法の一般原則についての試論--国際司法裁判所規程
38条1項の(C)を中心としての国際法の法源理論への
疑問
著者
大沢 章
雑誌名
東洋法学
巻
8
号
2
ページ
1-50
発行年
1964-11
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00007872/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja法
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ー国際司法裁判所規程三八条一項のω
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目 次 問 題 の 所 在 実 定 法 と し て の 法 の 一 般 原 則 法 源 の 理 論 む す び │ 国 際 法 の 発 展 と 法 源 日 1 J : 口 ド l 題 の所
在 国際法の基本理論のうち、その法源についてのそれは、もっとも困難なもののひと つである。なぜならば、法源の 問 題 は 、 法の理論の他の重要な要素たとえば法の主体のそれと内面的に密接にむすび ついているからである。主体と 訟 の 一 般 原 則 に つ い て の 試 論東 洋 法 学 客体との問題は、デモクラシーにおける二元論としての F 伝 B O S H -o
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にかがげられている国際慣習法とはことなる独立の法源であることが規定されていること に注怠する必要がある。この分析から引きいだされる結論は、文理的にも論理的にも、 。に示されている法の一般原 則 はω
のなかにもω
のなかにもふくまれてはいないで、それ自身が独立の準拠法としての性質をもった国際法のカテ ゴリ lに属するということである。そうして、この結論から引きだされるもうひとつの系論は、少くとも国際司法裁 判所の法源に関するかぎり、国際法を条約と慣習とだけに限定することは、その反対が条約それも集合条約のひとつ である国際司法裁判所の規程の明文によって明らかにされている以上、もはや主張することができなくなった非実証 的の独断であるということである。条約が条約または慣習とはちがう法源として規程の第三八条一項の O でみとめて いるものを、どうして否認することができるのであるか?その否認の根拠が法的に支持され、もしくは論理的に妥 当性をもっと考えることは、明証の事実にあえて限をふさぐことにひとしい。国際法の概念規定にあたって長く気づ かれずにきた法的な実証に反する独断がここにも潜んでいるのではないか?国際法の規制の対象は、国家間の高権 的な関係}5 宮古2
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一円三回目だけに限られているのであるか、それとも国家以外のものの参加する関係 についてもまた国際法が規定を設けているのが実証的な法的事実であるのかこれらの問題に対しては、古い国際法の 定義にもとずいて独断的に答えることは許されない。法源ことに法の一般原則の意義についても、全く同じである。 条約と慣習とだけがいままでみとめられてきた国際法の法源であるから、そのいずれにも入らない法の規則は国際法 まさしく論点の相違である。それは国際法の発現形態が条約と慣習とだけに限定されると ではないと論ずることは、 法 の 一 岩 原 則 に つ い て の 試 論東 洋 法 学 四 独断することであり、国際法の主体がそれら二つの法源とはことなる独立の法によって拘束されるこんにちの国際法 団体においての突証的の法事実をことさらに無視することである。もちろん、 かつての国際連盟のもとにおいての常 設国際司法裁判所や、現在の国際司法裁判所において法の一般原則を適用しての裁判の実例はこんにちにいたるま で、ほとんど存在しない。それにもかかわらず、法の一般原則が裁判を行うにあたっての国際司法裁判所の適用すベ き法であり、その裁判が﹁国際法に従って決定することを職務とする﹂紛争の司法的解決であることは、規程の条文 によって明らかである。これは法源についての理論ではなく、条約の規定に列記されている独立の法源の認識の事実 の問題である。ことに規程の第三八条一項の⑪において、 ﹁法則決定の補助手段としての裁判上の判決及び諸国の最 優秀の公法学者の学説﹂をあげていることから考えて、。の法の一般原則が法そのものとしてみとめられていること は、文理的にも論理的にもとうてい否定しがたい。これは、国際紛争を裁判によって解決する規定である。 そ う し て、この司法的の解決に適用される法は、規程第三八条一項が明文で規定しているように、国際法である。このよう にして国際司法の場において法の一般原則が裁判の準拠法としてみとめられるようになったことは、もはや疑うこと のできない実証法上の事実である。国際司法裁判所が自己に付託された紛争を国際法に従って決定門主 R よ
