Title
田中角栄政治に関する一考察−その特質を中心として−
Author(s)
照屋, 寛之
Citation
沖大法学 = Okidai Hōgaku(8): 46-79
Issue Date
1989-08-15
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/6531
なかろうか。 田中角栄という良きにつけ悪しきにつけ、類まれなろ政治家の特質を研究することによって、政治家、官僚、 有権者の属性、日本の政治風土を知ることができ、同時に日本の現実政治のメカニズムを理解することができるのでは 田中角栄が自民党・政府の中であれだけの権力を掌握し、そして総理辞任後も大平、鈴木、中曽根のそれぞれの内閣を
田中角栄政治に関する一考察
ニ田中の拝金主義思想 一一一派閥膨張策による党・政府支配のメカニズム 四田中政治の現代日本政治へのインパクト ーあとがきにかえてI 沖大法学第八号 序 その特質を中心として 序照屋寛之
四六細田中と立法活動ⅢⅢⅡ官僚操縦
これら五つのファクター(いずれもあるべき政治の姿質拝金主義思想ト地一塁への利益誘導11集票
の 相 ではない)が独立して作動しているのではなく、みごと辨土L悪震/派腓張
なまでに歯車のようにうまくかみ合い、連動しながら作 動していろ。それゆえに相互作用しつつ相乗効果を生み 政 中 出していたのではなかろうか。したがって、うまくこれ 田 党・政府支配 らの視点を考察すれば、田中角栄という政治家の実像がうかびあがり、そして何よりも、日本の現実の政治過程の メカニズムの一端を理解できるのではなかろうか。換言すれば、田中角栄という政治家を知ることは、私たち自身と (1) 私たちの時代を知る手がかりになるにちがいない。「時代が人をつくり、人が時代をつくる。」これは歴史によって試 めされた人間社会の法則であり、教訓であろう。田中角栄が環境と時代から何を受けとり、社会に何を返したのか。政 治学を学ぶひとりの人間として、田中支配が終わった今日、それらを可能なかぎり多くの資料・文献等にあたりながら 整序してみたい。とはいえ、本研究は今、その緒についたばかりであり、田中政治の全体像にせまることは現時点では 難しい。本稿はこれから「田中角栄論」を研究していくうえでの初歩的段階の研究である。尚、本稿においては紙幅の 関係上、「田中の拝金主義思想」と「派閥膨張策による党・政府支配のメカニズム」についてのみ論じてみたい。 (1)白鳥令編『日本の内閣⑪』新評論一一一○頁 配のメカニズム」 3J「7.弓,、愚一。 活動」「田中の壱活動」「田中の官僚操縦」「利益誘導と集票のメカニズム」、「田中の拝金主義思想」「派閥膨張策による党・政府支 影でコントロールすることができたのは、一体何であろうか。それを次のような視点で考察してみたい。「田中と立法 田中角栄政治に関する一考察 四七H田中の経験論的全権政治哲学
田中角栄政治の特徴のひとつとして指摘できるのは、田中自身の「政治は力なり、力はカネなり」といういわゆる拝金
主義思想である。政治はカネだという認識は、多面的な認識であり、まず政治家になるためには、カネでなるという選
挙とカネの側面、政治でカネを掴む、つまり予算を分捕るということと、利権も政治で掴むということ。それからカネ
で政治を動かす、つまり党の内部、あるいは野党まで買収する。これら一一一つの側面で政治において国民の常識を大きくか
(1) けはなれた莫大なカネが使われたのである。このカネ万能信仰Ⅱ全権政治哲学は、田中のあらゆる政治手法の根底にある考え方であり、田中政沿とカネは一体不
可分と言っても過一一一一口ではあるまい。したがって、田中にとってカネというものは、カネであると同時にデモクラティッ
(2) クなコミュニケーションのひとつの手段であったかもしれないのである。別の視点から照射すれば、田中にとって、カネは単なるカネにとどまるものではない。つまり、田中にとって、カネ
という経済的な媒体は、指導力の多寡を示す社会的な媒体であり、威信の軽重を示す社会的な媒体でもあり、そして信
頼の強弱を示す文化的な媒体でもあったにちがいない。しかもこれらの媒体は、友と敵との判別基準をも不すものとし
て機能していろ。もし誰かが田中の友になるとすれば、それは田中にとって清めであり、敵になるなら微れである。Ⅲ
(3)中の授受するカネの表には清めの図柄が、そして一異には機れの図柄がそれぞれ刻印されているのではなかろうか。その
好例として、次のような証言がある。「私も持ってけといわれて封筒を出されたことがあるんですが、困るんですよ、
沖大法学第八号 二田中の拝金主義思想l政治はカネなりI 四八いらないというと、彼は、じゃお前は敵だなという風にみるんです。金を貰うか貰わないかで自分の敵か味方かを区別 するんですな。政治に色気があって、田中にくっついておこうという人はどんどん貰って、後藤田クンみたいに完全に (4) 田中ファミリーの中へ入っちゃ露フわけですよ」。 考えてみると、田中は土地や株などでカネをつくり、それを官僚、党内外の政治家、選發民にばらまきながら、権力 の頂上を目ざし、到達したのであろう。念願かなって総理大臣という権力の最高のポストに就くや『文芸春秋』の「田 中角栄研究Iその金脈と人脈-」でその金権性が指弾されたのをきっかけに総理の座をおりるのである。田中は弱冠三 ○才の若さで吉田内閣の法務政務次官になるが、炭鉱国管疑獄で辞任を余儀なくされろ。さらに、佐藤内閣の幹事長の ポストをやむなく降りるのもこれまた田中彰治というマッチ・ポンプ式の不正暴露家に国有地である虎の門の土地を小 佐野賢治に払いさげた際に何か不正があったのではないかということで田中彰治に弱みを握られたのがそのきっかけで あった。このように田中にはカネに纏わる不正があとをたたなかった。そもそも田中の場合、政界入りのきっかけもカ ネであった。当時田中土建の顧問であった大麻唯男から「進歩党を結成したが党首問題で困っていろ。宇垣一成と町田 忠治の二人が総裁の候補者だが、二人とも譲らないのだ。そこで、選挙も目の前なので早く一一一百万円つくってくれた人
を総裁にする、とこの一一人に提案したのだが、自分は町田を推していろ、ということであった。結論をいうと『君、い
くらか出してくれんか」ということであった。私は快く承諾した。それから半月ほどして大麻さんから『こんどの選挙 に立候補しないか』という話があった。私は代議士になる気はなかったので一度はことわったが、二回ほど重ねて話が あったので.………・・私はしまいに『いくらくらい金が必要ですか』ときいたら「十五万円出して、黙って一カ月間 おみこしに乗っていなさい。きっと当選するよ」私がこの一言に迷った結果、進歩党公認候補として衆議院選挙に立候 田中角栄政治に関する一考察 四九沖大法学第八号 五○ (5) 補の冒険をあえてするはめになるのである。」
それ以来、幣原が民主党を脱党してつくった同志クラブで、田中は会計を担当し、同志クラブが合併した民自/自由
