著者 森山 央朗
雑誌名 基督教研究
巻 76
号 1
ページ 1‑32
発行年 2014‑06‑24
権利 基督教研究会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014533
預言者ムハンマドを「継いだ」
学者たち
10-13世紀のムスリム社会の宗教知識人研究
The Scholars Who ‘Succeeded’ the Prophet Muhammad
— Study of the Religious Intellectuals in the 10th–13th Century Muslim Society —
森山 央朗
Teruaki Moriyama
キーワード
古典イスラーム時代、ウラマー、ハディース、「ハディースの徒」、地方史人名録
KEY WORDS
Classical Islamic Period, Ulama, Hadith, Ashab/Ahl al-Hadith, Local Biographical History
要旨
本稿では、10世紀から13世紀の西アジアにおけるウラマー(イスラーム宗教知識 人)の知的実践を、彼らの著作の研究から論じる。具体的には、ウラマーの中でも預 言者ムハンマドの言行に関する伝承(ハディース)を専門としたハディース学者を取 り上げ、彼らが、特定の地域と関係したハディース伝達者・学者の学歴・評価を記録 した伝記記事を集めた人名録を主体とするアラビア語の地方史(地方史人名録)を、
10世紀後半から13世紀前半にかけて、西アジアの各地で盛んに編纂した現象に注目す る。地方史人名録の構成・形式・内容を整理し、地方史人名録の編纂・流通・利用を 分析して、地方史人名録の編纂流行の構造とそれを支えた背景に、イスラーム的世界 観・地方観と、ハディース学の学問的必要、ハディース学者の学問的野心があったこ とを明らかにする。そして、ウラマーの知的実践と社会的活動を連関的に考察するた めの課題と意義を論じる。
SUMMARY
In this paper, I discuss the intellectual activities of Ulama or Islamic religious scholars who lived in Western Asia between the 10th and 13th centuries. Among the Ulama, I focus on specialists of the Hadiths, or traditions of the words and actions of the Prophet Muhammad. This study is based on the fact that the Hadith scholars compiled many local Arabic histories in various parts of Western Asia from the latter half of the 10th century to the first half of the 13th century. The main body of those local histories consists of biographical accounts of the Hadith transmitters or scholars who had some relation with the region that each work describes. I investigate the structure, format and contents of those local biographical histories and analyze their compilation, distribution and uses. The analysis explains the framework for the spread of activities to compile the local biographical histories.
It also clarifies three factors sustaining this framework: the Islamic view of the world and this region, the academic necessity for the field of Hadith studies, and the academic ambitions of the Hadith scholars. I also discuss the challenges and significance in considering the intellectual activities of the Ulama in connection to their social activities.
1.はじめに: イスラーム史研究におけるウラマーと10-13世紀の西アジア が持つ意義
まず、本稿で取り上げるウラマー、すなわち、イスラーム宗教諸学の学者たちの概 略と、ウラマーを研究する上で、筆者が対象としている西暦10世紀から13世紀の西ア ジアという時代と地域が持つ意味を整理しておこう。
ウラマーとは、アラビア語の複数名詞で、字義的には「知識を持つ人々」「学者た ち」といった意味を持つ。単数形としては、アーリム(ʻā
lim
)が用いられる。現代ア ラビア語においては、イスラーム宗教諸学の学者たちだけでなく、人文社会系の研究 者から理学工学系の専門家まで、学者全般を指して用いられる。その一方で、伝統的 なムスリム社会における学者たちの多くがイスラーム宗教諸学を専門とする人々で あったことから、イスラーム学やイスラーム史研究においては、イスラーム宗教諸学 の専門家を指す学術用語・史学的慣用語として用いられてきた。本稿においては、史 学的慣用語としての用法にしたがって、前近代のムスリム社会において、イスラーム 宗教諸学の学者として認められてきた人々を指してウラマーという言葉を用いる。イスラーム宗教諸学とは、ムスリムが信仰する唯一神アッラー(All
ā h)と、ムス
リムがその指導に従うべきと信じる、アッラーの使徒(預言者)ムハンマド(632年 没)に依拠する、または、依拠すると考えられる諸知識である。具体的には、啓典『クルアーン(コーラン)』の読誦法や解釈を研究する『クルアーン』学(ʻul
ū m al-
Qurʼā n)、預言者ムハンマドの言行に関する伝承(ハディース)を扱うハディース学
(ʻul
ū m al- Ḥ ad ī th)、これら二つの学問を基礎とする法学(fiqh)、神学(kal ā m)、タサ
ウウフ(
ta ṣ awwuf
スーフィズム)などである1。これらの学問に精通すると認められた人々がウラマーと呼ばれ、アッラーとムハンマドに帰される知識を豊富に持つ存在 として大きな尊敬を得てきた。そして、単に学者として尊敬されるだけでなく、イス ラームに関する豊富な知識を以てムスリムの信仰生活を指導する宗教的指導者とし て、あるいは、ムスリムが直面する様々な事柄について宗教的な見解を示す宗教的権 威者として、ムスリムの身近にある在地の名望家として強い社会的影響力と権力を行 使してきたのである。
特定の宗教や思想が強い影響力を持つ社会において、それらの宗教や思想に関する 知識を豊富に持つと認められることで、それらの知識を「文化資本」として活用し、
