後水尾院歌壇における漢文学の利用
著者 大山,和哉
雑誌名 同志社国文学
号 92
ページ 198‑210
発行年 2020‑03‑20
権利 同志社大学国文学会
URL http://doi.org/10.14988/00027194
後 水 尾 院 歌 壇 に お け る 漢 文 学 の 利 用
大 山 和 哉
一︑ はじ めに 後水 尾院
︵一 五九 六︱ 一六 八〇
︶の 和歌 に漢 詩文 の利 用が 頻り に 見ら れる こと は︑ 吉澤 義則 氏﹃ 頭註 後水 尾院 御集
﹄︵ 仙壽 院︑ 一九 三〇 年︶
︑久 保田 啓一 氏校 注・ 訳﹃ 新編 日本 古典 文学 全集 七十 三 近世 和歌 集﹄
︵小 学館
︑二
〇〇 二年
︒﹁ 寛永 十四 年御 着到 百首
﹂の み︶
︑鈴 木健 一氏
﹃和 歌文 学大 系六 八 後水 尾院 御集
﹄︵ 明治 書院
︑ 二〇
〇三 年︶ など の諸 注釈 書を 見て も明 らか であ る︒ さら に︑ 令和 元年 度和 歌文 学会 第六 五会 大会
︵十 月五 七︱ 日︑ 於奈 良女 子大 学︶ では 中村 健史 氏が 口頭 発表
﹁後 水尾 院と
﹃三 体詩
﹄﹂ にお いて
︑唐 代の 詩の 撰集 とし て宋 の周 弼が 編纂 した
﹃三 体詩
﹄の 表現 が後 水尾 院の 和歌 に見 られ るこ とを 指摘 し︑ 後水 尾院 によ る漢 詩文 利用 の実 態を より 詳細 に示 した
︒中 村氏 は口 頭発 表の 折︑ 後水 尾院 述・ 霊元
天皇 記﹃ 麓ろく
木ぼく
鈔しよう
﹄の 次の 言説 に注 目し てい る︒
︵以 下︑ 資料 の引 用 の際 には 適宜 句読 点︑ 濁点
︑﹁
﹂を 補う
︒︵
︶に よっ て示 した も のは 全て 稿者 が私 に付 した もの であ る︒
︶ 詩集 にて 哥学 にな るは
︑三 躰詩
おな じく 委皆
︑さ あら ずは 絶句 計に ても 也
︑古 文真 宝︑ 朗詠
︑其 外に は餘 なし
︒古 文は 事之 外よ きよ し︑ 三藐 院
(近 衞信 尹)
など も 申さ れし 也①
︒
﹃三 体詩
﹄﹃ 古文 真宝
﹄﹃ 和漢 朗詠 集﹄ の三 書が 歌道 を学 ぶ上 で役 に立 つと 言う
︒漢 詩や 漢故 事を 和歌 に用 いる こと につ いて は︑ 詩ヲ トル ニハ
︑詞 ノコ ハヾ ラヌ ヤウ ニ︑ 艶ニ
︑ス ラリ ト取 ベキ 也︒ 同︑ 詩故 事ナ ドヲ トル ニハ
︑ツ マド リタ ル︑ 吉也
︒コ トコ マカ ニト レバ
︑却 テ聞 ヱザ ルナ リ︒ タト ヘ聞 テモ 歌ツ マシ キナ リ︒
︵﹃ 和歌 秘決
﹄︶ 詩︑ 本哥 など 取用
︑無 理に とる はわ ろし
︒自 然に 出来 をと る也
︒
後水 尾院 歌壇 にお ける 漢文 学の 利用
一九 八
︵﹃ 麓木 鈔﹄
︶ など と近 世初 期の 歌学 書類 に見 える
︒適 切な 本説 取り は効 果的 な措 辞に なる と考 えら れて いた
︒当 時の 堂上 和歌 と漢 文学 との 関係 につ いて は︑ 嶋中 道則 氏が
﹁近 世堂 上和 歌と 漢文 学︱ 句題 和歌 をめ ぐっ て﹂
︵﹃ 近世 堂上 和歌 論集
﹄︵ 明治 書院
︑一 九八 九年
︶︶ にお いて
︑特 に句 題和 歌を 取り 上げ て論 じて いる
︒こ れを 踏ま え︑ 本稿 では 和歌 作品 及び 歌論 書の 記事 を検 証す るこ とを 通し て︑ 歌壇 全体 の活 動や 志向
︑歌 道教 育の 在り 方に つい て具 体的 な記 述を 加え る︒ 二︑ 後水 尾院 の和 歌に 見ら れる 漢詩 句・ 故事 の利 用 まず は後 水尾 院の 次の 和歌 につ いて 考え たい
︒ ちる 花の 雪を たた める 夏衣 かへ ても 春の なご りや はな き
︵﹃ 後水 尾院 御集
﹄一
〇八 八﹁ 更衣
﹂) この 和歌 につ いて
︑久 保田 氏は
﹁更 衣を 迎え ても 春に 心を 残す の が古 来の 優雅 な約 束事 であ る︒
﹂﹁ 落花 の雪 を夏 衣の 中に 畳み 込ん で ある
︒惜 春の 心を 夏衣 に託 す︒
﹂と 注し
︑鈴 木氏 は﹁
○夏 衣︱ 夏に 着る 衣服
︒そ れが
︑白 雪︵ 落花 の形 容︶ をた たみ こん だか のよ うだ との 形容
︒﹁ 蟬の 羽の ひと へに うす き夏 衣な れば より なん もの にや はあ らぬ
﹂︵ 古今
・雑 体・ 凡河 内躬 恒︶
︒▽ 散る 花を 春の 名残 と見 る︑ 惜春 の思 い︒
﹂と 注す る︒ 一首 全体 は︑ 例え ば﹁ 夏ご ろも はな のた
もと にぬ ぎか へて 春の かた みも とま らざ りけ り﹂
︵﹃ 千載 集﹄ 夏巻 頭・ 大江 匡房
︶の よう に春 が去 った こと を更 衣に よっ て痛 切に 感じ ると いう 更衣 歌の 本意 を︑ 敢え て裏 返し たと ころ に狙 いが あろ う︒ それ を実 現し た上 の句 の表 現に
︑後 水尾 院の 技術 が看 取さ れる
︒
﹁た たむ
﹂と いう 表現 は︑ 例え ば﹁ 月さ ゆる あか しの せと に風 ふ けば こほ りの うへ にた たむ しら なみ
﹂︵
﹃山 家集
﹄秋
︶﹁ 郭公 なき わ たる なる 浪の 上に こゑ たた みお くし がの うら かぜ
﹂︵
﹃西 行法 師家 集﹄ 雑︶
﹁紅 葉ち るな がら の山 に風 ふけ ばに しき をた たむ しが のう ら波
﹂︵
﹃新 千載 集﹄ 冬・ 藤原 範兼
︶の よう に︑ 波︑ 音︑ 紅葉
︑花 と いっ たも のが 重畳 する 様を 言う 際に 和歌 に用 いら れて きた 詞で ある②
