• 検索結果がありません。

T.マン『ファウストゥス博士』におけるユーモリストR.シルトクナップとS.フロイトの精神分析

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "T.マン『ファウストゥス博士』におけるユーモリストR.シルトクナップとS.フロイトの精神分析"

Copied!
16
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)Title. T.マン『ファウストゥス博士』におけるユーモリストR.シルトクナップ とS.フロイトの精神分析. Author(s). 山道, 愛斗; 大木, 文雄. Citation. 北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 65(1): 151-165. Issue Date. 2014-08. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/7572. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 北海道教育大学紀要(人丈科学・社会科学編)第 6 5巻 第 1号 J o u r n a lo fHokkaidoU n i v e r s i t yo fE d u c a t i o n( H u m a n i t i e sandS o c i a lS c i e n c e s )Vo . l6 5 .No. l. 平成 2 6イ │ 二 8月. . t2014 Augus. T .マン「ファウストゥス博士」における .フロイトの精神分析 ユーモリストR.シルトクナップと S 山道愛斗ペ大木文雄**. 勺じ海道教育大学大学院教科教育専攻英語教育専修 キキ北海道教育大学釧路校. E i nH u m o r i s tR .S c h i l d k n a p pimRomanくD o k t o rF a u s t u s > undP s y c h o a n a l y s ev o nS .Freud YAMAMICHIA i t o *andOHKIFumio料 * G r a d u a t eS c h o o lo fE d u c a t i o n .HokkaidoU n i v e r s i t yo fE d u c a t i o n, Japan * * K u s h i r oCampus.HokkaidoU n i v e r s i t yo fE d u c a t i o n. 概要 トーマス・マンの諸作品は,現実味溢れる精轍な描写や,あらゆる分野からの引用の多さも あり,実に多くの問題点を含んでいる。マン揮身の作品である『ファウストゥス博士」も,そ の例に洩れず,実に多様な視点から研究されてきた。本稿は,『ファウストゥス博士』におけ る重要人物であるリューデイガー・シルトクナップについて,「本当のフモリスト」という描 写に焦点を当て,考察した。その際,フロイトの「ユーモア論」を援用し,心理学的側面から, 作中に描かれるリューデイガーの性質を分析した。その結果,マンのリューデイガーについて の叙述は,フロイトの「ユーモア的精神態度」の分析に見事に当てはまることが判明した。ま た,フロイトの論によってリューデイガーの「笑い」を分析したことにより,主人公アードリ アーンとリューデイガーの聞には,「対象に対して距離を取る J (イロニー)という共通点があ ることが確認できた。. 1.はじめに 「ファウストゥス博士. 一友人によって物語られたドイツの作曲家アードリアーン・レーヴァーキューン. の生涯J (DoktorFaustus.DasLebendesdeutschenTonsetzersAdrianLeverkuhn,erzahltvoneinem Freunde)1は,その副題が示す通り,主人公の作曲家アードリアーン・レーヴァーキューン ( Adrian. 1 ThomasMann:D o k t o rF a u s t u s .DasL e b e nd e sd e u t s c h e nT O l l s e t z e r sA d r i a l lL e v e r k u h n,e r z a h l tv o ne i l l e mF r e u n d e .. 1 5 1.

(3) 山道愛斗・大本文雄. Leverkuhn) の生涯を,その友人ゼレーヌス・ツァイトブローム (SerenusZ e i t b l o m ) が語るという長編小 説である。執筆開始は,物語内でゼレーヌスが書き始めた日時と同じ 1943年 5月2 3日で,約 4年の歳月をか け 1947 年 1月 1 9日に完成した。 物語では,主人公アードリアーンが 1 1885年の花の盛り J (imJahre1 8 8 5B l u t e z e i t )Zに生まれ,数学,. 5日3に息を引き取るまでの 神学を経て作曲家の道をたどり,数々の大作を発表した末に発狂, 1940年 8月 2 過程が,幼馴染で古典文献学者のゼレーヌスによって,恐々謹言と語られていく。物語の世界は,当時マン が身を置いていた時代の情勢そのままを正確に描いたものとなっており,加えてマン自身の私的エピソード なども織り交ぜられている。これに関してマン自身は「ほとんど懲戒的なまでに仮借ない生涯の書,転義的 自伝の一変種}で、あると語っており,それは彼が『フアウスト博士」に現実的要素を組み込んでいることを 意味している。 マン浮身の作品である「ファウストゥス博士」に関する研究は実に多岐にわたっている。一部だけを挙げ るならば,音楽的要素,芸術家の苦悩や孤独,. ドイツ史との関連性,哲学者フリードリヒ・ニーチェとの伝. 記的一致と関連性,ヘルメス・モティーフとの関連などがあるのだが,きりがない。ひとえにマンの博覧強 記ぶりと,細部まで精確に表現する精細さ,超人的忍耐力のなせる業である。 このような問題点は,「ファウストゥス博士」を構成する重要な要素であるのだが,本稿ではさらに範囲 を狭め,ある登場人物に焦点を絞っていきたいと思う。主人公アードリアーンと非常に親しい仲となった友 人,リューデイガー・シルトクナップ (RudigerSchildknapp) である。 ファウスト素材を使用している作品である以上,マンの『ファウストゥス博士」にも当然のことながら悪 魔が存在する。そのため,悪魔のモティーフという点でアードリアーン以外の登場人物が問題とされている 研 究 5はあったのだが,アードリアーンの友人であるリューデイガーについて言及されているものは少ない。 しかし,アードリアーンにとってリューデイガー・シルトクナップという存在は,決して無視できるもの ではない。彼が特別な存在であったことが『ファウストゥス博士」の中で灰めかされている。具体的には, マンは登場人物の眼の色を意識して使い分けているのだが,リューデイガーとアードリアーンは同じ眼の色 をもっている。. SeineAugengenaud i egleicheFarbe.wiediejenigenAdrians.hatten.Daswarsogareine merkwurdigeGemeinsamkeit:GanzebendieselbeMischfarbeausGrau-Blau-Grunwiesens i eau , f. F r a n k f u r tamM a i n :S .F i s c h e rV e r l a g2 0 0 7 .. (以下 DF. と略)訳文に関しては「ファウストゥス博士~. ~ファウストゥス博. 士の成立~円子修平,佐藤晃一訳『トーマス・マン全集羽~ (新潮社 1 9 7 1 ) を引片jした。 2 ~ファウストゥス博士~ 1 5頁 , DF.S.22 ちなみにマン自身の誕生日も 6月 6日で「花の盛り」と言えるだろう。. 3 8月2 5日は哲学者フリードリヒ・ニーチェ ( F r i e d l i c hN i e t z s c h e ) の命日である。アードリアーンの性涯がニーチェのそ れと重なることについては,マンがエーミール・プレトーリスに宛てた書簡で、「これは,一つにはニーチェ・ロマンでもあ る」と記述している。(~トーマス・マン全集 VI~. 5 2 5頁)また, F r i e d l i c hWampsganz:ThomasMamz>DoktorFaustus<:. d a sf e h ,l包r e l e i t e t ed e u t s c h eG e n i e .B ooko nDemandGmbHV e r i a g2 0 0 2では,ニーチェとアードリアーンの伝記上の一致が, 生家・音楽の才,大学時代の学生出体への所属,神学の研究,発狂から命けに烹るまで多数みられることを紹介している。. C エーミール・プレートリウス宛て書筒抜粋 JJ 5 2 5頁 5 F r i e d l i c hWampsganz:ThomasMamz> D o k t o rF a u s t u s <:d a sj同 1 g e 1 e i t e t ed e u t s c h eG e n i e .Booko nDemandGmbH V e r l a g2 0 0 2や,森川俊夫『ファウストゥス博士」におけるヘルメス・モティーフ(一橋大学紀要言語文化 1 3,1 977),下程 息 nファウストゥス博士」研究 ドイツ市民文化の「神々の黄昏」とトーマス・マン ~ (三修社 2 0 1 0 )などが挙げられる。 いずれも,アードリアーンが出会う複数の教師をあげ,アードリアーンを冥府へと導く悪魔もしくはヘルメスの象徴である としている。. 4. 1 5 2. ~トーマス・マン全集刊』収録 I~ ファウストゥス」について J.

