の継承と展開
著者 島薗 進
雑誌名 神学研究
号 59
ページ 127‑141
発行年 2012‑03‑20
URL http://hdl.handle.net/10236/8893
── 伝統的な死生観の継承と展開 ──
島 薗 進
1.死生学の興隆
2009
年には滝田洋二郎監督の映画「おくりびと」がアメリカのアカデミー賞外国 語映画賞を受賞した。外国人にも感銘を与えたこの作品は、現代日本人が死生観に大 いに関心をもっていることをよく示している。では、いつ頃からそうなったのか。従 来からこの傾向があったのか。いやいや、近代人は死を遠ざけてきたといわれる。近 代化が進むと死の儀礼を次第に簡素なものにし、死を口にすることをきらうようにな る。死の文化を疎遠化してきたのだ。ところが、その傾向があまりに強まってきたので、今度は死の文化を取り戻そうと する動きが起こる。ホスピス運動が大きな原動力となって、アメリカやイギリスでは
1960
代にタナトロジー(Thanatology)、あるいはデス・スタディーズ(Death Studies)が、日本では
1970
年代に死生学が興隆する。他の地域でも同様の動きは広がってお り、国際的な広がりをもった文化動向と見ることができる。「おくりびと」はこうし た文化動向を受けた創造的な作品の例と見ることができる。英語の
Thanatology
やDeath Studies
という語に対応する日本語として「死生学」という言葉が使われるようになったのは、1970年代のことで、医療やケアの現場に 密接に関わる新たな知の様態として登場してきた。死生学を学ぼうとするもっとも早 い動きは、
1977
年に大阪で始められた「日本死の臨床研究会」であろう(岡安2001)。それに先立って、淀川キリスト教病院の精神科医、柏木哲夫は、死に行く者
に対する独自の「チームアプローチ」を行っていた(柏木1978)。これはホスピスケ
アにひじょうに近いものだったが、柏木自身はまだそのことを意識していなかった。日本で初めてホスピスが紹介されたのは、朝日新聞の
1977
年の記事によるもので、日本死の臨床研究会の発足とほぼ時を同じくする。
「日本死の臨床研究会」は
1982
年の第6
回の集まりにはすでに500
名近い医療関係 者を集めるに至っていたという(柏木1987)。81
年には聖隷三方原病院に日本最初の ホスピスが設立され、84年には淀川キリスト教病院でもホスピスが設置される。以 後、ホスピスが必要だという認識は急速に広まっていく。もちろん、そこにはそうな るべき必然的な理由があった。医療の発達によって「畳の上」で死ぬ機会は急速に減― 127 ―
っていった。だが一方、病院で死に行く人々に対して、ケアをするすべを知らないと いう、近代医療の重大な欠陥が次第に露わになってきたのである。死に向き合うすべ を知らない病院に絶望して、ホスピス医となった山崎章郎医師による『病院で死ぬと いうこと』(主婦の友社)が大ヒットとなったのは
1990
年のことであるが、病院での 死の無惨さは、その頃には多くの人々の如実な体験となっていた。看取る側の苦境の自覚も高まった。1980年代には身近な家族が死に直面していた り、家族の死を経験した者たちの悲嘆に応じるケア(グリーフワーク)の場が求めら れるようになった。カトリックの神父でもあるアルフォンス・デーケン教授は、1982 年に上智大学で「生と死を考えるセミナー」を開いたが、その聴講者が集うようにな り、翌年、「生と死を考える会」が始められた(デーケン
1996)。この集いは大きな
反響を呼び、1996年の段階で東京の会員は1500
名を超え、全国35
カ所で同様の集 いが開かれるようになっていた。並行して、各地でグリーフワークの集いがもたれる ようになった。デーケンは自らのライフワークを「死の準備教育」(デス・エデュケーション)で あるという。人は子どもの時から死と向き合うしかたを学んでいくべきだとし、小学 校から大学までそのような授業をカリキュラムに組み込もうとするものである。そし て、「死の準備教育」を支える学問的な知の体系が「死生学」である。デーケンはド イツをモデルにこのような試みを広げようとしたが、1990年代には日本でも「死の 準備教育」や「死生学」に関わりが深い本がいくつも刊行されるようになった。
キリスト教色が強いホスピスやグリーフワークの広がりを追うように、仏教界はビ ハーラの運動に乗り出すようになる。ビハーラとは「安らぎの場」を意味するが、ホ スピスに対応する仏教用語として使われるようになる。長岡西病院を拠点として浄土 真宗の関係者である田宮仁が、ビハーラの理念を提唱するのは
1985
年だが(田宮2007)、それは直ちに多くの仏教教団内に賛同者を見いだした。東京の仏教情報セン
ターの中に仏教ホスピスの会ができたのは1987
年であり、デーケンの「生と死を考 える会」と類似の「いのちのつどい」が行われるようになる。こうして90