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ロとすることは、条文によって明らかである。しかもそれは国際法に従つてなされなけ ればならない。第三八条の第一項はそのさいに﹁適用すべき﹂ものの一つとして、 ﹁文明国によって認められている 法の一般原則﹂をあげているのである。それゆえ、それが国際法であることをみとめないのは、条約の正文をみとめ ないことである。ことに国際司法裁判所規程が本来の窓味においての法源と、何が法であるかを決定するための補助手段
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にも応し えないし、国際慣習法にも属しえないことをみ什めている。条文の分類からみて、この認識は正しい。ただこのことからか れが引きいだしている結論に対しては、根本的な疑問がある。かれは法の一般原則がいままで国際法の法淑として多くの学 者によってみとめられてきた条約と慣習とに属しないからというだけの理由で、それは根本的には国際法には知られていな い法規範に属するものであると論じている。しかしそれらの法原則が根本的にはいままでの国際法には知られていない規範 5 0 2 口伝手 F 2 5 n r z r 。E r Z 2 5 g であるということと、それが新しい国際法として国際司法裁判所で適用されると いうことは、全く別なことがらである。かれが概念のこのちがいをみとめないで、法の一般原則を国際法として否定するこ とは、大きな論理的のあやまちをおかすことである。 ( 2 ) たとえば、ロス問。g
はその代表者のひとりである。かれは﹁国際法の諸原則﹂官 E 1 1 2 0 ﹃F
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の制定の過程とも、内的に関連している。法の一般原則と国内法のそれに限定しようとする考えかたがそれであ る。ロスは、これらの原則を、普遍的な人類の普通法の一程または自然法の一の普遍的な人類的の客観化ω
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/、実定法としての法の一般原則
法の一般原則が国際司法裁判所の裁判にあたって適用すべき準拠法の一つにかぞえられて実定法となるにいたった 歴史的の過程については、 いまここにとくに論述するかぎりではない。ことに、それが国際連盟のもとに常設国際司 法裁判所として成立するにあたって、規程の第三八条の O が新たな国際法の法源としてみとめられるようになった条 ( 3 ﹀ 文の制定の歴史的の経過については、すでにいくつかの詳細ですぐれた研究がなされている。ところが国際紛争の司法 的の解決にさいして、国際連盟の時代においてはもちろん、国際連合のもとにおいても、法の一般原則が国際裁判の 準拠法として援用された実例は少ないし、国際裁判所はむしろできるだけこれらの原則を適用することを避けてきた のではないかと思われる傾向がみとめられる。その理由は、もとよりかんたんではない。第一に、法の一般原則が何 であるかについては、国際法学者のあいだだけではなく、広く法学者のあいだにおいても、こんにちまで学説がはっ きり確立しているとはいえないことをあげなければならない。たとえば、文明国がみとめている法の一般原則という ( 4 ) 表現のうち、文明国が何であるかについては、ほとんど争いはないといえるが、法の一般原則の性格が何であるかに ついては、学説は必ずしも一致しているとはいえない。それらの法原則が国内法であるのか、それとも国際法である を除いて考えると、法的にはそれらを国内法の領域にだけにかぎる根拠は見いだしがたい。 かについては、規程の第三八条一項。は何も規定してはいない。同条の成立の議事過程その他の歴史的の事実や過程 たとえば一良雪印円3
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によって提唱された法の一般原則で あり、その当時の普遍的な法の理念を表現している重要な法の遺産である。それは人間共同のあらゆる場において、 その共同に害があり、生活に危険のある行為や事実は、法がこれを否認し、その害と危険とから社会を守ろうとする 意欲の明白なあらわれである。共同に害を与える行為と事実とが排除されなければならないのは、自然の道理であっ て、便宜のことがらではない。もとよりいま刑罰権の妥当根拠について深く探究することは、本論の志すところでは 法 の 一 般 原 則 に つ い て の 試 論 七東ー 詳: 法 学 i¥_ ないが、罪刑法定主義の客観的な妥当性については、それが法の一般原則にまで高められて、多くの国の憲法と刑法と の法体系のなかに規範としての地位を確立し、それについては普遍的な法確信が存在していることによっても実証さ れるところである。﹁法律なければ犯罪なく、法律なければ刑罰はない﹂ Z 己