(4) Tマン『ファウストゥス博士』におけるユーモリストR.シルトクナップと Sフロイトの精神分析. wieb e ijenem,unds e l b s te i ni d e n t i s c h e rr o s t f a r b e n e rRingumd i eP u p i l l e nl i e ss i c hb e ib e i d e nf e s t s t e l l e n,6 彼の眼はアードリアーンの眼と正確に同じ色であった。それは実に注目に値する共通性を示していた, 彼の眼は,アードリアーンの眼と同じに,灰・青・緑の混った色で,二人にはともに,瞳孔の回りに同 じ鋳色の環すら認められた。. 7. この眼の色は,作品中ではリューデイガーのみが同じ色をもっている。作品中では人物描写が行われる際 には,眼の色について頻繁に言及される。しかし,ほとんどの登場人物は青もしくは黒であり,「灰・青・緑」. ( G r a u -B la u G r u n ) はいない。また印象的なのは,アードリアーンと深く関わりをもった人聞が悲劇的な 死を遂げる中で,リューデイガーは生き残り,アードリアーンの葬式を見届けているという点だ。青の眼や 黒の眼をもった人間で,かっアードリアーンと非常に親密になった人聞は,そのほとんどが不幸な最期をと げている。この事実について,マンはゼレーヌスに次のように述べさせている。. e rs a hvonZ e i tz uZ e i tR u d i g e rS c h i l d k n a p p,denG l e i c h a u g i g e n,m i tdeme rl a c h t e,wobeii c hmich i eg l e i c h e nAugena l l e i n n i c h tderwehmutigodenBetrachtungenthaltenkonnte,dasnund i eschwarzenundb l a u e na b e rentschwundenwaren...8 u b r i g g e b l i e b e n,d 彼は時おり同じ色の眼のリューデイガー・シルトクナッフ。に会って,一緒に笑った,そのような時わ たしは,今や同じ色の眼だけが残って,黒い眼と青い眼とは消えてしまったのだという,もの悲しく荒 涼とした思いに耽らずにいられなかった・・. 9. 記述を見ると,眼の色が作品内で重要な要素となっているのと同時に,リューデイガーがアードリアーン と共通するものを持つ人間として強調されていることが伺える。眼の色は,二人が同じ性質を共有している ことの象徴として使用されていることが分かる。同時に,リューデイガーの重要性も際立つてくるように思 われる。 ところで,リューデイガーの特徴は,勿論,眼の色だけではない。彼は「本当のフモリスト J ( E i n. e c h t e rH u m o r i s t )10なのである。そしてそれが,彼を主人公アードリアーンと固く結び付けさせた要因であっ た。従って本論はリューデイガーの「本当のフモリスト」という観点を中心に展開される。. 2 . 1"本当のフモリスト J ( E i nechterHumorist) さて,私たちはまず最初に,リューデイガーについての作品中での情報をまとめておくことにする。マン はしばしば,作中人物の紹介の際には,その人物の生い立ちから詳しく記述することがある。このリューデイ ガーも例に洩れず,幼少期の家庭環境から詳細に描かれている。 リューデイガーはシュレージェンの郵便局員の息子である。彼の父親は教養や礼儀作法も心得ているのだ が,大学卒業者ではないという理由から中位の役どころにとどまっており,社会的野心を果たせないでいる ばかりか,上流階級から卑下されている。そのため「自分の運命を怨み,不機嫌な男,不平家になってしま い,家族に当たり散らして自分のやり損った人生の怨みつらみを晴らしていた J ( s oh a d e r t ee rm i ts e i n e m. L o s eundware i nv e r s t i m m t e rMann.e i nS c h m o l l e r .d e rdenv e r f e h l t e nAufbaus e i n e sLebensd i eS e i n e n 6 DF.S.250 7. ~ファウストゥス博士~. 1 7 5頁. 8 DF.S.702 9. ~ファウストゥス博士~. 4 9 6頁. 1 0 DF.S.249. 1 5 3.

(5) 山道愛斗・大本文雄. durchs c h l e c h t eLaunee n t g e l t e nl i e β )110 この父親に対し,リューデイガーは同情や憐れみなどではなく, 「畏敬よりも滑稽に対する感覚を優先させて J ( indeme rKomikv o rP i e t a ts e t z t e )12いた。例えば父親が 桃のスープを飲もうとした際に,彼は桃の種の核で歯を欠いてしまった。これに対して父親は以下のように 嘆き家族を不快にさせる。 )>s o,i s te s,s og e h te smir ,s os i e h te smirg l e i c h,e si s ti nmichg e l e g t ,e ss o 1 1s os e i n !I c hh a t t emich. ,h a t t ee i n i g e nA p p e t i tv e r s p u r t ,d e rTagi s twarm,vond e rk a l t e nS c h a l e a u fd i e s eM a h l z e i tg e f r e u t. i e sgeschehen, Gut,i h rs e h twohl,Freudei s t h a t t ei c hmirE r f r i s c h u n gversprochen,Damusmird. . tI c hv e r z i c h t ea u fW e i t e r e s , く 13 mirn i c h tgewahr 「この始末だ,いった、ってこうだ,いかにもわたしらしい,こんなことになるときまっているのだ,こ うなる他はないんだ!わたしはこの食事を楽しみにしていた,食欲さえ感じていた,今日は暖かいから, 冷たい料理を食べたらさぞ爽やかな気分になれるだろうと思っていた。それがこの始末だ。お前たちも わかったろう,わたしには歓ぴが与えられないのだ。諦めよう。 }4 些細な顕きをさも大きな不幸のように述べ,あげく自分には喜びが与えられないと絶望する様を目の前で 何度もやられては,気分が滅入ってしまうのは疑うべくもない。素質があるのにも関わらず,不条理な階級 制度のために中位に甘んじねばならず,更に上流階級から自尊心を傷つけられた経験が,彼をこのように過 剰な被害者意識へと駆り立てている。家族はその経緯を知っているために,軽く突き放したりすることが出 来ないでいるのだが,少し離れて状況を見てみれば,父親の姿がだんだんと滑稽に見えてくる。歯を欠いた ことから,彼の人生が「いった、ってこうだ」というのはおおげさで,それが彼の運命かどうかは確かめる術 もない。それを「歓びが与えられない」とまでに拡大解釈し,絶望している姿,事情を知らない人聞から見 れば大げさで滑稽である。しかし人間はこのように小さな不幸に関連付けて,あたかも運命のように受け止 めることが多々ある。多くの場合は思い込みであり,悪いことばかりに目を向けてしまい,幸運を見逃して しまっているだけなのだ。このような些細な台詞に,日常生活に対するマンの鋭い観察眼が光っている。 リューデイガーはこのように父親が創造力豊かに絶望し,嘆き,家族にあたる姿を i 骨稽」なものとして, アードリアーンとゼレーヌスの前で笑い種にして見せる。 父親の自己憐慨を滑稽に語り,周囲に笑いをまき起こすリューデイガーは,父親のように不平家でつまら ない人間にはならなかった。彼は「フモールに対する明らかにアングロサクソン的な感覚に恵まれて }5 おり, 陽気でいつもふざけていた。そのような彼の笑いをアードリアーンは非常に気に入っており,二人はいつも ともに笑っていたのである。リューデイガーがいかに面白い人物であったのか,彼が持ち前のセンスを発揮 し,人々に笑いをまき起こすさまは,以下のような場面でも克明に描かれている。. b e idemS c h i l d k n a p p sh u m o r i s t i s c hz u rSchaug e s t e l l t e rE i f e r,n i c h tzukurzzukommen,unsv i e l a g t ee r( s onanntee ra n g l i s i e r e n ds i c hs e l b s tundwurdeauch zul a c h e ng a b .)>GebtKnappiく, s e b tKnappin i c h tk n a p p !< :Seinenaturliche,unverhohleneundspashaft a l l g e m e i ns og e n a n n t ) )>g A schmeckstdup r a c h t i g !< : u n t e r s t r i c h e n eLustamMitzehrenwaru n w i d e r s t e h l i c hk o m i s c h .)>,. a c h z t ee rm i tg l i t z e r n d e nAugen, 16. 1 1. 「ファウストゥス博士~. 1 7 0頁 ,. DF.S.243. 1 2. 「ファウストゥス博士~. 1 7 1頁 ,. DF.S.243. 1 3 DF.S.244 1 4. 『ファウストゥス博士~. 1 6 8頁. 1 5. 『ファウストゥス博士~. 1 7 2頁. 1 6 DF.S.618. 1 5 4.

