ヨハネ黙示録注解
遠藤勝信
1:1-3 形態/構造/背景 1:1-3 翻訳、形態/構造/背景
黙示 イエス・キリストの(VApoka,luyij VIhsou/ Cristou/) これを 与えた、神がキリストに(h]n e;dwken auvtw/| o` qeo.j)
知らせるため しもべらに すぐに起こらねばならぬことを (dei/xai toi/j dou,loij auvtou/ a] dei/ gene,sqai evn ta,cei() そして、(kai.)
示した、(evsh,manen)
(ことばを)送って(avpostei,laj)
その御使いを介し(dia. tou/ avgge,lou auvtou/) そのしもべヨハネに。(tw/| dou,lw| auvtou/ VIwa,nnh|() その者が証言した(o]j evmartu,rhsen)
神のことばと(to.n lo,gon tou/ qeou/ kai..)
イエス・キリストの証し、(th.n marturi,an VIhsou/ Cristou/) 彼が見たすべてのことを。(o[sa ei=denÅ)
幸いである、(Maka,rioj.)
朗読する人と、(o` avnaginw,skwn kai..) 聴く人々 預言のことばを
(oi` avkou,ontej tou.j lo,gouj th/j profhtei,aj) そこに書かれていることを守る人々。 (kai. throu/ntej ta. evn auvth/| gegramme,na()
時が近づいているからである。(o` ga.r kairo.j evggu,jÅ)
1-2 節は、先行する文の主語もしくは目的語が関係代名詞によって受け継 がれ、神(与えた)→キリスト(御使いを介して示した)→ヨハネ(証言した) というように、「啓示の連鎖(ボーリング 1989:114)」が強調される構成となっ ている。 キリストの 黙示(avpoka,luyij) ↓ これを 神は キリストに与え(e;dwken) ↓
序言(1:1-3)
1. 翻訳 1 イエス・キリストの黙示。神は、すぐに起こらねばならぬことをしもべら に知らせるため、これをキリストにお与えになった。キリストは御使いを 介してみことばを送り、しもべヨハネにお示しになった。 2 その者が、神のことばとイエス・キリストの証し、すなわち彼が見たすべ てのことを証言した。 3 幸いである、この預言のことばを朗読する人、またそれを聴き、そこに書 かれていることを守る人々。時が近づいているからである。 2. 形態/構造/背景 ヨハネの黙示録は、緻密に編まれた構造を持っている(cf. ボウカム 2001)。 そのうち、1 章が序文としての役割を果たす(1551 年出版のステファヌス第四 版のギリシャ語新約聖書本文に初めて章節区分が付されたが、1-20 節までを 1 章 内に納めたのはそのためであろう)。 さらに、序文は、主題の流れ、及び文学構造の視点から、「前書き(1:1-3)」、 「挨拶(1:4-8)」、「啓示者イエスの顕現とヨハネの召命(1:9-20)」とに分けら れる。 1-3 節のギリシャ語本文の構造分析(ギリシャ語本文そのものの語順を重ん じつつ、文の構造と主題の流れを観察する方法)は以下のとおりである。1:1-3 注解(1-2) 1:1-3 形態/構造/背景、注解(1-2) 教文書においては極めて希である。「第三バルク書」、「パウロの黙示録」等 に観られるが、執筆年代は第二神殿期以降とするのが通説である。 avpoka,luyij という用語そのものは新約聖書に、当該箇所以外に 17 回出て くる。その用法として、第一に、終末に期待される神のさばきとしての義の 現れ(ロマ 2:5)、キリストの再臨(ロマ 8:19; Ⅰコリ 1:7; Ⅱテサ 1:7; Ⅰペト 1:13; 4:13)を内容とする啓示を指す場合、第二に、異言や預言に並ぶ啓示の一形 態として理解される場合もある(Ⅰコリ 14:26-32)。特に、Ⅰコリント 14 章 の文脈においては、「黙示(avpoka,luyij)」は、異言(glw/ssa)や預言(profh,thj)
