第六章 ラボラトリー・スクールの再検討 ―<教材>の視点から―
はじめに
1896 年 1 月、シカゴ大学で、哲学、心理学、教育学を複合した学部長であったデュー イは、大学に隣接した57番街389 番地に、大学の附属小学校を開設した。この学校は、
デューイ・スクールとして広く知られていくことになる。1902年には、公式に「シカゴ大 学実験室学校」(Laboratory School of the University of Chicago) と名付けられた。副校 長としてカリキュラムに関する職責を勤めたキャサリン・C・メイヒュー(Katherine
Camp Mayhew) と、歴史を担当していたアンナ・C・エドワーズ(Anna Camp Edwards)
は、学校の教師として、また 1902 年からは校長としても関わりをもったデューイの妻、
アリス・C・デューイ(Alice Chipman Dewey) の遺志を受け継ぎ、実践記録を一冊の本に まとめた。『デューイ・スクール』(The Dewey School, 1936) が、それである(1)。彼女た ちは、当時の様子を次のように伝えている。
「1896年1月に開かれた学校は、個人の家で、子ども16名、教師は2名だった。初 めの6ヶ月間は、『試行錯誤』の期間であり、それは、何をしないかを示すことだった。
10月に学校は、キンバーク街(Kimbark Avenue) 5718番地で、新しい体制のもと再開 された。子どもたちは、6歳から11歳までの32名にのぼり、常勤の教師は3名、一人 は科学と技術家庭、一人は文学と歴史、そしてもう一人は手工の担当だった。音楽は非 常勤だったが、スタッフの一人でもあり、また3名の大学院生が時間の許す限り加わっ た。」(2)
その後、手狭になったため、同年ロザリー邸(Rosalie Court) と57番街の角地に、そし て1898年には、エリス街(Ellis Avenue) 5412番地へと転々と住所を変えることになる。
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子どもの数は一番多い時で140名、そして教師は23名、大学院生のアシスタントは10名 に達したという(3)。学校は、ラボラトリー・スクールとして100周年記念を終えた今日に おいても、シカゴ大学の敷地内の一区画に存続しているが、実際デューイが関わったのは、
1896年からシカゴ大学を辞職するまでの1904年の間、約8年間であった。
学校は、時のシカゴ大学学長ウィリアム・R・ハーパー(William Rainey Harper) はじ め、デューイの思想形成に影響を及ぼし、家族ぐるみの交際を続けたジョージ・H・ミー ド(George Herbert Mead) ら、理解者たちの経済的支援と協力によって支えられていた。
しかし、1901年に、フランシス・W・パーカー (Francis Wayland Parker) が設立した教 員養成のための学校であるシカゴ学院の併合による混乱、更には、アリス・デューイの校 長職任期期間をめぐって学長ハーパーとの見解上の齟齬をきたし、デューイはシカゴ大学 を辞職し去ると同時に、学校はデューイの手から離れることになる(4)。
しかし、わずか8年間であったとはいえ、子ども十数名から始められた実践は、1世紀 を経た今日においてもその魅力は消え失せず、特に昨今、注目を浴びている。それは、1980 年代に始まるデューイ・ルネサンスの潮流というよりもむしろ、ラボラトリー・スクール における教師たちのワーク・レポートなどの実践記録の再発掘による研究が大きな契機と なっている。1997 年に出版されたカリキュラム研究者ローレル・N・タナー(Laurel N.
Tanner) の『デューイのラボラトリー・スクール』(Dewey’s Laboratory School) は、そ の嚆矢として知られている(5)。
本章は、ラボラトリー・スクールの実態を明らかにすることが目的ではない。本研究は、
あくまでもデューイの論稿において、彼のいう<教材>を考察することが目的である。本 章では、<教材>の視点からラボラトリー・スクールを再検討すること、そして、そのこ とをとおして逆にデューイのいう<教材>について考察を深め、<教材>の世界を広げて みようとする二重の目的をもつ。
第一節では、近年なされているラボラトリー・スクールの再考がどのような点に向けら れているかを確認する。第二節では、ラボラトリー・スクールに取り入れられた心理学観 点を取りあげる。デューイのいう心理学については、第二章でも取りあげたが、ここでは、
彼が心理学をラボラトリー・スクールに取り入れたことの意味について考察する。そして、
第三節でデューイが主張した実験の意味を、第四節で、教師たちのワーク・レポートを、
<教材>の視点からどうみたらよいのか考察する。最後の五節で、<教材>とオキュペー ションとの位置関係を考察することをとおして、ラボラトリー・スクールの実験とは何で
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あったのか、<教材>の視点から再検討することとする。
第一節 再考の観点
「周知のように、あの学校は実験学校(experimental school) である。そこでの教育は、
われわれが従わされているのと同じ条件のもとで営まれているものではない」(6)。これは、
ラボラトリー・スクールの見学に訪れたある学校の教師の発言である。デューイは、『学校 と社会』(The School and Society) で取りあげている。
ラボラトリー・スクールは、創設当初から特別な学校とみなされてきた。子どもたちは 全て裕福な白人である、優れた教師たちが集められている、シカゴ大学との連携があった ことなどが指摘されている。確かに、ハーバート・M・クリーバード(Herbert M. Kliebard) やタナーらが使用した写真には、裕福そうな白人の子どもたちの姿が写っているし(7)、実 際、教師たちは、それぞれ専門分野のエキスパートであり、大学側からの協力もあった。
ダイアン・ラヴィッチ(Diane Ravitch) によると、当時、公立学校では、1 クラスたいて い 50 人あるいはそれ以上の人数であったが、デューイ・スクールでは、一人の教師に子 ども5、6 人の割合であったという(8)。それに加えて、デューイの指導が入るわけである。
当初からあった特別な学校という見方は、根拠のないものではないのである。しかし、こ の事実を、デュ−イが「ブルジョワ的な教育」を目指していたことの証左であると糾弾す るのであるならば(9)、今日において、ラボラトリー・スクールが見直されている事実を理 解することは難しいであろう。ここで問いたいことは、特別な学校であるという否定でき ない事実を踏まえた上で、なおかつなされている再考が、どのような点に向けられている かである。