それぞれの社会において、学者としてだけでなく、強い社会的影響力を行使する在地 名望家としても活動する人々は、世界各地の様々な時代に見られる。例えば、前近代 中国における支配イデオロギーであった儒教の高い学識を認められ、宋代から清代に かけての知識人階層を構成した士大夫/郷紳は、在地名望家と知識人を兼ねた人々と して、しばしばウラマーと比較される2。また、キリスト教徒社会における聖職者や ユダヤ教徒社会のラビ、ヒンドゥー教徒社会におけるバラモン、日本における仏教の 僧侶や神道の神官なども、ウラマーと同様に知識人兼名望家として社会的影響力を保 持してきた人々である3。
このように、様々な地域・時代に遍在する知識人兼名望家たちは、それぞれに多様 な特徴を持つ。ウラマーの特徴として指摘されるのは、定義と輪郭の曖昧さである。
バラモンは、ヒンドゥー教の教義に基づいて高い身分を認められた人々であるが、イ スラームの教義には宗教的な身分規定はない。仏教の僧侶やキリスト教の聖職者は、
寺院や教会といった組織に所属し、それらの組織から地位や役職を与えられた人々と 定義できるが、イスラームには、信徒を管理し、一部の信徒に宗教的な指導権などを 認定する統一的な組織は存在しない。士大夫/郷紳は、科挙を受験し、皇帝権力から 学位を認められた人々として、他の人々と分けることができる。ムスリムの支配者た ちも、様々な形でイスラーム諸学に介入し、12世紀頃からはマドラサ(学院)と呼ば れる教育研究施設がウラマーの養成と活動に重要な役割を果たすようになり、19世紀 以降は、官職としてウラマーを雇用することも一般的に行われている。しかし、マド
ラサで学ばなければウラマーになれないわけではないし、全てのウラマーが国家に よって雇用・認定されるわけではない。特にマドラサが普及する前の11世紀頃までの ウラマーの多くは、個人的な活動としてイスラーム諸学を学び、研究し、教えてい た。すなわち、ウラマーとは、身分ではなく、業務と報酬が定められた職位や職業で もなく、何らかの組織や制度によって認定される資格でもない。明確な身分や制度に よって社会の他の成員からはっきりと区別されることのないことが、ウラマーの大き な特徴とされているのである。
ウラマーは、集団としての輪郭が曖昧で、一元的な定義が難しい人々であるが、社 会の諸要素をアッラーや預言者ムハンマドに結びつけて価値付けと批判を行い、社会 を「イスラーム化」する存在として、ムスリムの社会の構成に不可欠の存在である4。 実際に、ウラマーは、8世紀に史料上に出現して以来、各時代・各地域のムスリム諸 社会に遍在してきた。したがって、ウラマーを研究することはムスリムの社会を理解 するために不可欠あり、ムスリム社会の歴史的変容を考察する上でも、過去のウラ マーの姿を分析することは重要なのである。
それでは、10世紀から13世紀の西アジアという時代と地域は、ウラマーとイスラー ムの歴史を研究する上でどのような意義を持つのであろうか。この点については、時 代区分の問題を通して論じていこう。マルクス主義的唯物史観の影響を強く受けた 1980年代までの日本の歴史学においては、土地の支配構造や生産諸関係の変化によっ て時代を区分しようとする傾向が強く見られ、そこから提起された「古代、中世、近 世、近代」といった時代区分が共通認識となることが多かった。しかし、イスラーム 史研究においては、時代区分論があまり展開せず、西欧列強の植民地侵略が始まる19 世紀以降を「近代」とし、それ以前を「前近代」とすることを除いては、研究者の共 通認識として確立された時代区分はない。
こうした状況に対して、本稿では、仮に「初期イスラーム時代(7-9世紀)、古典イ スラーム時代(10-13世紀)、中世イスラーム時代(14-15世紀)、近世イスラーム時代
(16-18世紀)」という時代区分を設定する。「初期イスラーム時代」は、預言者ムハン マドの登場から、マディーナ(メディナ)における最初のウンマ(イスラーム共同 体)の建設、大征服、ウマイヤ朝(661-750年)の統治期間とアッバース朝(749-1258 年)の前期を含む。この時代は、ウンマの支配領域の急激な拡大と、それに伴うウン マ自体の変質による政治的変動の時代であり、イスラームの教義や思想についても 様々な意見が戦わされて、現在のイスラームの二大宗派であるスンナ派とシーア派も 確立されていなかった。それに続く「古典イスラーム時代」とは、ウンマの支配領域 の拡大が終息し、ウンマ自体の変質が一段落して、イスラーム的な支配モデルが定着 する一方で、アッバース朝の実効支配の後退と地方ムスリム政権の分立によってウン
マの政治的分裂が決定的になった時代から、モンゴルの侵入とマムルーク(奴隷軍 人)5による軍人政権の確立までを含む。社会と文化の側面では、シーア派とスンナ派 の二大宗派や古典法学諸派、タサウウフといった、現在のイスラームとムスリム社会 に見られる基本的諸要素が形成・定着した時代であり、ウラマーについても、彼らの 知的実践、社会的活動、社会的権威が形成・定着した時代に当たる。その後の、「中 世イスラーム時代」は、モンゴル・ムスリム諸政権やマムルーク出身のエリート軍人 の支配の下で、ウラマーやスーフィー、ムスリム商人の活動を通して、イスラームが 中央・南・東南・東アジアへと伝播し、マドラサやタリーカ(スーフィー教団)と いった施設や組織がムスリム社会に浸透した時代である。「近世イスラーム時代」
は、オスマン朝(1299-1922年)、サファヴィー朝(1501-1736年)、ムガル朝(1526- 1858年)といった、イスラームを統治理念として広い版図と多様な民族を支配する
「帝国」の時代である。
以上のようにイスラームの国家や宗派、ムスリムの社会や文化の展開に応じて時代 を区分してみると、10世紀から13世紀が、ウラマーを含めて、現代につながるムスリ ム社会の大枠が形成されていった時代であることが確認される。そして、ムスリム社 会の基本的諸要素の形成と定着の主要な舞台となったのが、ホラーサーン(イラン北 東部)からシリアに至る西アジアである。したがって、10世紀から13世紀の西アジア におけるウラマーに関する歴史学研究は、イスラームとムスリム社会の歴史を論じる 上で重要な意味を持つのである。
2.史料、先行研究、問題設定
前節でのウラマーとイスラーム史における10世紀から13世紀の西アジアが持つ重要 性を前提に、本節では、歴史学の分野でウラマーを研究する際に用いられる史料と、
先行研究について解説し、そこから筆者の研究が設定した問題を導いていく。
ウラマーに関する歴史学研究が主要な史料として用いるのは、ウラマーの学歴や学 問的な評価を集めたアラビア語の人名録である。アラビア語のウラマー人名録は、9 世紀から今日まで編纂され続け、アラビア語イスラーム関連文献に相当の割合を占め る。こうした人名録は、アラビア語では、タバカート(ṭ
abaq ā t)、もしくは、タァ
リーフ(taʼrī kh)と呼ばれることが多い。タバカートは、タバカ( ṭ abaqa)という単
語の複数形である。タバカとは、特定の要素を共有することによって他と区別される 人間の集団を意味し、具体的には、生活水準を共有する人々としての階級や、生存年 代を共有する人々として世代を指して用いられる。アラビア語人名録は、世代ごと記 事をまとめることが多いために、タバカート(諸世代)と呼ばれる。一方、タァリーフとは、年月を記録することから転じて、年ごとの事件を記録した年代記や、人々の 生没年を記録した書物、つまり、人名録を意味する6。この他、アラビア語人名録に は、「記録(
dhikr
)」や「諸情報(akhb ā r
