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「源氏物語」の「行くへ知られぬ」考

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「源氏物語」の「行くへ知られぬ」考

著者 塩田 和子

雑誌名 同志社国文学

号 27

ページ 38‑44

発行年 1986‑03

権利 同志社大学国文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000005012

(2)

三八

研究ノ

l L﹁

﹁源氏物語﹂の ﹁行くへ知られぬ﹂考

       ︵1︶ ﹃源氏物語﹄テクストは︑伝承史的方法

の視座からすれぱ︑基層から表層に至る幾

重にも重ね合わされた︑しかもひとつの完

結した伝承構成体である︒そこでは︑伝承

の小さな端切れとしての伝承断片はどのよ

うた構造をもつのか︒また︑﹃源氏物語﹄

テクストがどのように伝承を織りこんでい

るのか︒そのことは︑織りこまれる伝承の

ほかならぬ侯承であることの保証をテクス

トにおいていかに求めるかという問いに連

なっていく︒

  テクストは編集された織物であるかぎ

 り︑明らかに︑さまざまな素材︑伝承断

塩  田 和  子

 片を組みこんでいる︒その最小単位は︑ 徴しづけを担った鍵言葉斥2ミ◎己と︑ その縁取りとしての決まり文句qqS一       ︵2︶ 異肩易︒・︸昌の組み合わせである︒ 今︑この小論で扱おうとする光源氏の歌は︑ここでいうところの伝承断片であり︑そこに組みこまれた﹁行くへ知られぬ﹂が決まり文句である︒この﹁行くへ知られぬ﹂という決まり文句が︑いかなる鍵言葉と結合することによって︑ ﹃源氏物語﹄テクストのうちにどのように組みこまれたかを考察することが︑﹃源氏物語﹄テクスト

の基層と表層を明らかにする手がかりとな るに違いない︒そのことは︑准拠論からするところの歴史性におげる解釈ではなく︑むしろ神話性におげる解読の間題である︒ここでは︑須磨巻の光源氏の歌を中心として︑ ﹃源氏物語﹄テクストの重層性のその

一端を明らかにすることを試みたい︒

 かりそめの道にても︑か二る旅をたらひ

 給はぬ心地に︑心陵そさも︑をかしさも︑

 めづらかたり︒大江殿といひげる所は︑

 いたく荒れて︑松ぱかりぞ︑しるしなり

 げる︒  から国に名をのこしげる人よりも行く

  へ知られぬ家居をやせむ      ︵3︶       ︵須磨二・30頁︶

 ﹁から国に﹂の歌は﹃源氏物語﹄の注釈

史においてはいかに把握されてきたか︒ま      ︵4︶ず紫明抄が﹁楚屈原をいふ﹂とし︑続いて

河海抄が﹁楚の屈原がはなたれたりし事を ︵5︶いふ歎﹂としている︒それに対し花鳥鉄情

(3)

は︑ ﹁河海には楚の屈原か江潭になかされし事はかりをしるされたりこのほか流刑を      ︵6︶かうふりし人は代々にたえすありし事也﹂と河海抄の説に対して異を説え︑細流抄も       ︵7︶二人にかきるへからさる也﹂と同趣旨の反論を試みている︒このように︑古注の論点は﹁から国に名をのこしげる人﹂を屈原に特定することの是非にあった︒ただし河海抄は︑先の自説に続げて﹃楚辞﹄を引いたあとで︑ ﹃杜詩注﹄と﹃後漢郡国志注﹄の屈原の居宅の地所に関する注を並記している︒これは﹁家居﹂の解にふれてくることではあろう︒それにしても︑﹁行くへ知られぬ﹂はやはり不問にふされている︒このことは逆に︑ ﹁行くへ知られぬ﹂が﹁准拠﹂という方法によって﹃源氏物語﹄を解釈しようとする河海抄の注釈の視座からはみえない位相を孕んでいることを示してい