アラン・ライアン(Alan Rayan) は、アメリカ教育界におけるデューイの影響について の評価は極めて難しく、全体として影響はほとんどなかったのではないか、というこれま でもなされてきた問いを再検討する。彼は、デューイアンの学校とみなされたインディア ナ州ゲーリーでの職業訓練を目的とした学校システムを具体例に取りあげ、次のように述 べている。ゲーリー・システム(Gary System) を1909年から1920年にかけて牽引した ウィリアム・ワート(William Wirt) は、デューイの考えをアピールするものとしてこのシ ステムを説明するが、それは、デューイ・スクールを踏襲しているわけではない。日々の
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学校の計画は注意深く立てられ、半分は授業で半分は手工という二通りのシフトをひき、
人数もデューイ・スクールのように少人数ではなかった。しかし、デューイは娘エヴェリ ン(Evelyn Dewey) との共著『明日の学校』(Schools of To-Morrow) で、ゲーリー・シス テムを容認している。ライアンは、この記述を真実かどうか未だ疑う人はいるかもしれな いが、ゲーリー・システムはコミュニティセンターとすべきであるというワートの学校構 想があったことに、デューイとの共通点を見出している点を指摘する(10)。そして、デュ ーイの影響はないという主張の根拠に反論するかたちで、ラボラトリー・スクールを再考 する観点を三点示している。以下は、要約である(11)。
a. デューイ・スクールは、ぜいたくな学校であるという点。クラスは小規模で、教師は 多大の準備、念入りな運営上の配置が必要で、多くの時間や注意を払うことになる。
しかし、学校は驚愕するような実験をする学校ではなく、実験的精神を広めることで あったことを思い出さねばならない。それは、目標、技術、成功と失敗、変化のため の予想を議論する教師たちによって続けられるものなのである。
b. デューイ・スクールは、教師へ膨大な要求をするという点。しかしそれは、厳格さを 要求するような仕事ではない。デューイの教育哲学は、子どもが次の成長段階へと進 むところにあり、徹底的に目的論であった。子どもが出会うもの全ては、それが与え られるとき、成長が進むような瞬間を教師が見抜いた場合なのであった。
c. デューイアンのスクールがどんな特徴をもつのか明確ではないという点。デューイは、
哲学者であり、管理者でも教師の教師でもなかった。
このようにライアンは、デューイ・スクールはアメリカの教育に影響を与えていないと 主張する根拠に反論し、影響はあったという。デューイ・スクールは、実験的精神を広め るものであり、それは教師たちによって続けられ、デューイによって管理されたものでは なかったという反論は、ライアンによるラボラトリー・スクール再考の観点なのである。
次に、タナーである。彼女は、ラボラトリー・スクールでおこなわれた教師たちの記録 を基礎資料にして再考をしている。彼女は、学校はモデル校ではなく新しい教育理論や原 理を実践し修正する実験室であったということ(12)、また学校は、子どもたちが問題を解
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決する小さな協働社会であったことを確認する(13)。そして、今日学ぶべきものとして、
子どもの発達と学習の関わり、学校経営と監督、カリキュラム開発、教育の特性などを指 摘している。タナーは基本的にラボラトリー・スクールの実践を、カリキュラム開発の実 践と捉えており、学校は協働社会の理念を背景にして、子どもの探究のみならず教師たち がカリキュラムを開発していったという点を高く評価している(14)。この著書の最後に、
ラボラトリー・スクールを再考する点、25項目が列挙されている。本章末に載せた資料1.
がそれである。
項目をみてみると、子どもの活動そのものよりも、教師たちの教育活動に再考の点が多 く向けられていることがわかる。例えば、次の項目があげられる。
10. 教師たちは、活動と関わりをもったテーマの計画をともに立てる。
11. 教師たちは、非公式そして公式に、頻繁に打ち合わせをする。
12. その学校は、試みたり観察したりする実験的態度を浸透させる。
13. カリキュラムは、連続的に発展なされ、計画は新たな困難において修正され、可 能性が見出される。
実践を、カリキュラム開発とみるタナーの立場からの再考である以上、当然といえば当 然であるが、この教師の教育活動への視線は、ライアンと同じ方向をとっていることがわ かる。タナーの特徴は、カリキュラムに関して議論する知的自由を取りあげ、強調してい る点である(15)。教師のカリキュラム開発における知的活動についての評価は、タナー以 外にもなされており、アン・ダースト (Anne Durst) は、学校は教師たちの知的自由と協 働の場であったことを更に深め考察している(16)。
ところで、タナーのあげた再考点は、本研究で進めてきた<教材>と重なる部分が多い ことがわかる。
3. カリキュラムは、子どもの側面(態度)と教師の側面(知識に関する専門分野に おける事実と総合)の二つの次元をもつ。
8. 強力に組織された垂直的なテーマがある。
繰り返すが、タナーは、ラボラトリー・スクールの実践をカリキュラム開発の試みとみて
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いる(17)。今日においてカリキュラムは、当時デューイが述べたカリキュラム、すなわち、
学ぶべきものを明確に示し構成された教科のカリキュラムのみではなく、経験の総体、ま たは事前の計画、あるいは経験の履歴としての結果を意味するものなど、その概念は幅広 く、複雑で多様である。タナーのいうカリキュラム開発からの評価の観点は、本研究で考 察してきたデューイのいう<教材>の開発と重なるとはいえ、カリキュラムという視点か らは、なぜ、デューイはカリキュラムではなく<教材>に注目したのか、カリキュラムに は還元されない<教材>の教育的意味を知ることはできない。
このように、ラボラトリー・スクールが好意的に再考なされている一方で、ヒドゥン・
カリキュラムの提唱者であるフィリップ・W・ジャクソン(Phillip Wesley Jackson) は、
ライアンやタナーと異なり、「実験室」という意味を冷静にみている。デューイは学校の実 践を、現代(19世紀末)の心理学的原理を実行可能とする方法を実証し具体的に明示する ことと説明するが、実際、明確な心理学的原理などというものは、ウィリアム・ジェーム ズ(William James) も認めるように質、量ともに少なく不十分であった。そして「実験室」
は、その中で活動する人々が、自ら見つけ出したものを報告し、必要な場合は公開し、失 敗の可能性も自認するという意味で危険を冒す場であり、経費のかかる場でもあった。こ のような点を指摘し、やはり特別な学校であったという結論に至る(18)。
