文学・芸術・文化 17巻1号 2005. 7
『ハムレット
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の迷宮
ーーその仕掛けと受容経験一一1芝
史 朗
ルネサンス期において「学問」が学者だけの占有物ではなくなり、宮廷 でも流行し始めたと言われております。宮廷人や君主達は、競って教養 と礼節を高め、立ち居・振舞いや話し方に徳性・優雅・高尚を極めようと しました。その模範となる礼儀作法書も多く書かれている。11 主人公ハム レット王子は、開幕以前の設定として、 ドイツ・ウィッテンベルグ大学に 留学していた学生であり、その恋人であるオフィーリアも言うごとく、 「宮廷人に相応しいまなざし、武人の剣さばき、学者の弁舌、麗しいこの 国の希望と華、流行の鏡、礼節の模範J
"The courtier's, soldier's, schol -ar's, eye, tongue, sword,/Th' expectancy and rose of the fair state,/The glass of fashion and the mould of form"(第 3幕 第
1
場153-155行)iii であります。ところが、当のハムレットは、開幕当初、宮廷の華やかさと は対照的に父の死の悲しみを引きずり、喪服姿で舞台に初登場致します。IV 開幕努頭、今は亡き国王の亡霊出現といい、華やかな中の黒ずくめの王 子の登場は、亡霊と血みどろ悲劇が好きだった当時の観客でも異様な印象 を受けたはず。宮廷の雅の世界は、本来秩序と調和の象徴ではあっても、 ハムレットが後に言うとおり、現実には既に雑草がはびこり、新国王主催 の、いわばバッカスの酒宴が連日催され、道徳的堕落の象徴と化していま す。 ニーチェの『悲劇の誕生J
(1871)によれば、芸術は、アポロ的なものと ディオニュソス的なものとの2
重性によって進展して行き、ギリシャ世界 には、アポロ的芸術とディオニソス的芸術の間に大きな対立が認められ、 この対立が最終的に融合し、アポロ的でもありディオニュソス的でもある つ 臼 ヮ “ 噌 E A ( 1 )『ノ、ムレット』の迷宮芝 芸術作品、アッティカ悲劇が誕生したと言われる。このアポロ的調和と ディオニュソス的陶酔との対立が際どいところで維持され調和しているの が、悲劇『ハムレット j(Hamlet, 1601)の世界であると言えましょう。こ の対立一一ニーチェ流に言えば夢と音楽的陶酔との対立ーーは、作品に対 する我々の受容のありようと実は深く関わっております。この悲劇
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が芸術 様式としてのマニエリスムの完成とも、まさにバロックの到来とも考え得 るのは、それがT.S.エリオットによって文学史上のモナ・リザと言われる 如く、我々の解釈を妖しく多様に分裂させている事と決して無縁ではあり ません。芝居の目的が、ハムレットの言うように、「自然に向かつて鏡を 掲げるJ
事ではあっても、その鏡が、ミヒャエル・エンデの『鏡の中の鏡』 の知く終わりのない迷宮の鏡であるとすれば、我々は、ハムレット解釈を めぐり元々無い出口を求めて、さ迷わねばならないのでしょうか。1
8
世紀中葉、フランス新古典主義を標梼するヴォルテールの『ハム レット』論は、余りにも有名で、あります。天才の片鱗を窺わせる崇高な一 節を認めながらも、この作品を「酔っぱらいの野蛮人の作」と決め付け、 ハムレットの卑俗性に対する嫌悪感を公然と表明している (r悲劇論j、1
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年。もっとも、これは、コルネーユ(
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やラシーヌ(16
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擁護の立場からではあるが)。、1
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世紀イギリス合理主義の時代、 サミュエル・ジョンソン博士は、ハムレットの非行動性に戸惑い、「クロー ディアス祈りの場J
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幕第3
場)で示される彼の非情に対して明確に反 感を抱いているu
シェイクスピア戯曲集J
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年)。ハムレットの非情 とは、彼は父の亡霊の命じるままに叔父クローディアスの命を奪おうとす るが、叔父が魂の救済のため祈りを捧げようとしているさ中に復讐すれば、 叔父の魂は地獄どころか天国に行ってしまい、復讐にはならない、とする 断定にあります。叔父の命を奪うだけでなく、その魂までも地獄落ちさせ ねば復讐にならぬとするハムレットの考えは、実に過酷です。 ロマン主義を代表する批評では、例えば、ゲーテは、ヴィルヘルム・マ ( 2 ) 噌E qL ム文学・芸術・文化 17巻 1号 2005. 7 イスターに次のように語らせている。 明らかにシェイクスピアは、大いなる義務〔復讐〕がそれを果た し得ない魂に負わされるのを描こうとしたのです。…美しい花を 活けることしかできないような高価な花瓶に、樫の木が檀えられ たのです一一根が張ると花瓶は砕けてしまいます (rヴイルヘル ム・マイスターの徒弟時代』、 1795年、小宮豊隆訳、岩波書庖)。 19世紀には、ゲーテに続きロマンティックな膜想家としての自己同一的 ハムレット像が登場し、 20世紀には、まさに多種多彩な、あるいは互いに 相反する主人公像も出来上がります。特に20世紀後半には、とりわけ自意 識的ともいえる受容反応の視点、も誕生する。この傾向は、さまざまな受容 理論の輩出と無関係で、はありません。文学作品の解釈とは、アントン・ エーレンツバイク(An
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流に言えば、不明確な素材とし ての芸術作品に対して受容者が、その受容体験において一つの新しい明確 な構造と合理的な意昧を考え出すことであり、その過程で必然的に作品が 受容者において変容されることであります。Vl ヴオルブガング・イーザー(W
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は、「変形対象は、もはやテクストではなく、読者であ る。J
とさえ言っている。刊 このような視点に立てば、スティーヴン・ブー ス(
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ハムレット』は、意を決することので きない観客の悲劇だ」〆 と言明することも可能であり、マイケル・ゴール ドマン(
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ハムレット』に起きることを考えるの は、『ハムレットJ
を見る我々に何が起きるかを考察することだJ
、とまで 言い切る。lX その後さまざまな観客反応論が続出します。x かように多様な読み方の生じる素因が、確かにこのテクストにはあるの です。そもそも、主人公の行動や思想に一貫性を見出そうとすること自体 が、極めて困難であるかもしれない。ハムレットは、決して理路整然たる -120- ( 3 )『ノ、ムレット』の迷宮芝 弁証法の達人、雄弁の大家ではない。その冷静で、あるべき思索の過程に、 泥浮と化した情念が熱く煮えたぎり、ハムレット的ヴェクトルが生起して いるからです。従って、ニーチェが、くだんの『悲劇の誕生』において、 恐らくハムレットの独自「かくして思索が我々を臆病にするのだ。‘
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(第3
幕第l
場)Jを盾にとり 「認識は行動を殺す。行動するためには幻覚のベールにつつまれているこ とが必要である。これがハムレットの教え」だと、主張するようには単純 に断定できない所以が、そこにあります。その証拠に、ハムレットの「見 せかけj と「真実」の相違に対するこだわりは、自らの肉体の汚れに対す る憎悪に移り、自殺を暗示し、母親・女性に対する憎悪に転調します(第 1幕第 2場)。父が実はクローディアスによって殺害されたことを知った 時の驚樗と憎悪、そして復讐への熱い誓いは、亡霊相手のひょうきんな滑 稽芝居に転調し(第1