年代には、仏教が加わった多様なターミナル・ケアやグリーフワークの試みがなされるようにな る。こうした動きを踏まえて、1993年にキリスト教系の東洋英和女学院大学では、
大学院人間科学研究科に死生学のコースが開設されつ。95年には日本臨床死生学会 が結成され、その第
1
回大会が開かれている。21
世紀初期の世界的な動向は、ホスピス専門施設の拡充という方向にはない。多 くの病院で緩和ケア・システムが導入され、緩和ケア専用のユニットが設置されてい るところもある。また、在宅のホスピスケアが推奨されており、欧米ではその組織化 が進んでいる。緩和ケア、ホスピスケアに関わる医師、看護師、臨床心理士、ソーシ― 128 ―
ャルワーカー、ボランティア等が学ぶべき専門知識や背景知識として、死生学は大学 等で教えられ、学会や専門学術雑誌も刊行されている。東アジアでも
2008
年現在、各国で死生学にあたるものの組織化が進められている。
2.近代日本の死生観言説
デス・スタディースやタナトロジーをそのまま日本語に移せば「死学」となるはず だ。ところが
70
年代以降の日本では、「死学」は用いられず、「死生学」が用いられ るようになった。また、中国・台湾・韓国のように「生死学」という語が用いられて もよかったはずだ。しかし選ばれたのは「死生学」だった。そうなった理由を考えると、それまでに「死生観」という語が頻繁に用いられてき たという事実が浮かびあがってくる。「死生観」について度々論じてきた経験があり、
「死生学」の語が耳に入りやすかったのだと推察できる。もっとも「死生観」となら んで「生死観」という語もある程度、用いられていた。
この
2
つの語は戦時期(アジア太平洋戦争期)にはともにほぼ同様の語義をもった ものとして、好んで用いられた。試みに戦火が激しさを増す1943
年に、神道史研究 者である西田長男の編集により刊行された『日本精神と生死観』という書物を見よう(有精堂出版部)。10人の執筆者のうち、9人がその論考の表題に「死生」または「生 死」の語を用いており、「死生」や「死生観」が
3
人、「生死」や「生死観」が6
人で ある。多くの日本人兵士が戦地にたおれている事態を踏まえて(アジアの民の死には 視野を及ぼさずに)、国民に死への覚悟を促す書物と言ってよいだろう。意図的に「生死」の語を選んで用いているのは鈴木大拙である。大拙は「日本人間 における生死観の発展」にふれているが、そこでは神道に対して仏教を重んじる姿勢 がはっきりしている。とりわけ日本仏教の独自な諸宗派が成立した鎌倉時代の仏教を 優位に立たせようとする意図が見え、そうした意図のもとに「生死観」の語が用いら れている。
「生死と云ふ言葉が宗教的意味に用ゐられたのは印度が始まりだが、生死の二字は つまり代表的である。この二字で単に物理学的及び生理学的変化を意味するだけでな く、もつと廣い意味で、宗教意識喚起の契機となる人生の経験事象をすべて云ふので ある」と大拙は述べている。つまり「生死」の語には、「個人的に苦楽の問題、地獄
カルナー アガペ
・極楽の思想、浄穢の観念、業・神・悪・悲・愛・永遠の生など」の観念がすべて含 まれている。ところが、その意味での「生死」を鎌倉時代までの日本人は深く考えて いなかった。大拙はこのように、鎌倉時代以前の仏教を含めた日本の思想にたいへん 低い評価を与えている。
― 129 ―
鎌倉時代以降、深い宗教的体験がもたれるようになり、それに応じた思索が加えら れて始めて生死の自覚が生まれる。知的にも情意的にも心の奥底に「動くもの」があ る。それは「大悲」により動くものであり、また「般若」(知恵)でもある。それは 禅と浄土教に結晶していく。
日本人は鎌倉時代で始めて否定の論理を経験し、動く般若の道に初一歩を踏み だしたのである。日本人の生死観はここで宗教的性格を帯びて来る。宗教的性格 を持たない生死観は人間の歴史に何等の価値を有しないのである。(中略)
日本人のもつ生死観は、それ故に、鎌倉時代で出来上つた。動く般若は二つの 方向を取つた、一つは庶民階級を通して行き、今一つは武士階級に浸み込んだ。
武士的生死観と庶民的生死観と──これで日本人の生死観即ち宗教意識なるもの は盡きて居ると云つてよい。
武士的生死観を代表する句として、大拙は戦い合って討つものも討たれるものも、
どちらも「露のようなものであり、雷のようなものである。そう思い澄ませ」(如露 亦如電、応作如是観)という句をあげる。また、庶民的生死観を代表するものとし て、「あみだぶ(阿弥陀仏)と喚べば答へて御佛は/まくらの上に現はれにけり」と いう句をあげる。
武士の方は勝負のとき無我の境地になって生死の境をともに超えてしまう、庶民の 方は念仏によって直ちに阿弥陀仏に迎え取られるような境地になるというような意味 だろう。大拙の著として名高い『日本的霊性』(大東出版社)が執筆・刊行されるの は
1944
年のことだから、この文章は『日本的霊性』が書かれる直前の段階での大拙 の思考を反映したものだ。大拙は戦時中の死の覚悟に関わる事柄として「生死」や「生死観」の語をとらえ、それを「日本的霊性」の核心に関わるものと見ていた。