)」といった色々な単語が当てられるが、ど のように呼ばれようとも、内容と形式は日本語で人名録や伝記集と呼び得るものであ ることは変わりない7。タバカートやタァリーフなどと呼ばれるアラビア語人名録の中には、ウラマーを記 述対象としたもの以外に、詩人や文人の伝記記事を集めたものや、軍人や官僚に関す るものなど、様々な作品が見られる。とはいえ、ウラマーがムスリム社会における文 筆の主要な担い手であったことから、ウラマーに関するものが大きな割合を占める。
そうしたウラマー人名録の編纂者もまたウラマーである場合が多い。
ウラマー人名録には、特定の世紀に活躍したウラマーの伝記記事を集めたものや、
預言者ムハンマドの時代から編纂年代までを網羅することを目指したものなど、記述 対象とするウラマーの限定の仕方に応じて様々な下位区分が設定される。そして、ど のような種類のウラマー人名録がより多く編纂されたかについて、時代や地域ごとに 様々な傾向がある。筆者が研究対象としてきた10世紀から13世紀の西アジアにおいて は、特定の地域と関係したウラマーを記述対象とする作品が、広範な地域で繰り返し 編纂された。ウラマーは、こうした地域別のウラマー人名録を、「地方史(taʼr
ī kh al-
balad)」に分類してきた。筆者は、「地方史人名録」
8と呼ぶ。アラビア語のウラマー人名録は、地方史人名録を含めて、数千人のウラマーに関す る伝記記事を収録する大部の作品が多く、各伝記記事の内容は、被記載者の学歴と学 問的評価を定型的に列挙したものである。以下に、地方史人名録の代表作である、ハ ティーブ・アル=バグダーディー(1071年没)の『バグダード史 Ta’r
ī kh Baghd ā d』
から、一般的な記事を一つ訳出してみよう。
なお、訳文中の《 》内の項目名は筆者の付加。( )内は筆者による説明。[ ] 内は、訳文の通りを良くするために筆者が加えた文言。〔 〕内は、原文中のイス ナード(ハディース・伝承の伝達経路を提示した部分)である。
《名前》ハサン・ブン・イスマーイール・ラシード、アブー・アリー・アッ=ラ ムリー
《教授:内容・教授地》バグダードに滞在し、同地でハディースを伝えた。
《学習:師》そのとき依拠したのは、彼の父と、ダムラ・ブン・ラビーア、ムハ ンマド・ブン・ユースフ・アル=ファルヤービーである。
《教授:弟子》ハサン・ブン・イスマーイール(被記載者)から[ハディース を]伝えたのは、イスマーイール・ブン・アル=アッバース・アル=ワッラーク
と、アブド・アル=マリク・ブン・ヤフヤー・ブン・アビー・ザッカール、ア ブー・バクル・ブン・ムジャーヒド・アル=ムクリー、アル=カーラーティーと して知られるムハンマド・ブン・アル=ハサン、ムハンマド・ブン・マフラド・
アル=アッタールである。
《ハディース》〔アズハリーが私(編纂者:ハティーブ・アル=バグダーディー)
に伝えた。ムハンマド・ブン・アル=アッバース・アル=ワッラークがアズハ リーに伝え、ムハンマド・ブン・アル=アッバースへは、彼の父(イスマーイー ル・ブン・アル=アッバース・アル=ワッラーク)が伝え、彼の父へは、ハサ ン・ブン・イスマーイール・ブン・ラシード・アッ=ラムリー(被記載者)が伝 えて言った。「マーリク・ブン・アナスが、サマーから聞いて我々に伝え、サ マーは、アブー・サーリフから聞き、アブー・サーリフは、アブー・フライラか ら聞き、アブー・フライラが預言者から聞いた。」〕
預言者は言った:旅は難儀の一つである。眠ることも、食べることも、飲むこと もままならない。旅の目的を果たしたら、家族のもとへ急ぐがよい9。
《没年》〔私(編纂者:ハティーブ・アル=バグダーディー)は、イブン・マフ ラドの直筆本の中に、[次のようにあるのを]読んだ。〕
[ヒジュラ暦]207年シャウワール月(西暦823年2/3月)、ハサン・ブン・イス マーイール・ブン・ラシード・アブー・アリーが死んだ。
〔私(イブン・マフラド)にこのように伝えたのは、スィムサールである。スィ ムサールにはサッファールが伝え。サッファールには、イブン・カーニウが伝え た。〕10
以上の訳文を一読すると、ウラマー人名録の伝記記事の定型性が良く理解されよう。
地方史人名録に限らず、アラビア語のウラマー人名録は、被記載者の人生や活躍をい きいきと物語るのではなく、上掲のような無味乾燥な記事を数千件に及んで延々と連 ねたものなのである。
「中世イスラーム時代」以前については、史料状況が良くなく、ウラマーについて も、ワクフ(waqf 寄進)文書やイジャーザ(ij
ā za 学習内容証明書、免状)、法廷記録
といった文書史料を使うこともできるが、その数は十分ではない。現時点において は、人名録がウラマーについて最も多くの情報を伝える史料であり、「古典イスラー ム時代」と「中世イスラーム時代」のウラマーに関する研究は人名録に依存する部分 が大きい。とはいえ、上掲のような定型的な記事からウラマーの実態を描き出すのは 容易ではない。人名録を使ったウラマーの歴史学研究は、次の二つの傾向に大別される。一つは、
人名録に記録された師弟関係やウラマー同士の親族関係、特に著名な人物の記事に付 される逸話などに含まれる情報を、年代記などの他種の史料の記述と組み合わせるこ とで、在地名望家としてのウラマーの社会的活動に注目する研究である11。こうした 研究においては、特定の地域内部におけるウラマー相互の知識の授受を通したネット ワークの形成や、ウラマーが活躍する在地社会を外部から支配する政治権力・軍人支 配者との関係が主に論じられてきた。
先に述べたとおり、ウラマーは身分ではないので、イスラーム諸学に携わること は、全てのムスリムに開かれている。しかし、ウラマーと呼ばれるまでの学識を身に つけるためには、多年にわたって勉学に専念する必要があり、日々の糧の心配なく勉 学に打ち込める人々は上層階級に限定される。そのため、下層階級から一代でウラ マーに連なった人が見られないわけではないものの、多くのウラマーは、大商人や大 地主など、都市に居住する上層階級の出身である。豊かな経済力を背景としてウラ マーを輩出し、そのウラマーがさらに子弟に高い教育を施すといった形で、代々ウラ マーを輩出する名家が形成され、在地社会で特に有力な名望家となることも珍しくな い。したがって、師弟関係などからウラマー相互のつながりを分析することは、在地 社会における名望家層の実態に迫ることになるのである。
もう一つの研究の傾向は、やはり師弟関係に関する情報を分析するものの、在地社 会における関係ではなく、その外に広がる間地域的な学術交流ネットワークの変遷を 論じる12。ウラマーが師を求めて広い範囲を旅し、旅先で知識を教授して回ったこと は広く知られている。人名録においても、被記載者がどこで誰に学び、どこで誰に教 えたかは主要な記載事項の一つとなっている。そうした移動に関する記述をデータ ベースに整理して、特定の地域を中心とした特定の期間の移動パターンの変化を分析 することで、イスラーム的知識の伝播と定着の過程や、地域をまたぐ広域的な交流の 歴史的実態が論じられてきたのである。
これら二つの傾向の研究によって、ウラマーの二つの側面、すなわち、地域内部の ムスリムたちを緊密に指導し、外部の権力と協力して在地社会の秩序を維持したり、
在地の利害を代表して外部の権力者に異議を申し立てる名望家の側面と、ウンマの理 念的統合を体現するような間地域的な知識人としての側面が明らかにされてきた。し かし、在地名望家としての社会的活動や政治権力者との関係、ウラマー相互の交流や 知識の継承に注目した研究は、ウラマーが扱った知識の内容には踏み込まない。ウラ マーの知識の内容は、もちろん思想研究が取り上げてきたが、傑出した人々の著作を 分析する思想研究は、比較的平凡なウラマーの知識の内容や、彼らが知識をめぐって 行っていた通常の実践は取り上げない。人名録の記事の大半を占めるような、比較的 平凡なウラマーの知識の内容や知的実践は、歴史学と思想研究の狭間に置き去りにさ
