∴
生活は、共同鰹に於ける姦環として、或望ハ同鰭に封する叫闊聯として表現せられ、従って又か1る賛在と して、理解せられねばならない。赦脅生活といふ概念は、この場合に想定せらる1のである。敢食生活は、その 生望遠即ち、それ′ぐ1の庄完璧肴にとつて、全盲るものである。換言すれぼ、扁の主鰻の配合生活は、それ 放曾的職能分塘者としての商発 て社食生括の祷覿鮎 二、商業 の二職能 三、蘭染職能の姶富者 四、市醤 の 組織鹿骨的職能分治者写しての商業
五、諸共職能欝現.の方式 六、動 態 親 七、蘭 薬 教 育大 泉
〓ハ叫 叫自健一偶の統叫餞であつて、彼の全人格の全部的表現に外ならぬのであるL。この意味に於て、叫偶の主鰹の途行 する胤魯生活は、異質のものゝ複数が、努術的に集合せらるゝことより成旦且つのでは全くない。 人は親祭の便宜に寄よせ七、敢愈生活の多軽なる分斯を試みる。祀禽生活の、性質異なる各桂の側面を、畢猫 に観察の封象とするのである。円く、政治生活、法律生活、匿臍生活、市民生活、隣家生活等、その他輔幾多の分 類をなし得るであらう。か1る分類は、こゝに言ふ如く、人の観察の便宜に外ならない。否?駿蜜に言へぼ、人 の観察は、同時に全面的たり得ないことに因る。即ち、人の眼は、同時に物の衣裳を見ることが出来ず、党づ表 を祓、次いで或る時間的経過をおいて基を祀、その後に、その物の金牌を把捉して珊解する如く、敢禽生.活の親 祭も、同時に全面的たり得ない人間の制約された能力が、必然性を以て叫方的親祭に誘導せられるのである。故 にこの場合の便宜は、選揮を許されぬ例の、必然的なる便宜たらざるを待ない。祀禽生活の、種々なる分類は、 か1る山方的観察の、個々の結果なのであゐ。親祭の基鮎を何鹿に置くかによつての、表現の差である。詳言す れば、本来全州なる生活が、その生活満動に於て、それ′仲\の特殊なる環境の下に、特殊なる様相を表現した時、 その特殊條件を基鮎として、そこに、分類せられたる特妹生活が、槻察の封象となるのである。分類せられたる 各種の生活は、各々猫正する別異音ではあり得ない。 されば、金一なる敢愈生活の主鱒の動きが、今軸足の地域、而も其の他城に開聯する山先の構成、五ハの樵威に 基く統治・支配の側面に於て観察せらるゝ時、我等は、それを政治生活と富ふ。即ち是は政治といふ基鮎よりの 高聡高等簡薬草校閲校十周年記念論文基 血六二
配合生活の表現に外ならぬ。赦合生綺の各章膿が成す共同腰を通じて、秩序・規範・規律の胡瓢より視る時、そ こ虻律法わ生活関係が表現せらる1、であらう。経済生活、市民生柄その他の諾生活は、何れもかくの如くに珊解 せられて、始めて安富たり得る。 経済生活は、人間の生存を緋持し畿展せしめるに、必嬰なる物的條件の獲得と利用、即ち調達充用の活動であ り、同時に、か1る生活者と生活者との間に出現すべき諸関係を科するのである。私は、この物的催件を基部と する人と人との諸関係といふ鮎に、特に読者の注意をとゞめたい。それは、箪に物的催件の痙得・利用に意義を 限定することなく、か1る獲得・利用を契機として甥出される人的緒踊係に、等しく盈要性を認めやうとする立 場である。今日の経済生活が、配合生活として和解せられねばならぬとすれぼ、かゝる人的諸関係こそ、即ち敢 禽的たることの特徴を糾ふるものに外ならぬと考へられるからである。 この態度は、私に在っては、甚だ藷大なること∼恩はれる。固より、畢間研究の論理的過程としては、その蛮 咄として、極めて原始的な、仮定的想定より、孤立人を描出することは許さるペきであらう。孤立人が、箪に彼 一人の存在を維持する為に、或は彼の慾璧を充足するために、物を獲得・調達し、之を利相・消費する過程は、 之を考へ得る。彼が、通常の智能を有する時、同仙物の拉得に封して存在する複数の手段中、最も犠牲少いもの を選繹するであらうし、慾稟の充足に思っては、数多ある慾空中、その緊急なるものを政党の順位におくであら
員ノ○
政曾的職能分撼者としての商業経済理論の椚饗覿としての、かゝる考察は固より必要である。蓋し、之を始鮎として、漸次現管的なるものに
近づき、硯資の諸相係を説くべき最初の要素となし得るからである。然乍ら硯賛には、孤立人なるものなく、す
べて共同牒を形成する。そこに敢密生活が在る。経臍生活も、如上の孤立人が単純に、複数存在するのではなく
て、共同を成すのである。こゝで、孤立は解ぬ直られてしまふ。従って、孤立人として考察されたる、物の拉
得・利用の満動は、こゝでは、人と人との共同の開聯に於て、新たに考察せられねばならぬのである。換言すれ
ば、物の接待・利用を根基としての、人と人の諸関係であ一る。私は、経済生活の考察に雷って、この人的繹関係
を捉ふることによつて、始めて其の選評に達し得ると思ふのである。之は、経済生活を政令生活と戟、そして敢
禽生活は、共同鰭に於ける一連環と理解する私の立場に於て、極めて至常のことゝ富はねぼならぬのである。
私は、此の立脚地を擁することに依つてのみ、経臍生活を祀禽生清の相に於て正常に把捉し、経済の諸現象・
諸開聯に絞出される、人間交渉の態様を、軍営に理解し得ると思ふ。
例へぼ、生存の維持・頚展のための、物の接待・調達を肇へやう。
人が純粋に自足的生活を馬すことは、今日は之を考ぶることが出来ない。交換経済の全く存在しない原始敢
脅、或はその後達の甚だ低度だった未開社命では、惟ふに、物の拉得に雷って、鵬般人が直接自然と交渉をした
であらう。この場合には、自然との直接交渉が赦愈二般に行はれ、人と自然との関係は、必要財の獲得に於て、
萬人に密接であつたに相違ない。唯、僅かに、特権的支配者だけが、時に例外をなしたであらう。狩猟・漁務・
高松等商染登校開校十周年記念論文娘農耕・牧畜・探鍍・の如き原始生産は、従って其の場合に、人々の経済活動の大部分庭占めて居ったのである。
けれども、今日は、祀合の紐帯を離れ、共同の人間交渉囲を離れて、必要財を獲得・利用することば、全く不
可能と云はねぼならない。固より今日も、過去の如何なる時代にも遠かに優つて、人と自然との交渉は深濃であ
る。原始生産は極度に進められて居る。然し、この傷合の、人と自然との交渉は、単にそれだけとし七、成立し
終了するのではないのである。その交渉は、常忙敢合を通じての交渉である。或は、政令の認容と是認の下に於
ての交渉である。従って叉、その交渉の結果に封しても、敢愈は等しく、その勢力を及すこと1なる。所有坪思想の未設連なる時代には、人は慾望の命するまゝに、必要財を拉得・充用し得たであらう。原始共産制の比較的
完全に行はれた部落に於ては、物の分配に就て、共同的な規律が存在したと静かれる。然し、既に私有財産及び
それの法制などの全く存在七ない敢合では、必要財の獲得・充用は極めて個人的であり、畢弼的であつたに違ひ
ない。私有の観念が精々磯達し、或は遊牧を行ひ、或は農耕する時代に入っても、必要財の調達充用は、甚だし
く畢猫的であつ允であらう。