︒ しか し︑ 後水 尾院 の﹁ ちる 花の 雪を たた める 夏衣
﹂は
︑単 に落 花が 夏衣 に散 り重 なる とい うこ とで はな く︑ 久保 田氏 や鈴 木氏 が示 すよ うに
︑落 花を 夏衣 の中 へ﹁ 畳み 込ん だ﹂ とみ るべ きで あろ う︒ では
﹁畳 み込 んだ
﹂と はい かな る状 況を 言う のか
︒ 同様 の﹁ たた む﹂ の例 がか ろう じて 三条 西実 隆の 発句 に見 出せ る︒ 羅
(う すも の)
の雪 をた ため る扇 かな
︵﹃ 再昌 草﹄ 天文 五年 六月③
︶ 扇は 夏の 歌語 で︑ 涼し さを 生み 出す もの とし て詠 まれ る︒ ここ で は雪 のよ うに 白い 羅を 張っ た扇 が︑ 雪の よう な涼 しさ をも たら して くれ るこ とを いう ので あろ う︒ 一見 して
︑﹃ 古文 真宝
﹄前 集巻 二所 収の 班婕 妤﹁ 怨歌 行﹂ の次 の一 節が 思い 出さ れよ う︒ 後水 尾院 歌壇 にお ける 漢文 学の 利用
一九 九
新裂 斉紈 素︑ 皎潔 如㆓
霜雪
㆒︒ 裁為
㆓合 歓扇
㆒︑ 団円 似㆓
明月
㆒︒
︵新 たに 裂く 斉の 紈素
︑皎 潔な るこ と霜 雪の 如し
︒裁 ちて 合歓 の扇 と為 せば
︑団 円な るこ と明 月に 似た り④
︒︶ 光沢 のあ る練 り絹 であ る﹁ 紈素
﹂を 用い て作 られ た﹁ 扇﹂ を
﹁雪
﹂に 見立 てる とい う内 容は
︑ま さに 実隆 の発 句の 詞と 重な る︒ しか し︑ この 発句 には 他の 典拠 が指 摘で きる
︒杜 甫﹁ 端午 日賜 衣
︵端 午の 日に 衣を 賜る
︶﹂ 詩の 次の 一節 であ る⑤
︒ 細葛 含㆑
風軟
︑香 羅畳
㆑雪 軽︒
︵細 葛は 風を 含み て軟 らか なり
︑香 羅は 雪を 畳み て軽 し︒
︶ 端午 の日 に宮 中よ り衣 を賜 った 折に 詠ま れた 詩で あり
︑﹁ 香羅 畳㆑
雪軽
﹂は その 芳し い薄 絹の 衣が 雪を 畳み 込ん で織 りな され たよ うに 白く 軽や かで ある とい うの であ る︒ ここ では
﹁羅
﹂﹁ 雪﹂
﹁畳
﹂の 語 が実 隆の 発句 と重 なる
︒﹁ 雪を たた める
﹂と いう 印象 的な 表現 は︑ この
﹁畳
㆑雪
﹂の 訓読 によ るも のと 見て 良い だろ う︒ この 杜甫 の詩 は﹃ 三体 詩﹄ や﹃ 古文 真宝
﹄に は見 えず
︑杜 甫の 詩 集﹃ 集千 家註 分類 杜工 部詩
﹄に 載る
︒同 集は 宋の 徐居 仁が 諸説 を集 めて 編纂 し︑ 黄鶴 が補 注を 加え て成 った もの で︑ 日本 では 五山 版と して 永和 二年
︵一 三七 六︶ に覆 刻さ れて いる
︒中 世︑ 杜甫 の詩 は五 山僧 を中 心に 流行 し︑ 頻り に講 義が 行わ れ︑ 抄物 も作 成さ れた⑥
︒
﹃実 隆公 記﹄ にも
﹁︵ 永正 六年 四月
︶七 日戊 辰晴
︑月 舟和 尚来 臨︑ 今日
杜詩 可被 講談 之也
︑仍 其子 細申 入御 所︑ 於小 御所 有此 事︑ 講談 殊勝
︑ 舌瀾 誠洗 耳者 也︑ 叡感 無極
︑批 点詩 端三 首被 談之
︑事 了賜 一盞 云々
﹂と あり
︑五 山僧 月げつ 舟しゆう 寿じゆ
桂けい
︵一 四七
〇︱ 一五 三三
︶が 小御 所 に於 いて 杜詩 を講 じ︑ 実隆 もこ れを 聴聞 した こと が記 され てい る︒ 他に も﹃ 実隆 公記
﹄に は杜 甫の 詩集 の貸 し借 りに 関す る記 事が 散見 し︑ 杜詩 流行 の様 子が 知ら れる
︒ さて
︑後 水尾 院の 更衣 歌に 戻る と︑
﹁ち る花 の雪 をた ため る夏 衣﹂ もや はり
﹁香 羅畳
㆑雪 軽﹂ を典 拠と する もの と見 られ る︒ 実隆 の発 句を 参考 にし た可 能性 もあ るが
︑雪 を畳 み込 んだ もの が﹁
︵夏
︶衣
﹂ であ ると いう 点か ら︑ 杜詩 の表 現を 直接 に取 り込 んだ と見 る方 が妥 当で あろ う︒ また
﹁雪
﹂に は薄 い夏 衣の 涼し さに 加え
︑﹁ はる すぎ て夏 きに けら し白 妙の 衣ほ すて ふ天 のか ぐ山
﹂︵
﹃新 古今 集﹄ 夏巻 頭・ 持統 天皇
︶よ り︑ 白い 衣で ある こと も意 図さ れて いよ う⑦
︒惜 春 の本 意と 更衣 の本 意と が重 ねら れた 手の 込ん だ一 首を
︑杜 詩を 利用 して まと め上 げた 点に 後水 尾院 の技 術を 見る こと がで きる
︒ 次の 後水 尾院 の歌 にも 杜詩 の利 用が 見ら れる
︒ 独の み夜 床に みつ の霜 をへ てた れ松 の戸 に衣 擣つ らん
︵﹃ 後水 尾院 御集
﹄五 三三
﹁松 下擣 衣﹂ )
﹁み つの 霜﹂ は諸 書に 指摘 が無 いが
︑杜 甫が 詠ん だ最 後の 詩と さ れる
﹁風 疾舟 中伏 枕書 懐三 十六 韻︑ 奉呈 湖南 親友
﹂︵ 風疾 にて 舟中
後水 尾院 歌壇 にお ける 漢文 学の 利用
二〇
〇
枕に 伏し 懐い を書 す三 十六 韻︑ 湖南 の親 友に 奉呈 す︶ の次 の一 節に 見ら れる
﹁三 霜﹂ が典 拠で あろ う︒ 十暑 岷山 葛︑ 三霜 楚戸 砧︒
︵十 暑岷 山の 葛︑ 三霜 楚戸 の砧
︒︶ 風疾 のた めに 舟中 に臥 しな がら 自ら の人 生を 述懐 する 中で
︑岷 山 のあ る蜀 で葛 衣を 着て 過ご した 十年 間の こと と︑ 楚の 地で 家々 の砧
︵擣 衣︶ の音 を聞 きな がら 過ご した 三年 間の こと につ いて 言及 した 場面 であ る︒ ここ での
