築家

・武 田五 一 第二 点目 の環 境と の調 和で ある が︑ 大阪 市の 第一 次都 市計 画の 注目 すべ き点 は︑ 橋梁 に交 通整 備と いう 機能 性と 都 市 美の 構築 とい うふ たつ の役 割が 重視 され てい たこ とで ある

︒ま た中 之島 の軟 弱な 地盤 に対 応す る技 術︑ 船舶 の航 行 へ の配 慮︑ 同じ 川筋 の橋 梁を 単体 とと らえ ず︑ 橋梁 群と して 総合 的な 都市 景観 を念 頭に 置く もの であ った

$

― 93 ― 淀屋橋・大江橋の意匠設計図案懸賞競技の意義

(12)

この 先駆 的な 橋梁 計画 のブ レー ンで あっ たの が︑ 設計 競技 の審 査員 を務 めた 建築 家・ 武田 五一 にほ かな らな い︒ 大 阪 市は 橋梁 に︑ 交通 の整 備と いう 実用 的役 割に 加え

︑明 確に 都市 美の 構成 要因 を認 め︑ 武田 に意 匠指 導を 仰ぎ 橋梁 技 術 者と の協 同に よっ て架 橋事 業を 実施 して いた ので ある

︒ま た︑ その 事業 を実 際に 施工 する 側に も︑ 明確 にそ のよ う な 認識 があ った

︒建 設会 社の 社長

・橋 本政 吉に よる と︑ 大阪 の河 川そ のも のが 商工 業の 利便 に帰 すの みな らず

︑都 市 美 の構 成要 素で あり

︑橋 の美 は両 岸と の調 和を も って な り たつ

︒橋 本 は︑

﹁ 最も 進 歩 し た科 学 の 上に 立 脚 し実 用 と 芸 術 的創 意を 加味 して 大大 阪を 表現 する に足 る立 派な 橋が 出来 るこ とを 切望 いた しま す﹂! と 述べ てい る︒ 大阪 市で は︑ 第一 次都 市計 画の 一環 で︑ 昭和 五年 頃ま でに 百五 十余 りの 永久 橋を 建造 し︑ 武田 の本 拠地 であ る京 都 と は全 く異 なる 近代 的な 水辺 の都 市景 観を 構築 した

︒京 都市 街地 の場 合は

︑三 方を 山に 囲ま れた 盆地 に鴨 川が 北か ら 南 に通 景を なす が︑ 水量 が乏 しく 勾配 があ るた めに 水運 に適 さず

︑ま た歴 史的 な建 造物 や天 正以 来の 擬宝 珠を 誇示 す る 公儀 橋が 幅を きか せて いる

︒大 阪市 はそ のよ うな 京都 市街 地と は異 なり

︑全 く新 しい 構造 と様 式を もつ 橋梁 と建 築 物 で都 市景 観を 構築 でき る条 件を 備え てい た︒ 美し い橋 梁を 架け るこ とが 大大 阪︑ 水 都大 阪に ふさ わし い都 市景 観を 構築 する とい う認 識の 周知 は︑ やは り建 築家

・ 武 田の 建築 理念 をぬ きに はあ りえ なか った こと を特 筆し てお かね ばな らな い︒ 武田 は︑ 明治 三十

︵一 八九 七︶ 年に 帝 国 大学 工部 大学 校造 家学 科を 卒業 した 日本 人建 築家 第二 世代 にあ たる が︑ 建築 家教 育の 遅れ てい た関 西で

︑後 進の 育 成 に 力 を注 ぎ

︑そ の 一門 が 関 西 近代 の 都 市景 観 を 作り 上 げ た と い っ て も 過 言 で は な い"

︒武 田 は 京 都 府 記 念 図 書 館

︵明 治四 十二 年︶ を皮 切り に公 私の 建築 設 計・ 設 計指 導

︑京 都 工芸 界 の 指 導︑ 法隆 寺 の 修復 工 事 監督

︑都 市 計 画︑ 執 筆 活動 と関 西近 代建 築草 創期 のあ らゆ る課 題に 忙殺 され てい た︒ その 武田 は︑ 公共 建築 にも 増し て﹁ 橋梁

﹂が 都市 景観 の規 矩と なる べき であ り︑ 周囲 の自 然や 都市 景観 と調 和し な

淀屋橋・大江橋の意匠設計図案懸賞競技の意義 ― 94 ―

(13)

け れば なら ない とい う先 駆的 な思 想を もっ てい た︒ 橋が

﹁橋 梁芸 術﹂ とな る可 能性 を認 識し てい た︒ そし て︑ 建築 家 と して は異 例の こと であ るが

︑実 際に 橋梁 三十 余り

!

の意 匠設 計︑ 設計 指導

︑競 技 設 計 審査 を 行 うと と も に関 係 方 面 へ の啓 蒙に も尽 力し てい た"

︒ 武田 によ ると

︑都 市計 画に おい ては 交通 の流 れ を 整 備す る こ とが

︑す な わ ち道 路 計 画 が 肝要 であ り︑ 橋梁 は道 路の 一部 であ るた めに 都市 計画 の中 で重 要な 要素 とな る︒ 都市 景観 を決 定す る構 造物 は建 築 よ りも むし ろ橋 梁で ある

︒な ぜな ら︑ 仮設 の橋 梁は

︑木 橋を 永久 橋に 架け 替え れば

︑常 に改 造・ 変更 され る運 命に あ る 建物 や公 園︑ 道路 より 恒久 的で ある

︒そ れゆ え︑ 都市 にあ って は︑ 橋梁 が建 物に あわ せる ので はな く︑ 逆に 周囲 の 建 物の 様式 的基 本に なる べき であ る︒ 周囲 が自 然の 場合 には 橋梁 が自 然に あわ せる こと