然るに、今日の経済敢愈では、自然よりの財投得に就ても、叉、それを素材とする加エ・製造のエ作に就て
も、或は更に必要財の充用消費に就ても、個人的、箪猫的たることは、重く許されないのである。人は渡りに、
自然より必要財を、他に何等の関係なく接待することは出来ない。彼は、その生活する配合の認容の下に、計倉
を通じて自然と交渉するのである。かくして、一般原則は、必要財は、配合的生産物として硯はれ、その貯水池
洗骨的職能分措者としての商業を通じて、個々の嬰求に分配せらる1形をとるのである。極論すれぼ、今日の我等は、∵本の樹枝、二堀の土石 に於てすら、敢命との開聯に依る認容に基かすしては、拉得することが出水ない敗態に在る。 かくて、生存に必要なる財は、自然よりの拉得及び加エ・製造の過程を粧て、叫應、組合生廃物の紙慣とし て、市場に出現し、流通行程を経て、配合成員の問に辟属してゆく。この膵展開係によつて、始めて必要なる物 の調達充川が貰現せらるゝのである。それは、正しく、必要財を基鮎としての、人と人との交渉囲係に外ならな い。逆富すれば、人的交渉を通じて、必要財の捜得が連行せらる1のである。 さて、今日の財を基鮎とする人的交渉国に廃って、か∼る交渉を硯賛に可能ならしめる結合者は、即ち貨幣及 び信用の作用之である。貨幣と信用は、物を基鮎とする人的交渉のための紐帯に外ならぬ。政に、財の支配は、 貨幣・信川の牲待と利用を通じて、行はる1のが、今日の通則やある。而して、貨幣・信用の拉待と利用は、人 と自然との関係ではなくて、人と人との敢倉関係なのである。かくして、貨幣総臍或は信用控酒として楷怜を有 する、現代の経済機構の下では、財の痙待・充用も亦、必ずや人的交渉の中に之を畿見せねぼならぬのである。 韮に於てか、必資財の獲得・兎用に雷つ.て生する過不足、不平等、軍闘、兢軍、等の番嘗が、明瞭にその原因 を示し得るに至るであらケ。かゝる諸現象は、人と自然との関係ではなくて、財を甚鮎とLての人と人との交渉・ である。碓って、それ等諸現象への正鵠なる埋解は、人的交渉閻の考察によつてのみ、縛らるべきものであら ろノ0 甘⋮松高等商業翠校開校十周年記念論文集
凝って、必蓼財の瀦費の側面を見る時、そこにも同様の考察は、適用せらるゝのである。消費も亦、▲決して鱒
立人の慾望充足の意味に終始するのではないのである。敢脅生活の主慣としての慾望充足である。されば、消費
に関する、質的並に恕的不均衡が存在せりとすれぼ、それは、単に主鰭白身の主観に封して、意味あるのではな
くて、敢禽各鰭に照合することによつて、重要性を有つのである。常に彼二人の主椒に過ぎない節々の感情巧結
局に於て彼の趣味・嗜好の域を出るものではないのである。か1る場合には、問題は、極めて個人的なる抑制・訓練・修養等に遣先して、叫應の解決を輿へ得る。之に反して、それが統合踊備に於けるものである時、即ち人
的交渉幽に於ける照合比較に基くものである時、個人道徳的なる制慾等の支配を際して、配合経済の問題として
浮び上るのである。
私は、敢愈生柄の州側耐として、その特殊なる相を経済にとつて、人的交渉の関係を詮いて釆た。これは、濁
り経済に限らす、生活の他の特殊相に就ても同様である。法律生活は閑寂の秩序、規律を基鮎としての、人的交
渉踊係である。即ち、輿へられたる人間生活、或は既に在る人的交渉関係に向つて、国家的秩序の基準より、之
に配列と統制を輿ふる時、それが即ち法律生活である。されば、法律生活とは、国民が律法によつて、統御せら
るゝ閲係、或は偶人が律法を遵奉する闘係だけを云ふのではなくて、律泣を通じて表現さるべき人的交渉問を洩
富ふのである。之こそ、淡律生活が、敢食生活としての、意義をもつべき基礎であると思ふ。
然らば旬何故に、私は人的交渉といふ関係に、かくもカ鮎を竃くのであるか。それは、配合生活の、特殊面を
証曾的職能分塘沓としての商業 二ハ七以て、各々配合的職能分拾を途行するものであるとの、私の主張に困る。その粕疎開係を寛現するものはも即ち その職能分姶者といはれ得る。この場合に於ける分槍者とは、目的途行のための活動を、組憾として名附けたに 外ならぬ。例へぼ、祀合に於ける経臍活動の級鰭は、経済的なる一切の目的連行のために布衣する意味に於て、 政令的経済職能の分拾者なのである。法律活動の絶慣は、敢禽に於ける法律的目的の連行に於て、それは敢愈的 職能の分抵老であるといふのであるbか1る職能分塘者としての経済、法律その他〓別の敢倉関係の、活動黄膿 は人間偶人た外ならない。敢禽に於ける人間の努力の二切が、即ち之である。それは、粂慣として、分つべから ざる敢倉生活を成すものである。特殊なる基瓢に立つ〓々面的観察が、′特殊相を形成する。 経済摘係の中に、特定の地位をもつべき商業をば、か1る赦愈的職能分終着として、理解せんとするのが、私 の本論の目的である。 〓 商柴の職能は、配合経済の圏内に在って、物財の、人間間に於ける移動流通を、任務とするものに外ならな い。此の職能を、今日、商品配給の名稲を以て呼ぶのが珊般である。或は、需要・供給の適合と冨ひ、生産者と 給費者との聯結と言ふも、其の意味する朗に大差はない。究極に於て、物財の人と人との問に於ける流通万両 を、商柴はその中心目的とする。唯、その物財流通が、如何なる組繚と如何なる形式とによつて成就せらる1か 高奄高等滞米畢校開校十周年記念論文集 ー六八
こゝに、ヨa藍juいtヨe⊃tとは、生産と消費、需要と供給とが、そのま1に、直接結合による適合の賛現し得られ ない状態を言ふ。即ち不調和・不一致の状態である。そこに、何物かゞ作用して、この不適合・不調和は、.適合 せられ調和せらる1に至る。我々は、そのあるものを、即ち商業の暇能に見出すのである。 如何にともあれ.物財流通の職能を離れてー商業の成草し得ないことは、山切の場合に共通である。 見る自由競寧或は猫占の形態の如き、何れも特定の経済紺繚に億件づけられたる商業の衷硯である。表現形態は は、特定の経済敢禽の下に條件づけられるのである。申せヨ一口ツ。ハに見る商人ギルドの如き、資本主義敢倉に 物朗の流通を以て、商業の本質的撒絶と見る時、か1る職能の存燕と、而も其の職能の椀大の去賓とは、配合 が、か1る職能の遊行を必要とする事情の下に在ることの澄左となる。換言すれぼ、か1る流通職能の窄動に依 らなければ、敢倉生活が支障・破綻を惹起すべきことの茸詮である。物財を基鮎とする、敢命生活の、軽々なる 間曙・不一致は多様に詮き縛らる1であらう。Pau−T・Cherヨ聖○コ、↓heEleヨ2コtSO竹芝a−ketぎ9Pこトによれば之 を次の如くに分類する。 て.三a訂djustヨe⊃t Ofquaコt茸 社食的職能分措者とLての商港 や や q亡al茸 や t仙ヨe や P一ane
