一﹃大東世語﹄﹁賢媛﹂篇 注釈稿︵堀・趙・呂・任・井上・仲川・齋藤︶
︹
凡例︺
一︑本稿は︑服部南郭﹃大東世語﹄﹁賢媛﹂篇の本文と原注に関する
注釈である︒
一︑注釈は︑早稲田大学大学院教育学研究科二〇一二年度科目﹁国文
学演習﹂︵堀 誠担当︶の受講生︵趙倩倩︑呂天雯︑任清梅︑井
上翠︑仲川泰博︑齋藤彰子︶が講読担当話の発表資料に基づいて
原稿化した︒
一︑底本は︑早稲田大学図書館蔵本﹃大東世語﹄︵寛延三年︿一七五〇﹀
刊︶に依り︑また典拠に関しては同館蔵本﹃大東世語考﹄︵方寸
菴漆鍋稿︑寛延四年︿一七五一﹀序︶を参考にした︒
一︑﹁賢媛﹂篇の都合十五話を︑︹賢媛1︺のように順次表記した︒
一︑注釈は本文の︹書き下し文︺・︹訳文︺︑原注の︹書き下し文︺・︹訳
文︺︑および︹語釈︺︑︹典拠︺から構成される︒ 一︑︹書き下し文︺は︑原則として底本の訓点を尊重しつつ︑適宜こ
れを改めた︒
︹
賢媛1 ︺
弘仁中︒齋院公主①有二 才學一 ︒上幸二 齋院一 ︒賞レ 花開レ 宴︒令三 群臣 賦二 春日山莊詩一 ︒公主時年十七︒卽賦曰②︒寂寂幽莊山樹裏︒仙輿 一降一池塘︒棲レ 林孤鳥識二 春澤一 ︒隱レ 㵎寒花見二 日光一 ︒泉聲近報初 雷響︒山色高晴暮雨行︒從レ 此更知二 恩顧渥一 ︒生涯何│以答二 穹蒼一 ︒ 上大歎賞︒授二 三品一 ︒
︹書き下し文︺
弘仁中︑齋院公主 才學有り︒上 齋院に幸し︑花を賞し宴を開く︒
群臣をして春日山莊の詩を賦 よませしむ︒公主 時に年十七なり︒卽ち賦
して曰く︑﹁寂寂たる幽莊 山樹の裏︑仙輿一たび降る一池塘︒林に
棲む孤鳥 春澤を識り︑㵎に隱るる寒花 日光を見る︒泉聲近く報じ 早稲田大学大学院教育学研究科紀要 第二十三号 二○一三年三月
﹃大東世語﹄ ﹁賢媛﹂篇 注釈稿
堀 誠・趙 倩倩・呂 天 雯 ・任 清梅 井上 翠・仲川 泰博・齋藤 彰子
二﹃大東世語﹄﹁賢媛﹂篇 注釈稿︵堀・趙・呂・任・井上・仲川・齋藤︶
て初雷響き︑山色高く晴れて暮雨行く︒此れ從 より更に恩顧の渥 あつきを知
り︑生涯何を以ってか穹蒼に答へん﹂と︒上大ひに歡賞し︑三品を
授く︒
︹訳文︺
弘仁年間︑賀茂神社に奉仕している有智子内親王は才学の持ち主で
あった︒嵯峨天皇は斎院に行幸し︑花を観賞して宴を開いた︒群臣に
春日の山荘の詩を作らせた︒有智子内親王は当時十七歳であり︑たち
まち一首の詩を作りあげた︒
静寂で木が深く茂る山荘に︑天皇が神輿に乗って︑池の堤に御出
ましになった︒この林に棲む一羽の鳥が春の恵みを知って喜び︑谷
に隠れて光を浴びていなかった冬の花も太陽の光を仰ぎみる︒私は
まさにこの孤鳥と寒花のように︑天皇の斎院へのご行幸を喜んでい
る︒泉聲が近くに聞こえ︑初めて春雷が響き︑山の気配が高く晴れ
る中︑夕暮れの雨が降っている︒これより一層天皇のご恩愛がどん
なに厚いものかを知り︑一生何をもって天皇のご恩沢にお答えした
らよいのであろうか︒
嵯峨天皇はこれを聞き︑大いに喜び︑彼女を賞して三品の位を授けた︒
︹原注︺
①弘仁帝第三女︒内親王︒名有智子︒
②各探勒レ 韻︒公主得二 塘光行蒼一 ︒
︹書き下し文︺
①弘仁帝第三女なり︒内親王なり︒名は有智子なり︒ ②各 おのおの探り韻を勒し︑公主 塘︑光︑行︑蒼を得たり︒
︹訳文︺
①︵斎院公主は︶嵯峨天皇の三番目の娘であり︑内親王である︒名
前は有智子である︒
②みんながそれぞれくじを引いて押韻の字を定め︑有智子内親王は
塘︑光︑行︑蒼の韻を引き当てた︒
︹語釈︺
弘仁 平安初期︑嵯峨天皇・淳和天皇の時の年号︒八一〇〜八二四︒
本文の記事は﹃続日本後記﹄によると︑弘仁十四年︵八二三︶
のことである︒
弘仁帝 嵯峨天皇︒七八六〜八四二︒八〇九〜八二三在位︒平安時
代初期の天皇︒桓武天皇と皇后藤原乙牟漏との間に︑延暦
五年︵七八六︶九月に生まれ︑大同元年︵八〇六︶五月同母
兄平城天皇の皇太弟となり︑同四年四月受禅した︒弘仁元年
︵八一〇︶︑上皇の平城遷都を制圧し︑﹁薬子の変﹂が起こった︒
その後︑弘仁・天長・承和の約三十年間︑太平の世が続いた︒
詩文に優れ︑作品は﹃凌雲集﹄以下に見える︒書にもすぐれ︑
空海・橘逸勢とともに三筆と称せられる︒
齋院 賀茂神社に奉仕した未婚の皇女または女王︒また︑その居所︒
ここでは︑斎院公主は有智子内親王のことを指す︒
有智子 有智子内親王のこと︒八〇七〜八四七︒嵯峨天皇の皇女︒母
は交野女王︒初代賀茂斎院として︑天長八年︵八三一︶十二月
三﹃大東世語﹄﹁賢媛﹂篇 注釈稿︵堀・趙・呂・任・井上・仲川・齋藤︶ まで奉仕し︑弘仁十四年︵八二三︶三品︑天長十年二品に叙せ
られた︒退任後は嵯峨西荘に住み︑承和十四年︵八四七︶十月
二十六日没した︒四十一歳︒﹃続日本後記﹄に伝があり︑詩文
全盛の当代に才媛として名が聞こえた︒その作品は﹃経国集﹄
に多数見える︒本文の詩は弘仁十四年二月︑嵯峨天皇が斎院の
花宴に行幸して群臣に詩を作らせた時に詠じたものである︒幸 御幸︑行幸︒
勒韻 韻を分けて詩を作りあうとき︑韻字の次第順序を定め︑その順
のままに一篇の詩を作ること︒
仙輿 天子の乗る車︑乗輿︒ 孤鳥 群れを離れた一羽の鳥︒ここでは︑一人で寂しく斎院に奉仕し
ている有智子内親王自身を指す︒
春澤 春の恩 めぐみ沢︒嵯峨天皇の臨幸をいう︒
寒花 冬の花︒ここでは︑﹁孤鳥﹂と同じく斎院に奉仕している有智
子内親王を指す︒渥 あつい︒手厚いさま︒
穹蒼 おおぞら︒形は弓形で︑色は青いからいう︒ここでは︑嵯峨天
皇の恩沢に喩えている︒
︹典拠︺
﹃続日本後紀﹄巻十七承和十四年十月戊午の条 ﹁二品有智子内親王薨
ず﹂︒︵任 清梅︶
︹
賢媛2 ︺
紀夏井︒貞觀中爲二 肥州一 ︒母石川氏︒聞而哭レ 之曰︒吾子其不レ 終乎︒ 吾聞肥俗貪汚︒恐吾子以レ 淸治レ 之①︒後果連│二 坐異母弟豐城事一 ︒謫二配土州一 ︒
︹書き下し文︺
紀夏井︑貞觀中 肥州と爲る︒母 石川氏︑聞きて之を哭して曰く︑
﹁吾が子其れ終はらざらんか︒吾聞くならく肥の俗 貪 たんお汚なりと︒恐
るらくは吾が子 淸を以て之を治めんことを﹂と︒後果して異母弟 豐城が事に連坐して︑土州に謫配す︒
︹訳文︺
紀夏井は︑貞観年間に肥後守となった︒母の石川氏は︑これを聞く
と哭 ないて言うことには︑﹁我が子はその身を全うできるだろうか︒私
が聞くところによると︑肥後は欲深く賄賂を貪る土地柄であるそうで
す︒我が子が清廉の心を以て政治を行うことが心配でなりません﹂と︒
その後案の定︑異母弟の豊城の事件に連座して︑土佐に配流された︒