(6) Tマン『ファウストゥス博士』におけるユーモリストR.シルトクナップと Sフロイトの精神分析. この食事の時にシルトクナップがおどけて自分の分を横取りされまいと大騒ぎしてみせたのに大いに 笑いに興じたのであった。「クナッピィにください」と彼は言った(彼は自分を英語流にそう呼ぴ,皆 ヒ ト ク ナ ッ プ. からもそう呼ばれていたのである),. Iクナッピィにけちらないでください」大勢で食事をするのが生ま. れっき大好きなのを隠さずにふざけて強調してみせる様子はなんともいえずおかしかった。「ああ,お 前はうまいなあ!J と彼はタン・サンドウイツチを噛みながら眼を輝かせて嘆息した。 17 この場面は,アードリアーンらがミュンヘン郊外へ旅行をしに行った際の描写である。大の大人が子ども のようにサンドイツチをねだるというだけでも滑稽なものだ。また, ピィにけちらないでください」という台詞では,. : >gebtKnappinichtknapp!く「クナッ. Schidknappの knappを,形容詞 knapp (乏しい,不十. 分な)とかけているもので,ここにシルトクナップの知性と頭の回転の速さが日に見えるものとなっており, 彼を単に低俗な道化師とさせていない部分でもある。日本語訳「トーマス・マン全集 V I J J では,「けちらな いでください」の上部に「ニヒトクナップ」とルビが振られており親切であるが,実際に原文で見るとこの 言葉遊びが目に見えて分かるので実感しやすい。この箇所だけでも,リューデイガー・シルトクナップの愉 快さが理解される。 この箇所はシルトクナップ自身が笑いものとなっている箇所だが,次の箇所は日常生活の些細な部分から 面白さを取り出し,展開してみせる部分である。. Eine c h t e rHumorist,wustederdenunscheinbarstenDingene i n emomentanuberwaltigende s te sj ae i n eTatsache,dasdasZerbeiβenvonsprodemZwiebackdas Komikabzugewinnen,Soi ,e sgegend i eAusenwelta b s p e r rt ;undS c h i l d Gehord e sE s s e r sm i tbetaubendemGerauschb e l e g t. i n ezweibackessendeG e s e U s c h a f te i n a n d e rg a rn i c h t knappd e m o n s t r i e r t enuna l s obeimTee,wiee. >Wiebeliebt?< : >HabenSieetwasgesagt?< : >Einen v e r s t e h e nkonneundi h r eK o n v e r s a t i o na u f: i t t e !く b e s c h r a n k e nm u s s e .18 A u g e n b l i c k,b シルトクナップこそは本当のフモリストで,全く目立たない事柄から一瞬の圧倒的な滑稽を引き出す 術を心得ていた。確かに固焼のビスケットを噛むと,食べている人の聴覚が口の中の音に邪魔されて人 の言うことがよく聞こえないものであるが,ある時紅茶を飲んで、いると,シルトクナップは,固焼ビス ケットを食べている人々が互いに相手の言うことが解らなくて,会話が「なんでございますか ?J, Iな にかおっしゃいましたか?J, Iちょっとお待ちください!J というやりとりだけになってしまうのを, 実に滑稽に実演して見せたことがある。 19 この場面は,リューデイガー・シルトクナップがアードリアーンとゼレーヌスの前で漫才を披露している ような部分である。文章だけでは,一体リューデイガーがどのように演じたのか,その雰囲気は想像するし かないのだが,おそらくはビスケットを食べている人間の行動,たとえば口への運び方だとか,口の動かし 方,日の動きなどの細部にわたって,忠実に,かつ大げさに演じたことだろう。 ここまでに挙げてきた引用箇所から明らかになるように,リューデイガーには「笑い」をまき起こす才能 があり,かつアードリアーンと「笑い」の感覚が一致していた。 二人の関係について,ゼレーヌスは,「アードリアーンがリューデイガー・シルトクナップと一緒の時ほ ど笑うのを,涙とともに笑うのを見たことがない J ( N i ehabei c hi h ns ov i e l l a c h e n,undzwarTranen. e h e n,w i ebeimZusammenseinm i tR u d i g e rS c h i l d k n a p p . )20と述べる。このことから,アードリアー l a c h e n,s 1 7 ~ファウストゥス博士~ 435 頁(ルピは『トーマス・マン全集 VI~ 1 8 DF. S .2 4 9 2 5 0 7 5頁 1 9 ~ファウストゥス博士~ 1 2 0 ~ファウストゥス博士~ 1 7 5頁 , D F.S.249. に記載されていたものをそのままふった). 1 5 5.