死の覚悟に関わるような用語として「生死観」が用いられるのは戦時期、とくにそ の末期の特徴だが、この時期には仏教に力点が置かれているかどうかは別として、
「生死観」の語と「死生観」の語がほぼ等しい語義で用いられていた。
このような併用は戦後にも持ち越される。たとえば、「戦艦大和ノ最期」(1949年)
の著者、吉田満の絶筆となった一文を収めた書物はその文の題を取り『戦中派の死生 観』(文芸春秋、1980年)と名づけられたし、リフトンや加藤周一らの共著の日本語 版は『日本人の死生観』と題された(上下二冊、ロバート・リフトン、マイケル・ラ イシュ、加藤周一著、岩波書店、1977年)。一方、宗教学者の岸本英夫は「生死観の 類型」や「現代人の生死観」について論じ(脇本平也・柳川啓一編『岸本英夫集 第 六巻 生と死』渓声社、1976年)、神道学者の安蘇谷正彦は『神道の生死観』(副題
― 130 ―
は「神道思想と「死」の問題」、ぺりかん社、1989年)について論じている。これら の論者は「死生観」と「生死観」の語の使い分けに、それほどこだわってはいない。
そもそも「生死観」は「しょうじがん」と読むのか「せいしかん」と読むのかも明瞭 でないことが多い。
しかしアジア太平洋戦争の戦時期以前は、「生死観」の語がそのような意味で用い られることはあまりなかった。「死にどう向き合うか」とか「死後についてどのよう な考え方をとるのか」というような問題に取り組むときは、「死生観」の語を用いる のがふつうであり、「生死観」の語を用いることは少なかった。たとえば、1922年に 刊行された長谷岡唯見の『生死及来世の哲学』(日本禅書刊行会)は浄土真宗の立場 から「死にどう向き合うか」とか「死後についてどのような考え方をとるのか」とい った問題に答えようとしたもので、本文中には「生死」の語が頻出する。
全体我々は生死を離れるとか、生死から脱するとかいふと、すぐに何んだか神秘 的な世界を連想して、その世界に到らなければ実現できないことのやうに思つて しまつて、我々には不必要論なり卓上の空論なりと片附けてしまふ悪癖があつて 困ります。併しそれも無理ならんことで、この肉体を持ってをる限りにはどうし たつて死なずにすまないのですから……。併し、いま仮りに支那の誰かのやうに 不老不死の霊薬を探し廻つて、萬ヶ一にも探しあてたならば死なずにをれるかも 知れません。(中略)マアさういふことはどうでもよいとしておいて、いま仮り
のが
に、我々が何等かの方法によつて死を脱れることが出来たとしても、亦できると
のが
しても、モウ一つの生から脱れることは一寸むづかしいやうに思はれます。
「死」を問題にするというが、「死」を逃れたとしても「生」という問題が厳然とし てある。「死」と「生」の双方を問わなくては意味がない。「生死」の両方からすっか り逃れてしまうことはできないからだ。ところが、「釈尊は此肉身があればこそ生死 から離れることができるのであると云はれるのだから面白い。何んだか耳をつまんで 鼻をかむやうな話ですが、茲が仏教の味ひのあるところであり、有難いところであり ます。」これは死だけにこだわらないで、仏教の全体を学びなさいという教えだ。
「総論」のさわりだが、ここには「死生」の語は一度も登場しない。にもかかわら ず、この総論は「死生観を論じて来世の真義に及ぶ」と題されているのである。「死 にどう向き合うか」とか「死後についてどのような考え方をとるのか」というような 問題に取り組むとき、仏教徒は必ずしも「生死観」の語を用いるのを好まなかった。
「生死」というなじみ深い仏教用語を用いながら、あえて「死生観」の語を用いたの がこの例である。
― 131 ―
このように考えると、戦時期に到るまで、「生死観」という語があまり用いられな
とつどう
かった理由が納得できる。実際、1904四年に刊行された加藤咄堂の『死生観』(井洌 堂)以来、もっぱら「死生観」の語が使用される定着する時期がしばらく続いた。
「生死」の語を用いると仏教独自の教説の世界に深く引き込まれて行かざるをえなく なる。だが、人々が関心をもったのは、そのような仏教教説の世界ではなく、「死」
をめぐる新たな言説・考察領域だった。
そうした言説・考察領域を指し示すにはとりあえず「死生観」の語の方が適切に思 えたのだ。そして、戦時中から戦後にかけての「死生観」「生死観」の用法は、1904 年以来の「死生観」の用法を引き継いでいく。読み方としても仏教的な意義を喚起す る「しょうじかん」ではなく、「しせいかん」の言い換えとして受けとられがちな
「せいしかん」が用いられる機会が増えたと思われる。
3.日本の死生学の歴史と特徴
「死生観」という語は、1904年に加藤咄堂が『死生観』という著書において用いて 以来のものである。この書物は大きな反響があったようで、加藤は引き続き『増補死 生観』(1905年)や『大死生観』(1908年)を刊行している。その後も死生観という 語は時々思い起こされ、アジア・太平洋戦争期には出征する若者たちを励ます意図を もって、死生観に関わる書物がいくつも刊行された。