−七〇 高松高等商葉拳校開校十周年記念論文集 チェ︰リングトンによる囚柾の不適合も、之を更に尋究すれぼ、結局、人の物財的慾撃の称々なる表現に掃著す るであらう。塵的、質的、時間的、場所的の規準よりする不適合ではあるが、之等は、何れもそれ白濃として意 味をもつものでなくて、人間熱望との対比に於て、始めて不適合が意味をもつ。人の物財的慾望の度合が、常に 政経の規準を成すのである。 商桑の職能は、此の物財的慾璧を、碕適作用によつて充旭せしめるに、経酒原則の支配下に立つ。こゝに、我 等は商業の経済的教典を、二重の意味に於て認識せね.ばならぬのである。∵つは、必嘗財の調達といふそれ臼濃 に於て、二つはその調達を経済原則の支配下に成就することに於て。蓋し、物的慾望の不充足は二部より観察せ らる1。第﹂は、目的物が自然的・物理的に位相することの困雛より生じ、第二は、経済的に投付することの困 難より生するヰ有無相通ゃるといはれる作用の、文字通りの意味が第仙であり、比較生産費の理論に基く、地域 的分業とその結果の交換とは第二の場合である。 この二者何れの場合を間はす、必要財は之を他より、流通せしめて、桂得せねぼならない。商柴の赦禽的職能 分轄は、こゝに額動する。人間が、自給自足の経済生活に止まる限り†到底、拉得し得られない質と最とに於て 豊富なる必資財を﹁能ふ限り、最少の犠牲を以て、商業の職能は、托待調達することに努める。それは、人間の 敢食生活を、物的に叫隆安易にし、物的樫柊の力より、人間解放を志すものであらねばならぬのである。敢倉的 職能分塘は、遂に、こ1まで上昇せしめられねぼならない。
必要財の流通による調達・桂待は、敢愈的職能に於ては、この物的制約よりの、人間解放に、その廠致が布衣 しなければならない。最少の努費による故大の数兆として衷甥される経済原則も、その作用は、財の礪絆よりの 人間解放に外ならぬのである。論者が、現資の商業運療より批判して、か1る眈静的職能の必ずしも常に意識せ られてゐないこと、寧ろそれに反して、私的、営利的目的の著明なることを指摘することは、深厚なる論議と云 はねぼならぬが、それによつて、政令的職能の否定とはなり得ないのである。硯暦の商柴が、か1る掛合性の意 識に稀薄であるとすれぼ、それは、商業者並に配合人双方に、その罪を負ふべき即由があらう。商業者と商業の 畢徒との任務は、この批食性の挿現にこそ、あらねばならぬ。 今日の経臍赦倉を絶鰭として見る時、財は叫方に、絶えす生産せられ、他方に絶えず渦費せらる1。生床者 は、生産物を、可及的迅速に換偵することによつて、生産を鳩摸せねばならをい。この竣慣行程は、東釆、生産 物の需要者即ち靡い意味での消費者︵生産のための消費も含めて︶によつて、資現せらるべきである。けれども、 生産と消費とは、常に間隙なく、直接に結合することは出来ない。生産者は、その生産物の、同時に全部的換償 を以て、最も望ましく思ふ。然るに消費者は、かゝる全部的要求には、封應し得ぬものである。今日の消費終演 を見る時、私は二鮎に勒徴を見出し縛る。仙つは、満費は、家を中心として、小瑞枝に行はれることである。こ 1に、財に射して、滑贋可能単位が考へられねばならない。大豊的生産の途行、或は大盤的移動の途行は、小草 枕を分割的になすよりも、〓曙有利だから行はれる。之が大総常のもつ利益に外ならぬ。この場合には、生産可 社食的職能分塘者としての商業 す 一七仙
能単位、又は取扱可能単位が考へられる。家を中心とする拘費は、之に反して、多種類の財の、小単位宛を、永 糖的に供給せられねぼならぬ。こ1に、生産と消費の間隙が存在する。第︼石鮎は、今日の消費経番が、日常必 要なる財の保蔵を行はないことである。産菜的並に職柴的分化の低度な融合では、比較的大なる保荷を必穿とす るであらう。か1る分化の高度化せる配合では物財流通の職能の特化が、滑螢者の保戒任務を、全く解放してし まふ。この鮎で、家庭の押入や台所は、遂に、市稗、の商店にまで進出延長したと見られる。今商品流通の閣内を 市場と名附けるならば、今日の滑費老は、直接市場と交通して居るのである。この保蔵の解消は、資に商業職能 の存在による。同時に、第一の消費可能単位の要求も、等しく、商業といふ、特殊職能の分峰者の存在によつ て、充足せしめらる1こと1なる。 消費のための絞衝帯としての商業の存在は、叉、生産のための促進者となる。罷に設ける、生産者の要求する 全部的換慣は、商柴の介在によつて、二股その箪求に應じ、之を充足せしめるからである。 商柴の政令的職能は、かくして、愈々その重大性を加へるであらう。融合に於ける、商業的領域の扶大は、正 しくこの託左である。 、我が国、最近の問勢調査たる昭和五年の統計によれぼ、有発着二千丸首萬申、商発着は一別五分を示して周る。 即ち左の如し。
昭和五年
高松高等商染畢校開校十周年記念論文集 一七二 篭汐リ ノ 他 之を、十年前の大正九年の国勢調査に比較すれば、甚だ興味ある事茸を発見する。
大正九年
農 薬 着 工 業 者 商 発 着 交通業着 水産業者 鎖 発 着 鋤 発 着 水産業者 交通業着 商■ 発 着 工 発 着 農 業 者 紀骨的職能分塘着としての蘭薬 百方 二四 五 四・五 一・〇 〇五豆 〇・二三 宵刀 四八・0〆 一八・〇% 叫五・〇〆 〇・jニ弔 ∵九餉 〇・八〆 亙∵八解 −九・四〆 −∵七% 三・八〆 二・〇〆 丁六% 七ソ ノ 他 この二偶の統計を比蚊する時、農業者の賛数は、不攣であるととを知る。この数は、更に牛雅紀飴り前の、明治 五年に於ても.略々同様である。即ち、我が国の農業者は、最聾ハ十飴年間、人口に於て、殆ど不動であつた。 然るに、之を他種業者との比較に於て見る時は、明治五年の七割七分〓魔の優勢は、大正九年の五割劃分八厘に 下り、更に昭和五年の囲割八分に低落してゐるのである。相封的には故に、農業人口の減少とも富はれ、叉農薬 の不振とも富はれる。エ発着は、賛助上、殆ど欒化を見ないが、金牌に封する比較では、叫分用度の減少を示 す。之に射して、商発着は、その増加に於て注目に倍するものがある。茸数上、仙千五百萬の増加を示すと共 に1比率上、ニ芽三度の増加となつて居るのである。明治五年の百二手二筒、比率六分九犀に封比すれぼ、昭和 五年や閤百五十萬、比率二剖五分は、絶封的並に相封的増加の二面に於て、驚異すべきものがある。 かゝる商業人口の穐射的並に相封的増加は、即ち商業職能塘富者の増加であり、従つて又、職能賛規鶴城の挽 大である。敢愈の存在と、その固満なる運行のために、商業職能の愈々強度に嬰求せられ来ったことを、如茸に 示すものと冨はねばならない。 謹 本節に就ては、拙稿﹁酌給櫓鮎としての小蟹商﹂ ︵商工経済研究、九巻二渋︶を、金網せられたL。 三 高松高等商染拳校何校十周年記念論文集
