〈書評〉感受性の潜勢力--村岡到 『親驚・ウェーバー・社会主義』を読む
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(2) 総合社会学部紀要第 3巻 第 2号. り抜けてこそ初めて感得される誤謬があり、そ れを解く鍵が、誤っていると思われた正反対の ものに在ることを知る、そしてそこから何かが 創造されるということである。だから「のちに なって」わかるための時間と努力を要して発見 1 真理」と =獲得される「真理」なのである ( いうとものものしいから「認識」と私はしたい が、これを弁証法と説く人もいるだろう)。 従って著者の道のりは、まずは運動の中で見 えてくる誤謬や欠落していたもの、時代に合わ ないものが、運動を主導し、自らも依拠したマ ルクス、マルクス主義のなかに起因していな かったかを根底的に点検するということから始 (法 まる。すると前著(I)における「生存権」、 I Jや本書の「心 の前での)平等」、「エコロジ (仏の前での)平等 J(親驚)、 の在り方」、 I 「愛 J(7ロム)、「官僚制 J(ウェーパー)と いったマルクス自体が見落としていたと恩われ るもの、あるいはマルクス主義陣営で、低く評 価されていたり、杏定されていたことがらが、 反対命題として次々に析出きれていく。「浅学 非才」をもじって「独学非才」といいつつ、古 今東西の思想家や杜会理論家が時代を越えて 次々と利用されるのだが、ここで著者はマルク スをはじめとしてあらゆる論者に「ないものね だり」は決してしない。検討の対象の全体像で なく、そこから必要な観点を摂取し、違和感が あればかれらがなぜそのような不当なあるいは 不完全な認識に至ったのかという点まで降り立 つ批判的検討のうえに自らの思考を重ねてい く。個々のマルクスキウェ パーの研究者や社 会運動家からは異論も反証・反論もありえよう が、この「社会主義」の定義という目標を抜き にして議論するのは、ここではあまり意味がな いと私は思う。 ただ、指摘しておきたいのは、著者が政治経 済過程の中に「愛」や「宗教」的な要素を組み 込もうとする問題意識と、それを生かそうとす るときに横たわる困難さを、ウェーパーその人 が強く意識していたことである。本書にかかわ る点では「緊張関係」という視角をもって ウェーパーが合理化過程と性愛、宗教的共同体. 形成と政治的権力とのせめぎあいなどの理解に 正面から取り組んでいることは想起されてもよ い。それは専門化されて生きる迫力を失った学 問研究のあり方への批判にもなるだろう。. 2 基礎視角としての I 平等」の重み きて、「社会主義」再構築する過程で著者に よって提起されるのが「清廉な官僚制」、「協議 経済」等々であるから、これらは先ほどの意味 での「中間的」な性格を負わされている。たと えば「計画経済」の非効率性を論難する「市場 経済」に対して、その暴力性を克服しようとす る「協議経済」といったものである。さらにこ こには一貫して流れる底流がある。それは経済 1 賃労働ー資本関係」の変 システムとしての ( 革)を必須の条件とする「平等な社会」という 理念である。著者が「社会主義」にこだわる所 以はここにある。 「社会主義は資本主義のように経済における 競争がなく平等であるから働〈意欲(カネを稼 ぐという意味での)がなくなり、社会の発展が ない。」といった俗論があるが、また、マルク ス主義陣営のなかでも「革命的な」人格の同一 性といった主張があるが、ここで構想される平 等とは、およそそれらとは対極にあるものであ る。詳述は著者に譲るが、ここで提起されてい るのは、個々人の多様性を不可欠の前提とした うえでの、また、法によって根拠づけられた、 宗教にも通底する平等であり、その核心には、 個人にふりかかる様々な危機がもたらす不幸を 避ける万人共通の人権が、異質なものを意識 的、あるいは無意識的に繋ぎとめるべき「生存 権」として据えられている。したがって問題は 経済システムを含みつつこれを越えていく。 「賃労働ー資本関係J'めは生産関係における実 質的な不平等に基づき、直接には経済的格差を 拡大再生産し、さらには地球環境の破壊といっ たそれぞれの社会を超えたうえでの人類的不幸 にも繋がっていく。その結果、社会の成員の一 部かあるいは大多数かに不幸をもたらさぎるを えない。この意味で、他者に不幸をもたらす 「自由」に先がけてこの平等は優先され、社会. -68ー.
