• 検索結果がありません。

大江健三郎のアルバイト小説-習作「火山」から「運搬」へ-

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "大江健三郎のアルバイト小説-習作「火山」から「運搬」へ-"

Copied!
14
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

大江健三郎のアルバイト小説-習作「火山」から「

運搬」へ-著者

高橋 由貴

雑誌名

日本文芸論叢

19

ページ

42-54

発行年

2010-03-31

URL

http://hdl.handle.net/10097/55031

(2)

大江健三郎のアルバイト小説

-習作「火山」から「運搬」 へー

一、大江健三郎のアルバイト小説 一九五七年に作家として活動し始めた大江健三郎は、アルバイト に題材を採った小説を矢継ぎ早に書き下ろしてい-。出世作「奇妙 (-)(2) な仕事」(一九五七)、文壇デビュー作「死者の香り」(一九五七)、 「石膏マス (一九五八 (一九六四 )うーくらク 」(一九五七)、「戯曲 動物倉庫」(一九五七)、「運搬」 (6) 「後退青年研究所」(一九六〇)、「空の怪物アグイIL と、大江の小説家としての始発にアルバイトというモ チーフが不可欠であったのは間違いない。では、それはなぜたった のだろうか。 本稿では、アルバイト小説の一つである「運搬」を取り上げ、そ の内実を検討すkoさらにこの「運搬」を、東京大学学友会雑誌『学 園』の銀杏並木賞受賞作であり、学生の党運動と農民の外国軍基地 反対運動という二つの政治運動を批判的に描いた大江の習作「火山」 (8\-(一九五五)と比較することで、初期大江文芸がアルバイト小説群 に結実する筋道を捉えたい。

高 橋 由 貴

ちなみに大江「火山」が銀杏並木賞を受賞した年のノミネート六 作品のうち、アルバイトに題材を採った小説は二編あり、この時期 の学生の書-小説の題材としてアルバイトは決して目新しいもので へ9一 はな-、むしろありふれた小説のモチーフでさえあった。政治的な エピソードを連ねる「火山」と、学生小説の枠組みとしていささか 平凡なアルバイトを題材にした「運搬」との間には、政治的なモチー フの棄置といったある種の懸隔があるように見えるが、両者はむし ろ同じ枠組みを共有しており、そこには一貫した文学的営為が存す るように思われる。 本稿の目的は、学生運動を批判的に描-「火山」と、アルバイト 小説「運搬」の両テクストの分析を通じて、始発期における大江文 芸の様相を明らかにすることにある。

(3)

二、アルバイト小説としての「運搬」 大江の初期小説は、いずれもプロットがストーリーよりも際だっ て目につくため、先行論では、アルバイトというストーリーが着通 され'大江自身が次のような文章で提示した「日本の学生」 の形象 化としての「監禁状態」というモチーフをどう解釈するかをめぐる 議論に終始している。 僕はこれらの作品を一九五七年のほぼ後半に書きました。監 禁されている状態、閉ざされた壁の中に生きる状態を考えるこ とが、一貫した僕の主題でした。/-中略-/僕が日本の学生 の消極的・否定的側面を強調するという批判には、人間の積極 的・肯定的側面をえが-のにふさわしい小説形式、長篇を書-(用 ことでこたえたいと思います。    『死者の香り』「後記」 「監禁状態」や「閉ざされた壁の中に生きる状態」とは何を指す か、その内実は論者によってまちまちである。「時代閉塞」を描き (〓) 出したものとする松原新一、サルトルやカミュといった実存主義の E5[ 影響を見る一条孝夫、小説テクスト内の「閉ざざれた」空間を見よ へ高)(_ 4) うとする利沢行夫や渡辺広士、「軽い欲求不満程度のもの」と見る )膿面 柘植光蒙など、「監禁状態」というモチーフは、専ら小説の設定や 動機の出所のみが探られ、あるいは時代的閉塞や主体の孤立と安易 に結びつけられ、古びた動機としていまや等閑視されている。だが、 そのモチーフを、当時のイデオロギーと結びつけて早計に裁定を下 す前に、まずこの小説の構造自体を分析すべきだろう。 「運搬」の概略は、法科の大学生「僕」が傭主にアルバイトとし て雇われて仔牛の肉の密売に加わり'自転車の荷台に肉を括りつけ て冬の夜道を走る仕事に携わるが、「僕」は一緒に自転車を漕いで いた傭主の男ともども崖下へ転落し、最後は肉をつけ狙う野犬の群 れに囲続されるというものである。二箇所の行空きによって区切ら れた三軍構成が取られており、それぞれ、仔牛の解体からその肉を 自転車で運びたすところまで ([-])、仕事の順調な滑り出しの部 分 ([2])、仕事が挫折するまで ([3]) が描かれている。 「運搬」テクストの構造は、仔牛が屠殺される[1]の筋立てが、 人間が野犬に囲まれる [3] の部分で「仔牛同然」 の状態になる話 へと転化する。一方的な被虐の対象になることが「皮を剥がれる」 という言葉で象られることにより、屠られる仔牛と野犬に囲まれ「仔 牛同然」になる人間の両者が比喩の次元で結びつけられる。このプ ロットが、当初順調だったアルバイトの挫折という、いささか類型 的な時系列的展開の中で統合される。 仔牛の身体と「僕」 の身体、二つの身体の変容をめぐる物語の構 成を支えているのか'先行論でしばしば独特と評されてきた文体で ある。 皮を剥がれた仔牛のまわりで冷たい夜の空気が小さ-赤らん でいた。コンクリートの床にぐったり横たわった仔牛は僕らの 視線をうけてしだいに速度をましなから縮小してゆくようだっ た。僕らは仔牛の躯のたてる厚ぼった-快楽的な匂いに胸腔を 四三