党では、田中は党首吉田の資金づくりを「ちょくちょく手助けするようになった」といわれ、郵政大臣時代には、既に (6) 新聞記者たちの間で佐藤派の政治資金は佐藤六、田中四の比率で集めたといわれていた。 田中は、学歴も家柄もない自分の値打ちがカネづくり以外にないと信じて疑わない。そのことは田中自身の語録の中 にも、そのものズバリのものが少なくない。たとえば、’九六六年の「黒い霧」国会で、共産党に信濃川河川敷買い占 め事件を追求され、その政治責任をとって自民党幹事長を辞任した田中に対し、側近中の側近であった西村栄一(元党 副総裁)がざっくばらんに「角さん、君はどうして金儲けをそんなに大事に考えるんだ」と聞いたら、田中は真剣な顔 で「ジィさん、あんたは最高学府(旧東北帝大)を出て、役人でも最高のポスト(鉄道省電気局長)まで行った。佐藤 だって、池田だって、みんなそうじゃないか。それにくらべろと、ボクには何があるんだ。誇るべきものは何もない。 (7) 学歴も役職も、何もない。ボクにとって頼りになるのは、事業、金だけじゃないか」と訴えたのである。田中は、弱冠一一一九歳で史上最年少の郵政大臣に就任するのであるが、ある老越山会員の証言によれば、「岸内閣改
造の前、田中は『岸にいくらゼーーを持っていったらいいかな」と相談した。『一一一百万円でどうだ』と話が決まった。ま (8)だ五千円札もない時代だ。小さなリュックに札を詰めて行った」、古くからの田中支持者は「田中は大臣になって地元
(9) に来て『オレはヵ、不で大臣になった』としゃべっていた。あの性格だし、時代もそうだったのかなあ」と語っていろ。 真偽はともかく大臣就任の時もカネの話はついて回っていたようである。田中の政治行動の一つひとつにも恒常的にその拝金主義思想がにじみ出ていた。金銭の面倒見のいいことでは、田中 は政界でも定評があった。それが見方によって「情の人」として映ることもしばしばあった。盆暮れに配る中元、歳暮 はもとより、陣中見舞、鑑別、冠婚葬祭等々にいたるまで小マメにやった。それがもっとも典型的に遺憾無く発揮され たのは四七年の七月政変である。四九年七月の参院選挙で「金権選挙」と悪評されるほど湯水のごとく金を使ったにも かかわらず、自民党は見るも無惨な敗北をとげ、三木武夫副総理、福田赴夫蔵相の一一人の実力者が田中を批判して閣僚 の座を退いたいわゆる「七月政変」で、田中がうまく危機を脱し、党内の金権批判を軟化させることができたのは、山
中の拝金主義ではなかったか。すなわち、田中金権を批判した議員にもたっぷりとお金を配ったのである。「『最近じ
ゃ、みんな、よるとさわると、角サンから金が出た、出ないといった話ばかりしていろよ』と、ある若手議員が嘆いて いたが、だいたい十八日前後からさかんに党内に実弾がバラまかれはじめた。だいたい政界の慣習として、盆暮れには、 派閥のボスから陣笠に現金が配られることになっている。いまはちょうどその季節。したがって名目は〃お中元〃であ る。一人平均三百万から五百万円。田中派はもとより、他派にも若手を中心に出た。他派の議員はもちろん、その派閥 のボスからも貰うのだが、それはせいぜい六、七十万円から百万円というところで、ケタがちがう。他派の議員にも、 田中首相が実弾をバラまくのは、実はいまにはじまったことではない。驚くなかれ、なんと十年前からやっているのである。お中元、お歳暮、外遊銭別、選挙資金という形、各派の田中シンパにも実弾を欠かさない。衆参両院四百一一一十人
の議員のうち、こうして、ふだんからコャシがまかれた議員がざっと一一一百人はいるという。だから、こと田中支持の問
題を考えるかぎり、普通の派閥地図では考えられない。田中シンパだからコャシがまかれているのか、あるいはその逆
口拝金主義の実態 田中角栄政治に関する一考察 五 一田中とカネとの関係で特筆すべきことは、田中が官僚に対しても恒常的にカネを配り、官僚の中立性を喪失させたで はなかろうか、ということである。たとえば、田中は池田内閣の時、史上最年少で大蔵大臣のポストに就く、田中は大 蔵大臣時代、省内でお中元、お歳暮を配った。これがまた国民の感覚では常識をはずれたものであった。電話交換手に は化粧品程度、こうの職員にはネクタイ、係長クラスにはサンロ1ランのネクタイ、課長以上には別封(五十万円)を 配った。大蔵省では課長以上で一一○○人を越えろ、一人平均五○万円ずつとしても、一億円以上となる。それも盆、暮れ (、) の二回とも同じように配る。政治評論家の藤原弘達氏は、官僚への特別ボーナスについて、その体験談を次のように述 べていろ。「私の友人に、大蔵省の課長をしている者がいた。彼が私のところに相談に来た。『金一封を特別ボーナス としてもらったが、これ、もらっていいかな』『チップだと思えばいいじゃないのか』私は気軽に、そう答えておいた。 でした(選挙資金の七割は田中に面倒見てもらった)』とボャいたとかいう、資金量のちがいを示すエピソードは随所 百万に対して一億も出たとかで、『一一十対一じゃ、勝負にならんね』と椎名がポャけば、中曽根が、『ウチは三割自治 今回の参院選の一口話として、福田が自派の候補に五百万やったところ、田中から三千万出たとか、椎名派の場合は五 かんにかかってくるそうだ。イザとなれば派閥のボスより田中に従うというのも、その資金量が圧倒的にちがうからだ。 閥の一員として、やひをえず現在のような行動をとっているが、ご了解ねがいたい」というような電話が田中首相にさ 者がかなりいるんだ。イザとなったら、そのヒモを引くだけさ』と田中派の幹部は軽くいう。実際、三福内部から、『派 なのかはわからないが、全派閥にまたがり田中支持の議員がたくさんいろ。「三木派、福田派にだって、首輪をかける (、) にある。岸信介にいわせれば、『同じ一本指でも福田は百万、田中は一億』と評したくらいのちがいがある。」 曰拝金主義と官僚 沖大法学第八号 五 一 一
さらに大蔵官僚の次のような告白もある。「某日、田中派から〃××法について説明してほしい。ついてはその基準 要領をもってきてほしい“と言われた。注文の要領などは全然機密ではないし、すでに公表されているので、何げなく 出向いて説明したら、帰りぎわ”大変貴重な資料、ありがとうございました。これはほんのお礼です“と分厚い茶封筒 を渡された。多分カネではないかと思ったが、とても返せるような雰囲気ではなかったので、いったん持ち帰り、開け てみたら五十万円ものカネが入っていた。びっくりして上司に相談したところ”キミもこの世界で生きていくつもりな ら、黙ってもらっておけ“と言う。あとでわかったことだが、この上司は”田中系“といわれる人だった。以来、この (皿) 上司と腐れ縁ができる一方、何かとカネをもらい始め、一種の共犯関係のようなものになっていった」一般的に国際的 に見ても、日本の官僚は優秀勤勉、そして何より清潔とされてきた。したがって「官僚がしっかりしているから、日本 は大丈夫」との気概が官僚たちにあり、また世間もそう見てきた。薄給に甘んじ、天下国家の大計のために深夜まで働 (辿、) く。ところが、一万において、田中の拝金主義思想によって、いったん札束で康潔性を失った一部官僚が、「全体の奉 仕者」から「田中の奉仕者」に変わるのは造作もなかったのであろう。 になったよ』という。つまり、彼は完全に飼いならされて、恩恵を受けるのが癖になり、うまく懐柔されてしまったわ てこなくなった。私が『その後はどうなったかね』ときくと、『あれは、女房が家計の予算に入れて、生活に使うよう 飲んだものである。ところが、田中大臣の特別ボーナスは、その次も出た。二回目からは、彼は私のところに電話をし そして、チップなら、そうそう何度もくれんだろうから、これで飲もうではないかということで、|緒に銀座のバーで (⑫) けである。」 田中角栄政治に関する一考察 五