他方、ジャクソンは、当時、英語圏で書かれた最も価値のある美学研究の一つであると いわれたデューイ75歳の時の著書『経験としての芸術』(Art as Experience) に注目して ラボラトリー・スクールの検討を試みている。経験は、計画されたものではなく、偶然や アクシデントが含まれる。経験されたものが成就を目指すとき、われわれは一つの経験を もつ。それは、完了ではなく完成であり、個々の性質と自己充足をともなった全体として の経験である。このような環境との統合にデューイは美的要素をみるのであるが、この美 的経験は、芸術家のような特別な人だけがもつ経験ではなく、われわれ通常の経験におい てもみられるものである。ジャクソンは、このようにデューイのいうアートを捉え、ラボ ラトリー・スクールをアートの観点から再検討する試みをしている(19)。
ジャクソンは、学校は、社会との隔たりをなくすことが目的であったこと、オキュペー ションとして取り入れた活動は、料理や裁縫といった活動であり、アートとしてではなか ったと述べ、デューイ自身が教壇で創造的に思考した講義にアートの行為をみることへと 話題を移していく。このアートからの評価の過程で、ジャクソンは、今現在、教壇に立つ 教師を対象にして、教材の組織化は、進歩主義学校においては背後に設けられたものでは
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なく、学校で生じるものであると結論づけたジョン・ザホリック(John Zahorik) の調査を 取りあげている。本研究で、<教材>をつくることにおいて教師のアートの側面が読み取 れたことからすると、この調査は注目されるものである。しかしながら、ジャクソンは、
調査した時代が違うことを理由に、ザホリックの調査を、ラボラトリー・スクールを再評 価することからは退ける(20)。ジャクソンは、環境と統合する美的経験を子どもの活動に も、そして教師の知的活動にも見出すことはなかったのである。
以上みてきたように、ライアンやタナーが教師自身の知的活動に再考の視線を向け評価 しているのに対して、ジャクソンは、進歩主義教育の学校における教師の知的活動に示唆 があることを認めても、ラボラトリー・スクールを評価することにはならないとみる。評 価は、分かれるが、教師の教育活動に、近年の再考の視線が向けられていることは注目さ れる。共通しているのは、ラボラトリー・スクールが特別な学校であったという、表面に あらわれ出た事実への批判を承知の上で、「実験室」(laboratory) の意味を検討している点 である。ラボラトリー・スクール再考は、この「実験室」をどう捉え、どうみるか、その 解釈にかかってくるのである。
第二節 応用心理学の実験室としての学校
(一)新心理学
ラボラトリー・スクールは、その名の示すとおり「実験室」として設立された。それは、
師範学校や教員養成学校でも、また、モデル・スクールやある特別な理念や学説をデモン ストレーションをすることを意図した学校でもなく、「応用心理学の実験室」を意味する (21)。しかし、ジャクソンが、デューイに多大の影響を与えたジェームズの指摘を援用し たように、当時、教育に適用できるような心理学原理というものは、質、量ともに十分で あったというわけではなかった。デューイ自身述べているように、ラボラトリー・スクー ルは、「直ちに実践へと持ち込んでいけるような、かなりの数のレディ・メイドの原理や理 念をもって始められた」のではなく、本校の経営や教育上の運営だけでなく、教材の選定 や学習課程の立案に至るまで、教師の手に委ね、「教育上の原理や方法も、徐々に発展して きた」のであり、「むしろ疑問符をつけてスタートしたのであった」(22)。学校の仕事は、
「現代心理学によってわかってきた精神活動や成長過程の原理に照らして、子どもの教育
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を検討しようという問題に取り組むこと」であり、「理論的にも実際的にも教育を考察する ことの必要性を表明すること」だった(23)。つまり、ある特定の心理学の理論を当てはめ ることではなく、新しい心理学の原理に照らして、教育上の原理や方法を考えようとする 試みが、ラボラトリー・スクールでおこなわれた実験だったのである。
開設前の 1870 年代、哲学の一領域であった心理学が、科学的な学問として哲学から独 立しようとしていた。この心理学は「新心理学」と呼ばれ、アブラハム・A・ローバック
(Abraham A. Roback) は、呼ばれ得る四つの条件をあげている。①実験的方法を導入し、
実験室を創設し、②教科書の記述から宗教的ドグマを取り除くこと、③心理学の専門教授 を生み出し、④心理学における教育や研究者の組織がつくられ、定期的刊行物が発行され ること(24)。心理学において実験的方法を導入し実験室を設けることは、科学的学問とし ての心理学の独立を示すことでもあった。デューイは、1884年に論文「新心理学」(“The
New Psychology”) を発表し、「生命を理解する試み」として新心理学に期待をしている(25)。
この論文のタイトルにもなった「新心理学」という言葉は、英語圏において初めて使用さ れたといわれている(26)。過渡期にあった心理学の動きに、デューイは高い関心をもって いたのである。
ラボラトリー・スクール実践期に、彼は、『数の心理学』(The Psychology of Number) の 論争を経験し(27)、イリノイ児童研究協会(Illinois Society for Child-Study) や全国ヘルバ ルト協会(National Herbart Society) へ参加し、そして心理学に関する相当な数の論文を 残している。しかも、この時期の論稿には、第二章で詳しく触れたように、ゲシュタルト 心理学を先取りしたと心理学史上評価されている「心理学における反射弧の概念」(“The Reflex-Arc Concept in Psychology”)、またヘルバルト派に少なからず影響を与えたといわ れる「意志の訓練に関する興味」(“Interest in Relation to Training of the Will”) などが あり、当時の心理学界、教育学界においても、またデューイ自身の立場を確立する上でも、
メルクマールとなる重要な論文が含まれている。
デューイの心理学への関心は、学生の頃から高く、ジョンズ・ホプキンズ大学において、
心理学実験室を初めてアメリカで創設したといわれるG・スタンレー・ホール(Granville Stanley Hall) の教授を受け、心理学実験室で独自に実験をしていたといわれている。ち なみに、学位論文は、『カントの心理学』である(28)。しかしながら、ホールが牽引する科 学としての心理学とは次第に距離を置き始める。児童研究に対する彼の態度に、読み取る ことができる。
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デューイは、当初教育に適用されるという意味で児童研究への期待をしており(29)、1897 年には、児童研究が向かう方向性について述べている。子どもに関する研究は、これまで、