他方、柳田国男を祖とする日本民俗学は、その旗揚げの雑誌である『郷土研究』(1913 年創刊)以来、日本人の霊魂館、他界観について多くの論述を積み重ねてきた。この 領域に関わるフィールドワーク的な研究は、民俗学のみならず、文化人類学や宗教学 でも分厚い蓄積をもっている。日本人の死生観についての著述は、文学研究、美術史 研究、思想史研究において、また社会学や心理学において多彩な業績を生み出してき た。20世紀の全体を通して日本の人文学、社会科学のさまざまな領域で、死生に関 わる文化や行動の究は豊かに進められてきた。
1904
年に加藤咄堂が『死生観』を刊行し、「死生の問題は永久の疑団として吾人の 前に横たはれり」と述べたとき、日本ではすでに「死生問題」が知識人が取り組むべ き重要な論題であるという意識が育ちつつあった。3年前の1901
年に、中江兆民は 死を宣告されつつ『一年有半』『続一年有半』を著したが、そこでは「哲学」の立場 に立脚しつつ唯物論に基づく死の観念が誇らかに説かれていた。「躯殻」=物質からな る身体こそが確かな実在であり、すべての実在の基礎である元素からなるが故に永遠 のものである。精神は「躯殻」がある限りにおいてそこに宿るものにすぎず、まった く実在性をもたないという思想である。これは西洋から輸入された唯物論であるが、― 132 ―
その基底には仏教や儒教の自然観や人間観が横たわっているようでもある。近代的な ニヒリズムが忍び寄っているが、アジア的な循環的な死生観の新たな形態と捉えられ ないこともない。
翌
1902
年、東京大学で西洋哲学を学んで仏教の宗教哲学的叙述を試み、ついで浄 土真宗教学の近代的脱皮のために力を尽くしてていた清沢満之は、真宗の若い知識人 の力を結集した『精神界』誌に「生死問題」という言葉を用いた文章を記していた(表題は「生活問題」)。清沢の発言は、伝統的な仏教の「無常」の教説を引き継いで いるところがある。しかし、清沢はそれを仏教の教説として説くのではなく、特定宗 教を超えた「生死問題」「生活問題」として説こうとしていた。
この文章が発表されて
1
年もたたぬ1903
年5
月、第一高等学校学生、藤村操は日 光華厳の滝に身を投げたが、その直前、傍らの樹木に「巌頭之感」という辞世の小文 を掘り刻んでいた。それは青年学徒の気負いにあふれているとはいえ教養人らしい名 文であり、広く世に知られるところとなった。悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレ ーショの哲学竟に何等のオーソリチィーを価するものぞ。万有の真相は唯だ一言 にして悉す、曰く、「不可解」。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は 大なる樂觀に一致するを。
ここでは近代的な自我の「煩悶」が基調をなしており、シェークズピアのハムレッ トがそれを代表することになっているが、その背後には儒教もあり、仏教も道教も武 士道の影響も入っているように見える。
加藤咄堂が『死生観』の叙述を構想したとき、このように「生死問題」「死生問題」
は人々にとって深刻な問題として受けとめられていた。この問題に取り組むと、さま ざまな立場があって容易に解決がつかないが、ともかく熟考に値する重要な問題であ ると考えられていた。欧米でもキリスト教と近代合理主義や唯物論、あるいはニヒリ ズムとの間の対立は深刻に意識されるようになっていただろう。ドストエフスキーの 作品の影響はそれをよく物語っている。しかし、日本ではこの時期においてすでに単 に宗教側とそうでない側の対立としてではなく、死に対してさまざまな異なった受け 止め方があり、複雑な研究と反省的思考によって考察するに値することと考えられる ようになっていた。
だからこそ加藤咄堂が宗教・科学・哲学を含め、古今東西の死生観を比較した書物 を著すとすぐに大きな反響があり、それを受けて咄堂は続編を刊行するに至ったのだ
― 133 ―
った。「死生問題」に対して多様な立場から多様な応答のしかたが可能であり、死生 観という論題は精力と時間をかけた討究に値するという意識はその後も存続し、1970 年代以降の臨床死生学の導入の時期にも引き継がれたと思われる。
このように日本では死生学は広く古今東西の死生観の比較研究を踏まえたものとな るべきだと考えられたが、それは臨床死生学に力点を置いた欧米の死生学に対して、
それとは異なる独自の性格を帯びさせることになった。死生学が当面する実践的な問 題について、広く死生観の比較研究を踏まえて応答しようとすると、答を提示するま でに時間がかかってしまい、緊急の課題として求められている方針を指し示すのが容 易ではないという問題が生じる。