(4)

をふくらませ、それから音をたてて白-凍る息をはいた。床に 片藤をつき、仔牛の持主は彼自身が屠殺した仔牛の、脂と肉の あざやかに美し-ついた前肢を、鳥が翼をひろげろように広-ひらいて見せた。彼は太-短い指を牛の柔軟な筋肉のはざまに ねじこもうとしたり、爪の先であらわになった肋骨の上の薄い 脂をこそぎおとしてみたりしていた。僕は彼が、飼料をふんだ んに食べ駈けまわり、不意に跳躍した可愛い仔牛を僕らにひき わたすことを今となってはかすかに悔いているのかもしれない と考えた。しかし彼はふいに首を起すと事務的で力強い声で僕 と、僕を偏った男にいった。/「こいつを自転車で運ぶのはど うかと思うがなあ」      [1]一五九頁 一 冒頭は「皮を剥がれた」という語が置かれる強烈な書き出しから 始まり、「夜の空気が小さ-赤らんでいた」と空気にまで流れ出す 鮮肉の存在感が示される。また「飼料をふんだんに食べ駈けまわり、 不意に跳躍した可愛い」仔牛を形容する部分と、「コンクリートの 床にぐったり横たわ」り「彼自身が屠殺した」仔牛の形容部分との 対比によって、動物から肉へと変わり果てた仔牛の外形が強調され ている。この序盤に集中する過剰なレトリックで彩られた文体は、 皮を有する動物から表皮を剥ぎ取られ人目に晒される肉への移行を 際だたせる表現であろう。日常の中でその異質さを露わにした「皮 を剥がれた仔牛十の破損した身体は、仔牛の持主と傭主の間で交わ される職業的な会話において「こいつ」と名指しされ、生々しさを 脱色した「商品」として再び落ち着きを取り戻す。冒頭からの過剰 四四 なレトリックは、「可愛い仔牛」から「皮を剥がれた仔牛」 へと移 る対象の存在様態の変形という筋立てに奉仕している。 この「皮が剥がされる」という喩で語られるミニマルストーリー が、肉を運搬する仕事の挫折というメインストーリーに組み込まれ、 仔牛が肉になることと人間が肉と見なされること、この二つの筋立 てを導いてい-のである。このような小説全体の構造を踏まえた上 で、「僕」のアルバイトが失調を来す内容を見ていきたい。 前述の通り、「僕」 のアルバイトとは肉の密売に関わるものであ ったのだが、そもそも密売とは、「取次」を介す正規のルートを取 らないことで、各々が得る利益の増大が期待される事態である。何 年の持主は自ら仔牛を殺し、傭主は仔牛を店まで自力で運ぶ。自ら 仔牛の肉を扱うこの直接性が、僕・傭主・仔牛の持主の三者がとも に得をする「よい取引」を成り立たせるのであるが、その一方でこ の直接性こそが、割のいい仕事に動揺をもたらす。 「快活」に自転車を漕ぐ仕事をする主体は、はじめこそ自己充足 的で「健康」的な身体的墳位を保っていたものの、野犬や警官や道 路工夫といった他者の一瞥によって、あるいは寒さと空腹、雪によ る視界不良、濡れる感触の不快感といった身体に纏わる不調和によ って、徐々にその安定した主体の定立が脅かされていく。 この動揺とともに「僕」と傭主との「信頼」関係も損なわれる。 「「ああ」と僕はあいまいに-りかえした。」「男も笑い、僕も笑っ た。」「男の陽気な笑いにあわせて僕も笑い、ペダルを踏む足に力を こめた。」というように、[2] の部分では、曖昧な相づちを打った り相手の笑いに合わせて笑ったりして傭主に同調する「僕」の姿が

(5)