社会組織の一要素としての子どもという発想をもつ政治的観点から、子どもそれ自身とい うよりもむしろ、おとなに対してロマンティックなシンボルであるという美的な観点から アプローチされ、そして現在(19 世紀末) においては成長という観点をもった科学からア プローチされている。科学は、前者の二つにとって代わるものではない。問題をどう扱う のかというところに科学が要求される(30)。デューイの児童研究への期待は、思弁的でな い科学の目をとおした児童研究が、教育の課題に貢献する点にある。しかし一方で、同年 児童研究において推進されていた「科学」に対してデューイは批判をしている。事実を収 集し、振り分け、理論的結論を導き出す科学的研究者の分野と、教育者の興味とに線が引 かれた。図表化し、札をつけ、ラベルを貼りつけることは、教育課題の要求に提供される ものではない。更に、児童研究を生理学や心理学から分離したものと考え、「単なる事実の 収集、仮説研究による不統一、一般化、非啓蒙は、決して科学とはならないし、なること もないだろう。私は、児童研究と一般心理学とのより接近した連合を主張する」というジ ェームズの文を援用している。(31) 一時期、デューイはミシガン大学時代に、マサチュ ーセッツの労働局が調査した数値結果を利用して、女性の健康と高等教育との関係を考察 した時期もあった(32)。しかしながら、児童研究運動との関わりをとおして、数的処理が 人間を解明するという考えからは、離れていくことになる。
デューイに多大の影響を与えたのは、ジェームズであった。「私の思考に入ってきて、
それに新しい方向と質を与えた一つの特殊な哲学的要因」としてジェームズの『心理学』
(正確には、『心理学原理』[Principles of Psychology, 1890])をあげている。とりわけデ ューイが高く評価したのは、「ジェームズが行動における生命から、生命を考えた」という 点にあり、それは、図式的なものではなく、「芸術的、道徳的なものに起源をもつ、深い感 覚」にたいしてであった(33)。
ただし、ここで付言しておかねばならないことは、ジェームズの『心理学原理』の出版 以前の論文に、既に、その後のデューイの心理学の萌芽がみられる点である。生理学的心 理学によってもたらされた革命は、実験という方法であり、それまでの内観による方法を 補足修正する。この実験的方法は、心的出来事を条件づけることで、観察と説明を可能に した。また精神は、原子的なものではなく、外的世界との交際をもち、環境という考えが 有機体という考えに必要であることが知れるようになった。したがって、心理学的問題や
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素材は、日常活動の領域にあることになる(34)。この「環境」という概念は、この論文で始 めて取りあげられたといわれ、実験的方法が心的出来事の条件に目を向けることになるこ と、そして精神は真空という空間ではなく、環境においてこそ生成されるという、その後 のデューイ自身の心理学的観点が既にみられるのである(35)。
デューイの心理学に関する態度は、当初より環境という場における生命の動きに関心が あったものの、当時流行した数的処理にも関心を示すという一時的な揺らぎを経験しつつ、
ジェームズの『心理学』との出会いが、彼の心理学に対する態度を決定づけたといえる。
(二)学校に取り入れられた心理学的観点
新心理学に期待していたデューイは一方で、たとえ実験的方法が導入されたとしても、
社会から孤立した実験室で純粋に理論を構築するだけでは十分ではないと考え、社会的実 践の場との関連の必要性を主張する。彼が取りあげたのが教育であった。論文「心理学と 社会的実践」で、心理学と教育との関連について、以下のように述べている(36)。
おとなと子どもの心理学を別々に捉える仮定がある。この仮定に従うと、おとなの目的 や習慣が特殊化され、それが教育の目的となり、子どもの自由な成長とは無関係に教え込 まれる方法が採られることになる。おとながもつ能力やコントロールというものは、①個 人の目的や問題を実現化することをとおして、②適切な手段や素材の個人的な選択をとお して、③実験やテスト何であれ、この努力に巻き込まれるものを個人的に適用することを とおして獲得される。おとなと子どもを別々に捉える心理学では、おとなにとって能力を 増進させるこれらの条件が、子どもには拒否されてしまう。また、教育実践家が、人のメ カニズムを解明する心理学者と同じ態度をとるならば、扱う対象が人となり、倫理的関係 を壊してしまう。デューイは、教師が子どもを分析対象としてみることに批判的なのであ る。
このようにデューイは、心理学と教育との関連を考えたとき、現実と齟齬が生じる心理 学の仮定を取りあげ、社会的実践との関連の重要性を説く。彼は、実験室での心理学の結 果は生活の条件に近づけることによって解釈されねばならならず、解釈の結果心理学が修 正され構築されていくという。しかし教育実践の場は、心理学のためにあるのではなかろ う。デューイは、実践における心理学の機能を「実践を方向づけ明るく照らす」と述べて いることから(37)、教育実践の方向をとる機能を果たすところに心理学の教育的意味をみ ているといえるのである。
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ラボラトリー・スクールに、取り入れた心理学的観点は、以下の三点である。
一つは、精神は社会的な環境の中で発達していくという点である。旧い心理学は、精神 は外界と直接的に、ありのままに接触する純粋に個人的な出来事とみなされていた。そこ において問題となるのは、世界と精神とが如何に相互作用するかという問題だった。一方、
新しい心理学は、個々人の精神というものを、社会生活のー機能として捉える。つまり、
精神の作用や発達は、社会的な媒介作用から刺激を求め、発達の栄養を社会から供給する という考え方である。したがって、精神は、人類の努力と思考の所産を代表するものであ り、社会的な環境の中において発達するものであること、社会的要求と目的は、精神を形 成する上で最も有力なものであることということになる。(38)
二つは、観念の起源は行動の要求の中にあるという点である。旧い心理学は知識の心理 学、知性の心理学であり、情動や努力というものは、附属的で派生的な位置を占めるにす ぎないものであった。しかし、観念の起源は、行動の要求の中にあり、行動の要求からも たらされるという可能性については、問題にされなかった。(39)
三つは、精神は一つの過程であり限定されたものではないという点である。旧い心理学 は、精神はレディ・メイドの精神であって、子どももおとなも同じものとみなされていた。
例えば、記憶力のような能力の部分は、比較的早い時期に活動し始めるが、判断力や推理 力の部分は記憶力の訓練をとおしてあらわれる。そこでの子どもとおとなの違いは、量的 なものであった。これに対して新しい心理学は、精神を生成する出来事であり、精神は本 質的には変化していくのであると捉える。ある時点での精神は、異なった能力や興味の側 面をあらわしている。能力や興味は、生活の連続という意味では、全く一つのものであり、
同じものである。しかし、それぞれの側面がそれ自体の独特の要求や役割をもっている点 においては、全てが異なっているのである。(40)
それぞれの観点から導かれた教育の試みは次のとおりである(41)。
① 子どもの要求と目的の有機的な部分として、教科を同化すること。