商業の、配分的職能分櫓に紺する、叫般的考察を、以上詮く桝によつて、凡そ説くし得た。我等の行論は、か 1る轍能分櫓の具鰐的過程に、順次及んでゆかねばならぬ。 商業の政令的職能が、生産と消費の適合を、物財流通の側面に於て遊行するものであることは、之を明かにし た。即ち、南米の職能によつて、物財は、流通過程に入る。物財は、生産者の手を離れ、順次、その移動流通の 行程を鮭過して、慮路の消費者に到達する。それによつて、物財は其の本来の使命を、全部的に終了し完成する のである。 南米の目的物として、その取扱ひの封象物としての物財は、即ち商偶である。商品とは、か1る流通の圏内に 存在して、浮動性をもちつ∼ある物財に封しての、呼種である。若し、それが、政経の到達鮎を得て、流通圏外 佗出でたる時は、それは、駁早商品セはないのである。故に、商品の一特質は、流通過程中に在ることである。 けれども、商品自牒の目的は、之を祀昏的に融る時、流通固よりの、可及的迅速なる離船に在る。商品は、糀通 園より脱却すること、攻寄すれば、商品は、商品でなくなることが、商品としての、祀合駒目的なのである。商 品は、その商品性離脱の瞬間に於て、最高度の商品性を琴輝すると同時に、商品ではなくなるのである。 今、商品の配合的目的を、商品性の灘駄にありとすれば、その離肝の迅速なるもの程、赦倉的には、優位に立 っ商品と富はねばならない。従って、商柴の虹愈的職能は叉、この商品性離脱のための作用であるとも、詮き柑 るのである。 証合鏑職能分塘者とLての萌黄 叫七五
高奄高等商業畢校開校十周年記念論文集 ︼七六 商品の赦合的目的完成即ち商品性の離脱は、之を二面より考察せねぼならぬ。叫つは、商品自鰹の性能であ る。商品性の可及的迅速なる離脱のためには、それは、最もよく商品性を具備するものであらねぼならぬ。開花 の完全なるもの程、結賛の迅速なるものであるからである。固より商品は、その固有する性能に於て、多分に自 然的であり、之を人馬的に欒更せしめ得ない部分も︰もつであらう。然乍ら、成る程度の野庭は、人工的に可能 であり、而もその領域は、着るしく拭大されつ1ある。商品の物理的・化畢的性質に封して、その形態・様式に 封して、その保存・取扱ひの方法に勤して、人エの勢力は、着々として浸潤しっ1ある。科挙的研究と、従つて 扱術的黎達とは、将来に於て、愈て人工的領域を強化してゆくことは明白である。之によつて、商品は、性能 的に、商品性を完成せしめられ、その離際を迅速ならしめられるのである。商品性離際の第二面は、商業機能 を、現賛に質践すべき姶富者の活動である。我等は、この第二の面に甜て、周到なる考察を試みねばならない。 商業の職能によつて、物財は生産者より消費者に、流通移動すると言ふ。戯し、厳格には、之は安富なる表現 ではない。商品は、本来静的な存在であるから、それが移動するのは、賛は、移動せしめられるのである。流通 移動の動因は、商品に内在するのではなくて、外部に存在する。商品は、或る勢力によつて、流通せしめられる のである。既に成る勢力が存在するとすれぼ、そこには、其の勢力を覆勤せしむべき睾腰が存在せねばならぬ。 この主鰻は、その勢力の保持者に外ならない。通常、朗謂商人はこの主鰹をなすものであるが、今日、法律上で も法人の制度が存在するやうに、箪なる自然人にとゞまるものでないことは言ふまでもない。されば、商巣職能
/
の分塘者として、仙般的に珊解する場合には、商業職能を畿勤し遊行すべき経常腰と柄すべきであらう。この鑑
館腰は、商業職能麿痴のための組織を形成する。資本主義経臍組絨の下では、経螢醍はtそれム\猫立の意志をもつ自由なる存在として、自己を組織し所動する。二堺の計茸は、その弼立なる意志に基き、従って、叫切の行
動の結果は又、その意志の保持者に辟着する。
経営腰は、必要なる総べての婁素を結合して成山且する。之、それが組織を形成するといふ朗以である。時に
は、要素の血ったる自然人の意志が、甚だしく支配的である場合もあらう。商発給螢に於て多く存在する、個人
商業といはれるものは、之である。通常の小吏商店の如きに、我等は多くの適例を見出すであらう。時たは、複
数の自然人の意志が共同的に組細せられ、個々の自然人より猫立して、緯螢組織牒自照の意志として、袈現せら
るゝ場合もあるで偽らう。結敵組絨痢柴は、即ち此の場合の挿硯形態に外ならぬ.。今日の経済組赦の下に在っては、かゝる商業の経営鰭が存在して、その配合的職能の分塘を賛接するのであ
る。経営豊は、商菜椒能の達成を目的とする。之は、商業を、敢禽的に胡て、祀合的職能の分描者となす時、必
然なる辟結といはねぼならない。然乍ら1経済醍の璽心自由に基底を置く今日の経番組織下では、この配合的目的が、常に第叫次的に意識せられて成就せらるゝとは言ひ絢ないのである。即ち、経済濃は、配分級密の上に於
て、如上の職能をつくす。叉、そのつくすことが規準であらねぼならぬ。けれども、畢弼なる鮭常鰹は、その畢
弼着たる存祁を確立し、持摸し、蟄展せしめてゆかねぼならない。こゝに、収益の問題が教生するのである。
証骨的職能分塘者とLての、商弟 ー七七一七八 高松高等商染拳校閲校十周年記念論文集 経常牒が、その活動を特約・費展せしめるためには、営利は、特定の鮭臍組舷の下に於て、之を認めてゆかね ばならない。かくて、今日の商柴経常鯉が、企発として成立する所以でぁる。 私は、この鮎に就て、アダム・スミスの、人に知られたる育英を、想ひ浮べる。スミス日く、個人は剛般に、 公共の利益を増進せんとする意志なく、叉幾許増進しっ1ありやに就きても知らず。彼が外国産菜に投資せすし て、園内の座乗を維持せんとするは、単に彼自身の安固を目的とするに過ぎす。岡も、その座乗の生躇物をば、 最大慣値たらしめんとすることによりて、彼自身の利益を目的とするなり。それにも不拘、此の場合に於ても、 他の多くの場合に於けると同じく、彼は叫偶の見えざる争によりて、自己の意志に少しもなき嘲つの目的を達成 すべく導かる1ものな少。彼が此の一つの目的を、意志の中に有せずといふことは、敵倉のために常に寄ありと は冨はれす。彼は彼自身の利益を追求することによりて、意識的に統合の利益を促進せしめんとする時よりも、反 って屡々大なる敢合的利益を生ぜしむるが故なり。余は、未だ誓って、公共的利益の蔑めに事業をなすと袋ふ者 によりて、多くの有益なる事項の途得せられたるを知らずと。︵戸SmiきWea−芳○¶コatぎsuく0=二γ畠−り。見え ざる争の自然調和詮を、固より我等は、そのま1に信奉するものではない。個人の自由所動が、其のま1に、政 令全髄としての調和を出現するや否やは、配合思想の根底に横はる重大問題である。従って、 検討は、今之を招くも、スミスか、個人は二段に公共的利益を意諭することなく、自己自身の利姦を追求しっ1、 而も公共的利益を賛現するとの見解は、今月も亦全部的に安富孝ことを炭ひ得ない。酷禽意識の醇北は、個人の ヽ、
赦静的関心を弛化すること固よりである。けれども、生活の日常的道管鱒骨ちて、事々に赦愈的意識より、その
活動が規律せらるゝものでは重くない。日常の生活運営は、彼自身の立場を中心としてなされる。個人活動に於