︹原注︺
①夏井爲二 讚州一 ︒政化大行︒吏民親愛︒任滿將レ 去︒百姓相率詣レ 闕︒ 願乞二 更留二年一 ︒年糓歳豐︒至下 于爲造二 四十餘倉一 蓄上レ 之︒及レ去︒吏民送者充塞︒贈物甚多︒夏井唯留二 紙筆一 ︒餘一無レ 所レ 受︒
︹書き下し文︺
①夏井 讚州爲 たりしとき︑政化大いに行はれ︑吏民親愛す︒任滿ち
四﹃大東世語﹄﹁賢媛﹂篇 注釈稿︵堀・趙・呂・任・井上・仲川・齋藤︶
將に去らんとす︒百姓相ひ率ゐて闕に詣り︑願ひて更に留まるこ
と二年ならんことを乞ふ︒年糓歳豐たり︒爲に四十餘倉を造りて
之を蓄ふるに至る︒去るに及び︑吏民の送る者充ち塞ぐ︒贈物甚
だ多し︒夏井唯だ紙筆を留むるのみ︒餘 一として受くる所無し︒
︹訳文︺
①夏井は讃岐守であった時︑政治改革を盛んに行い︑官人や民衆は
彼を親愛した︒任期を終え去ろうとした際︑民はともに連れ立っ
て官庁の門に至り︑更に二年留まることを懇望した︒その年の穀
物は豊作であった︒そのために四十余りの蔵を建てて穀物を蓄え
た︒任地を去る際︑官人や民の見送りの者が満ち溢れ道を塞いだ︒
贈り物が大変多かった︒夏井はただ紙と筆だけを受け取って︑他
の物は一つとして受けとらなかった︒
︹語釈︺
紀夏井 平安時代前期の官吏︒生没年未詳︒紀善岑の三男︒文徳天皇
の信任を得て天安元年︵八五七︶には従五位上右中弁へと昇進︑
播磨介・式部少輔を兼任した︒天安二年︵八五八︶に天皇が崩
御すると︑讃岐守に転出︒善政をしいた︒貞観七年︵八六五︶
肥後守に任じられるも︑翌年の応天門の変に連座して土佐に流
される︒隷書を得意とし︑小野篁に書を学んだ︒医薬や囲碁に
もよく通じていた︒六尺三寸の長身で︑穏和な性格であったと
いう︒
貞觀 平安前期︑清和天皇・陽成天皇のときの年号︒八五九年四月 十五日から八七七年四月十六日︒
肥州 肥後国︒ 貪汚 欲深く︑性行がきたないこと︒また︑官公吏などが賄賂をむさ
ぼり︑汚職すること︒
讚州 讃岐国︒ 大行 大いに行われる︒立派な行為︒大きな事業︒闕 宮殿の門︒門の両脇に台を築き︑上部に楼観を設け︑その中央
はくりぬかれ通路になっている︒ここでは官庁の門の意でとっ
た︒
年糓 穀物︒年は穀物のみのり︒ 歳豐 その年の穀物が豊かにみのること︒ 豐城 紀豊 とよ城 き︒平安時代前期の人︒夏井の異母弟︒伴善男の従者︒﹃日
本三代實錄﹄によれば兄の夏井は弟の放誕さを嫌ってしばし
ば督責を加え︑豊城はそれを苦にしていたという︒貞観八年
︵八六六︶応天門の炎上をめぐる政変で︑伴善男が放火犯とさ
れたとき︑共謀者として安房に配流された︒この事件で︑伴
氏・紀氏の一族は連座して流罪となり勢力を失い︑藤原氏摂関
政治の基礎が確立された︒
土州 土佐国︒
︹典拠︺
﹃日本三代實錄﹄巻十三 清和天皇︵貞観八年九月廿二日︶︒
︵齋藤 彰子︶
五﹃大東世語﹄﹁賢媛﹂篇 注釈稿︵堀・趙・呂・任・井上・仲川・齋藤︶
︹
賢媛3 ︺
四條藤公①︒將レ 辭二 亞相一 ②︒初倩二 齊名以言諸文學一 爲レ 表︒都不レ中レ 意︒乃乞二 江匡衡一 ︒江諾而歸︒頗有二 憂難之色一 ︒婦赤染怪問レ 之︒ 江具語二 其難レ 得意一 ︒婦曰︒此公故多二 矯飾一 ︒諸文學或當レ 不レ 及二 門 地之言一 ︒故不レ 愜爾︒江欣然從二 其言一 具レ 草︒公乃披二 首端一 ︒輙言︒ 臣五世相國之適子爾︒自二 曩祖忠仁公一 以來云云︒公喜用二 其表一 ︒
︹書き下し文︺
四條藤公︑將に亞相を辭せんとす︒初め 齊名・以言の諸文學を倩 やとひ て表を爲 つくらしむ︒都 すべて意に中 あたらず︒乃ち江匡衡に乞ふ︒江諾して歸る︒
頗る憂難の色有り︒婦の赤染怪しみて之を問ふ︒江具に其の得難きの
意を語る︒婦曰く︑﹁此の公故より矯飾多し︒諸文學或ひは當に門地
の言に及ばざるべし︒故に愜 かなはざるのみ﹂と︒江欣然としてその言に 從ひて草を具す︒公乃ち首端を披 ひらけば︑輙ち言ふ︑﹁臣 五世相國の
適子のみ︒曩祖忠仁公自り以來云々﹂と︒公喜びて其の表を用ふ︒
︹訳文︺
四条大納言の藤原公任は大納言を辞職しようとした︒最初︑紀斉名・
大江以言といった文章の名手たちに上表文を執筆してもらったが︑す
べて意に染まなかった︒そこで︑大江匡衡に依頼した︒匡衡は承諾
して家に帰ったが︑非常に困ったようすであった︒妻の赤染衛門が見
咎めて尋ねると︑匡衡が仔細にその困惑を語った︒すると赤染衛門が
﹁公任公はもとより尊大な方であります︒文章の名手たちはおそらく その家柄には言及していないのでしょう︒それゆえに公は満足に至ら
なかったのです﹂と言った︒匡衡は喜んで妻の意見に従って草稿を書
いた︒公が辞表の冒頭を開きみると︑﹁臣は五代にわたる太政大臣の
嫡子である︒先祖の忠仁公から﹂と書かれていた︒公任公はたいへん
ご満悦でその表を使った︒
︹原注︺
①大納言公任︒
②寛弘時︒公頗不相得︒
︹書き下し文︺ ①大納言公任なり︒
②寛弘の時︑公頗る相得ず︒
︹訳文︺
①大納言の藤原公任である︒
②寛弘の時︑藤原公任は自分の官職に得心していなかった︒
︹語釈︺
四條藤公 藤原公任︒九六六〜一〇四一︒平安中期の歌人・歌学者︒
関白太政大臣頼忠の子︒正二位権大納言の地位にまでしかつけ
ず︑官位の不遇に満足していなかった︒万寿三年︵一〇二六︶
出家し︑北山の長谷に住んだ︒作文・和歌・管弦の才を兼ね備
え︑有職故実に造詣が深く︑書も巧みであった︒﹃和漢朗詠集﹄︑
﹃拾遺集﹄︑﹃三十六人撰﹄などを撰集︒歌論集﹃新選髄脳﹄︑﹃和
歌九品﹄︑家集﹃公任集﹄︑有職故実集﹃北山抄﹄など︒通称︑
六﹃大東世語﹄﹁賢媛﹂篇 注釈稿︵堀・趙・呂・任・井上・仲川・齋藤︶
四条大納言︒
亞相 丞相に亜ぐ意︒大納言の唐名︒ 寛弘 平安中期︑一条天皇・三条天皇の時の年号︒一〇〇四〜一〇一二︒ 相得 物事が皆宜しきにかなうこと︒
齊名 紀斉名︒九五七〜九九九︒平安時代中期の漢学者︒永延年間
︵九八七〜九八九︶に対策に及第︒正暦五年︵九九四︶正月に
大江成基の申文を書き︑長徳年間︵九九五〜九九九︶に従五位
上に至った︒長徳二年の大赦の詔︑同年の宋への返牒︑四年
の大臣辞表に対する勅答を書く︒特に同三年の省試の詩判をめ
ぐっての大江匡衡との論争は名高い︒﹃扶桑集﹄の選者である︒
以言 大江以言︒九五五〜一〇一〇︒平安時代中期の貴族・学者︒漢
学を藤原篤茂に学んだ︒文章博士を勤め︑従四位下式部権大輔
に至った︒漢詩文に優れ︑﹃和漢朗詠集﹄﹃本朝文粋﹄﹃本朝麗藻﹄
などに収められたほか︑和歌も﹃詞花集﹄に入集︒同時代の大