﹁三 霜﹂ は三 年の 歳月 をい う︒ 後水 尾院 は杜 詩か ら﹁ 三霜
﹂﹁ 戸﹂
﹁砧
﹂の 語を 取り
︑遠 方の 夫を 思い やり なが ら 三年 もの 年月 を一 人で 暮ら す女 性が 砧で 衣を 擣つ 様を 詠ん だの であ る︒ 鈴木 氏が 指摘 する よう に﹁ みつ
﹂に は﹁
︵霜 が床 に︶ 満つ
﹂が
︑
﹁松
﹂に は﹁
︵誰 を︶ 待つ
﹂が 掛け られ てい るの であ ろう
︒﹁ 霜が 床 に満 つ﹂ とい う文 脈か らは
︑﹁ わす れず はな れし 袖も やこ ほる らん ねぬ よの とこ の霜 のさ むし ろ﹂
︵﹃ 新古 今集
﹄恋 四・ 藤原 定家
︶の よ うに 独り 寝の 女性 の涙 が霜 とな って 床に 満ち てい る様 を読 み取 るこ とも でき る︒
﹁み つの 霜﹂ によ って 恋歌 の情 趣と 杜詩 の世 界を 重ね つつ
︑﹁ 松﹂ と﹁ 待つ
﹂の 掛詞 とい う伝 統的 に和 歌に 用い られ てき た修 辞を も詠 み込 んで
︑複 雑な 一首 を構 成し てい る︒ 次の 後水 尾院 の歌 は﹃ 蒙求
﹄を 典拠 とす るも ので ある
︒ 世は 更に をさ まる 春ぞ 下に ある 司は なる るき ぎす をも みよ
︵﹃ 後水 尾院 御集
﹄一 九〇 ) この 歌は 近衞 信尋 筆﹃ 新一 人三 臣和 歌⑧
﹄に も︑ 寛永 十二 年正 月十 九日 の仙 洞御 会始 に際 して
﹁陽 春布 徳﹂ 題で 詠ま れた 歌案 の一 つと して 載る
︒同 書で はこ の歌 に﹁ 魯恭 ガ故 事也
﹂の 傍記 があ る︒ これ に従 えば この 歌は
﹃蒙 求﹄
﹁魯 恭馴 雉﹂ の故 事に 依る もの で︑
﹁な る るき ぎす
﹂は
﹁馴 るる 雉﹂ であ る︒ 魯恭
︵三 二︱ 一一 二︶ は後 漢の 政治 家で
︑人 民を 思い やる 徳政 を 行っ たこ とで 知ら れる
︒あ る時
︑同 じく 政治 家で あっ た袁 安︵
?︱ 九二
︶が
︑魯 恭の 治め る地 へ使 者を 遣わ すと
︑確 かに その 地で は 人々 が平 安に 暮ら して おり
︑雉 さえ も人 に懐 いて いた
︒そ の様 子を 見て 使者 は︑ 魯恭 の仁 政が 動物 にま で及 んで いる こと を知 る︒ 後水 尾院 の歌 の下 句は まさ にこ の事 を言 い︑ 人に 懐い てい る雉 を見 てこ の国 がよ く治 まっ てい るこ とを 感得 する よう 諸官 人に 呼び 掛け る︒ 先に 取り 上げ た二 首の よう な複 雑さ はな いが
︑そ れは 仙洞 御会 始の 歌と して
︑祝 意を のび やか に詠 い上 げる 歌体 を意 識し たた めで あろ う︒ これ らは 後水 尾院 以外 の歌 に類 例を 見出 しが たく
︑漢 詩文 の本 説 取り によ って 清新 な趣 向が 実現 され たも のと して 評価 でき る︒ 後水
尾院 歌壇 にお ける 漢文 学の 利用
二〇 一
三︑
﹃仙 洞三 十六 番歌 合﹄ にお ける 漢詩 句・ 故事 の利 用 次に
︑後 水尾 院歌 壇を 支え た廷 臣達 の和 歌を 見て みる
︒こ こで は 歌壇 全体 の様 子を 窺う こと が出 来る
﹃仙 洞三 十六 番歌 合﹄
︵以 下︑
﹃仙 洞歌 合﹄
︶を 取り 上げ たい
︒﹃ 仙洞 歌合
﹄は 寛永 十六 年︵ 一六 三 九︶ 十月 五日
︑後 水尾 院の 主催 によ って 行わ れた 歌合 で︑ 参加 者は 後水 尾院 を筆 頭に 水無 瀬氏 成︵ 一五 七一 一︱ 六四 四︶
︑曼 殊院 宮良 恕法 親王
︵一 五七 四︱ 一六 四三
︶︑ 三条 西実 条︵ 一五 七五 一︱ 六四
〇︶
︑中 院通 村︵ 一五 八八 一︱ 六五 三︶ など 当時 の歌 壇に おけ る重 鎮・ 実力 者か ら︑ 飛鳥 井雅 章︵ 一六 一一 一︱ 六七 九︶
︑中 院通 純
︵一 六一 二︱ 一六 五三
︶︑ 八条 宮智 忠親 王︵ 一六 一九 一︱ 六六 二︶ ら 比較 的若 い人 々も 含め
︑計 二十 四名
︒歌 題は
﹁冬 天象
﹂﹁ 冬地 儀﹂
﹁冬 植物
﹂の 三種 で各 十二 番︒ 判者 は実 条が 務め た⑨
︒ まず は院 から の信 頼が 篤か った 通村 が﹁ 冬天 象﹂ 題で 詠ん だ五 番 左の 歌を 見て みよ う︒ 左勝
権大 納言 通村
中院
この ごろ のほ どな きそ らに くる いと の なが きを そへ む日 さへ また れて⑩
この 和歌 につ いて 実条 は次 の判 詞を 残し てい る︒
左は 増一 線の 功の 故事 よく 聞え てこ は〴 〵し くも 侍ら ねば 為勝
︒
﹁増 一線 の功 の故 事﹂ につ いて は︑ 宋代 に祝 穆が 編纂 した 類書
﹃事 文類 聚﹄
﹁冬 至﹂ の項 に次 の記 事が ある
︒ 晋魏 間︑ 宮中 以紅 線量 日影
︒冬 至後
︑日 添長 一線
︿歳 時記
﹀︒ 唐宮 中以 女功 揆日 之長 短︒ 冬至 後︑ 比常 日増 一線 之功
︿雑 録﹀
︒
︵晋 魏の 間︑ 宮中 には 紅線 を以 て日 影を 量る
︒冬 至の 後︑ 日に 長一 線を 添ふ
︿歳 時記
﹀︒ 唐の 宮中 には 女功 を以 て日 の長 短を 揆はか
る︒ 冬至 の後
︑比 する に常 に日 に一 線の 功を 増す
︿雑 録﹀
︒︶ 中国 では 冬至 の日 に宮 中の 女性 が日 の長 さを 赤い 糸で 計り
︑冬 至 以後 に計 ると その 糸の 長さ は日 々一 本︵ 一線
︶ず つ増 えた とい う︒ これ は﹃ 韻府 群玉
﹄巻 十五