(7) 山道愛斗・大本文雄. ンとリューデイガーの関係において「笑い」が重要な位置を占めていることが伺える。. E i ne c h t e rH u m o r i s t ) リューデイガーについてゼレーヌスは「シルトクナップこそは本当のフモリスト J ( なのだと言い切る。リューデイガーがアードリアーンに笑いをもたらしているという意味では,二人の笑い は主にリューデイガーによって引き起こされているとみることが出来る。故に,二人の笑いの構造を見るに は,リューデイガーが「本当のフモリスト」であるという言を参考に,そもそも「フモリスト」とは何かを 探る必要があるだろう。. 3 . フロイ卜解釈によるフモリストの本質: r 感』情の消費の節約」 さて,ユーモア(もしくはフモール)というものを調べてみると,精神分析学者ジークムント・フロイト. (SiegmundFreud1 8 5 6 1 9 3 9 ) が「ユーモア ( D e rHumor)}lという題名で一筆書いていることを知るこ とが出来る。彼はユーモアによる快感を,いみじくも「感情の消費の節約 }2という表現で説明している。 果たして「感情の消費」とはいかなるものなのか。フロイトによる解釈を順を追うと次のようになる フロイトはまず,ユーモア発生の道筋を 2つにわける。一つは,「ユーモアの中心となるのが一人の人物で, この人物自身がユーモア的な精神態度を持し,もう一人の人物は傍観者ないしは受益者の役割を果たす場 合 」 230 もう一つは「中心人物が二人あって,その中の一人は当のユーモアには全然関係がなく,もう一人 で、ある。幸いにもフロイトはこの 2つの道筋に の人物がこの人物をユーモア的な観察の対象とする場合 }4 ついて,それぞれ例を挙げているので,ここに引用しておこう。まず第 1の道筋である。 「月曜日,絞首台に引かれていく罪人が「ふん,今週も幸先がいいらしいぞ」といったとする。この 場合には,ユーモアを惹き起こしたのは当の罪人自身であり,このユーモアは彼だけで完結しており, それが彼にある種の満足感をうえることは明白である。一方このユーモアにはなんの関係もない傍観者 たる私は,この罪人が惹き起こしたユーモアからはある程度の間接的な影響を受ける。すなわち私は, おそらくはその罪人が覚えるのと同じような,ユーモアの快感を感ずるのである。」 25 さて,このユーモアのポイントはふたつある。ひとつは,今まさに死ぬであろうこの「罪人」が,「幸先 がいしりと述べている点。死刑が執行され自分が死ぬという事実は,どうやっても幸運とはいいがたい。も うひとつは,今日(死刑の執行日)が「月曜日」だという点である。月曜日に死ねば,当然,火曜日以降は やってこない。その点,自分の死後をも含めた「今週も」というこの言葉は本来的には相応しくない。死刑 になるという一大事を「幸先がいい」と述べ,加えて「今週も」という言葉で,あたかも日常の些細なこと のように軽くあしらうようなところに,「罪人」の言葉のおかしみが現れている。 この「罪人」の例をもとに,フロイトの言葉を詳しく見ていこう。先にフロイトが述べた「ユーモアの中 心」は「罪人」であり,「傍観者もしくは受益者」が「傍観者たる私」である。ユーモアはこの「罪人」の 中で自己完結しており,「傍観者たる私」はユーモアとは無関係だ。しかし「傍観者たる私」は目の前の「罪 人」のユーモアを理解し,おかしみを感じるのである。このように,私たちは関係のない他人のユーモアか ら快感を得ることが出来る。. 2 1 翻訳は高橋義孝ほか訳『フロイト著作集 2 2. ~フロイト著作集第 3 巻~ 4 06頁. 2 3. ~フロイト著作集第 3 巻~. 2 4. ~フロイト著作集第 3 巻~ 4 06頁. 2 5. ~フロイト著作集第 3 巻~. 1 5 6. 406頁 406頁. 第 3 巻~. (人文書院 1 9 6 9 ) を参考にした。.

(8) Tマン『ファウストゥス博士』におけるユーモリストR.シルトクナップと Sフロイトの精神分析. それではもう一つの例を見てみよう。 「第二の場合とは,たとえば,作家とか報告者とかが,現実の,ないしは架空の人物の行状をユーモ アをもって描写するような場合である。その場合には,これらの人物自身がユーモアを示すことは必要 ではなく,ユーモア的な精神態度を必要とするのは彼らを描写する側に廻っている人々だけであって, 第一の場合と同じくこの場合にも,読者ないし聴き手は,このユーモアの惹起する快感に与りうるので ある。」 26 この例では,ユーモアの中心人物は「ユーモア的な精神態度」を持っていない,つまり中心人物はいたっ て真面白である。「作者とか報告者」といった外側の人物が「ユーモア的精神態度」をもって,彼らの様子 を描いている。読者である我々は「罪人」の例と同じく,その様子からユーモアの快感を得る「傍観者」で あり「受益者」である。このとき得るユーモアの快感は,作品内に描写されているユーモアの中心人物では なく,「作者とか報告者」と同じものである。 これら 2つの例を見るに,私たちは他者のユーモアを見たとき,その快感と同じものを享受していること が理解できる。しかし,このような快感はどこから沸き起こるものなのか。ユーモアの快感を享受する「受 益者」の心の中で,何が起こっているのか。フロイトはこの疑問に対し以下のように述べる。 「聞き手は,この他人は今にも興奮のきざしを表しそうに思われる。(…)ことによると絶望のどん 底に沈むことだ、つであるだろうと思って息を呑んでいる。そして,そうなった場合にはその男に追随し て,自分自身の中にもそれと同じ感情興奮をまき起こしてやろうと待ち構えている。けれどもこの期待 は背かれる。その男は冗談を言うのである。そして聴き手は,このようにして感情の消費を節約したこ. 7 とが原因となって快感を覚える。これがユーモアによって得られる快感なのである。 } この部分を理解するために,先の「罪人」の例を思い出してみよう。月曜日,「私」は絞首台へ連れてい かれる「罪人」の姿を目にする。そのとき「私」は,この「罪人」がこれから死ぬことを理解する。「私」は, 頭の中で瞬時に「罪人」となって,彼が死ぬまでの流れを,およそ次のように想像するだろう。目の前に絞 首台が近づく。自分はこれから輪縄の下に連れていかれ,足場に上り,首を通すのだ。足場が取り除かれた 瞬間,自分の全体重が輪縄に,首にかかり,骨が折れ,速やかに死ぬのだ,というように。自分が死ぬとい う恐怖を,「傍観者」である「私」は想像する。「罪人」が当然持つであろう死への恐怖という「感情興奮」 と同じものを「私」も想像する。そしていざ「罪人」がその「感情興奮」を表出したとき,「私」の中で想 像され準備されていた同様の「感情興奮」が起こり,「消費」される。 ところが,「感情興奮」の準備をしていた「私」は肩透かしを食らうのである。「罪人」の「ふん,今週も 幸先がいいらしいぞ」という一言は,「私」の想像していた死への恐怖とは全く異なるものであり,「私」は 死への恐怖という「感情興奮」を起こさずに済んだ。想像していた「感情」が「消費」されることがなかっ た。「感情の消費」が「節約」されたのだ。ここに「感情の消費の節約」が起こり,「私」はユーモアの快感 を享受することとなるのである。 さて,フロイトによるユーモアの表出例と分析によれば,我々は普段,相手の感情を予測し,それと同じ ものを自分も感じようとしていることが分かる。そしてユーモアによる快感は,本来起こるべき感情興奮が 起こらなかったときに発生する,「感情の消費の節約」によって引き起こされるものであるらしい。 ユーモアの快感を享受する側の観察によって,私たちは何故ユーモアが面白いのかを知ることが出来た。 しかしこれまで述べてきたのは,ユーモアを聴いた人間の状況である。フロイトはさらに話を進め,聴き. 406頁. 2 6. ~フロイト著作集第 3 巻~. 2 7. ~フロイト著作集第 3 巻~ 4 07頁. 1 5 7.