四拝金主義と政治家-党支配の源泉 田中は政治家に対しても恒常的にカネを配った。昭和四七年の自民党総裁選挙では、田中は一○○億円以上使ったと いわれていろ。一説では五○億、六○億とも言われており定かではない。その金額には本当の部分もデマの部分もある だろうけれども、少なくとも前代未聞の金額が使われていたことは、確かであろう。次のような証言がある。「田中は 代議員をいくつかのグループに分けて待機させて〃密使”が金を配って歩いた。代議員一人当たり最底五○○万円から 一一○○○万円近く、これは総裁選の八カ月前から始まっていた。対立した福田派はせいぜい一人当たり二○○万円が最 (通) 高、だから、田中が勝つことはわかっていた。」 田中の金銭的〃気くばり“は、総裁選挙や参院選などという選挙の時に限らない。田中が派閥の領袖として派閥メン バーに配る。盆・暮れの手当は、小派閥の三倍(たとえばロッキード事件で逮捕された時でさえ、一人一一一○○万円)と いわれ、これとは別に、一人立ち出来ない国会議員に毎月一定の援助をしていたといわれていろ。ここで注目すべきこ とは、田中のカネの配付先は自民党議員だけに限らないということである。|部の野党にも多額の金がバラまかれたと いわれ、四○年の「日韓国会」の際、自民党幹事長として、野党工作に使った「国会対策費」は、その後の国会運営や (咽) 与野党関係者を堕落させる糸口となったといわれ、国〈蚕対策Ⅱカネの意識を定着させることになった。さらには、ロッ キード社から田中に渡った五億円の賄賂が複数の野党議員にも流れているというショッキングな情報もある。田中の秘 書、榎本は、捜査検事に五億円の配付先である約三○人の政治家名と一人二○○○万円単位の金額を記したリストを提不し ていろ。ということは、田中側にも、その配付リストの控えが存在するということになり、リストに名を記された野党 (Ⅳ) 議員は、田中に、水久に弱みを握られつづけることを意味する。 沖大法学第八号 五四
以上のように、田中にはカネに纏わる話は尽きないが、「大蔵官僚は、金では動かないが、田中の金には心が乗って (胆) くると思わせるところがある。」と、官僚OBが証一一一一口するように、確かに田中にはカネの渡し方に福田や大平、三木な
どが到底太刀打ちできない「天才的」な才能があるとしばしばいわれた。具体例を一三あげてみたい。一般に自民党総
裁選挙の際には、誰かに投票してくれるように頼み、どうしても投票することを確認した上で渡さざるを得ない。とこ ろが、田中は一風かわっていた。「佐藤に入れなくていいんだよ。こういう時じゃないとお金はもらえないもんだから (四) 受け取ってくださいよ」といって置てくろ。そうすると大体受け取るし、投票もしてくれろ。さらに、四七年の角福戦争のさいに次のようなエピソードがある。『この年の総裁選には一一一角大福の四人が立候補した。そして、この四派閥に
属さない周山会系(保利派)が、俗にいう草刈り場になった。:。…総裁選を間近に控えたある日、周山会の某代議士が 大平のもとに呼ばれた。いうまでもなく『|本釣り』の交渉である。大平は、少なくない額の厚みのある封筒をテーブルの上に押し出しながら、低い声でその代議士を見上げていった。『今度の選挙は、頼むよ』、代議士は答えた。「い
え、先生。いままでの行き掛かりから今回は福田先生に決めていますので、申し訳ありませんがお断りします』すると 大平は、そうか、それは残念だな、といいながら封筒も一緒に引っ込めてしまった。それから数日後、今度は田中の事 務所から会いたいといってきた。手には、大平のときの倍以上の厚みのある封筒が握られていた。しかし、その代議士 は、ここでも大平にいったように告げ、丁寧に依頼を断わった。だが、断わられた田中の対応は、大平とはまったく違 っていた。田中は、代議士の肩を叩かんばかりに近寄ってきて、こういったのである。『そうか、そうか、うん、それ はいいことだ。人間には縁というものがある。その縁を大切にしないやつは人間としても駄目だし、政治家としても大 成しない。気に入った。これは一つ、君の勉強代に役立ててくれ。いや、投票は福田先生にしてもらって結構だ。君は 田中角栄政治に関する一考察 五五以上のような拝金主義思想でもって、与野党の政治家や官僚の正常な感覚を麻陣させながら、着実に党内で勢力を拡 大させ、ついに総理の座を射止めるのである。そして、田中が総理在任中に、日本の政治風tはいっそう金権的になり、 政治(家)とカネの問題をさらに望ましくない方向へと加速したのではなかろうか。 まずその拝金主義で凝り固まった田中が、指揮した昭和四九年七月の参院選をみてみたい。保革逆転かといわれたこ の選挙に、田中は未會有の金を注ぎ込んだ。金ばかりでなく、大企業の組織を選挙に動員し、”企業ぐるみ選護〃をや ってのけた。田中は自分の失政の責任を、金と大企業の組織力でぬぐい去ろうとしたのである。それまでは主として、 (皿) 民党の党内レベルでおこなっていた、金で人心も買うという行為を、全国的におこなおうとしたわけである。この選挙 は、後に「金権選挙」「企業ぐるみ選挙」として国民から批難されたのはまだわれわれ有権者の記憶に新しい。田中は ヘリコプター一一機(一機一億一一○○○万円)をチャーターし、北海道から沖縄まで四六都道府県を飛び回った。田中の 腹心の幹事長(当時)、橋本登三郎は「必要なカネはいくらでも使え」と激を飛ばした程であった。、民党執行部が、 この参院選用に財界に要求した金額は六二億円、この選挙で自民党が使った費用は、一五○億円とも二六○億円ともい 差が、ロッキード事件で総理大臣の椅子を投げ出したあとも、隠然たるキングメーカーの地位を保ち続けた田中の原動 けつけた。|度出したものを引っ込めた大平と、出したものは何が何でも握らせる田中の差がここにある。そしてこの った末、結局そのときは保利に従い、福田に一票を投じた。しかし、保利派が消滅したときには、真っ先に田中派に駆 いいながら、代議士の手に直接、そのずしりと重みのある封筒を手渡したのだった。総裁選の当日、その代議士は、迷 まだ若いのだから、いくらでも勉強しなきゃあいかんだろう。是非この金を使って、大いに勉強してくれたまえ』そう (、) 力となったのである。」 沖大法学第八号 五 六