幕第5
場)、更に友人のローゼンクランツやギルデ ンスターン相手に人間賛美と憂穆論ヘ、旅田りの役者達との演劇上の作法 や芝居観への拘泥に転化致します。自己の臆病をさげすみ、復讐心に燃え 立ち、亡霊の言葉を確かめるべく劇中劇を計画する(第2
幕第2
場)、か と思えば、今度は、「生きるべきか、死ぬべきかjで始まる、例の自殺志 向を暗示する名高い難解な台詞を喋る(第3
幕第1
場)。 第3幕第 2場、劇中劇直前、彼は再び役者相手に芝居論や演技観につい て鏡舌をふるい、役者達の芝居が始まれば、オフィーリア、クローディア ス、ガートルードに対して容赦ない辛練なジョークを飛ばすだけでは収ま らず、オフィーリアの「道化役者‘'ji
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を自任し、彼女から 「コーラス(説明役)‘c
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と呼ばれる程に劇中劇「鼠取り'
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の解説に偏執的な程熱が入ります(第3
幕第2
場)。第3
幕 第3
場、クローディアス祈りの場面では、もう少しで復讐を遂行できると ころを、既に言及しましたように、罪にまみれた現場で殺さねば復讐とは ならぬ、と機会を改めます。かと思いますと、母ガートルード私室の場 ( 4 ) ny文学・芸術・文化 17巻 1号 2005. 7 (第
3
幕第4
場)で、クローディアスと間違えて、ポローニアスをあっけ なく刺殺し、母を罵倒いたします。ポローニアスの遺骸をおいた場所を聞 かれ、伴狂とはぐらかしの上、白状し、ついにクローディアスよりイギリ ス行きを宣告されます(第 4幕第 2・ 3場)。 第4
幕第4
場では、フォーティンブラスの軍隊に出会い、鈍った復讐心 に拍車がかけられ、残認な思いで胸を満たしながらも英国に向かう。英国 への途路、帰国後に再び舞台に現れた時(第5
幕第l
場)、墓穴から掘り 出される頭蓋骨を見、人間のはかなさへの思いに偏執狂的にこだわり、無 常観に浸ります。あまつさえ道化的存在である墓掘りに関心を示し、この 墓掘り相手にさながら言葉の掛け合いが演じられ、挙句にレイアーティズ 相手に取っ組み合いをする始末。結局、この場面は、復讐への熱い思いは ついに語られずに終る。 総じて、ハムレットのアクションは、復讐への思いと思索の陶酔(音楽 的陶酔は、後で述べるように、彼のバラッド調の台調の反復に明瞭に現れ ている)、つまり、集中と逸脱の聞を振幅しながら展開してゆくように見 える。それは,作品全体の対立的リズム-直進と蛇行、動きと停滞、緊張 と弛緩ーに奇妙に一致しているわけです。重要なことには,ハムレット自 身には内面的にも外面的にも、また意識的にも無意識的にも次のような対 立あるいは葛藤が認められることです。つまり、真実と見せかけ、生と死、 正義と邪悪、言葉と行為、熱烈と冷淡、理性と情念、神性と獣性、心と体、 万物の霊長と獣、能動者と受動者、ディコーラム (decorum礼節)とイン ディコーラム(indecorum無作法)、モデスティ (modesty節度)とイモデ スティ(immodesty無礼)、新古典主義理論と民衆演劇の伝統、復讐者であ りながらレイアーティズにとって被復讐者でもあること、冷酷無慈悲な復 讐者でありながら復讐拒否者でもあること。つまり、この作品には、極め て多くの対立事象や概念が下部構造体として仕組まれているわけです。 もちろん、例えばモンテーニュが『エセーj(1580年、英訳1603年)の中 -118- ( 5 )『ハムレット』の迷宮芝 で、とりわけ第38章「如何に我々は同じことで泣いたり笑ったりするか」 において論じているように、これは人間がいかに複雑な存在であるか、と 言う証左であると言えましょうし、モンテーニュに代表される懐疑思想の 一つの現れと見ることも出来よう。(このハムレットには、ルネサンスの 「知jがさまざまに表出されておりますが、ここでは触れません。)更に、 主人公の置かれた状況ももちろん無視出来ない。尊敬する父国王の突然の 死、その直後の卑俗な叔父との母親の急激な再婚、父の亡霊の出現と復讐 の命令、国王殺害者の判明、そして、この様な異常な出来事によって生じ る王子の心の乱れ・苦悩・憂穆であります。これは、例えば、当時の心理 分析書とも言える『憂穆論j(A升ωtiseof Melancholie, 1586年)で医学博 士、ティモシ・ブライト (TimothyBright)が述べている「憂欝症」の諸 症状、即ち、不信、疑惑、弱気、絶望、時に激怒したり、あざけりゃ似非 笑いをするという現象に相当するでしょう。 一般的に、文学作品において描かれるところの人物像には作家の側の問 題意識の在りようと、その表現の力量が、当然のことながら、明瞭に現わ れるものです。小説において極めて相対立する分子(異質異端分子)の並 存と設定における均衡が見事に描かれている点で、次の三人の作家と代表 作品を挙げたいと思います。ジョン・ゴールズワージー(John Galsworthy : 1867-1933;ノーベル文学賞受賞)の
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ブオーサイト家物語j(The Forsyte Saga, 1922)、 トーマス・マン(百lOmasMann [小説家ハインリッヒ・マンは兄
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1875・1955;ノーベル文学賞受賞)の『ブッデンブローク家の人々 ーある家族の没落-j (Buddenbrooks - Veゆ11einer Familie-, 1901;川 村二郎訳、河出書房、 1968年)、及び、マルタン・デュ・ガール (Roger Martin du Gard : 1881-1958;ノーベル文学賞受賞)の『チボ一家の人々』 (Les Thibault,
1922-40;山内義雄訳、白水社、 1956年)であります。 三人とも、国籍は違いますが、ほ:ま同時代人であり、これら代表作は、 いずれも大河小説であって、同じくノーベル賞を受賞していることも奇妙 ( 6 ) 司 i 4 1 唱i文学・芸術・文化 17巻 1号 2
∞
5. 7 に一致しております。共通項はそれだけに止まりません。重要なことは、 三作ともある一族の繁栄と崩壊と没落を皮肉に描く中で、異質な分子を扱 いながら作品の総体として見事に構成のバランスが取れていることです。 同じことが、『ハムレット』においては、主人公における相反する要素の 並存が最終的に巧みに解消され見事な調和が成立している。Xl シェイクス ピアの場合は、一人物の内面に生成されるこの対立から調和への過程が受 容者に与えるインパクトは、一層大きいと言えます。 ハムレットの行動が恐らく受容者である観客や読者を最も戸惑わせ、受 容体験において最も変容を受ける可能性のあるのは、次の二つの場面にお けるものであります。しかも、これら問題の場面を境として受容者は、ア ンビヴァレントな反応を喚起させられる点に大きな特色があります。しか し、不思議なことに、この点は、これまで『ハムレット』批評ではあまり 取り上げられていないのです。 さて、その一つの場面とは、第1
幕第5
場。父の亡霊が現れ、実の弟に 殺されたことを語り、ハムレットにその復讐を命じます。この父の亡霊の 姿が消えた直後、ハムレットは、友人たちに今夜目にしたことを口外しな いように誓わせようとする。その時、舞台下より、つまり、地下の世界か ら、何度(合計 4回)も聞こえる「誓え。 j という亡霊の声に対してハム レットは、こんな応じ方をします。 ありや、ま一、君も、そう言うかい。そんな所にいたのかい、正 直者よ。 (中略) ここかと思えば変幻自在だな。 (中略) よくぞ言った、もぐら君。そんなに速く地面の下を動けるのか。 立派な坑夫だよ。 n h u 噌 E a -噌 E A ( 7 )[ノ、ムレットjの 迷 宮 芝
Ah ha
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boy,