江匡衡と再従兄弟にあたり︑並び称される︒
文學 王朝時代︑朝廷より侍講として有品親王家に賜った官人の職︒
ここでは︑当時における才学の秀抜な人物を指す︒
江匡衡 大江匡衡︒九五二〜一〇一二︒平安時代中期の儒者︒維時の
孫で︑幼時から祖父の教育を受け︑その才能は天下第一と称さ
れた︒文章博士となり︑一条天皇の侍読として仕えた︒公私の
詩宴に列し︑序者・題者となり︑藤原道長・行成・公任らのた
め文章を代作︑名儒比肩するものなしといわれた︒歌集に﹃大 江匡衡朝臣集﹄︑詩集に﹃江吏部集﹄など︒
赤染 赤染衛門︒九六〇頃〜一〇四〇頃︒平安時代中期の女流歌人︒
道長の妻倫子と上東門院彰子に仕え︑のち匡衡と結婚︑おし
どり夫婦として知られる︒平安中期に活躍した女流歌人として
は︑和泉式部と並び称され︑和泉式部が情熱的な歌風なのに対
して︑赤染衛門は穏やかで典雅な歌風と評された︒藤原公任の
上表文に苦渋する匡衡に助言したなど︑その才知を伝える逸話
も多い︒﹃拾遺集﹄以下の勅撰集に七十首あまり入集︑家集に
﹃赤染衛門集﹄︒
矯飾 飾りおごる︒いつわりかざる︒ 相國 太政大臣の唐名︒ 適子 長男︒嫡子︒ 曩祖 祖先︒ 忠仁公 藤原良房︒八〇四〜八七二︒平安時代前期の廷臣︒蔵人・蔵
人頭・参議・中納言・右大臣などを経て太政大臣︑従一位に
至った︒これは皇子以外では初めての太政大臣である︒清和天
皇が即位すると︑外祖父として摂政の地位につき︑政務を総攬
した︒これが﹁人臣︵皇族外の者︶摂政﹂の初めである︒没後
正一位を贈られ︑忠仁公と諡された︒
︹典拠︺
﹃十訓抄﹄第七―九話︒
︵趙 倩倩︶
七﹃大東世語﹄﹁賢媛﹂篇 注釈稿︵堀・趙・呂・任・井上・仲川・齋藤︶
︹
賢媛4 ︺
永延帝︒雪後早坐二 宮中一 ︒顧乃云︒不レ 知香爐峯雪奈│何耳︒宮人淸 氏①默起︒前褰二 御簾一 ︒帝賞二 其慧而有一レ 學︒②
︹書き下し文︺
永延帝︑雪後の早 あしたに宮中に坐す︒顧みて乃ち云へらく︑﹁知らず香爐 峯の雪奈 いかん何のみ﹂と︒宮人淸氏默して起つ︒前 すすみて御簾を褰 かかぐ︒帝其
の慧にして學有るを賞す︒
︹訳文︺
永延帝︵一条天皇︶は雪が降った後の早朝︑宮中にお出ましになった︒
顧みて﹁香爐峯の雪はどのようか﹂と仰せられた︒すると︑女官の清
氏は無言のまま起ち上がり︑前に進み出て御簾をかかげた︒帝はその
利発で学識豊かなことを褒めそやした︒
︹原注︺
①淸原元輔女︒少納言︒
②白居易詩香爐峯雪撥簾看︒
︹書き下し文︺
①淸原元輔の女にして︑少納言なり︒
②白居易の詩の﹁香爐峯の雪は簾を撥 かかげて看る﹂なり︒
︹訳文︺
①清原元輔の娘で︑少納言であった︒
②白居易の詩の﹁香爐峯の雪は簾を撥げて看る﹂という句による︒ ︹語釈︺
永延帝 一条天皇のことである︒永延年間は九八七〜九八九年の期間
である︒
香爐峯雪 香爐峯は中国江西省九江の南西にある廬山の北の峰で︑峰
より雲気が立ち上がるさまが香炉に似ているからそう呼ばれ
た︒白居易は﹁香爐峯下︑新たに山居を卜し︑草堂初めて成
り︑偶 たまたま東壁に題す五首﹂のうち︑第四首に﹁遺愛寺の鐘は 枕を欹 そばだてて聴き︑香爐峯の雪は簾を撥げて看る﹂と対句で詠ん
でいた︒
宮人 律令制において宮中に奉仕する女性職員のこと︒女官︒ 淸氏 清少納言︒平安時代の女流歌人︒和漢の学に通じた才女として
名を馳せ︑﹃枕草子﹄を著す︒生没年ならびに本名未詳︒父清
原元輔︑曾祖父清原深養父も著名な歌人︒一条天皇中宮定子に
仕え︑﹁清少納言﹂と呼ばれた︒﹁清﹂は清原姓に︑﹁少納言﹂
は親族の役職名に由来するとされているが︑清少納言の親族で
少納言の官職に就いた人は明らかではない︒
淸原元輔 九〇八〜九九〇︒平安時代の歌人・官人︒三十六歌仙の一
人︒梨壺の五人の一人として︑﹃万葉集﹄の訓読や﹃後撰和歌集﹄
の編纂に当たった︒褰 かかげる︑ひらく︒
︹典拠︺
﹃枕草子﹄第二百八十段︒
八﹃大東世語﹄﹁賢媛﹂篇 注釈稿︵堀・趙・呂・任・井上・仲川・齋藤︶
︹備考︺
典拠では中宮定子と清少納言との間の話であるが︑本文では一条天皇
と清少納言というように人物を設定した︒それは﹁賢媛﹂シリーズの
男女ともに出ている系統を受け継いでいるのかあるいは一条天皇はそ
の場に居合わせたのか疑問に思われる︒
︵呂 天雯︶
︹
賢媛5 ︺
永延舊宮人淸氏︒老後零落︒貧二 居壞宅一 ︒諸貴遊倶載過二 其戸一 ︒相 謂曰︒衰哉淸氏︒非二 復往日一 ︒淸聞乃褰レ 幃曰︒駿馬之骨︒古人尚 買レ 之︒
︹書き下し文︺
永延の舊宮人 淸氏︑老後零落して︑壊宅に貧居す︒諸貴遊俱に載り
て其の戸を過ぐ︒相ひ謂ひて曰く︑﹁衰へたるかな淸氏︑復た往日に
非ず﹂と︒淸聞きて乃ち幃 とばりを褰 かかげて曰く︑﹁駿馬の骨︑古人尚ほ之を買
ふ﹂と︒
︹訳文︺
一条天皇の御代に女官であった清氏は︑晩年に没落し︑あばら屋に貧
しく暮らしていた︒貴族たちが同車してその家の前を通り過ぎなが
ら︑互いに言うことには︑﹁衰えたものだな清氏は︒かつての日々と
は全く違う﹂と︒清氏はそれを聞くと幃を掻き揚げて言った︒﹁駿馬
の骨さえ︑古人はこれを買う﹂と︒ ︹語釈︺
永延 第六十六代一条天皇︒在位期間に使われた年号の一つ︵九八七
〜九八九︶︒ここでは一条天皇の御世のこと︒
淸氏 清少納言︒生没年未詳︒本名未詳︒平安中期の女流文学者︒清
は清原の略称で︑少納言は宮仕えの地位を示す︒学者の家系に
生まれ︑父の指導で幼時より学問に優れる︒一条天皇の皇后藤
原定子のもとに出仕し︑この頃に﹃枕草子﹄を書いたとされる︒
貴遊 上流︒上流社会︒貴い家柄︒貴游に同じ︒ 往日 過ぎ去った日︒ 駿馬之骨︒古人尚買之︒ ﹁死馬﹂の語をもって郭隗が昭王に進言し
た﹁先づ隗より始めよ﹂の故事︵﹃戦国策﹄﹁燕策﹂︶による︒
郭隗が燕の昭王に﹁どうすれば賢者を招くことができるか﹂と
問われた時︑駿馬の骨を高値で買うことで生きた駿馬を集めた
話︑﹁死馬すら且つ五百金に之を買ふ︑況んや生馬をや﹂に喩
えて︑賢者を招くには︑自分のような取り柄のない人物を厚く
用いるべきである︑と答えた︒本文ではこの故事を引用し︑清
少納言が自らを駿馬の骨に喩えて︑自身にはまだ価値があると
いうため貴族たちに言い返したものである︒
︹典拠︺
﹃古事談﹄第百五十五話︒
︹備考︺
典拠の﹃古事談﹄では﹁鬼の如くなる形の女法師﹂とあるが︑賢媛篇
九﹃大東世語﹄﹁賢媛﹂篇 注釈稿︵堀・趙・呂・任・井上・仲川・齋藤︶ なので才女としての面を強調している︒