示されていた。常に上からの立場から言葉を発していた傭主の指示 を素直に受け入れ、うま-上-下の関係のうちに入り込んだ 「僕」 と傭主の間に「信頼」が芽生えかける。だが、仕事の「挫折」とと もにその関係も失われ、上の立場から言葉を発する傭主に対するあ からさまな隔心が生じてい-。この隔心は、傭主の言葉が「僕ら」 の置かれた状況と轟離してい-過程とも軌を一にしている。 「おい、黙って見てないで手伝って-れ」と男が僕へ叫んだが、 僕はひとまずさきに牛の肉を鋪道へ運びあげる身ぶりをしてみ せた。僕には雪でおおわれた仔牛の妹を野犬に食いつかせるま まにすることはできなかった。僕は仔牛の下肢にむしろ親近感 さえ感じ始めていたのだ。/-中略-/「あんたは俺たちが、 仔牛同然だと考えているんじゃないだろうな」と急に暗くかげ った声で男がいった。「俺は絶対にそういうことは考えないぞ、 俺は決して仔牛同然ではないぞ」/僕は男のからみつ-声を無 視し、自転車を押しあげる腕に力をこめた。車体の前半がやっ と鋪道へ上った時、男が苦痛の叩きをあげながら崖をすべり落 ち、犬の悲鳴がそれにまといついた。自転車は仔牛を載せたま まゆっ-り峰下し、それを僕一人の腕で支えることは到底でき ない。野犬の一匹が猿然と肉におそいかかり一片を喰い切った。 それへ傭主の男が倒れたまま石を投げつけたが犬は二三米後退 すると再びたけり狂って反撃して来るのた。仔牛を積んだ自転 車をはさんで、僕と傭主の男は泥まみれになって立ち、そして 僕らは犬の群にすっかりかこまれていた。/「おい」と不意に おびえにみちた眼を僕に向けて男がいった。「逃げよう、肉を 棄てて逃げよう」/逃げよう'肉を棄てて逃げよう、しかし僕 らを取りまいた野犬の群はすでに僕らの威嚇に反応せず、仔牛 の肉よりもむしろ僕らに向って唸り声をあげながら、じりじり 迫って-るのた。男の声は殆ど悲鳴のように甲高-僕に訴えか け続けたが、どうすることができよう、犬の群はおびただしく 増大して僕らをぎっしり囲み出口を見つけることができない。 /「おい、逃げよう、肉を棄てて逃げよう」 [3]一六九-一七〇頁 「俺たち」が「仔牛同然」であることを受け入れなければならな い状況に至っても、依然として人間の特権性を信じる傭主に対し、 その言葉を「無視」する「僕」にそれまでの同調は見られない。「俺 は決して仔牛同然ではない」という傭主の発話と、人間が動物とし て見られるという結末の地点が指し示す隔たりは、アイロニーとし 一_6」 て機能する。このように物語は、傭主の言葉が「野犬の群れ」の「唸 り声」 に凌駕される中で無意味化する地点へと帰結する。 この言葉の無意味化は、集団的な力によって(人間/動物/肉) の境界が流動化することに随伴する、(被虐/加虐)の立場が入れ 替わることからもたらされる。(被虐/加虐)の可変性は、「僕」の 「仔牛の下肢」 への「親近感」として示され、自分と同一平面上に 置かれる動物へのシンパシーと、もはや通用しない物の見方を依然 手放さない狭量な傭主に対するアンチパシーを表している。「どう することができよう」という声に出されない 「僕」 の言葉は、傭主 四五

(6)

の言葉を受容できず、既にそこから離脱不可能な「出口」 の塞がれ た位相を指し示す。 このように「運搬」のテクストは、仕事を行う「快活」で「健康 的」な気分に浸っていた「僕」が、同調していた傭主の言葉が現実 と轟離していくことに気づ-につれて、自分たちが動物と同じ一方 的な被虐の対象(すなわち「皮を剥がれた」状態) になりうろこと を認識し、その窮状から離脱不可能であることを皮肉的に語るもの であった。 仔牛と人間、この両者が被虐対象になる (「皮が剥がれる」)プロ ットが'学生アルバイトという方法的な枠組みによって束ねられて いることは既に述べた。主人公は、報酬を得るために雇用関係に組 み込まれることによって、無力な自分自身を見出す。ドイツ語を原

語とする「アルバイト」は、pa手[i童e jobやsidO jobと言い換え られるように、一時的に、あるいは本業の傍らで限定的に仕事に関 わることを意味しており、学業専心という学生の本分からの逸脱行 為というニュアンスが込められている。法科の学生である主人公に とって、動物と同じ地平に置かれる人間存在の発見は、戦時中でも 崩れなかった「人間の尊厳」を信じる傭主とは異なる意味で、「屈 辱的」である。「肉の臭いでまみれ」るこの手の仕事は、「手を汚」 すものとしてある程度の覚悟はなされながらも、賃金の支払いと同 時に、仕事の人間関係や仕事の対象物との結びつきは容易に切断で きると想定されていたはずである。しかしアルバイトという本分の 逸脱は、学生という特権的な立場にいる「僕」が「手を汚」すだけ でな-、「皮を剥がれた裸」という存在論的な無力さを突きつけら 四六 れる想定外の事態に行き着-のであった。 以上、「アルバイト」という枠組みと、「僕」が被虐の対象 (「皮 を剥がれる」存在) となって離脱不可能の地点に落ち込む物語内容 とを確認してきた。 ではここで節を改めて、「火山」のテクストの検討を行いたい。 三、「火山」における集団の中の個の様態 「火山」のテクストは、「僕」のS火山行きの顛末を基軸にし、 そこにL子の自殺の近因と思われる党活動をめぐる過去の出来事の 回想が断片的に差し挟まれ、L子の自殺をめぐる因果関係([A]) が、S火山への旅([B]) を介して「僕」に再構成される体裁を取 っている。「火山」は一見突飛なストーリーではあるが、よく見る と個々の挿話はいずれも集団における個の様態を語るものである。 各挿話をL子に纏わるストーリー([A])とS火山行きのストーリー ([B]) に分けて見ていこう。 まず[A] のストーリーについて。L子の自殺の近因は、彼女が 所属していた「ユマニスト党」での活動における孤立であることが 語られる。党活動に熱心だったL子は、しかし、恋人Yや親友Nは おろか、党活動に参加する学生同志とも、工作対象の農民層とも結 びつきを得ることができない。共闘を目指す政治活動は、誰ともど んな層とも一体化しえず、逆に集団の中で自己への閉塞を募らせる。 L子が「疲れ」や「嫌悪」とともに感じていた集団における個の孤 立化は、恋人や友人や大学教授らがL子の死を囲む次の場面で、「そ れぞれの殻にとじこもつ」た「白けた不自然な状態」として強調さ