say'st thou so?Artthou there,
truepenny?Hic et ubique. Well said. old mole. Canst work i'th' earth so fast? A worthy pioner (pioneer) (第1幕第 5場158・171行;強調は筆者による。以下同様) 父の亡霊に対して軽々しく、また、馴れ馴れしく「君」‘boy'、「正直者」 ‘truepenny'、「もぐら君」‘oldmole'、及び、「坑夫」‘pioner' と呼びか ける王子の態度は、確かに奇妙・奇怪です。それに‘thou' と言う代名詞 は、父親に対して使うものではありません。これは、受容者の予期に少な からず反するでしょう。復讐を命じる父の亡霊が姿を消して、舞台にただ ならぬ重い不気味な余韻が漂う時、これはなんと軽い台詞であることか。 恐らく観客が最も予期し得ない言動のひとつでありましょう。もっとも、 この時点で、亡霊の存在は、確かに父親の本当の霊か、それとも、新教の 立場から見た「悪魔」なのか、明確ではない。彼が、特定できぬ亡霊をか らかつて、このように呼称することは、あり得ないことではない。しかし、 彼は既にホレイショーたちに「亡霊は、本物だ
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“Itis an honest ghost" (144行)と言明している。アーデン版シェイクスピアの編者ジェンキン ズ (Harold]enkins)、その他も指摘するとおり、半信半疑と言うのが実 際のところだろう。ともかくハムレットは、後ほど亡霊の正体を確かめる ことになり、亡霊が明確に父だと分かれば、それなりの言動に変えること となりますo m しかし、もう一つの場面、第3
幕第2
場での彼のひょうきんな言動は、 もっと重要で、しかも更に奇矯・不可解であります。父王殺害者はクロー ディアスであるという亡霊の言葉が劇中劇という手段で確かめられた時、 ( 8 ) -h d 噌E A 噌 E ム文学・芸術・文化 17巻1号 2005.7 慌てて退く国王の後ろ姿に浴びせかける王子の言葉は、次の通りです。 なに、傷ついた鹿は、泣かせりゃよいのさ、 無傷の雄鹿は、遊ばせて、 眠る人ありや、眠らぬ人も、 とかく乙の世はこんなもの。 Why
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let the strucken deer go weep,
The hart ungalled play;For some must watch wh
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e some must sleep, Thus runs the wor
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d away.(第3幕第2場265-268行) であり、さらにホレイショーに語るのも同様 君は知らずや、親しき友よ、 この地には、既に 大君あらず、今治めるは、 まさしく下衆の女たらしとは。For thou dost know
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0 Damon dear,
This realm disman
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ove himself, and now reigns here A very, very-pajock.(同275・278行) というパラッド調の台詞(これらは、第2
幕第2
場、ポローニアス相手に からかう時の彼の台詞の調子と同じ)であります。この軽い、しかも、謎 がかったジョークのような台詞は、やはり、受容者(観客や読者)の恐ら く 最 も 予 期 し な い も の で あ ろ う 。 こ の 場 面 で 、 亡 霊 の 言 葉 が 実 証 さ れ (rああ、ホレイショー、亡霊の言葉は千ポンドに値するよ。気がついたか d A τ ( 9 )『ノ、ムレット』の迷宮芝
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行)、叔父クローディアス国王が父の殺害者であ ることが明確化した今、重要なことは、その復讐のための実行、あるいは、 その具体的な計画であるはず。しかし、ハムレットは、一切そのことには 言及しない。このとき、むしろ彼にとって最も重要なことは、クローディ アスに仕掛けた畏が見事成功したことのように見えます。その喜びに浸る かのような言動。更に、この熱P陶酔・ひょうきん振りは続く。 ありや、まー!さー音楽だ。おい誰か、笛だ。 国王が、この芝居お気に召さずば、 そりゃ、まつことマコトお嫌いなんだろう。 おい、音楽だ。Ah h
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行)• 特に下線をほどこしたp
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という断言に使う言葉(,神かけて、マコト に」と言う意味)は、次の1
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の引用にあります通り、シェイクスピ アの作品では、身分の低い召使や-兵卒、あるいは、道化の口にする言葉 であって、他にハムレットのような王子や貴族が使う用例がないのです (もちろん、この言葉自体に下卑た意味・用法はなく、ニュートラルなもの なのですが)。これは注目すべきことですご 1Dromio o
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(エフェサスのドローミオ、召使)空
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ピストル、 1兵卒)0
viper vile! The “solus" in thy most mervailous face; The “solus" in thy teeth,
and in thy throat,
And in thy hatefullungs, yea, in thy maw,型空回主; And, which is worse, within thy nasty mouth! (rヘンリ一五世.](
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Hey Robin, jolly Robin, Tell me how thy lady does. 乱1ylady is unkind, perdie. (r十二夜j(
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道化)That sir which serves and seeks for gain, And follows but for form,
Will pack when it begins to rain, And leave thee in the storm. But 1 will tarry; the Fool will stay, And let the wise man fly: The knave turns Fool that runs away; The Fool no knave, perdy. (rリア王J(
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11. iv. 75-82) まさしく王子にあるまじきひょうきんな言葉、パラッド感覚の台詞です。 ハムレットの言葉は、その行動と同じく、実に豊かで、振幅が大きく、多様 なハムレットの世界を構築する上で大いに役立つています。上の一連の台 詞を、例えば、次のいずれも有名すぎる彼の独自と比較すれば、その対 比・対照度は明らかでしょう。 ワ 臼 4 E A 4, A ( 11 )( 12 ) 『ハムレットjの 迷 宮 芝 ああ、このあまりにも汚れた肉体が溶けて 崩れて露と化してしまえばいいものを。 全能の神が、せめて自殺を禁じる錠など 定めなければよかったのにc ああ、神よ!神よ!
