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生の直下にある死

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Academic year: 2021

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■ 61 ■ ままに必ず死ぬのに、なぜ人は生きなければならな いのか。幼い私にはあまりに難問だった。  死とは何かと問うことをやめればいいとも考えた が、この問いはあまりに圧倒的な力で私に迫り、一 度考え始めたこの問いに目を塞ぐことはもはやでき なくなった。死について知るためには医学を学べば いいと思ったが、医学は身体のことしか扱わず、一 般的な死について知ることはできても、他ならぬこ の私の死については何も教えてくれないと考えた私 が哲学を知るまでにはなお長い歳月を費やした。早々 に医学を学ぶことは断念したが、その頃精神医学の 存在を知っていたら、私の人生は大きく変わってい たかもしれない。

生きていながらの死の体験

 死が人生のはるか先にあるというのであれば、死 について今考えるのをやめることはできるだろう。 しかし、実際には、死は生の直下にある。  死は生の直下にあると私がいう時、その意味は、 一つには、死を恐れる人にとって、死が予期不安と して生の中にあるということである。死の恐れは死 そのものではないが、それでもこの恐れに対して何 らかの態度決定をしなければならない。  死のことを一切考えないというのが一つの態度決 定である。死について考えないのは死が怖いからで ある。しかし、死について一切考えないのは、怖い ものを見ないために目を瞑ってやり過ごそうとする 子どものようである。目を閉じても怖いものは消え ない。  エピクロスは次のようにいっている。 「死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいも のとされているが、じつはわれわれにとって何もの でもないのである。なぜかといえば、われわれが存 するかぎり、死は現に存在せず、死が現に存すると きには、もはやわれわれは存在しないからである」⑴  他者の死を目にすることはあるが、自分自身の死 は私が死んで初めて体験するのだから、生きている 間は死は私にとって存在しない。そして、死んだ時 は私は存在しない。だから、死は恐ろしいことでは ない。そうエピクロスはいおうとしているが、話は そんな単純ではない。エピクロスがいっているのと は違って、死は生の直下にあるからである。

私の死との出会い

 私は小学生の時に、祖父、祖母、弟が一年内外で 次々と病気で死ぬという経験をした。当時の私の理 解では、死はすべてが無になるということだった。 今は意識があって考えたり感じたりしていることが すべて無に帰してしまうことがわかっているのであ れば、生きることには何の意味もないのではないか。 そんなことを私は一生懸命来る日も来る日も考えた。 こんな恐ろしいことが待ち受けているのに、大人は そのことに気づいていないかのように笑って生きて いることが私には許せなかった。  人生で初めて死に対峙した時、世の中には答えの ない問いがあるということを私は知った。死者はこ の世に戻ってくることはないので、死とは何かを知 ることはできないはずである。死が何かを知らない

生の直下にある死

Death lying beneath Life

京都聖カタリナ高校

 岸見 一郎

Kyoto St. Catalina High School  KISHIMI Ichiro

シンポジウム

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■ 62 ■ がいる。アドラーは死や病気を恐れることは、どん な仕事もしないですませるための口実だといってい る⑷。パスカルはそれを死の不安と直面することか ら目を背けるための気休め divertissement(慰戯) と呼んでいる⑸。死の恐怖を誇張し意識を死に向け ることですら慰戯になる。死にだけ意識を向ければ、 向き合わなければならない人生の課題から逃げるこ とができるからである。  人生の課題から逃げることの目的は、課題に取り 組んで失敗することで自尊感情や威信を失わないこ とである。課題に取り組まないための理由は何でも いいが、死の恐れや不安を持ち出せば大抵のことは しないですむ。死ねば課題に取り組まないですむと まで思う。その場合、望んでいるのは、死ではな く、自分が直面する課題を放棄することである。

真性の死問題

 人生の課題から逃れるために必要とされる死の恐 れは、人生の課題に立ち向かう勇気を持てれば消え るだろう。しかし、それでもなお、人は生きている 限り死の問題から離れることはできない。  死があるのに目を瞑って見ないようなことをした り、自分だけは死なないと思うのでもなく、さりと て絶えず死にとらわれない生き方はできないのか。