︵仲川 泰博︶
︹
賢媛6 ︺
上東后︒少入爲二 永延帝妃一 ︒帝一日 吹レ 笛︒宮商甚調︒宮侍仰感 注レ 目︒而后在レ 側獨不レ 顧︒帝曰︒屬二 此會│通一 ︒何以不レ 看︒后曰︒ 聞レ 聽レ 笛︒未レ 聞レ 視レ 笛︒帝笑服二 其理一 ︒
︹書き下し文︺
上東后︑少 わかくして入りて永延帝の妃と爲 なる︒帝一日 笛を吹く︒宮商 甚だ調 ととのふ︒宮侍仰ぎ感じて目を注ぐ︒而 しかして后 側に在りて獨 ひとり顧み ず︒帝曰く︑﹁此の會通に屬 およぶ︑何を以てか看ざる﹂と︒后曰く︑﹁笛 を聽くことを聞き︑未 いまだ笛を視ることを聞かず﹂と︒帝笑ひて其の理
に服す︒
︹訳文︺
上東門院は︑若くして入内し︑一条天皇の皇妃になった︒ある日一条
天皇が︑笛を吹き︑音調がきれいに調和していた︒宮中に奉仕してい
る人たちはその吹きぶりを仰ぎみて感じいり目を見張った︒しかし︑
皇后は帝の側にいて︑一人だけ顧みなかった︒そこで︑天皇が聞くこ
とには︑﹁笛が会心絶妙なのに︑なぜご覧くださらないのか﹂と︒す
ると︑皇后が﹁笛は耳で聴くものだと聞いておりますが︑目で注視す
るものだとは聞いておりません﹂と︒天皇は笑って︑その言葉の道理
に感服した︒ ︹語釈︺
上東后 上東門院︒九八八〜一〇七四︒一条天皇の中宮︑藤原彰子の
ことである︒長保元年︵九九九︶一条天皇の女御となり︑翌年
に中宮となった︒三十九歳で出家し︑法名は清浄覚︒院号宣旨
を賜り︑上東門院とす︒
永延帝 前出︒一条天皇︒九八〇〜一〇一一︒天皇は初め道隆の娘定
子を皇后としたが︑長保二年︵一〇〇〇︶︑道長の娘彰子を中
宮に立てた︒天皇は︑公正温雅で才学に富み︑特に笛に巧みで︑
群臣の信頼を集めた︒
宮商 五音︵宮商角徴羽︶中の基本となる宮商の二音︒転じて︑音楽 の調子︑音楽︑韻律︒調 ととのう︒そろう︒﹃漢書﹄﹁董仲舒伝﹂には︑﹁琴瑟不レ 調﹂の
用例がある︒屬 およぶ︒いたる︒
會通 凝滞しないこと︒ここでは︑笛の韻律の流れがとどこおらず︑
とても良いことを指す︒
︹典拠︺
﹃栄華物語﹄巻六﹁一条帝︑彰子を寵愛する﹂︒
︵任 清梅︶
︹
賢媛7 ︺
高内侍①才調︒耽│二 好詞翰一 ︒恆言︑研殘餘墨︒四五寸許︒剪棄片紙︒
一〇﹃大東世語﹄﹁賢媛﹂篇 注釈稿︵堀・趙・呂・任・井上・仲川・齋藤︶
已退禿筆︒三錢方兄︒併二 書册一 ︒吾所二 愛惜一 ︒唯此五物︒不二 啻龍宮 珍寶一 ︒
︹書き下し文︺
高内侍 才調ありて︑詞翰を耽好す︒恆に言ふ︑研り殘りし餘墨︑
四五寸許の剪り棄てし片紙︑已に退 へりし禿 とく筆 ひつ︑三錢の方 ほう兄 ひん︑書册を併 て︑吾が愛惜する所︑唯だ此の五物のみ︒啻 ただ龍宮の珍寶のみならずと︒
︹訳文︺
高内侍は才智があり︑詩文を好んだ︒日頃から言うことには︑﹁研り
残った余りの墨︑四五寸ばかりの切り捨てた紙片︑すでに先のすり切
れた筆︑三銭のお金︑並びに書籍︑私がいとおしむのはただこの五つ
の物のみである︒龍宮の珍宝ばかりとは限らない﹂と︒
︹原注︺
①儀同藤伊周母︒高階成忠女︒
︹書き下し文︺
①儀同藤伊周の母なり︒高階成忠の女なり︒
︹訳文︺
①儀同三司藤原伊周の母である︒高階成忠の娘である︒
︹語釈︺
高内侍 高階貴子︒?〜九九六︒平安時代中期の歌人︒式部大輔従二
位高階成忠の娘︒円融天皇の代に内侍とされ︑高内侍と呼ばれ
た︒﹃栄花物語﹄巻三に︑女性で漢字をよく書いたので内侍に
されたと語る︒中関白藤原道隆の室となり︑伊周・隆家・定子 らの母︒正三位に叙された︒﹃大鏡﹄道隆伝にその漢詩の才を
語る︒和歌は﹃拾遺和歌集﹄以下に六首入集︒
儀同藤伊周 藤原伊周︒九七四〜一〇一〇︒平安時代中期の公卿︒帥
内大臣・儀同三司と称す︒父は藤原道隆︑母は高階成忠の女
貴子︒道隆の死後︑権勢を叔父道兼・道長と争い︑敗れて大宰
権帥に左遷される︒のち許され︑一〇〇八年大臣に准ぜられ︑
一〇〇九年正月に正二位となる︒歌集に﹃儀同三司集﹄がある︒
高階成忠 九二三〜九九八︒平安時代中期の公卿︒高二位と称す︒父
は宮内卿高階良臣︒九四八年に文章生となり︑課試に及第して
大内記・大学頭・東宮学士を歴任し︑九八六年に従三位︑翌年
に式部大輔となる︒九九一年には中宮定子の外祖父によって従
二位に叙せられた︒
才調 才智の調子︑才智の程度︒ 詞翰 詩文︑詩章︒ 剪棄 きりすてる︒ 禿筆 ちびふで︑先のすり切れた筆︒ 方兄 孔方兄の略︒銭の異称︒﹁孔方﹂は方形の穴︑﹁兄﹂は親しみを
表す︒
書册 書籍︒書巻︒啻 ただ︒打消しや反語を表す辞を伴って︑それだけでなくさらに
多いという意味を表す︒
一一﹃大東世語﹄﹁賢媛﹂篇 注釈稿︵堀・趙・呂・任・井上・仲川・齋藤︶ ︹典拠︺
﹃本朝蒙求﹄巻之中六十二﹁高子宝器﹂︒
︵井上 翠︶
︹
賢媛8 ︺
宮内喪︒朝士倶造二 高陽公主居一 ︒簾内靜寂︒不レ 聞二 哭聲一 ︒亞相藤隆 季①歎曰︒可レ 謂二 幽閑一 矣︒哀樂之事︒何必於二 外發一 太甚︒此宮居恆 内則整肅︒至下 於扇面有二 男女竝坐一 者︒公主命棄上レ 之︒
︹書き下し文︺
宮内の喪に︑朝士倶に高陽公主の居に造 いたる︒簾内靜寂にして︑哭聲を 聞かず︒亞相 藤隆季歎じて曰く︑﹁幽閑と謂ふべし﹂と︒哀樂の事︑ 何ぞ必しも外發において太 はな甚 はだならん︒此の宮居 つね恆に内則整肅たり︑扇
面に男女竝び坐する有らば︑公主命じて之を棄てしむるに至る︒
︹訳文︺
宮中の葬儀に際して︑殿上人たちが高陽院の居 す所 まいを訪ねてきた︒御簾
の中はとても静かで︑人の泣き声など聞こえなかった︒大納言の藤原
隆季は感歎して︑﹁奥ゆかしいかぎりです﹂と言った︒悲しい事や楽
しい事は︑必ずしもひどく外面にあらわす必要はありません﹂といっ
た︒高陽院の居所は平素より内の規則を厳粛にしており︑男女が並ん
で座ることを描いた扇面があれば︑捨てさせるほどだった︒
︹原注︺
①中納言家成之子︒官大納言︒ ︹書き下し文︺
①中納言 家成の子なり︒官は大納言なり︒
︹訳文︺
①中納言藤原家成の子であり︑官は大納言である︒
︹語釈︺喪 死者をほうむる儀式︒とむらい︒本文では︑鳥羽天皇の皇女叡
子内親王︵一一三五〜一一四八︶の葬儀を指す︒叡子内親王は
美福門院得子の娘であるが︑高陽院の養女でもある︒
高陽公主 一〇九五〜一一五五︒鳥羽天皇の皇后︒関白藤原忠実の娘︒ 名は勲 やす子 こ︑のち康子と改めた︒鳥羽天皇が元服ののち︑いった
ん入内が内定したが忠実は固辞した︒白河天皇が没し︑鳥羽天
皇の院政となって︑長承三年︵一一三四︶に皇后となった︒上