(9) 山道愛斗・大本文雄. 手の側に起こるユーモアの快感は,ユーモリスト側に起こることのコピーのはずだと考えた。 先の「罪人」の例で考えればわかりやすい。先ほど「私」は,想像していた「感情興奮」をまき起こさず に済んだ。それは「罪人」が「ふん,今週も幸先がいいらしいぞ」という一言によって,死という重大な事 実を「幸運」として述べるとともに,死という出来事の重さを軽くしたからである。これによって「私」は, 死への恐怖という「感情の消費を節約」することができた。しかしこの「感情の消費の節約」が最初に起こっ j 合│育興奮」 たのは,「私」ではなく「罪人」の心のうちである。「罪人」の心のうちで,死への恐怖という i. が,何らかの働きによって「節約」されたからこそ,「罪人」のユーモアが飛び出したのである。故に「私」 の「感情の消費の節約」による快感は「ユーモリスト側に起こることのコピーのはず」なのだ。. 4 . iユーモア的精神態度」は「反抗」である では,「罪人」の「感情の消費」を「節約」した何らかの働きとは何だ、ったのか。つまりユーモアを発す る当の本人の状況,「ユーモア的精神態度」はどのように起こりうるのか。このような問いを立て,フロイ トはユーモアの本質に迫る。まず彼は,ユーモアが持つ性質について以下のように分析する。 ユーモアには(…)なにかしら太っ腹なところ,なにかしら魂を昂揚させるようなところがある。(…) 何が太っ腹で、あるかといえば,明らかにそれは,自己愛の勝利,自我の不可侵性の貫徹に由来する。(…) 外界からの傷を絶対に近づけないようにするばかりでなく,その傷も自分にとっては快楽のよすがとし かならないことを誇示するのである。この最後の点こそ,ユーモアにとってまず第一に不可欠な点であ る0. 28. 再び「罪人」に登場してもらおう。彼の「ふん,今週も幸先がいいらしいぞ」という言葉には,死という 重大な事実を,幸福ととらえ,かっ軽く見るところにあると述べた。ここにユーモアの「太っ腹なところ, なにかしら魂を昂揚させるようなところ」とともに,「快楽のよすがとしかならない」という主張が含まれ ているのだ。そしてフロイトは特に,「快楽のよすがとしかならない」という主張の重要性を強調するために, もし「罪人」の言葉が単に「太っ腹」なだけであったら,という仮定をする。 「犯罪人が次のようにいったと仮定しよう。くこんなことは俺には何でもない。 俺みたいなやつが吊 るされたところで何でもないじゃあないか。まさかそのために世界が滅んでしまうというわけでもある まいし. > J-. (…)この言葉はなるほど現状にたいする太っ腹な優越性を示している(…)。けれど. もまた,そこにはユーモアの片鱗も認められない。(…)ユーモアの中に含まれているのは諦めではな くして反抗である。」 29 このような「罪人」の言葉には,フロイトがいう「太っ腹な優越 性J,すなわち自分の死をより大きな次 d. 元でとらえようとする思惑を見ることが出来る。これによって確かに「罪人」は,自分の死という重い事実 を少しでも軽くできる。しかしここには,死を受け止めるという「諦め」がある。この場合,「傍観者たる私」 は死に対する感情を軽減することはできても,回避することはできないだろう。死を受け止めているという ことは,彼は自分の死に対する感情をも受け止めているといえる。 これに対して,最初の「罪人」のユーモアを思い起こせば,違いがはっきり分かるだろう。「罪人」は「今 週も」という言葉によって死の重さを軽減しているという点で,仮定における「罪人」の言葉と一致する。 しかし「幸先がいいらしいぞ」という言葉には,死とそれによる苦痛を拒否する意思が見られる。ここに「反. 407頁. 28. ~フロイト著作集第 3 巻~. 2 9. ~フロイト著作集第 3 巻~ 4 08頁. 1 5 8.

(10) Tマン『ファウストゥス博士』におけるユーモリストR.シルトクナップと Sフロイトの精神分析. 抗」を見ることが出来る。 このようにフロイトは,ユーモアがもっ性質,特に「反抗」という点に注目し,「ユーモアが,自分を苦. Oとした。 しめそうな現実をわが身に近づけないようにする機能を持つ } つまりユーモアは,周囲の環境から守えられる苦痛を拒否する防衛反応であり,かっその苦痛を退け,快 楽へと転化するという点では,苦痛をうえようとする相手(周囲の環境)の意に反するという「反抗」なの である。そしてこのようなユーモアに対し,彼は「一種の威厳が備わっている }1と指摘している。 「罪人」は外部から死を与えられようとしている。即ち,死ぬことへの恐怖や悲しみを強いられていると いうことでもある。それは自分の外部から,死ぬことへの恐怖や悲しみを感じるということを要求されてい る,ともいえるだろう。周囲の要求を拒否する断固たる決意と,それに対する反抗心という威厳が,ユーモ アの特徴なのである。. 5 . ユーモリストの「自我」と「超自我」 ここからフロイトは,ユーモアは「わが身から苦しみを遠ざけ,自我が現実世界によっては克服されえな いことを誇示し堂々と快楽原則を貫きとおす }Zことだとした。しかし,ユーモアの持つ防衛反応のような この行いは,「神経症に始まり,精神錯乱にきわまり,陶酔,自己沈潜,悦惚境などをも含んでいる」 33病に も見られるものである。 ユーモアはなぜ病にならないのか。フロイトは「ユーモア的精神態度の本質」を考えたとき,以下のよう に考えると解釈しやすいとする。 「すなわち,この人はその他人にたいしである人が子供にたいするような態度を採っているのである。そ してこの人は,子供にとっては重要なものと見える利害や苦しみも,本当はつまらないものであることを知っ て微笑しているのである。」 34 ユーモアが発生したとき,ユーモリストは自らを大人の立場に,対象を子供の立場にし,自分を優位な立 場とすることが分かる。先に述べた第 2の例を用いると,次のようになるだろう。 本に描かれた人物たち,つまり「ユーモアの対象」となる人物は子供の立場に,観察者たる「作家とか報 告者」と「読者」が大人の立場に立っている。登場人物らは自らの置かれた状況に対し真面目であるが,観 察者側からみれば,彼らのかかずらっている苦悩などは些細なものなのである。観察者側は,その苦悩が些 細なものであると思えるだけの余裕と理解力があると言えよう。 ユーモアの対象と観察者側の立場の違いが出てきたところで,フロイトはさらに疑問を投げかける。「な ぜユーモリストはこのような役割をあえて買って出るにいたるのか」 350 ここにおいてフロイトは,ユーモアが自分に向けられる場合を想起することが,ユーモアの本質を突き止 めるための鍵だとし,以下のように問う。 「いったい自分自身を子供のように取扱い,それと同時に,自分自身であるところのその子供にたいして. 3 0. 「フロイト著作集第 3 巻~. 408頁. 3 1. 「フロイト著作集第 3 巻~. 408頁. 3 2. 「フロイト著作集第 3 巻~. 408頁. 3 3. 『フロイト著作集第 3 巻~. 408頁. 3 4. 『フロイト著作集第 3 巻~. 408頁. 3 5. 『フロイト著作集第 3 巻~. 4 0 9頁. 1 5 9.