と比べて、格段高い扱いとなっている。 異言:多くても 3 人で、しかも順番に。解き明かしを必要としている。 預言:2 人か 3 人が話し、他の人が吟味しなければならない。 黙示:黙示が与えられた人がいれば、他は沈黙しなければならない。 また、それはある種の霊的体験を伴うものであった(Ⅱコリ 12:1-4; ガラ 1:12; 2:2)。第三に、旧約聖書から展望した終末の出来事の成就(即ち、原始教会に おいては過去の出来事)を指す場合もある(ルカ 2:32; ロマ 16:25)。黙示録 1 章 1 節では、「これからすぐに起こるべきこと(将来)」とあるが、1 章 19 節に おいてヨハネに書き記すよう命じられたことは「今ある事、この後に起こる 事」とあるように、黙示録における avpoka,luyij は、「将来」という意味での 「終末」のみならず、すでに終末を迎えているという意味での「今の事柄」 をもその内容としているということである。 この黙示(avpoka,luyij)は、神がイエス・キリストに与えたものであること が明記されている。「神が(o` qeo,j)」という主語の明示と、「与える(di,dwmi)」 という動詞は、いずれも神の主権性と、キリストの仲保者としての役割を 示している。属格 VIhsou/ Cristou/(「イエス・キリストの」)は、「イエス・キ リストが与える黙示(主格 subjective genitive)」もしくは「イエス・キリスト からの黙示(起源 genitive of source)」の意であり、それを「イエス・キリス トを示す黙示(目的 objective genitive)」の意をも含む(完全属格 plenary genitive [Wallace 1996:119])と取ること(cf. Beale 1999:183; Resseguie 2009:62)には難が 彼は(御使い[a;ggeloj]を介し)
ヨハネに示し(evsh,manen) ↓
彼は証言した(evmartu,rhsen)
3 節にある三つの分詞節の関係について。最初の二つ(o` avnaginw,skwn[朗 読する人]と oi` avkou,ontej[聴く人々])は同じ目的語(tou.j lo,gouj th/j profhtei,aj
[預言のことば])を共有することで、預言のことばの「朗読者(単数)」と
「聴衆(複数)」とを対照させている。一方、後者の oi` avkou,ontej(聴衆)は、 後続する三つ目の分詞節 throu/ntej(守る人々)と冠詞を共有することで
(Granville Sharp’s rule:冠詞 + 名詞 A+ kai.+ 名詞 B[無冠詞]→名詞 A =名詞 B)、 「聴くこと(avkou,w)」と「守ること(thre,w)」とを対照させている。それを翻 訳に生かせば、「預言のことばを朗読する人、聴いて守る人々は幸いである」 となる。 朗読する人(o` avnaginw,skwn) 聴く人々(oi` avkou,ontej) 守る人々(throu/ntej) 預言のことばを[複数]
tou.j lo,gouj th/j profhtei,aj
3.注解 1-2 節 表題として、「預言者(qeolo,goj [古代教父がヨハネに与えた呼称、「神学者」 というニュアンスであるより、「神の言葉を語る者」の意])ヨハネによる」(1006、 1841、2329、2351、M)、「預言者であり福音者による」(046、1611)、「聖ヨ ハネ、使徒であり預言者による」(2050)と付されたものがあるが、有力写 本には観られない。信頼出来る写本の読みは、「イエス・キリストの黙示
(avpoka,luyij VIhsou/ Cristou/)」で始まる。
1:1-3 注解(1-2) 1:1-3 注解(1-2)
1 章 1 節の avpostei,laj dia. tou/ avgge,lou auvtou/ の背後には、ヘブライ語の
dyb
xlv
(「∼を介してメッセージを送る」)の構文があり、その場合のxlv
は「使いを派遣する」の意と、使いを通して「メッセージを送る」の両方の意を表 していると解すべきである。黙示録 22 章 6 節の場合、「御使い派遣」に焦点 が合わされ、1 章 1 節では、「御使いの仲保者的役割」に関心が向けられて いるのではないか。従って、当該箇所については、「キリストは御使いを介 してみことばを送り」という訳を提案したい(cf. NRSV, NKJV, ESV, NIV, etc., Wright 2011:1)。 この黙示は「そのしもべたちに」示される。「その(avutou/)」 とは、「神」 とも「キリスト」とも取れる(cf. 「キリストのしもべ」 Ⅰコリ 4:1; Ⅱコリ 11:23; ガラ 1:10; ヤコ 1:1; Ⅱペト 1:1; ユダ 1、「神のしもべ」 使 16:17; テト 1:1; 黙 7:3; 19:5)が、1 節前半の主語は「神」であり、「神のしもべたち」と取るのが自 然である。一方、後続する並行文の主語はキリストと解されるため(本文で は主語は省略)、「そのしもべヨハネに (tw/| dou,lw| auvtou/ vIwa,nnh|)」の方の auvto,j はキリストを指すとも考えられる。