れてきたのである。また、在地名望家と間地域的知識人としての活動に注目した歴史 学研究は、分析対象がウラマーとして認められていたことは自明の前提となってお り、そもそも、ウラマーとして存立するために何が行われていたのかといった問題を 放置してきた。ウラマーが知識人として社会的影響力を行使してきた人々である以 上、ウラマーの歴史的な姿をより立体的に描くためには、比較的平凡なウラマーの知 的実践と知識人としての存立基盤の獲得を、社会的権威・影響力の形成と連関させて 明らかにしていかなければならないのである。
史料と先行研究に対する以上の認識から、筆者は、ウラマーの著述活動の細部か ら、彼らの知的実践と知識人としての存立基盤の獲得を明らかにするために、10世紀 後半から13世紀前半にかけての地方史人名録の「編纂流行」の解明を目指して研究を 行った。地方史人名録の「編纂流行」とは、ホラーサーンからシリアに至る西アジア の各地で、あるいは、それを超えて、マー・ワラー・アン=ナフル(トランス・オク サニア、中央アジア西部)からアンダルス(イベリア半島のムスリム支配地域)に至 る当時のムスリム支配地域のほぼ全域で、同じような地方史人名録が繰り返し編纂さ れた現象である。以下に、11世紀初頭にアンダルスで編纂れた、イブン・アル=ファ ラディー(1012/3年没)の『アンダルスのウラマーと知識伝承者の歴史 Ta’r
ī kh al-
‘Ulam ā ’ wa al-Ruw ā t li-l-‘Ilm bi-al-Andalus』の記事と、11世紀前半にジュルジャーン
(イラン北東部カスピ海沿岸の都市)13で編纂された、サフミー(1036/7年没)の
『ジュルジャーン史
Ta’r ī kh Jurj ā n』の記事を例示する。
『アンダルスのウラマーと知識伝承者の歴史』14
《名前》アブド・アッ=ラフマーン・ブン・アフマド・ブン・ムハンマド・ブ ン・アビー・ウマル・アル=バクリー・アル=バッザーズ
《出自・出身地》コルドバの人で、《名前》アブー・アル=ムタッリフのクンヤ
(父称)を持ち、イブン・アル=ミンハラインとして知られる。
《学習:師・学習内容・習得地》旅をし、マッカ(メッカ)で、アブー・バク ル・アル=アジュリーから、彼の著作について多くを学んだ。そして、アブー・
バクル・ムハンマド・ブン・アフマド・ブン・ムーサー・アル=アンマーティー と、ムハンマド・ブン・ナーフィウ・アル=フザーイーに学んだ。そして、エジ プトで、イブン・アル=ワルドと、ヤアクーブ・ブン・アル=ムバーラクと、イ ブラーヒーム・ブン・アフマド・ブン・アル=ハッダード・アル=バグダー ディーと、その他多くの人々に学んだ。そして、アンダルスに戻った。
《教授:弟子・内容》我々(編纂者:イブン・アル=ファラディー)の同僚のあ る者が、彼から[ハディースを]書き取った。
《評価》しかし、彼[の伝えたハディース]には、[信頼性を]否定されるべき ものが含まれていた。
《没年》370年第2ラビーウ月10日(980年10月23日)に死去した。
『ジュルジャーン史』15
《名前》アブー・アブド・アッラー、ムハンマド・ブン・アラワイヒ・ブン・ア ル=ハサン・アル=ファキーフ・アッ=ラッザーズ・アル=ジュルジャーニー 《学習:師・習得地》イラク、シリア、エジプト、ヒジャーズの人々から[ハ
ディースを]伝えた。
《没年》300年第1ラビーウ月3日(912年10月18日)に亡くなった。
《埋葬地》墓は,[ジュルジャーンの]ハンダク門にある。
《教授:弟子》彼に依拠して[ハディースを]伝えたのは、アブー・バクル・ア ル=イスマーイーリー、アブー・アフマド・ブン・アディー、イスマーイール・
ブン・サイードなどの人々である。
《ハディース》〔イマーム・アブー・バクル・アル=イスマーイーリーが我々に 伝えた。アブー・バクル・アル=イスマーイーリーには、ジュルジャーンの人で あるアブー・アブド・アッラー・ムハンマド・ブン・アラワイヒ・イブン・アル
=フサイン・アル=ファキーフ(被記載者)が伝え、アブー・アブド・アッ ラー・ムハンマド(被記載者)へは、アブー・シャイバ・イブラーヒーム・ブ ン・アブド・アッラー・ブン・アビー・シャイバが伝えた。アブー・シャイバに は彼の父が伝え,アブー・シャイバの父へはアアマシュが伝え、アアマシュへは タミームが伝え、タミームにはウルワ・ブン・ズバイルが伝えた。ウルワは言っ た。〕
アーイシャは言った:全てを聞き給うお方(神)に祝福あれ。私は、ハウラ・ビ ント・サアラバの言ったことを聞いた。彼女の言葉を全て聞き取ったわけではな いが、彼女は神の使徒に夫の不正を訴えて言った。
「私の夫は、私が若い頃には私を抱き、私は夫のために腹を痛め[て息子を産 み]ました。しかし、私が年を取り、息子が[成長して]私から離れると、夫は 私を離縁しました。神よ、私はあなたに訴えます」。
すると間もなく,ガブリエルが次の啓示をもたらした。
【神は、あの女が、お前(ムハンマド)に、その夫を訴えて言ったことを聞い た。(58:1)】16。【その夫】とは、アウス・ブン・アッ=サーミトである17。 この二つの記事に先に訳出した『バグダード史』の記事を加えて見ると、それぞれ
の記事の形式と内容がよく似ていることが看取される。これらの地方史人名録は、そ れぞれ異なるムスリム政権の下で書かれており、統一的なフォーマットに則って地方 史を書くように指示する権力も組織もない中で、同じような地方史人名録が、各地で 繰り返し編纂されたのはなぜかという疑問が浮かんでくる。加えて、10世紀後半から 13世紀前半という時代に特に盛んに編纂されたのはなぜか、そもそも、地方史人名録 とは、誰が、何のために、何を記録し、どのように編纂され、流通し、利用されたの かといった疑問も浮かぶ18。
先述のとおり、地方史人名録は、ウラマーに関する歴史学研究の史料として使われ てきたものの、上述の疑問は十分に明らかにされてこなかった。また、地方史人名録 は、思想史に大きな影響を残した著作ではない。そのため、思想研究で取り上げられ ることはなかった。しかし、むしろそれ故に、比較的平凡なウラマーの知的実践を明 らかにするためには適当な史料と言える。筆者は、先行研究が行ってきたように、地 方史人名録に書かれた個々の情報を取捨選択して利用するのではなく、地方史人名録 というジャンルが総体としてどのような構成・形式・内容を持ち、何がそれらを規定 したのかという史料論的な分析に基づいて、10世紀後半から13世紀前半にかけての編 纂流行を支えた背景を明らかにした。そして、地方史人名録の編纂・流通・利用をめ ぐって行われたウラマーの知的実践の再構成を通して、ウラマーがウラマーとして存 立するための知識人としての評価を獲得するために何を行っていたのかを考察した。
3.地方史人名録の概要:地誌部分と人名録部分
それでは、地方史人名録とはどのような構成・形式・内容を持つ書物なのだろう か。先述のとおり、ウラマー人名録の一種であり、それぞれの作品が記述対象とする 地域や都市と何らかの関わりを持ったウラマーについて、前節で訳出したような定型 的で簡潔な伝記記事を数百件から数千件にわたって収録した書物である。「何らかの 関わり」とは、その地域や都市で生まれ育ったことや、そこに暮らして活躍したこと だけでなく、その地域や都市に短期間の滞在をして、ハディースなどの知識を伝えた ことも含む。網羅する世代は、預言者ムハンマドの教友たちの中で、記述対象地域の 征服に参加した人々に始まり、編纂者の師の世代までであることが多い。また、11世 紀からは、既に地方史人名録が編纂された地域に関して、既存の作品の編纂者の世 代、すなわち、既存の作品に収録された最後の世代の次の世代から筆を起こす続編