(11) 山道愛斗・大本文雄. 大人としての優越した役割を演ずるなどということになんらかの意味があるのであろうか」 36 便利な「罪人」の例を使えば,この間いが持つ意味が理解できるだろう。「罪人」が今まさに匝面してい る死という苦痛に対し「ユーモア的精神態度」をとる時,彼は死やそれにたいする苦痛を「本当はつまらな いものである」とみなしているのであるが,このような態度をとるには,次のような働きが想像される。す なわち「罪人」の心の中では,死に直面する自分と,それを離れてみている自分の二役が存在していること と同じ意味を持っている。 「罪人」のように自分自身にユーモアを向けた場合,このように一人二役を演ずることとなる。一人は対 象となる子供としての自分,もう一人はユーモア的精神態度をとる大人としての自分である。一人の人間の このような状況に対し,フロイトは「自我の構造に関する知識を援用 } 7して説明をする。 「自我なるものは決して単一なものではなく,その中核体として,われわれが超自我と名づけている特 殊の検問所を内蔵しているのである。(…)超自我は,その発生の上からいえば,両親が子供にたいし て持っている検問所としての意味を受け継いだものであり,往々にして自我の独立性を全然認めないこ ともあり,事実,依然として自我をかつて幼年時代に両親ないしは父親が子供を取り扱っていたように 取り扱うのである o」38 「このような態度の本質は,ユーモリストその人が,心理的なアクセントを自我から引き上げて,それ を超自我の方へ移転したという点に存する,と。このように膨張した超自我にとってこそ,自我は取る に足らない小さなもの,自我の有する関心などはすべて吹けば飛ぶようなものと映ずることが可能にな る}9 つまり,ユーモリストが自らにユーモアを向けた場合,自我が子供として扱われ,超自我が大人として優 位な立場に立つ。現実にたいする自我の関心が,超自我によって「取るに足らないもの」となる。超自我は 自我に影響をうえ,結果的に自我は現実にたいし優位な立場をもって,「太っ腹な」態度をとることが出来, さらにはそのような態度でもって,苦痛を与えんとする現実の環境に対し「反抗」するのである。 このような自我と超自我の関係性について,フロイトは以下のように述べ,考察を終える。 「いってみれば,ユーモアとは,ねえ,ちょっと見てごらん,これが世の中だ,随分危なつかしく見 えるだろう,ところが,これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ,とでもいうものなのであ る 。 J40 ここにおいて,ユーモアとは,おびえる子供にたいする慰めのような働きを持つことが明らかとなった。 ユーモアの意図は,現実にたいし傷つきやすい自我への慰めで、あり,防衛するための盾である。故にユーモ アによる「感情の消費の節約」で引き起こされる快楽は,四方から攻めくる脅威におびえ,まさに危機的状 況にある中で与えられた逃げ道であり,盾であり,反撃であると見ることが出来るだろう。見様によっては, 「ユーモア的精神態度」は,そのような状況にあって外部から助けを得られなかったという悲惨な状況が生 んだぎりぎりの選択だ、ったといえるかもしれない。 フロイトによる精神病理学の観点から行われるユーモアの解釈は,作中のリユ一デデ、イガ一の行動を理解す る上で 益だろう. O. 3 6. 「フロイト著作集第 3 巻~. 409頁. 3 7. 「フロイト著作集第 3 巻~. 409頁. 38. 「フロイト著作集第 3 巻~. 409頁. 3 9. 『フロイト著作集第 3 巻~. 409頁. 40. 『フロイト著作集第 3 巻~. 411頁. 1 6 0.

(12) Tマン『ファウストゥス博士』におけるユーモリストR.シルトクナップと Sフロイトの精神分析. 6 . フ口イ卜のユーモア論から見たリューディガー フロイトがユーモアを分析する上で出した大人と子供の立場の説明を見たとき,『ファウストゥス博士」内 で思い出される場面がある。それは,父親に対するリューデイガー及びアードリアーンのエピソードである。 リューデイガーの場合は,父親を笑いのネタにしている場面が思い浮かばれる。先に,シルトクナップ家 の食事シーンで発せられた,気分を滅入らせるような父親の嘆きを引用した。確認のため,ここに訳文のみ を再度引用しておこう。 「この始末だ,いった、ってこうだ,いかにもわたしらしい,こんなことになるときまっているのだ,こ うなる他はないんだ!わたしはこの食事を楽しみにしていた,食欲さえ感じていた,今日は暖かいから, 冷たい料理を食べたらさぞ爽やかな気分になれるだろうと思っていた。それがこの始末だ。お前たちも わかったろう,わたしには歓びが与えられないのだ。諦めよう。 }1 前述のとおり,桃のスープで歯を欠いた父親が,さも重大な出来事であるかのようにそれをとらえ,しま いには人生に絶望して嘆き,誰も食事を続けられない状態にまで気分を滅入らせていた。リューデイガーは このような父親に対し「滑稽に対する感覚を優先」 42させ,アードリアーンやゼレーヌスとの会話のネタに したわけである。 この件に関して,ゼレーヌスは以下のように語る。. Rudiger,s e i nSohn,s c h i l d e r t eunssehra n s c h a u l i c h,indeme rKomikvorP i e t a ts e t z t e,wied i e s o z i a l eVerbitterungdesVatersihm,zusammenmitderMutter,denGeschwistern,dasLeben i e sums oe m p f i n d l i c h e r ,a l ss i es i c h ,d e rK u l t u rd e sMannesgemas,n i c h ti ngrobem v e r g a l l th a t t e,-d o n d e r na l sf e i n e r eL e i d i g k e i t,a u s d r u c k s v o l l eS e l b s t b e m i t l e i d u n gkundgegebenh a t t e .43 Zank,s 息子のリューデイガーは,父親に対する畏敬よりも滑稽に対する感覚を優先させて,父親の社会的な 不満がどのように彼や母親や弟妹たちの生活を苦いものにしたかを,目に見えるようにわたしたちに話 して聞かせた,. それは,父親の不満が,その教養にふさわしく,荒っぽい口喧嘩という形でなく,. もっと繊細な苦しみ,表情豊かな自己憐1 聞という形で表明されただけに,一層神経にこたえるものであっ 4 た 。 4. Mankanns i c hdenken,wiee r h e i t e r tAdriandurchd i et r u b s e l i gl u s t i g eWiedergabes o l c h e rm i t jugendlicherI n t e n s i t a te r l e b t e rSzenenw a r .DabeihattenwirunserLachenimmeretwaszu ss i c hs c h l i e s l i c humdesE r z a h l e r s dampfenundimschonendV e r s t a n d n i s v o l l e nzuh a l t e n,dae V a t e rh a n d e l t e戸 若いころの強烈さをもって体験されたこのような光景の悲しく愉快な再現をアードリアーンがどんな に面白がったかは容易に想像できる。しかし,何といっても笑いものにされているのが結局は話者の父 親であったから,わたしたちはいつでもいくらか笑いをこらえ,思い遣りをもっていたわるという節度 を守らねばならなかった。. 4 1. 「ファウストゥス博士~. 1 6 8頁. 4 2. 「ファウストゥス博士~. 1 7 1頁. 46. 4 3 DF. S .2 4 3 2 4 4 4 4. 『ファウストゥス博士~. 1 7 1頁. 4 5 DF.S.244 4 6. 『ファウストゥス博士~. 1 7 1頁. 1 6 1.