また、死生観を比較研究するといっても、多くの文化についてそのような研究の基 盤が整っていないため、なお特定の文化から提示される視座に偏ってしまうことも避 けがたい。大きな課題であるだけに適切に遂行することは容易ではない。たとえば脳 死の妥当性や人工妊娠中絶の是非のような生命倫理問題について、文化の相違を踏ま えた議論を行おうとすると、たいへん複雑な議論を進めなくてはならないことにな る。
このことと関連するが、欧米で「死」だけを主題としてデス・スタディーズとよば れて発展してきたものが、東アジアでは「死生学」とか「生死学」というように、
「死」と「生」をセットにして主題とすべきだと考えられてきたことは興味深い。こ れは儒教や道教や仏教の伝統が影響していることはまちがいがない。
「死生」は儒教の伝統で用いられてきた語であり、加藤咄堂が「死生学」の語を用 いるについては、加藤の儒学や武士道の素養が作用したことは間違いないところであ る。『論語』には次の一節がある。
けいてい
司馬牛憂えて曰わく、人皆な兄弟有り。我れ独り亡し。子夏曰わく、商之れを聞
まじ
く。死生命有り。富貴天に在り。君子は敬して失う無く、人と与わるに恭しくし て礼有らば、四海の内、皆な兄弟也。君子何んぞ兄弟無きを患えんや。(顔淵第 十一)
「死生」と「富貴」が対になっているが、いずれも天命に関わる事柄と見なされて いる。生きることは人間の力ではどうすることもできない天の恵や運命に関わること であり、死・喪失・欠乏が不可避に伴うものである。この一節はそのことをよく自覚 して、他者との交わりを喜びとするように促している。死は生を限界づけるものであ り、生に不可避的に伴うが故にこそ、それに囚われずに生の課題として克服していく べきものとして理解されている。
― 134 ―
他方、「生死」は仏教の根本概念の一つであり、輪廻転生を繰り返す人間のあり方、
罪や煩悩に苦しみ続ける苦の存在としての人間のあり方を指している。生死の連鎖を 脱することが涅槃であるが、後には煩悩即菩提・生死即涅槃というように煩悩に苦し む現世的人間のあるがままのあり方のなかに悟りや救いの可能性を見ようとする見方 も育ってくる。「生」と「死」が一体のものであるとする「生死一如」といった語も 用いられるようになる。ともあれ、「生死」という語において、死は生が伴わざるを えない根源的な限界であり、生と切り離された特殊な領域のことなのではなく、生と 死は表裏一体のものとして受けとめられている。
「死生」とか「生死」という表現は、さまざまな意味で死と生が表裏一体のものと してあることを示している。「いのちの大切さ」とか「かけがえのないいのち」とい う言葉も、つねに死とともにあるからこそ尊い生命、死に脅かされているからこそ代 替不可能である生命を示しているものと考えることができる。「いのちの尊厳」とは 死によって決定的に失われてしまう、生のはかりしれない大切さやかけがえのなさを 指すものである。生命倫理の問題とは、現代医療がそのような意味での「いのちの尊 厳」に関わるような局面について取り組まざるをえない諸問題である(山崎
1995)。
死の経験とは自己や他者の死に面しながら生きる経験である。身近の他者の死は喪 失の経験の最たるものだが、それに限らず人生に喪失の経験は満ちあふれている。人 は母の乳房を失う経験から始まって、小さな死を経験し続けて最後の死へと向かって いく存在とも言えるだろう。生殖と誕生は死と対応関係にある事柄であり、そもそも 生まれること、そして人生のプロセスの全体も死に向かうサイクルとして理解すべき ことだろう。また、食物連鎖に見られるように、生きることは多くの生き物の死の上 に成り立つことであり、人間同士もお互い同士が行使し合う暴力、つまりは殺の可能 性から自由になれない。
さらにまた、生きていることは死者とともにあることでもある。一生の間に生者は 多くの死者を見送るが、それだけでなく生きることは死者の経験が刻印されたさまざ まな物事に見舞われ、受けとめ続けることでもある。慰霊や追悼ということに限ら ず、今の生は過去の人々の生、未来の人々の生との関わりにおいてこそ、意義をもっ て生きられるものである。たとえば伝統という言葉は、死者と生者の連帯ということ を前提としてはいないか。
いのちと死について学び考えるということは、これらのことすべてを含めて考える ことである。これは欧米の死生学が意味するものを含み込みつつ、それよりも明らか に広い領域を指し示すものである。このような広い死生学の概念が日本で、また東ア ジアで今後、長期にわかって定着していくかどうか、また世界の他地域に共鳴者を見 いだしていくかどうかは未知数だが、いずれにしろ日本の死生学形成の初期の段階で
― 135 ―
このような傾向が顕著に現れたことは記憶にとどめておいてよいことだろう。
4.日本人の死生観の継承
死生学は伝統的な死生観に基づく死の作法や弔いの文化が失われていく過程を意識 しつつ、それを何らかの形で取り戻そうとする意欲を反映してもいる。古今東西の死 生観が研究対象とされるが、日本では日本人の死生観の伝統に関心が集まるのは自然 なことである。死を強く意識する中高年の人々が増大し、彼らが自らの死生観を確か めたいという強い欲求をもつとき、自ずから日本の過去の死生観にひかれていくので ある。
