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大正期の学園 利用統計を見る

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(1)

大正期の学園

著者名(日)

上原 恒治

雑誌名

東洋大学史紀要

1

ページ

89-101

発行年

1983

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002558/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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5

上原恒治

日 時

場 所 甫水会館 九 八 二 年 一 一 月 一 九 日 聞き手 田中菊次郎(百年史編纂室 ) 、 小 野 沢 主 計 ( 百 周 年 事 業 事 務 局 次 長 ) 、 村 野 一 治 ( 同 課 長 ) 、 鈴 木 俊 光 ( 同 主 任 ) 、 ム 山 内四郎(図書館図書課長

上原恒治

略歴

一 九 一 四(大正

3

)

年 一 九

O

二(明治犯)年九月十日生まれ 東洋大学職員 一九一九(大正

8

)

年 一九二二(大正 日 ) 年 大学名簿に受 付 係として記載あり 入営退職 - 89

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-上原氏は本年︵一九八二︶井上円了胸像除幕式に六月五日来校、健在とわかった。八十歳。    大正のはじめころ大学にこられたということですが。  上原 大正三年か、四年か忘れましたが、給仕として参りました。小学校を出てから十三歳くらいではないで すか。学長は前田慧雲先生でした。当時は境野︵哲︶先生が全部とりしきっておられた。やはり幹事みたいだっ たのでしょうか。最高責任者でした。もう一人、その下は鼎︵かなえ︶義暁幹事︵理事︶がおられました。大正 十一年まで大学にいました。    その間にいろんなことがあったと思いますが⋮⋮  上原 いろんなことといえば、会計をやっていた郷白厳さん、栃木県の人でしたが、幹事になっていられて、 大分そのころお世話になりました。    幹事というのは会計監事じゃなくて、いまの課長みたいな役柄ですか。  上原 そう、ミキ︵幹︶の幹事です。課長さんですか、いま考えてみると、だれもほかに教務とか何とか、や やこしいのはなかったですね。    そのころの東洋大学と、いまの建物とくらべると、どうですか。  上原 石段をあがって、突き当たったところが図書館でしたね。左側に築山がありまして、築山に井上︵円了︶

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先生の胸像がありましたね。それから築山をまわって左へ行くと事務所と教員室の二階家で、職員室の上には教 室が二つありました。その先が職員室の庭で、その向こうが目賀田男爵のお邸だったですね。︵大正七年の写真 をみながら︶ここに桜があるけど、桜の木がいっぱいあったのですよ、現在の講堂のあるところが築山です。そ のほかに学生控室がありましたね。階段の右の方には普通の家がありましてね。湯本武比古先生が住んでおられ ました。私のころは島地大等先生に代わられました。  そのころ私は小.石川の氷川下に家がありまして、大学に近いもんだから学校に常宿直していました。大正七年 かに事務員として採用されましてね。十八歳くらいですが、大学に泊まっていたのです。仲間としては奥山君が 事務所にいて、交代で泊まっていました。泊るのはいやだから代わってくれということで、私が常宿直しました。 一       91    哲学堂はいかれましたか。  上原 大正五、六年のころですがね。中野の駅はなくて、柏木といいましてね。なんだか歩いて哲学堂へ行き ました。そうですね。西武線はまだありません。哲学堂の門のところにお化けの絵があって、天狗さまとあれがあっ て、気持が悪くて。そこを入っていくと、何とか橋とか、いろんな井ヒ先生が考案されたようなものがあって、 本尊様としては四聖堂とか、それから南無絶対無限尊とかいったようなことが書いてあったことを覚えています。 囲りに濠みたいなのがありましてね。あれからいまだにいかないんですよ。あれ、いま東京都に移ってるんですか。