・霰 韻の
﹁一 線﹂ の項 や﹃ 集千 家註 分類 杜工 部詩
﹄﹁ 至日 遣興 奉寄 北省 旧閣 老両 院故 人二 首﹂ の注 にも 引か れる
︒通 村は この 故事 を取 り︑
﹁こ の頃 はす ぐに 日が 暮れ てし まう ので
︑一 線分 の糸 を繰 るほ どの 日の 長さ を添 える とい う冬 至の 後の 日々 が待 たれ るよ
﹂と 詠む
︒和 歌の モチ ーフ とし て一 般的 とは 言え ない 故事 だが
︑漢 詩文 を学 ぶ中 で知 識と して 蓄え られ たも のだ ろう⑪
︒ 冬の 短日 を主 題と して 的確 に本 説取 りが なさ れて いる
︒
﹃仙 洞歌 合﹄ 八番 では
︑同 じく
﹁冬 天象
﹂題 で次 の二 首が 番え ら れて いる
︒ 左持
権中 納言 通純
中院
後水 尾院 歌壇 にお ける 漢文 学の 利用
二〇 二
春の 色に 似た るか げと は神 無月 かす みの ほら のひ かり をぞ 見む 右
前中 納言 氏成
水無 瀬
冬の 日も 花な る影 のな ごり なく 空に けた れて 時雨 きに けり 左右 おな じ詩 のこ とば をと り︑ 又こ ゝろ をと れり
︒勝 負の 墨付 がた し︒ 判詞 の﹁ おな じ詩
﹂と は﹃ 和漢 朗集 集﹄ 上・ 初冬 の白 居易 の詩
︑ 十月 江南 天気 好︑ 可憐 冬景 似春 華︒
︵十 月江 南天 気好 し︑ 憐れ むべ し冬 の景 の春 に似 て華うるは しき こと を︒
︶ を指 す︒ 中院 通純 の歌 の﹁ 春の 色に 似た るか げ﹂ 及び 水無 瀬氏 成の 歌の
﹁冬 の日 も花 なる 影﹂ はい ずれ も﹁ 冬景 似春 華﹂ とあ る部 分に 依る
︒通 純︑ 氏成 はと もに
﹁冬 天象
﹂の 題を 前に して この 白詩 の一 節を 本説 とし て用 いる こと を思 いつ いた ので あろ う︒
﹃和 漢朗 詠集
﹄の 漢詩 句は 本説 とし て頻 りに 和歌 に用 いら れて き たも ので あり
︑近 世初 期堂 上で も格 好の 素材 であ った
︒﹃ 仙洞 歌合
﹄ 二十 五番 左︑
﹁冬 植物
﹂題 で詠 まれ た智 忠親 王の 和歌 は︑ 霜を 経て ふり せぬ かげ や千 世も みむ はこ やの 山の 松の とき はに
であ り︑ その 判詞 には
︑ 左哥
︑十 八公 栄霜 後露 とい ふ詩 のこ ゝろ とき こえ
︑下 句か けて 艶に よく つゞ き侍 る︒ とあ る︒ ここ では
﹃和 漢朗 詠集
﹄下
・松
︑源 順の 十八 公栄 霜後 露︑ 一千 年色 雪中 深︒
︵十 八公 の栄 は霜 の後 に露あらは れ︑ 一千 年の 色は 雪の 中に 深し
︒︶ が指 摘さ れて おり
︑智 忠親 王は この 詩句 の意 を用 いて
︑仙 洞︵ 藐は 姑こ 射や の山
︶の 弥栄 を松 の色 に託 して 言祝 ぐ歌 とし た︒
﹃仙 洞歌 合﹄ で は他 にも
﹁冬 植物
﹂題 で飛 鳥井 雅章 が︑ 色そ はむ 雪ぞ また るゝ 霜に さへ 先ひ とし ほの 庭の 松が え
︵三 十五 番左 ) と詠 んで いる
︒霜 によ って 色を 増し た松 に︑
﹁一 千年 色雪 中深
﹂と 言わ れた さら なる 佳色 が添 えら れる のを 待ち 遠し く思 う︑ とい う歌 で︑ やは り順 の詩 を取 って いる こと が分 かる
︒ なお
︑こ の順 の詩 を取 るこ と自 体は 珍し いこ とで はな く︑
﹁霜 の 後に あら はれ やせ ん草 たか き夏 野の 中に まじ る小 松は
﹂︵
﹃通 勝集
﹄ 一〇 六〇
﹁夏 木﹂
︶﹁ はひ かか る蔦 ぞ色 こき 霜の 後松 のみ どり もあ ら はれ ぬと て﹂
︵﹃ 後水 尾院 御集
﹄五 六二
﹁蔦 懸松
﹂︶
﹁お く霜 の後 をば いは じ紅 葉葉 にま づあ らは るる 松の 色か な﹂
︵﹃ 後十 輪院 内府 集﹄ 八 三七
﹁松 間紅 葉﹂
︶な ど当 時の 歌人 によ る例 が見 出せ る⑫
︒そ もそ も 後水 尾院 歌壇 にお ける 漢文 学の 利用
二〇 三
この 典拠 につ いて は︑ 古く
﹁松 の色 は霜 のの ちこ そあ らは るれ かか れる つた のな ども みづ らん
﹂︵
﹃出 観集
﹄五
〇二
﹁松 間蔦 紅﹂
︶と 平 安時 代の 用例 も見 出さ れる もの で︑ やや 使い 古さ れた 典拠 と言 える が︑ 一方 では 先例 が多 い分
︑智 忠親 王と 雅章 とい う若 年の 二人 にも 本説 とし て扱 いや すか った と見 るこ とも でき よう
︒ なお
︑﹃ 仙洞 歌合
﹄一 番左
・後 水尾 院の
﹁冬 天象
﹂題 の歌 につ い ても
︑判 者の 実条 は漢 詩の 趣を 読み 取っ てい る︒ 当該 歌は
︑ これ もま たし ろき をみ れば ふく る夜 の 月さ えわ たる かさ ゝぎ のは し であ った
︒﹁ かさ さぎ のわ たせ る橋 にお くし もの しろ きを みれ ば夜 ぞふ けに ける
﹂︵
﹃新 古今 集﹄ 冬・ 大伴 家持
︶を 本歌 取り した 一首 で ある
︒家 持歌 は︑ 月の 無い 夜に 霜が 天に 満ち た様 を﹁ 白き
﹂と した もの だが⑬
︑後 水尾 院は その 白さ を冬 の月 の光 とし た︒ 月光 と霜 の見 立て に着 想を 得た もの であ ろう
︒判 詞に は︑ 左歌
︑中 納言 家持
︑わ たせ る橋 に︑ とよ める 心こ と葉 をも とゝ する のみ なら ず︑ 月落 烏鳴 霜満 天︑ とい へる 詩の こゝ ろも をの づか らこ もり てや すら かに 聞え 侍り ぬ︒ とあ る︒ 後水 尾院 の歌 につ いて 実条 は︑