たとえば、無常観がそうした関心の一つの焦点となる。日本の文学作品に無常感が あふれていることはよく知られている。和歌といえば花、花とは桜だが、桜をめでる のはそれが満開となったかと思えばすぐに散るからである。夢の世、露の世、はかな さ、うたかた、蜻蛉などの語は古典文学作品のそこかしこから拾える。「祇園精舎の 鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれ る人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前 の塵に同じ」(『平家物語』)と聞けば、多くの日本人は無常美に酔うかのように、あ る情趣に入り、詠嘆の共同性を分かち持つことができるだろう。
無常美感による詠嘆の共同性は、本居宣長が「もののあはれ」の表現の精髄を見よ うとした王朝文学に横溢している。「はかなさ」の情趣がもっとも顕著に見られる古 今和歌集から、よく知られた和歌のいくつかをあげよう。
夢とこそいふべかりけれ世の中にうつつあるものと思ひけるかな(紀貫之)
花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに(小野小町)
久方の光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ(紀友則)
世中を夢と見る見るはかなくも猶おどろかぬわがこころ哉(西行『山家集』)
こうした詠嘆の無常美感がニヒリズムに紙一重のものであり、しかもそのこと自体 を自覚できないような頽廃に陥りかねないものだととらえたのは、唐木順三の『無 常』(1965年)である。
無常の無、ニヒリズムのニヒルにおいて不安と無根拠を感ずるとき、ひとは有 常、恒常なるものを求める。絶対的なもの、権威を探す。そしてその絶対的態度 に頼つて自己の安定化を計る。(中略)もはや迂路をたどるべきではない。無常
― 136 ―
なるものの無常性を、徹底させるよりほかはない。この方面で最も徹底したのは 大乗仏教であつた。諸行無常、一切皆空、さういふ言ひふるされて具体的意味を 失つてしまつた言葉の意味内容を、いまあらためて考へるべきである。(唐木
1965、8−10
ページ)ここでは日本文化においては無常の詠嘆が先立っており、思想として頼りないもの と見なされている。確かな仏教思想がそれを高度の実存的理解へと昇華するはずのも のと論じられている。だが、実際には仏教を通してこそ日本の無常感は定着し、今日 に至っていると見るべきだろう。無常美感はすでにその中に、仏教的スピリチュアリ ティを含んでいる。少なくとも「いろは歌」については、そう言えるはずである。
色は匂えど散りぬるを/我が世誰ぞ常ならむ/有為の奥山今日越えて/浅き夢見 じ酔ひもせず
空海作という伝えのあるこの仏教教化和讃を、平安後期の真言僧、覚鑁は涅槃経の 諸行無常偈(無常偈)を意訳したものだと言う伝承もある。無常偈とは、「諸行無常、
是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」というもので、おおよそ「諸行無常、つまりすべて は生滅を繰り返すものあり、その生滅の法は苦である。この生滅の循環を滅しおわっ て、生なく滅なき寂滅の境に達すべきである。寂滅は即ち涅槃、是れ楽である」とい った意味だ。『古今和歌集』などに頻出する「はかなさ」について、竹内整一は「ど うせ」すべては滅びるのだという投げやりな態度が透けて見えるとしたが(竹内
2007)、「無常偈」と「いろは歌」の無常観はそうしたものではない。そこには、はか
ない現実を脱すべく、仏教の教えに従い悟りを求めて歩むべきであるという促しがあ るからだ。伝統的な無常観が現代日本人の感性からあまり遠くないことを示す例はそこここに 見いだせる。俳人の小林一茶は真宗門徒で、新潟県と長野県の県境に近い妙高の近く の柏原で生まれた。比較的豊かな農家だったが
3
歳のときに母親が亡くなり、4、5 年して継母が来て男の子が生まれた。そこで父親は考えに考えた末に15
歳ほどで一 茶を江戸に奉公に出した。一茶は故郷を離れて江戸でいろいろな奉公をする中で、俳 句で身を立てようと考えた。江戸の町人の芸能は競争が厳しく、そこで名を成すのは 並大抵なことではない。彼が50
歳まで結婚していないのも、厳しい精進が必要だっ たからだ。何年もかけて西日本を旅してようやく名声を獲得したのだが、そのころ父 親が病に伏せることとなったため、田舎へ帰る。看病をしながら、継母と異母弟と戦 って財産を半分もらい、晩年に故郷へ戻る。『父の終焉日記』の世界だが、一茶の書― 137 ―
いたものにはまことに泥臭い人間のエゴイズムが延々と述べ立てられている。
一茶の句にはあどけない者、弱い動物への愛にあふれていることはよく知られてい るが、これは継子であった自らを常に意識していたと考えるととても分かりやすい。