② 理論的操作や感覚訓練を、実際の生活上の問題や興味と結びつけるようにすること
③ 学年に配当された教材を与えることから、ある一定の時期の活動が主導的に進展さ れる方向を育てるところに教材が関わるようにすること。
このように、心理学を応用するということは、心理学において明らかにされた原理を、
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教育実践の方向を照らす観点として導入するという意味であり、心理学の理論構築のため でも、子どもを分析の対象にするという意味でないことが確認できる。そして、心理学的 観点から照らし出された教育学上の実践の試みは、<教材>へと向けられるのであった。
第三節 教育学上の実験の問題
「わが国の大学における最も旧い教育学講座は、約 20 年前のミシガン大学でのことで あり、1870年代後半に開講されたものではないか」(42)。ヨハン・F・ヘルバルト(Johann
Fredrich Herbart)の教育学は、徐々にアメリカに紹介されていた。1889年にチャールズ・
ドガーモ(Charles DeGarmo)によってヘルバルト主義教授理論に関するアメリカ最初の書 物の出版が、1895年には全米ヘルバルト協会が設立された。アメリカ教育界は、アメリカ における学としての教育学の構築期でもあった。
シカゴ大学に赴任したデューイは、哲学、心理学、教育学を総合した教育学部構想の推 進を期待されていた。ラボラトリー・スクール実践前のデューイの教育観は「大学附属小 学校の組織プラン」(“Plan of Organization of the University Primary School”, 1895?) に みられるが、彼の理論体系は実践後の『民主主義と教育』(D mocracy and Education, 1916) を待たねばならない。学校は、心理学の理論を実証するものでなかったのと同様に、教育 においても明確な教育理論があってそれを実証する試みではなかったのである。
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ラボラトリー・スクール設立にあたって、デューイが意図したことは次のとおりである (43)。学校は実験室の考え方を基礎とし、社会的制度として、すなわちコミュニティとし て組織しようとするものであった。この実験室は、生物学や物理学、化学の実験室と同様 の意味をもつ。それは、教育において、教員養成学校とは異なる新しい方向の取り組みを 意味する。つまり学校は、理論的な諸説や原理を公開し、吟味し、確かめ批判するという 理論と実践とを関連づける場なのである。そのためには大学の総力を結集することが要請 され、もし実現すれば、教育界、学生、そして父兄に関心を呼び起こし、他の学校にも提 供できる実験ステーションとなるであろう。そして、その精神は公立学校でありたい。
デューイは、学長ハーパーに、大学卒業後の教育学研究に、組織的で調和的な機会を設 けているところは、当学校以外にアメリカではないと述べ、教育学の問題とその研究をす る機械を与える実践の場として、学校の性格をアピールしている(44)。
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また、教育における理論と実践の関連について、デューイは実験室という観点から述べ ている(45)。教師を専門的に指導することは、理論的なものだけではなく実践的仕事を含 む。実践の目的は、授業方法やクラス管理の技術という専門として必要な訓練を与え、実 践的仕事が実行できるようにすることと、教材の知識や教育原理という現実に生きた理論 的な教授をつくる手段とすることがある。前者は徒弟制度であり、後者は実験室の見解で ある。徒弟制度は教師を準備するが、実験室は、教師に知的な方法と素材を与える。つま り実験室は、原理をより生き生きと理解する物理や化学を学ぶ生徒と同様に、教師を教育 学を学ぶ者とする。熟練の人のもつ管理や技術を習熟することその限りにおいて教師の知 的独立は欠けてしまうが、教師が教育学を学ぶ者としての精神をもつならば、その精神は、
状況の絡まった混乱を打ち破る方法を見出すこととなるだろう。通常の教員養成学校にお いて固定されている教材が、知的な活動においては組織化することが要求されるのである。
このように、デューイは実験室を、理論と実践を関連づけ、問題を解決する方法を見出 す実験をおこなう場としていることがわかる。本研究で考察している探究の題材としての
<教材>は、この問題に位置づけられる。すなわち、教員養成学校では固定されている教 材を問うことである。ここに、デューイの「新しい進路にそって実験を企てる」教育学の 構想は(46)、理論と実践を関連させることであり、その一環としてラボラトリー・スクー ルが設立され、<教材>は、具体的な問題であったことが確認できる。
以上みてきたことから、教育学上の実験は、次の文に収斂されよう。
「実践的側面においてこの実験室という問題は、能力や経験に関して、子どもの自然 な成育史に調和するようなコース・オブ・スタディの構成の形態を獲得するという問題 に他ならない。この疑問は、成長のある一定期にみられる主要な要求や能力に最も的確 に応えるような、主題(subjects) の種類や多様性、そしてその配分を選択することであ り、選択された素材を成長が生き生きとしたものとなるように入り込ませる提示の様式 を選択することである。」(47)
心理学における実験室が、哲学からの独立を意味したように、教育における実験室の創 設を教育学の学問としての成立を企てた証左としてみるならば、アメリカにおける教育学 を創設しようとする、デューイの構想を垣間みることができる。そしてその実験の対象は、
<教材>という授業における具体的な問題に他ならないのであった。
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第四節 <教材>からみたワーク・レポート
シカゴ大学附属図書館のアーカイブに、ラボラトリー・スクールのワーク・レポート (Laboratory Schools Work Reports) が保存されている。教師たちは、週一回のミーティ ングが課せられ、レポートが要求されたのである。このワーク・レポートをどうみたらよ いのだろうか。<教材>の視点から考察するのが、本節の目的である。
レポートの冒頭に、デューイによると思われる、ガイドラインが記載されたレポート計 画(Scheme for Reports, October, 1898) がある。(資料2.)ポイントは、三つである。一 つは、その週の実際の教材についてであり、どんなものなのか、なぜそれを取りあげたの か、理由を記述することが要求されている。二つは、作業の理由と動機を明瞭に述べるこ と、学校の他の作業との関連、活動が設定されることになった経緯についての記述の要求。
三つは、各教科、歴史、科学、手作業についての細かな記述の要求である。この三つのポ イントに共通する点は、子どもたちによってなされた作業、使用された素材や道具につい て、克明に記載することである。