(dhayl)も編纂されるようになった。
地方史人名録の構成としては、人名録が作品の全体、もしくは、9割以上を占める が、人名録の前に短い地誌を置く作品も少なくない。地誌部分においては、記述対象
地域の地勢や名所旧跡の案内に加えて、その地域の中心都市の建設や地名の由来など の由緒来歴と、地域の美質、マディーナから教友たちが率いてきたムスリム軍による 征服の経緯などが語られる。ただし、その語り方は、地勢や名所旧跡に関する記述を 除いて、編纂者自身の言葉で語られるのではない。記述対象地域に対するムハンマド の称賛を伝えるハディースや、ムハンマド以前の預言者たちがその地域に関わったこ とを伝える伝承、その地域における教友たちの活動を伝える伝承などの引用を重ねる ことで語られ、ハディース・伝承のイスナード(伝達経路)などに関する注釈以外に 編纂者自身の言葉はほとんど挿入されない。
こうした地誌部分の語りからは、編纂者のハディース・伝承に対する強い関心がう かがわれる。人名録部分においても、前掲の訳出からもわかるとおり、主な記述事項 は、ハディースの伝達に関するものであり、収録されている人物の大半が、教友たち などの初期のハディース伝達者と、ウラマーの中でもハディース学を専門とするハ ディース学者(mu
ḥ addith)たちである。
また、伝記記事の定型性を繰り返し指摘してきたが、記事の内容に地域性が極めて 薄いことも顕著な特徴として指摘される。前節で訳出した三つの記事のいずれにおい ても、それぞれの被記載者が各作品の記述対象地域でハディースを伝えたこと以外、
地域内部における活動を描写していない。被記載者が伝えたとして記載されたハ ディースも、著名なハディース集に収録された広く知られたものであり、記述対象地 域に独特のハディースというわけでもない。記述対象地域の地域的文脈における活動 が記載されず、極めて一般的な知識の授受に関する事柄だけが記載されているという ことは、ウラマー・ハディース学者であれば、どの地域の人であっても、伝記記事の 内容を容易に理解できるということである。さらに、記述対象地域と被記載者の関係 の濃淡は、伝記記事の分量や内容の密度に影響を与えていない。記事の分量や記述の 密度を決定する主要な要素は、被記載者が記述対象地域の社会に与えた影響の多寡で はなく、地域を越えて共有されるハディース学者としての評価の高低である。例え ば、『バグダード史』が、最も多くの頁を割いて、様々な逸話とともに詳細に記述し ているのは、バグダードで活躍した著名なアーリムであったイブン・ハンバル(855 年没)などではなく、最も権威的なハディース集(『正伝集 al-
Ṣ a ḥīḥ』)の編纂者とし
て広く評価されてきたブハーリー(870年没)であった19。ブハーリーとバグダード の関係は、短期間の逗留しかないにもかかわらずである。地方史人名録の編纂動機としては、記述対象地域のウラマーの愛郷心や他地域に対 する対抗心がしばしば指摘されてきた20。確かに、地方史人名録の編纂者の多くは、
記述対象地域で生まれ、育ち、活躍した人々である。しかし、全ての編纂者が記述対 象地域で生まれて活躍したわけではない。何より、上述の伝記記事における地方性の
薄さからは、地方史人名録が、編纂者の愛郷心に基づいて記述対象地域の素晴らしさ を主張するために書かれたとは考え難い。地域に関係なくハディース学者・ウラマー であれば容易に理解できる、ハディースの伝達に関わる一般的な情報を記載した伝記 記事からは、地方史人名録が、記述対象地域の人々のためというより、むしろ他地域 のウラマー、特にハディース学者に向けて、記述対象地域でどのような人がどのよう なハディースを伝えたのかといった、ハディース学に関連する情報を発信するために 編纂されたことを示唆している。
周知の通り、ハディース学は、それぞれのハディースについて、そこに語られる内 容が確かに預言者ムハンマドに発するという真正性をどのように判定・証明するかを 中心的な課題として発展した。そして、ハディースの真正性判定の主要な材料となる のが、個々のハディースの中で、そのハディースの伝達経路を記録した部分(イス ナード)である。本稿で訳出した『バグダード史』と『ジュルジャーン史』の伝記記 事に被記載者が伝えたとして記載されている《ハディース》の中では、〔 〕で括ら れた部分である。ハディース学者は、イスナードに記録された伝達者の間に、空間 的・時間的断絶がないか、記憶力が弱いとか、虚言癖があるといった、伝達者として 信頼できない人々が含まれていないかといったことを検証することで、ハディースの 真正性を判定してきた。そのためには、無数のハディースのイスナードに含まれる膨 大な伝達者の経歴や評価を集める必要がある。記述対象地域で、代々、どのような 人々が、どのような師弟関係でハディースを伝えたかという情報を大量に記録した地 方史人名録は、ハディースの真正性判定作業の必要に合致した書物なのである。
もっとも、地方史人名録がハディース学と密接な関係を持つことは、以前から指摘 されてきた21。地方人名録がハディース学に関連する情報を中心的に記載しているこ とは、一見すれば明らかだからである。とはいえ、地方史人名録がハディース学とハ ディース学者の知的実践の展開の中でどのような位置を占めていたのか、そして、10 世紀後半から13世紀前半という特定の時代に、なぜ多くの作品が編纂されたのかと いった問題は解明されてこなかったのである。
4.地方史人名録編纂流行の概要
ここまで、地方史人名録の「編纂流行」に繰り返し言及してきた。それでは、地方 史人名録に分類されるアラビア語の書物、すなわち、特定の地域を記述対象として、
その地域と何らかの関係を持ったウラマー・ハディース学者の人名録を主要な構成要 素とする書物はどのくらい編纂されたのだろうか。
前近代のアラビア語書籍の目録書や近現代の文献学研究22を調査した結果、8世紀
から16世紀初頭までにアラビア語で「地方史(taʼr
ī kh balad)」に分類される作品は、
427点が編纂されたことが明らかになった。このうち、写本が現伝し、写本や刊本に よって構成・形式・内容を確認できたものは118作品である。現伝が確認されていな いものの、後代の書物に多数の引用記事が見られ、ある程度の確実性を以て構成・形 式・内容を推定できたものが77作品である。
これらの195作品を、構成・形式・内容の相違に応じて分類すると、地方史人名録 に分類されるのは109作品で全体の約56%を占める。残りは、特定の地域の地勢や由 緒来歴、名所旧跡などを語る地誌が43作品(約22%)、ウラマー以外の世俗的な文人 や支配者の伝記記事を集めた地方文人・総督人名録が25作品(約13%)、地域で起 こった出来事を年代順に記述する地方事件史が18作品(約9%)である。アラビア語
「地方史」のこうした下位区分の分布からは、地方史人名録という、我々の感覚から すれば、地方史とも人名録ともつかない奇妙な書物が、アラビア語の「地方史」の伝 統の中では珍しいものではなかったことが明らかになる23。
次に、地方人名録109作品の編纂年代の分布を見てみよう。最初期の作品は9世紀か ら10世紀前半にかけての150年間に編纂されたもので、11作品が該当する。10世紀後 半には12作品が編纂され、11世紀を通して18作品が、12世紀を通して13作品が編纂さ れた。13世紀前半に16作品が成立し、13世後半には9作品が編纂された。14世紀を通 して18作品が編纂され、15世紀から16世紀初頭にかけて12作品が編纂された。