ける自利心の基鮎は、私は、スミスと共に、今村其の正常なることを殊はぬのである。唯1社食の畿達は、それに封する個人の敢倉的関心度を淡くし、頻繁にすることに於て、差異をもたらすに外ならない。
この考察によつて、商業佗於ける営利の地位は、自ら理解せらる1であらう。企発として成立する商業は、企業の主慣たる経営慣の持綬と簸展の蔑めに、営利賛規を目的する。この意味に於て、資本主義経済相絃下では、
企業の、従つて叉商菜の、始瀕的動因は、この営利追求に求めねぼならぬのである。
私はこ1で、営利が商業の本質であるとか、営利追求の無制約なる肯定とかを、放てなすものではないことを注意せられねばならぬ。私は、他の樺禽に於て、︼度ならす論じた如べ、寧ろ営利を甚だ軽く硯、叉それに卸す
る駿正なる批判をも、いだくものなのである。けれども、客質の解明笠田つては、営利の地位を公平に観察する
ことが試まれねぼならぬ。現在の、輿へられたる経済細緻下では、営利は如何なる役割をつくすかといふこと
が、この場合め問題であるからである。
即ち、問趨は厳格に、現資の特定せられたる経済組織下に於ての取扱ひである・。抑て人は何故に、其の生理
的存在を持続するのであるか。惟ふに、人は何れも、単に生物的に生きるといふこと以上に、生存の低値を認め
て居るのであらう。それは、人間生活を意味づける成る物である。それがためにこそ、人が生活に於ける〓別の忍
放曾的職能分措恕とLての商業 一七九従を敢てするのである。然乍ら、人は同時に、生物として存在するや生物鰭としての彼は、その仰濃の塗物的持 携と蟄展とをはからねばならぬ。彼は生理的に粒々なる慾望を感じ、生命維持のためには、食物をとらねぼなら ぬ。或る場合には、人間の営みは、すべて食物のためにのみ、つくされて居るかの観すらいだかせるのである。 けれども、人が斯く、生物的要求に基き、食物を追求する事資より、何びとも、食物の桂得が人生の総べて、又 は水質とは考へないであらう。食物に封する慾望は、生命を増ふペき生物鰹の持綬にとつて、賛に始漁的な動因 と言はねばならない。けれども、そのことから、それが人間生存の、慣借を成すとは晋はれないのである。企業 として成立する商業の、敵倉的職能分疲と営利追求との関係は、之と同軸の考察をなし得るであらう。されば、 現存経済組織の下では、営利は之を骨定せられる。それは、蕨格に歴史的意味に於てゞある。寄賛、祀禽に於け小 る或る種の職能分捧に於ては、営利なきものも行はれるのである。公共的施設の多くは、之に外ならぬ。著し将 来に於て、商業の配合性が、愈々、明確に把えられ、配合二般の之に封する関心度が高潮する時、商業は今日の 形式を攣化してゆくものと富はねばならぬのである。 四 物財の流通移動を基鮎として、生産と消費の適合を職能とする商黄は、掩通移動せしめられる物財、即ち商品 を毒膿として見る時、そこに、商品の人的移動経路が認められるであらう。この、商品の移動紆路を、配給行程 ▲■ 一 高松高等南光畢校閲校十周年記念論文集 一入〇
と名附ける。 商品の運動たる配給行程は東軍供給の適合を賛現せルための、動きである。水面の高低が、水の移動によつて 平均せんとする如く、商品も亦此の流通移動の運動によつて、需苧供給の不義が調整せしめられるのであ蕎 ・既に我等は、大泉生産又は大豊取引の原則となつて居る規制皮の下で、生産又は取引の渾位たる生産可能畢位 又は取扱可能単位が、消費の単位たる滑費可能誤植と、直接に調和し得ないことを明かにした。l碓つて、商品の 立場に立つ時、生産せられたる商品が、直接に政経消費となることは、或る小範囲の場合に限られ、或は或る特 殊の商品に限られて、寧ろ例外をなすのである。仙般的には、直接結合は不可能である。 かくして一商品は、その人的移動行程を開始する。凡そ、赦昏の経臍交通の探大は、今日全世界に社長し、国 際経済細係は、極めて畳大なる分野を形成して居るのである。把臍交通の境大は、商品の移動を二重に延長す る。第仙には、商品は、地域的に、長き行程を動く。霊夢なる商品は、闊際的に移動し、せ界性を具ふるに至っ て居る。第二には、商品は時間的に、長き行程を辿る。地域的行程進度が、生産地と滑費地との大なる茎問的間 隔を意味するのに勤し、時間的行程延長は、生産の時と、消費の時との、時間的間隔の薙長である。そして、地 域的延長には、多少とも、時間的社長は必然に随伴するのである。 商品が、地域的に叉時間的に、流通移動する行程を﹂私は市場と名づけたい。故に、かゝる商品の動きを、系 統的に、粂牒的に和解するものが、即ち市場糾轍又は市場鰐系に外ならぬのである。 放倉的職能分据者としての商染 一八i
市場鰭系の椀大は、上述する如く、拒離の延長であるが故に、その中問に、介在すべき商兼職能括常者を増加 することは固よりである。我等は今、之を示す薦めに、我等の調査にかゝはる、香川願の重要商品二、三に就て 之を例示すること1しやう。
香川解に於ける重要商品の配給行程
第一例。米 て米の配給行程閣解 高聡高等商染拳校開校十周年記念論文集話 者慣格分析は、昭和九年六月忙於ける一二等建にて、利益率等は、推定せり。 第二例。鞠 易 骨
て配給・行程固解
二、慣 格点 豪 放密偵林
道 貸 地方仲買人手数料 米 問 屋手数料 精 米 貸 小 繋 商 利 益消費者入手慣格
祀合駒職能分塘着としての商港 二四・七〇 一石一l付 ・二〇 二〇 ・一〇 ・二〇 ・七〇 二六・〇〇 円 一入三高松高等簡染畢校開校十周年記念論文島
二、偶 格 分 析
団扇骨︵叫千本︶より、製品になるまでの分析 原 料 及 工 賀川 骨工業組合手数料 製造販賛卸問屋利益聞 ︵同上舞茸憤格︶ 大阪までの運賃諸掛 ︵消費地問屋仕入憤格︶ ︵こ1で製品となる。先金なる国威となる︶ 滑費地問屋加工費同 上 利 益
︵同上放資憤格︶小 栗 利 益
小 繋 慣 格
M 之は、製造販貿卸間昆に於ける侶段の例なり。 二八・三石 山〇・〇C l八・三五 六・〇〇 四・C八 八こ山七 七・九二 ・三五 丁三二 ・一〇 六・五〇 門物 この利金は、原備に劃してこ割なり。 拘 旛扇骨及び吹真の威扇︵完成品︶の調査は、主として許整流等商琴撃検挙塵津山劇信君の研究によるものなり。 第三例。国威︵完成品︶
て配給行程㈲解
生産地 二、償格分析︵叫千本︶ 製法敗軍卸問屋原債 同上利益 ︵二剖︶ ︵同上販密偵格︶ 社食的職能分据者としての南米 消費地 〓斗00 一二・五〇 二・荘○ 円 血八五高松廿⋮等蘭染畢校開校十周年記念論文集 質.銀及諸 岨明り ︵摘発他聞屋仕入憤格︶
同 上 利 益
︵同上販昏慣格︶小 安 商 利 益