自民党全国区の場合、十当七落(十億円で当選、七億円で落選)が平均的相場といわれ、最も安上がりにあげたとい われる源田実でも一億五○○○万円使ったといわれた。金権選挙の代名詞になってしまった糸山英太郎は三○億円使ったと いわれた。地方区は五当一一一落といわれたが、徳島地方区で、三木派の久次未健太郎と激戦を戦わせた田中派の後藤田正 晴候補は一一○億円使ったといわれた。この選挙で、最大の金権ぶりを発揮したのは、田中角栄であった。これまでの選 挙では、候補者の選挙資金は、自己資金、派閥ボスのくれる金、党本部のくれる金の三本柱でまかなわれていた。しか し今回は派閥にかまわず、田中が各候補に資金を提供した。その額は、文字通りケタちがいだった。他の派閥の領袖と 田中の全力の格差を表現して、ある自民党長老は「三木は指先、福田は手のひら、田中は肩脾骨」と表現した。渡す金 を扱うのに、体のどの部分を動かさねばならないかをいったものである。参院選の選挙資金に億単位の金が使われた。 それを運ぶのは、ビニールの外張りのついた丈夫な紙袋が使われたという。これに一万札を詰め込むと、ちょうど一億 円入るとのことである。この選挙資金の運び屋になった自民党の幹部クラスの議員が「’億ならなんとか持てるが、一一 (鰯) 億になると重くてかなわん」ともらしたそうである。まさに、|眉胖骨を動かさねば運べない重量だったといえる。 次に田中の金権政治の証左として、田中内閣時代の国民政治協今がら自民党への政治献金を一瞥してみよう。次頁グラフ にみるように、田中内閣時代に異常な程に急膨張するのである。当時の貨幣価値を計算に入れれば、実質的には現在の 三倍前後のカネが自民党に流れ込んでいたようである。しかも田中はこれらのカネを、湯水のごとく使いまくったので あろう。田中政権の後を引き継いだ一一一木政権は、党の金庫が空っぽなばかりか、一○○億円近い借金まであることに傍 (理) われた。 囚政治献金の急増 田中角栄政治に関する一考察 五七
て金」のようにみえて、二年先、’一一年先には有形無形の見返りをもたらすのである。「事業家」田中は、政界における
「投資」の見返りが、自らの力を支える確かな手応えとなることを、また、そうさせることが可能なことを永年の経験
で熟知している。与党議員にあげた金は、多数派を形成するうえで十分な力をもたらすし、野党議員にあげた金は、田
(躯) 中が思い通りに国会を運営するうえで効果を発揮する。前述したように、官僚にも機会あるごとに配金することによって、うまく官僚を操縦し、新潟の選挙区からの陳情は
もちろんのこと、田中派所属議員の選華区からの陳情もうまくさばくことができたのではなかろうか。いったん田中の 札宋によって廉潔性を失った一部の官僚は、「全体の奉仕者」としての精神を忘れ、「田中の奉仕者」へと転落してし 国民政治協会を通して自民党 に流れた政治献金総額の変化 179.lq まった。 沖大法学第八号 卯債-. - 1006 100 83.2 84.0 68.4 50 田中内閣 (47.7 49.’1) P男11,1,ul1T~171,1Ⅱ1-I-6gjm364045505557碩然としたと一一一一口われろ。これを契機に政界、とりわ
1 1 け自民党内に全権ムードが助長されたのはいうま 〕綱でもないであろう・
編の 部権三木内閣以降、献金額が急減するのは、政治賢 治金 政一金規正法の改正と景気の停滞のためといわれたが、 聞党 新民しかしひとたび身についた政界の金権体質はあと 日目 (型) 毎rに一民らず、〈「日に及んでいろ。 j 典㈹配金のメリット
出 一つには、「投資」と「保険」である。一見「捨 五 八記者にあげたカネは、田中内閣誕生時に紙上で「今太閤」「庶民宰相」ブームを演出した例に代表されるような、お 追従記事となって田中を喜ばせたものである。 この考え方の根底には、|蓮託生、同じ穴のムジナ意識が強烈に働いていろ。金を媒体として相手との間に強い信頼 関係をうちたてることこそ、田中が金をバラまく際に計算するもう一つのメリットである。ロッキード蠣件で田中への 疑惑が高まりつつあった七六年三月当時、田中への国会喚問が具体的日縄にのぼりかけたとき、田中が「オレをやるな ら一蓮託生だ」と脅しをかけ、身に覚えのある野党議員を震え上がらせたそうである。気前よく野党に金をバラまく田 (記) 中の目的がどこにあるかを鮮やかに一水していろ。 考えようによっては、田中はたとえて言えば、溺れないために泳ぎ続けなければならないというように、企を集めて 常にこれを与野党の政治家、新聞記者、官僚等々にバラ撒いていなければならなかったかもしれない。立花隆氏が『文 芸春秋』の「田中角栄研究」で「これまで度々ジャーナリズムの話題になりながら、さっぱり解明されないままに終っ ている問題である。ウワサ、伝説のたぐいは沢山ある。ときとして〃黒い霧“という形で、その資金源の一端と思われ るものが明るみに出たことも、|度や二度ではない。そのたびに一つ一つの事件は大騒ぎされるが、それだけで終って しまう。はじめから、そんなことはできっこないと思ってしまうのか、田中角栄氏の金力の背景全体に取り組んだもの (〃) は、まだ出たことがない。」と述べているように、確かに田中はことあることに話題になるが、炭鉱国営疑獄以来、ロ ッキード事件まで拘置所の門をくぐることはなかった。これは筆者の推測の域を出るものではないが、これまで田中の カネにまつわる幾多のウワサが出ても、日常的に田中からカネを握らされている与野党の政治家、新聞記者などが鋭く 田中を追求できなかったのではなかろうか。したがって、田中は前述したように、常に後めたいカネにも手をつけなが 田中角栄政治に関する一考察 五九
ら集金しなければならなかったため、その一部はまたそれが発覚した時に自分に矢を引きそうな人々に恒常的にバラま いていたのではなかろうか。そういう意味では、やはり溺れないために常に集めたカネの一部は「保険」「先行投資」 という形でバラまかなければならなかったのかもしれない。 (1)立花隆「田中角栄と私の9年間」「文芸春秋』一九八三年一一月号一○|頁 (2)内田健一一一期西部適「危うし!民主主義」『文芸春秋』’九八三年一一一月号一八五頁 (3)西部邇「田中角栄の社会的費用」「中央公論』’九八一一一年一一一月号八一一頁 (4)立花隆「新・田中角栄研究」『文芸春秋』’九七六年九月号一三四頁 (5)田中角栄『私の履歴書』日本経済新聞社一○三-四頁 (6)田中善一郎『自民党体制の政治指導』第一法規出版一一九三頁
(7)白烏令『日本の内閣Ⅲ』新評論三一四頁
(8)(9)新潟日報社編『ザ・越山会』’四○頁 (、)立花隆『田中角栄研究上』講談社九三-四頁 (u)毎日新聞政治部「自民党-金権の構図』角川書店二○頁 (胆)藤原弘達『角栄、もういいかげんにせんかい』講談社一三五-六頁 (四)前掲『自民党1金権の構図』二一一頁 (u)城山三郎「エリートたちはなぜ堕落したか」「文芸春秋』’九八九年一月号九七頁 (通)「読売新聞」一九七六年八月一七日付 (通)自由国民社編集部編『田中角栄・全視点』自由国民社八一頁 (Ⅳ)関口孝夫「田中角栄私論』新日本出版社四六頁 (超)『読売新聞』’九七六年八月一七日付 (四)後藤基夫・内田健三・石川真澄「田中角栄論」『戦後保守政治の軌跡』一一八一頁 沖大法学第八号 六 ○(1) 、甲色榮耐驍宿の特徴のひとつは、「政治は力、力は数」「表決政治は一票足らなくても落選、一輪咲いても花は花だ。 (2) (3) これが人類が最後に到達した表決の原則」「田中派は横暴だなどと一一一一口われているが、民主政治は数の政治だ」という田 中自身の発言にみるように、「民主主義は多数決だ」と言って、とにもかくにも多数決で何もかも強引に押しまくって いくという「数への信仰」である。 因みにその異常なまでに拡大した田中派について一幣してみよう。表①は自民党五大派の勢力の比較である。田中派 の突出ぶりは一目瞭然であり、|強四弱の印象があまりにも強烈である。さらに表②は田中派の拡大の推移を示したも のである。その規模たるや従来のそれと比較した場合、もはや「異常膨張体」といった表現が適切かもしれない。