﹃三 体詩
﹄巻 一に 載る 張継
﹁楓 橋夜 泊﹂ 詩の 第一 句﹁ 月落 烏鳴 霜満 天﹂
︵月 落ち 烏鳴 いて 霜天 に 満つ
︶の
﹁こ ゝろ もを のづ から こも
﹂っ てい ると する
︒後 水尾 院の
和歌 に実 景と して 詠ま れて いる のは 月光 のみ であ ろう が︑ 本歌 及び 月光 と霜 の見 立て より
﹁霜 満天
﹂の 風情 も感 じら れる とし た上 で︑
﹁や すら かに 聞え 侍り ぬ﹂
︑す なわ ち平 穏で 優美 な歌 体で ある と評 価 して いる
︒そ もそ も﹁ 月落 烏鳴 霜満 天﹂ を家 持歌 の趣 とし て読 み取 るこ とは
︑当 時の 百人 一首 注釈 書で も常 であ り︑ この 実条 の判 詞も それ に倣 った もの では あろ う︒ とは いえ
︑和 歌に 詠み 込ま れた 漢詩 的趣 向を 汲み 取り 評価 対象 とす ると いう 実条 の方 針は ここ に確 認で きる ま ︒ た︑ 実条 は四 番右 の自 らの 歌︑ 冬き ては なを 影さ えて くも りな く うご かぬ ほし の空 にた ゞし き につ いて
︑ 右哥
︑故 事あ るや うな れど
︑余 り理 過て いや しく 聞え 侍る
︒ と判 を付 けて いる
︒歌 は︑ 天子 を不 動の 北極 星に 見立 て︑ それ が冴 え渡 る冬 の空 でい よい よ曇 り無 く輝 く︑ とし て天 子の 徳政 を讃 える もの であ る︒
﹁故 事あ るや うな れど
﹂と する のは
︑自 ら想 定す る故 事が あっ たた めで あろ う︒ 天子 を北 極星 に例 える 中国 古来 の慣 例を 指し てい った もの か︑ ある いは
﹃論 語﹄ 為政 篇﹁ 子曰
︑為 政以 徳︑ 譬如 北辰 居其 所︑ 而衆 星共 之﹂
︵子 曰く
︑政 を為 すに 徳を 以て する は︑ 譬へ ば北 辰の 其の 所に 居て
︑衆 星の 之に 共す るが 如し
︶な どを
後水 尾院 歌壇 にお ける 漢文 学の 利用
二〇 四
想定 する か︒ そう した 趣向 を取 り入 れた 結果
﹁ 理
(こ とわ り)
過て いや しく 聞え
﹂る と評 価し て自 歌を 負と する が︑
﹁故 事﹂ を用 いる こと 自体 はむ しろ 効果 的な 措辞 であ ると 認識 して いた こと は窺 える
︒ 以上 の例 から
︑﹃ 仙洞 歌合
﹄の 参加 者の 間に は︑ 漢詩 句や 故事 を 取り 入れ て一 首を 仕立 てよ うと する 傾向 が少 なか らず あっ たと いう こと が言 える だろ う︒ その よう に考 える と︑ 三条 西実 教述
・正 親町 実豊 記﹃ 和歌 聞書
﹄に 見え る実 教の 次の 言葉 が納 得さ れる
︒ 一︑ 重陽 など の通 題の 時な ど︑ 大ぜ いの 時は
︑何 ぞ古 事歟
︑本 歌な どに てよ まね ば︑ 大ぜ いの 中に ては
︑歌 はつ きり とせ ぬ物 也︒ 古事
︑本 歌な ども なく
︑た ゞの 歌は
︑し やう 〳〵 よく なけ れば
︑大 勢の 中に ては きと せぬ 物也
︒本 歌︑ 古事 等な
(マ マ)
どに てよ むが よく 候︒ 唯の 事に ては
︑何 ぞ新 敷
(あ たら しき
こ)
とを よま では
︑は き とせ ず候
︒ 大勢 の詠 み手 が集 まる 時に は︑ 故事 や本 歌を 用い 趣向 を明 確に 打 ち出 して 一首 を仕 立て なけ れば
︑他 者の 歌に 埋も れて
﹁は つき りと せぬ
﹂歌 にな って しま う︑ とい う︒ 言い 換え れば
︑漢 詩句 や故 事を 取っ て和 歌を 詠む こと は︑ 複数 の歌 の中 で一 首を 際立 たせ るた めに 有効 な手 法で あっ た︒ 実教 のこ の言 葉は 実践 的な 教え とな るも ので あり
︑同 様の こと が他 の人 々に よっ て説 かれ てい たと して も不 自然 では ない
︒詠 作に おけ る漢 籍の 利用 は︑ 他者 との 差別 化が 必要 とさ
れる 場面 でと りわ け効 果的 に働 くも ので あっ たと 見る こと がで きる
︒
﹃仙 洞歌 合﹄ には そう した 後水 尾院 歌壇 の志 向が 認め られ るの であ る︒
四︑ 歌学 書で の言 説
﹃和 歌聞 書﹄ では
︑後 水尾 院の 和歌 につ いて 実教 が次 のよ うに 述 べて いる
︒ 一︑ 仙洞 御製 は詞 のう つり など の能 を詮 と被 遊な り︒ うつ りを 詮に する と︑ 又つ ゞけ いで も読 もあ る事 也︒ 畢境(ママ
文)
字に て書 時 は︑ 反り 点有 故に
︑つ ゞけ いで も不 苦事 也︒ 日本 のこ とは 仮名 本な るゆ へに
︑う つり のつ ゞけ 様の 能が よき 也︒ 御せ いは
︑ たゞ にと 〳〵 する 様の 御歌 也︒ 詩な どの 作意 を歌 に被 取替 など して 被遊 故に
︑御 作意 自由 也︒ 然れ ば詩 など はよ きも の也
︒ 後水 尾院 は﹁ 詞の うつ り﹂ の良 さを 詠歌 の際 に重 視し てお り︑ そ の御 製は
﹁に と〳 〵﹂ する と実 教は 言う
︒﹁ うつ りの つゞ け様 の能よき
﹂ とは 詞続 きの 美し さ︑ 特に 一首 のな だら かな 連続 性を 意味 して いる と見 られ
︑﹁ にと 〳〵
﹂と いう のは 一首 の中 で語 同士 が縁 語関 係や 掛詞 によ って 互い に密 接に 結び つい てい るこ と︑ その ため に歯 切れ が悪 く鈍 重な 様を 実教 が評 した もの であ ろう