︑環 境の 美と 橋梁 の形 との 調 和 によ って その 環境 を常 に一 層美 化す るこ とに 留意 し︑ 装飾 の濫 用は さけ ねば なら ない

︒武 田は

︑橋 梁に よっ て大 阪 に 都市 美を 実現 しよ うと 構想 した

#

︒そ の思 想は

︑大 阪市 土木 部橋 梁課 長を 勤 め た 弟子

・元 良 勲 とと も に 個性 的 な 多 く の名 橋を 作り 出し

︑近 代大 阪の 都市 景観 に結 実し たと 言え る︒

︵三

︶橋 梁の 美 第三 点目

︑橋 梁設 計に おけ る美 的な 様式 の問 題は

︑今 論じ た第 二点 目と 重な りあ う︒ 日本 近代 にお いて

︑架 橋を 単 な る技 術と とら えず

︑景 観構 築の 要因 と位 置付 ける 意識 は︑ 明治 末期 に建 築家 が記 念碑 的な 橋梁 設計 を手 がけ たこ と に 端を 発し

︑大 阪の 第一 次都 市計 画に おい て﹁ 橋梁 美﹂ とい う概 念が 成立 する

︒ 明 治十 九

︵一 八 八六

︶年

︑大 阪 は 大洪 水 に み まわ れ

︑多 く の橋 が 流 失︑ 損 傷し

︑永 久 橋 へ の 希 求 は 高 ま っ て い っ た

︒明 治四 十二

︵一 九〇 九︶ 年︑ 大阪 でつ いに

︑長 堀川 の心 斎橋 が鉄 橋か ら大 阪最 初の

︑そ して 最後 の洋 風石 造ア ー チ 橋に 架け 替え られ た︵ 図7

︶︒ し かも

︑土 木技 術者 で はな く

︑住 友 家が 東 京 帝 国大 学 か ら招 聘 し た一 流 の 建 築家

― 95 ― 淀屋橋・大江橋の意匠設計図案懸賞競技の意義

(14)

野 口孫 市︵ 明治 二︹ 一八 九六

︺│ 大 正 四

︹一 九 一 六︺ 年︶! が そ の 町 橋 の 意 匠 を 手 が け た の で あ る︒ 長 堀川 を渡 す野 口の 心斎 橋は

︑す っ き り と 洗 練 さ れ た 二 連 ア ー チ 橋"

で︑ 中 央の 橋 脚 に は コ リ ン ト 式 円柱 2本 が添 えら れ︑ 高欄 には イ スラ ム的 な意 匠に 透か しが 穿た れ

︑繊 細な 形の ガス 灯を 戴く

︒そ の 後︑ 心斎 橋モ ダン 文化 の象 徴と な った 橋で ある が︑ 高欄 とガ ス灯 のみ が再 利用 され てい る#

︒ 大阪 に野 口が 心斎 橋を 立ち 上げ た二 年後

︑明 治四 十四

︵一 九一 一︶ 年に 東京 では 建築 家・ 妻木 頼黄

︵安 政六

︹一 八 五 八︺

│大 正五

︹一 九一 六

︺年

︶が 東 京日 本 橋 の意 匠 設 計 を手 が け た︵ 図8

︶︒ 東 京市 技 師・ 米 本晋 一

︑彫 刻 家・ 渡 辺 長男

︵明 治七

︹一 八七 四︺

│昭 和二 十七

︹一 九五 二︺ 年︶ との 協同 によ る橋 梁は

︑石 造二 連ア ーチ の本 格的 なル ネ サ ンス 様式 で︑ 高欄 にブ ロン ズの 麒麟 と獅 子の 彫刻 と橋 灯を 飾っ てい る︒ 野口 の心 斎橋 があ っさ りと 洗練 され てい るの に 対し て

︑妻 木 の日 本 橋 は︑ ブロ ン ズ 彫 刻の せ い もあ っ て 麗 々し く

︑ 限 りな く重 厚で ある

︒心 斎橋 が商 業地 にか かる 一都 市の 町橋 であ った のに 対し て︑ 一方 の日 本橋 は江 戸幕 府筆 頭の 公 儀 橋 と 別格 で あ り︑ 新生 明 治 国 家も

︑政 治 的・ 経 済的 な 要 衝︑ 国道 の 起 点 とい う 国 家の 記 念 碑 と 位 置 付 け た︒ 妻 木

8 東京日本橋 日本橋川 石造二連アー チ橋 全長49.0 m.幅27.0 m.設計:

米 本 晋 一、意 匠:妻 木 頼 黄、装 飾 制 作:渡辺長男 明治44年

7 心斎橋 長堀川 石造アーチ橋 全長 36.9 m.幅7.4 m.野 口 孫 市 設 計 明 治42年

淀屋橋・大江橋の意匠設計図案懸賞競技の意義 ― 96 ―

(15)

︑橋 梁 本 体と 意 匠 の調 和

︑帝 都 を 体現 す る 美観 と 尊 厳︑ 日本 的 な 典 雅︑ 安定 性 の 追求 を 基 本に 想 を 凝 ら し た と い う

︒そ して

︑幕 臣と して 万感 の思 いを こめ て橋 銘﹁ 日本 橋﹂ の揮 毫を 将軍 徳川 慶喜 に依 頼し た!