(7)

れる。 YにしてもNにしてもL子の死を哀しんではいないだろうし 教授もそれをはっきり知っていそうなものだった。しかし皆は L子の死体の前で、L子の硬直した四肢にならうように身を固 -し防備の姿勢を整えた上でなにか哀しみにみちた表情をして おり、それは白けた不自然な状態だつたが、しかもそこには立 派に通用する哀悼の空気がふくれあがっていて、それにひたり さえずれば全てはうま-行Yと思われる程だった。悼むという 感情はこういうものだとしてもいいじやないか、知ったことで はない、と僕は思った。       「火山」 この「身を固-し防備の姿勢」を取り「なにか哀しみにみちた表 情」をした人々のやりとりが、仮構された「哀悼する空気」を作り 出す。集団が作り出す均質的な空気が充満する閉じられた空間は、 さらに人々が判断を停止させ「熱狂」的ムードへ没入してい-「ユ マニスト党」 の大会の一場面にも描かれる。 ユマニス十党の主催したp式平和大会へL子に伴なわれて行 った時のことを僕は思いだしていた。p式というのはL子の説 明によればユマニスト党の新綱領なのだつたが、それは論理的 な内容を持っているとは思えなかった。広い会場を信じ切れな いほど多くの学生がみたしていて、熱狂しなからまずい和音効 果の合唱をしていた。歌が終わると激し-たかまる拍手の中で 主催者が叫び続けたが拍手のために意味は聴きとれなかった。 その演説の後はまた歌で僕はL子が額に汗をにじませ青ざめな がら声をはりあげ足踏みをして歌うのを呆れて見ていた。合唱 は長々と続き倒れそうに疲れているL子を無理に外へ連れだし て休ませるとし子は意外に暗い声で僕にいった。/-私は合 唱していながら周りの人達にひど-嫌悪を感じることがある わ。世界の友よ手をつなげ、と主催者が叫ぶと、さっと皆が握 手しあったりするでしょう。そんな時私はこんな愚かしい人達 もみんな誠実なのだからその誠実さを通じて認めなければなら ない。軽蔑なんかしてはならない、と思うの。けれどもし、皆 誠実さなどはこれつばちも持たないで唯狭量で、抜くて愚かし いだけかもしれない、と思うと心がさつと冷たくなるのを感じ ることがあるわ。      「火山」 合唱と拍手や握手で以て人々を熱烈な興奮に誘うこの党大会も、 均質的な言語空間としての性質を帯び、「論理的」でない「新綱領」 への同調を人々に強いる。この集団の中の各自のありようは、L子 の会話を通して、連帯や一体化とは程遠いことが露呈される。これ らの挿話は、人々の集団化による理性的なものの喪失と、そこから 離反し配輔を来すL子という構図を物語っているだろう。 続いて[B] について。学生の党活動において均質な空気が醸成 され、その中からL子が離反するという挿話の列挙に、集団におい て職能化した人々のありようというS火山行きのストーリーが連な る。脱走兵に対する憲兵の発砲と、外国兵士団の占有地を侵犯した 四七

(8)

仔山羊を撃ち殺した所謂「協力農民」の行動は、そのどちらも与え られた職務に忠実な行為でありへ その心性によるところの躊躇ない 暴力である。軍という組織の中で自らが担う役割を内面化した彼ら は、感情に惑わされることな-銃の引き金を引-。 命令や慣習を機械的に遂行する彼らの外延には、外国兵士団に雇 われていた事務員の存在も加えることができるだろう。傭主である 外国兵士団が何をしているか一切関知せず、契約が切れたことを理 由に「説明する責任はありません」と言い張る事務員は、自らの職 務を最低限だけこなす形式的で独善的な、お役所主義的人物である。 契約外、報酬外のことに無関心である事務員は、自分の領分と外の 領域の間にきっちり線を引き、組織の中で自分の利益に閉じこもる。 役割を忠実に遂行すればいいという心性は、政治的な共闘や団結を 阻み、反基地運動を起こそうという際に、外国軍に雇用された協力 農民と基地反対派の農民との分裂をS村内部にひきおこしてい-。 「満員の高架線電車が走って行ぐ音のように機械性と人間的なもの が複雑にからみあったざわめき」というレトリックが効果的に用い られているように、基地反対派の農民の反基地の運動は、「ユマニ スト党」の大会と近似した自己の利益だけを口にする単純化した言 語空間であり、運動する大衆は思考停止の状況へと陥る。 以上のことをまとめるならば、ストーリー[A]におけるその場 の気分に浸る政治運動の中の人々と、ストーリー[B] における自 分の利益だけを声高に叫ぶ人々や上からの命令や慣習に従って淡々 と仕事をこなす人々とは、いずれも集団の中で各々のうちに閉じこ もり、自己保身に耽る狭量なあり方という特徴を凝縮している。「火 四八 山」は、大衆化する政治運動の中で己の判断と個別性を摩滅させて いく人々と、組織の中で職能化し、不寛容かつ官僚主義的な人々と を同じ種類の人間のあり方として呈示しているのである。 ところで、この小説の核心は、「傍観者」としての「僕」と、ネ ガティブに語られていた組織からの離反者(L子や脱走兵) との関 係が、末尾の「鉱山技師」という人物の思いがけない言動によって 反転する構造にある。 それにしても僕がL子に対して始終、傍観的だった、と僕は 激し-悔いの気特におそわれながら思った。最も根本的な場所 では僕こそL子の死の責任を負わな-てほならないのではない か。/- 山へもう一度、登るよ。少なくてもあのあたりまで。 新物質Mも探りたいし農民を避難させなきやならないしね。/ S火山の中腹を指しながら少しうわずった声で技師がいった。 僕は息を飲み、素早-立ち去って行-彼の後姿を見詰めた。今、 噴火の明るみのなかで僕に山へ登ることを宣言した技師の顔は 青ざめて卑しい感じだったが僕の記憶力の不正確さはやがて彼 の顔を力強-て美しかつたものとして修正するだろう、と僕は 思った。僕は愛情に満ちた畏怖を彼に感じた。しかし僕は彼に 協力する勇気を持ってないし'それが何か愚かな腹立たしいこ とのようにさえ感じる、この分別が僕をいつも駄目にした、L 子の場合もそうだ、と僕は思った。空を炎やす火の流出を見詰 めながら僕は技師に対して畏怖を感じているのか、L子に対し てわからな-なっていた。       「火山」