周知の如く、田中は「数の力」の信奉者であり、「数」をこよなく愛した政治家である。「政治は政策であり、政策
(”)立花隆「田 (妬)同書三五頁 (躯)関口・前掲(弱)関口・前掲『田中角栄私論』一一一三頁 (型)前掲『自民党1金権の構図」二五-六頁 (羽)立花・前掲『田中角栄研究』八五頁 (塑)前掲『田中角栄・全視点』八一頁 五)立花・前掲『田中角栄研究』八四頁 宛)田原総一郎『阿部・竹下にすんなり政権がいかない理由』光文社七一 立花隆「田中角栄研究-その金脈と人脈」『文芸春秋」一九四九年二月号一○一一頁 田中角栄政治に関する一考察 三派閥膨張策による党・政府支配のメカニズム 頁 一ハ’(4) を政治に反映するには力がいろ。その背景が派閥である」とする田中の考え方は、配下の派閥軍団を党内のおよそ三分 の一(最高時一四一人)を占める最大勢力にまで膨張させたのである。 田中は”数〃を誇る田中派の意味合いを、次のように「派閥株主論」としてぶち上げたことがある。「会社の勢力の 一割なら、これは”あてがい扶持〃でいい。一一割なら、|応の意見を聞く必要がある。三割近くになれば、その意見、
希望を間かざるを得えないのは当り前だ」このように会社経営と株式の関係を引き合いに出し、派閥拡大が党運営上い
友①自民党派閥勢刀 沖大法学第八号 鋤田中派分裂直前の数字 田中派「数」の推移 表②匡囹国
(注)①数字は各年末時点②矼年以降の数字は離党した田中元首相 「七日会」 (47.発足時9.12) 47年 を除く③参院の徳永正利、木村睦男 を離れていた間も除外 3 48年 49年|iiiii鑿=ナ
イフ‘
50 51 4 52年 53 54iii 「木曜クラブ」発足時 (55.1023) 55W、 56『1. 57;1. 58rlL 59『1. 60年 61IIB 犬が嘗匡反問にあり党圏踞 一ハーー 40 41 62.6.31W 11典)朝|]新聞政治部編『田中支配とその崩鄭朝日文庫370頁 衆院 参院 計 中派 宮沢派 中曽根派 安部派 河本派 無派閥 612850 866521 冊邪妬朋61 14 1 97611 88831 計 302 143 445かに重要であるかを力説したのである。たとえば、田中派分裂、崩壊直前の〃数〃は一四一人であった。衆参の国会議 員定数合計は七六四、うち一九八六年の衆参のダブル選挙後の自民党は四四六人。したがって、田中派一四一人 は、自民党内での占有率は実に約一一一一一一パーセントになる。田中のいう「三割近くになれば、その意見、希望は聞かざる (5) 昭和五八年暮れの総選挙での一一一一万票をロッキード事件一審判決への「けじめ」とした田中が、その後の戦略の 基本に据えたのは、派閥の拡大であった。 「政治は政策なり、政策を政治に反映させるには力がいる。その背景が派閥である」これは田中の政治哲学である。 その一方で、田中は「派閥の適正規模は八○人」ともいう。それはその規模を広げれば広げるほど、派閥メンバーに対 (6) する大臣ポストや党内での役員ポストなどの分け前は、当然少なくなってくるからである。にもかかわらず、時に強引 (7) ともいえる程の手法まで使って、時には妥協しながらも「異常膨張体」といわれるまでに狩り集めたのはなぜだろうか。 (8) その思惑について、さまざまな説がささやかれた。その中で最も有力な仮説は、「ロッキード事件への圧力」である。 執念が渦巻く政界という大海原に浮かぶ田中丸は、ロッキードという荒波を乗り切るためには、大きな船に仕立てなけ を得ない」数字である。 田中派は一四一人という従来の派閥の適正規模をはるかに超えた史上空前の最大規模の派閥となった。田中の思惑は、 大軍団のパワーをバックに自民党を制圧する。それによって、田中の意中の人物を総理・総裁のポストに就けさせてリ モート・コントロールする。そしてキングメーカーとして、総理大臣以下の閣僚メンバーを掌握する。これが田中の軍 ればならなかったのであろう。 H派閥膨張の政治的必要性 田中角栄政治に関する一考察 一ハーーー
さらに具体的にそれぞれの政権の人事、とりわけ法務大臣の人事についてみてみたい。田中は特に法相人事には露骨 に干渉した。大平内閣では古井喜実、倉石忠雄、鈴木内閣では奥野誠亮、坂田道太、そして中曽根内閣では奏野章をそ (、) れぞれ起用した。坂田以外は、田中の親友か親田中の政治家である。それぞれの法務大臣がいかに田中寄りの人間であ 団膨張の思惑だったのではなかろうか。田中のターゲットは、ずばり法相ポストであっただろう。 法務大臣は最高検察庁を指揮する立場にある。その指揮のなかには、最高検検事総長をはじめ高検検事長、地検検事 正など検察首脳の人事も含まれている。この検察首脳人事を掌握すると、刑事事件の摘発、さらには裁判などの訴訟で、 政治的圧力をかけることによって、手心を加えることが可能である。 田中が狙ったのは、首相、法相をコントロールすることによって、最高検など検察、最高裁など裁判所を、間接的に 支配する。これによって、|、二審を有利に展開するのがねらいであったとされる。 この方針に従って、田中は大平、鈴木、中曽根三代の政権をつくった。したがって、世間はこれらの内閣に「角影内 (9) 閣1大平内閣」、「直角内閣-鈴木内閣」、「田中曽根内閣-中曽根内閣」とずばりそのものの呼名をつけた。特に中 曽根内閣に対して、田中は脳梗塞で倒れる直前にも「『中曽根政権というのは、言ってみればゾウ(田中派)の背中に 乗つかったキツネのようなものさ◎ゾウは思うがままに歩いていくんだ。ゾウが嫌いだというのであれば、どうぞ、タ ヌキ(福田派Ⅱ当時)にでも、サル(河本派)にでも乗りかえてくれ』と一一一一口っていたそうである。この発言当時、田中 派は、すでに一二○人にまで膨張していた。それだけにゾウがその巨体を揺さぶれば、キツネはひとたまりもなく墜死 (、) することは目に見えていた。したがって、中曽根首相は、田中派に百パーセント依存することで政権を維持してきた」 のであろう。 沖大法学第八号 六四
ったかはその発言内容によってある程度まで知ることができよう。たとえば、倉石法務大臣は昭和五四年二月九日、
閣議後の定例記者会見で、ロッキード裁判にふれ三事件に)関係したといわれる人は私どもと懇意な人たちであり、
(、)公明正大で青天白日になられることを友人として念願する」と述べた。他ならぬ法務大臣の発言だけに、野党は「角影
内閣だ」「裁判官への見えない圧力ではないか」として一斉に罷免を要求したが、法務大臣が衆院法務委員会で陳謝して落
(過)着した。とくに秦野法務大臣に至っては堂々と田中擁護論を機会あることにぶっていたことは記憶に新しい。例えば、
『文芸春秋」の「秦野章法相独占インタビュー」で田中に批判的なマスコミを批難し、現職の法務大臣が刑事被告人を
(皿) 真正面から擁護したのである。このように、田中は法相人事に影響を与えることによってロッキード裁判に圧力を加えようとしたのではなかろうか、
ということがよく聞かれたものである。この点に留意するならば、やはり「派閥膨張」と「ロッキード裁判」とは無関