皇の立皇后は未曾有のことである︒のち美福門院︵藤原得子︶
のためにその寵は衰え︑保延五年︵一一三九︶院号宣下によっ
て高陽院と号し︑同七年五月五日落飾して法名を清浄理と称し
た︒温厚な性格で知られた︒
藤隆季 藤原隆季︒一一二七〜一一八五︒中納言家成の子︒長承二年
︵一一三三︶蔵人従五位下︑その後︑武官︑従三位︑正三位︑
権大納言などを経て︑治承三年︵一一七九︶大宰権帥となった
が︑寿永元年︵一一八二︶病のため出家した︒和歌にも秀で︑
﹃詞花和歌集﹄以下の勅撰和歌集に十一首入集︒
家成 藤原家成︒一一〇七〜一一五四︒保安三年︵一一二二︶従五
一二﹃大東世語﹄﹁賢媛﹂篇 注釈稿︵堀・趙・呂・任・井上・仲川・齋藤︶
位下に叙され︑左京大夫︑右兵衛督などを経て︑久安五年
︵一一四九︶正二位で中納言︒鳥羽院の寵臣として権勢を振っ
た︒和歌にすぐれ﹃詞花和歌集﹄﹃続拾遺和歌集﹄に三首をの
こす︒
幽閑 静かで奥ゆかしい︒ 哀樂 かなしむことたのしむこと︒又︑その情︒ 居恆 平生︒つねづね︒居常︒ 内則 閨門内の規制︒家内で定めたおきて︒ 整肅 ととのっておごそか︒
︹典拠︺
﹃十訓抄﹄第八―三話︒
︵趙 倩倩︶
︹
賢媛9 ︺
白河帝︒每二 佳日一 ︒率意遊幸︒一朝積雪甚有レ 觀︒帝起臨レ 階徘徊︒ 有二 一幹郎一 ︒已設二 輕行之供一 ︒帝乃獨從二 一期門一 北出︒未レ 命二 幸處一 ︒ 期門亦有二 智諝一 ︒料二 其賞レ 雪︒正必北山一 ︒時太后①居二 北山小野宮一 ︒ 境地僻幽︒期門乃馳レ 人告レ 幸︒令レ 備二 貯儲一 ︒帝果趣二 小野一 ︒在レ 外 車上賞レ 雪︒太后亦使二 女侍︒就レ 車進一レ 酒︒遽設無レ 闕︒帝已歡還︒時 太后簾内︒不レ 令二 一展設一 ︒既而左右幸二 上不一レ 入︒太后曰︒觀レ 雪
須レ 外︒吾固知二 帝不一レ 入︒ ︹書き下し文︺
白河帝︑佳日每に︑率意に遊幸す︒一朝 積雪甚だ觀る有り︒帝起ち
て階に臨みて徘徊す︒一幹郎有り︒已に輕行の供を設く︒帝乃ち獨り
一期門のみを從へて北出す︒未だ幸處を命ぜず︒期門も亦た智諝有り︒
其の雪を賞する︑正に必ず北山ならんことを料る︒時に太后 北山の
小野宮に居る︒境地僻幽たり︒期門乃ち人を馳せて幸を告ぐ︒貯儲に
備へしむ︒帝果して小野に趣き︑外に在りて車上に雪を賞す︒太后も
亦た女侍をして︑車に就きて酒を進ましむ︒遽設闕くること無し︒帝
已に歡して還る︒時に太后 簾内に︑一も展設せしめず︒既にして左右 上の入らざるを幸とす︒太后曰はく︑﹁雪を觀るは外を須つ︒吾
固より帝の入らざることを知る﹂と︒
︹訳文︺
白河天皇は︑よい日にあうたびに︑気の向くままにおでかけになった︒
ある朝の雪が積もった景色がとりわけ目を引いた︒帝は立って階段の
あたりを行ったり来たりしていた︒ある郎官が︑すでに手軽な外出の
供まわりを準備していた︒けれども帝はただ一人の随身だけを従えて
北へ出かけた︒まだおでかけになる場所を命じてはいなかった︒その
随身もまた才覚があり︑帝が雪をめでるのは︑必ずや北山においてで
あろうと推測した︒そのとき太后は北山の小野宮にいらっしゃった︒
そのあたりは人里離れ趣深かった︒随身はそこで人をやって帝のお出
ましを告げ︑もてなしの用意に備えさせた︒帝は案の定︑小野宮に向
かわれ︑宮の外で車上から雪をめでた︒太后も侍女たちに命じて︑車
一三﹃大東世語﹄﹁賢媛﹂篇 注釈稿︵堀・趙・呂・任・井上・仲川・齋藤︶ で酒を差し上げさせた︒あわただしいもてなしの準備でも手落ちはな
かった︒帝はやがて御満悦でお帰りになった︒その折太后は簾の内に︑
全くもてなしの準備をさせなかった︒後になって近従の者たちは帝が
簾の内に入らなかったのを幸いであったと思った︒太后が言うことに
は︑﹁雪をみるには外にとどまるものです︒私はもともと帝が簾の内
に入らないことを分かっていました﹂と︒
︹原注︺
①永承帝后︒后内府藤敎通女︒治曆四年立爲レ 后︒其夕帝崩︒后 自レ 幼習二 釋經一 ︒帝晏駕之後︒落飾入二 小野一 ︒終身不二 復出一レ 都︒
︹書き下し文︺
①永承帝の后なり︒后は内府藤敎通の女なり︒治曆四年立ちて后と
爲る︒其の夕 帝崩ず︒后幼きより釋經を習ふ︒帝の晏駕するの
後︑落飾して小野に入る︒終身復た都に出でず︒
︹訳文︺
①後冷泉天皇の皇后である︒皇后は︑内大臣藤原教通の娘である︒
治暦四年︵一〇六八︶入内して皇后となった︒その夜︑後冷泉天
皇が崩御した︒皇后は幼いころから仏典を習っていた︒天皇がお
亡くなりになった後︑髪をおろして小野宮に入った︒それから終
生︑都に出ることはなかった︒
︹語釈︺
白河帝 白河天皇︒一〇五三〜一一二九︒一〇七二〜八六在位︒後三
条天皇の第一皇子︒母は藤原公成の女︑茂子︒名は貞仁︒延 久四年︵一〇七二︶即位︒応徳三年︵一〇八六︶幼少の堀河天
皇に譲位の後も︑上皇として院政をはじめ︑堀河︑鳥羽︑崇
徳天皇の三代︑四十三年間政治の実権をにぎった︒嘉保三年
︵一〇九六︶出家して法皇となる︵法名融覚︶︒仏教に深く帰依
したが︑法勝寺などの造寺や寺社参詣をしきりに行ない︑その
財源を富裕な受領層に求めた︒その治世の破綻は︑﹁天下三不
如意﹂︵山法師・賀茂川の水・双六のさい︶として伝えられる︒
率意 ﹁率﹂は︑そのままにまかせる意︒意にまかせる︒ 遊幸 天子の外出︒ 幹郎 ﹁幹﹂は︑物事の中心︒﹁郎﹂は︑中央官庁の中級の役人︒郎官
の長︒
期門 天子の護衛兵︒もとは中国漢代の官名︒ 智諝 智慧と才知︒ 永承帝 後冷泉天皇︒一〇二五〜一〇六八︒一〇四五〜六八在位︒後
朱雀天皇の第一皇子︒母は藤原道長の女︑嬉子︒名は親仁︒寛
徳二年︵一〇四五︶即位︒﹁永承﹂は︑平安中期︑後冷泉天皇
の時の年号︒一〇四六〜一〇五三︒
藤敎通 藤原教通︒九九六〜一〇七五︒平安中期の公卿︒大二条殿・
大二条関白と称す︒藤原道長の子︒母は源雅信の女︑倫子︒右
大臣︑左大臣を経て太政大臣を任ぜらる︒娘の歓子が後冷泉天
皇の皇后に立ったことで関白となるも皇子は誕生しなかった︒
後冷泉天皇崩御にともない︑外戚関係のない後三条天皇が即位
一四﹃大東世語﹄﹁賢媛﹂篇 注釈稿︵堀・趙・呂・任・井上・仲川・齋藤︶
したことで関白としての実権を失い︑藤原氏の権勢失墜の原因
となった︒故実に優れ︑日記﹃二東記﹄を残している︒
治曆 平安中期︑後冷泉天皇のときの年号︒一〇六五〜一〇六九︒
釋經 ﹁釋﹂は釈迦牟尼仏の意︒仏教の経典を指す︒また︑経文の文
意や語義を解説すること︒