(9)

物語は結末近-に至るまで、「分別」ある「僕」が、自己の利益 だけ追求し気分に流され易い 「愚かな腹立たしい」人々のありよう を、そのような人々の集合体である組織からの離脱者 (L子や脱走 兵) との「あいまい」な関わりから語る構図を有していた。「あい まい」な関わりとは、終始「傍観者」としてふるまう「僕」が「あ の時僕に何ができただろう」と問うような'L子や脱走兵に対する 「僕」の負うべき「責任」の範囲の画定しえなさである。「僕」と、 (L子や脱走兵も含めた)組織に属す人々は、(「分別」ある人間/ 「愚かで腹立たしい」人々)という(優位/劣位)の序列の裡に据 ぇらね、この「傍観者」という高みから集団の中の人々のありよう が捉えられていた。 しかし、鉱山技師が自己保身を越えて己の役割を果たそうとする ことで、鉱山技師と「僕」は(「勇気」ある離脱者/自己保身の人 々)という新たな切り分けで区別され、「僕」はこれまで「愚かで 腹立たしい」と見てきた人々と同じ下位項に組み込まれてしまう。 「僕」がL子や鉱山技師を「畏怖」 の対象として見なすのは、自己 保身の殻から外へ踏み出す鉱山技師のあり方に、組織から一人離脱 するL子や脱走兵を重ね、彼等に対して常に「傍観者」として自己 保身の内に止まる自分を引き比べるからであるだろう。この最後の 部分は、当事者性=加害者の自覚が示され、大衆を外側から語るこ とのできない 「僕」-語り手への自己言及がなされている。 このように見てきたとき、習作「火山」は、以下の点で興味深い 性質を持っていると思われる。 まず一つは、「火山」における政治は、雇用や自己の安定した立 場の確保といった外部的な条件によって、常に政治的争点を結べな いことである。外国軍基地の出した雇用募集にはS村の全員が応募 していることが本文中に示されており、(外国軍基地反対運動の参 加者=外国軍基地雇用の抽選に洩れた者)という出自のいかがわし さが暴露されていた。つまり、外国軍基地に反対する集会に参加す る農民と、米軍への協力農民および外国軍に雇われた事務員との間 には本質的な差異はな-、むしろこの三者は、目の前の職務に忠実 な人々のバリエーションであるにすぎない。このように、農民運動 も学生運動も、どちらもその政治的思想内容が充填されたメッセー ジを合意するものでな-、L子や鉱山技師も含めて、皆一様に、職 務に忠実な者として同一平面上に配置されている。政治的な色合い を帯びた物語のように見えるこのテクストに、直裁的な政治を読み 込むことには留保する必要がある。個人の政治思想は、雇用や生活 の保障の問題を抜き差し難-抱えこむことでずらされるのである。 もう一つは、この小説が、僕がS火山を訪れ、そこから帰ろうと するまでの旅物語の体裁を取っていることである。小説中「僕」は 「傍観者」として自己を定義しているが、この自己規定はこの「旅 行者」という立ち位置とも関わる。「僕」がL子の党活動を「傍観 者」として眺める構図は、脱走兵の銃撃や農民の集会においても一 貫しており、「僕」は大衆を対象化する高みの位置を常に確保して いた。一時的・限定的にのみそこに滞在する「僕」 のあり方は、ま さに「旅行者」としての立場と類比的である。だが、小説の末尾で、 このあり方自体も自己保身にすぎないのではないかという自問が提 起される。その自問によって、集団化する大衆の自己保身を語る「図 四九

(10)