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幕第2
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行) 生きるか死ぬか、それが問題だ、 どちらが高貴なことか、 暴虐な運命の矢弾に耐えて生きること それとも、大いなる苦難に武器を取って立ち向かい、 抵抗しながら、それらの息の根を止め、みずらも果てることか。To be
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幕第1
場56・60行) pよいよ夜も更けて、今は魔界の騒ぐ時刻、 墓が大きく口を開け、地獄が毒気をこの世に吹きつける頃だ。 今なら、この僕にも熱い生き血が吸えるだろう…'
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唱 E A 唱 E A 唱 E A文学・芸術・文化 17巻1号 2005. 7 (第3幕第2場379・381行) 真の偉大さは、 大義がなければ行動しないのではなく、 名誉が問われれば、わら一本にすら 闘争の大義を見出すことだ。
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行) ハムレットの場合、これらの独自を含めて実に様式化され、誇張され、又 は凝縮された、難解・厳粛な、まさしく悲劇にふさわしい重々しい張り詰 めた台詞と、民衆的・通俗的・世俗的・日常的な軽いひょうきんな台詞と の重大なコントラスト。悲劇の重さと本来は喜劇にふさわしいはずの軽さ の対比は何と大きいものでしょう。言葉の多彩・豊富さと同時に、言葉の 持つ力のなんという落差でしょうか。これらの対照的な言葉の使い方も受 容経験に多大な影響を与えるものであります。 さて、論点を絞りましょう。 既に述べた亡霊との出会い直後の場面と劇中劇直後の二つの場面では、 作品構成上の仕掛けが、すこぶる共通しております。共通点を挙げれば、(
1
)これらの場面は、観客に極めて緊張を強いる深刻な場面の直後であ ること(
2
)その直前の深刻な場面から、受容者は、主人公の決定的な、しかも 深刻な反応や重い言葉を多少予期できること(
3
)その予期に反して、およそ不調和・不可解な主人公の軽さ、ひょうき んぶり、及び、反悲劇的で王子には不似合いな庶民的日常的言語の多用が 見られること。そして、それらが、観客や読者、すなわち、受容者の高揚 -110- ( 13 )『ハムレット
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の 迷 宮 芝 した期待感を裏切り肩透かしを食らわせ、従って複雑な受容反応、少なく ともある驚きやインパクトを与えるものであること。つまり悲劇的緊張の 高揚とその急激な弛緩との間の強烈な対比が仕掛けられています。 この場合、ハムレット自身が親友達に打ち明ける敵側への戦略としての 「伴狂」、つまり、敵の様子を伺い、こちらの手の内を見せないために宮廷 では狂人の振りをすることを第1
幕第5
場においてホレイショー達に告げて いるが(
1
7
2
行)、この「狂気のふりJ
はあくまで敵であるクローディア スに対する戦略であって、傍らに友人しかいないこれら二つの場面では不 要なのであり、「伴狂」という事態は、除外して考えねばなりません。 殊に前者の亡霊出現直後の場面について言えることは、深刻な場には不 釣合な主人公の過激に陽気な態度は、むしろ真の狂気を疑わせる、もしく は、尋常ならざる心理という印象を与えるに足りるものです。(もっとも、 ホレイショーやマーセラスは亡霊の出現に圧倒され、それに気付いていな pょうだが)。 亡霊は、実はシェイクスピア以前の古い道徳劇(例えば、Thomas
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のAllfor Money, 1577)においていささか滑稽に描かれている「悪魔」 であり、ハムレットは、その狂言回し、あるいは、この悪魔をじらせてか らかっている「罪」‘S
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という名の「悪徳jヴアイスV
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であって、 「道化演技を自ら演じる役者ハムレット」という印象すら与えるのです二xiii 実際、ハムレットの父の亡霊には、いささか喜劇性すら見受けられるとこ ろがあります。亡霊は、息子に対して自分が殺害された模様を語る厳粛な 場面において、ジョン・ベイリーo-o
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も指摘しているように、町 威厳ある国王の態度と言うよりは、さながら犬か猫のように朝の匂いを鼻 で嘆ぎわけるがごとき言動 (1だが待て、朝の大気の匂いがするO 手短に 話そう。」“B
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第l幕第 5場58-9行)をとっています。これは、やはり多少滑稽でしょう。 さらに、いわゆる端役、または、それに準じた人物の普通演じる「コ ( 14 )-109-文学・芸術・文化 17巻1号 2005. 7 ミック・リリーフ
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と言う役割が、ここで、主人公ハムレツ トの為に意図されているとは到底考え難いことも言い添えて置かねばなり ません。ハムレットは、あくまで主人公であって、決して端役などではな い。これは、まさしく、英雄の「ズッコケJ
、ハムレットのズッコケ、と 言わずして、何と言えるでしょうか。この時代は、中世の騎士物語の伝統 や、古代ローマ悲劇の伝統である英雄悲劇が一方で礼賛された時代であり、 このあと、シェイクスピアは、『オセロ j. (Othello, 1604)、F
リア王』、『マ クベス j(Macbeth, 1606) を書き上げています。本来英雄を讃える詩が噴 末なテーマを描く擬似英雄詩‘mockh
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が用いられるのは、1
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世紀 になってからのこと。 後者の、ハムレットが劇中劇上演により、その狼狽ぶりから叔父が父殺 しの犯人であることが確証できた場面では、受容者は主人公の内面と一体 化し、恐らく次にハムレットにより実施されるであろう復讐という行為、 あるいはその計画に向けて最も高揚した瞬間に、主人公のとる実際のおど け行為により、いわば冷水を掛けられるごとく、一瞬主人公との一体化を そがれ、冷めることになる。少なくともある種の「驚きJ