晏駕 天皇・上皇のお亡くなりになることを忌んでいうことば︒崩
御︒
落飾 貴人が髪を剃りおとして仏門に入ること︒ 僻幽 都会から遠く離れており辺鄙でさびしいこと︒ 貯儲 たくわえる︒用意する︒ 遽設 ここでは︑にわかに宴席をもうけること︒
︹典拠︺
﹃今鏡﹄巻四﹁ふぢなみの上︵をのゝみゆき︶﹂︒
︵齋藤 彰子︶
︹
賢媛10 ︺
有二 舊宮人一 ︒幽│二 居太秦一 ︒或傳二 其豔而有一レ 情︒諸郎年少︒懸│二 想其 趣一 ︒好事相誘︒乗二 月夜一 行窺レ 之︒至則秋│棲素淡︒自然淸令︒亦皆 不レ 覺二 矜飾一 ︒既而香薫徹レ 外︒乃於二 簾内一 嘯詠︒岸柳秋風遠塞情︒①纖纖有二 秀致一 ︒於レ 是相顧︒恐二 其不一レ 可レ 當︒逡廵默歸︒
︹書き下し文︺
舊宮人有りて︑太 うずまさ秦に幽居す︒或るひと其の豔にして情有るを傳へ り︒諸郎年少にして︑其の趣を懸 けんそう想し︑好 こうず事して相誘し︑月夜に乗じ
て行きて之を窺ふ︒至れば則ち秋棲素淡なり︒自然に淸令なり︒亦た
皆矜 きょう飾 しょくを覺へず︒既にして香薫外に徹し︑乃ち簾内に於いて嘯詠す らく︑﹁岸柳 秋風 遠塞の情﹂と︒纖 せん纖 せんとして秀致有り︒是に於いて相顧みて︑其の當るべからざるを恐る︒逡 しゅん廵 じゅんして默歸す︒
︹訳文︺
もと女官であった人が︑太秦に隠居していた︒或る人がそのあでやか
で風情あることを伝えていた︒官人で年の若いものは︑その女官の雅
趣を遠く思いやっていた︒その好事の者が互いに誘って︑月の明らか
な夜にみんなそろって出かけて︑その様子をさぐろうとした︒着いて
みると︑その秋の侘び住まいは簡素で淡白であった︒自ずから清逸な
雰囲気がみなぎっていて︑みな華美を感じとれなかった︒しばらくし
て︑芳しい香りが外一面を覆い尽くした︒そこで︑女官が廉内で詩を
吟じ始めた︒﹁岸柳 秋風 遠塞の情﹂と︒繊細で風情のある声だっ
た︒そこで︑男たちは顔をみあわせ︑元女官にかなわないことを恐れ︑
しりごみして押し黙って引き返した︒
︹原注︺
①橘直幹句︒
︹書き下し文︺
①橘直幹の句なり︒
︹訳文︺
①橘直幹の句である︒
一五﹃大東世語﹄﹁賢媛﹂篇 注釈稿︵堀・趙・呂・任・井上・仲川・齋藤︶ ︹語釈︺
宮人 律令制において宮中に奉仕する女性職員のこと︒女官︒ 太秦 京都市右京区の一地区︒京都盆地の西北部︑桂川︵大堰川︶の
左岸にあたる︒平安京遷都前から渡来人秦氏一族の居住した
所︒地名は酒 さけの公 きみの姓︑禹 うずまさ豆満佐に由来する︒秦河 かわ勝 かつが建立した
広隆寺には︑京都最古の仏像の弥勒菩薩像をはじめ︑国宝︑重
要文化財の仏像が蔵されている︒
幽居 世をさけて静かな所に住む︒隠居︒郎 官僚︑男子の称である︒
懸想 遠く思いやる︒空しく思う︒ 好事 珍しい変わった物事を好むこと︒また︑風流を好むこと︒ 淸令 高潔である︒ 矜飾 誇り飾ること︒ 香薫 よい香り︒ 嘯詠 うたう︒また︑うたうこと︒ 橘直幹 生没年不詳︒平安時代の漢詩人︒長門守長盛の子︒橘公統に
学び︑大江維時の弟子ともいう︒天暦から天元の間︑大内記・
大学頭・文章博士・式部大輔に任ぜられ︑正四位下に至る︒左
大臣藤原忠平や村上天皇の信任を得て︑詩会に序を作り題を献
じ︑致仕の表を代作などした︒天暦三年︵九四九︶︑﹁坤元録屏
風﹂に二首の詩を採られ︑天徳三年︵九五九︶内裏歌合には︑
菅原文時・源順・大江維時とともに闘詩︑二勝四敗︵三勝三敗 とも︶一持であった︒﹃新猿楽記﹄にも大江匡衡・大江以言・
菅原文時と比肩する者とされ︑天暦八年民部大輔の兼任を要望
した奏状は名文で︑﹃和漢朗詠集﹄や﹃作文大体﹄にも引かれ
ており︑﹃十訓抄﹄﹃撰集抄﹄などにもそれにまつわる説話を伝
え︑さらに後世の﹃直幹申文絵巻﹄の材料ともなった︒現存作
品は︑諸書合わせて︑詩は二十二首︑散文三篇︒﹁岸柳秋風遠
塞情﹂は﹃和漢朗詠集﹄行旅部に収められた橘直幹が詠んだ句
であり︑上句は﹁洲蘆夜雨他郷涙﹂である︒
纖纖 かぼそい︒かよわい︒ 逡廵 しりごみすること︒
︹典拠︺
﹃十訓抄﹄第一―十七話︒
︵呂 天雯︶
︹
賢媛11 ︺
源三品①女讚岐②︒頗渉二 經史一 ︒嘗曰︒少已失レ 恃︒每レ 値二 誕│日一 ︒ 便憶二 母氏劬勞一 ︒則不レ 堪二 水漿入一レ 口︒而世人都以二 生辰一 相│賀︒吾 所レ 不レ 曉︒︹書き下し文︺
源三品の女讚岐︑頗る經史に渉 わたる︒嘗て曰く︑﹁少して已に恃むを失
ひ︑誕日に値ふ每に︑便ち母氏の劬勞を憶ふときは︑則ち水漿口に
入るるに堪へず︒而して世人都 すべて生辰を以て相ひ賀す︒吾曉 さとらざる所
一六﹃大東世語﹄﹁賢媛﹂篇 注釈稿︵堀・趙・呂・任・井上・仲川・齋藤︶
なり﹂と︒
︹訳文︺
源頼政の娘讃岐は︑非常に経書や歴史書の知識があった︒かつて言っ
たことには︑﹁幼くして頼みとなる母を失ったので︑誕生日になるた
びに母の労苦を思っては︑汁物さえ口にすることもできません︒けれ
ども世の人々はみな生まれた日を祝い合います︒私には理解できない
ことです﹂と︒
︹原注︺
①賴政︒
②二條帝宮侍︒
︹書き下し文︺
①賴政なり︒
②二條帝の宮侍なり︒
︹訳文︺
①頼政である︒
②二条帝の宮侍である︒
︹語釈︺
源三品 源頼政︒三品は位階の第三位︒一一〇四〜一一八〇︒平安時
代後期の武将︑歌人︒源仲政の子で︑母は藤原南家友実の女︒
清和源氏としては異例の従三位・非参議にまで昇進する︒﹃新
古今和歌集﹄﹃千載和歌集﹄などの勅撰和歌集に六十余首が採
録されている︒自撰和歌集に﹃源三位頼政集﹄︒ 讚岐 源頼政の女︒二条帝に仕えたことから二条院讃岐︒生没年不詳︒
平安・鎌倉時代前期の歌人︒中宮権大進藤原重頼の妻︒内裏歌
壇に活躍︒﹃千載和歌集﹄以下の勅撰集に七十二首︵重複一首
を除く︶入る︒
經史 経書や歴史書︒ 失恃 頼みとするものを失うこと︒ここでは讃岐が母を喪ったことを
いう︒
劬勞 ﹁劬﹂は背中を丸くかがめた姿︑転じて﹁うつむいてせっせと
働くさま﹂の意︒﹁勞﹂は﹁精を尽くして働く﹂の意︒体を使
い減らして疲れきる︒﹃詩経﹄﹁小雅﹂蓼莪篇﹁哀哀父母︑生我
劬勞︵哀哀たる父母︑我を生みて劬勞す︶﹂に出典する︒
水漿 水とどろりとした飲み物︒ 生辰 誕生日︒生日︒
︹典拠︺
﹃本朝蒙求﹄巻中﹁讃岐生日﹂︒
﹃扶桑蒙求﹄巻中﹁有智斎院﹂︒
︵仲川 泰博︶
︹
賢媛12 ︺
建春后是高倉帝母︒帝卽レ 位︒尊爲二 皇太后一 ①︒有二 嘗竝仕舊宮人一 ︒ 近二 后側一 ︒私問曰︒如レ 是福祉︒不レ 知在二 后心裏一 何│似︒后曰︒宿因 所レ 作︒於レ 我何知︒一七﹃大東世語﹄﹁賢媛﹂篇 注釈稿︵堀・趙・呂・任・井上・仲川・齋藤︶ ︹書き下し文︺
