今、
中学は力士と一緒に
―― お生まれはどちらですか。 田中 生まれは東京都です。幼稚園の途中から千 葉県市川市へ移って地元の小学校へ通いました。中 学校は縁があって東京都墨田区の両国中学校に行き ました。 両国中学校では地方の相撲大会で優勝した子供た ちなどが相撲部屋にスカウトされて入学していました。 それで 3 年生のときに友達になったのが麒麟児です。 1 学年下には北の湖がいました。 たしか麒麟児の本名は垂沢和春君といったと思い ます。最初は垂沢君も勉学心旺盛で,参考書などを 持参して学校に来て授業を受けていました。いろいろ と教え合ったりした思い出があります。ところが,お 相撲さんには年に何度か地方巡業というのがあって, 仕方がないことですが彼も学校を休むようになりまし た。お互い顔を合わせる機会がなくなってくるのです が,いつの間にか垂沢君の髪の毛が伸びてきて髷が 結えるようになり鬢付け油の匂いがするようになると, 彼はいつの間にか大きくなっていて立派なお相撲さん になっていました。びっくりしました。 ―― 力士は学校へ来ている暇なんてなかったので すね。 田中 そうですね。当時両国中学校は学力のレベル も高く,100 人ぐらいは東京都立両国高校に入ってい たと思います。周辺の地域ではダントツのレベルであっ たと思います。私も両国高校に行きたいと思っていまし たが,その後に学校群制度になってしまい,行くことが できなくなって都立江戸川高校に入学しました。強い影響を受けた2人の先生
―― 中学・高校を通して部活など何かおやりになっ たのですか。活躍中の同窓生
特殊ゴムの世界シェアをキープし,高い利益率を誇
る企業体質を作り上げた日本ゼオン。常に変革を求
め続けるユニークな経営の真髄を田中公章社長に
語ってもらった。
田中 公章
氏
(S52 化工 S54 修化工)日本ゼオン株式会社
代表取締役社長
「心の炎を結集して
全社の“たいまつ”へ」
―モチベーションを高めて変革を―
インタビュー,写真撮影 2013.12.25 日本ゼオン株式会社本社にて田中 中学と高校のときはバスケットボールをやって いました。バスケットボールは試合中走り続けるスポー ツですから,このときに持久力ができたと思います。 部活ではありませんが,江戸川高校へ行ったときに, 芸術の授業で美術か書道を選択するというのがありま した。私は絵は苦手でしたので,書道を選択しました。 大して思い入れもなく何気なく書道を選んだのですが, この選択がその後の私の人生を左右したと言っても 過言ではないと思います。希望の両国高校に行けな くて落ち込んでいた時に,書道の丹治思郷先生にお 会いしました。丹治先生は書作家で,日々鍛錬を繰 り返して書の目標を遂げようと努力をされていました。 真摯な気持ちで一途に目的を究めようとする姿勢に 心を打たれました。今で言う「目から鱗」の毎日でし た。天才気質の先生からは,「人生の目的とは?」「本 気とは」「私は何をやるために生まれてきたのか?」 など,私にとっては禅問答のような毎日でしたが,私 が「はっ!」と気づくまで懇切丁寧に教えていただきま した。その後,私が物事に対して「真剣に,粘り強 く」取り組めるようになったのは,丹治先生の教えの お蔭と思っています。両国高校には行けませんでした が,江戸川高校で丹治先生に出会えて本当に良かっ たと思っています。 受験が終わり,東工大に入学してからは目黒の柿 の木坂の丹治先生のご自宅に下宿をさせていただき, 大学に通いました。ときどき福島県などにある先生の 書の教室へ先生と一緒に出掛けたり,かばん持ちの ようなことをさせてもらっていました。 ―― 住み込みで,書生のような役割だったのでしょ うか。 田中 住み込みで丹治先生の奥様にも大変お世話 になりました。先生ご夫妻にはお子様がいらっしゃら なかったのですが,まるで子供のように弟子のように 育てていただきました。結局大学院に進学する前ぐら いまで先生のところにいながら学校へ通っていました。 「大学院に行くとマスターの論文で忙しくなるので, ●プロフィール たなか きみあき:昭和28年東京生まれ。 昭和54年3月東京工業大学大学院理工学研究科 修士課程修了,昭和54年4月日本ゼオン株式会社 入社,平成17年6月取締役,高機能ケミカル事業 部長,兼高機能ケミカル販売二部長,高機能ケミ カル販売三部長,高機能材料研究所長,平成19年 6月取締役執行役員,高機能ケミカル事業部長, 高機能ケミカル販売部長,平成23年6月取締役常 務執行役員,経営企画担当,人事・総務担当,平成 24年6月取締役専務執行役員,経営企画担当,人 事担当,生産担当,平成25年6月代表取締役社長