︒ こう して 明治 末期 の大 阪と 東京 で建 築家 が美 的な 観点 をも って 意匠 設計 した 永久 橋が 誕生 した

︒橋 の役 割︑ 意匠 と も 異な る二 橋で ある が︑ 日本 近代 にお いて 石工 や橋 梁技 術者 では なく

︑本 格的 に西 洋建 築に 習熟 した 建築 家が 鑑賞 に も 堪え る芸 術的 設計 に手 を染 めた 画期 的な 作品 であ る︒ それ は︑ 渡月 橋や 三条 大橋 のよ うに 名勝 や歴 史的 要衝 に架 か る 由緒 ある 橋︑ ある いは 岩国 錦帯 橋や 甲斐 の猿 橋︑ 祖谷 かず ら橋 のよ うな 奇橋 とい う理 由で

﹁名 橋﹂ とさ れた 橋梁 で は なく

︑作 者が 明確 に意 識し た芸 術作 品と して の橋 梁な ので ある

︒ 皇居 眼鏡 橋︵ 明治 二十 一︹ 一八 八八

︺年

︶は

︑肥 後の 石工

・橋 本勘 五郎

︵文 政五

︹一 八二 二︺

│明 治三 十︹ 一八 九 七

︺年

"

が 架 橋 し た︒ 江 戸 後 期︑ 肥 後 の 石 工 た ち は

︑急 峻 な 渓 谷 に 城 塞 の ご とく 堅 牢 な石 橋 を 架 け独 自 の 橋梁 文 化 を築 い た

︵図 9︶

︒彼 ら は 西 洋的 な意 味で の﹁ 芸術 家﹂ 意識 など 知る よし もな い時 代の

︑自 ら石 を 積 む職 人で ある

︒け れど も︑ 皇居 眼鏡 橋は 高度 な技 術と 環境 への 調和 が 美 しい 名橋 であ る︒ なら ば︑ 同じ

﹁架 橋す る﹂ とい う課 題を 前に した とき

︑肥 後の 石工 と 野 口や 妻木 の仕 事は 何が どう 違う ので あろ うか

︒野 口や 妻木 は︑ 建築 は 芸 術 で あ る と い う 認 識 の 上 に 体 系 的 な 西 洋 の 建 築 家 教 育 を 受 け て い る#

︒そ のよ うな 建築 家 と は︑ 基 本的 に

︑ル ネ サン ス 以 来の 芸 術 家︑ す な わち 心に 思い 描い たイ メー ジを 紙に 描き つつ 創造 する 職分 であ る︒ そ

9 八勢目艦橋 八勢川 石造アーチ橋 全 長62.0 m.幅4.0 m 石 工 : 種 山

(現:八代市東陽町)の卯助・甚平兄

弟 安政2(1855)年 熊本県上益城

郡御船町

― 97 ― 淀屋橋・大江橋の意匠設計図案懸賞競技の意義

(16)

し て︑ その 図面 をも って 橋梁 技術 者や 施工 者と 協同 した とき

︑初 めて 心の 中の 橋が 現実 の岸 と岸 を結 ぶ︒ しか し︑ 明治 以降 の教 育現 場に おい て︑ 建築 と土 木は 別の 学科 にお かれ

︑建 築家 が橋 梁の 意匠 設計 をす るこ とは 昔 も 今も 例外 的で ある

︒さ らに

﹁建 築家

﹂と いう 紙の 上に 図面 を引 く職 業が 大工 と区 別さ れ︑ 日本 社会 にお いて 認知 さ れ るの は容 易な こと では なか った

︒建 築家 の仕 事が 社会 の中 で市 民権 を獲 得す るの は︑ 帝国 大学 で建 築家 教育 が始 ま っ て半 世紀 のち

︑上 で述 べた よう に︑ 大正 後半 より 世間 の耳 目を 集め た各 種建 造物 の競 技設 計を 通じ ての こと であ っ た

︒そ れだ けに

︑こ の淀 屋橋 意匠 設計 競技 の歴 史的 意義 が注 目さ れる ので ある

︵四

︶和 風の 意匠 第四 点目 の公 募条 件に

﹁和 風﹂ ある いは

﹁東 洋風

﹂の 加味 が要 請さ れて いな い︒ しか し︑ 建築 の時 流は 大正 末期 か ら 昭和 初期 にか けて

︑一 斉に 和風 を加 味す るこ とに なび い た!

︒建 築 物に お け る﹁ 和風

﹂の 解 釈 は︑ 大正 十 五

︵一 九 二 六︶ 年の 神奈 川県 庁舎 を皮 切り に︑ 京都 市美 術館

︵昭 和八

︵一 九三 三︶ 年︶ に凝 縮さ れる よう な鉄 筋コ ンク リー ト 建 築に 和風 の屋 根を 象徴 的に 冠し

︑斗 組や 垂木

︑和 風装 飾な どを 配し た﹁ 帝冠 様式

﹂と いう 流行 を作 った

︒ また

︑武 田が 設計 し昭 和四 年に 竣工 した 大阪 の高 麗橋 は︑ 鉄筋 コン クリ ート のア ーチ 橋で ある にも かか わら ず和 風 で ある

︒大 阪市 の第 一次 都市 計画 で建 設さ れた 橋梁 のう ち︑ 高欄 部分 に和 風を

︑し かも 擬宝 珠を 戴く 意匠 を採 用し た 唯 一の 事例 であ る"

︒ この 橋は

︑水 都大 阪の 公儀 橋の なか でも 別格 であ った 歴史 に ち な み擬 宝 珠 と和 風 の 意匠 が 選 ば れ たと され る︒ 白御 影の 高欄 は石 灯籠 とブ ロン ズ擬 宝珠 の石 柱が 組み 合わ され て欄 干を 結ん でい る︒ 石灯 籠の 屋根 は す べて 宝形 で︑ 親柱 では 二重 に屋 根を 重ね てい る︒ この 橋は