ひがみの感情が詠み込まれていると見ることもできるのであって、弱い者に対する愛 情表現として捉えることができる反面、自分自身の一生を悲しんでいると受け止める こともできるのだ。貧しい者のたくましさ、素朴な生の美しさが詠まれ、心慰む一方 で、厳しい現実、哀しみ、ニヒリズム等が詠い込まれ、投げやりにさえ感じられるの だ。
そうした一茶の世界を示す作品をいくつか紹介しておこう。「しょんぼりと雀にさ へもまゝ子哉」。一茶は、雀を見ていてもこのような言葉が浮かんできてしまうのだ。
「春立や四十三年人の飯」。パトロンに食べさせてもらわなければ年が越せない。その ためには嫌なこともいろいろある。屈辱を繰り返してきた人生を思わせる表現だ。他 方、「連れて来て飯を食する女猫哉」。女猫が子どもの猫を連れてきて、一緒に餌をも らおうという、かわいいと言えばかわいいのだが、同時に女猫のしたたかさを描いた ものでだろう。一茶の句には人間の性欲や食欲といったことが遠慮なく詠われるとい う特徴がありますが、それはこの世を肯定しているからであり、こうした点に一茶の 浮世観が表現されている。
一茶は
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歳を過ぎて、25歳ほど年下の女性と結婚し、男の子3
人、女の子1
人が 生まれるが、しかし、その子どもたちは次々と死んでしまう。さらにその後若い妻も 死に、次にまた若い妻を娶るのだが、その二番目の妻には逃げられてしまう。3番目 の妻に生まれた子が今の子孫だが、その子が生まれる前に一茶自身がなくなってい た。その晩年、継母から土地を取り返すことができたため、経済的には安定していた ようで、また、弟子たちに囲まれて比較的恵まれた人生を送ることができたのだが、どこか物悲しい人生だった。
こうした人生のあり様は俳諧俳文集『おらが春』から詳細に窺うことができる。
「楽しみ極りて愁ひ起るは、うき世のならひなれど、いまだたのしびも半ばならざる 千代の小松の、二葉ばかりの笑ひ盛りなる緑り子を、寝耳に水のおし来るごとき、あ
ら
!"
しき痘(いも)の神に見込れ……」。これは、さとという名の娘が死んだときに書かれたものだが、さとは前の年の夏に生まれているので、数え
2
歳といっても、1
歳そこそこだ。そんな幼いいのちが疱瘡に罹り亡くなってしまうのだが、何とか快 癒してほしいと疱瘡神を送り出す儀式をし、病気が遠ざかってくれることを祈る。「神は送り出したれど、益々よわりて、きのふよりけふは頼みすくなく、終に六月 廿一日の朝顔の花と共に、此世をしぼみぬ。母は死に顔にすがりて、よゝ
!"
と泣く もむべなるかな。この期に及んでは、行水のふたゝび帰らず、散花の梢にもどらぬく― 138 ―
いごとなどあきらめ顔しても、思ひ切がたきは、恩愛のきづな也けり」。そして「露 の世は露の世ながらさりながら」という句が引かれる。この句は、露の世なのだから 仕方ないこととは分かっているが、そうは言っても・・・という心持が表現されだも ので、無常を歌いつつ悟りきれない気持ちをため息のように吐き出したものだ。
先に無常はニヒリズムに通じるという唐木順三の理解を引用したが、ここまで述べ てきた一茶の世界もニヒリズムとさほど遠くないと言えるだろう。「蝶とぶや此世に 望みないやうに」。確かに蝶はヒラヒラとヘナヘナと飛んでいるようにも見える。「日 が長い長いとむだな此世哉」。これは失業者や高齢者の境地とも言えるが、仏教的な 宇宙から見れば本来は誰もがそのような存在なのだとも言えるだろう。「露の世を押 合へし合い萩の花」。悟れずにあくせく生きるのと、何もせずにいたずらに時を過ご すのは等価なのだ。
だが、そのような無や残酷さのなかにあるからこそ、他者や生き物への共感がわき あがり、いのちの尊さの自覚がふつふつと生じてくるのではないか。それは自分が何 者かによって、あるいは縁ある人びとや大自然の力によって生かされているというこ とをつくづくと感じるときではなかろうか。「永き日に身もだへするぞもったいな」。
「永き日や嬉涙にほろほろと」。そうした境地を一茶は「あなた任せ」という言葉でも 述べている。「何もないが心安さよ涼しさよ」「涼風はあなた任せぞ墓の松」。それは 浄土真宗の信仰を、当代風に捉え返すことを意味していたと思われる。
ニヒリスティックにも見える句とこうした悟りの境地の表明は矛盾しない。どちら も一茶の生きてきた人生の実感をよく映し出すものである。一茶の句や文は、江戸時 代の人々が無常というものを受けとめる仕方の特徴をよく表している。それは無常を 自覚し「あなた任せ」に心の安らぎを求めるとともに、浮世の享楽を拒まず受け入れ る人々の世界でもある。それは構えたり飾ったりせず裸の自分をさらけ出しながらと もに生きていく世界であり、長い
1
日のようなに人生をただつれづれのままに生きて いく世界でもある。そしてそのことをよくよく見すえたときにこそもったいないと感 じ、感謝の涙が出てくるという。「浮世」に生きる人々は、無常を自覚し死に向き合う姿勢をひそかにもちながらも、