︵小安償格︶ 第 四・例。 生魚︵鮮魚︶の配給行程固解 二八・三五 山〇・〇〇 鵬八・三五 二斗三五 ニT00 ・三五 一入六軒 先 例へ、 活魚︵イケ︶の配給行程固解 や 配給行程の延長は、商菜の敢愈的職能の上から見る時、仙つの重大なる影響を結果する。即ち、行程延長は、 必然、その中間に介在すべき常尊者の数を増加させ各と共に、之等倍調音の取得する収益が、逐次、檀格に加辞 せちれて、最終の消費者取得偶格︵通常小安慣格︶を、大ならしめるからである。 滑費者叫般の安易に立つ時は、消費財の低慣は固より望ましいことである9物倍が、不常に低下すること.は、 生産者の地位を勤播せしめる鮎に於て、考慮せられねばならぬことは勿論であるがヽ消費者は、政令の全点が之 であることによつて、物慣と消費者との関係は、殊に密接である。商柴職能による財の供給が、中間的介在者の 多数にはって、高い偵格を要求せらるゝ時は、こ1に問題が後生し得る。それ吟、配給の合理化として、或は配 給の統制として規はる1運動であつて、中間的介在者の存在を、可及的に減少せしめることによつて、配給螢を 洗骨的職能分塘者としての商染 鵬入七
肘八八 高松高等商染拳校開校十周年記念論文集 軽減せしめんとする口的に出でるものである。言ふまでもなく、配給行程が、賽問と時間の上で延長せられつゝ ある今日、中間的存在の経べてを磨滅せしめることは不可能事である。けれども㍉長き僻統や、商慣習の下に、 幾多の過剰なる仲介的存在は、節々の名稲によつて現存し、時には、渡りに、中間検閲を多からしめて居る脱が あるのである。こゝに、合印化の動きの教生は、山南の埋あることを、認めねぼならぬ。 中間的介在者の合理化は、結局、生産と消費の可及的直接結合を目的とする。或は、大資本を以て、大規模経 営を確立し、中間存在の排除を試み為が如き、或は協同主義の意識に立って、合珊的配給を苦行せんとするが如 き、その具膿的締硯と冨ひ得る。百貨店、通信販辞その他ぺ規模小安組織は、前者の例であり、産業組合殊に購 買糾合の運動の如きは、後者の例であらう。この二者の動向は、何れも、配給の合印化のために、中間的存在の 威厳を目的とする朋に、共通性を認め得る。けれども、前者は、企業者の立場から、それによつて、苫大なる利 潤を賛現せんとする動因に立つに封し、後者は寧ろ消費者血般の立場から、非営利的職能に動因をもつ。この動 因の鮎で、二者は互に反封をゆくものなのである。 相異る動因に基く、二つの合理化過程が、共に存在することは、極めて興味深い寄蜜である。営利経済の動向 を、強化してゆかヂとする傾向に判して、それとは反封に、非麿利主義が行はれつ1あること・は、恨令その成績 が未だ少しとするも、意味は甚だ大きい。配合的職能分終着として商柴を観る我等には、殊に、この粒非営利声 蕃の動きは、注意をよぶのである。若L、この節の動向が、漸次促進され、醇化せられてゆく時、我等は、生活
の蚤婁なる物財に周して、政令的立場よりする、規制にも想到するであらう。今日でも、官業といふものはあつ て、政府の専嚢が行はれて居る。然し、その主眼は財政目的に出づること大部分である。 然るに、蔵近には、米穀統制法が賛行せられた。之は、必ずしも、我等の所謂配給.の合理化とは冨ひ待ないか も知れない。又、その嘗績が、配合的に常に艮典をあげつ1ありとも、富はれぬかも知れない。けれども、今、 その法制或は成績への専門的批判は招き、か1る一般的統制の畿勤といふ事蜜と、而も、それが図表の財政とい ふが如き、経済的目的に出でるものではなくて、農業者大衆といふ、敢禽的目的を多分にもつ春寒に、注意せられ ねばならない。論者は叉、米の専費とい.ふが如きを諭する。その賛行には、専門技術的に、種々の困難があり、 苦行の能不能は、今俄かに論定し得べきものではない。然し、か1る論議の覆生は、そこに商品配給に封する、 配合的鯛心虔の高度化を認め得るのである。米は、我が閲の主要蕗料品であり、それの生産及び配給は、開民の 蔽密生活に緊密なる関係をもつ。経つて、それの安定は、必要事に相違ない。漏り米とのみ言はす、生活の軍要 財は、漸次、かくの如き、一般的立場より、統制への傾向をとるのではなからうか。若し然りとすれば、それこ そ.商柴の敢禽的職能の醇化であり、高度化に外ならぬ。か1る場合には、表現態様は、今日の企柴形態を難れ たものをもたらすかも知れない。所謂商業の名は、最早不適常と見られる歩合もあらう。けれども、商業の配合 的職能は、その場合、最も高められたことを息はねぼならない。 我等は叉、この鮎に就て、更に仙偶の考察を試みやう。小賛商業の逼迫は、刻下の緊急問観であることは、今 政令的職能分轄者としての商業 一入九
更改くまでもない。小繋商業を困難に陥れつ1ある多数原因の中で、叫つ、その数の過剰は、覇過されないもの である。小曹商政、その同種営業者の数の、飴りに多いことによつて、講評の産歴に堪えず、共倒れの傾向を示 して居るのである。我が国の政府は、之に封して、何等かの徹底的方策を賛行する意志あることが、侍へられて 居る。卸へぼ、・大都市忙於て、小繋商の経営開始を、自由に放任せず、∵定の取締の下に、之を制限するに至れ ば、之は或る意味で、従来の、督某日由の原則への、大なる修正と冨はねぼならない。而して、か1る思想が、 叫部になりとも、行はれる専質は、商業の職能に封する、敢倉的関心度の増加と見てよい。小安商の封究は、小 安商を粟生させる首的に於て、必ずしも、直接。周東の敢倉的職能に封する畿動とは言ひ待ないかも知れない が、統制的意味の顔現に於て、叫商柴叫般への意味は少くないのである。 謹 本文中に摘録せる、昏川螺重要商品の配給行程は、昭和九年、高兼高等商染畢校の調査躍免忙よるものであり、L の調査ば、別忙猫立に公刊せらるゝことになる汝、詳細はそれに依られんことを希望する。 阻に、この調査は、同時に公衆せらるゝ、高松市内、小梵及卸薯商経僚箕情調査と共に、示同聡高等商染襲校創立十周 年を磯として、企鼓せられ藩行せられたる同校、教職員の山部と、垂盤との共同労作であることを附託しておく。 ヽ 五 物財の流通移動を任務とする、商発の祀禽的職能峠、その流通移動の遊行に貰って、粋先の方式を遵法しなけ 高松高等南米畢校榊校十周年記念論文集 山九〇
れぼ頂らない。之、赦脅的職能の分冶者として考へられる時に濾、特定政令の機構を前提としてのみ、存立し得
る故に∵其の敢禽に行はれる制皮の支配に立た隠ぼならぬからである。凡そ物財の流通移動の具慣的方式には、
種々存在する。その儀動する意志の強制性に於て、・武力的のものあり、平和的のものあり。叉、平和的のもの中
に、T万的のものあり、双方的秒ものがある。仙窟の法律が、敢昏関係の雷要なる脈絡を支配する時、合法的方式があると共に、非合法的方式が考へられる。
物財め流通移動が、弧制約意志の後勤に基き、而も武力に基く場合は、今日、秩序ある劇祀脅、或は仙問家内
では、之が否
之を排斥すると共に、開法は、校正なる規定を以て之を犯罪行為となすのである。故に、原則として、今日、武
力的なる物財の強制移動は、之を非合法なりと柄せられる。.而して、か1る移動は、常然、一方的形式をなす。更に、∵万的なる非合法的物財移動は、武力又は暴力とのみ、狭く限定せられない。武力又は暴力によらすと