このように、デューイがワーク・レポートに期待したのは、素材を取りあげた理由、取 りあげ方、取りあげた結果どうなったかという、<教材>に関するものだった。
実際の、ワーク・レポートをみてみよう。資料3.に、最初期のものの一部を載せてお いた。一目みてわかるように、レポートは、各教科ごとに分けて書かれている。タナーは、
伝統的教科の名称をみて、これがデューイの学校かと、飛びあがって驚いたことをあかし ている(48)。レポートは実践の初期のため、ガイドラインに記載された要求からすると、
プリミティブな印象は否めず、それぞれの記述の分量にもばらつきがある。以下の引用は、
1898年10月3日から14日におこなわれた、Ⅳグループ(7歳児)の歴史の授業である。
デューイが参考になると述べた、レポートの一部である。
「子どもたちは、食べ物、家、道具、火の発見、動物の家畜化、陶器の作製、銅の発 見と使用について、ざっと概観し、原始の人々の状況に導かれた。(そして子どもたち は)時代ごとの用途へと導かれ、常に真実へと案内された。・・・二週目(の授業)は、
種族の移住の理由について考えることから始まった。・・・メンバーの二人は、部屋の 角に行き、種族が移動すべき理由について考えるよう要求され、もどってきて報告した。
また、二人以上のメンバーは、別の角に行き、種族が、まさにふさわしい場を発見した
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として、その場を『仮定』するように要求された。残り(の子どもたち)は、なぜ、全 ての種族が移動しなかったのか、理由を考えることを要求された。・・・最初のグルー プは、家畜の飼料の欠乏を報告した。二番目のグループは、家畜の飼料を探している間 に、粘土の地層が近くにあって、川によって水が得られる谷を発見したと仮定した。そ して、最終的にある子どもの言ったことが(移住の理由の)確信に触れた。『そこには 美しい風景があったんだ。』」(括弧内論者)(49)
子どもたちは教科書の知識を与えられるのではなく、探究へと導かれているが、教師の 指導がかなりなされていることがわかる。素材は、子どもたちの身近な生活のものであり、
問いは原始世界の探究へと誘うためだった。ここでの<教材>は、「部族の移住の研究」と いうことになろう。
ところで、レポートは単なる実践記録ではなく、ミーティングにおいて教師たち自身の 実践を検討するための資料であった。ミーティングにおいて、デューイは教師たちに教育 の本質に関わる問いをなげかけている。
一つは、教授過程という点において各教科に共通の要素はあるのか、という問いである。
子どもの年齢はさまざまであり、教科もさまざまである。全てに共通であるといえるよう な共通の目的はあるのかという問いである。二つは、知的な狙いは、ただ一つのことか、
あるいは多数か、という問いである。それは、知的な狙いは、観察、記憶、判断などの多 数考えられるが、それらは分離されたものか、あるいは、関連のある一つのものであるの かという問いである。三つは、これらの追及したい狙いに相当する標準となる精神の過程 はあるのか、という問いである。標準となる精神の過程があるならば、どのようなものを 教師は利用するのか、どこで教師は関与するのか。もし、それが自然の過程ならば、なぜ 精神それ自体でケアできないのか、子どもの精神における動きと、教師の責任との関係は 何かと、デューイは質問をたたみかける。四つは、知的な狙いにかなう学びのさまざまな 道筋に対する意義は何か、である。(50)
教師たちの議論が、知識となったとき、デューイは問う。もし、教育の目的が知識であ るならば、いかなる知識が獲得されるべきか、知識とは何かと詰め寄る。そして、自己コ ントロールの能力を増すような仕方で経験を獲得するような合理的に保障される方法はあ るのかと突っ込み、更に次のように述べる。一般的な原理、つまり真のアート、あるいは 科学とよばれる教授の原理があるのではないか。子どもに経験を与えれば、新しい経験を
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とおした自己コントロールの能力が得られる。それを可能にするのは、教材や教材に含ま れる方法を選択することである。新しい何かをもたらすという意味は、問題として子ども の前に示めされる。難しさ、疑わしさであり、新しさは物や素材ではない。(51)
このようなデューイの指導のもと、レポートを資料にして、教師たちは議論した。ワー ク・レポートは、教師たちが教育について考える素材だった。つまり、教師たちは、教科 や学齢の枠組みを超えた学びに貫通する原理を追求しながら、自身の受け持つ生徒や各教 科の<教材>をどうしたらよいのかを考え、自身の授業を反省していったのである。
ワーク・レポートは、各教科に分けて書かれていた。授業も各教科の専門家が受け持っ ていたように、教科それ自体は解体されていないのである。しかしながら、議論は、教科 枠を超え、それぞれに共通する学びの観点であった。ラボラトリー・スクールの<教材>
に関する実験は、各教科において、子どもの経験と各教科の内容を素材にして、経験がリ ニューアルできるような学びを保障するための<教材>の論理の模索と考えられる。
デューイは、ラボラトリー・スクールを紹介した著書『学校と社会』で、「教育には初等 も高等もない、あるのは教育だけである(simply education)」と主張する(52)。そして、「わ たしたちは、他の学校でわたしたちのやっていることを文字通り模倣することなど、期待 しているわけではない。動きのある実践モデルというものは、コピーされるようなもので はない。それは、原理の実行可能性とその原理を実行可能とする方法を表明し、結果を生 み出すものである」と注意を促す(53)。デューイの導きによってなされた実践のワーク・
レポートは、単なる授業記録としてではなく、経験の原理の実現の可能性と格闘した一記 録としてみるべきではあるまいか。われわれが、ワーク・レポートに問うべきことは、各 教科においてどうであったか、子どもの年齢段階においてどうであったかではなく、<教 材>がどのように設定され、子どもたちがどのように導かれていったのか、経験をリニュ ーアルすることの可能な学びを保障する環境としての<教材>の本質に関することではな いか。<教材>を視点にしたとき、このような点が照射されるのである。
第五節 <教材>とオキュペーションの位置関係
最後に、デューイのいう<教材>とオキュペーションとの位置関係についての考察であ る。デューイは『学校と社会』で、ラボラトリー・スクールでの実践をオキュペーション
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活動として説明しており、本研究で明らかにしてきた<教材>との位置関係を明確にする ことは、避けられない考察である。この考察によって、ラボラトリー・スクールとは何か、
という問いに、<教材>の視点から最終的に応えることになるであろう。まず、オキュペ ーション導入の意図を確認することから始めたい。
(一)オキュペーション導入の意図