絶対他者としての死

 死は既知に還元することも属性化することもでき ない。また、理解(包摂 comprendre)することも できないという意味で他者である。  死の恐れから逃れるために、死を無効化すること がある。本当は死んで〈ない〉と理解することであ る。生きている時とあり方は変わっても、無になる のではなく、何らかの形で残る、また、この世から あの世への移行、旅のようなものであると考えるの である。  しかし、他者としての死は生と連続したものでは なく、絶対的な断絶があり、既に知っていることを 元にイメージすることはできない。このように死は 未知のもの、理解できないものであるが、死は怖い 敵のような存在ではない。  死を怖いものと見ることで人生の課題を回避する 人がいることを先に見たが、誰も自分の死を経験し  生きている限り死そのものを経験することはでき なくても、死を先取りして経験できないわけではな い。それは他者の死を経験することによってである。 生前全く関わりがなかった人であれば、その死を聞 いても心は揺れ動かないが、関わりがあった人、と りわけ親しくしていた人の死を聞けば大きな悲しみ に襲われる。親しい人の死は、自分の一部が死ぬの も同然だからである。八木誠一のフロント理論を援 用すると⑵、人は自分だけで完結しているわけでは なく、他者に開かれる面(フロント)がある。その フロントは破線であり、その破線が他者のフロント を塞ぐ。自分のフロントも他者のフロントで塞がれ ている。他者の死は、自分のフロントを塞ぐ他者の フロントが消えるということである。  死の直後は、死者のことが心から離れない。しか し、時の経過とともに、毎日泣き暮らしていた人で あっても、死者を時々にしか思い出さなくなり、や がて忘れてしまう。記憶から消えることが、死後、 人が無になるということである。死んだ人について このような経験をする時、生きていながら、死に先 行して死者となった自分を見ることになる。  生きている間に、親しい人の死を経験を何度も重 ねるので、その度にたとえ普段は死について全く無 自覚に生きている人であっても、死のことを思わな いわけにはいかない。

死と向き合う態度

 子どもの頃、私の近くにいた大人は死のことなど 全く念頭に置いていないように見えた。後に、ヴァ イツゼカーが、人生の最盛期にある壮年の人が死に ついて考えないのに、子どもや老人は死について考 えると指摘しているのを知って面白いと思った⑶  壮年の人が死について考えないのは、自分だけは 死なないと考えているからである。たとえ瀕死の重 傷を負っていても必ず助かるという希望を持ってい る。死刑を宣告された人は、助かるかもしれないと いう希望を持てないという意味で、瀕死の重傷を負 っている人よりも、その苦痛は大きく残酷だといわ なければならない。

人生の課題からの逃避としての死の恐れ

 他方、いつも死のことばかり考えて生きている人

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■ 63 ■ 死状態であっても、家族にすれば生きている時と何 ら変わらないのと同じである。人はその意味で死後 も生者との関係の中で不死であり続けることができ る。

死のあり方によって変わらない生

 死後の人がどんなあり方をするかは今の問題では ない。たとえ、死がどんなものかわからなくても、 どんな死がわれわれを待ち受けているとしても、今 の生き方を変えるのはおかしい。  死がどんなものであっても、生き方を変えないた めには、どんな生き方をすればいいだろう。

今日という日を今日のためだけに生きる

 メメント・モリという言葉は「死のことを絶えず 思え」「死ぬことを忘れるな」という意味だが、死 について全く考えないのでも、死のことを絶えず意 識を向けるのでもなく、生きることはできる。  もしも日々が満たされていれば、明日のことも考 えないだろう。反対に、今日という日が満たされて いなければ、明日に賭けるしかないと思うだろう。 ちょうど遠距離恋愛をしている二人が、共に過ごし た週末に満足できなければ、次に会う時に賭けるよ うにである。満たされた時を過ごせた二人であれば、 別れてからずいぶん時間が経ってから次に会う約束 をしていなかったことに気づく。そう気づいた時も 不安になることはない。  日々満たされて過ごしていれば、もちろん、その 満たされた日が終わることを残念に思っても、死ぬ 日がくることばかり思って生きることはないだろう。  人生においては、先のことを考えて待たなければ ならないことは多々あるが、死だけは待たなくてい い。死を待たずに、今日できることに専心すればい いのである。  一度は死にかけたような経験をした人はあると思 う。しかし、死にかけたこと、また、いつか死ぬこ とも忘れて(これは死という現実から目を逸らすと いう意味ではない)、今日という日を今日という日 のためにだけ生きることができるようになれば、死 がくることを忘れることはできなくても、死にとら われることなく生きることができるようになる。 たことがないので、死は「深い木立の闇」⑹のよう に思えるが、死が本当に怖いかは自明ではない。  プラトンがいうように、死はあらゆる善きものの 中で最大のものかもしれない⑺。もしも死が怖いも のだと思っているとすれば、それは知らないことに ついて知っていると思っているということである。  他者を敵であると見るのは、他者との関係に入っ ていかないためである。他者は敵ではなく仲間であ ると見ることで、初めて他者との関係の中に入って いくことができる。他者としての死も怖い敵である とは限らない。他者が自分と敵対するのではなく自 分を完成させるように、死も自分を完成させる。そ のように思えた時、死は怖いものではなくなる。

生の一部としての死

 死はこのように絶対他者であるが、それでも死だ けが特別なものではない。避けることができず対処 しなければならない課題という意味で、死も他の人 生の課題と基本的には同じ態度で臨まなければなら ない。  死が間近に迫った時、それまでの生き方を大きく 変えなければならないとしたら、それまでの生のあ り方、生き方に問題があったのではないだろうか。