︒語 同士 の緊 密な 関係 によ る一 首の 仕立 て方 は︑ 実教 にと って 必ず しも 秀歌 の条 件と はな 後水 尾院 歌壇 にお ける 漢文 学の 利用
二〇 五
らな かっ たよ うだ が︑ そこ へ﹁ 詩な どの 作為 を歌 に被 取替
﹂る こと で︑ 後水 尾院 は﹁ 御作 意自 由﹂ であ ると 評す る︒ 伝統 的な 歌語 のみ では 精彩 を欠 くこ とも あろ うが
︑そ こに 詩の 表現 を取 り込 むこ とで 清新 な趣 向を 実現 でき ると いう のが 実教 の見 解で あろ う︒ 第二 章で 見た よう に︑ 後水 尾院 の漢 詩文 利用 は︑ 伝統 的な 歌語 と して 用い られ てき た詞 が漢 詩文 に見 られ た場 合に
︑そ れを 積極 的に 和歌 に導 入し よう とす るこ とに 院が 意欲 的で あっ たこ とで 実現 され てい るの であ ろう
︒伝 統的 な和 歌の 語彙 から 逸脱 する こと なく
︑新 たな 趣向 を実 現す る方 法と して
︑こ のよ うに 漢詩 文の 世界 を取 り入 れる こと には 十分 な効 果が 期待 でき る︒ 熟練 した 和歌 の技 術と 広範 な漢 詩文 の知 識の 双方 を持 つ院 にと って は効 果的 な作 歌方 法で あり
︑ それ は廷 臣達 にと って も目 指さ れる べき もの であ った
︒ 後水 尾院 の詩 学の 幅の 広さ は次 の逸 話に よっ ても 知ら れる
︒ 一︑ いか 程功 者に ても 漢学 なけ れば 歌は あし き也
︒法 皇に は諸 事御 忘被 成て
︑御 添削 にも 不審 に存 候所 有之 ば再 三申 上よ と被 仰候 へど も︑ 六経 詩文 語録 之類 まで 能御 覚被 遊て 毎度 出る と被 仰て
︵飛 鳥井 雅章 述・ 心月 亭孝 賀記
﹃尊 師聞 書﹄ ) 後水 尾院
︵法 皇︶ は様 々な こと を忘 れて しま って いる と言 い︵ 老 体の ため か︶
︑和 歌を 添削 する 場合 でも
﹁不 審に 思う 所が あれ ば何 度で も言 うよ うに
﹂︑ つま り本 説を 用い て和 歌を 詠ん だこ とに 気付
かな いま ま後 水尾 院が 添削 を加 える こと があ れば すぐ に指 摘す るよ うに
︑と 添削 を行 う相 手に 言っ てい たも のの
︑実 際に は六 経︵ 詩 経・ 書経
・易 経・ 春秋
・礼 記・ 楽経
︶や 種々 の詩 文︑ さら には 儒者 や僧 侶の 言葉 を記 録し た語 録の 類い まで もよ く覚 えて いた とい う︒ これ らは 普段 の学 習に 加え
︑詩 作や 和漢 聯句 とい った 文事 に関 わる こと で身 につ いた もの でも ある のだ ろう
︒ こう した 漢詩 文の 素養 のう ち︑ どこ まで が歌 材と して 許さ れる の か︒
﹃麓 木鈔
﹄に は次 の記 述が ある
︒ 本説゛ とにごる
る也
事︑ 何に ても あれ
︑随 分ち から しだ いに とる 事也
︒と り付 たる
︑と り付 ぬ︑ など 云事 はな し︒ よく とれ ば何 にて もよ し︑ わろ くと れば 何に ても わろ し︒ 漢詩 文は
︑各 々の 力量 次第 でど のよ うな もの でも 本説 に取 って 良 く︑ 歌の 本説 に取 るの に適 不適 は無 いと いう
︒後 水尾 院に はそ れだ けの 力量 が具 わり
︑ま た実 際の 詠作 を通 して 得た 自信 もあ った のだ ろう
︒た だし
﹁よ くと れば 何に ても よし
︑わ ろく とれ ば何 にて もわ ろし
﹂と も言 う︒
﹃麓 木鈔
﹄で は直 後に 次の 記述 が続 く︒
︵引 用文 中 の漢 詩句 の本 文は いず れも ママ
︶ 淵明 が﹁ 菊把
◦東 籬下
悠然 視南 山﹂ とい ふ句 にて
︑ もろ こし の南 の山 ぞお もは るゝ 籬の 菊の 咲し 色か に 言緒
(山 科)
が哥 也︒ かや うな るが こと の外 わろ き也
︒陸 放翁 が﹁ 何時
後水 尾院 歌壇 にお ける 漢文 学の 利用
二〇 六
可化 身千 億 一樹 梅花 一放 翁﹂ にて
︑
︵一 行空 白︶ 後柏 原院 御製 也︒ 是や うな るが よし
︒故 事を 此や うに その まゝ とり たる
︑何 程も あり
︒ 一つ 目の 例に 挙げ られ た山 科言 緒の
﹁も ろこ しの
﹂の 歌は
︑陶 淵明
﹁飲 酒﹂ 其五 の著 名な 句﹁ 采菊 東籬 下 悠然 見南 山﹂
︵菊 を采 る東 籬 の下
︑悠 然と して 南山 を見 る︶ を本 説と して 詠ま れた もの だが
︑
﹁こ との 外わ ろき
﹂例 とさ れて いる
︒一 方︑ その 後に 挙げ られ た陸 放翁
︵陸 游︶
﹁梅 花絶 句﹂ 中の 句﹁ 何方 可化 身千 億 一樹 梅花 一放 翁﹂
︵何 れの 方に か身 を千 億に 化す べけ んや
︑一 樹の 梅花 一放 翁︶ の本 説を 用い たと いう 後柏 原院 の歌 は︑ 後補 を期 した まま 空白 とな って いる よう だが
︑補 うべ き歌 とし て﹃ 柏玉 集﹄ に﹁ 梅﹂ 題で 梅花 おも ふあ まり に身 を分 けて 一樹 ごと にと みし もこ そあ れ
︵一 六一 ) の歌 が見 つか る︒ これ につ いて は﹁ 是や うな るが よし
﹂と あり
︑良 い手 本と して 示さ れて いる
︒ 二首 を比 べて みる と︑ 言緒 の歌 は︑ 籬で 咲い た菊 の色 香を きっ か けに
︑陶 淵明 が詠 んだ その