19世紀、アメリカ社会は「アメリカ史の分水嶺」といわれた農耕社会から産業社会への 変化の中にあった(54)。デューイは、偉大なる発明が生じ、自然の力を利用できるように なり、世界的な市場の発展、製造工場地の発達、商品の流通分配手段の発達がなされたと、
この社会の産業化への変化を肯定し、「人類史上、これほど迅速で、広範囲にわたり、しか も見事な革命が起こってきたことは、信じがたいことである」と驚嘆している(55)。
たとえば、綿工場の発展をみてみよう。南北戦争直前の1860 年、520 万台だった紡錘 数は、1910年には、2,740万台にのぼり、それに乗じて、綿製品は約3倍の生産高となる (56)。工場で働く労働は増加し、シカゴでは、1850年から1900年の間に、人口が3万人 から170万人に膨れたという(57)。更には、物資を運ぶ交通手段である鉄道の整備、20世 紀に入ると自動車の一般向けの生産が始まった。一方、農業も産業化の波を受けている。
それは、近代工業がそれまでの農業の形態を分解、破壊するというよりもむしろ、農業が 積極的に工業を牽引し、新興工業を引き出してきたという特徴をもつ(58)。1850年の144.9 万件から、1900 年には574 万件と農場数が増加し、生産高が上がるが、農業人口の割合 は減少する。これは、農業機器や農業生産の発展の結果であり、これまでと同じ労働力で 大規模な農場経営が可能になったことが背景といわれている(59)。産業化は、農業も例外 ではなく、それまでの農業の形態に変化をもたらしていた。
デューイは、このような社会変化が、人間本性の最も保守的なところ、すなわち、道徳 的、宗教的な観念や関心という形式的で表面的なものではない、何か本質的なところで教 育に影響を与えるのではないかと懸念している(60)。そして、農業が産業化される以前に みられた家庭や地域社会に思いを馳せる。「家庭は、産業上のオキュペーションの典型的な 形式一切がなされていたし、家庭は仕事をおこなう実践的な中心でもあった。衣服はその ほとんどが家庭でつくられていた。羊の毛を刈ったり、その毛をすいたり紡いだりし、機 織り機を使うことにも慣れていた」。そして、釘やハンマーなどの道具も隣近所でつくられ、
生活の場で、子どもたちは物をつくる工程がいつでも直にみられたのである。また、子ど
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もは、体力や能力がついてくるのにしたがって、作業を分担し、「秩序を守り勤勉であるこ との習慣、責任の観念などの訓練」の諸要因が育まれていた。更には、「自然にじかに触れ ること、現実の事物や素材の取り扱い方、それらのものを実際操作する過程に触れること から得られた、しっくりと身についた知識、それらの事物の社会的な必要性や用途につい ての知識をもつこと」、そして「観察、創意工夫、構成的想像、論理的思考、また実際、事 物にじかに触れることをとおして得られる現実感が、絶えず訓練されていた」(62)。
デューイは、産業の発展による社会の変化を肯定するも、それによってかつて当たり前 にみられた農耕社会における教育的意味が失われたことを指摘する。そこで、その教育的 意味を復活するために、農耕社会のコミュニティでみられた「一種の活動様式」(a mode of activity) (63)、すなわち、オキュペーション(occupation) を導入したのであった。
一方、産業社会への変化にともなって、アメリカは移民の増加にも遭遇していた。1880 年代以降渡ってきたアイルランド人やドイツ人の移民は、「新移民」と呼ばれ、文化の違い、
英語力の乏しさ、熟練した技術をもたないことなどから、低賃金の労働に就き、貧しく、
スラム街を形成していた(63)。当然、これら移民の子どもたちの生活は、経済的、教育的 に厳しく、児童労働の問題も生じていた。児童労働禁止法が各地で制定されてはいたが、
20世紀初頭においても、6、7歳児の労働がみられたという(64)。シカゴでセツルメント活 動をしていたジェーン・アダムズ(Jane Addams) は、この移民の生活状況を、アメリカ産 業社会への不適応ではなく移民たちの文化の分断という精神的な過酷さから捉えた。それ は、アメリカ社会における産業社会と自分たちの祖国の文化との分断のみならず、アメリ カ社会の文化になじむ子どもと祖国の文化をもつ親との分断を意味した(65)。アダムズの設 立したハル・ハウス(Hull-House, 1889) に併設された労働博物館(Labor Museum, 1900) は、このような分断をなんとかしようとする彼女の思いからつくられた施設である。デュ ーイとアダムズとの交流は、よく知られている。デューイは、「アダムズのセツルメント事 業に参加することによって、都市における移民の家庭生活の崩壊を知り、これをアメリカ 社会における家庭や近隣からの『オキュペーション』消失として一般化した」といわれて いる(66)。アダムズとの交流によって、どちらがどう影響を与えたのかは定かではないが、
少なくともコミュニティ回復への志向は互いに共有していたと考えられる。
このように、デューイは、農耕社会にみられた活動様式に、作業をとおして身についた 知識の獲得や創意工夫などの知的な訓練がなされるという教育的意味をみたのであり、そ れをオキュペーションとして学校に導入した。それは、コミュニティ回復の意味も含まれ
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る。しかしながら、ここで注意が必要なのは、オキュペーション導入を農耕社会への立ち かえりと捉えてはならないだろう。デューイにおいて産業の発展は、人の知的な行為の結 果であり、それは、農耕社会でみられた人の知的な行為の延長線上に位置づけられるもの である。彼は、産業社会を否定していないのである。彼の批判は、学校が、3R’sの暗記や 訓練といった社会においてみられた知的活動から隔離された特別のレッスンをする場にな っていることにある(67)。したがって、オキュペーションの導入の意図は、社会の変化に 応じることであり、それは、これまで社会の発展を成し遂げてきた人の知的な行為を産業 社会における学校において復権させることだったのである。
(二)<教材>とオキュペーションとの位置関係
次に、デューイがオキュペーションの説明に使用したラボラトリー・スクールの事例、
糸紡ぎ活動を取りあげ、<教材>との位置関係を考察したい。
「子どもたちは最初に、亜麻、綿、羊の背から刈りとったままの羊毛という生の素材 が与えられた。そして、それらが用いられるべき用途にふさわしいかという観点から、
素材に関して研究がおこなわれた。・・・綿花の莢玉と種子から木綿繊維を引き離すの に、三十分間も時間がかかったのだが、一オンス足らずしか取り出せなかった。一人の 人間が手では、一日に一ポンドしか繰り出すことができないことがわけなく信じること ができた。また、なぜ自分たちの祖先が、木綿ではなく羊毛の衣服を着用していたのか という理由を理解することができた。・・・子どもたちは、教師からの質問や示唆に助 けられて、実際の原料を取り扱っているうちに、このようなことを、自らの問題として 導き出し、それを解き明かしていったのである。」(68)