建春后 是れ高倉帝の母なり︒帝 位に卽くに︑尊びて皇太后と為す︒ 嘗て竝び仕ふる舊き宮人有り︒后の側に近づきて︑私 わたくしに問ひて曰く︑
﹁是の如き福祉︑知らず后の心裏に在りて何 い似 かん︒﹂と︒后曰く︑﹁宿 因の作 なす所なり︒我に於いて何をか知らん﹂と︒
︹訳文︺
建春門院は︑高倉天皇の母である︒高倉天皇が即位すると︑建春門院
は尊ばれて︑皇太后となった︒かつて建春門院と一緒に宮中に仕えた
女官がいた︒彼女は︑建春門院の側に近づくと︑こっそりと﹁今のよ
うな幸せは︑皇太后さまの御心ではいかがお思いでしょうか﹂と尋ね
た︒すると︑建春門院が言うことには︑﹁これは︑前世の宿縁が成す
ものです︒私にはわかりかねます﹂と︒
︹原注︺
①后︒兵部太輔平時信女︒初微名小辨︒被保元帝寵︒生高倉帝︒
︹書き下し文︺
①后は︑兵部太輔平時信の女 むすめなり︒初め微名は小 こべん辨なり︒保元帝に
寵せられ︑高倉帝を生む︒
︹訳文︺
①建春門院は︑兵部大輔平時信の娘である︒もとより女官としての
名前を小弁と言った︒後白河天皇の寵愛を受け︑高倉天皇を生ん
だ︒ ︹語釈︺
建春后 建春門院︒一一四二〜一一七六︒平安時代後期後白河天皇の 女御︒平時信の娘︒永暦二年︵一一六一︶憲 のり仁 ひと親王を生む︒仁
安三年︵一一六八︶親王が高倉天皇として即位すると皇太后と
なり︑翌年院号を受ける︒三十五歳で薨去︒名は滋子︒通称は
小弁局︒
高倉帝 一一六一〜一一八一︒高倉天皇︒平安時代後期第八十代天皇︒
在位一一六八〜一一八〇︒後白河上皇の皇子︒母は平滋子建春
門院︒八歳で即位︒治承四年︵一一八〇︶清盛の娘徳子との間
に生まれた三歳の皇子言 とき仁 ひと︵安徳天皇︶に位を譲った︒治承五
年一月十四日︑二十一歳で崩御︒
平時信 ?〜一一四九︒平安時代後期の官吏︒鳥羽院判官代を務め正
五位下兵部権大輔に進む︒建春門院の父︒孫の高倉天皇の即位
で正一位左大臣が追贈された︒
微名 微賎な名︒自分の名前を謙遜して言う時に使う︒ここでは︑建
春門院の身分が低かった時代の名前を言う︒
保元帝 後白河天皇︒一一二七〜一一九二︒平安時代後期第七十七代
天皇︒在位一一五五〜一一五八︒鳥羽天皇の第四皇子︒異母弟
近 このえ衛天皇の死により即位︒三年余で譲位し︑その後︑二条・六
条・高倉・安徳・後鳥羽天皇の五代にわたり︑平清盛による中
断はあるが︑三十余年間院政を行う︒保元・平治の乱後の源平
対立を巧みに利用して︑王朝権力を維持した︒今様を集め︑﹃梁
一八﹃大東世語﹄﹁賢媛﹂篇 注釈稿︵堀・趙・呂・任・井上・仲川・齋藤︶
塵秘抄﹄を撰した︒
宮人 後宮に仕える女性︒女官︒ 福祉 幸い︒幸せ︒幸福︒祥福︒今日言うところの﹁社会福祉﹂の﹁福
祉﹂とは意味が異なる︒
何似 何如に同じ︒疑問の辞︒いかに︒どのようであるか︒ 宿因 前世になした業で︑この世での善悪の因となるもの︒前世の因
縁︒宿縁︒すくいん︒
︹典拠︺
﹃古今著聞集﹄巻八第三〇九話 ﹁高倉天皇建春門院に朝觀行幸の事﹂︒
︵任 清梅︶
︹
賢媛13 ︺
源豫州奔後︒有レ 人拘二 其妾靜一 ︒致二 之鎌倉一 ︒源將軍及夫人︒以二 靜 本名妓一 ︒倶出二 鶴岡一 ︒召觀二 其舞一 ︒靜固―辭數―四不レ 得︒乃黽―勉起 舞︒其曲詞―意︒都無下 非レ 永二―懷豫州一 者上 ︒觀者皆爲墮レ 涙︒他日鎌 倉諸士解レ 音者︒相携往二 靜客舍一 ︒設レ 宴且慰︒坐中有二 梶原景茂一 ︒ 託レ 醉頗出二 豔言一 ︒靜變レ 色︒且泣曰︒嘗受二 豫州恩一 ︒今縱不レ 死︒ 忍三 坐被二 此辱一 乎︒豫州者鎌倉公弟也︒今若在︒則汝輩可レ 得三 輙見二我面一 乎︒梶原赧―慚逡―廵︒︹書き下し文︺
源豫州奔りて後︑人有りて其の妾靜を拘して︑之を鎌倉に致す︒源
將軍及び夫人︑靜本 もと名妓なるを以て︑倶に鶴岡に出づるに︑召して 其の舞を觀る︒靜固辭すること數四なるも得ず︒乃ち黽 びんべん勉して起ち
て舞ふ︒其の曲の詞意︑都 すべて豫州を永懷するに非ざる者無し︒觀る者
皆爲に涙を墮す︒他日鎌倉の諸士音を解する者︑相携へて靜が客舍
に往き︑宴を設け且つ慰す︒坐中に梶原景茂有り︑醉に託して頗る豔
言を出す︒靜色を變じ︑且つ泣きて曰く︑﹁嘗て豫州の恩を受く︒今
縱ひ死せずとも︑坐 ゐながら此の辱めを被るに忍びんや︒豫州は鎌倉公 の弟なり︒今若し在らば︑則ち汝の輩輙 やすく我が面を見ることを得べ
けんや﹂と︒梶原赧慚して逡廵す︒
︹訳文︺
源義経が出奔した後︑ある人がその妾の静をとらえ︑鎌倉に送り届け
た︒源頼朝とその夫人は︑静がもと名妓であるので︑そろって鶴岡に
出かけたときに︑︵静を︶召し出してその舞を見ようとした︒静は何
度も固辞したがかなわなかった︒気を奮いおこして立って舞った︒そ
の曲の歌詞は︑すべて義経を懐かしみ歌ったものだった︒見る者は皆
そのために涙を流した︒後日︑鎌倉の頼朝に仕える人々で音楽に通じ
た者が︑連れ立って静の客舎に赴き︑宴を設け慰労した︒その席の中
に梶原景茂がおり︑酔いにまかせてあだめいた言葉を言い出した︒静
は顔色を変え︑泣いて言うことには︑﹁かつて義経公の御恩を受けま
した︒今たとえ死せずとも︑この場でこのような辱めをうけることに
耐えられましょうか︒義経公は鎌倉公の弟です︒今もし︵義経公が︶
おいでになれば︑あなたたちはたやすく私の顔を見ることなどできま
しょうか﹂と︒梶原は恥じて赤面し︑しりごみした︒
一九﹃大東世語﹄﹁賢媛﹂篇 注釈稿︵堀・趙・呂・任・井上・仲川・齋藤︶ ︹語釈︺
豫州 源義経︒一一五九〜一一八九︒九郎判官と称す︒平安末期から
鎌倉初期の武将︒父は源義朝︑母は常盤︒幼名牛若丸︒平治の
乱で平氏に捕えられ鞍馬寺に入れられたが︑ひそかに陸奥藤原
秀衡の下に赴いて庇護をうけた︒一一八〇年に兄である源頼朝
の挙兵に参じ︑その武将として義仲追討︑平氏滅亡に活躍した︒
一一八五年に伊予守となる︒のち頼朝と不和となり︑頼朝追討
の院宣を得て九州に赴こうとして失敗︑再び奥州へ赴く︒秀衡
死後︑泰衡に襲われ︑衣川の館で自害した︒靜 生没年不詳︒平安末期から鎌倉初期の女性︒母は磯禅師︒もと
京の白拍子で︑源義経の愛妾︒義経が頼朝と不和となったこと
から︑吉野落ちに随行︑捕えられて鎌倉に送られた︒鎌倉で男
児を出産したが︑頼朝により由比ケ浜の海中に沈められた︒
鎌倉 神奈川県南東部︑三浦半島西岸の地名︒建久三年︵一一九二︶︑