そろそろおまえもおれのところをやめろ」と言われて 先生のところを卒業しました。 会社に入ってからもいろいろなことを教わった人は たくさんいらっしゃいますが,メンターという意味で若 いころに強い影響を受けたのは丹治思郷先生と,そ れから小学校 5・6 年のときの担任の先生でおられ た藤平きく先生です。藤平先生からは考えるというこ と(論理力)と積極性を教えてもらいました。先生 の授業では「これはどういう意味なの?」と先生が問 いかけると,生徒は手を挙げるのではなくて「私が言 います」と自ら立って答えるのです。複数の生徒が 立ってしまった場合は,お互いに譲り合います。とに かく「自ら発して」授業に参加するという姿勢を子供 ながらに学んだと思います。この授業のやり方は,当 時話題になり,参観授業ということで外部の方々,と くに文部省(現在の文科省)や教育委員会の先生 方が見学に来られました。 昨年社長を拝命してから,いろいろな思い出が走 馬灯のように頭をよぎり,両先生とは年賀状のやり取 りがあったので意を決して両先生を訪ねました。丹治 先生は 90 歳,藤平先生は 95 歳になっておられまし たが,両先生ともお元気で昔のままでした。安心しま した。いずれも千人以上の卒業生がいるのに私のこ とは鮮明に覚えていてくださり,頭が下がる思いでし た。いつまでもお元気でいていただきたいと思います。
研究室では触媒研究を
―― 次は大学のころの話をお聞きできますか。 田中 今お話したように大学 4 年ぐらいまでは丹治 先生のところから大学に通い,実験や講義,試験を 受けていました。研究室への配属前は,9 人の親し い仲間がいてアフターファイブもエンジョイしました。 4 年生になり,希望通り,森川研に入りました。当 時は森川陽先生が助教授で,その下に大塚潔先生 が助手でいらして,われわれ学生を入れてもトータル で 10 人ほどでした。研究費があまりなかったのでガ スクロや真空ラインは先生方から教わり,全部自分達 で作りました。良い勉強になりました。 ―― 当時森川先生はお若かったですね。 田中 そうですね。まだ 30 代後半ぐらいでした。 研究室はアットホームで,寝食を共にして研究をす るという感じでした。森川先生や大塚先生のお宅に もそれぞれ年に何度か呼んでいただき,奥様の料理 に舌鼓みを打ちました。週に一度の雑誌会や輪読が あり,輪読ではキャリントンの磁気共鳴という本を使っ てやっていたのを覚えています。ハミルトニアンがでて きて難解であったことだけは覚えています。 今,同期の和田雄二君と三上幸一君が東工大で 教授をしています。今でも時々会ってはいろいろな話 をしています。 ―― 森川先生のところでは触媒研究でしたか。 田中 触媒です。当時,われわれのときは酸化物触 媒などです。私は二酸化マンガンを使ったブテンの シストランス異性化反応をやっていました。その当時 は,ゼオライトという触媒が流行になりはじめていて, ZSM-5 触媒や C1 化学などが議論の的になってい ました。当研究室でも大塚先生が C1 化学をやられ るようになって,研究員の一部は触媒だけではなくて ZSM-5 触媒などを使って C1 化合物から C2 や C3 の化合物を合成するようになりました。自分の将来に ついては,学問を探求しようとか研究者になろうとか いうことは考えたことはありませんでした。早く社会に 出て会社に勤めようと思っていました。ゼオン入社も出会いから
―― それで今日お聞きしたかったのは,大変失礼 な言い方かもしれませんが,当時,日本ゼオンという とまだそんな規模も大きくなかったし,比較的小ぶり な会社ではありましたよね。目の付け所が非常に良 かったというか。 田中 いえ,日本ゼオンという名前を知ったのもまさ に偶然でした。たしか大学 3 年生の冬に大学の心理 学教室で世論調査のようなアルバイトがありました。 私は,東京の目白地区を担当しました。アンケートを今、
活躍中の同窓生