 境野先生の講義は面白かった

   東京都へ大部分譲渡しました。大学へ話を戻しましょう。

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 上原 学校としては鮮儒といって、朝鮮の儒者が十四、五人訪ねてきましてね。どういうことだったか、そん なことがありました。そのうちに前田先生が亡くなられて大内青轡先生が学長になられて、一、二年ですかね。 あと境野先生が学長になられましたね。忙しい先生でね、講演によくよそへ行かれました。学生としては喜ばれ ない面がありましたね。講義の面白い先生でした。社会事業科というのは夜でしたから、私は宿直していたので、 先生の講義をよく聴きました。仏教概説は二時間でしたが、立て続けにやられる。おしゃか様の話で、あらゆる ことお話があるのですよ。講談を聞いているより面白いです。それで学生はノートを取っているんですが、最後 にくるとピシャッとおさまる。実に頭のいい先生でした。  私なんかね、﹁上原君、勉強するのに、一晩か二晩眠らないでやったことがあるかい﹂といわれまして﹁とん でもない、そんな勉強しません﹂といいますとね。先生は若いとき一週間眠らずに勉強したといわれました。﹁ほ んとうですか﹂というと、ほんとうだといわれる。余程勉強なすった方ですね。  それから何年でしたか︵註・大正五年︶新設学科があって、発表会のとき、私なんかも末席を汚しました。帝 国ホテルで披露会というのですか、後藤新平市長が主賓でいて、そばに床次竹二郎内務大臣も来ました。文部大 臣は誰だったか、気がつきませんでした。  学校は哲学科というと、一部⋮⋮ちょっと忘れちゃったよ。教育一科、二科、支那哲学科があったのかなあ。 文部省では教員免許状を出して、あのときは専門学校といったところですね。大学令は、私のいたときでなく、 あとになってからだな。大学令になるというので、大分忙しい思いをしました。

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 二部に社会事業科が新設

   新設学科というのは文化学科とか、社会事業科とか⋮⋮  上原社会事業科はですね。夜の学科でした。これからの世の中は、社会の病弊が起ってくるから、これに対 する実際の授業をやろうという主旨でした。そのころは法制とか、英語とかが学科の中にあって、社会事業科で は人生論とか、そのほか実際に社会事業をやっていくようなことで、女の人も男の人も混ざって連れてきました ね。始めたばっかりですからね。一クラスですから三十人くらいはいましたかね。夜だから私も聴講しました。    そのころ男女共学が始まったんですね。  上原 男女共学は、その以前です。栗山津禰、そのあとから仁平本さんが入られた。大学としては共学は東京 で一番初めじゃなかったかしら。男子学生とは格別問題はなかったようですね。むしろ小林好日先生が大分熱を あげてたことは知っていました。栗山さんは二松学舎から来られたと聞きました。もともと漢文の達者な方で、 そのころ小見清潭先生のところへよく、きれいな字を書いて出された。立派な方で、おとなしい、もの静かな、 口もきかないような人でした。どうなすったか知らないけれど、学校としては、あの人が男女共学の最初でしたね。 そのあとから野溝七生とか、そのほか面白い人が入ってきました。  ー女子控室をとくにこしらえたということですが。  上原 知りませんでした。そうです。便所が困るんで、女子は職員室のを利用しました。とにかく境野先生になっ てから許可したような恰好になったんですかね。

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 そのころ漢文の先生には土屋鳳洲とか、内田周平、広井辰太郎は、英語の先生でしたね。もう一人上条辰蔵が いたかな。英語です。ちょっと思い出すだけだから、なんですが、文学博士では藤岡勝二、言語学の先生だった かな。小林好日なんて面白い名前の先生がいましたよ。それより、宇野哲人先生がいられた。渡辺海旭という有 名な芝中学の校長が来られた。そのあと宇井伯寿という仏教の先生ですか。    井上円了先生は大学へこられましたか。  上原 井上先生は学校の中では、あまりお見かけしませんでした。哲学堂祭なんかのとき呼ばれていったかっ こうになりましたね。

 鮮儒や藤村、抱月

 1さきほど鮮儒の話がありましたが、哲学堂に来たのですか。  上原 いや大学です。誰かがお呼びになったんだな。視察かどうか。講演はなさらなかったです。講演といえ ば島崎藤村がきましたね。あの人が﹁小諸なる⋮⋮﹂の先生かなあといってました。島村抱月もきたと思う。心 中した人です。  ー文化学科のさかんな時ですね。  上原 私は先生方の出欠の札なんかをこしらえて掲げていたから、わりと覚えているのです。学生の出席簿も こしらえたことがあるんですよ。それで知っています。  大正十一年に入営しまして、十三年に除隊になって学校へきたとき、全然変わっちゃったんで、どうしようも 94