るのではたいか︒ことは︑光源氏の﹁流離﹂

といわれるものの内実にかかわってこよ う︒はたしてそれは︑都から外縁の地へと は︑﹁行きたる方知られず︒はても知られいう水平的な移行とのみ解すべきだろうか︒ず︒﹂とされている︒語義としていうたらたしかに︑編集されたテクストにおいては︑ぱ︑このことにっきていよう︒しかし︑こ光源氏は︑須磨という特定の場所を目ざす こで試みようとするのは﹁行くへ知られのであり︑その﹁旅﹂は︑この世のものと ぬ﹂の解釈にとどまることではない︒ ﹁行して以外ではありえない︒であるとしても︑くへ﹂という語をとってみても︑はたしてテクストを基層において解読するならば︑ それは︑﹁行く方﹂﹁行く末﹂﹁行くべき方﹂その﹁流離﹂はむしろ︑この世を超えた異と互換性をもつのか︒このように間うのは︑たるコスモスヘの垂直的な転位とみたすべ ﹃源氏物語﹄そのものが︑テクストに内在きであるとするのが小論の趣旨である︒そ する語彙として﹁行くへ﹂とともに︑これれは︑結論的にいえば﹁から国に﹂の歌の らの語を有している事実があるからである︒基層に﹁魂を尋ねる﹂伝承断片を認めるこ それを類義語といってすますことはできなとにおいてである︒その点で光源氏が︑ い︒﹁から国に﹂の歌が﹁行く方﹂﹁行く末﹂

﹃窒物語﹄に編集された小野篁と︑准拠論 あるいは﹁行く先﹂などではなく﹁行くへ﹂

ではなく伝承史において同じ位置に立っこ という語を組みこんだとするとき︑ ﹁行く

とを予想せしめる︒問題は︑﹁行くへ知ら へ﹂が伝承史に1おいて担う意味と価値にお

れぬ﹂の理解にかかっているといえる︒  いて︑この語を必然とする理由が求められ       ︵8︶ ﹃源氏物語辞典﹄の﹁ゆくへ﹂の項には︑たげれぱたらない︒そのことは︑﹁行くへ﹂

﹁行く方︒行くべき方︒行く末︒行きたる という語と結びついて︑いかたる鍵言葉が

方︒﹂とある︒そして﹁ゆくへもしらず﹂ 配置されているかをみることによって明ら

       三九

(4)

かになるに違いない︒さらに︑そのことを通して︑ここで問題にしようとする﹁行く

へ知られぬ﹂が︑単たる常套的︑形式的表

現ではたく︑まさに伝承性を有する決まり

文句として定位するものであることを証す

ることができると思われる︒

 ﹁行くへ﹂は︑須磨巻の当該例を含めて

﹃源氏物語﹄に三十六例を数える︒そのた

かでもテクストに織りこまれた歌において

しばしぼ認められる表現である︒今︑考察

の対象としている﹁から国に﹂の歌を除い

て︑それらを次に列挙してみる︒

 @世に知らぬ心地こそすれ有明の月のゆ

  くへを空にまがへて︵花宴一・09頁︶       3  来し方も行くへも知らぬ沖に出で二あ

  はれいづくに君をこふらむ

       ︵玉童二・31頁︶       3  ゆくへなき空に消ちてよか父り火のた

  よりにたぐふ煙とならぱ        ︵警火三・41頁︶ @なれこそは岩もるあるじみし人のゆく  へは知るや宿の真清水      ︵藤裏葉三・03頁︶       2 ◎行くへなき空の煙となりぬとも思ふあ  たりを立ちは離れじ︵柏木四・17頁︶ @この春は柳のめにぞ玉はぬく咲き散る  花のゆくへ知らねぱ︵柏木四・46頁︶ ¢大空を通ふまぽろし夢にだに見えこぬ  魂のゆくへ尋ねよ  ︵幻四・13頁︶       2 @たち花の小島は色も変らじをこの浮舟  ぞゆくへ知られぬ ︵浮舟五・37頁︶       2  ありと見て手には取られず見れぱ又倒  くへも知らず消えし蜻蛉       ︵蜻蛉五・36頁︶       3 @心こそ憂き世の岸を離るれど行くへも  知らぬあまの浮木を︵手習五・92頁︶       3 これらの歌にみるかぎりにおいても︑

﹁行くへ﹂が﹁知らず﹂あるいは﹁なき﹂

と結びついて表れる語であることが知られ 四〇

るのだが︑ここではまず︑これらの歌から

鍵言葉を取りだすことをしたい︒その作業

は︑個々の歌について︑どの人物がどのよ

うな状況と場面において詠まざるをえなか

ったかを説明することとは異なる︒それは︑

﹃源氏物語﹄テクストが︑ほかならぬ物語

という俗なるテクストとして編集される際

に織りこまれる主題的意図にかかわること

がらである︒したがって︑より表層のレヴ

ェルに属する問題である︒ここではむしろ

そうした編集的部分を剥離し︑歌のたかに

どのようた徴しづげを負った鍵言葉が配置

されているかを明らかにする必要がある︒

 右にあげた十首の歌のうち︑@・ ・@

・¢の四首が潅んらかの形で﹁死者﹂につ

いて詠まれたものであることがまず注意さ

れる︒といっても︑編集されたテクストに

おいて読みとることのできる意味の次元に

とどまって︑ひとしなみに﹁死﹂とするこ

とであってはたらたいだろう︒この四首に

(5)