<教材>の視点から鳥瞰してみると、子どもたちは、亜麻や綿花、羊毛といった素材の 性質を教師から教えられるのではなく、素材を実際に取り扱うことをとおして繊維の性質 を知り、用途と関連づけて理解している。ここでの<教材>は、「繊維の研究」となろう。
子どもが理解した内容は、実は、デューイが知らないこともあった。「私は、木綿産業の発 展が羊毛の産業の発展と比べて遅れた理由は、綿の繊維を種子から手で引き離すことが、
大変難しかったからであることを、子どもから教えられるまで知らなかった」(69)。木綿 産業が遅れた理由は、実際に綿花を扱うことをとおして得られた、子どもの創意工夫が含
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まれたオリジナルな理解である。他の子どもたちとともに素材を操作し、自らの問題とし て素材の性質を研究し、綿花や羊毛の性質に関する知識を他者と共有するが、教師が気づ かなかった意味をも獲得したオキュペーションは、デューイのいう<教材>にかなった活 動であるといえる。
それでは、オキュペーションを<教材>とみてよいのであろうか。探究の題材としての
<教材>は、個人の問題から始まる。「繊維の研究」は、教師による素材の提示や質問、示 唆の助言をとおして、自らの問題として導かれた結果である。オキュペーションそれ自体 は、かつて農村で当たり前にみられた「活動の様式」、すなわち方法であり、活動の内容で はない。<教材>を表すsubject-matterは、探究の “what” と “how” とを含んでいた概 念であった。<教材>は、教師による素材の提示と導きという、教師の意図が関与した結 果である。ラボラトリー・スクールの教師たちは、毎週レポートが課せられミーティング がおこなわれ、活動内容が検討されていた。先にみた、デューイの導きを土台とし、幼稚 部、歴史、科学などの各領域のディレクターによる活動の方向づけや、活動内容がふさわ しいか否かの判断があった。「このような制約の中で、具体的な素材やその扱い方の方法の 展開は、全て教師たちの手に握られて」おり、ミーティングをとおして<教材>の判断が なされたのであった(70)。「教材の選定も学習課程の立案に至るまで、ほとんど全く教師た ちの手に委ねられてきた」のである(71)。つまり、学校での活動は、独自のカリキュラム を開発してそれを実践で実証するのではなく、疑問符をつけたスタートだったわけである (72)。次の四点は、その疑問である。
① 学校を、家庭や近隣の生活といっそう密接な関連をもたせるにはどうしたらよいか。
② 歴史や理科、美術に関する教科を取り入れ、幼い子どもたちにも、価値あるものを 表現させるようには、どうしたらよいか。
③ 形式的で記号的な分野の教育を、日常の経験や仕事をとおしてもたらすにはどうし たらよいか。
④ 個々の子どもたちに対する留意をするにはどうしたらよいか。(73)
オキュペーションは、これらの問題を解決するための具体的な活動であり、その結果、
<教材>がつくられた。<教材>とオキュペーションの位置関係は、次のようにいえる。
<教材>は、オキュペーション活動から生じたのである、と。
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おわりに
以上より、ラボラトリー・スクールは、新心理学によって明らかにされた観点を作業仮 説にした、アメリカにおける理論と実践との連携をもった教育学構築のための実験室であ った。それは、産業化される以前の農耕社会でみられた知的活動を学校で復権するという デューイの社会的構想の基礎の上に設立された。<教材>は、実験の具体的な問題であり、
この問題をどのように解決していったらよいのか、子どもと教師の face-to-face の関わり において<教材>を生み出す過程に実験の狙いがあった。つまり、ラボラトリー・スクー ルは、<教材>を開発するための問題を実験し、検討する実験室だったのである。
『学校と社会』において、デューイはラボラトリー・スクールの実践を、オキュペーシ ョン活動として説明を繰り広げているが、1938 年の『経験と教育』(Experience and
Education) では、「オキュペーション」という言葉は一度切りしか使用していない。おそ
らくオキュペーション概念は、<教材>概念に吸収されていったのではないか。
このように、ラボラトリー・スクールでの実践を<教材>開発の実験であったと考える ならば、これまでなされてきた批判に、以下のように応じられる。
一つは、裕福な白人の子弟、優れた教師たち、子どもの人数が少ないなといった「あの 学校は特別の学校である」という批判である。ラボラトリー・スクールは、<教材>を開 発する実験室であった。したがって<教材>の視点からみたとき、問わねばならないこと は、表面にあらわれ出た活動それ自体ではなく、その活動がどのような見地からなされ、
どのように工夫されていったのか、観点と過程にこそある。心理学的観点を教育に導入し 実践するとはいえ、経験をリニューアルできるための条件となる確たる<教材>の理論が あったわけではないのである。「われわれは、他の学校で文字通り模倣されることなど期待 しているわけではない。生きている実践モデルというものは、コピーされるようなもので はない」、「他の学校で、実験する必要をなくす」ためのものとデューイはいう(74)。おそ らく彼は、このように応えたかったのではなかろうか。ぜひ、この学校でなされた結果を 活かして、あなたの学校にふさわしい<教材>を開発して下さい。生徒の年齢、人種、学 校の形態、それぞれ違うでしょうが、状況が異なれば、当然、<教材>は異なります。し かしながら、経験をリニューアルするという学びは、どのような状況においても貫かれる 教育の目的です。教育には高等も初等もなく、あるのは、「教育だけ」(simply education) なのです(75)。
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二つは、子どもを実験台にしているという批判である。デューイは、ラボラトリー・ス クールが、「実験学校」(experimental school) と呼ばれることを好まなかったが、それは、
「親たちが、自分たちの子どもを使って何か実験しているのではないか」と思われること を恐れていたためである(76)。ラボラトリー・スクールの実験の問題は<教材>であり、
子どもに特別なプログラムを与える実験ではなかった。<教材>は、子どもとの協働作業 の結果なのである。第四章で考察したが、<教材>は、子どもも教師も成長するようなコ ミュニケーションの基盤であった(第四章、第四節)。したがって、ラボラトリー・スクー ルにおいて、子どもは、教育を授けられる者というよりもむしろ、実験の参加者だったの ではあるまいか。
ラボラトリー・スクールへの批判は、<教材>の視点からみたとき、以上のように応え ることができるのである。
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