(13) 山道愛斗・大本文雄. 上記の引用部分から明らかとなるのは以下の二つである。. ①. リューデイガーが父親から与えられた「表現豊かな自己憐a閥」は「神経にこたえる」と誰が見ても思 えるということ。ここから,リューデイガーとアードリアーンらは父親の「表現豊かな自己憐'閥」を同. 様に苦痛であると捉えていることが分かる。つまり父親の存在が「外からの苦痛」であったと言えると ともに,リューデイガーとアードリアーン,ゼレーヌスらの間で「苦痛」であることが共通して認識さ れているといえる。 ②. 「表現豊かな自己憐潤」という「神経にこたえる」経験について,リューデイガーが「愉快な再現」 をしており,アードリアーンもゼレーヌスもそれが「滑稽だ、」と思っていること。すなわちリューデイ ガーの話が面白く,全員がそれによって快感を得ているということができる。. 以上のように引用部分で起こっている出来事を捉えるならば,この場面でのリューデイガーの態度には, 父親の「表現豊かな自己憐潤」に対し「ユーモア的精神態度」をとっているということができるだろう。 フロイトの言葉を借りれば,リューデイガーが父親の様子を話のネタにして笑うこの場面は,ユーモアが 発生する「第 2の道筋」といえるだろう。リューデイガーの件で言えば次のような構図であるといえる。す なわち,ユーモアの対象は父親であり,リューデイガーは「作家とか報告者J,アードリアーンやゼレーヌス, および私たちは「受益者」だ。 改めて確認をしておくと,「第 2の道筋」の構図は,ユーモアの対象(父親)はいたって真面目であり, それに対して「ユーモア的精神態度」を持っているのは「作家とか報告者J (リューデイガー)と「読者J (アー ドリアーンとゼレーヌス)であった。「読者」は「傍観者」であり,ユーモアの快感の「受益者」でもある。 このように彼らの立ち位置を見たとき,フロイトのユーモア論に当てはめたならば,アードリアーンやゼレー ヌスの享受している「笑い」は,リューデイガーの「ユーモア的精神態度」に依っていることとなる。では, 父親の自己憐聞を笑いのネタとするリューデイガーの態度は,どのような精神状況によって生ずるものだろ うか。 まず考えられるのは,父親とリューデイガーの互いの立ち位置である。この際ユーモアの対象となるのは 父親であり,リューデイガーは観察者といえよう。観察者であるリューデイガーは,父親にたいして自らを 優位な立場に置き,父親を子供のように扱ったということが出来る。リューデイガーは父親の嘆き(桃のスー プを飲んでいて歯を欠いた,自分には幸せが与えられず,人生に絶望している)を,取るに足らないものと して見ることができるのである。このように見ると,リューデイガーが自分の父親に対し,精神的に優位な 立場をとっていることが分かる。 ところが,これだけではただ「太っ腹」なだけで,フロイトが言うユーモアに必要な「反抗」という要素 が出てこない。リューデイガーが父親に対し「太っ腹」な態度をとるのであれば,彼は父親を慰めるだろう し,「恥辱をすすいで、父親を喜ばせて } 7やるという行動もとれるだろう。しかし,リューデイガーはそれを たのである。このようなリューデイガーの態度は,まさに しなかったし「滑稽に対する感覚を優先させ }8 父親への「反抗」といえるのだろう。 リューデイガーと父親の関係,つまりリューデイガーが父親に対し「反抗」しているという図は,フロイ トが例に出したあの「罪人」の図に当てはめると,非常に分かりやすいと思われる。 さらに,外から与えられる苦痛に対し,「罪人」は頭の中の二人の自分(自我と超自我)をもって対処した。 超自我が自我を守るために働き,外からの苦痛を拒否し, くわえて「快楽のよすが」にしかならないと価値. 4 7. ~ファウストゥス博士~. 1 7 1頁. 4 8. ~ファウストゥス博士~. 1 7 1頁. 1 6 2.

(14) Tマン『ファウストゥス博士』におけるユーモリストR.シルトクナップと Sフロイトの精神分析. づけ,抵抗を試みた。リューデイガーの中でも二人の自分が存在し,超自我が父親の「自己憐間」によって 苦痛を与えられる自我の状況を「太っ腹」にみることで,苦痛を. 1 1 巨否」し,そんなものは笑いのネタにし. かならないと「反抗」したといえるだろう。つまり,リューデイガーは父親が置かれている状況,すなわち 「幸せが与えられない」といい嘆き悲しむ状況にたいして「太っ腹」なのではなく,そのような父親から苦 痛を与えられている自分自身の状況に対して「太っ腹」なのである。そして,苦痛を与える父親に対し,笑 いのネタとするというやり方で「反抗」しているのだ。. 7 . ユーモア的精神態度と自立心 上記のように,フロイトのユーモア論をリューデイガーの父親とのエピソードに照らし合わせると,リュー デイガーにとって父親は精神的苦痛を与える脅威であったことが伺える。また,そのような脅威に対し, リューデイガーがユーモア的精神態度をもって対応した,すなわち苦痛の押しつけへの「拒否」と「反抗」 を1 1'ったことも明らかとなった。. 1 1 巨否」と「反抗」は,自らに苦痛をもたらさんとする相手への自己主張,すなわち相手の意に屈しない 1 巨否」と「反抗」を行う行為は,同時に自らの自立心を誇 という主張である。自らの領域を侵されまいと 1 示するものであるともいえるだろう。 ユーモア的精神態度のなかに,自立心の誇示という側面があるとするならば,リューデイガーの持つ性質 のうちで自然と思い浮かばれるものがある。それは,「誰かが彼を必要とする時には決して彼の協力を得ら れない }9という性質である。 リューデイガーは他人から何かを求められると,それを断るという性質がある。晩餐会への飛び入り参加, 旅の付き添いなどは,誘う側としてはぜひともリューデイガーに参加してほしいという思いからのものであ る。しかしリューデイガーは,彼らがリューデイガーを必要とすればするほど,その要望に応えようとしな くなるのである。他人からの要求がどんなものであれ,それがリューデイガーへの高い評価に依るものだ、っ たとしても,リューデイガーはその願いを拒否する。 リューデイガーのこのような性質は,もちろんアードリアーンに対しでも同様に発揮される。アードリアー ンはリューデイガーに,『恋の骨折り損jJ ( L o v e ' sl a b o u rl o s t ) の歌劇台本を作成してほしいと希望していた のだが,それをも拒絶している。 50 信頼を受けて依頼をされるというのは名誉なことのように思えるし自分が必要とされているという感覚 は,自分自身の自己肯定感にも繋がるように思える。他人から必要とされているということは,自分の能力 の証明でもあるし自分の人間性の良さの証明にも繋がるようにも思える。他人から求められるというのは, 自分の存在が認められたという意味に捉えるならば,それはとても喜ばしい。 もし依頼を断るというなら,それはどのような状況の時に起こりうるだろう。たとえば,その依頼が自分 の能力を超えたもので,依頼主の期待に応えられない場合。たとえば,ほかの仕事で手一杯となっていて, その依頼に割く時間がない場合。たとえば,その依頼主に対して悪印象を持っている場合。しかし,リュー デイガーが依頼を断る際の描写は,このいずれも当てはまらない。彼はあくまで「自立心の証明」のために, 依頼を断るのである。しかも自分が必要とされればされるほど,. 1 1 巨絶が一層確実」なものとなるのだ。. 一体,リューデイガーが依頼を断ることによって「自立心の証明」を目論むというのは,どのような構図. 49. ~ファウストゥス博士~. 174頁. 5 0 ただしこの後,アードリアーンはイタリア旅行の同伴をリューデイガーに頼み,説き伏せることに成功している ( 2 1 5頁). 1 6 3.