︑平 成十 四年 に意 匠を その まま に改 架さ れて いる

︒ そし て古 橋・ 名橋 の代 表で ある 瀬田 橋や 三条 大橋

︑京 都の 宇治 橋は 鉄筋 コン クリ ート の橋 桁や 鋼桁 に置 き換 えら れ

淀屋橋・大江橋の意匠設計図案懸賞競技の意義 ― 98 ―

(17)

な がら 和風 の外 観を 墨守 して いる

︒こ れら の橋 梁は

︑何 度架 け替 えら れた とし ても

︑ま た周 囲の 環境 がど れほ ど変 わ っ て し まっ て も 橋自 体 は︑ 同 じ 形式 を 維 持す る こ とで 歴 史 的 意味 が 継 承さ れ る から で あ る︒ ま た︑ 嵐 山 で は 渡 月 橋 が

︑和 風の 桁橋 を自 然風 景の 中に 渡さ なけ れば

︑一 幅の 絵の よう な和 風の 名勝 が成 りた たな い︒ 淀屋 橋の 場合 に︑ 公募 の主 催者 に和 風を 加味 する 意図 はな かっ たの かど うか

︒審 査概 評に 立ち 戻る と︑ 第一 等図 案 に は﹁ 根底 に東 洋趣 味﹂ が横 溢し てい る︑ とあ なが ち否 定的 にと らえ られ ては いな い︒ しか し︑ 選外 佳作 第五 席案 に つ いて は和 風が うま く取 り入 れら れて いる 点は 評価 する が︑ 環境 とは 合わ ない

︑と 述べ てい る!

︒ 先に 述べ たよ うに

﹁環 境と の調 和﹂ とい うゆ るぎ ない 理念 をも って いた ため に︑ 日銀 大阪 支店

︑市 庁舎

︑府 立図 書 館 とい った 西洋 の歴 史様 式を 外観 とす る重 量級 の建 築物 との 調和 を計 るこ とは 自明 であ った

︒ま た︑ 中之 島と 両岸 を 渡 す他 の橋 梁群 も洋 風の 意匠 を競 って 架橋 して おり

︑中 之島 橋梁 群と して の調 和も 前提 とな る︒ さら には

︑橋 梁は 単 体 で独 立し た存 在で はな く︑ 真新 しい 銀杏 並木 の御 堂筋 の一 部で ある とい う認 識が あっ た︒ どの 角度 から 見て も和 風 と いう 選択 肢は 介在 しえ なか った ので ある

︵五

︶コ ンク リー トと 表現 第五 点目 のコ ンク リー トと いう 新し い建 材が 作り 出す 造形 の可 能性 につ いて は︑ 第三 等賞 案が 残り の意 匠図 案と は 異 質な 様式 であ るこ とが 注目 され る︒ 審査 概評 は︑ 様式 につ いて は︑ ロマ ネス ク様 式に 影響 を受 けた 近代 風で ある と 分 析し つつ

︑橋 の側 面を 平面 的に 処理 しつ つも 単調 さを 免れ てい るこ と︑ コン クリ ート の扱 いと して 特徴 的で ある こ と を評 価し つつ

︑環 境に そぐ わな いこ とを 惜し んで いる

!

︒こ の図 案は 滑ら かな 平 面 と 曲線 に よ って 構 成 され た 分 離 派 様式 に分 類す るこ とが でき る︒ それ は︑ 煉瓦 や石

︑鉄 とは 相容 れず

︑コ ンク リー トに よっ てこ そ特 質を 発揮 でき る

― 99 ― 淀屋橋・大江橋の意匠設計図案懸賞競技の意義

(18)

表 現様 式で ある

︒ 審査 概評 は︑ 図案 自体 は評 価し つつ

︑モ ダン にす ぎる ため に環 境と の齟 齬を とが めた

︒し かし

︑こ の図 案は

︑武 田 に よっ て適 所に 置か れ大 阪で 最も 美し い橋 と評 せら れる こと にな る︒ 淀屋 橋の 事例 と比 較検 討す るな らば

︑武 田が 鉄 筋 コ ン クリ ー ト と近 代 的 橋 梁の 意 匠︑ そ して 橋 梁 と環 境 と の 調和 を い かに 適 切 にと ら え て いた か が 端的 に 理 解 さ れ る

︒ 武田 は堂 島川 を渡 す昭 和五

︵一 九三

〇︶ 年竣 工の 田 蓑 橋!

︵ 10図

1〜 10

4︶ 架 け替 え の 意匠 設 計 を行 っ た

︒田 蓑 橋 は︑ 元禄 時代 に架 橋さ れて 以来

︑多 くの 歌人 に詠 われ た由 緒あ る古 橋で あっ たが

︑こ のと き︑ 大阪 市第 一次 都市 計 画 事業 の一 環で

︑よ うや く鉄 筋コ ンク リー ト造 アー チ橋 に架 け替 えら れた

︒大 阪主 要河 川の うち

︑木 橋か ら永 久橋 に 架 け替 えら れた 時期 とし ては 比 較的 遅 い︒ こ の田 蓑 橋 は︑ 大江 橋

・淀 屋 橋 意匠 設 計 競技 で の 三 等図 案

︵図 6

3︶ を 下 敷き にし たと 言わ れる

︒三 等図 案と 比較 検討 する なら ば︑ 確か に︑ 田蓑 橋は その 図案 に酷 似し てい る︒ そし て武 田 は

︑件 の設 計競 技の 中心 的な 審査 員で あり すべ ての 公募 図案 を熟 知し てい た︒ 従っ て︑ それ が田 蓑橋 の直 接的 な着 想 源 であ った とし ても 何ら 不思 議は ない