黙示録において、神(もしくはキリスト) が人(もしくは人々)を dou/loj と呼ぶとき、「神と人との親密な関係」もしく は「所有」の意が強調される(2:20; 7:3; 19:2, 5; 22:3, 6)。預言者(モーセさえ) もそう呼ばれる(10:7; 11:18; 15:3)。ここでは、ヨハネが「キリストのしもべ」 と呼ばれる。固有名詞 vIwa,nnh は、黙示録の前書き(1:1)、七つの教会への 挨拶文のはじめ(1:4)、黙示本体の終わり(22:8)とに置かれることで、黙 示の受領者、またその証言者が誰であるのかが明確にされている。 この黙示の目的は、「すぐに起らねばならぬこと(dei/ gene,sqai)を知らせる こと」にある。de,w(「∼ねばならない」)の文脈上のニュアンスは、「必然性」 と共に「必要性」(cf. BDAG, Osborne 2002:51)を示す。すなわち、それは既 に摂理の神によって計画され、宣告されたことであるゆえ、「起こらねばな らない」ことであり、同時に、誰も止めたり逃れたり出来ないという必然性 を示す。また、「すぐに(evn ta,cei)」という表現は、事態の緊急性を強調しつ つ、朗読者と聴衆とに対し、示される神のことばに耳を傾け、誠実に応答す ることを要求する。 2 節は、1 節の vIwa,nnh(「ヨハネ」)を先行詞とする関係代名詞節である。 ある。文脈におけるキリストは、啓示の対象であるより、仲介者としての 役割を担う。avpoka,luyij(黙示)の原意は、「覆われていたものを引き剝がす (avpo + kalu,ptw)」であり、それは、七つの封印で封じられて誰も開くことが できない巻物を解くキリストの役割(黙 5:1-5)とも重なる。 その一方で、キリストは神から託された啓示のことばを御使い(a;ggeloj) を介してヨハネに示される。しかし、ここに文法的問題がある。ギリシャ 語 本 文 で は kai. evsh,manen avpostei,laj dia. tou/ avgge,lou auvtou/ tw/| dou,lw| auvtou/ vIwa,nnh|(直訳では「彼の使いを介して、そのしもべヨハネに送って示した」)と なっており、分詞 avpostei,laj(原型 avposte,llw「送る」)に目的語がない。 黙 示 録 22 章 6 節 で は、avpe,steilen to.n a;ggelon auvtou/ dei/xai toi/j dou,loij auvtou/ a] dei/ gene,sqai evn ta,cei(「[主が、]その天使を送って、すぐにも起こるはず のことを、ご自分の僕たちに示されたのである」)と、御使い(to.n a;ggelon)が 目的語として明示されている。佐竹は、サムエル記下 12 章 25 節、
aybnh
!tn dyb xlvyw
を例に挙げ、この場合の「dyb
(「∼の手によって」)は『を』と訳す以外に致し方ない」とし、「彼はその天使を派遣して」と訳す(佐竹 2009 上 :37)。しかし、サムエル記下 12 章 25 節を「預言者ナタンによって言 葉を送り」と訳するものもある (NKJV, ESV, NIV, 新共同訳 etc.)。
xlv
(「送 る」)には、「メッセージを」という目的語が含まれるという理解に基づく からであろう。箴言 26 章 6 節では、lysk-dyb ~yrbd xlv
(「愚か者に物事を 託して送る者は」新共同訳)というように、xlv
とdyb
の間に目的語~yrbd
(言葉[複数形])が置かれている。七十人訳聖書では
lysk-dyb
(「愚か者の手 によって」)を翻訳するとき、diV avgge,lou a;fronoj(「愚かな御使いを介して」) とし、avgge,loj(「御使い」)を補っていることは興味深い。詩編 78 篇 49 節では、
~y[r ykalm txlvm
...xlvy
(「災いの御使いの群れを……送られた」)を、avpostolh.n diV avgge,lwn ponhrw/n(「災いの御使いを介してメッセージを」、もしく は、対格の副詞的用法と解し「メッセージとして」)と、
~y[r ykalm
(「災いの 御使いを」)を、diV avgge,lou(「御使いによって」)と表現している。I エズラ記 1 章 48 節には kai. avpe,steilen o` qeo.j tw/n pate,rwn auvtw/n dia. tou/ avgge,lou auvtou/ metakale,sai auvtou,j(「彼らの先祖の神は、ご自分の使いを介して彼らを召された」)1:1-3 注解(1:1-3)