以上の編纂年代の分布を見ると、13世紀後半以降も編纂される作品数は減少してい ないことが判る。しかし、13世紀後半以降は、既存の作品の抜粋と続編が半数以上を 占める。抜粋と続編の編纂は11世紀に始まり、11世紀に4作品、12世紀にも4作品が編 纂されているが、同時代に編纂された作品の中で多数を占めるには至っていない。そ れが、13世紀前半に10作品に増加し、13世紀後半には同時代に成立した9作品中の6作 品を占める。その後も、14世紀に14作品、15世紀から16世紀初頭にかけて9作品と、
高い割合を占め続ける。教友の世代から人名録の筆を起こす地方史人名録の正編は、
10世紀後半から13世紀前半に集中しており、正編62作品のうちの41作品がこの時期に 編纂されているのである。
本稿で言う「編纂流行」とは、このように、新規の正編の編纂がアンダルスから マー・ワラー・アン=ナフルに至る地域で盛んに行われていた現象を指す。伝記記事 の訳出を紹介した『バグダード史』、『アンダルスのウラマーと知識伝承者の歴史』、
『ジュルジャーン史』は、いずれもこの時期に編纂されたものである。その他にも、
ハーキム(1014年没)の『ニーシャープール史 Ta’r
ī kh Nays ā b ū r』、アブー・ヌアイム
(1038年没)の『イスファハーン史 Ta’r
ī kh A ṣ bah ā n: Dhikr Akhb ā r A ṣ bah ā n』、イブ
ン・アサーキル(1176年没)の『ダマスカス史 Ta’rī kh Mad ī nat Dimashq』など、前
近代のウラマーの間でもアラビア語「地方史」の代表作と見なされてきた地方史人名 録が多数編纂されている。
上記の地方史人名録の代表作の編纂者たちは、いずれもハディース学者として知ら れた人々である。もちろん、法学などのハディース学以外の分野で知られたウラマー も地方史人名録を編纂しているが、地方史人名録の編纂者の大半はハディース学者で ある。さらに、ハディース学者の中でも、10世紀のホラーサーンに遡る学統に連な り、「ハディースの徒(
A ṣḥā b/Ahl al- Ḥ ad ī th
)」を自称した人々が中心となっている。また、法学派としては、大半の編纂者がシャーフィイー派に分類される。ここまでに 言及した編纂者の中では、『アンダルスのウラマーと知識伝承者の歴史』を編纂した イブン・アル=ファラディーを除く全員が、上記の学統・法学派を共有している。
先述のとおり、地方史人名録をめぐる問題の一つに、それぞれに離れた地域で編纂 された作品の構成・形式・内容に見られる強固な共通性の原因がある。地方人名録の 主要作品の編纂者が、ハディース学という同じ学問分野で活躍し、その中でも同じ学 統に連なり、「ハディースの徒」という自称の下で同じような思想傾向を持っていた とすれば、彼らの編纂した地方史人名録が同じような構成・形式・内容を持ったのも むしろ当然なのかもしれない。
5.地方史人名録編纂流行の構造
こうした編纂者の傾向の共通性と並んで、地方史人名録の共通性の原因として考慮 しなければならないのは、地方史人名録がハディース学者たちの間で地域を越えて流 通し、各地のハディース学者に読まれ、新たな地方史人名録を編纂する際の材料とし て利用されたことである。このことを史料に依拠して検討していこう。取り上げるの は、イスマーイール・ブン・アブド・アッラー・ブン・ズラーラ(以下、ズラーラと 省略)と、イスマーイール・ブン・アブド・アッラー・ブン・ハーリド(以下、ハー リドと省略)という、よく似た名前を持つ二人の人物である。
この二人の伝記記事を収録した最初の地方史人名録は、10世紀前半に、シリア北東 部のユーフラテス川中流域に位置する都市、ラッカで編纂された『ラッカ史』であ る。二人に関する『ラッカ史』の記事は、以下の通り、非常に簡素なものである。な お、それぞれの記事の冒頭に付されている〈A〉という記号は、ズラーラに関する情 報の系統を意味する。〈
B
〉という記号は、ハーリドに関する情報の系統を意味する。『ラッカ史』
〈A〉
《名前》イスマーイール・ブン・アブド・アッラー・ブン・ズラーラ
《没年・死亡地》私(『ラッカ史』の編纂者:アブー・アリー)は、[ズラーラの 息子の]イブラーヒーム・ブン・イスマーイール・ブン・アブド・アッラー・ブ ン・ズラーラが次のように言うのを聞いた。
「私の父(ズラーラ)は、229(843
/
4)年にバスラで死んだ」。24〈B〉
《名前》イスマーイール・ブン・アブド・アッラー・ブン・ハーリド、アブー・
アブド・アッラー・アッ=スッカリー 《役職》ダマスカスのカーディーを努めた。25
〈A〉ズラーラは、バグダードでハディースを伝えたことから、『バグダード史』
にも伝記記事が収録されている。『バグダード史』の記事は、以下の通りである。
『バグダード史』〈A〉
《名前》イスマーイール・ブン・アブド・アッラー・ブン・ズラーラ、アブー・
アル=ハサン・アッ=スッカリー・アッ=ラッキー(「ラッカ人」の意)
《教授・学習:師》バグダードを訪れ、同地で、ハンマード・ブン・ザイドとア ブド・アル=アズィーズ・ブン・アブド・アッ=ラフマーン・アル=クラシー、
アブド・アル=ワッハーブ・アッ=サカフィー、シャリーク・ブン・アブド・
アッラー・アン=ナフイー、ダーウード・ブン・アッ=ザブルカーンに依拠して ハディースを伝えた。
《教授:弟子》そして、アブー・バクル・ブン・アビー・アッ=ドゥンヤー、ア ブド・アッラー・ブン・アフマド・ブン・ハンバル、ムハンマド・ブン・アル=
ファドル・ブン・ジャービル・アッ=サカティー、イスハーク・ブン・スィニー ン・アル=ハトリー、ハサン・ブン・アリー・ブン・アル=ワリード・アル=
ファーリスィーとその他の者たちが、彼(ズラーラ)からハディースを伝えた。
《ハディース》〔… イスマーイール・ブン・アブド・アッラー・ブン・ズラー ラ・アッ=ラッキー(ズラーラ)… サービド・ブン・アル=バンナーニーが、
アナス・ブン・マーリクから伝えた。〕
預言者は、死の床にあり、不安に沈んでいった。するとファーティマは、自分の 胸に預言者を憩わせ、言った。「心配なさいますな、お父様」。預言者は言った。
「今日より後、お前の父は不安にかられることはないだろう」。預言者が召された
(死んだ)とき、ファーティマは次のように言った。「お父様、あなたより主に近 い者はおりません。お父様、天国の楽園はあなたの安息の場です。お父様、私た ちはガブリエルにあなたの死を嘆きました。お父様、主はあなたの祈願に応えら れました」。〔アナスは言った。〕:ファーティマは私に言った。「アナスよ、神の 使徒[の遺体]に土をかけることで、お前たちの心は晴れたか」。
《評価》〔ハサン・ブン・ムハンマド・アル=ハッラールが、アブー・アル=ハ サン・アッ=ダーラクトニー26が次のように言ったと伝えた。〕
イスマーイール・ブン・アブド・アッラー・アッ=スッカリーは、信頼できる。
《没年・死亡地》〔ウバイド・アッラー・ブン・アフマド・ブン・ウスマーン・
アッ=サイラフィーと、ハサン・ブン・ムハンマド・ブン・ウマル・アン=ナル スィーの二人が私(『バグダード史』の編纂者:ハティーブ・アル=バグダー ディー)に伝えて言った:アブー・アリー・ムハンマド・ブン・サイード・ブ ン・アブド・アッ=ラフマーン・アル=ハッラーニー(『ラッカ史』の編纂者)
は言った。〕
私(『ラッカ史』の編纂者)は、[ズラーラの息子の]イブラーヒーム・ブン・イ スマーイール・ブン・アブド・アッラー・ブン・ズラーラが次のように言うのを 聞いた。
「私の父(ズラーラ)は、229(843
/