あって︑ ﹁行くへ﹂が問われているのは何 や﹁散る花﹂という形姿においてとらえらか︒それは︑      れる亡き人の﹁魂﹂の回帰すべき異界では @みし人       なかったか︒それは︑この世のどこかにあ  空の煙      る特定の場所ではなく︑まさに方位性にお  咲き散る花      いてしか想定することのできないコスモス ¢魂      である︒その方位性において︑いわば可視として取りだすことができる︒歌のなかにーと不可視のはざまにある﹁煙﹂や﹁散るあって︑これらは単たる景物を示す語でな 花﹂は︑境界性︑媒介性を徴しづげられたいことは明らかである︒あるいは︑死老を 語であるといえる︒そうした語と結びっくしのぶよすがなどではない︒にもかかわら ことによって︑﹁行くへ﹂たる語は︑このず︑これらの語が選びとられてくる理由は 世の水平の方向性を超えた異界への垂直の何なのか︒今はこの世にはいたい︑しかし︑方位性を担いうる語として定位する︒かつては確実に存在したものをどこに求め  その意味で︑ ﹁魂の行くへ﹂を﹁大空﹂るのか︒ ﹁煙﹂にしても﹁花﹂にしても︑ において尋ねるとする¢の歌には︑より明それ自体は可視的たものである︒と同時に︑瞭に基層を透かし見ることができるといえそれはあくまでも︑ ﹁空﹂へ立ち昇ること る︒この歌は︑可視的な︑したがって一見において︑また︑﹁散る﹂ことに︒おいて︑ 景物とみえるものさえいっさい詠みこまなそれがやがて消失するぎりぎりの限界まで い︒むしろ︑直接異界に対して呼びかげて

をとらえることができるにすぎないという いるとさえいえる歌である︒ここに︑﹁行

ことである︒その見えざる彼方こそ︑﹁煙﹂ くへ﹂が﹁魂﹂なるより根源的た存在を示 す語と結合することをみておくことは重要である︒そのことは︑古注以来﹁大空を﹂の歌とその興拠とされてきた﹃長恨歌﹄との伝承の並行関係をいうことにおいてである︒河海抄は︑﹁此歌の心は蜀方士か楊貴      ︵9︶妃にたっねあひたりし事也﹂としているが︑ここは︑こちらの俗なる存在として固有の名を与えられた人物としての楊貴妃を尋ねることではたいはずである︒まさに﹁魂を尋ねる﹂という伝承断片を織りこんだことにおいて︑﹁大空を﹂の歌と﹃長恨歌﹄とは︑テクストの基層において通底するといわたげれぼたらない︒ このようにみてきたとき︑さきの歌のうち︑¢・ ・@について︑それらがより表層の修辞性に傾くとしても︑やはり︑境界性︑媒介性を孕む ¢月  沖  空

      四一

(6)

究研 という鐘言葉との結びつきを示していることはみてとってよいであろう︒ さらに︑@を問題にするならぱ︑﹁行く

へ知られぬ﹂という決まり文句が﹁浮舟﹂

なる鍵言葉と結びつくことによって示され

る位相は︑伝承史の視座から︑﹁アイデソ

ティティ﹂の﹁変換についての可能態とし

ての浮舟のペルソナは︑まさに﹃ゆくへ知

られぬ﹄という述語的なコソテクストにお     ︵10︶いて認められる﹂として︑すでに明らかに

されている︒その際︑﹁行くへ知られぬ﹂      ︵u︶とは︑﹁﹃イヅヘ﹄にかある聖たるトポス﹂

を志向する方位性において必然的に選びと

られた決まり文句である︒それは︑いうま

       ︑      ︑でも次く︑﹁いづへ﹂と﹁行くへ﹂の﹁へ﹂

の同質性においてである︒ ﹁へ﹂は﹁一定

の場所ではたくその周辺であり︑ある場所      ︵12︶の中心や奥ではなくて端近なところ﹂であ

る︒そこに境界的た位相をみることは可能

であろう︒ ﹁行くへ﹂の﹁へ﹂も︑見えざ る異界に至りうる回路を潜ませる﹁へ﹂であるとみたげれぱたらない︒ ところで鈴木日出男氏は︑御法巻におげる紫上の﹁われ一人︑行くへ知らずたりなむを﹂という心中表現に注目され︑ ﹁行く