源頼朝が幕府を開いて︑政治の中心となったが︑室町末期には
衰微した︒
源將軍 源頼朝︒一一四七〜一一九九︒鎌倉幕府初代将軍︒源義朝の
三男︒母は熱田大宮司季範の娘︒平治の乱で敗走中に捕われ︑
伊豆に配流︒一一八〇年に挙兵し︑平氏を滅ぼした︒のち不
和となった弟の源義経の追捕を口実に朝廷から守護・地頭設置
の許可を得て武家支配を確立︒一一八九年には義経をかくまっ
ていた奥州藤原氏を滅ぼして陸奥・出羽を勢力下に入れた︒ 一一九〇年に権大納言︑右近衛大将に任ぜられ︑一一九二年に
征夷大将軍となった︒
夫人 北条政子︒一一五七〜一二二五︒父は北条時政︒伊豆配流中の
源頼朝に嫁し︑頼家︑実朝を産む︒頼朝の死後︑はじめ頼家︑
のち実朝を将軍としてその後見となる︒実朝暗殺後は京都から
九条頼経を迎えて将軍とし︑執権政治を確立︒尼将軍と称され
た︒
鶴岡 鶴岡八幡宮︒神奈川県鎌倉市雪ノ下にある神社︒祭神は応神天
皇︑比売神︑神功皇后︒一〇六三年に源頼義が石清水八幡宮を
由比郷鶴岡に勧請し︑由比若宮︑鶴岡若宮と称したのに由来す
る︒一一八〇年に源頼朝が現在地に移したが︑一一九一年に焼
失︑後方の大臣山山頂に本殿を建てて本宮︵上宮︶とし︑旧地
に若宮︵下宮︶を再建︒以後︑鎌倉幕府の宗祀として将軍社参
や拝賀式が行なわれ︑源氏の氏神︑武門の守護神となった︒
數四 しばしば︒たびたび︒ 黽勉 勉め励む︒ 永懷 永く懐う︒また﹁詠懐﹂にも通じる︒ 解音 音楽を理解する人︒ 梶原景茂 一一六七〜一二〇〇︒鎌倉時代の武将︒父は梶原景時︒ 豔言 あだめいた言葉︒坐 いながらに︒たやすく︒何もせずして︒ 鎌倉公 源頼朝︒
二〇﹃大東世語﹄﹁賢媛﹂篇 注釈稿︵堀・趙・呂・任・井上・仲川・齋藤︶
赧慚 はじる︒あからむ︒はじて面をあからめる︒
︹典拠︺
﹃吾妻鏡﹄第六 文治二年四月八日条︒
︵井上 翠︶
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賢媛14 ︺
鎌倉源大將軍獵二 富士一 ︒世子①年八歳︒從射レ 鹿獲レ 之︒大將軍甚愛二賞之一 ︒ 還二 遣梶原②于鎌倉一 ︒告二 之夫人一 ︒夫人③無二 喜色一 ︒梶原失措︒良久︒夫人謂曰︒武弁之子︒射獲二 原野禽獸一 ︒固常事已︒何 勞二 專使一 之有︒
︹書き下し文︺
鎌倉の源大將軍 富士に獵 かりす︒世子は年 八歳︑從ひて鹿を射て之を
獲たり︒大將軍甚だ之を愛賞す︒梶原を鎌倉に還し遣はして︑之を夫
人に告ぐ︒夫人 喜色無し︒梶原失措す︒良 やや久しくして︑夫人謂ひ て曰く︑﹁武弁の子なり︒射て原野の禽獸を獲 うるは︑固より常事のみ︒
何の專使を勞することか之れ有らん﹂と︒
︹訳文︺
鎌倉の大将軍源頼朝が富士の裾野で巻狩りをした︒嫡子の頼家は八歳
であったが︑これにつき従って鹿を射獲った︒大将軍頼朝は大変息子
を誉めちぎった︒梶原景高を使者として鎌倉に返し︑このことを夫人
の政子に報告させた︒政子は喜ぶ様子がなかった︒景高は茫然とした︒
しばらくして︑政子が言うことには︑﹁武将の子なのです︒射撃して 原野にいる禽獣を獲るのは︑もとより当たり前のことです︒どうして
特別の使者をよこす必要がありましょうか﹂と︒
︹原注︺
①賴家︒
②景高︒
③北條氏︒
︹書き下し文︺
①賴家なり︒
②景高なり︒
③北條氏なり︒
︹訳文︺
①頼家である︒
②景高である︒
③北条氏である︒
︹語釈︺
鎌倉 ︹賢媛
13︺︹語釈︺﹁鎌倉﹂参照︒ 源大將軍 ︹賢媛
13︺︹語釈︺﹁源大將軍﹂参照︒ 富士 源頼朝は富士の裾野を狩場とし多くの御家人を集め︑富士の巻
狩りと呼ばれる大規模な狩猟を催した︒平常時の武士の軍事訓
練の意味ももっていた︒
賴家 源頼家︒一一八二〜一二〇四︒鎌倉幕府二代将軍︒頼朝の長男︒
母は北条政子︒正治元年︵一一九九︶︑家督を継いだが︑北条
二一﹃大東世語﹄﹁賢媛﹂篇 注釈稿︵堀・趙・呂・任・井上・仲川・齋藤︶ 氏のために将軍の権限を押さえられ︑北条氏討伐を企て失敗︒
伊豆修善寺に幽閉され︑殺された︒
梶原 梶原景高︒一一六五〜一二〇〇︒景時の次男︒正治二年
︵一二〇〇︶幕府に謀反を企てた父に従い京都を目指すも︑一
族とともに駿河狐崎で討死した︒
夫人 北条政子︒一一五七〜一二二五︒源頼朝の妻︒時政の娘︒源頼
家︑実朝の母︒頼朝死後︑幕府実権を掌握して尼将軍といわれ
た︒
失措 どうしたらよいか分からず︑自失する︒うろたえる︒ 武弁 武官がかぶる冠の意から︑武士︒ 專使 ある事のために特別に派遣する使者︒
︹典拠︺
﹃吾妻鏡﹄建久四年五月十六日条︑及び同四年五月二十二日条︒
︵齋藤 彰子︶
︹
賢媛15 ︺
平相州時賴母①︒邀二 招相州一 ︒前一日見二 廳窻格故紙間破一 ︒手自糊二補之一 ︒其兄義景在レ 前︒言宜レ 命二 某夫一 耳︒母曰︒某夫之作︒未二 必勝一レ 我︒義景再道︒更レ 紙新レ 之︒則工亦省レ 力︒且復美觀︒母曰︒然︒ 我非レ 不二 爾思一 ︒但亦自誡︒ 物不二 必悉改一 ︒隨レ 壞補レ 之可也︒庶
使三 年少輩知二 斯意一 耳︒ ︹書き下し文︺
平相州時賴の母︑相州を邀招す︒前一日 廳の窻格の故紙の間破する を見︑手 て自 ずから之を糊補す︒其の兄 義景 前に在りて︑言へらく﹁宜
しく某夫に命ずべきのみ﹂と︒母曰く︑﹁某夫の作︑未だ必ずしも我
に勝らざらむ﹂と︒義景再び道ふ︑﹁紙を更 かへて之を新にせば︑則ち 工も亦た力を省かん︒且つ復た美觀なり﹂と︒母曰く︑﹁然り︒我爾 か
く思はざるに非ず︒但だ亦た自ら誡むらく︑﹁物必ずしも悉く改めず︑
壞るるに隨ひて之を補して可なり﹂と︒庶 こいねがはくは年少輩をして斯の意
を知らしめんのみ﹂と︒
︹訳文︺
北条時頼の母が︑時頼を招待した︒その前の日︑役所の障子の一枠の
古紙が破れているのを見つけ︑手ずから糊づけしてこれを補修してい
た︒兄の義景が前に進み出て︑﹁使用人の某 だれそれに命じたらよいでしょう﹂
と言った︒母が言うことには︑﹁その者の手仕事では︑私よりもうま
くできません﹂と︒義景がまた言うには︑﹁紙を取り換えて障子を新
しくしてしまえば︑手細工の労力も省くことができましょう︒それに
見た目も美しいですよ﹂と︒母が言うには︑﹁その通りです︒私もそ
のように思わないわけではありません︒ただ︑物をまるで新しくはせ
ず︑壊れたときに補修すればよいと自ら戒めているのです︒年若い人
たちにこの倹約の心を知ってほしかったのです﹂と︒
︹原注︺
①秋田城介景盛之女︒義景之妹︒既寡爲尼︒居松下︒稱松下尼公︒