︒し かし

︑大 江橋

・淀 屋橋 の候 補と して は三 等の 評価 を下 しな がら

︑田 蓑橋 の 着 想源 とし た︑ そこ に橋 梁と 環境 との 調和 を重 視す る武 田の 建築 理念 が検 証さ れる ので はな いか

︒ この 四連 アー チ橋 梁は

︑橋 脚と 高欄 を一 体化 し︑ 滑ら かな 面と 曲線 を組 み合 わせ た分 離派 様式 に特 徴的 な意 匠で あ る

︒分 離派 とは

︑過 去の 歴史 様式 との 決別 を標 榜す る様 式で ある が︑ この 橋は 凹凸 のな い紙 のよ うな 平面 性︑ 滑ら か な 水平 方向 への 広が りを 特色 とす る︒ 橋脚 アー チは 中央 にや や扁 平な 大ア ーチ が二 連︑ その 両脇 を半 円形 小ア ーチ で 挟 んで いる

︒そ れぞ れの 橋脚 上に は曲 面で バル コニ ーを 張り 出し

︑ア ーチ の中 央欄 干部 分を 弧に 盛り 上げ

︑そ こに は 半 円形 アー チの 小窓 が五 つ穿 たれ てい る︒ 白く 陰影 が浅 い外 観で ある ため に︑ いっ そう アー チの 大小

︑弧 の形 が響 き

淀屋橋・大江橋の意匠設計図案懸賞競技の意義 ― 100 ―

(19)

合 い 明 る く 快 い 調 和 を 獲 得 し て い る

︒三 等図 案を 着想 源と して 採用 し た とす るな らば

︑バ ルコ ニー と橋 脚 を 連続 させ

︑ア ーチ 上の 高欄 を盛 り 上 げて

︑よ り躍 動感 のあ る意 匠に 変 更 した と判 断さ れる

︒ 橋の 環境 はど のよ うで あっ たの だ ろ うか

︒こ こに は︑ 淀屋 橋の 重厚 な 歴 史建 築と は異 なり

︑時 代の 最先 端 を ゆく 社会 的機 能と その 器で ある 前 衛 が集 まっ てい た︒ まず

︑堂 島側 の 北 詰上 流側 では

︑道 路を 挟ん で逓 信 省 技師

・森 泰治

︵明 治二 十七

︹一 八 九 四

︺│ 昭 和 二 十 六

︹一 九 五 一

︺ 年

︶の 設計 にな る大 阪中 央電 話局 難 波 分 局︵ 大 正 十 一︹ 一 九 二 二

︺ 図 10

2︶ 年 と 大 阪 帝 国 大 学 医 学 部 の 大 建築 群︵ 昭和 二︹ 一九 二七

︺年

10−3 田蓑橋と南詰の大阪ビルジン グ 大正14年 鉄筋コンクリ ー ト 造 地 上8階・地 下1階 設計:渡辺節

10−4 田蓑橋北詰の大阪帝国大学医 学 部 昭 和2年 鉄 筋 コ ン ク リ ー ト 造3、4、5階 建、一 部 地下室 設計:大阪府営繕

10−1 旧田蓑橋北詰の大阪中央電話 局難波分館 大正11年 鉄筋 コンクリート造地上5階・塔 屋・地下1階 設計:森泰治 図10−2 大阪中央郵便局難波分館と田

蓑橋 堂島川 鉄筋コンクリ ー ト4連 ア ー チ 橋 全 長81.3 m.幅14.5 m.昭和5年

― 101 ― 淀屋橋・大江橋の意匠設計図案懸賞競技の意義

(20)

図 10

︶が 向か いあ って いた

︒ま た中 之島 側の 南 詰 には 大 阪 近代 を 代 表 する 花 形 建築 家

・渡 辺 節︵ 明治 十 七

︹一 八 八 四

︺│ 昭和 四 十 二︹ 一九 六 七

︺年

︶に よ る 大 阪 ビ ル ジ ン グ︵ 大 正 十 四︹ 一 九 二 五

︺年

図 10

3︶ が 聳 え て い た

︒ 森 の電 話局 は︑ 屋上 の放 物線 アー チ︑ 大胆 な規 模の 半円 形ア ーチ 窓︑ 無機 的で ぬめ るよ うな 外壁 の印 象を 特色 とす る 分 離派 建築 の典 型的 事例 であ った

!

︒ 一方 の渡 辺作 品は 大阪 最初 のテ ナン トビ ルで

︑ネ オ・ ロマ ネス ク様 式と 評せ られ てい るが

︑北 西角

︵堂 島川 側︶ を 曲 面で 処理 し︑ 茶褐 色の スク ラッ チタ イル で壁 面 全て を 覆 い︑ 陰影 の な い︑ 丸み を 帯 び た塊 の よ うな 印 象 を 与え る

︒ い ずれ もが

︑西 洋の 伝統 的な 歴史 様式

︑そ して 明治 の重 厚な 煉瓦 積み 建築 に決 別を 告げ

︑鉄 筋コ ンク リー トの 構造 と タ イル

︑テ ラコ ッタ の採 用に よっ て可 能と なっ たか たち を示 して いた

︒ま さに

︑大 大阪 の経 済的 繁栄 を視 覚化 する よ う な斬 新で 大胆 な大 建築 であ った

︒ 武田 の田 蓑橋 の色 彩と 外観 は︑ 周 囲の 建 築 物と の 関 係で 見 る な らば

︵図 10

1 10〜

︶︑ 電 話 局と の 調 和が 強 く 意 識 され たこ とは 明ら かで あろ う︒ 橋梁 のア ーチ が織 りな す曲 線と 滑ら かで 陰影 のな い面 の処 理は 大阪 ビル ジン グと も 齟 齬を 来し てい ない