この世の人々の間(世の中)を「捨てる」わけにはいかないと感じていた(橋本
1975)。そして、ときに残酷であるようなこの世の営みをいとおしみつつ、共感をも
って他者とともに、また生き物とともに生きていこうとしていた。それはまた、残酷 な自然や利害対立や力争いのなかでの痛みや悲惨や屈辱を背景に、なおかつ、あるい はそれだからこそ、裸の人間同士としての共感を喚起しようとする者の無常感であ り、スピリチュアリティであり、芸術的美学的心理療法であった。― 139 ―
おわりに
1970
年代以降の日本の死生学は、欧米の、とりわけ英語圏のデス・スタディース の影響を強く受けながら展開してきた。しかし、そこに日本独自の特徴も現れてい る。その独自性は、この稿で見てきたような日本の「死生観言説」の展開を見ていく ことによって、より理解しやすくなるだろう。そこには「無常」や「うき世」という 語で表されるような明治維新以前からの死生観が反映している。また、明治以降に伝 統的な死生観を継承する新たな死生観言説の展開があり、戦中・戦後を経て、現代日 本の死生学に影響を及ぼしているのだ。現代の世界的な死生学の展開に日本の文化的 環境を踏まえて貢献していく際、このような日本の死生観言説の検討が大きな意義を もつと考える。参考文献
安蘇谷正彦『神道の生死観−神道思想と「死」の問題』ぺりかん社、1989年
フィリップ・アリエス『死と歴史−西欧中世から現代へ』(伊藤晃・成瀬駒男訳)みすず書房、1983年
(原著、1975年))
同『死を前にした人間』(成瀬駒男訳)みすず書房、1990年(原著、1977年)
イヴァン・イリッチ『脱病院化社会−医療の限界』(金子嗣郎訳)晶文社、1979年(原著、1976年)
岡安大仁『ターミナルケアの原点』人間と歴史社、2001年
柏木哲夫『死にゆく人々のケア−末期患者へのチームアプローチ』医学書院、1978年
────『生と死を支える−ホスピス・ケアの実践』朝日新聞社、1987年(初版、1983年)
加藤咄堂『死生観』井烈堂、1904年 唐木順三『無常』筑摩書房、1965年
エリザベス・キュブラー・ロス『死ぬ瞬間−死に行く人々との対話』(川口正吉訳)読売新聞社、1971 年(原著、1969年)
小林一茶『父の終焉日記・おらが春他一篇』岩波文庫、1992年
ジェフリー・ゴーラー『死と悲しみの社会学』(宇都宮輝夫訳)ヨルダン社、1994年(原著、1965年)
島薗進『精神世界のゆくえ』東京堂出版、1996年、新版、秋山書店、2007年
────「第二次世界大戦後の仏教教団と御詠歌講−東北地方の曹洞宗梅花講」大濱徹也編『東北仏教 の世界−社会的機能と複合的性格』有峰書店新社、2005年
────「仏教の死生観と生命倫理」『在家仏教』2006年9, 10月号
────『スピリチュアリティの興隆−新霊性文化とその周辺』岩波書店、2007年
────「死生学」大内尉義・秋山弘子編『新老年学[第3版]』東京大学出版会、2010年1月、1753−
1772ページ
────『日本人の死生観を読む−明治武士道から「おくりびと」へ』朝日新聞社、2012 島田裕巳『戒名−なぜ死後に名前を変えるのか』法蔵館、1991年
鈴木大拙『日本的霊性』大東出版社、1944年
竹内整一『「はかなさ」と日本人−「無常」の日本精神史』平凡社、2007年 圭室諦成『葬式仏教』大法輪閣、1963年
田宮仁『「ビハーラ」の提唱と展開』学文社、2007年
アルフォンス・デーケン『死とどう向き合うか』日本放送出版協会、1996年
────『生と死の教育』岩波書店、2001年
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シャーリー・ドゥブレイ『シシリー・ソンダース』(若林一美訳)日本看護協会出版部、1989年(原著、
1984年)
西田長男編『日本精神と生死観』有精堂出版部、1943年
ピエール・ノラ『記憶の場−フランス国民意識の文化=社会史』(谷川稔監訳)全3巻、岩波書店、2002
−3年(原著、1997年)
橋本峰雄『「うき世」の思想』講談社現代新書、1975年 長谷岡唯見『生死及来世の哲学』日本禅書刊行会、1922年
ジョージ・モッセ『英霊−創られた世界大戦の記憶』(宮武実知子訳)柏書房、2002年(原著、1990 年)
レイモンド・ムーディ『かいまみた死後の世界』(中山善之訳)評論社、1975年(原著、1975年)
柳田邦男『犠牲−わが息子・脳死の一一日』文藝春秋、1995年
山崎広光『〈いのち〉論のエチカ−生と死についての23講』北樹出版、1995年 山崎章郎『病院で死ぬということ』主婦の友社、1990年
吉田満『戦中派の死生観』文芸春秋、1980年)
脇本平也・柳川啓一編『岸本英夫集 第六巻 生と死』渓声社、1976年
本講演は、2010年度神学部秋季学術講演会(2010年11月19日)にて行われた。
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