へ﹂の語の﹃源氏物語﹄におげる用例を分

類・検討されている︒鈴木氏は﹁行くへ知

らず﹂について︑ ﹁人物の行方不明たいし       ︵13︶は生死不明を意味する成句的表現語句﹂で

あると観定された︒この観定に対して︑小

論の立場から︑たお検討を加えたい︒鈴木

氏は︑まず人物かそれ以外︑すたわち物象

かという区分をたてておられる︒﹁その他﹂

として分類されたたかには︑さきに考察を

加えた◎の﹁空の煙﹂・@の﹁花﹂・¢の﹁魂﹂

も含まれているが︑これらは︑﹁人物を物     ︵u︶象に見立てた例﹂とされている︒

 それは︑ここでは︑個次の伝承断片とし

ての歌を織りこみつつ編集されたテクスト       四二としての﹃源氏物語﹄の表層において読みとることのできる意味である︒ほかならぬ物語として︑男と女の﹁世﹂を基軸として織りなされる俗なるテクストとしての﹃源氏物語﹄において︑まさに﹁人物﹂の担うべき主題論的意味がかたどられるのは︑むしろ当然のことであるといえる︒さらに基層と迫りつつ︑ほか次らぬ伝承において︑これらの語そのものが担う意味と価値を明︑らかにしなげれぱならないことはこれまでに論じてきたところである︒ さらに問わねぱならないのは︑人物の

﹁行方不明﹂とりわげ﹁生死不明を意味す

る﹂とされる理解である︒はたして︑﹁生﹂

と﹁死﹂という二元的対立の枠組みをもっ

てすることで︑ ﹁行くへ知らず﹂という語

の指し示す内実を解読することができるだ

ろうか︒とりわげ︑氏が﹁明らかに死を意

  ︵15︶識する﹂とされた¢の歌の例と

  雨となり︑しぐる二空のうき雲をいづ

(7)

究研   れの方とわきてながめむ  ゆくへなしや    ︵葵一・46頁︶      3との二例を﹁例外的﹂と断ずることで﹁行くへ知らず﹂のさまざまな位相が明らかになるのか︒まず︑鈴木氏のいわれる﹁生﹂

﹁死﹂が断絶をもって対立的にとらえられ

ていること自体が︑近代的な生死観による

ものであるとしなげれぱならたい︒鈴木氏

は︑これらの二例について︑﹁いずれも死

者の魂が空中を飛翔するのを前提とし︑さ

らにそれらが漢詩文の投影によるという

︵16︶点﹂での共通性を認められている︒重要な

のは﹁投影﹂といった単なる先行作品の影

響をいうことではない︒より基層から引き

継がれるところの﹁魂﹂の﹁行くへ﹂を尋

ねる伝承断片そのものが織りこまれたとみ

ることによって︑実は﹁死﹂を意味するに

とどまらない︑﹁行くへ知らず﹂の︑より

始原的なありようがみえてくるのではない

か︒  生命の終焉において︑まさしく﹁行くへ知らず﹂というところに︑古代の生死観は示されているといえよう︒それは︑異界に回帰する﹁魂﹂の﹁行くへ﹂の不可視性において︑ほかならぬ﹁知らず﹂ということぼとの結合を必然とするといえる︒鈴木氏のいわれる︑ ﹁行くへ﹂が否定語を伴い︑しかも﹁知る﹂と結びつくことをもってする﹁成句的表現語句﹂なる定義の内実は︑さらに深められねぱならないだろう︒