︒ま た大 阪医 大の 河岸 にそ って 延々 と連 なる 建築 群と も水 平性 とい う点 で呼 応し てい る︒ その 結 果

︑近 代大 阪で 最も モダ ンで 美し いと 評さ れた 橋梁 とな った

︒橋 梁単 体だ けで はな く︑ 橋梁 が川 と両 橋詰 の建 築を ひ と つに まと め︑ 近代 都市 の︑ 新し く美 しい 景観 であ ると 賞讃 され た︒ 残念 なこ とに

︑大 阪近 代き って の名 橋も 地盤 沈 下 には 抗え ず︑ 昭和 三十 九︵ 一九 六四

︶年

︑架 け替 えら れ︑ 両橋 詰の ビル もす でに 解体 され 大阪 近代 きっ ての モダ ン な 景観 は失 われ てし まっ た︒

淀屋橋・大江橋の意匠設計図案懸賞競技の意義 ― 102 ―

(21)

お わ り に 橋は

︑離 れた ふた つの 空間 を結 び︑ 分か つ装 置で ある

︒近 代以 前の 日本 は︑ あっ けな く焼 け落 ち︑ 流失 して は再 建 を 繰り 返す 仮設 の木 橋文 化で あっ た︒ また 木造 建築 から なる 街も

︑一 瞬の 炎に のま れて 灰燼 に帰 する 仮設 性を 宿命 と し た︒ 近代 都市 の悲 願は 不燃 都市 の設 計で あり

︑水 運か ら陸 運に 移行 する 中で

︑そ の血 管で ある 道路 と橋 梁の 整備 が 都 市基 盤に とっ ての 急務 とな った

︒ 日本 近代 にお ける 都市 の橋 梁は

︑木 橋か ら鉄 橋︑ そし て鉄 筋コ ンク リー トの 橋梁 へと 構造 を転 じて いっ た︒ 仮設 の 木 橋と は異 なる 永久 橋で あれ ば︑ 常に 改造

・変 更さ れる 運命 にあ る建 物や 公園

︑道 路よ り︑ 堅牢 で半 永久 的で ある た め に︑ 重要 な都 市景 観の 構築 の要 とな る︒ その 橋は 技術 を駆 使し た堅 牢さ と周 辺環 境と の調 和︑ そし て美 観が 結合 し た とき に︑ 美し い水 辺の 景観 が生 じる

︒武 田五 一は

︑そ のこ とを 常に 意識 した 先駆 的な 建築 家で あり

︑大 阪近 代の 橋 梁 計画 に中 心的 な役 割を 果た した

︒描 きつ つ建 造物 の構 想を 図面 にひ く芸 術家 とし ての 建築 家と 橋梁 技術 者そ して 都 市 計画 の母 体で ある 行政 との 協同 をも って 大阪 近代 は魅 力的 な橋 梁景 観の 構築 に力 を注 いだ

︒本 論で は触 れる こと が で きな かっ たが 当時 の大 阪市 長

・関 一︵ 明 治六

︹一 八 七 三︺

│昭 和 十︹ 一九 三 五

︺︶ の 優れ た 都 市計 画 理 念と 実 行 力 が 後ろ 盾と なっ たこ とは 看過 して はな らな い︒

﹁ 淀屋 橋﹂ の橋 名揮 毫者 は関 その 人で ある

︒ 大正 十年 に実 施さ れた 淀屋 橋・ 大江 橋の 意匠 図案 設計 競技 は︑ 大阪 の都 市計 画の なか で橋 梁が 美し い都 市景 観を 構 築 する ため に重 要な 歴史 的契 機を 提供 した と言 える

︒最 後に

︑建 築家

・武 田五 一は 日本 近代 建築 史に おい て︑ 建築 作 品 の単 体を とら えて 論じ られ てき たが

︑建 築作 品に もま して 都市 景観 プラ ンナ ーと して その 橋梁 設計 と理 念を 再評 価

― 103 ― 淀屋橋・大江橋の意匠設計図案懸賞競技の意義

(22)

す る必 要が ある と主 張し てお きた い︒

! 註 天 保 十 二

︵ 一 八 四 一

︶ 年 に 出 版 さ れ た

﹁ 浪 華 橋 々 繁 栄 見 立 相 撲 番 付 表

﹂ で は

︑ 橋 梁 を さ ば く 行 司

・ 四 つ 橋

︑ 勧 進 元

・ 京 橋

︑ 差 添 人

・ 天 満 橋 の 名 が 擬 宝 珠 を 戴 く 親 柱 に 記 さ れ

︑ 東 の 大 関

︵ 横 綱 は 制 度 上 ま だ 存 在 し な い

︶ が 天 神 橋

︑ 西 は 難 波 橋 で あ る

︒ 土 佐 堀 川 の 錦 橋 に は

︑ こ の 番 付 表 の 複 製 が 飾 ら れ て い る

︒ 江 戸 時 代 に は 淀 屋 橋 と 大 江 橋 は 一 直 線 で は な く

︑ 幅 も 八

・ 八 メ ー ト ル と 狭 か っ た が

︑ 明 治 の 末 年

︑ 市 電 の 開 通 に と も な い 両 橋 が 一 直 線 に

︑ 幅 も 二 十 メ ー ト ル 余 り に 拡 張 さ れ た

"