係ではなかったであろう。派閥膨張の推移も裁判の経過とある程度軌を一にしているように思えろ。又、直接裁判に影
響を与えることは困難としても、ロッキード裁判という重い十字架を背負わされていた田中にとって批判勢力を鎮静化
させるためにも派閥拡大は必要であったにちがいない。その他にも仮説としては、「田中復権」、「自前政権づくり」「政界再編成」があったが、これらはあくまでも「理
念型」であって、実際にはこれらすべてを複合したものかもしれないし、また視点をかえれば、ロッキード事件という
戦後最大の疑獄事件に直面した田中自身、田中派のじっとしてはいられない「焦躁」が、派閥膨張への原動力になって
いることも考えられろ。我々が分析できないのみならず、当の田中(派)自体がそのことは十分説明できないかもしれ
(巧) ない。 田中角栄政治に関する一考察 六五①田中派総合病院説
「田中派は総合病院だ.たちどころにどんな病人でも治せる」l田中自身がこう豪語してやまない。総合病院には、
内科もあれば、外科、産婦人科、精神科と、どんな病状にも対応できるエキスパートがいろ。田中派もさまざまな政治
(お) の分野の専門家がいろ、というのである。派閥が「総合病院」と化していることでどんなメリットがあるのか。何よりもまず陳情処理がしやすくなることを挙
げることができる。周知のように、わが国の政治は「陳情政治」であり、選華の荒波を乗り切れるかどうかは、陳情を
いかにうまくさばくかにかかっているといっても過言ではあるまい。「選挙区の陳情を処理するのに便利だ」、「選挙区の仕
事のしやすい派閥に入ることを決めた。国内政治を動かす力は田中派にある」というそれぞれの田中派入会国会議員の弁は、
(Ⅳ) あらゆる問題について陳情できる窓口が、田中派の人的構成の中にある、ということを示していろ。田中派の場合、中堅クラスが、自民党政調会の各部会(これが○○族といわれる各省庁親衛隊の指令部でもある)に
万遍なく配置されている。したがって、当選回数が若く、中央省庁に足場のない代議士たちも、この派閥に所属してい
れば陳情処理で戸惑うこともなく、選挙区に大手を振って帰れる仕組みである。地方首長も最近はこの辺の事情に明る
(畑)く、「ウチの先生が田中派だったら助かるのに」との声もあるようだ。「選挙区へ帰って東京に一民ってくると、またふ
(⑲) えろ。これは選挙区の一門ですよ。」と田中の一【がはずむのである。「財政事情の悪化は公共事業の削減となり、そもそものパイが小さくなってしまった。それだけに地方の争奪戦は激
化する一方。おっとり構えていては、くちが干上がってしまう。そういうとき、田中派なら、なんとかしてくれる・言 口田中派膨張の秘訣 沖大法学第八号 一ハーハ田中の勧誘のノウハウをもう少し詳しくみてみたい。田中は無派閥の高木正明参院議員を私邸に呼び、高木に「いつ までウロウロするな」と、強く田中派入りを迫ったという。田中は一方的にしゃべると、高木に「もってけ」といって、 分厚いふろしき包みを渡した。うむを言わせない勢いがあった。田中はその後も執勘に高木を呼び、田中は「選挙は大
丈夫か・カネは続いているか・困ったらいつでもいってこい」と繰り返しいった。まもなくして高木は後援会とも相談
一九八三年四月一一四日、田中派(木曜クラブ)事務所が砂防会館に移転し、その開所パーティーに出席した田中は、 素麺筆で自ら書いた一○人の新規入会候補者リストをポケットから出しながら、「これから増えるぞ」と上機嫌でいった。 三日後、近岡理一郎氏議士がまず「後援会から田中派入りを求められた」と入会した。さらに、田中は、渡辺栄一元建 設相ら三代議士の入会を図った。ところが、派内には「選挙のときからの同士ならともかく、中途入会は結束が乱れろ」、 「増やせばいいってもんじゃない」と抵抗もあった。にもかかわらず、結局、田中は三人の入会を押し切り、田中派を (釦) わば背に腹はかえられぬ…………春秋の筆法を46ってすれば、不況が田中派をふとらせろ、ということになるのである。」 このように、田中派は陳情政治の中で陳情をうまくさばくということで次から次へとそのメンバーを増やすことがで きたp田中派は増えれば増えるほど、陳情処理はますます容易になり加速度的に増えていったのではなかろうか。 ②積極的勧誘による膨張策 田中派の膨張について考えるさいに、田中自身およびその側近がかなり積極的に狩り集めていることも、兇逃がすこ とのできない大きな要素であるように思えるのである。まず田中自身の衆参両院の中間派・無派閥議員への勧誘からみ てみたい。 (虹) 二○人にした。 田中角栄政治に関する一考察 六七声を掛けた。 このように、田中派は、中間派・無派閥議員を入会させることによって大きくなった。ロッキ1ド事件後、派閥の
解散宣言をしていたが、一九八○年の秋には木曜クラブ(九三人)として再開、膨張策に転じたのである。以来、衆院一一一一、
参院八の計一二人が中間派・無派閥から入った。田中は一九八一年以降、組閣のたびに転入者のうち一人を必ず入閣させ
(麹)て処遇することで、無派閥組の入会に弾みをつけた。たとえば、一九七五年に田中派に入った江崎真澄(旧、永田派)は、
七六年一一一月の福田政権発足に伴って党総務会長に、同じく田村元(同)は運輸相にそれぞれ起用された。八○年に田 (型)中派入りした小坂徳三郎(無派閥)は、一九八一年一一月の鈴木改造内閣で運輸相ポストに就任していろ。田中の膨張策は
それだけにとどまらず、とりわけ、一九八一一一年末の総選挙前から候補の発堀、調整を通じての新人獲得に前面的に乗り出し (笏) たのであった。因みに同年の参院選地方区での初当選者一七人のうち八人は、田中派で占めた。 次に田中側近による勧誘策についてみてみたい。 二階堂はじめ、江崎真澄、小沢辰男らの幹部が、「できるだけ数を増やせ」という田中の命令一下、手分けして中間 派への勧誘に走り回ったこともある。「だれかいい候補者になる人材はいませんか。選挙費はこちら(派閥)持ち。肩 書きもちゃんと用意します。あなた、いかがですか、わが田中派から政界入りしては……」というふうに自称・田中派 スカウト部長・江崎真澄(田中派副会長)は、田中派の勢力拡張を目ざして東奔西走したのであった。 田中はロッキード裁判が本格化した昭和五四、五年頃から、非常な勢いで人材捜しに狂奔した。同派幹部が手分けし て、若手官僚、学者、ジャーナリスト、若手実業家、そして芸能人、タレント、地方議員などあらゆる分野の人たちに 沖大法学第八号 (淫) して、正式に田中派に入会したのである。 六八その中の主なものをあげてみると、まず田中派に入った理由は、「田中角栄先生のお人柄にひかれて」「田中角栄先 生の魅力にひかれ」「フランクで人間味のある魅力的な人柄にひかれて」というように田中個人の人間的な魅力にひか れて田中派に入った議員が多いのも事実であろう。また、一方では、「党の公認を取っていただき初当選。大変お世話 今の時点で、何故田{ (一 ケート調査を行った。 スカウトの条件は大変な好条件であった。立候補に必要な資金、つまり事務所開設費、後援会設立費、手足となって 働く地方議員の雇用費、数台の乗用車・宣伝力の購入費、さらには事前買収費など、選挙に必要な経費、五、六千万円 を田中はつかみ金のように用意した.