それを主語とする evmartu,rhsen(「彼は証言した」)の目的語は、to.n lo,gon tou/ qeou/(「神のことば」)と th.n marturi,an vIhsou/ Cristou/(「イエス・キリストの証 し」)の二つで、同格関係にある(「神のことば」[主格用法 subjective genitive] =「キリストの証し」[主格用法 subjective genitive])。すなわち、ヨハネが証言 した「神のことば」とは、具体的には、イエス・キリストが証言したことを その内容とするということである。 問題は、従属節 o[sa ei=den(「彼が見たこと」)を何処に位置づけるかにあ る。それを関係代名詞節の evmartu,rhsen(「彼は証言した」)の目的語(ヨハネ の証言)とするか、二つ目の目的語 th.n marturi,an(「証言」)の意味上の目 的語(イエス・キリストの証言)とするか、もしくは、2 節の関係代名詞節 を含む avpostei,laj(「遣わした」)以下の分詞節を挿入句と見做し、1 節の動 詞 evsh,manen(「彼は示した」)の目的語とするか。三つ目の解釈(「キリストが 見たことを示す」)は、二つ目の解釈(「キリストが見たことを証言する」)と内 容を同じくする。ここで黙示録における o`ra,w(「見る」)の用法に注目する と、 その主語のほぼ全てがヨハネである(黙 1:19, 20; 4:1; 5:1, 6, 11; 6:1, 5, 8, 9, 12; 7:1, 2, 9; 8:2, 13; 9:1, 17; 10:1, 5; 11:19; 13:1, 11; 14:1, 6, 14; 15:1, 2, 5; 16:13; 17:3, 6, 8, 12, 15, 18; 18:1; 19:11, 17, 19; 20:1, 4, 11; 21:1, 2, 22)。したがって、o[sa ei=den (「彼が見たこと」)の主語をヨハネとすることは文脈に沿っているし、動詞 evmartu,rhsen(「証言した」)の目的語が三つ並置されることで、啓示の内容が より具体的に示されていると考えるべきである。 すなわち、ヨハネが証言したことは、「神のことば」→「イエス・キリ ストの証言」→「彼が見たすべてのこと」であったと。o[sa ei=den(「彼が見 たこと」)には、地上のイエスについての目撃証言も含むとの解釈もあるが (Smalley 2005:30)文脈は支持しない。これは、旧約預言の表現形式の一つ (cf. アモ 1:1 とハバ 1:1)と観るべきである(Aune 1997:19)。「証言」とは、「目 撃した事実を語ること」であり、それゆえ信頼できる真理であることを物 語っている。 3 節 黙示録の中に、「∼は幸いである(maka,rioj もしくは maka,rioi)」という祝福 1:1-3 注解(3) の言葉が七つある(1:3; 14:13; 16:15; 19:9; 20:6; 22:7, 14)が、1 章 3 節は、その 最初のものである。神は主権者、また全知全能の神として祝福の道を人に示 される。 maka,rioj は、後続する分詞節の補語(eivmi, 動詞が省略)であるが、それを 「幸いなのは∼だ」と解するには、厳密に言うと主語と補語の関係が等位で ある必要がある(S=PN [convertible proposition] cf. 遠藤 2012:23-39)。「預言のこ とばを朗読する人と、それを聴いて行う人」(主語)は「幸いであること」 (補語)の一要件を満たしているに過ぎない(S<PN)からである。もし、主 語と補語を入れ替えて訳すことが出来るとすれば、主語と補語が等位(S=PN) であるか、もしくは、補語の意味範囲が文脈上限定され、主語との関係性 (S ≒ PN)が予測される場合である。本著では、主語と述語の関係を保持し つつ、倒置することにし、「幸いである、∼である人は」と翻訳することに した。 預言のことば(=黙示)を「朗読する人(o` avnaginw,skwn 単数)」と「聴く 人々(oi` avkou,ontej 複数)」、さらに、そこに書かれていることを「聴くこと (avkou,w)」と「守ること(thre,w)」とが対照されることで、この黙示(神→キ リスト [御使いを介して]→ヨハネ→教会)の内容が教会において重んじられ るべきことが強調されている。この場合の「朗読」とは、礼拝における朗読 を意図している(cf. コロ 4:16; Ⅰテサ 5:27、小河は翻訳に「礼拝において」を括 弧付けで挿入『新約聖書翻訳委員会訳』)。