(3) 感受性の潜勢力. 変草の道標とからねばならない、というのが本. た。著者によればこれに徹底的に学ぶ(摂取す. 書の基礎視角である。 万人に「死」が等しく与えられているのと同 じ意味で、生まれてきた以上、できるかぎり不 幸を取り除いて「生きるに値する生」を全うす る権利(著者によれば生存権)が平等の根拠で ある、と私も考える。この基礎視角には深く同 意できる。問題はこれを核としていかに社会を 形成するか、である。 その際には、個人を離れて制度としてある政. る)必要があるが、ウェーパーは「鉄の橿」と しての近代官僚制の運命的な支配力を重く告知 しつつ「いかにして自由を確保するか」という 問題設定をするだけで、ペシミズムに陥ってい る(3)。つまり「平等」への顧慮に欠ける、とい. 治経済が非常に大きな役割を呆たすものの、個 人の持つ様々な多様性(それは状況に規定され てもいる)をどう確保するのか、という複雑で 総合的な課題が横たわる。一時的か永続的かは おくとしても、自己の不幸を取り除くことが他 者の不幸を招くこともある。不幸への感受性も 置かれた環境や立場、価値観により個々人の主 観的な偏差があり、それをどう調整し、合意を 形成するかという課題である。それには社会学 的な「組織」や「集団」、さらには宗教といっ た領域にも目配りを広げ、その知見を目的に向 かつて生かしていくという方法が要請される。 政治経済を含む「個人と社会」という問題設定 が底流になければならないのである。その試み が著者にとっては「親驚」であり「ウエ」 パー」なのである。. 3 ウヱーパーの官僚制に闘して 官僚制問題の「中間の真理」についての著者 の構図はこうである。初期マルクス(ヘーゲル 国法論批判)には官僚制に対する批判の萌芽は あったが、マルクスもマルクス主義者もこの深 刻性を見落としていった o それはスタ」リニズ ムキソ連・東欧社会主義、あるいは日本の左翼 運動に貫通し、その崩壊の原因となり、その過 程で多くの人々の不幸を招いていった。この痛 みは運動をくぐりぬけた者のリアリティにおい て語られている o しかるに、誤れる反対命題としてのウェー パーは、資本主義国家と近代官僚制の内的関連 性を提示するだけでなく、社会主義においても 官僚制が必然的に随伴することを見抜いてい. うことになる。 経済システムとしての「賃労働 資本関係」 とは異なり、「官僚制」は非歴史的存在(人間 二人が集まれば官僚制が生ずる)であって刷、 この支配から人類は逃れることはできないこと を学ぶべきだ、官僚制の弊害を極小にするこ と、そのためには「平等志向」を理念として官 僚制の是正を行うしかない、というのが著者の ロジックである。そのうえで情報公開、オンプ ズマン、官僚の特権の廃止、輪番制、多党制と いった制度的な提案がいくつか示されている。 ウェーパーの仕事を見渡したうえで、かれの 近代官僚制論が「鉄の桂」とのみ認識され、平 等を欠いた「自由の確保」いう点だけで語られ ているのか、かれの社会主義批判は著者が指摘 するように「実物経済の非合理性」、「レーテ草 命の誤謬」、「不可避に随伴する官僚制」ではあ るが、ウェ」パーなりのポジテイプな「社会主 義」の可能性についての見解はないのか、と いった点は既に指摘したように本書の論脈に即 した議論ではないので整えたいが、「近代官僚 制と平等」あるいは「近代官僚制と民主制」と いう点に限ってここで記しておきたい。ウェー パーの学ぶべきところだけを摂取して、結論的 には乗り越えるべき「ペシミスト」と位置づけ て終わっていいのか、むしろ著者の主張に沿う かたちでさらに学ぴ、利用できるところがある のではないか、というのが以下の私のコメント の趣旨である。 『経済と社会』でウェーパーは近代官僚制の 前提・随伴現象として貨幣経済(とりわけ租税 制度)の発展、質量ともに増大する行政事務の 発展、行政手段の中央集中とともに近代官僚制 が「技術的優秀性」を持っていることを、評価 を抑えて列挙している。だから何のための「技 術的優秀性」かは気になるところだが、ここで. -69ー.