﹁行くへ﹂が﹁知らぬ﹂と結合することの

必然性は︑始原的な﹁へ﹂の位相とかかわ

る異界への方位性と︑したがって︑この世

のものたる﹁人﹂からする異界そのものと

そこに至る回路の不可視性によるとしなげ

れぱならない︒それゆえにこそ︑伝︑承断片

を縁取る決まり文句たりうるというべきで

ある︒それは︑ ﹁行くへ﹂の語のみが負う

ことのできる伝承性である︒ ﹁行く先﹂や

﹁行く末﹂が︑しぼしば﹁来し方﹂と結び ついて︑この世において限定された﹁人の身の上﹂を意味する語であるのに対して︑

﹁行くへ﹂は︑見えざる異界への方位性を

孕む語であることにおいて︑本質的に異質

である︒また︑ ﹁行く方﹂も﹃源氏物語﹄

テクストに一例ながら﹁行く方あれど﹂

︵末摘花一・40頁︶とする方向性の確定を      2示す例があることを考えるならぱ︑やはり︑

﹁行く先﹂や﹁行く末﹂と同じくより表層

において組みこまれた語であると思われる︒

﹁行くへ知られぬ﹂は︑俗なるこの世と見

えざる︑それゆえに聖なる異界とを結ぶ回

路を見出しえないとすることによって︑か

えって︑異界そのものを実在としてあらし

める︒その意味で本質的に伝承性を担う語

であったのではないか︒

 小論の考察の出発点とした﹁から国に﹂

という光源氏の歌は︑そこに組みこまれた

﹁行くへ知られぬ﹂に︑ ﹁魂の行くへ﹂に

かかわる伝承断片を基層にみることによっ

      四三

(8)

究研 て︑新たた様相を帯びてみえてくるのではないか︒そのことは︑この歌が︑ほかたらぬ独詠歌であることとかかわってくる︒須磨巻の歌は︑﹁源氏が須磨へ出立する際の

離別の歌と須磨における講居の生活の歌と

      ︵17︶二つに判然と分かれる﹂という小町谷照彦

氏の指摘に代表されるように︑ ﹁離別﹂と

﹁講居﹂という主題的枠組みにおいてとら

えられてきた︒あるいは︑﹁その和歌の性

格は︑︵中略︶後半須磨講居の部分は︑都

の女性たちとの贈答歌や︑源氏と従老たち

との詠歌︑訪れた宰相中将との唱和の歌︑

それに源氏の独詠歌等であるが︑だいたい

      ︵18︶轟旅の歌の性格をもつ﹂といわれるように

轟旅歌として位置づげられてきた︒しかし

ながら︑﹁から国に﹂の歌は︑即境的景物

を詠みこまない点で︑ ﹁講居﹂や﹁轟旅﹂

の歌としての位置づけを超える独自の位相

を示している︒さらにいえぱ︑異界への方

位性において発せられるゆえに︑この歌は 独詠歌たらざるをえたかったのではたいかという予測を可能にする︒ 小論では﹁行くへ知られぬ﹂の考察にとどまったが︑﹁から国に﹂の歌について︑さらに光源氏の﹁流離﹂といわれるものの構造とのかかわりにおいて︑稿を改めて論じることとしたい◎ ・注 ︵1︶ ﹁伝承史的方法﹂については廣川勝美   先生﹃ものがたり研究序説伝承史的方   法論﹄︵桜楓杜︑一九八五年︶参照︒ ︵2︶ 同書︑三五頁︒ ︵3︶ 山岸徳平氏校注﹃日本古典文学大系   源氏物語﹄︵岩波書店︶︒ ︵ ︶内は︑巻   名︑巻数︑頁を示す︒以下︑﹃源氏物語﹄   の本文引用はすべて古典文学大系本によ   る︒ ︵4︶ 玉上琢彌氏編﹃紫明抄河海抄﹄︵角   川書店︑一九六八年︶︑六五頁︒ ︵5︶ 同書︑三二一頁︒ ︵6︶伊井春樹氏編﹃源氏物語古注集成−   松永本 花鳥錐情﹄︵桜楓杜︑ 一九七八

   年︶︑九五頁︒ 四四

︵7︶伊井春樹氏編﹃源氏物語古注集成7

  内閣文庫本 細流抄﹄︵桜楓杜︑ 一九八

  ○年︶︑一一八頁︒

︵8︶ 北山難太氏﹃源氏物語辞典﹄︵平凡杜︑

  一九五七年︶︑八一五頁︒

︵9︶ にU前掲書︑五二九頁︒

︵10︶︵u︶ ︵1︶前掲書︑三四一頁〜三四二頁︒

︵12︶ 上代語辞典編修委員会編﹃時代別国語

  大辞典上代編﹄︵三省堂︑一九六七年︶︑

  六四七頁︒

︵13︶︵14︶︵15︶︵16︶鈴木目出男氏﹁紫上の絶

  望﹃御法﹄巻の方法1﹂﹃文学・語

  学﹄第四九号︑一九六八年九月︒

︵17︶ 小町谷照彦氏﹁源氏物語の和歌  物

  語の方法と﹂ての側面1﹂山岸徳平氏

  ・岡一男氏監修﹃源氏物語議座﹄第一巻

  ︵有精掌 一九七一年︶︑一五一頁︒

︵18︶寺本直彦氏﹁須磨のわび住まい﹂秋山

  慶氏他編﹃講座 源氏物語の世界﹄第三

  集︵有斐閣︑ 一九八一年︶︑二四五頁〜

  二四六頁︒

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