2 節で、「神のことば(o` lo,goj to/u qeou/)」、また「イエスの証し(h` marturi,a VIhsou/ Cristou/)」と呼ばれたことばは、ここでは、「預言のことば[複数](oi` lo,goi th/j profhtei,aj)」とされている。黙示録の終結部でも、ヨハネがこの書 に記したことばが「預言のことば」であることが確認されている(22:7, 10, 18, 19)。ヨハネは、自らが委ねられたことばの神的起源とともに、預言者と しての召命を自覚していた(cf. 黙 1:9-20 の召命の記事は、旧約聖書の預言者た ちのそれに類似している)。 新約聖書の記録によれば、イエスの時代(ルカ 2:36)、また原始キリスト 教会(使 11:27-28; 13:1; 15:32; 21:10-11; 黙 22:9)には預言者と称される人物が おり、信仰共同体のなかで、重要な位置を占めていたことが分かる。彼らの
主な役割は、将来の予告と警告(使 11:27-28; 21:10-11)、助言(使 13:1-3)、奨 励(使 15:32)とにあった。黙示録にも、預言者たちの存在が覚えられてい る(10:7; 11:10, 18; 16:6; 18:20, 24; 22:6, 9)。 ヨハネは旧約預言、殊に黙示文書(ダニエル、ゼカリヤ、エゼキエル、ヨエ ル、アモス、イザヤ)に細心の注意を払っている。それは、第二神殿期のユ ダヤ教文書に観られた特徴でもある。既に述べたように、原始キリスト教会 において、「黙示」を受けた者の証言は重んじられていた(Ⅰコリ 14:26-32)。 これらの旧約預言の系譜に自らが立っていることを自覚しつつ、預言者ヨハ ネは、諸教会に向けて、キリストから示された黙示のことばを証言する。 4.解説 序文の、さらにその前書き(1:1-3)に、ヨハネはこの書の神的起源と共に、 その特殊な性格と目的とを明確にしている。これは「イエス・キリストの黙 示」である。それは、かつて旧約の預言者らが語ってきた終末に関わるこ とで、既に終末を迎えている(inaugurated eschatology)という意味では「今の 事柄」であり、また「すぐに起こらねばならぬこと(a] dei/ gene,sqai evn ta,cei)」 としては「未来の事柄(futuristic eschatology)」を黙示の範囲とする。黙示録 は、旧約預言(ダニエル、ゼカリヤ、エゼキエル、ヨエル、アモス、イザヤ)に 依拠し、それらの頂点(ボウカム)を見つめている。教会はその地点から今 を見つめ直し、如何に生きるべきかを学ぶことが期待されている。 この黙示をキリストに与えたのは神であり、それゆえ「神のことば」(1:2) と呼ばれる。神のことばは、謂わばバトンリレーのように慎重に、丁寧に手 渡されて行く。はじめに、神はご自分のことばをキリストにお与えになった。 キリストはそれを、ご自分の使いを介して、しもべヨハネに示し、ヨハネは 諸教会に証言する。さらに、それは諸教会に書き送られ、朗読する者と聴く 者、すなわち礼拝共同体によって受け止められることが期待されていた。 黙示録において、「終末の接近」という主題は繰り返し取り上げられる (2:16, 25; 3:11, 20; 6:11; 10:6; 11:2-3; 12:6, 12; 17:10; 22:6, 7, 10, 12, 20)。第二神殿期 のユダヤ教文書の終末論には、「やがて」と「いま」、あるいは「いまだ」と 1:1-3 注解(3)、解説 1:1-3 解説 「すぐに」という、一見矛盾する二つの視点の強調が観られる(cf. Resseguie 2009:63)。例えばそれは、Ⅰテサロニケ(すぐに)とⅡテサロニケ(いまだ) の終末論に対応する。「いまだ」という強調は、「落ち着いて」という奨励と して、「すぐに」とは、「目を覚まして」という警告として。終末が間近であ る「いま」(黙 1:1, 3)、教会は落ち着いて神のことばに耳を傾け、目覚めを 与えられつつ、祝福に至る道を選ばねばならない。
参考文献
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参考文献 荒井献編 1974.『新約聖書外典』講談社。 遠藤勝信 2012. 「ヨハネ 17 章 3 節の談話的考察─主語・述語名詞の関係と 解釈を中心に」『新約学研究』40、23-39。 佐竹明 2009. 『ヨハネの黙示録』(上・中・下巻)新教出版社。 新約聖書翻訳委員会編 1996. 『ヨハネの黙示録』岩波書店。 日本聖書学研究所編 1975-1982.『聖書外典偽典』教文館。