「戦争には勝てソ.軍資金はムダに使うなょソ」lこういって無造作に手渡し た。しかも、その軍資金が底をつくころ、田中はまた目円の田中邸に招き寄せ、「この金は有効に使えよ。キミの使い 方では死に金になる。こうするんだ・・・…」と田中は選挙のノウハウつきで、追加支給するほどであった。 さらに、田中は毎月の生活費も、選挙資金とは別に支給してくれた。また、その選挙区ごとに相応しい肩書きを用意 した。たとえば、木曜クラブ会長・西村英一の秘書にしたり、建設省専門委員だったり、あるいは田中の政治団体顧問 など、選挙民受けしそうな「職業」を用意するなど、カネと肩書きは十分すぎるほどであった。勿論、確実に党公認候 補にしてもらえろ。まったく、エスカレーター方式で、田中派に乗かれば、黙っていても、そのまま国会議事堂に通じ、 (笏) 胸には金バッジが光る、という仕組みであった。 ③田中自身のパーソナリティー 「①あなたが田中派に入られた理由は何ですか。入ってよかったと思いますか。」「②田中派が増え続けています。 今の時点で、何故田中派だけが増え続けていろと思いますか。」「週刊読売」が田中派所属の国会議員一○三人にアン (”) 田中角栄政治に関する一考察 六九
政治評論家で、田中について多くの著作(そのほとんどは礼賛本と評されているが)を残した戸川猪佐武氏は、「田 中角栄という人間にみられる大きな特徴のほとんどは、やはり『遠山の金さん」というニック・ネームの中に、ことど 確かに、田中についての本(特に田中礼賛本)や評論、論文等々を読んでみると、人間田中角栄の「情」の部分や「面 倒みのよさ」が強調されており、そういう面での田中の人間的魅力というのは否定できないかもしれない。その手のエ ピソードにはこと欠かないが、たとえば、中曽根派の野中英二代議士の場合など、母親がガンで亡くなって、ヒッソリ と内輪の葬儀を営もうとしていたところへ、真先に田中が姿を現わして、「母親を亡くすというのはいくつになって寂 (記) しいもんだよ」などといって励ます。それだけで野中は田中派に鞍がえしてしまった。 社会党の代議士、大出俊は、「やっぱりあの人は、物の考え方の焦点が普通の人と違うんですね。ケタが違うという のか、とにかく刑事被告人といわれて世間から指弾されても、あの集団がまとまっているのは、角さんの人柄に原因が (羽) あるんでしょう。」と語っていろ。さらに、その大出俊を参らせたのは、大出が夫人を亡くしたときのこと、「通夜の とき自宅で同僚議員と酒を呑んでいたんですが、そこへ私の秘書の田中が『田中さんが来た」という.…・…・…葬儀に来 ると目立つし、私への迷惑になると考えたんでしょうが、これには本当にビックリしました。あきれかえったといった 方がいいかもしれない。予想しがたい発想というしかありません。長い間、立場とすれば敵対関係にあった人ですが、 (釦) 人間としてはとっても魅力的な人物です」と語るように人を引きつける特殊なパーソナリティーの持ち主であったので あろう。 派入りの動機のようである。 になった」というように田中が党や政府の中で重要なポストに就いているときに、選挙や陳情で世話になったのが田中 沖大法学第八号 七○
とく集約されているようである。義理と人情とを踏まえた任侠精神で事業にも政治にも人間にもぶつかっていく、これ
らは少年期からの苦学力行の人生体験が磨きあげた人間性の特質といえるだろう。:……・新潟県人は古くから、『頼ま
れれば越後からでも米つきにくろ』という諺のとおり、郷士的に先天的に世話好きなのかも知れないが、田中はこれに
輪をかけて面倒みがいい。気がつく人間だ。田中は、義理と人情とでその下に人を集め、大をなしてきたという印象で
(皿) ある。」と、人間、田中角栄の魅力について述べた。以上で田中派の膨張の要因を十分に説明しつくすことはできない。そこで次に説得力という点では問題はあるが、派
閥膨張の何らかの要因になっていろと思えろ、思想的中立性Ⅱ脱イデオロギー集団としての田中派、田中自身の持病で
あるバセドウ氏病との関連性についてふれてみたい。 。自民党内での思想的中道性一般的な言い方をすれば「大平派、三木派Ⅱハト派」とか「岸派、福田派、中曽根派Ⅱタカ派」とか「大平派、田中
派Ⅱ日中派」、「福田派Ⅱ台湾派」といった大雑把な分類をすることができた。この分類は、派閥の領袖が明確な主張
の持ち主であったり、あるいは強固なイデオローグがその派閥に所属していろということを意味した。たとえば日中国
交回復がある。これをめぐるイデオロギー上の対立は、派閥間の対立にオーバーラップしていた問題だといえる。この
「日中問題」は、田中が一九七一一年の総裁選で選出された際に、田中、大平、三木、中曽根四派のいわば「接着剤」の役割を果したともいえろ。しかし、この時、田中が日中復交というイデオロギー絡みの問題に本当に熱心だったのかは
疑問視された。というのは、佐藤時代にはさしたる発言もしていないからであった。ただ、この問題なら中曽根派も含 ④その他の諸要因 田中角栄政治に関する一考察 七 一めた四派の合従連衡ができ、かつ福田派締出しになる、という嗅覚は鋭く働いたに違いない。これをイデオロギー上の
無節操とみるか柔軟性とみるかは評価の分かれるところである。おそらくプラグマティックで超現実的な田中にとっては両方とも当てはまるかもしれない。田中のイデオロギーに対処する仕方は、たとえばタカ派イデオロギー集団である
「胄嵐会」に対する扱いぶりの中にみられろ。すなわち、田中は、内閣の大方針である日中国交回復の推進・拡大に徹 (鑓) 底的に反対する青嵐会に対して、裏で資金援助をしていたといわれる。 田中(政治)のこの「脱イデオロギー」、「思想的中道性」が、派閥の膨張に何らかの影響を与えたと考えることは可能であろう。政治評論家の俵孝太郎氏は、田中派の膨張を「自民党の中で、もっとも平均的な価値観を持つ議員集団
である」からである、と説明した。つまり、田中派に入会してくる議員は、概して、はじめから福田派や中川派の持つ
強烈な保守イデオロギーには違和感を抱いていた。より正確にいえば、違和感を抱いていたからこそ、福田派や中川派
に入らず、中間的な立場に身を置いてきたとえ考えられろ。中間派・無派閥の代議士や、複数の派閥から推薦されて当選した参議院議員が、福田派や中川派や三木派に入らず、
田中派・大平-鈴木派的な色彩がいつの間にか強まり、やがて田中派に入っていくことになるのは、元来、自民党とい