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回 一 円 高 一 巾 官 の法原則は、近代社会においての市民の自由を保障するための最も強力な支柱となって、法体系の安全性を確立して きた。この法原則が近代法のなかに定着して実定化した事実は、なにびとも疑いがたい。そうしてまた法の発展の歴 史は、そのことを実証している。そのいちじるしい例のひとつとして、ことに法の本質とその機能とについての劃期 的で普遍的な定義を確立した実定法のなかにおいて無視することのできないもののひとつに、 一七八九年のフランス の﹁人間および市民の権利の宣言﹂をかぞえることができる。宣言は、その第五条で﹁法律は社会に有害な行為のほ かは禁止する権利を有しない。法律で禁止されないすべてのことは、妨げられるべきではなく、まただれでも法律が 命じないことをするように強制されるべきではない﹂と規定している。ここでは、個人の自由を権力の不法な行使か ら守ろうとする思想が宣言によって提示される権力構造の全体を貫いており、それによって法律のなしうるところ、 なしえないところが何であるかを規定したのであり、その意味でこの宣言は法発展の歴史において全く新しい時点を 示したといえる。法律はその本質からいっても、人間に対して全能ではないし、またそれじしんが自己目的ではない ことが高く掲げられたことは、たんにフランスだけのために示された法の概念ではなかった。ことに法の秩序のなか にあって法律という法形式のもつ怠味と限界とを、人間の自由との普遍的なつながりのなかにおいて捉え、その恋怠 から基本的な人間の権利を守ろうとする意欲を明らかにした点において、この宣言の歴史的な芯義がみとめられる。そのなかでも、権力の不当な抑圧から市民の自由を守ることを憲法の明文によって規定したことは、それに先立つ長 (5) 重な例が他にあるとしても、その世界史における画期的な重要性と功績とは、永続的な価値をもっている。このこと ア ン シ ア ン 、 レ ジ ー ム は、旧制度の専制を特色づけた刑罰権との関係においてもいちじるしい形で現れている。宣言はその第八条で、﹁法 律は厳格にかっ切らかに必要な刑罰のほかは設けることができない。まただれでも、犯罪に先立って制定され、公布 ( 6 ﹀ され、かっ迎法に適用された法作によるのでなければ、罰せられるべきではない﹂とはっきり規定して、いわゆる罪 刑法定主義の原則
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を訟法のなかにとりいれて、その法休系の重要な椛成部 分とみとめたのである。法の一般原則のうちで極めて基本的で主要な、法伴の木氏と限界とについての原則と、犯罪 と刑罰とについての法律中心の原則とが、刑罰法規の不遡及の原則とともに実定法の体系の重要な礎石としてとりい れられるようになったのである。これは﹁人間および市民の権利宣言﹂の法的意義のもっとも明らかな表現である。 その基本的の性格は、国家に先行する人間の権利があるという事実にもとずく思狙である。すなわちここでは、個人 権が主権を構成する原理として提示されている。この宣言が人間および市民の権利とのべていることは、人間の権利 が市民のそれに先行することを語るものだからである。ここで人間存在の本質を形成する自由を契機として捉えると きに、個人権と社会権とがどのような関係に立つかは、おのずから明らかとなる。政治権力の専制を防ぎ、その不法 な行使を不可能にするためには、先づ権力がそれに奉住すべき法の理念を明らかにすることからはじめなければなら ない。その法の理念のなかでもっとも重要なもののひとつが、実定法の体系のなかに一七八九年の宣言としてとりい れられたのである。窓法秩序のなかに法の理念が明文によって示されたことは、決してたんなる政治の綱領または宣 法 の 一 般 原 則 に つ い て の 試 論 九東 洋 法 学
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言にとどまるものではない。そこには、権力を行使するものの法の理念からの不法な逸脱を防ごうとする主権者とし ての民の決意が、法規範として憲法の正文となって示されているのである。フランスの第四共和制の一九四六年一O
月二七日の憲法は、この点について注目すべき規定を設けている。すなわちその前文は、この憲法が人類を奴隷化し 堕落させようと企てた諸制度に対する抵抗の成果であることを明らかにして、過去の歴史的な自由のための努力との 内面的なつながりを確認したのち、 フランスの人民が一七八九年に権利宣言によって確立した人間および市民の権利 ( 7 ﹀ と自由ならびに共和国の法律によってみとめられた基本的原則を、おごそかに再確認したのである。これらの法の一 フ ラ γ ス憲法のなかにとりいれられて、その効力を再確認されることによって、法としての拘束力と恒久 般 原 則 は 、 性とを獲得し、その伝統的の規範力を新たに宣明することができた。これは政治権力を立法権と行政権と司法権とに 分って行使する任務を謀せられた権力者にとって越えることのできない法的限界を規定したことを意味するものであ る。さらにこの原則は、 一 九 五 八 年 一O