=主題」の部分と、「傍観者」としての語り手「僕」のあり方が示 される「地=背景」との部分とが捻れた形で結びつ-独特な形態の 小説構造が作り出されるのた。 四、運動する「学生」から仕事をする「学生」 へ このように「火山」と「運搬」を見てくると、両者に共通する枠 組みを捉えることができる。 「傍観者」-「旅行者」の視点から戯画的に対象化された政治運 動を抽出する「火山」の枠組みは、一時的・限定的にのみ仕事に携 わる「アルバイト」という枠組みにそのまま移し替えられている。 そして、「傍観者」としてのあり方に自己言及し、「愚かな腹立たし い」人々として対象化してきた大衆の位相に自分自身も帰属してい ることを発見する「火山」の展開は、仕事の対象であった動物と自 分が同一平面上に存在することと、仕事を成就させることもかなわ ず、だからといって契約が失効してもその状況から逃道できない状 況に陥る「運搬」の筋書きとして引き継がれている。 このようなアルバイト小説の枠組みの中で語られるのは、慣習や 命令を内面化し仕事に投入するメンタリティをめぐる問題だろう。 「火山」-では、目の前の職務に忠実な人々のシステマティックな行 為遂行のありようが、大衆がある一つの運動に組織化される中で、 自己保身に閉じこもる姿と同等なものとして描き出されていた。一 方「運搬」では、政治運動の中の個人のありようが後景に退けられ、 一方で仕事をする個人のありようが前景化されることで、一元的な 見方に没入する運動の中の学生の心的傾向が'上からの命令を聞く 五〇 立場に身を置き、業務を成し遂げる「健康的」な気分に浸る学生の 心的傾向へと組み替えられている。 「運搬」の傭主をはじめとして'大江のアルバイト小説には、独 特の価値観や考え方をもつ上司が登場する。主人公が、慣習や上司 の言いつけを内面化し一旦上司に同調するのは、その仕事に携わる 者のメンタリティとして当然であるだろう。だが、その見方がある 特定のパースペクティブの下で形成された固陣で誤ったものである ことがあきらかになっても'同調を強要する上からの圧力に、学生 は抵抗しえるか - 「奇妙な仕事」や「死者の香り」は、そのよ うな政治的に仮定された問いを後景に据えながら、仕事上の上司と 学生との関係を設定している。このような文脈の中で、当初の想定 とは異なり、決して報酬分の限られた働きに留まることができず、 賃金によっては自らの領分を区切る学生の保身が貫かれない様態が 形象化される。 仕事に没入できず、だからといって契約が切れると同時にそれは 関係のないことと割り切ることもできない曖昧かつ両義的な「アル バイト」の位相は、自己保身の人々を語りながら、自らの自己保身 にも言及する捻れた「火山」の構造と接続しているのである。 五、陥入構造としての「監禁状態」 最後に、アルバイト小説が「監禁状態」というモチーフとどのよ うに関わるのかについて触れたい。 「火山」は、大衆が運動として組織化される中で自己保身に閉じ こもること ([A]) と、組織において職能化した個人が己の狭い領

(11)

域に閉じこもること ([B]) を、集団の中の「僕ら」として描き出 していることを確認してきた。大江の次のような「閉ざされた状況」 の定義は、この集団や組織における「僕ら」を、学生を主とする運 動の中の個のありよう([A]) と組織の中の利益追求に閉じこもる 個のありよう([B]) を混在させた形で説明している。 ぼ-ら日本の若い人間たちが、あいまいで執拗な壁にとじこ められてしまっているというイメージ、ば-らのあいだには真 に人間的な連帯はな-、ざらざらした毛皮をおしつけあっては える犬たちのように、ただ体をからませあっているだけだとい うイメージ。/そして、あいまいに閉ざされているために、し だいにリアリスチクな判断力や分析力が裏返したあげ-、持続 的なエネルギーもうしなって怒りっぽ-非論理的になった若い 精神の行きつ-ところは、おおかれ少なかれファシズムにつな がるという論理。/-中略-/今後の仕事でも、ぼくもやはり あいまいな閉ざされた状況にいる人間を書きたいと思う。ぼく はそういう状況のなかで、やるせないいら立ちに身もだえし、 あるいは狂気のように騒ぎたて、あるいは無気力に沈黙して いる、同年代の多くの人間を見てきている。 )蘭田 「徒弟修行中の作家」 ここでは、「ば-らのあいだには真に人間的な連帯はな」 いとい う集団の中で連帯できない個が、動物化した集合体 (「毛皮をおし つけあってはえる犬たち」) という比喩で語られている。さらにこ の動物化した集合体の中の個々人は、「リアリスチクな判断力や分 析力が衰退LL「持続的なエネルギーもうしなって怒りっぽ-非論 理的」 になる。 「閉ざされた状況」の定義の前半の説明は、集団の中の個のあり ょうとして「火山」のモチーフに重なるが、アルバイト小説は、こ の前半の説明に該当するモチーフを後景に据える形で成立している ため、「閉ざされた状況」 の定義とうま-かみ合わなかったのであ る。ただし、賃金といった外部的な条件の比喩として「あいまいて 執拗な壁」という言葉は機能し、職能化した自己の領域にとどまる 心性が、「連帯」を阻害する要因になることは、上司や仕事仲間と 連帯できないアルバイト小説にも部分的に引き継がれている。命令 や慣習を内面化し職務に従事する学生のメンタリティが'流れ作業 を淡々とこなすアルバイトの枠組みを通して辿られることで、賃金 による自分の職務だけを切り分けてその範囲 (-「壁」) に閉じこ もる「連帯」不可能な「閉ざされた状況」としても考えられていた のだ。 ところでこの文章は、「閉ざされた状況」が「ファシズムにつな がる」可能性を示唆している。政治運動に携わる人々が「非論理的 になっ」てい-ことが均質的な空気を醸成し、そこから生じる閉じ た言語空間が、ファシズムの浸透する基盤を用意するという「論理」 はわかるが、それをそのまま大江小説の「論理」とまでしてしまう (18) のは早計だろう。本稿では、「ファシズムにつながるという論理」 の手前に留まり、「火山」で描いた見えやすい暴力や政治を脱色し、 「閉ざされた状況」の小説化をアルバイトという枠組みに切り縮め 五一