が生じよう。こ の受容者の意表を突くハムレットの、言わば、ディオニソス的陶酔の音楽 (つまり、パラッド調の台詞の繰り返し)は、我々受容者を煙に巻くに十 分でしょうf これらが、それぞれの厳粛な張り詰めた直前の場面に対す るある種のパロディー、あるいは、パーレクスでなくて何であろうれm しかし、いずれの場面においても、もちろん、現実の場合、劇場におけ る観客各々の実際の反応は、予測しがたいものであり、まちまちであって、 必ずしも今述べている通りに行かないかもしれません。実際毎日上演され ている劇場での、あるいは、映画化における場合、観客は他の事に気をと られていて気づかない場合もあり、現実の反応内容は、一切無反応のレ ヴェルから、単に沈黙のままだったり、多少の違和感を感じて失笑するか もしれないし、驚きを表す等々、さまざまでしょう。むしろ表面上何らか -108- ( 15 )『ノ、ムレットjの 迷 宮 芝 の反応を示す観客はわずかかもしれない。戸惑いを感じる観客は、相当い るのではないだろうか。しかも、表面下あるいは、表面上で、生じるかも しれない多少の驚傍は、悲劇的緊張感という点で、受容反応に一つの明確 な変化をもたらすものであります=つまり、これまで観客とハムレットの 間で共同構築された劇的緊張感をひとまず壊しかねないプロセスが出来上 がると言える。前後の状況を考慮、してみても、尚残るその不可解さ、取扱 いにくさの一つの証拠は、これらの場面が日本での上演はもとより、英国 での上演、あるいは、英米人による日本での公演でも、あるいは、映画化 作品でも、しばしばカットされることであります。 ハムレットによる、この二つの道化演技のもつ「役割
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と「意義」は、 先ずエリザベス朝における観客の劇場体験を射程に入れた上で、「受容経 験」とpう視座から考えれば、誠に興味深いことが分かります。 先ず、当時の観客意識内における舞台上の「幻想 illusionJと「現実re -alityJ
は一種の可逆現象であったということが言える。つまり彼等は、現 代の観客以上に劇場的幻想ないし虚構を意識して観劇していたわけである し、また同時に舞台上の出来事を容易に現実のものと同一視することが出 来たということです。彼等には、それを容易に可能にする心情的、物理的 条件が揃っていたからです。 当時の社会での楽しみといえば、大きな熊や雄牛を鎖につなぎ、猛犬を けしかけ喧嘩させる見世物、時期ごとの各種の祭式や市の日の踊りや中世 以来の道徳劇や剣舞の上演等、悲恋の物語等の詩の朗読等、素朴で、しか も、素直にナイーヴに反応する純朴な市民が大多数であったわけです。舞 台も、何より現代よりはるかに簡素な劇場構造でした。特に、テムズ南岸 のシェイクスピアの劇団が本拠とするグロープ座の舞台は、張り出し舞台 であり、簡易テーブルや椅子、ベッド代わりの長いす程度の道具しかなく、 従って、貧困な演劇的条件で大いに頼りとなったのは、役者の朗々たる台 詞とアクションでありました。当時の観客は、これらだけで大いに想像力 ( 16 ) 唱' ハυ 門/ A文学・芸術・文化 17巻1号 2005. 7 を働かせることにより登場人物に対して感情移入が容易で、あり、人物と一 体化が容易に可能であり、その逆もまた容易であったのです。 例を挙げれば、先ず何よりも殺人者クローディァスの前で、その殺害の 状況を旅役者に演じて見せて彼の良心に訴えかけ、その罪を暴くという劇 中劇の「仕掛けjそのものが、当時の観客心理における舞台上での現実と 演技(虚構・フィクション fiction) との情緒的同一化・混交の容易さを証 明する一つの実例でありましょう。これは、ハムレットの次の言葉からも 実証される。 聞くところによれば、 罪を犯した者が芝居を見ている内に 舞台上の巧みな演技で 心の底まで突き動かされ、 たちまち自分の悪事を白状したという。 1 have heard That guilty creatures sitting at a play Have, by the very cunning of the scene, Been struck so to the soul that presently They have proclaim'd their malefactions. (第2幕第2場584-88行) ハムレットは、この出来事を根拠に劇中劇でクローディアスの反応を見ょ うとしたわけです。 これには、主筋同様川 実は、いくつかの材源があります。最も有名な も の は 、 作 者 不 明 の 芝 居 『 よ き 女 へ の 忠 告j(Anon.A陥 rningfor fair Women, 1599)であろう。この作品では、一人の女性の観客が、ある悲劇 の上演の最中、自分の夫を殺した女性人物の演技を見ている内に感極まり、 -106- ( 17 )
『ノ、ムレット
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の 迷 宮 芝 自分も夫を殺害したことを白状してしまった、という事件について語られ る場面がある(第4
幕)。注目すべきは、これがシェイクスピアの劇団 (宮内大臣一座)が演じた作品であること。似通った出来事は、劇作家ト マス・ヘイウッド (ThomasHeywood)により『役者のための弁明 j(An Apology for Actors, 1612)においていくつか述べられております。 さらには、「劇中劇」という趣向自体が、当時多く用いられたメタドラ マ 的 仕 掛 け で し た 川 例 え ば 、f
夏 の 夜 の 夢j(A Midsummer Night's Dream, 1596)第5幕において職人たちの演じる下手な田舎芝居としての 劇中劇、及び、それについてシーシウスやライサンダー達が論じるという 設定が最も知られた内容。また、劇中の人物が最初、観客の一人となって 登場したり (rカモの島jJohn Day:The Isle of Gulls, 1606や『輝けるす りこぎの騎士J
、F.Beaumont:The Knight of the Burning Pestle, 1607)、上 演する芝居の説明役である前口上役が当日の出し物の名前を知らず、役者 の一人にそれを教えられ、挙げ句に観客である市民が口を出し、芝居その ものが別の出し物に変わってしまうという、まるで、観客を食ったような芝 居『はめられてj(Anno., Wily Beguiled, 1602) もありました。 その他、芝居に関するメタファー(隠喰)やシミリー(直聡)がエリザ ベス朝の芝居、特にシェイクスピアの作品、その中でも『ハムレット』に 極めて多く見受けられる。ハムレットが旅役者におこなう演技・演劇論が 随一。特筆すべきは、シュイクスピアのf