軒、政令生活の相互信認に背反する行為によつて、成就せらるゝ場合も含めしめねぼなうない。我が国の刑法た
於て、﹁他人ノ財物ヲ論駁シタル者﹂︵刑法第二甘三十五條︶、﹁暴行叉ハ脅迫ヲ以テ他人ノ財物ヲ弘取シタル恵﹂ ︵刑法第二雪二十六傭︶、﹁人ヲ昏酵セレメテ其財物ヲ盗取シタル者﹂︵刑法第二官二手九條︶、﹁人ヲ欺岡シテ其財物ヲ 騙取シタ几者﹂︵刑法第二首蕗十六條︶﹁未成年者ノ智隷蔑滞叉ハ人ノ心神耗弱二乗シテ共財物ヲ交付セシメ叉︵財 産上不法ノ利益ヲ得若クハ他人ヲシテ之ヲ得セシメタル者﹂︵刑法讐音四十八條︶﹁人ヲ恐喝シテ財物ヲ交付セシ 祀骨的職能分措者としての商業 一九脚高空等滞米登校開校十周年記念論文集
劇九二
メタル者﹂︵刑法第二冒頭十九傑︶﹁自己ノ占有スル他人ノ物ヲ横領シタル者﹂︵刑富二冨十二條︶等を犯罪者とし て、取締りをなすことは、之等の例である。更に叉、替察犯虚罰令の下に,合力、菩掩、乞巧・−寄附、押蛍り、等 の撃講を取締り居ることも、亦この如合法に劃する法律的支配の例である。︵警察犯虞罰令弟二條ノ州、二、三、七︶今日、武力的方式或峰杜昏的相互信認を破壊する方式による物財の移動は、かくして表に許されない。唯例
外的な場合として、国際現象に於てのみ、之を今福見出すのである。戟寧による賠償金の文飾、領土及び物財の
割攣引渡等は、私によれぼ、武力的なる物財︵及び貨幣︶の、妄的強制移動に外ならない。八或は、之を以て侍、それは武力的にあら凍と富ふかも知れない。諾し、姉和條約成立し、相互に脅商の上の約定であるから、そ
れは平和的なものであるといふのである。然L、か1る諭旨は、単なる形式に囚はれたもので、絢際間の敬寧に於てのみ、私は今葡、武力的財物移動を見るのである。之は、今日までの、国際闘係が、未だ理想を遠ざかるこ
と、造かなることの琵接に外ならない。輯際幽係の醇化は、やがて、かゝる例外をも、絶滅せしめAことを規準とするに違ひないのである。
妄的物財の流通移動の方式には、上述の非合法的なるもの、或は例外的なる国際撰象を除き、公的なるもの
と私的なるものに分ち得る。前者は、ノ園家の緊急非常なる事態或は敢昏盃ハの利益に基く場合で、例へぼ我閑の
徴畿令︵期芋茎入場布︶の如きは、この場合であか、文明論=至毒に磯布せられ、その後数次の改iEを経 たる土地牧容法の規定の如真土地・は物財とは興るが︶、この例と見られる。後者は、民法の聡琴寄附行鵠の如.きの形式に示されるものであり、日常生活に於て、種々の動機より、例へぼ、友誼・慈善・感謝等々より歴々行 はれるのを見る。 然らば、商柴の職能賛現に於ける物財移動は如何なる方式によるか 好倦によつて表示する。今日、貨幣は交換わ媒介手段として作用することより、商共に在っても、物財は、貨幣 の媒介忙よ、つて、移動するのである。即ち、それは双方的であつて、物財と貨幣との交換なる方式をとる。之 が、膏黛に外ならない。我が民法は、安男を以て、契約と規定し、箇尊者の意思表示の合致によつて成古≠する諾 成契約で■あり、常革者の義務は双方的であることより埜務契約となすのである。 こゝに於てか、離合的職能としての、商菜の物財移動は、賛買方式の下に、賛規せられねぼならないことを知 る。望月は、之によつて、経済的に、物財の流通移動を遊行せしめる具饅軋手段の方式であり、法律的には、所 有棟が、人的に移挿する方式であると富はねぼならぬのである。 ㊦ 賓貝は、固より商藷忙限られるのではない。唯商発の物財移動の方式は、必す資質によらねぼならぬといふの である。 今日の法律は、契約の自由を原則とする。簡買が契約である限り、等しく此の自由原則に擦ることは・いふま でもない。けれども、閑寂は、その公共的福祉と安寧と秩序の維持の立場から、或は叉、財政といふが如き特殊 目的から、更に又緊急時の必要から、或る物財の賓貝を支配制限することは屡々哉生するのである。之は原則へ 敵曾的職能分澹着としての南光 一九三
の例外と見られるであらう。 か1る法規をはなれて見る時、侍、我等は安男の自由と公正に就て、考察すべき事項がある。それは、安男の 自由に閲する法律的制限の外に、尚、眈曾的な制限と、商業者の自主的抑制との二鮎である。之等も、必要とせ らるゝ時は、法律的定型を以ハへらる1樺禽をもつであらうが、我等の言はんとする要旨は、法律的制限の外に於 ても、安男は全く無制限に自討とはなり得ないといふ鮎である。そして、この事は、商柴が吐合的職能の分槍着 である軍資より、必然後生するのである。商柴職能は、酔顔成員の経べてが、例外なく物財の消費者であること より、仝組合の隔祉に密接なる関係をもつ。故に、仝配合の隔靴に逆行すべき、商業職能の表現は、祀静的に批 判をうけねばならぬのである。賛貫の方式が、従つ七、か1る逆行・背反に立つ時は、それ故、祀倉的批判をう けねばならない。或る商品に封する、澹愛着大衆の不買同盟の如きは、かゝる政令的批判の一例と言ひ得るであ らう。その他、消費者仙般より、提出せらるペき、賛買紬係への要求の如きも、之である。商巣窟の自主的抑制 は、配脅的職能分婚者としての商糞を、嘗規の首尊者たる商巣窟が、任意的に自覚することより生する、賛買へ の制限である。南米老は、時に、単純なえ藤利追求より、賛買に封して人エを弄し、策動を試みることも多い。 その極端なる例は、宜大なる企業者の聯合に基く澗占により、或る程度まで、市傷を支配するが如き之である。 然るに、こ1に富ふ自主的抑制は、その動機が之と異るものである。酢倉的職能の分暗者たることを、第一次的 に認識せんとする意固に塞ぐものを富ふ。例へぼ、同業組合その他、百態的組合の成立の如ぎ、恨令、この他旨 ’ 高松高等商染聾校閲校十周年和食論文集 仙九四
を完全に資現し居らすとするも、之に近き朗硯と見ることが出来るであらう? 私は、か、ゝる内壁着則般よりの批判、並に商発着の自主的抑制に勤し、甚だ壷変性をおく。現状より見て、か 1る立場は飴り忙も架基的との批判が下されるかも知れない。然し乍ら、商業の斬魯的職能分獲着たる本質が、 愈々、劇般的に理解せらるゝにつれて、我等の説く朗は、自むその敷皮を加ふるに旗ひないからである。 大 桑に我等は、今日の資本主立経済組鵡下に在つて、商菜が硯賛に敢愈的職能を途行するためには、企豊として 表現され、重昭の経常艦の活動にかるものであることを詳論した。 経営髄は、組織女形成する。組織は、必要なる諸質素の結合によつて成立する。之に於てか、今経常鱈自鰭を 畢猫に取上げる時、要素及び細緻の考察が、極めて盈変性をもつのである。私は、こゝに、経営蓼的研究の、主 として封象とすべき諸問題が存在すると考へる。 企業としての経営鰐は、先づ資本形成に出畿せねばならぬ。資本の調達・充蜜・運摘忙就て、之を庭埋せねば ならない。資本問題は、金融機関との交渉を離れて考ふることは無意味であり、金融関係は、常然に信田の機能 を畿動するであらう。信用は更に・金融校閲との交渉に於てのみ してくるのである。 社食的職能分捨者としての薗染