﹁南 山﹂ に思 いを 馳せ る︑ とす るも ので ある
︒一 方後 柏原 院の 歌は
︑﹁ 梅の 花の 風情 を慕 うあ まり に︑ 我が 身を 分け て木 ごと に一 人ず つ我 が身 を置 きた い﹂ と考 えた 人も いた
ので あっ た⑭
︑と 陸游 の詩 に言 及す る︒ 漢詩 句を 引き 合い に出 して そ れに 共感 する こと で︑ 眼前 の景 色の 風情 を捉 えよ うと する 点は 両歌 に共 通す る︒ 言緒 の歌 が﹁ こと の外 わろ き﹂ とさ れた のは
︑主 題で ある 菊花 の風 情を 歌い 上げ る上 で︑ 漢詩 句を 取っ たこ とが 効果 的に 働い てい ない ため であ ろう か︒ 特に 上の 句﹁ もろ こし の南 の山 ぞお もは るゝ
﹂は こと さら に典 拠の こと を言 おう とす るば かり であ る︒ 眼前 の花 を深 く賞 翫し よう とす る態 度は
︑後 柏原 院の 歌と 比べ て希 薄で あろ う︒ 後柏 原院 の歌 では
︑梅 花を 愛で るこ とで まさ に陸 游と 同じ 思い に行 き着 いた とい うこ とが 詠ま れて いる ので あっ て︑ 詠歌 内容 の主 眼は 梅花 から 逸れ るこ とが ない
︒先 に見 た﹃ 麓木 鈔﹄ では
﹁無 理に とる はわ ろし
︒自 然に 出来 をと る也
﹂と あっ た︒ この 言葉 は︑ 詞の 上で 無理 がな いよ うに する と共 に︑ 本説 を用 いる こと に気 を取 られ て和 歌の 主題 から 逸れ る︑ ある いは 主題 を詠 み落 とす とい った こと を戒 める もの であ ろう
︒言 緒と 後柏 原院 の例 もこ うし た本 説取 りの 要点 を示 そう とし て引 かれ たも のだ った ので はな いだ ろう か⑮
︒ なお
︑当 時の 歌学 書の 記述 には
︑ 一︑ 述懐 年月 はよ そに みて のみ 過し かど きの ふの 木こ そ身 のた ぐひ な れ 後水 尾院 歌壇 にお ける 漢文 学の 利用
二〇 七
是は 荘子 の故 事に てよ みた る歌 也︒
︵﹃ 尊師 聞書
﹄) のよ うに
︑古 歌の 本説 を説 明す るも の⑯
や︑ 其序 に御 法楽 の題 に︑ 行路 春草 きの ふか も雪 に跡 みし 野べ に来 てけ ふ青 きふ む草 もめ づら し 是︑ 踏青 の故 事也
︒
︵中 院通 茂述
・松 井幸 隆記
﹃渓 雲問 答﹄ ) のよ うに
︑当 時詠 まれ た和 歌の 本説 を説 明す るも の⑰
がし ばし ば見 受 けら れる
︒そ もそ も本 説の 典拠 は︑ 時に それ と理 解さ れな い場 合も 少な くな い︒ 一︑ 逍遙 院
(三 条西 実隆
は)
︑古 事な どに てよ まれ たる 歌に は︑ 此古 事に てよ みた ると 云事 を頭 書の ごと くに 書て 被置 たる 也︒ 子孫 を愚 に見 られ たる 故也
︒そ れが 子孫 の重 宝也
︒
︵﹃ 和歌 聞書
﹄) とい うよ うに
︑自 ら典 拠を 示し てお かな けれ ば詠 作意 図が 他者 に理 解さ れな い恐 れも ある
︒日 々の 歌道 教育 の中 で︑ 師か ら弟 子へ 解説 がな され るこ とは
︑単 にそ の和 歌の 意味 や詠 作意 図の 理解 を助 ける のみ なら ず︑ どの よう な本 説を どの よう な方 法で 用い るべ きか とい う実 践上 の指 導に もな る︒ むし ろ︑
﹃詠 歌大 概﹄ など でそ の具 体的 な規 則が 示さ れた 本歌 取り とは 異な り︑ 漢籍 の本 説取 りは 効果 的な 指導 方法 が考 案さ れて おら ず︑ 毎度 具体 的な 歌例 を示 して 教育 の材 料と する のが 常だ った
︒歌 学書 の記 述は
︑そ うし た歌 道教 育の 在り
方を 物語 るも ので もあ る︒ 五︑ 終わ りに 後水 尾院 歌壇 にお いて
︑漢 詩句 や漢 故事 を用 いた 本説 取り は重 要 な詠 作技 術の 一つ とし て認 識さ れて いた
︒一 定の 修練 が必 要に はな るが
︑一 首を 構成 する 際の 柱と して 清新 な趣 向を 打ち 出し
︑複 数人 で和 歌を 詠み 合う 場に おい ても 他者 との 差別 化が 容易 に行 える とい う点 は︑ 彼ら の詠 歌活 動の 中で 効果 的に 働く 場合 があ る︒ 実際 に後 水尾 院を はじ め︑ 廷臣 達に もそ うし た意 識は 浸透 して おり
︑彼 らの 和歌 作品 の中 にも 多く の例 を見 出す こと がで きた
︒ 今後 も更 に多 くの 歌例 を検 討し てい くこ とで
︑歌 壇全 体で 実際 に はど れほ どの 範囲 の漢 籍が 本説 とし て用 いら れて いた のか
︑具 体的 にど のよ うな 方法 で漢 詩句 を和 語化 し︑ 一首 の和 歌へ と取 り込 んで いた のか
︑と いっ たこ とを 明ら かに でき るだ ろう
︒加 えて
︑彼 らが 作成 した 漢詩 や和 漢聯 句な どの 近接 する 文芸 との 関連 を見 るこ とで
︑ より 広く 漢籍 受容 の様 相を 把握 する こと がで きる だろ う︒ 以上 を今 後の 課題 とし たい
︒
※特 記し ない 限り
︑和 歌及 び﹃ 和漢 朗詠 集﹄ の本 文と 歌番 号は
﹃新 編国 歌大 観﹄ によ る︒ また 歌学 書﹃ 和歌 秘決
﹄﹃ 和歌 聞書
﹄﹃ 尊師
後水 尾院 歌壇 にお ける 漢文 学の 利用
二〇 八
聞書
﹄﹃ 渓雲 問答
﹄の 本文 は﹃ 近世 歌学 集成 上﹄