お気に召すままj(As You Like It, 1599)で登場人物の一人、ジェイクィーズの語る有名な「すべてこの 世は舞台。男も女もすべてはただの役者:J "All the world's a stage,/And all the men and women merely players..山という言葉が、当時最も 流布した考え方の一つであり、また
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年夏、開場したシェイクスピア の本拠劇場・グロープ座の掲げる標語は「世;立、すべて役者を演ず」であ りました。 何より、当時のエリザベス女王は、自分を役者に除えることを好んだと ( 18 ) F h d ハ U文学・芸術・文化 17巻l号 2005. 7 言われる。このような社会的メタファーも背景となって、演劇の世界では、 メタドラマ(あるいは、メタシアター)的な発想が実に多く見受けられる のです。つまり、これは、登場人物が舞台で演技をしていることを自意識 的に観客に知らせる手法に他なりません。xx もう一つ有名なメタドラマの一例を挙げましょう。若者の一途な愛を描 いた『ロミオとジュリエット j
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の一場面。密かに ロミオと結婚しているジュリエットは、彼女の従兄弟であるティボルトを 殺害してしまったロミオが追放処分となり、親の決めた相手と結婚せざる を得なくなって大変苦しみます。重婚という罪を避けるべく、神父の準備 した眠り薬を勇敢に飲み干そうとする時、極めてメタドラマ的な見せ場を 演出いたします。「恐ろしい場面を私は、どうしても一人で演じなければな らない。“Myd
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t' も縁語であり、これは、文 字通り、ただ一人でこの場を繰りぬけねばならない、という意味とジュリ エット役をただ一人舞台で演じなければならない、というこつの意味があ ります。この場面は、ジュリエットがけな気に演じる見せ場であり、同時 に、ジュリエット役を演じる女優の見せ場でもあるわけです。 以上のようなエリザベス朝の演劇観と社会の環境は、常に舞台上のアク ションを現実として、同時に演じられた幻想(あるいは、虚構・フィク ション)として観客に極めて柔軟に受け入れさせる条件を提供していたと 言えましょうO 言い替えれば、当時の多くの芝居には、「これは現実なん だ」、と観客に対して主人公や話の筋への同化・一体化問 を迫りながら、 その一方で「これは芝居であり、作りもの、虚構、演技なんだ」、と喚起 させ、舞台上の演じられた現実と一体となった観客を少し突き放し、その 熱い「火照り」を冷まさせる異化・疎隔化の要素があった。これは、劇作 家の側のいわば「遊び」であり(ピーター・ブルック[
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は、遊び -104- ( 19 )『ノ、ムレットjの 迷 宮 芝 playの要素を多く含む)、「仕掛け勾であって、結果としては過剰に反応す るナイーヴな観客に対する一つのサーヴィスであったかも知れません。い ずれにしても、当時の数多くの作家、特にシェイクスピアは、芝居のもっ この二重性(‘stagereality' としての現実と ‘fiction' としての演技)を 常に意識し、観客にもそう仕向けていたと言える。当時の観客は、既に述 べたような柔軟な心理環境にあって、これを極めて自然に受け入れられた であろうと思われます。 ハムレットの道化演技も、王子の身分には不調和ではありますが、芝居 の二重性をエリザベス朝の観客に効率よく知覚させる手段ともなります。 一方、現代の受容者にとっては、この二重性の知覚は、比較的唐突に、し かも戸惑いや驚きを覚えながら生起することになるでしょう。しかし、こ の唐突さ・意外性は、道化演技そのものによって生じる驚き・意外性と共 に、後で検証する通り受容体験という点では一層効果的に作用するように 思われます。 王子の道化演技について、さらにもう一点述べて置かねばならないこと があります。既にロパート・ヴアイマン (RobertWeimann)
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シェイクス ピアと民衆演劇の伝統:劇の形態・機能の社会的次元の研究J
(Shakespeare and the Popular Tradition in the Theater:・Studiesin the Social Dimension 01Dramatic Form and Function、11頁)も指摘しているように、伝統的道化
とは、祭式の子孫・神話の継承者であり、同時にミメーシスとパロディを 手段とするリアリズムの子でもあるため、ヤーヌス神(Janus)的二面性 を持っていました。従って道化は、アンヴィパレントな劇的機能である魔 法にかける (enchant)力と魔法を解く(disenchant)力とを共に備えて いたことになります。観客を自らと同一視させ劇的に高揚させながら、突 然冷たく突き放し、舞台の現実が「演じられたー虚構であることを思い知 らせるハムレットの二面性は、まさにこのヤーヌス神的二面性と言えるで しょう。 ( 20 )
-103-文学・芸術・文化 17巻1号 2
∞
5. 7 ここまで来れば、残るもう一つの問題、ハムレットによる二つの道化演 技の「意義」は、いくらか考え易くなります。彼の道化演技が芝居の持つ 二重性を観客に知覚させる働きがあるとすれば、それによってどのような 意義が生じるでしょうか。高潮した悲劇の場面が、一瞬の内に素朴で日常 的、反悲劇的な言葉と行為によって一種のバーレスクへと転調してレまう とします。しかし、それがパフチーンの言うようなカーニヴァル的「格下 げJ
行為ではあっても、とりわけ現代の観客にとっては、そこに生じるの は本来の笑いではなく、むしろ「意外j と「驚き」の混じった一種の「冷 めた笑い」でしかないで、しよう。つまり、観客心理のメカニズムにおいて、 冷めた意識の中で芝居の虚構性が再び想起され、改めてハムレットのアク ションが演技として意識されることになる。訓 喜劇的な「滑稽さ・可笑しさ」の効果も重要。滑稽さが悲劇の視点を移 し変え、主人公との聞に距離を置き、受容者との一体化を一瞬阻止し、同 時に、ハムレットの友人関係からの孤立化をもたらします。この種の「距 離」の措定は重要であろうと思われます。芸術作品としての絵画の中には、 作品と鑑賞者の間にある冷静な距離が措定され、受容者に作品の意味を改 めて距離をおいて考えさせるような場合があります。その種の絵画批評を 演劇受容に応用しようとしたメイナード・マック(MaynardMack)