(15) 山道愛斗・大本文雄. として理解すればよいのだろうか。. 8 . 依頼の拒否と自立心 リューデイガーがなぜ「自立心を証明」するために依頼を断るのか。この点について,まずは他人に依頼 をするというのはどのような意図をもって行うのかを考えるとわかりやすいだろう。自分の望みを誰かに叶 えてもらおうとするならば,大雑把に分ければ 2つの方法が考えられる。ひとつは頼み事という形をとる方 法,もうひとつは命令という形をとる方法である。 頼み事と命令は,どちらも「自分の要求を相手に叶えてもらう」という点で一致している。それは単純に 見れば,「相手に何かをさせる」ということでもある。しかし,頼み事よりも命令のほうが堅苦しく強制力 があるように思えるし,絶対に断れない圧力を感じる。(頼み事と言いつつ,絶対に断るなよ,というよう な無言の圧力がある場合も多く存在することは否めないが,ここでは取り扱わない。)命令には,頼み事に はない強制力がある。強制力,すなわち拒否することは許されない,ということである。 頼み事と命令を分けるのは,相手に選択の余地を与えているかどうか,つまり相手がその要求を叶えるか どうかを「相手自身が選ぶ権利」をうえているかどうか,だろう。それは言葉からすでに明らかである。頼 み事が「してくれますかロ. J 1"できますか?J という形をとるのに対し,命令は「してください」と言い切る。. 頼み事をする側は,「はい J 1"いいえ」などの返答を想定しているのに対し,命令は「はい」という返答のみ が想定されている。ここに依頼された側の意思決定を認めるかどうかという問題が発生する。頼み事では, 相手からの返答が「はい J 1"いいえ」など複数あることを想定する。了承と拒否どちらも想定している。そ れはつまり,相手にその決定権を与えているといっても良い。頼みごとの場合,要求はあくまで相手の意思 決定を侵害しない。 一方,命令をした場合,相手からの返答は「はい」のみを想定する。了承以外にありえない。要求を相手 に確実に叶えさせようとする命令においては,相手の意思決定権を認めない。それは相手の自主性の侵害で もある。 「自分の要求を相手に叶えてもらう」という行為は「相手に何かをさせる」ということである。依頼の場 合,相手の決定権を侵害しようとする意図はなく,命令の場合は相手の決定権を認めない。しかし依頼にし ろ命令にしろ,そこには相手への要求がある。このように考えたとき,リューデイガーがなぜ他人からの要 求を拒否するのかが見えてくる。. 9 . 要求に対する抵抗と自立心 相手から何かを要求されるという図は,すでに説明してきたフロイトのユーモア論にも登場していた。こ こで改めて確認しておくと,フロイトのユーモア論において,ユーモア的精神態度は,外から要求される精 神的苦痛にたいする「反抗」と「十巨否」であった。ユーモアが発生したとき,ユーモア的精神態度をとった. t 巨否」するとともに,笑いによって「抵抗」するのであった。 本人は,要求される精神的苦痛に対しI" 巨否」と「反抗」をしていた。 リューデイガーの場合,父親の「表現豊かな自己憐閥」による苦痛に対しI"t ここには,父親からリューデイガーに対する感情の押しつけ,つまり父親に対して「可哀想だ」と思え,と いう要求があったということが出来る。フロイトの言葉をかりるなら,「感情興奮」を起こせというもので ある。この場合の要求は,決して依頼ではなく,有無を言わさない命令と同質であるということが出来るだ ろう。なぜならば,経済的にも精神的にも自立しきれていない子どもにとって,親は絶対的な存在であるか. 1 6 4.

(16) Tマン『ファウストゥス博士』におけるユーモリストR.シルトクナップと Sフロイトの精神分析. らである。 リューデイガーは幼少から父親によって感情の押しつけを受けており,逃げ場がなかった。そのような状 況に対しリューデイガーがとった方法がユーモア的精神態度であったとするなら,リューデイガーのユーモ アのセンスはまさに生き残るための術であったと言えよう。そして,幼いころの経験によって身についた思 考の癖というものは,生涯にわたり無意識下でその本人の行動に影響を与えるものである。 リューデイガーは幼少のころから父親の「表現豊かな自己憐 閥」によって 1 ) 惑情興奮」を要求され続け, a. 自分の権利を主張することを押さえつけられていた。すると,大人になったリューデイガーはその反動によっ て,自分に向けられたあらゆる要求に対して過剰反応するようになったと思われる。誰かから依頼を受けた とき,その要求が自分の自立心を押さえつけようとするものだ,というような過剰反応が起こり,自らを防 衛するために拒否する,という動きが生じているのだ。. 1 0 . おわりに これまでのリューデイガーの分析をまとめると,およそ次のようになる。 フロイトのユーモア論においては,ユーモアとは「感情の消費の節約」であり,そこに快楽が生まれるこ とによって笑いが生まれるというものであった。このときフモリストは,現実からうえられようとする精神 的苦痛に対する防衛反応を起こす。精神的苦痛を与えられている自分を,より外側の離れた立ち位置から見 ることによって,その苦痛が大したものではないと判断する。それと同時に,外から与えられる精神的苦痛 が,自分にとっては快楽にしかならないことを笑いによって示すことで,外からの要求を. 1 1 巨否」し,自分. を守る。 リューデイガーの「相手からの依頼を拒否する」という性質をフロイトのユーモア論を用いて分析したと き,その根底には幼少期に父親から精神的苦痛を受けたというエピソードが浮かび上がる。父親に対し, リューデイガーはユーモア的精神態度を使っていたということが出来るだろう。 このようにしてみると,リューデイガーの描写の精確さに驚かざるを得ない。「本当のフモリスト J ( E i n. e c h t e rH u m o r i s t ) という記述や,他者からの要求を拒否するという設定を見る限り,マンがフモリストの とる行動のみならず,その精神的な構造をも見取り,正当性をもって描写していることがはっきりとうかが える。 リューデイガーの「笑い」のセンスは,アードリアーンと共通するものであり,二人は「笑い」で、繋がっ ていた。そして,その「笑い」をもたらすリューデイガーを分析することで,「笑い」の持つ性質の一部分 を見ることが出来るだろう。それは,対象に対し距離をおいている,ということである。フロイトの言う「太っ 腹な態度」は,自らの状況を離れた視点から見ることで可能となるからだ。すると,リューデイガーのもた らす「笑い」を享受し,ともに笑うことができたという点で,アードリアーンもまた,対象に対し距離を取っ ていたということが出来る。二人の笑いが一致していたということで,二人が対象に対して取る距離が一致 していたのではないかということも可能だ、。また,対象に対して距離をとる,ということに関して言えば, マン丈学の本流としてのイロニーの変形ではあるまいか。更にリューデイガーを分析する必要があり,今後 の課題としたい。. (山道. 愛斗北海道教育大学大学院教科教育専攻英語教育専修). (大木文雄北海道教育大学名誉教授). 1 6 5.

(17)

参照

関連したドキュメント

わからない その他 がん検診を受けても見落としがあると思っているから がん検診そのものを知らないから

と言っても、事例ごとに意味がかなり異なるのは、子どもの性格が異なることと同じである。その

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

であり、 今日 までの日 本の 民族精神 の形 成におい て大

「欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求で はなくて、差異への欲求(社会的な意味への 欲望)であることを認めるなら、完全な満足な どというものは存在しない

   遠くに住んでいる、家に入られることに抵抗感があるなどの 療養中の子どもへの直接支援の難しさを、 IT という手段を使えば

○安井会長 ありがとうございました。.

自分ではおかしいと思って も、「自分の体は汚れてい るのではないか」「ひどい ことを周りの人にしたので