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なくて、そこにいようたっていられなくて、やめちゃったんです。境野先生もいなければ、郷先生もいないし⋮ ⋮横山雪堂なんて人がいましたね。事務所に藤原なんて人がいて、その人が職業安定所で世話してくれて上野の 本屋さんなんかへ行ったことがありますよ。それからいろいろ苦労して、あっちこっちに行きました。    大震災はどうでした。  上原 ちょうど兵隊のときですが、初年兵でした。大学の建物は関係なかったようです。    円了先生と食事を共にされたと聞きましたが。  上原大正五、六年のことでした。哲学堂にたまにいきました。あまりよく.行くってわけじゃありませんでした。 先生のお宅は本郷駒込でした。    ︵再び大学の地図の解説に話がもどって︶この石段は成田さんが寄附したという話がありますが⋮⋮  上原 そうか、そりゃ知りません。とにかく、その当時は成田さんが新勝寺といって校友の寄附の王様で、と ても偉かったんですがね。    二代にわたってお世話されました。石川照勤、荒木照定さんです。  上原 そうですか。︵地図をみながら︶図書館の後に、第一教室、第二教室、生徒控室がありまして、裏門の 道路が白山神社の裏に通ずる道路につながっていました。その道路の辺に島地大等さんの家がありましてね。巣 鴨寄りに安藤弘先生、郷白厳先生のお宅があり、その辺は学校の社宅みたいな、変なもんだったんですがね。昔 は十六番地といっていました。

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 大正中期は学生千人

 ーそのころの学生は何人くらいいましたか⋮⋮  上原 千人くらいですね。先生方がいわれましたが、東大は文科というのがあるが、単科大学で千人いるのは 東洋大学が一番だと、えばられたのを知っています。田辺善知先生もよくきたし、加藤咄堂なんていう先生もい ました。弁論の先生でね。学校としては政友会の安藤正純先生が校友会として幅をきかしていたね。    学生はどうですか、騒ぎがありましたが⋮⋮  上原 私のいた当時はおとなしいものでした。私が入隊してから学長排撃でたいへんだということを聞いたこ とがあります。境野先生はやめられて、郷先生と仲たがいがあって⋮⋮境野先生としちゃあ島地大等先生がなん かやったんじゃないか、というようなことを、あとで片町の先生のところへ何回も行ったとき、聞いたことがあ ります。    その時分、学生の服装は⋮⋮  上原 詰襟の制服です。帽子もあった。四角じゃないが、東大のようなやわらかい角帽でしたね。制服を着な い人もありました。そうやかましくはいいませんでした。第一種生、二種生、それに聴講生がいて、袴をはいて くる学生も多かったね。先生も和服、袴でお見えになるのが多かった。

 1女子はどうですか⋮⋮

 上原 女子は紫の袴をつけて和服でした。矢がすりの着物もいましたか。栗山さんはどうなったかなあ。

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 ー栗山津禰さんは五中の先生になって有名でしたね。  上原 栗山さんはもの静かな方でね。それに仁平本さんという方がいましたね。二人が学内でも有名でした。︵卒 業生名簿をみながら︶辛島キミさん。この人も名前を聞いたことがある。勝承夫もそのころから有名だったですね。 宵島俊吉といってましたね。藤原徹恵、知ってます。この人はあとから事務所に入ってきた。野溝七生さんですか、 いましたね。石井甚太郎、何か書いたことあるね。この人。学生についても出欠簿を書いたんだから、ある程度 覚えています。

 事務組織・教職員・学生施設

 ー学校の事務組織はどうでしたか。       97  上原 一番えらいのが学長先生、その次にあとからきたんだが三輪政一という人、その下に郷白厳先生が会計 一 です。郷先生は三十四歳でしたか、境野先生にひき立てられた人だが、しまいには反旗をひるがえしたんだよね。 郷さんは幹事心得といいましたか。  事務の組織は簡単なものでね。庶務と出納と図書館ですね。学生課なんてなかった。部とか課とかいうのはない。 境野先生だって、お見えになると、私が庶務で受付にいて、うしろ側に、普通の家の下駄箱みたいなのがあって、 そこを開けて、はきものを入れて、はいってこられるというようなことでした。図書館といっても、事務員は一 人で、学生は自分で本を引き出して読んでいました。    あなたがよく話をされたのは、どういう方々ですか。