は、 次のように述べ、Most o
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XXlV 一つの鑑賞のありようとして、受容者が意図的に観劇の焦点を変えるので はなく、スティーヴン・ブースの述べるように、受容者が「いつの間にか 焦点が移動していることに気づくJ
xxv ようにさせる設定が主人公になさ れているということであります。つまり、主人公との同化、あるいは、 体化と異化、あるいは、疎隔化がバランスよく取られるということが、演 劇受容と作品の理解・解釈において極めて重要であり、『ハムレットJ
にお いて、それが計算されたごとく仕掛けられているということなのですo m これは、ブレヒトの主張する異化効果 (V効果)別 にかなり近いもの と言えるでしょう。しかし、ここで我々が考えているのは、ブレヒトの 「歴史化」による物語の解釈ではなく、ハムレッ卜と受容者との聞に突然 置かれた距離そのものであります。この距離は、確かにf
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効果jによっ て得られるものに近いでしょうが、この悲劇作品固有に見受けられる受容 ( 22 )-101-文学・芸術・文化 17巻 l号 2005. 7 者側の感情同化と異化の問の強烈な振幅があって初めて意味をなすものと 考えられます。(この振幅の強さは、ハムレットの道化演技の前後で最も強 く、その他の場面における復讐と陶酔、集中と逸脱のアクションでは小刻 みではありますが。) つまり、距離ゼロ(受容者の側の主人公との自己同一化)から距離最大 (受容者のほぼ完全な覚醒または異化・疎隔化)の間で、バランスを保ちなが らハムレットを解釈する複数の角度を与えられることが、重要なのです。 (これは、もちろん全ての文学作品、特に演劇作品に当てはまるわけでは ない、ということをお断りした方がいいでしょうが。)いずれにしろ、受 容者は、同化と異化を繰り返しながら置かれたさまざまな距離から得るハ ムレット体験を重ね合わせ、第 5幕で最終的な主人公像を作り上げること になる。この場合、同化と異化の聞の距離はエリザベス朝においても現代 においても恐らくあまり変わりはないかもしれません。ただここで、彼の 「おどけ演技」についてはもう一つの考え方を示しておきたい。それは、 既に述べたように、芝居の二重性を受容者に十分知覚させるばかりでなく、 受容反応を自由に操作できるシェイクスピアのすぐれた技量と悲劇『ハム レット』の隠れた意昧とを同時に表し得ていることなのです。 その意味とは、主人公の奇矯で、異常に陽気な、おどけた行動の表層下に 隠された深い悲劇性、別な言い方をすれば、陽気であろうと演技すること により逆に見えてしまう言葉にならない深い悲しみ、尋常ならざる痛みと 苦しみであります。この隠された意味は、観客の冷めた意識の中で初めて 十分汲み取られる種類のものでしょう。シェイクスピアは、この意味をハ ムレットの不可解な行動下に巧みに織り込むことにより、この悲劇をより 豊かにし、かつ、深遠化に成功していると言えないでしょうか。 -100- ( 23 )
『ハムレットjの 迷 宮 芝 註 i 本 稿 は 、 芝 史 朗
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ハムレットJ
の 受 容 経 験J
、『近代風土』第37巻 (1991年) 76-83頁、及び、同 Clownsand Kings: Seriolls Jocularity in Shαkespeare (大阪教育図書, 2003)第5章第2節をもとに、受容反応とメタドラマの視点から「英語英米文学専攻講 演会J
(2003年10月7日)において発表した内容を改訂したものである。 i i この点については、芝「シェイクスビアと‘Modesty'r
ロミオとジュリエット』、 『夏の夜の夢』、及び、『ハムレット jの場合ー、「文学・芸術・文化』第13巻第 l号(通巻 第31号、 2001年)1-18頁参照。 111 シェイクスピア本文からの引用は、特に断らない限り、全てアーデン版Arden Shakespeare CD-ROM: Texts and Sources lor Shakespeare Studies(Walton-on-Thames,Surrey: Thomas Nelson& Sons, 1997)に拠る。
iv 最近の批評で、この作品を「追憶の悲劇j‘tragedyof memory'と呼ばれる所以で
もある。例えば、 EdwardPechter,“Remembering Hamlet: or, How it Feels to go like
a Crab Backwards
ぺ
ShakespeareSurvey, 39 (1987), pp.135-47; Alex Newe,1lThe Solilo-quies in‘Hαmlet' : The Structural Design (1991) 及び, Stephen Greenblatt,‘ Remem-ber Me' , Hamlet in Purgatory(2001). V ハムレット批評の変遷については、参考文献にあるハリス編『シェイクスピア批 評集』第一巻を参照願いたい。尚、ヴオルテール『哲学書簡
J
(1734年、岩波書屈、 1951 年)の書簡第18r
悲劇について」参照。この他、冷酷者、懐疑論者、利己主義者等と考 えるハムレットの否定的論者、あるいは、ハムレット嫌悪者 (Hamlethater)と呼ばれ る人達は、ジョージ・スティーヴンズ (1772年)、ツルゲーネフ (rハムレットとドン・キ ホーテ』、 1860年)等を経てサルパドール・マダリアーガ(1948年)、レベッカ・ウエスト (1957年)、 D.H.ロレンス (1916年)等がいる。 Vl The Psycho-Analysis01Artistic Vision and Hearing: An Introduction to a Theory01 Unconscious Perception(London, 1953), pp.13-14.Vl1 Der Akt Des Lesens: Theoriea sthetischer断rkllng(Wilhelm Fink Verlag, 1976)
『行為としての読書:美的作用の理論
J
轡回収訳(岩波書底、 1982年)、 54・55頁。viii “On the Value ofHamlet", Reinterpretations01Eli::.abethan Drama, ed. Norman
Rabkin(London & New York, 1969), p.152.
ix The Actor's Freedom:・Towarda Theory01Drama (New York, 1975), p.4.