(4) 総合社会学部紀要第 3巻 第 2号. 正確性・迅速性・明確性・費用の節約ととも に、法や規則によって定められた服従関係の確 実きが確保されることが指摘されている。もち ろんこの記述は、人格とは対極にある物象が社 会関係を「支配」するというかれの全業績を貫 く批判的な基礎認識に裏付けられているが、こ こでは「支配=服従」の実態を正確に見定める よすがが示されているとはいえないだろうか。 確かに官僚制は無批判に既成の法や秩序を受け 入れて、思考停止のまま事務的に事象を処理 し、結果として「迎合主義」に陥る危険性を多 大に有しているが、「個人と社会」の関係の確 かな認識をもたらし、批判的に事態を捉え返す 足場になりうるのではないか。あくまでも出発 点としてであるが。 同じ趣旨でもう一点あげるならば、同じ個所. 害関係、政治的支配関係等々におけるそれぞれ の差異や不平等を確認したうえで、社会的合意 を形成していかなければならない。その実践的 著でも指摘されていた。 課題の困難き由苛t 難しいことだが、著者に触発されて考えるに は、どんな「不幸」でも見逃さないという感受 性の共有が鍵になるのではないか。それは不幸 を負っている者、弱きものが連帯し、そうでな い者がこれに同情するといったことでは十分で はない。他者の不幸を前にして、自らも同様な 状態に陥りはしないか、陥ったら何をどう感じ るのかという共感を生むリアルな想像力、そし てあるいはその不幸は自らが作り出した社会の 構造が強いるものではないか、であればその是 正が優先されねばならない、という分析力を引 き起こす感受性である曲。結集の範囲を狭める. でウェーパーは「社会的・経済的差異の撤廃と 水準化」を指摘している。「水準化」とは著者 のいう「平等」に重なるものと私は考える。も ちろん「被支配者の権利の平等=みかけ、すな わち形式的には平等という形をとった合法的支 配」に類落する可能性をつねに含んではいるも のの、官僚制が不可避な現代社会において「平 等」に関わるべきものとしたならば、この条件 をくぐりぬけるしかない、と考えられる。近代 官僚制は不幸をもたらす不平等な支配を構造化 する装置であると同時に、それを認識し、そし て掘り崩していく武器として存在させなければ ならない。そのためにはシステムとしての近代 官僚制とその外の多様な実質的なものとを呼 応、連携させていくことが肝要だと思う。たと えば著者のいう「協議経済」にしても、このよ うな視角からの検討が寄与するのではないか。. 「受普者の連帯」ではなく、それを聞かれたも のとする「受苦者への連帯」である。 ましてや「リスク社会 J(ベック)というこ とが取り沙汰されるほど、現代社会において は、たとえば放射能汚染や地球温暖化のよう に、一部の人間でなく社会に生きる人間すべて が共有しなければならない人類的な不幸も忍び 寄ってきている。不幸を直視するのは決して愉 快なことではないし、生きるに値する喜びに向 かつての足かせという意識を多くの人びと、と りわけ社会運動には無縁だと思う人びとに生じ させがちである。 しかし、この感受性が平等の根拠であるとい う意識のもとに社会的合意を形成していくこと は、たとえ個人の自由に制限を加えるもので あっても、その意義を相互に承認しあい、強制 力を伴う権力の介在を排除した自制であればこ そ、得るものは大きいはずである。社会運動が 欠落させてきたものはこれである、という思い を著者とともに持てたらと思う。. 4 合意形成に向かつて しかし近代官僚制のこのこ面性を制御し、社 会運動を通して不平等に基づく個人と社会にお ける不幸を除去していくのは容易なことではな い。ウェーパーにも「神々の闘争」という認識 があるように、個々人の多様性、生きるに値す る生のありかたの違いを確保しながら「社会主 義」を構築するには、価値観、感覚、経済的利. 注. ( 1 )村岡到『生存権・平等・エコロジー J2 0 0 3 年白順社 ( 2 ) これを「自由な労働の合理的組織」と. -70ー. ウェーパーは表現している。.
(5) 感受性の潜勢力. ( 3 ) この理解は昨今のウェーパー=ニヒリズム 論にもつながっている。 ( 4 ) もちろんピスマルクによるプロイセンの官. 僚制や、エジプト、中固などの家産官僚制 といった歴史的な存在もウエ」パ」は扱う が 。. ( 5 ) かつてアダム・スミスが S e l f i n t e r e s tと セットにして S ympathyを語っていたこ とがここに関連してくる。. -71ー.
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