経営の主醍が、次いで考へられぬばならない。我等は、急に、統合的職能の塘富者として、経営慣白鰭を宰膿
と見た。この場合には、個々の経常鰭を単位として、南光金牌の.上よりの観察である。之に反して、粧螢の車濃 とは、一個の控螢鰻内部に於て、之が計富指導の役割をつくすもの皇−一口ふ。この場合、それは、前逸する赦倉的職能の培常者としての主濃と、賛際には二放することも屡々であらう。けれども、之等二者が、同州者であつて
も、その親祭鮎は大いに異り、そして、之を厳格に識別することが霊夢なのである。殊に、我等の赦倉的職能分
轄を詮く立場にとつて、悪賢なのである。蓋し、政令的職能分塘は、牟盟赦禽の動きに於ける、商柴の緒常役割
である。故に、物財配給の職能が常忙正面に立つ。然に、革猫総督の妾濃としては、その叫偶の舵皆の維持簡展
を主位に置く。﹂この場合には、故に企柴利潤が甚だしく重要性をもつ。そして、この二者の関係は、我等が、既
に詳しく設ける如く、同時的結果をもたらすものではあるが、考察に雷っては、之を分つべきであると思ふ.。畢弼経営の車濃と共に、主饅の計蓋指事を執行し賛践すべき、諸人的要素が考へられねぼ計らない。耗常牒
の、内部的機構に於て、指導者に封する賓行者の関係は、柄めて範要である。この場合、経常に於ける人的要素
の心理的状態の研究や、能率の研究等が、取扱はれねぼならぬと思ふ。
商菜の経営要素として、叉商品も常然考察されることを要する。商品は、上米の諸所に於て、屡々輸ぜられて
釆たのであるが、商業鮭螢の要素としては、椒扱はる1封象物として表はれてくる。商柴経常では、商品は、資本の一時的表現形態として現はれ、製造過撞を通過することなく、再び貸備に還元せらるゝ。取扱の封象物とし
高松高等商基準校閲校十周年記念論文集 一九六ての商品は、勿論、種々の技術的、専門的虚麗をうけねばならぬであらう。 か1る諸要素の組成より、経営鷺は成立する。、経常鰻の内部的運営は、金牌として、経臍原則の支配の下に行 はれるであらう。料率的管理がこゝに餉聯をもつてくる。その運営の〓切は、之を数字的に、統叫記録せられね ぼならぬ。こ1に、辞記の任務が存在甥由をもつ。すべての運営を、究極に於て、貸幣的表示の下に、統一する ことは、運営の適否を、数字的に判断せしめることになるからである。 私見によれぼ、往えにして、商柴の観察が、上述する経常膿としての、諸関係に局限せられ、商蓋の本質も 亦、か1る組織鰻に在るが如く論ぜられる場合が、あるやうに思はれる。けれども、商業の政令的職能を、正常 に捉へんとする我等は、か1る観察を以て、安富奉りとは考へぬ。何となれぼ、商業の本質は、決して、静的な る経営膿としての、組織に止まむのではないからである。か1る組織が、商柴の職能を驚現するためにする活動 自慣にこそ、永められねばならぬからである。この活動は、言ふまでもなく敢禽紘健として見る時に、配合的職 能の分櫓をなすものに外ならぬのである。 蓋し、敢愈は、常に運動して仙瞬と雌も停止するものではない。配合の間断なき運動が、即ち、敵禽進化を成 就してゆくのである。かゝる運動してゆくもの1申に在って、特定の職能を分婚し、仝鰻的開聯を保つものは、 等しく、運動の申に其の職能を果すことを本質とせねばならぬ。私が、商葉の職能を、動態として求め、働きそ れ白鷹の中に、*質的なるものを認識せんとする朗以が、こ∼に存するのである。 証曾的職能分塘者としての商染 劇九七
七 上乗、繰越する桝によつて、商業の配合的職能分轄を、凡そ解明し得たと思ふ。商業に於ても、他の酢倉的撤 能途行に於けると同じく、人的要素の盈要なることは富ふまでもない。我等も、本論の朗々で、之に爛れてき た。 赦倉の畿蓮は、配合的職能の各分轄者が、之を白魔して、その職能の完全なる嘗現に雷る夙に存する。商柴に 於ても亦、同様である? か1る白魔は、二つの方面より達成せられねぼノならぬ。﹂つば、敢脅威点金牒の、か1る臓能に封する、正常 なる理解である。二つは、商柴の人的要素自鰹Ⅵ、敢倉的職能分終着たる商菜への畢常なる認識である。この二 者によらすしては、商業の正しき敬展は望むべくもない。殊に、人的要素の敢静的職能認識ぼ、私によれぼ、雷 雨的に重安である。南桑に於ける指導・教育の領域がこ1に存在するのである。 せ諭に在って、.屡々、商発散育が嘗際的でないことの珊由を以て、之を非議するを耳にする。桝謂、資際的と は、抑々何を言ふのであるか。商業教育が、単なる拳珊に偏して、驚務的に乏しいことの意味を云ふもの1如く である。このことは、教育の賛際化など1富はれて、教育の指導的地位に在るものからも、往々にして唱へられ る0 高松高等南光畢校開校十周年記念論文集 一九八
私見は然るに、之等と甚しく蟹田豊ハにする。論者は、商業教育の理論に偏する弊をのべるけれども、果し
て、今日までの商柴単に於て、理論的討究がそれ程す1められて居るか。私によれぼ、寧ろ反射である。逆に、 今日まで、商業車と富はれて、教授せられてきたものは、多くの場今賓務的、扱術的なもの1集合に外ならない。而も、短い年月に於て、経済敢禽百般の事項を、修得蹄達することは不可能事に屈する。この不可能なる賓
語が、偶々、致育過程終了者の、資務的不熟練となつたことから、それを以て、罪を理論偏貰に昂せしむること
は、全くいぼれないことゝ云はねぼならぬ。
それよりも、之等、近祓眼的勧察が看過トて居る貴大寄は、寧ろ、反斜に彼等が極力排斥する群論偏雲の、
正しき理解なのである。偏重といふことの、探るべからざることは、・改めて苧\を待たぬ。私によれば、今日までの、商菜者の快略は、扱術や賓務の不備ではなくて、反封に、理論的把捉の不備に在る。
配合的蒸徳が、所謂苦衷豪といはれる人々によつて途行せられ、髄に暴露せらる1時、彼等は、世俗的には、寧ろ熟達の聾であり、成功者であるものが多い。それが、放て憩徳の負桧者となるのは、私によれば、彼等が商
柴の祀愈的職熊を確解しないからである。之は、濁り理論的にのみ把起せらるゝもの■であらねばならない。この
考察は、猫り、商柴の領域に止らす、教育議に常然移される。現今の日本に於て、何故に、しかく不詳番が多
いのであるか。教育、司放、といふが如き、故も厳正なる領域に向つてすら、幾多の汚濁が浸潤してくる。之こ
そ、私によれば、酷昏的職能の理論的坪解の不徹底に基くものである。必要なことは、か1る珊論的理解をこ 証曾的職能分轄潜としての蘭染 ︼九九そ、醇化することにあらねばならぬ。 商業の教育に於て亦同株である。瑛論偏霹などゝとは、抑々認識の不足である。若し佃、しかく同執するなら ば、偏重された理論をこそ賛辞すべきである。私によれば、甥論の不備・不徹床こそ、今日までの商菜教習の、 一大紋格だと見るのである。そして、この珊諭は、賛に、商業の計倉的職能分治者たる基底にこそ、依存せんめ られねばならぬのである。 ︵山九三四、九、二六︶ 高松高等商業拳校開校十周年記念論文集 二CO