x 1990年までの観客反応論の歴史については、 KentCartwright,“Spectatorial Dis
-tance in Shakespearean Tragedy", Shakespearean Traged.¥‘and Its Double: The Rhythm 01
-99-文学・芸術・文化 17巻 1号 2005. 7 Audience Response (University Park, Penn., 1991), pp. 1-42を参照。 Xl 主人公の内なる相克や対立そのものが原因となって破局をもたらすやや極端な例 としては、例えば、次の作品が挙げられよう。内心の相克がこうじたあまり精神の平衡 を失い、自己と寸分たがわぬもう一つの自己を作り上げ発狂してしまう主人公ゴリャー トキンを描く FMドストエフスキーの『二重人格
J
(1846)や主人公の人間性に潜む二重性 をもとに薬物操作という設定で相反するこつの人格を描くスティーヴンソン Robert Iρuis Stevenson (1850-94)の 『 ジ ー キ ル 博 士 と ハ イ ド 氏IJThe Strange Case of Dr.Je勾IIand Mr.Hyde, 1886)。
xii この亡霊の正体をめぐる議論は、 EleanorProsser(Hamlet and Revenge, 1967)以
来未だ解決されず、最近StephenGreenblatt(Hamlet in Purgatory, 2001)は、カトリッ クよりの立場(即ち亡霊は悪魔ではなく、父国王とする考え)をとっている。第 1幕で は確かに亡霊の正体はハムレットにとり不明で、王子自身が、実際に半信半疑の状態で ある。しかし、第3幕の劇中劇によるクローディアスの反応確認によりハムレットは明 らかに亡霊の言葉を信じるようになっている。ガートルード私室における彼の亡霊に対 する言葉使いについても、亡霊への呼称は、第 1幕第5場における‘thou' (未知の相手、 身分下のものへの呼称)から明瞭に‘you' 身分・階級・家族関係の上位の者に対する改 まった呼称)に変わっている。 Clownsαnd Kings: Serious Jocularity in Shakespωre第5 章参照。 対ii Iノ、ムレット=道化」論は、既に批評家の論じるところであるが、本稿では批評史 への言及は省略し、ハムレットの道化性を異なった視座、受容経験と観客反応、及び、 メタドラマの視点から論じる。尚、主人公のおどけ・道化演技については拙論“Hamlet's StrangeJ ocularity¥Shakespeare Studies22 (1985), pp. 11・29;I“Mongrel tragicomedy" とシェイクスピア悲劇の笑
pJ
、『近畿大学教養部紀要』第19巻第2号 (1987年)47・58頁; 及び、 Clownsand Kings: Serious Jocularity in Shakespeare第5章において論じている。xiv Shakespeare and Tragedy (1ρndon: Routledge& Kegan Paul, 1981), p. 2.
XV パラッド調の台詞の合間に主人公が楽師を呼んでいることは象徴的である。第3 幕第2場285・88行を参照されたい。(尚、このテクストの読み方は、第2-4四折本に拠 る。) xvi このようなハムレットの態度は、周辺人物、特にポローニアス相手にからかう場 面 (II.ii.172・219;cf.“百lesetedious old fools" (219) ; III. ii.367・373;cf.“1 must be idle" (90) ; "They fool me to the top of my bent" (375))に共通するもので、いずれも 単なる軽さではなく、やり場のない強くて辛らつな真剣な「情念jが秘められている。 いわば、「真剣なおどけ演技」とも呼ぶべきもの。 xvii 直接の種本は、作者不明の芝居『原ハムレット Ur・Hamled(16世紀末)であり、 -98- ( 25 )
『ハムレットjの 迷 宮 芝 主たる源は、遡れば十二世紀末デンマーク人サクソの記述した『デンマーク史』の中の 「ハムレット(アムレス)Amleth物語ー、及び、これをフランスのベルフォーレが16世紀 に翻案した『悲劇物語Jである。 却 血 この仕掛けは、シュイクスピアに誌、わ、ムレット』や『夏の夜の夢
J
以 外 に 『じゃじゃ,馬ならし.1(Taming 01the Shrell'. 1592)、「嵐J
(The Tempest, 1611)等で、また 他の劇作家の作品にも多く使われている XlX 第 2幕第7場139・40行。尚、ジュイクィーズのこの台詞の直前にある老公爵の次 の言葉も注目に値しよう。「我々だけが不幸なのではないんだよ。この限りなく広い世界 という舞台は、我々が演じているよりも、もっと悲しい芝居を見せてくれるのだから。」 “…we are not all alone unhappy:/ This wide and universal theatre/ Presents more woe -ful pageants than the scene/ Wherein we play in".(136-139行)。同様の比聡は『ヴエニスの商人.1(The Merchαnt01'匂 lIce,1596) 第 l幕第1場)、『リア王.1(King Lear, 1605)
第4幕第6場)、『マクベス.1 (Macbeth, 1606) 第5幕第5場)において、また他の劇作家 の作品にも多く認められる。 XX 次のハムレットの台調も参照:Would not this, sir, and a forest of feathers - if the rest/of my fortunes turn Turk with me - with [two] Pro-/vincial roses on my raz'd shoes, get me a fellowship/ in a cry of players? (111. i. 2i75-278) 双
r
同化・一体化j、及び、「異化・疎隔化」は、それぞれ‘engagement¥‘commit -ment' ,‘participation',‘identification';‘detachment ,'‘alienation'に相当しよう。笹 山隆氏の指摘するとおり、「同化」ゃ「異化jという「観念そのものの苧む暖昧性」はあ る。「同化」とは、r
r
おのれ自身が作中の人物になり切る』可能性」を意味するが、「自ら が観客である乙とを忘れて、劇的イリュージョンの世界の中で呼吸すること」か、それ とも「舞台上の特定の人物の感じ方に自らの波長を合わせて共鳴することによって、被 の内面を共有するということ j なのか、笹山氏は疑問を提示する。「異化・疎隔化」も類 似のことが言えよう。氏は、結局「受容理論に基づく作品論を行なう場合は、むしろ議 論を「一体化jと「疎隔化」のレベルに置いて、同化と異化は背後に隠された次元のエ ネルギー源として扱う方が、問題処理の上で効果的」と結論する。 (rドラマの受容:シェ イクスピア劇の心象風景.1 [岩波書屈、 2003年〕、 41・43頁)氏の引用する劇作家ジェイム ズ・シャーリー(James Shirley)の言葉が興味深いっこれは、シャーリーの編集したボー モントとフレッチャー全集に付した序文にある .engagement'をめぐる一節である:“…You may here find passions raised to that excellent pitch, and by such insinuating
degrees, that you shall not choose but consent, and go along with them, finding your
-self at last grown insensibly the very same person you read; and then stand, admiring
the subtile tracks of your engagement.…" From To the Reader', prefixed to the
1647Folio by James Shirley.(56頁)尚、本論においては、読者も観客も同じく受容者
と見倣しているが、本来、受容理論においては劇場経験と読書経験を厳密には分けて考 えるべきである。しかし、この問題は別に稿を改めて論じたい。