大 阪 市 市 民 生 活 局 が 昭 和 六 十 年 に 実 施 し た ア ン ケ ー ト で は

︑ 市 民 が 魅 力 を 感 じ る 好 き な 橋 ベ ス ト テ ン は

︑ 淀 屋 橋

︑ 難 波 橋

︑ 心 斎 橋

︑ か も め 大 橋

︑ 桜 宮 橋

︑ 港 大 橋

︑ 天 満 橋

︑ 天 神 橋

︑ 戎 橋

︑ 水 晶 橋 の 順 で あ っ た

︒ 大 阪 都 市 協 会

﹃ 大 阪 人

﹄ 第 四 十 一 巻 昭 和 六 十 二 年 五 九 一 頁

# 入 選 者 は

︑ 第 一 等 大 谷 龍 雄

︑ 第 二 等 伊 藤 正 文

︑ 第 三 等 大 澤 浩

︑ 選 外 佳 作 第 一 席 早 笋 五 朗

︑ 第 二 席 鈴 木 久

︑ 第 三 席 植 實 宗 三 郎

・ 鈴 木 参 一

・ 喜 多 村 政 良

︑ 第 四 席 忽 那 仁 作

︑ 第 五 席 山 本 富 一 朗 で あ る

︒ 大 阪 市 役 所

﹃ 大 江 橋 淀 屋 橋 意 匠 設 計 図 案 集

﹄ 大 正 十 三 年

︑ 審 査 概 評 お よ び 松 村 博 著

﹃ 大 阪 の 橋

﹄ 松 籟 社 平 成 四 年

︑ 一

〇 一

│ 一

〇 七 頁 参 照 の こ と

$ 辰 野 は

︑ 帝 大 の 後 輩 ふ た り

︑ す な わ ち 日 銀 技 師 を 経 て 辰 野 と 建 築 設 計 事 務 所 を 共 同 経 営 し た 葛 西 万 司

︵ 文 久 三

︹ 一 八 三 六

│ 昭 和 十 七

︹ 一 九 四 二

︺ 年

︶︑ そ し て 日 銀 技 師 の 長 野 宇 平 治

︵ 慶 応 三

︹ 一 八 六 七

│ 昭 和 十 二

︹ 一 九 三 七

︺ 年

︶ と こ の 仕 事 に 取 り 組 ん だ

% 辰 野 は

︑ コ ン ド ル の 後 任 に 就 き

︑ 日 本 近 代 建 築 の 祖 と な っ た

︒ 唐 津 藩 の 下 級 氏 族 を 出 自 と す る 辰 野 畢 竟 の 夢 は

︑ 日 銀 本 店

︑ 東 京 駅

︑ 帝 国 議 事 堂

︵ 国 会 議 事 堂

︶ と い う 新 生 明 治 国 家 の 三 大 記 念 碑 を 設 計 す る こ と で あ っ た

︒ 結 局 の と こ ろ

︑ 日 銀 本

・ 支 店

︑ 東 京 駅 は 手 中 に お さ め た が

︑ 議 事 堂 は 夢 に 終 わ っ た

&

大 阪 市 役 所

﹃ 大 江 橋 淀 屋 橋 意 匠 設 計 図 案 集

﹄ 審 査 概 評 を 参 照 の こ と

︒ '

﹁ 様 式 ハ 南 欧 柱 石 ノ 気 分 ア ル 近 代 式 ヲ 用 イ 其 ノ 根 底 ニ 於 テ ハ 東 洋 趣 味 ノ 横 溢 セ ル モ ノ ア リ

/ 全 体 ノ 形 極 メ テ 端 正 剛 健 其 ノ 形 状 ノ 比 例 最 モ 洗 練 ヲ 経 タ リ 其 ノ 主 要 材 料 タ ル コ ン ク リ ー ト ヲ 様 式 上 ニ 表 現 セ ン ト ス ル 作 者 ノ 苦 心 ノ 跡 最 モ 注 意 ス ヘ シ 但 シ 柱 塔 ノ 燭 台 上 ニ 火 焔 ノ 形 ヲ 付 シ タ ル ハ 少 シ ク 蛇 足 ノ 感 ア ル ヲ 惜 シ ム ヘ シ ト ス 製 図 ノ 技 極 メ テ 巧 妙 ナ リ

﹂ 大 阪 市 役 所

︑ 同 上

︒ ( イ タ リ ア

・ ル ネ サ ン ス の 建 築 家

・ ア ル ベ ル テ ィ︵LeonBattistaAlberti,1402−72

︶が 一 四 五 二 年 に 上 梓 し た

﹃ 建 築 論

Dereae-

淀屋橋・大江橋の意匠設計図案懸賞競技の意義 ― 104 ―

(23)