(12)

たところに大江の文芸的出発点があることを確認してきた。政治の 季節まっただ中の一九五〇年代後半は、一方で高度経済成長を遂げ ていった時代でもある。その中で大江は、人々が自己保身のメンタ リティによって政治的焦点を結べないことを、(言い換えれば、雇 用という外在的な条件がその政治思想を規定することを) 意識して (_9) いた。大江小説は、受容と抵抗を同時に抱え込む捻れた状態Is 村における基地反対と基地依存の同時共立、周囲を「愚かしい」と 嫌悪しながらも彼らとの連帯を築こうとするL子の党活動の様相、 そして「愚かな腹立たしい」大衆を対象化しながら、その大衆に組 み込まれていることを自覚する「僕」 の様態 - 、このような外部 のものが内部に入りこむ陥入状況をテクストに示しており、「閉じ こもる」 ではな-身動きのできない重-苦々しい 「出口」なしの陥 (細) 入状況が「監禁状態」として指し示されているのた。大江文芸の出 発点は、抵抗と受容が同時に存する陥入構造の小説化にこそあると 考える。 以上、大江のアルバイト小説の枠組みを確認することで、従来の 「監禁状態」というモチーフに再考を加えてきた。古びたモチーフ として顧みられない 「監禁状態」は、このような視角から改めて検 討に付される必要があるだろう。 (附記〉引用した大江健三郎の文章は新潮社版『大江健三郎全作品』 に拠り、「火山」は初出に拠った。引用に際しては、一部旧字体を 新字体に改め、ルビを省略する等の改変を適宜施している。 (注) (-) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 「奇妙な仕事」 (『東京大学新聞』七号、一九五七・五・二二) 「死者の香り」 (『文学界』、一九五七・人) 「石膏マスク」 (『近代文学』、一九五七・九) 「戯曲 動物倉庫」 (『文学界』、一九五七・十二) 「運搬」 (『別冊文馨春秋』、一九五八・二) 「後退青年研究所」 (『群像』、一九六〇・三) 「空の怪物アグイIL (『新潮』、一九六四・一) 「火山」 (『学園』へ一九五五・九)。『学園』という雑誌は東京 大学教養学部学友会から発行されている雑誌である。「火山」 の概略は次の通り。 従妹のL子の自殺をきっかけにして「僕」はS火山を見に 行こうと思い立つ。S火山に向かう汽車の中で、さっきまで 「僕」 の前の座席にいた外国兵が車窓から河に飛び込んで逃 げへ 河を泳いで逃亡を図ろうとしているところを憲兵によっ て銃で撃たれる。また「僕」はS火山行きの支線にたまたま 乗り合わせた鉱山技師と共に山を登るが、既にS火山は「外 国兵士団S火山支隊」 によって軍事基地にされており、軍に 雇われて監視を行う「協力農民」が頂上まで登ることを阻む。 さらに軍事基地に反対するS村の農民集会に巻き込まれた 「僕」と鉱山技師は、そこで外国兵士団が「新物質ML の究 明のために人工的に火山を噴火させようと工作していること を知り、二人は再び山に登り火山噴火機を確認する。今まさ に火山が噴火しようとする中で、農民を避難させ「新物質ML

(13)