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 上原 郷さんとか、境野先生とよく話をしました。私は境野先生にかわいがられまして、着物をつくってくれ たり、よく雑誌など買ってくれたりなんかして、とてもお世話になりました。アメリカへ行かれたときなんか、 絵はがきを私が好きだということを知っておられたのかして、旅行中になんども絵はがきの便りを送ってくれた んですよ。  ︵教員名簿をみながら︶先生方だな。石川義昌、これは時事新報かなんかの記者をしていた人だな。田部重治 先生、みんなとよく話される、静かな先生でした。和辻哲郎、哲学の先生か。尾上八郎、柴舟という先生。得能文、 この先生も古いんだよな。高島平三郎は心理学の先生だよね。高桑駒吉というのは何の先生だったかな、﹁おれ は学問やったから馬鹿になった﹂なんていう、面白い方だったね。  1学校の施設、たとえば教室の暖房設備とかで思い出されることは・⋮:  上原 教室はダルマ・ストーブですよ。よく煙突の掃除しましたよ。石炭です。まあ専門屋さんもきましたが。 事務所は下が崖になっていて、その向うに中学の教室がありましたね。だから、夜、泊まっていると、崖下には お墓があるので、バァッと薄気味悪いのが出たことがありましたよ。そんな所でしたよ。事務所の二階は畳の部 屋があったね。下に宿直部屋があって、六畳くらいでした。学生控室はストーブなんかなくて、大きな火鉢があっ て炭でした。便所もあるし、みんなそこにいました。  そのころ学校の中は、わりと変なのはいなかったな。文化学科ができてから、少しおかしくなったんじゃねえ かと、私は思うんですが⋮⋮。大正十二年の事件は私は現実にみていないが、もし何かいったら殺されたかもし

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んねえ、とあとからいわれたことがある。だから、いかなくてよかったと思った。学校が大さわぎのとき、私は 兵隊にいっていて、いなかったです。

 白山界隈の風景

   白山界隈はどんなでしたか。  上原 電車はいまの甫水会館のところで折返しになっていました。三田から曙町行きでしたね。そこから板橋 へも電車がありました。学校の近くに協和銀行があったね。白山の上に﹁まつや﹂というそば屋があって、よく そこへ注文したことがあった。学生食堂ですか。食堂なんてねえですから、学生は弁当もってきたんじゃなかっ たかしら。  酒屋さんは片町までなかったなあ。片町といやあ、境野先生の住所が本郷片町十六ですか。先生の宅のすぐそ ばに大杉栄がいたんじゃなかったかな。例の震災のとき殺された、子供といっしょに。  ﹁まつや﹂というそば屋の前を突き当たったところに映画館があってね。そこを回ったところに真浄寺という 寺があって、境野先生と関係があった。私が給仕に大学へ入って、私のあとに上野という子供が、給仕に入って きた。すぐやめたが、巣鴨へ行く途中の干うどん屋の息子で、お母さんと二人でつくっていた。どうなったかねえ。    兵隊から帰ってどうしました。  上原 学校は変っていましたからね。戻りませんでした。境野先生の家へは何だかで行きました。高田真五ロ先 生がそのときいた。﹁どうするんだ﹂﹁出版屋かなんかやりたい﹂と話して、﹁東洋哲学﹂かなんか雑誌をみてま

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したから、宝文館というところに世話してもらいました。そこをやめて、そのうち戦争が始まって、いろいろ苦 労して最後は郵便局へ行きました。目黒の郵便局でやめたわけです。六十六歳まで働きましたよ。  そいで皮肉なことには、娘が日立電子の課長さん、アメリカに十三年もいたという人のところへ嫁にいって、 五十年だかにアメリカへ遊びにこないかというので、女房と二人でアメリカへ一月ばかり行って見てきました。 境野先生もこんなところへ行ったんだなと、なつかしかったです。  ー子供さんは何人ですか。  上原 息子と娘二人です。息子は三菱のエレベータの会社にいます。娘のもう一人は、はとバスの課長さんに 嫁入りしました。  それでね、さっきのアメリカにいた末娘はいま帰ってきまして、大きな家でね。自宅に床の間のある家をこさ えるというので、何か床の間を飾るものはないか、と考えて、井上先生の書があるから、表装して贈りました。 主人は新潟の長岡かなんかの人で、郷里の偉い人の書というので、大そう喜ばれました。そのとき東洋大学図書 館で先生のことを人名辞典で調べました。戦前は文学博士はあまりねえんだよね。博士号をもってる人は千五百 人、そのほかに法学博士は五、六千人で、医学となると五万とか六万とかいうんだよね。前田慧雲、境野黄洋先 生も、ちゃんとありました。  いまは、子供たちもみな、何とかやってますから、のんびりしています。この六月五日に、井上先生の胸像除 幕式のとき、大学へきたのは、さきほどの調べものもあったのです。いろいろ思い出しました。目賀田男爵のお 一100一

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邸は、事務所からすぐのところにあって、奥さんは勝海舟の妾腹の娘さんと聞きました。ょくできた人でした。﹁書

生さん﹂と呼ばれて、おかずなんかくれたこともありました。すぐそばに玄関があって、生垣ごしに見えるのです。

銀杏の樹があって、自分の手で掃いて焚火なんかしてお

られましたね。除幕式で六十年ぶりに大学をみました。

参照

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