4)年にバスラで死んだ」。27この『バグダード史』の記事を見ると、ハディースの《学習》《教授》に関する師弟 関係や、ズラーラをイスナードに含む《ハディース》など、多くの項目から成り立 ち、『ラッカ史』の記事に比べて内容と分量が増えている。そのなかで、《没年・死亡 地》の部分は、『ラッカ史』の記事と全く同じである。この部分の前にイスナードが つけられ、その中に『ラッカ史』の編纂者の名前があることから、『バグダード史』
を編纂したハティーブが『ラッカ史』から引用したことが明らかになる。
一方、〈
B
〉ハーリドは、『ラッカ史』の記事にあるとおり、ダマスカスでカー ディーを努めている。そのため、『ダマスカス史』にも伝記記事が収録されている28。 ただ、『ダマスカス史』の記事は3頁に及ぶので、ここでの分析、すなわち、地方史人 名録の作品間における記述の利用という点に関係する2箇所のみを以下に訳出する。《評価》〔… アブー・バクル・アル=ハティーブ[・アル=バグダーディー]
(『バグダード史』の編纂者)が、アブー・マンスール・ブン・ハイルーンに伝 え、アブー・マンスールがアブー・アル=ハサン・ブン・クバイスに伝え、ア
ブー・アル=ハサンが私(イブン・アサーキル:『ダマスカス史』の編纂者)に 伝えた。[アブー・バクル・アル=ハティーブ・アル=バグダーディーは言っ た。]:ハサン・ブン・ムハンマド・アル=ハッラールが、アブー・アル=ハサ ン・ブン・アッ=ダーラクトニーから聞いて、私(アブー・バクル・アル=ハ ティーブ・アル=バグダーディー)に伝えて言った。
イスマーイール・ブン・アブド・アッラー・アッ=スッカリーは、信頼できる。
《役職》〔アブー・アリー・ムハンマド・ブン・サイード・ブン・アブド・アッ
=ラフマーン・アッ=ラッキー・アル=ハーフィズ(『ラッカ史』の編纂者)
が、『ラッカ史』の中で伝えて言った。〕
イスマーイール・ブン・アブド・アッラー・ブン・ハーリド、アブー・アブド・
アッラー・アッ=スッカリーは、ダマスカスのカーディーを努めた。
以上の2箇所のうち、《役職》については問題ない。『ラッカ史』の編纂者に至るイス ナードを付して、『ラッカ史』〈
B
〉の記事の内容を正しく伝えている。問題となるの は《評価》の部分である。この部分は、イスナードに『バグダード史』の編纂者のハ ティーブ・アル=バグダーディーがあげられ、確かに上掲の『バグダード史』の記事 の中の《評価》の項目の記述を引用したものである。しかし、『バグダード史』の記 事は〈A
〉ズラーラに関するものであり、『ダマスカス史』の記事は〈B
〉ハーリドに 関するものである。こうした錯誤が生じる原因としてまず考えられるのは、ズラーラ とハーリドの名前が似ていることから、『ダマスカス史』を編纂したイブン・アサー キルが、『バグダード史』のズラーラの記事をハーリドの記事と勘違いして、『ダマス カス史』のハーリドの記事に引用してしまったことであろう29。ところが、注意深く見てみると、そもそも間違いを犯したのは『バグダード史』を 編纂したハティーブ・アル=バグダーディーであった可能性が浮かんでくる。ハ ティーブは、「イスマーイール・ブン・アブド・アッラー・アッ=スッカリーは、信 頼できる」と記しているが、ズラーラの名前の中で、ハーリドの名前と異なる「ブ ン・ズラーラ」の部分を書かず、かわりに「スッカリー(砂糖屋)」というニスバ
(由来名)を加えている。この「スッカリー」というニスバについて、『ラッカ史』の 二つの記事を見比べてみると、このニスバを持つのは〈A〉ズラーラではなく、〈B〉
ハーリドである。したがって、ハティーブ・アル=バグダーディーが、〈
B
〉ハーリ ドに対するダーラクトニーの評価を、誤って(A)ズラーラの記事に加えてしまった と考えられるのである。ちなみに、(B)ハーリドは、バグダードを訪れたとは記録 されておらず、『バグダード史』にも伝記記事は収録されていない。こうした間違いからは、ハティーブ・アル=バグダーディーが様々な書物や情報を集め、それらを取 捨選択して『バグダード史』を編纂していたことが明らかとなる。
それでは、『ダマスカス史』を編纂したイブン・アサーキルは、『バグダード史』の
〈A〉ズラーラに含まれている〈B〉ハーリドの関すると思われる記述を、どのように
〈B〉ハーリドの伝記記事に引用したのだろうか。ここには二つの可能性がある。一 つは、先に述べたとおり、イブン・アサーキルも〈A〉ズラーラと〈B〉ハーリドを 混同して、『バグダード史』の記事を引用したということである。もう一つの可能性 は、ハティーブ・アル=バグダーディーの誤りに気づいて、意図的に『バグダード 史』の〈A〉ズラーラの記事から《評価》の部分だけを、自作の〈B〉ハーリドに関 する記事に引用したことである。
筆者としては、後者の可能性の方が高いと考える。なぜなら、『ダマスカス史』の
〈B〉ハーリドの記事の中で、『バグダード史』の〈A〉ズラーラの記事と重なるのは この《評価》の部分だけだからである。もし、イブン・アサーキルが『バグダード 史』の〈A〉ズラーラの記事を〈B〉ハーリドの記事と勘違いしていたなら、他の部 分にも引用が見られたであろう。しかしその一方で、イブン・アサーキルがハティー ブ・アル=バグダーディーの誤りに気づいていたなら、そのことを注釈したとも考え られる。そうした注釈がないことから、イブン・アサーキルも『バグダード史』の
〈A〉ズラーラの記事に含まれる《評価》を〈B〉ハーリドに関するものと錯誤し、二 人の間違いが重なった結果、『バグダード史』で誤って〈
A
〉ズラーラの《評価》と された情報が、たまたま『ダマスカス史』の〈B〉ハーリドの記事に戻った可能性も 否定できない。この問題、すなわち、「イスマーイール・ブン・アブド・アッラー・アッ=スッカ リー」なる人物に対するダーラクトニーの評価を伝える記述が、〈
A
〉ズラーラに関 するものなのか、〈B〉ハーリドに関するものなのかについて、後代のウラマーも頭 を悩ませた。13世紀半ばに活躍したイブン・アル=アディーム(1262年没)は、ア レッポを記述対象地域とする地方史人名録、『アレッポ史探求の究極 Bughyat al-Ṭ alab f ī Ta’r ī kh Ḥ alab』を編纂し、〈 A
〉ズラーラと〈B
〉ハーリドの記事を連続して掲載し た。その〈A〉ズラーラの記事の中で『バグダード史』の《評価》を引用した後、イ ブン・アル=アディーム次のような注釈を加えている。このように、ハティーブ・アル=バグダーディーは、アブー・アル=ハサン・
アッ=ダーラクトニーの[「イスマーイール・アブド・アッラー・アッ=スッカ リーは、信頼できる」という]この言葉を、イスマーイール・ブン・アブド・
アッラー・ブン・ズラーラ、アブー・アル=ハサン(〈A〉ズラーラ)の伝記に
引用している。しかし、ダーラクトニーが言っているのは、[名前が]類似して いる、イスマーイール・ブン・アブド・アッラー・ブン・ハーリド・ブン・ヤ ズィード・ブン・アブド・アッラー・アッ=スッカリー(〈
B
〉ハーリド)のこ とだったと思われる。30その根拠の一つとして、イブン・アサーキルが『ダマスカス史』で問題の《評価》を
〈
B
〉ハーリドの記事に引用していることをあげる。このように、件の《評価》はハーリドに対するものであった可能性が高いものの、