︵明 治書 院︑ 一 九九 七年
︶に よる
︒ 注
① 以下
︑﹃ 麓木 鈔﹄ 本文 は宮 内庁 図書 寮が 一九 四七 年に 刊行 した 複製 に よる
︒
② 小山 順子 氏﹁ 西行 和歌 のこ とば と漢 文訓 読﹂
︵﹃ 国語 と国 文学
﹄九 十五 巻十 一号
︑二
〇一 八年 一一 月︶ に歌 語と して の﹁ たた む﹂ に関 する 考察 があ る︒
③
﹃私 家集 大成 ︵ 上︶ 中世
Ⅴ上
﹄︵ 明治 書院
︑一 九七 六年
︶に よる
︒
④
﹃新 釈漢 文大 系九
古文 真宝
︵前 集︶ 上﹄
︵明 治書 院︑ 一九 六七 年︶ に よる
︒
⑤ 以下
︑杜 詩の 本文
︑解 釈等 につ いて は下 定雅 弘・ 松原 朗編
﹃杜 甫全 詩 訳注
︵一 )︱ (四
︶﹄
︵講 談社
︑二
〇一 六年
︶を 参考 にし た︒
⑥ 杜詩 に関 する 記述 は黒 川洋 一氏
﹃杜 甫の 研究
﹄︵ 創文 社︑ 一九 七七 年︶ 第五 章・ 一﹁ 日本 にお ける 杜詩 享受 の歴 史﹂
︵初 出︑ 岩波 文庫
﹃杜 詩﹄ 第八 冊︑ 一九 六六 年︶ を参 照し た︒ なお
︑﹃ 実隆 公記
﹄の 記事 中に 見え る﹁ 批点 詩﹂ は︑
﹃集 千家 註分 類杜 工部 詩﹄ に宋 の劉 辰翁 が評 言を 加え た﹃ 集千 家註 批点 杜工 部詩 集﹄ であ ろう
︒こ れも 室町 時代 に五 山版 とし て覆 刻さ れて いる
︒
⑦
﹁天 香久 山ノ 春ノ 中ハ
︑霞 ノ衣 ニ掩 ハレ タル モ︑ 春過 テ霞 散ジ テ︑ 夏 来テ 山ノ 明白 ナル ヲ︑ 更衣 ノ白 重ニ ミタ テラ レタ ル心 ナレ バ︑ 春過 テノ 句ニ テ夏 ノ山 ノ明 白ナ ル心
︑一 入聞 ユル 歟﹂
︵陽 明文 庫蔵
﹃百 人一 首抄
﹄
︵﹃ 百人 一首 注釈 書叢 刊六
後水 尾天 皇百 人一 首抄
﹄︵ 和泉 書院
︑一 九九 四年
︶の 翻刻 によ る︶
︒
⑧ 大谷 俊太 氏﹁ 翻刻
近衞 信尋 自筆
﹃新 一人 三臣 和歌
﹄﹂
︵﹃ 国文 論藻
﹄ 一二 号︑ 二〇 一三 年三 月︶ に翻 刻が ある
︒
⑨
﹃仙 洞歌 合﹄ につ いて は高 梨素 子氏
﹁寛 永十 六年 歌合 の一 記録 執
︱
筆の 目的 と和 歌奉 行の 仕事
﹂︵
﹃い わき 明星 大学 人文 学部 研究 紀要
﹄二 七 号︑ 二〇 一四 年三 月︶ の論 考及 び関 連資 料の 翻刻 があ る︒
⑩ 本文 には 国文 学研 究資 料館 蔵寛 永十 八年 板本
︵ナ 二︱ 三七
〇︶ を使 用 した
︒た だし 詠者 名の 振り 仮名 は省 いた
︒
⑪ ただ し﹁ 宮線 を添 ふ﹂ とし て﹃ 増山 の井
﹄等 の季 寄せ に見 える
︒
⑫ 後水 尾院 には 他に も﹃ 後水 尾院 御集
﹄五 四三
︑六 一四
︑九 六七
︑一 二 六三 など の例 があ り︑ いず れも 鈴木 氏が 前掲 注釈 書に おい て典 拠に 順の 詩を 指摘 する
︒後 水尾 院が 好ん で用 いた 典拠 と見 てよ いだ ろう
︒
⑬ 後水 尾院 が百 人一 首の 講義 を行 う際 に作 成し た手 控え には
﹁祇 注云
︵中 略︶ 此歌 ノ心 ハ︑ 冬フ カク ナリ テ︑ 月モ 無雲 モ晴 タル 夜︑ 霜ハ 天ニ 満テ 沍ニ 寒タ ル深 夜ナ トニ 起出 テ︑ 此歌 ヲ思 ハヽ 感情 限ア ルヘ カラ ス﹂
︵⑦ 前掲 書︶ とあ る︒
⑭
﹁も ぞ﹂
﹁も こそ
﹂が 危惧 の念 を含 まず に用 いら れる 例に つい ては 大石 真由 香氏
﹁近 代短 歌に おけ る﹁ もこ そ﹂ 考︵ 三︶ 前
︱
登志 夫﹁ 戀ひ も こそ すれ
﹂の 解釈 をめ ぐっ て
︱
﹂︵
﹃ヤ ママ ユ﹄ 五三 号︑ 二〇 一九 年四 月︶ に言 及が ある
︒
⑮
﹁初 学抄 に︑ 歌を よま んに は先 題を よく 思ひ とき 得べ しと あり
︒詠 歌 一体 にも 題を よく 〳〵 心得 とく べき 事と のせ られ たり
︒又 愚問 賢註 に︑ 歌は 題の 心を 得て よむ べし と云 々︒ これ らを もて 思ふ に︑ 題に むか ひて 歌を よま んに
︑其 題を 我心 に能 心得 ずし ては
︑詠 出す 歌の 道理 もそ むけ 侍る べし
︒然 らば 題を あや まら ざる やう に弁 へ知 たき 事也
﹂︵
﹃渓 雲問 答﹄
︶な どと ある よう に︑ 題の 本意 を詠 み落 とさ ない こと は歌 を成 立さ せる 上で 基本 とな る要 素で あっ た︒ 後水 尾院 歌壇 にお ける 漢文 学の 利用
二〇 九
⑯ 和歌 は﹃ 亀山 殿七 百首
﹄﹁ 寄木 述懐
﹂題
︑作 者は 吉田 隆長
︒﹃ 題林 愚 抄﹄ 巻二 一雑 部︑
﹃類 題和 歌集
﹄巻 二九 雑六 にも 載る
︒﹁ 荘子 の故 事﹂ と は﹃ 荘子
﹄山 木篇
︑﹁ 弟子 問於 荘子 曰︑ 昨日 山中 之木
︑以 不材 得終 其天 年﹂
︵弟 子荘 子に 問ひ て曰 く︑ 昨日 山中 の木 は︑ 不材 を以 て其 の天 年を 終ふ るを 得︶ を指 す︒
⑰ 和歌 は通 茂が 宝永 六年 正月 十四 日仙 洞月 次祇 園社 法楽 和歌 御会 に詠 進 した 自歌
︒﹁ 踏青 の故 事﹂ とは 春に 野山 を逍 遙す るこ とを 意味 する 漢語
﹁踏 青﹂ のこ とを いう
︒
︹付 記︺ 本稿 は︑ 科学 研究 費補 助金
︵基 盤研 究🄑
︑課 題番 号1 7H 02 30 9︑ 研究 代表 者長 谷川 千尋
︶に よる 研究 成果 の一 部で ある
︒
後水 尾院 歌壇 にお ける 漢文 学の 利用
二一
〇