生のあり方を変えない死

 ほめられることを期待しないで生きてきた人であ れば、たとえ来世のようなものがなく、現世で報わ れなかった分が報われることがなくてもがっかりす ることはないだろう。  叱られたり、罰せられたりすることを恐れて生き た人は、自分が犯した罪が発覚し、死後罰を受ける ことになるかもしれないと恐れるかもしれない。  私自身の経験でいえば、おそらく私は完全に消滅 するだろう。しかし、希望がないわけではない。死 者はもはや知覚的に知ることはできないが(見るこ と、声を聞くこと、触れること)、死者を思い出す 時、その人は現存するのである。生者が死者のあり 方に関係なく、現存していると思えるのは、ちょう ど母親が子どもの胎動を感じた時はもとより、胎動 を感じる前に妊娠を告げられた時、たとえ生物学的 にはまだ「もの」であっても、親にとっては子ども は明らかに「人格」(パーソン)である。また、脳

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■ 64 ■ を自分で見ることができなくても、後世に何かを残 すことが人に不死を約束する。  入院中、私は主治医から「本は書きなさい。本は 残るから」といわれた。これは私は残らないという ことだが、生きる励みになったというのも本当である。  残すものは形になったものでなくてもいい。内村 鑑三は、誰もが残せるという意味で、「最大」遺物 は、お金、事業、思想ではなく、生き方であるとい っている。しかも「勇ましい高尚なる生涯」である といっている⑽  しかし、この「勇ましい高尚なる生涯」を送った 人は、何か大きな偉業を成し遂げた人ではない。時 に自分が直面する課題から逃げたくなることがある。 逃げないで課題に取り組むためには勇気がいる。そ のような勇気を持って人生の課題に取り組んだ人こ そ「勇ましい高尚なる生涯」を送った人である。  生きている時に、人生の課題に勇気を持って立ち 向かってきた人は、死という課題からも逃げないだ ろう。  生きている時も死ぬ時も課題から逃げないために は勇気がいる。アドラーはこういっている。「勇気 は伝染する」⑾。勇気を後世に伝えていくことが不 死の一つの形であるといえる。 〈注〉 ⑴ エピクロス『エピクロス 教説と手紙』出隆・岩崎允胤訳、 岩波書店、1959年、67頁 ⑵ 八木誠一『ほんとうの生き方を求めて』講談社、1985年 ⑶ ヴァイツゼカー『パトゾフィー』木村敏訳、みすず書房、 2010年、375頁 ⑷ アドラー『性格の心理学』岸見一郎訳、アルテ、2009年、 92頁 ⑸ パスカル『パンセ』139、171 ⑹ ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳、中央公論社、 179頁 ⑺ プラトン『ソクラテスの弁明』29a-b ⑻ アリストテレス『形而上学』Θ巻1048b18-35など ⑼ キケロー『老年について』二九頁、中務哲郎訳、岩波書店、 2004年、29頁 ⑽ 内村鑑三『後世への最大遺物』岩波書店、1946年、54頁 ⑾ Adler, Adler Speaks, Stone, Mark and Drescher, Karen

(eds.), iUniverse, Inc., 2004, p.35.

人生についての見方

 人生を誕生から始まって死に終わるという直線的 な見方は、人生についての唯一の見方ではない。  アリストテレスは、キーネーシス(動)とエネル ゲイア(現実活動態)について次のように対比して 論じている⑻  キーネーシスにおいては、始点と終点があり、こ の動きはできるだけ速やかで効率的であることが望 ましく、目的地に着くまでの動きは目的地に達しな かったという意味で未完成で不完全である。  これに対して、エネルゲイアにおいては、「なし つつある」ことがそのまま「なしてしまった」こと である。その動きは常に完全で「どこからどこまで」 という条件とも、「どれだけの間に」ということと も関係がない。  例えば、ダンスは踊ること自体に意味があるので あって、どこかへ行くためにダンスをする人はいな い。音楽が止まればダンスも終わるが、踊っている その時にダンスの動きは完全であり、どこかに到達 したかどうかは問題にならないし、もちろん、どこ かに行くためにダンスをする人はいない。  人生はこのエネルゲイアに似ている。効率的に生 きても意味はない。人生をキーネーシスではなく、 ダンスの動きのようなエネルゲイアと見れば、いつ 生を終えることになっても生が不完全であるわけで はなく、若く亡くなった人についていわれるような 「道半ば」ということもないのである。  人生が旅に喩えられることがある。旅は家を出た 瞬間から始まる。時間は常とはまったく違った仕方 で流れ始める。その時々がそのまま旅である。旅に おいては、通勤のように効率的に移動することも必 要ではない。目的地に着かないこともある。  人生もその到着点だけのことを考えて生きても意 味はない。死は到達点であり、人生の最後、死に行 き着かないことはありえないが、生き急ぐことも、 いつも死のことばかり考えて生きる必要もない。

不死の一つの形

 キケロが、スターティウスの「次の世代に役立つ ように木を植える」という言葉を引いている(『老 年について』)⑼。もちろん、これは比喩だが、結果

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