う枠の中で右でも左でもない議員たちが中間にたまっているのだから、彼らがイデオロギー色の強い福田・中川派や理 想家肌の三木派に分極化せずに「政策が(保守党内の枠内で)中道である」田中派に流れろ、というように考えること このように俵氏は、田中派の膨張を説明した。確かに氏の論調に大いに共鳴すべきところもあるが、しかるに、なぜ 派閥の膨張が「ロッキード事件・裁判」以後に加速度的なったのか、という点に留意するならば、派閥膨張と思想的中 (露) もできろ。 沖大法学第八号 七 一 一道性の関連は薄らいてくるのではなかろうか。 す》持病・バセドウ氏病の影響 田中に秘書として二一一一年の長さにわたって任えた政治評論家の早坂茂三氏は、田中を理解するためには、バセドゥ氏 病は不可欠の判断要素であると指摘した。 「われわれは病人に支配されている」(『文芸春秋』昭和五二年一月号)、『世界史を動かした病人たち』(新潮社) という論文や本の中で、現代の世界を動かしてきた指導者たちは、毛沢東(脳血栓)、ケネディ(アジソン氏病)、ニ クソン(精神神経症)、ポンピドー(ヤーラー氏病)等々をはじめ、大なり小なり、そのほとんどが病気であった。そ の病気は、指導者たちの国内外の政策決定のプロセスに大きく影を落としたのではなかろうか。どんな強靱な人間にし ても生身なんだから当然である。人間の生理から独立した抽象的な、論理的な判断や決定などというものはあり得えな (型) いかもしれない。程度の差はあるにせよ、その影響は必ずあるであろう。したがって、田中の派閥膨張もその根底には 氏のバセドウ氏病が何らかの影響を与えているのではなかろうか。 精神分析学的研究によると、この病気の患者は、人の歓心をかうために、徹底的に人の面倒を見ろ。他人に対して気 を使いすぎ、自分の意に反してでも人に尽し、自分に全面的に依存するような人をできるだけ自分の側に置くことで精 神的安定を求めようとするという。さらに、時期尚早な独立へのあがきを持ち、常に昇進しようという野望を抱く。こ (弱) れは病的ではあるにせよ、派閥の領袖になるにピッタリの性格である。 このように考えるならば、田中派の膨張と田中のバセドウ氏病との間に何らかの関係があるのではなかろうかと思い、 その要因の一つとしてあげておきたい。しかし、まだまだ論証不足であることは否めない。 田中角栄政治に関する一考察 七
月一九日号二七頁)。 (焔)田中角栄緊急インタピ
(7)討論高畠通敏・内田健三・岩見隆夫「その政治力の根源を評定する」『エコノミスト』一九八一一年一月五日号五七頁八○年
(6)前掲『田中角栄・全視点』一一四一頁 (5)小林吉弥『角栄の歯ぎしりが聞こえる』文芸春秋社九九-一○○頁 (4)自由国民社編集部編『田中角栄・全視点」自由国民社一二四頁 (3)「日本経済新聞」一九八三年一月一一五日付 二月、小坂徳三郎はじめ七人が一挙に入派したpこれは大きなニュースになったが、聞くところによると、各人に勧誘のた めいろいろな条件を飲んだりしている。たとえば、小坂については、いわば派内での行動の自由というか、あの大きな派閥の 中で、さらに小坂グループ的なものがあってもいいとか、という話もあった。 (8)新潟日報社編『ザ・越山会』一一一二八-九頁 (9)菊地久『自民党派閥』ぴいぷろ社一五○-一頁 (、)前掲『田中支配とその崩壊」三四八1九頁 (u)菊池・前掲「自民党派閥』一五一頁 (辺)「朝日新聞」’九七九年二月一○日付 (過)「朝日新聞」一九七九年一一月一五日付(皿)秦野章法相独占インタビュー「大新聞は田中角栄をリンチにした」『文芸春秋』一九八三年一一一月号一一○頁
(狙)前掲『田中角栄・全視点』’’’五頁田中派の膨張について、田中自身の見方はこうである。①自分がふやしたくてふやした
のではない②最近の自民党支持者、とくに若者は総裁選びなどで態度不明の議員を嫌う。このため、無派閥議員たちはどこか への帰属を希望していろ。③田中派がとくに多額の資金援助をしているわけではない④しかし、田中派は総合病院のようなもので、各種の政治的スペシャリストである構成員たちがそれぞれに選挙や日常活動で助け合っていろ。だから、田中派への入
会希望者が多いのは当然である(田中角栄緊急インタビュー「闇将軍政界君臨の秘密を全公開!」『週刊朝日」’九八一年六
(2)同書二一一一六頁 (1)朝日新聞政治部『田中支配とその崩壊』朝日新聞社三四九頁 沖大法学第八号1-「闇将軍政界君臨の秘密を全公開!」『週刊朝日」一九八一年六月一九日号一一○-一頁
七四(、)前掲『田中角栄・全視点』二一一一頁 (四)広瀬道貞「自民党の利益配分システム」『世界』一九八一一年四月号四八頁 (四)前掲「闇将軍政界君臨の秘密を全公開!」一一○頁 (卯)坪井清明「田中派かくし五候補の打算と実力」『文芸春秋』一九八一一年五月号一一一八頁 (皿)前掲「田中支配とその崩壊』二一一一四1五頁 (羽)同書一一三七頁 (型)井芹浩文『派閥再編成』中央公論社一六九頁 (配)前掲「田中支配とその崩壊』二三八-四○頁 (記)菊池。前掲『自民党派閥』’五三-五頁 (汀)「田中派一○一一一人に直撃アンケート」「週刊読売』’九八一年十月一八日号一一一一一頁 (詔)高野孟『田中角栄の読み方」ごま書房六一一頁 (、)(卯)石川伊佐夫「田中角栄運命を変えた決定的瞬間」『文芸春秋』一九八一一一年一一一月号一一一一○頁 (皿)戸川猪佐武『田中角栄伝』鶴書房一一六一-二頁 (犯)井芹・前掲『派閥再編成』’五○-|頁 (粥)俵孝太郎「なぜいま〃田中“なのか」『文芸春秋』一九八一年八月号九六-八頁 (鍵)早坂茂一一一『オヤジとわたし」集英社一一一○頁 (妬)立花隆「田中角栄独占インタビュー・全批判」『文芸春秋』’一一五頁 (頭)同書一一三五-六頁 (1) かつて、自民党長老の大野伴睦は、「前尾繁三郎は英才、愛知撲一は秀才、田中角栄は異才じゃ」と、言ったそうで 田中角栄政治に関する一考察 四田中政治の現代曰本政治へのインパクト ーあとがきにかえてI 七五
ある。前尾、愛知は政権の座につけず、田中は最年少の五四歳の若さで政権を掌握した。田中は一種の政治的天才であり、
戦後政治最大の風雲児であった。田中は制度の欠陥、弱点を見抜くのに素早く、戦後政治の仕組みを巧みに利用して、自分の目的を達成しようとした。
しかもそれに良識や常識でもって対処するのではなく、うまく制度をくぐり抜ける一種の〃脱法行為〃的なやり方で対
(2)処するのであった。これはまさに異才政治家・田中角栄のなせるわざであった。ここでは、田中政治の日本政治へのイ
ンパクトを「拝金主義思想」と「派閥膨張による党・政府支配のメカニズム」との関連において述べてみたい。
まず拝金主義の日本政治へのインパクトからみてみよう。 目下、わが国においては、「リクルート疑獄」に端を発して、「政治家とカネ」の問題が大きくクローズ・アップされ、国民は金銭感覚の麻輝した政治家に指弾の矢を引き、政治(家)に不信の念をつのらせている。「拝金主義思想」
においてみた如く、田中の金銭感覚は異常であり、その後の日本の政治、特に「政治家とカネ」という点で、大きなイ
ンパクトを与えたにちがいない。総裁選の際は、「角福戦争」として今日まで語り継がれ、札束合戦と言われた程、金
をばらまいたと言われる。日常的にも派閥の領袖として他派よりかなり多額の金を配った。田中内閣以来、自民党の国
民政治協会からの政治献金は急膨張し、選挙には莫大な金がかかるようになり、「金権選挙」の風土をつくりあげた。また、
特筆すべきは、「拝金主義」でもって国会審議のあり方にも大きな影響を与えたことであろう。戦後の国会史をふり返
れば、国会が開かれるたびに与野党の「乱闘劇」が演じられた。中でも破壊活動防止法(昭和一一七年)、教育二法(三 一年)、警職法(’’’’一|年)、そしてさらに新安保条約(一一一五年)をめぐる攻防戦の凄じさは、今でも語り草となってい る程である。 沖大法学第八号 七六(5) まず第一に、派閥の規模である。かつて川島正次郎は、「派閥の適正規模は五、六○人」といった。田中派はその適