dificatoria

に お い て 開 陳 し た

﹁ 建 築 の 美 は

︑ 部 分 と 部 分

︑ 部 分 と 全 体 の 美 し い 比 例 に よ っ て 生 じ る

﹂ と い う 思 想 は

︑ 西 洋 に お け る 古 典 的 な 美 の 理 想 の 本 流 で あ る

︒ さ ら に 画 家

・ 建 築 家

・ ヴ ァ ザ ー リ︵GiorgioVasari,1511−71

︶が そ の﹃ 美 術 家 列 伝 1568scuri,itettoarchedri,ltori,pittotieccellenpiù’deVite

︵2ed.nd

︶ の 序 文 に お い て 定 義 し た

︑ 絵 画

︑ 彫 刻

︑ 建 築 は 素 描 と い う 父 か ら 生 ま れ た 姉 妹 で あ り

︑ そ れ ら の 共 通 項 は

﹁ 素 描 を 描 き つ つ 創 造 す る

﹂ と い う 点 で あ る

︑ と い う 定 義 は 今 日 ま で 影 響 力 を 保 っ て い る

︒ こ の 問 題 に つ い て は 拙 著

﹃ 人 文 学 と し て の 芸 術 研 究

﹄ 法 律 文 化 社 平 成 十 三 年

︑ 第 二 章 を 参 照 の こ と

! 公 立 の 愛 珠 幼 稚 園 の 園 舎 設 計 競 技 で は

︑ 保 母

︑ 事 務 員 ほ か の 幼 稚 園 関 係 者

︑ 小 学 校 長

︑ 区 長 な ど が 図 案 を 提 出 し て 選 考 が 行 わ れ

︑ 当 選 案 を も と に 大 阪 府 技 師 が 実 施 設 計 を 行 っ た

︒ 論 者 が 数 年 前 に 同 園 を 訪 ね た お り も

︑ 現 園 長 は じ め 保 母 さ ん が 誇 り を も っ て こ の 歴 史 を 語 り 継 い で お ら れ た

︒ 園 舎 外 観 お よ び 門 扉 は 武 家 屋 敷 の 構 え で あ る が

︑ 園 舎 内 は 採 光

︑ 作 業 動 線 と も に 合 理 的 か つ 快 適 な 工 夫 が こ ら さ れ て い る

"

大 阪 に お け る 設 計 競 技 の 事 例 と し て 大 阪 市 庁 舎

︵ 明 治 四 十 五

︹ 一 九 一 二

︺ 年

︶︑ 同 年 の 大 阪 市 公 会 堂

︑ 大 正 十

︵ 一 九 二 一

︶ 年 の 大 阪 市 立 美 術 館

︑ 大 阪 府 庁 舎

︵ 大 正 十 五

︹ 一 九 二 六

︺ 年

︶ を 挙 げ て お き た い

# 日 下 部 隆 昭

・ 高 森 秀 司

﹁ 地 域 に 根 ざ し た 社 会 資 本 整 備 の あ り 方 に 関 す る 研 究

﹂ 国 土 交 通 省 国 土 交 通 政 策 研 究 所

﹃ 国 土 交 通 政 策 研 究

﹄ 第 五 十 四 号

︑ 平 成 十 七 年 七 月 号 四 十 一

│ 四 十 三 頁 参 照 の こ と

$ 橋 本 政 吉

﹁ 大 阪 の 橋 に 就 い て

﹂﹃ 建 築 と 社 会

﹄ 第 拾 輯 第 九 号

︑ 昭 和 二 年 九 月

︑ 九

│ 十 四 頁 参 照 の こ と

% 武 田 の 業 績

︑ 活 動 に つ い て は

︑ 拙 稿

﹁ 京 都 近 代 の 都 市 景 観 と 建 築 家

・ 武 田 五 一

│ 都 市 景 観 デ ザ イ ン 再 考

﹂﹃ 文 化 学 年 報

﹄ 第 五 十 二 輯 平 成 十 五 年 三 月 号

︑ 一

〇 九

│ 一 二 三 頁

︑ 平 成 十 七 年 度

〜 十 九 年 度 科 学 研 究 費 補 助 金 研 究 成 果 報 告

﹁ 建 築 家

・ 武 田 五 一 と 京 都 近 代 の 都 市 景 観

﹂ 平 成 十 九 年 三 月

︑ 平 成 十 九 年 度

〜 二 十 二 年 度 科 学 研 究 費 補 助 金 研 究 成 果 報 告

﹁ 橋 の イ コ ノ ロ ジ ー

│ 景 観 の 構 成 要 因 と し て の 橋

﹂ 平 成 二 十 三 年 十 一 月 を 参 照 さ れ た い

&

武 田 博 士 還 暦 記 念 事 業 会 編

﹃ 武 田 博 士 作 品 集

﹄ 昭 和 八 年

︑ 便 利 堂

︑ 十 二

│ 十 三 頁 に お い て は 橋 梁 作 品 と し て 二 十 三 点 が

︑ ま た

︑ ふ く や ま 美 術 館 開 館 十 五 周 年 記 念 展 図 録

﹃ 武 田 五 一

・ 田 辺 淳 吉

・ 藤 井 厚 二 日 本 を 意 匠 し た 近 代 建 築 家 た ち

﹄ 平 成 十 六 年

︑ 二 一 六

│ 二 一 七 頁 に お い て は

︑ 還 暦 以 降 の 昭 和 九 年 の 天 神 橋 お よ び 翌 十 年 の 平 野 橋 の 意 匠 指 導

︑ 昭 和 十 年 の 淀 屋 橋

・ 大 江 橋 の 設 計 競 技 審 査 お よ び 意 匠 設 計

︑ 天 満 橋 の 意 匠 指 導 を 含 め 三 十 四 橋 梁 を 挙 げ て い る

︒ ' 武 田 五 一 は 土 木 学 会 に お い て

︑ 橋 梁 と 都 市 景 観 の 関 係 に つ い て 啓 蒙 的 な 講 演 を 行 っ て い る

︒﹁ 橋 梁 の 外 観

﹂﹃ 土 木 學 會 誌

﹄ 一 九 二 九 年

︑ 第 十 五 巻 第 五 号

︑ 三 四 一

│ 三 五 七 頁

― 105 ― 淀屋橋・大江橋の意匠設計図案懸賞競技の意義

参照

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