を探るため技師は一人山に戻り、「僕」は技師の後ろ姿を見 送るところで物語は終わる。 このように「火山」は、学生の党活動と外国軍基地反対運 動という二つの政治運動に題材を取っている。ちなみに、や はり学生投稿雑誌に掲載された習作「黒いトラック」 (『学生 生活』、一九五六・七) もまた、市営学生療養所の学生たち が療養所閉鎖の強制執行に反対する抵抗運動に挫折する話で あった。習作二編はいずれも政治運動への批判的なスタンス を有しており、「火山」「黒いトラック」と、「奇妙な仕事」「死 者の香り」といった文壇デビュー以後の作品との問には、学 生運動批判の小説と学生のアルバイト小説という懸隔が一見 認められる。 (9)山下肇の銀杏並木賞選評(「選後感」、『学園』、一九五五・九) では、「白い太陽と黒い河と」という投稿小説は「アルバイ ト生活のどす黒い絶望感を描」 いたもの、「或る休暇」とい う抜穂小説も「故郷での選挙応援アルバイト」を描いたもの で、佳作に惜し-も漏れた小説二編がいずれもアルバイトに 題材を採ったものであることを紹介している。 (1 0)「後記」 (『死者の香り』、文襲春秋新社一九五八・三) (H)松原新一『大江健三郎の世界』(講談社、一九五九・一〇) (i)一条孝夫『大江健三郎-その文学的世界と背景-』.(刺 泉書院、一九九七・二) (1 3)利沢行夫「自己救済のイメージ」(『群像』、一九五七・五) (I 4)渡辺広土『大江健三郎』(審美社、一九七三・一〇) 柘植光妻「大江健三郎」 (『解釈と鑑賞』、一九六九・九) 戦時下における動物と人間の死闘という点には、戦後のフラ ンス文学者であるガスカールの受容が見て取れる。ガスカー ル「馬」(渡辺一夫他、訳『けものたち・死者の時』、岩波書 店、一九五五・十二)では、人間と馬の「地獄のような」「格 闘」が繰り広げられる。主人公ペールは、飢えと不衛生さに 疲労し狂気を帯びた馬たちを「恐怖と不安」から「絶望と完 全な沈黙」でもって「棍棒で」殴る「仕事」を毎日-り返す 「怠惰と過労の混渚する幽閉生活」を送る。閉じた空間での 暴力に満ちた動物と人間の闘い、そこからもたらされる人間 と動物両者の狂気じみた葛藤は、「運搬」をはじめとする大 江の小説との共通性を多分に確認できる。それらの関わりの 中で最も示唆的な点は、生きものを相手にすることを拒絶し、 埋葬作業を通じて動物の方に寄せる「喜び」と、それを誘発 する「人間の友情が拒否されている」「人間たちとの係り合 い」 の先延ばしである。 彼は感じていた、人間の友情、それがなかったら自分 は死ぬだろうということが判って言う恩寵が、今夜の彼 には拒否されているのだと。人間たちとの係り合いは、 何もかも明日までに延ばしたほうがよい。彼は、これま で全-孤独な生を生きてきた。彼は初めて遜り合った人 間が、こともあろうに軍人だったというわけだ。「馬」 ペールが戦争から感じ受けた「宏大な共生感」は、書類を前 にした下士官からいらいらした怒鳴り声を投げつけられるこ 五三

(14)

とで、虚妄であったことが判明する。戦争中の人間の間の友 情は、軍隊における役人的な上下関係のやりとりの中で決定 的な亀裂を生じさせていく。 (1 7) 大江健三郎「徒弟修行中の作家」 (初出『朝日新聞』、一九五 八・二・二。後『厳粛な綱渡り』 (文嬰春秋新社、一九六五 ・三) に収録。) (1 8) たとえば大江「奇妙な仕事」を戦争から安保闘争に至る暴力 的な時代といったコンテクストに据え直して論じる村上克尚 「動物とファシズム ー 大江健三郎「奇妙な仕事」論」 (『日 本近代文学』'二〇〇八・二) は、動物と人間の対称性に ファシズムの問題が意識されていることを指摘しており示唆 的であるが、「奇妙な仕事」を政治的に読む村上と、アルバ イト小説の構造に焦点を据える本稿とでは力点が異なる。 / (1 9) 大江は一九六二年∼六三年にかけて発表した内灘(「独立十 年の縮図-内灘」、『朝日ジャーナル』、一九六二・五・六)、 呉(「失業に悩む旧軍港-呉」、『朝日ジャーナル』、一九六三 ・六・一六)、横須賀 (「今日の軍港-横須賀」、『世界』、一 九六二・一〇) を取材したルポルタージュにおいて、日本に おける米軍基地のあり方という政治問題が、地元の切実な雇 用問題と結びついて複雑化している様相を描き出している。 (20) 『死者の香り』の「後記」(前掲) においても、この陥入構造 が見られる。 秋のおわりまで、僕の日常はフランス語の勉強に比重が ませんでしたが、やがて逆に、小説のなかの主題が僕を 拘束しはじめ、僕はその結果、悪い学生にかわりました。 このような大江の自己競走から、作家「大江健三郎」 の実 体的な性格を問うべきではない。むしろこの部分は、外部の ものの拘束によって内部が変容し、全-正反対の性質を帯び るという「監禁状態」 の陥入構造を示唆したレトリックとし て読むべきだと考える。 大きくおかれていて、小説についてはa雪a[e幸にすぎ

参照

関連したドキュメント

地図 9 “ソラマメ”の語形 語形と分類 徽州で“ソラマメ”を表す語形は二つある。それぞれ「碧豆」[pɵ thiu], 「蚕豆」[tsh thiu]である。

健学科の基礎を築いた。医療短大部の4年制 大学への昇格は文部省の方針により,医学部

或はBifidobacteriumとして3)1つのnew genus

明治33年8月,小学校令が改正され,それま で,国語科関係では,読書,作文,習字の三教

 調査の対象とした小学校は,金沢市の中心部 の1校と,金沢市から車で約60分の距離にある

〃o''7,-種のみ’であり、‘分類に大きな問題の無い,グループとして見なされてきた二と力判った。しかし,半

自発的な文の生成の場合には、何らかの方法で numeration formation が 行われて、Lexicon の中の語彙から numeration

としても極少数である︒そしてこのような区分は困難で相対的かつ不明確な区分となりがちである︒したがってその