ダーラクトニーの手による原本が残っていないため、ダーラクトニーが〈A〉ズラー ラと〈B〉ハーリドのどちらを意図して「信頼できる」と評価したのかを確定するこ とはできない。いずれにしても、10世紀前半の『ラッカ史』から、11世紀後半の『バ グダード史』と12世紀後半の『ダマスカス史』を経て、13世紀半ばの『アレッポ史探 求の究極』へと至る情報の流れを見ていくと、一つの地方史人名録が、複数の地域に 流通し、それぞれの地域での地方史人名録編纂の材料として繰り返し利用されたこと が明らかになる。つまり、ある地方で編纂された地方史人名録は、確かに他の地域に 伝えられて読まれてたのであり、伝えられた先の地域を記述対象とする新たな地方史 人名録の材料として利用され、そうして編纂された地方史人名録がさらに流通して、
さらに新たな地方史人名録の編纂に用いられたのである。このように、同じ材料を 様々な地域で繰り返し使ったことが、各地で編纂された地方史人名録の構成・形式・
内容が似通ったものになったことの原因の一つと考えられるのである。
そしてまた、こうした地方史人名録の編纂と流通と利用のあり方から、地方史人名 録が、ハディース学者の間地域的ネットワークを介したハディースと関連知識の受 容・利用・流通に組み込まれた書物であったことが確認される。地方史人名録の編纂 流行とは、各地のハディース学者がハディースをめぐる知的実践の一環として地方史 人名録の編纂・流通・利用に携わったということであり、ある地域で編纂された地方 史人名録が他地域の地方史人名録の編纂に利用されるという編纂と流通と利用の連鎖 が成立し、ハディース学者の知的実践の中に形成されたその連鎖が、中を流れる情報 の量を増大させながら連続的に回転していたということなのである。
6.地方史人名録編纂流行の背景
上述の地方史人名録の編纂・流通・利用の連鎖構造を産み出し、13世紀前半まで持 続させた背景として、以下の3点があげられる。第1の背景は、各地域を「ムハンマド のウンマ」とも呼ばれるイスラーム共同体(ウンマ)の不可分の一部であると認識す
る理念である。第2の背景は、ハディースの真正性判定を中心とするハディース学の 学問的活動に必要な情報の流通を確保することである。第3の背景は、学者としての 評価を高めようという編纂者の学問的野心である。
第1の理念的な背景は、地方史人名録の編纂が9世紀に始まり10世紀後半に本格化し たことを説明する。アンダルスからマー・ワラー・アン=ナフルにいたる地域は、7 世紀中葉から8世紀初頭にかけて征服によってウンマの支配下に入ったものの、征服 された人々のイスラームへの改宗は漸進的に進み、ムスリムが人口の過半を占めるに 至るのは9世紀から10世紀にかけてと考えられる31。ムスリムが各地における安定的 多数派として確立されると、それまでの「異教的」な世界観とそれに基づいた地方観 に代わって、イスラーム的な世界観と地方観が必要とされた。
地方史人名録の地誌部分は、記述対象地域に対する預言者ムハンマドの好意的な言 辞を伝えるハディースや、その地域における教友の活躍に関する伝承の引用を重ね て、地域の美質や由緒来歴を語る。こうした地誌部分の形式と内容は、記述対象地域 を預言者ムハンマドと彼が指導したマディーナのウンマに結びつける。また、記述対 象地域でどのような人々がハディースを伝えたかを列挙する人名録部分は、ハディー スという預言者ムハンマドが遺したモノが、記述対象地域にいかに多く伝わっている かを示すことで、やはり地域を預言者ムハンマドに結びつける。地方史人名録は、地 誌部分でも人名録部分でも、ハディースを通して記述対象地域を預言者ムハンマドに 結びつけ、「ムハンマドのウンマ」という世界の不可分の一部としての記述対象地域 という理念を表象していると言えるのである。
そうした理念は、9世紀から10世紀に安定的多数派として確立した各地のムスリム 社会におけるイスラーム的世界観・地方観に対する必要に合致する。地方史人名録 が、ハディース・伝承の引用を重ねた簡潔な地誌と、記述対象地域におけるハディー スの伝達に関する事項を主要な記述内容とする長大な人名録という構成をもって、9 世紀から10世紀に各地で編纂が始まったのは、イスラーム的世界観・地方観に対する ムスリム社会の必要に答えるという一面を持っていたと考えられるのである32。 一方、人名録部分の記載内容と形式については、ハディース学における学問的必要 によって説明される。ハディースの伝達に関わる事項を中心とする伝記記事の内容 が、ハディースのイスナードに含まれる伝達者の検証による真正性判定作業に必要な 情報を伝えることは既に述べた。ハディース学は、10世紀から11世紀にかけて多くの ウラマーを惹きつけて隆盛し、ハディースの真正性判定の理論化が進展した。地方史 人名録の編纂が10世紀後半から11世紀にかけて各地へ広がり、編纂流行が始まること は、同時期のハディース学の隆盛と対応した現象として説明される。すなわち、各地 のウラマーがハディースの真正性判定に取り組むハディース学者として活動するよう
になったことで、それぞれの地域でハディースを伝えた人々の情報を収集整理し、他 地域のハディース学者に向けて発信するようになったということである。地方史人名 録の編纂流行は、広範な地域に散らばるハディース伝達者の情報の流通を確保すると いう、ハディースの真正性判定作業に必須の要件を満たす必要が、ハディース学の隆 盛によって高まったことに対応した現象であったと考えられるのである。
また、ハディースの真正性判定理論の発展に伴って、伝記記事の内容は充実し、形 式も被記載者に関する情報を師弟関係や評価といった項目ごとにまとめる形で洗練さ れていった。記事の充実と洗練については、先に挙げたズラーラに関する『ラッカ 史』の記事と『バグダード史』の記事を見比べてみれば容易に理解される。
以上のとおり、「ムハンマドのウンマ」の不可分の一部という世界観・地方観と、
ハディース学の学問的必要という二つの背景は、地方史人名録の基本的構成や編纂開 始から流行にいたる展開を説明する。しかしながら、編纂流行がなぜ13世紀前半まで 持続し、なぜその頃に終わったのかは説明しない。イスラーム的世界観・地方観は、
一度確立されてしまえば、繰り返し表現することは必須ではない。また、ハディース 学に必要な情報の流通は、地方史人名録以外の形態でも確保し得る。それでも、13世 紀前半まで、地方史人名録の編纂が続けられた。
時間の経過に伴ってハディース伝達者の数が増加することから、地方史人名録も編 纂を続ける必要があったとも考えられる。しかし、時間の経過に伴う伝達者の増加に 対応するだけなら、既に地方史人名録が成立している地域については、先行する作品 の編纂者の世代から始める続編で事足りたはずである。確かに、地方史人名録の続編 の編纂は11世紀に始まる。しかし、12世紀までに編纂された地方史人名録に占める続 編の割合は小さい。また、それまでに地方史人名録が編纂されたことのない地域だけ でなく、教友の世代から編纂者の師の世代までを網羅する正編が既に成立している地 域に関しても、新たな編纂者が教友の世代から始める新たな正編を編纂することを、
13世紀前半まではしばしば観察できる33。さらに、12世紀に入ると、11世紀までに充 実・洗練された伝記記事の形式と内容を踏襲するだけでなく、そこに新たな内容を盛 り込んだり、割合は少ないながら、ハディース学者・ウラマー以外の文人・詩人や軍 人支配者の伝記記事なども収録するようになる。
12世紀から13世紀前半までの編纂流行の持続、および、13世紀半ばにおけるその終 息、そして、その期間の変化を説明するのが、評価の見込める形態で同形態の先行作 品より優れた作品を発表し、より高い学問的評価を得ようとする編纂者の学問的野心 である。『ニーシャープール史』や『バグダード史』といった、10世紀後半から11世 紀にかけて編纂された地方史人名録は、同時代のウラマー・ハディース学者の間で高 い評価を受けたと伝えられる34。その理由は、上述のとおり、当時のハディース学や