していただく方の中に日本ゼオンに入社してまだ 2 年 目の方がおられました。一連のアンケート調査の中で, この方が「自分は入社間もないが,日本ゼオンは若 い人の意見をよく聞いてくれ,大事にしてくれる。入 社して本当に良かった。」と眼を輝かせて言いました。 日本ゼオンという今まで聞かなかった社名を覚えるよ うになり,大学院になってから奨学金の募集がきてい たので応募しました。就職の際は,面接や研究室の 見学を通して会社の雰囲気が期待通りだったので入 社を決めました。 ―― 会社では,最初は研究部門におられましたね。 田中 そうです。6ヶ月間の工場実習を経て,10 月 1 日付けで研究所に配属されました。研究テーマ は,「イソプレン合成」でした。歴史は繰り返すので しょうか,現在もそうですが,当時もいずれは天然の イソプレンが不足する,そのためにイソプレンを合成 する方法をいち早く確立することが必要,というもの でした。社長プロジェクトで私一人からこのテーマが 発足しました。その後研究所だけでなく高岡工場の 開発チームも加わり,最後は高岡工場にベンチプラン トを建てて収率や固定費を含めた最終的なコストなど の結果をまとめ検討を終了しました。シェールガス革 命が出現した現在においても,イソプレンやブタジエ ンといった化合物は依然として石油依存であり,これ らの物質を炭素数の少ない物質から合成しようと現 在でも取り組みは継続しているようです。触媒などに 大きな進捗が見られれば,可能性は高いと思います。 是非,方法を確立してほしいと思っています。
品質トラブルは致命的
―― 研究開発から製品化に結び付けていく段階で いろいろご苦労があったのではないかと思います。何 かエピソードがございますか。 田中 それはいろいろとありました。1 つだけ挙げま すと電子材料に関するトラブルです。当時,当社はレ ジストという物質(感光性物質)を開発し,g 線用, i 線用,KrF用ということで主なものは高岡工場で製 造し出荷していました。このうちある種類のレジストが 製造後に品質不良を起こすというトラブルが起こりま した。今から考えると当たり前のことですが当時はそ の理屈がわからず,お客様の製造ラインを停止させ ないよう,お客様の要求品質に叶った製品を納期通 りに出荷させなければならず,大変苦労しました。昼 夜なく工場に詰め,力ずくの自転車操業で何とか事態 を乗り切ることができました。この時の経験とこの時 に学んだ仕事への姿勢はその後の私の会社人生に 大いに役に立っていると思います。 ―― 大変でしたね。 田中 ええ。品質トラブルというのは怖いです。安 全に関する大きな事故も会社にとっては致命的になる 場合がありますが,品質トラブルも同様です。時間と の勝負でこれを解決できないと,お客様や関連する 方々に多くのご迷惑をお掛けすることになってしまい, コンプライアンスが全うできなくなってしまいます。製造拠点の海外展開はやむを得ない
―― 海外でのビジネス経験はございますか。 田中 私は,海外に駐在したことは一度もなく,電子 材料事業部の技術部長の時に,扱っている製品を海 外でいろいろプレゼンして回らなければいけないという ことになりました。頻繁に通訳を通して説明してもらう わけにもいかないので,通じるか分からないけれどと にかく自分でやってみようということで,原稿を書いて 覚えてしゃべりました。 当時は年に 30 回ほど海外を回っていたので,その うちに耳が慣れてきて,度胸もついてきました。今か ら考えるとそのときの経験は非常に貴重でした。 ですから,昨年社長になって最初は国内の工場や 事業所を廻ったのですが,その後アメリカ,ヨーロッパ, 中国を廻り,それぞれ自分の言葉で社長方針を伝え ました。そうしたら,アメリカ人やヨーロッパの人たち はちゃんと真剣に聞いてくれ,質問もしてくれました。 お互いに身近な存在になったと思います。 ―― 日本のエチレンプラントの稼働は将来低下して くると見込まれています。原料確保の観点で今,ど のような点を戦略的に考えておられますか。田中 当社は昨年シンガポールに合成ゴムのプラント を建て稼働を開始しました。原料ソース面でのメリッ トからです。これからもこういうチャンスがあれば,海 外に出ていきたいと思っています。また一方では,原 料ソース面ではなくて,作ったものが例えば今の場合 はタイヤに使われるので,タイヤメーカーのいる工場 の近くで作ろうという見方があります。 この二つの見方があるのですが,いずれにしても, どちらかのやり方で製造をすることになると思います。 そうすると,いずれも日本を離れることになってしまい ますが,これは止むを得ないことだと思います。