月五日のフランス共和国の憲法すなわち第五共和制の体系のなかにおいても 前文として引きつがれ、 ﹁人間の権利と国民主権の原則に対する深い愛﹂を厳粛に宣言している。 それらの宣言に共通する思想は、権力ことに執行権の怒意と不法とから人間の基本的な権利と自由とを守ろうとする フ ラ ン ス 人 民 は 、 権利保障のそれである。このように、法の一般原則が国際法の形式的な法源の一つとみとめられなければならない論 拠は、決して憲法秩序のなかにそのあるものが実定法としてとりいれられていることだけではないが、しかし同時 に、同じ内容の法の原則が平行的な立法として多くの国の法秩序の椛成部分として成立する過程を通して、この法源 の普通性をとらえることができる。いまそのなかでとくに注意すべきいくつかの例について考察することによって、その実定法化の態様を明らかにしようと思う。そのことによって、法の一般原則が国際法の形式的な法源であること を、実証的な法的事実に反して独断的に否定する学説のあやまちを論証することができると信ずるからである。 ( 3 ﹀いまそれらの研究について主要なものだけでもここに掲げることはできない。ことに問題となっている条文の制定につい ては、議事録その他の国際法史的の研究にとって必要な資料がいまここでは手もとに欠けているので、その実証的な考察は いかんながらすべて他の機会にゆずるほかはない。これは国際法史または悶際法思恕史に課せられた怠義ある仕事のひとつ で あ る 。 ( 4 ) 現在の国際政治の一般的な状態から見れば、ここに使われている文明国ということばは、ほとんど国際述合の成只という ことと同意義的になっているといえる。したがって、法の一般原則についてとくに文明国によってみとめられたという限定 をすることは、現実的にはもはや意味のない形容となっている。民主主義の基本的な諸原則を承認し、その政治に法の支配 をみとめている国はすべて文明国であるということができるし、こんにちの国際交通のなかにあっては、文明国でない国家 はもはや存在しないからである。ここで明らかになるのは、国際関係に適用される法規範の成立に必要な合意が、条約と慣 習とのこつの法形式にだけよって表現されるものではないということである。法治国家の形式と実質とをそなえている現代 の国家が、その法秩序の基底にあるものとしてみとめている法の原則であるならば、それらを文明国がみとめた法の一般原 則とよんで差支えない。その法の秩序がみとめている法の原則は同時に国際法の秩序においてもみとめられているのであ る 。 ( 5 ) そのもっとも古いものとして、一一二五年の宮高 g n r R E をあげることができる。現代につらなるものとしては、一 七七六年六月一二日の︿町 m E U
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胃 EgB とを代 表的なものとしてあげることができる。この宣言につづく後の国際的の権利宣言その他については、後にのべるところにゆ ず る 。 ( 6 ﹀この罪刑法定主義の目的とするところが、人間の自由を権力の恋意的な行使から守ろうとする個人の尊厳の保障の思想に 発していることは明らかである。それゆえ、罪と罰との因果関係を規定するにあたっては、法の存在が必要であり、類推は 法の一般原則についての試論束 洋 法 学 許されていない。もしそれをみとめるならば、個人の自由は否定されて、権力の専横が自己に都合のわるいものを公共の福 祉の口突のもとに抑圧する危険が多分に存在するからである。犯罪と刑罰とのあいだの関係を規定する法律の明文が存在す る場合においてさえ、政治的の考慮その他の非法律的の要京や要読の名のもとに、その正しい解釈が山げられ、司法権の行 使が、強大となった行政権によって大きく影響される危険の多分にあることは、歴史的に見て少なくない。わが国に例をと れば、大津事件に現れた司法権と行政権との関係は、その著しい証明である。公共の福祉という口実が人間の基本的な自由 をいちじるしく侵害した政治の歴史から考えても、自由の保障としての法の一般的原則の規範性の承認は、刑法秩序を通し て松力の専杭の防止と個人の基本的の権利の保障とをはかるという二重の機能を果たす歴史的な建設的の怠訟をもっ四期的 な で き ご と で あ る 。 ハ 7 ) 一 九 四 六 年 一
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月二七日の第四共和制の憲法は、厳踊に再確認するという表現を用いている。これはたんに一七八九年の ﹁人間および市民の権利の宣言﹂のなかにかかげられた基本的な法と政治との原則にだけ関することではない。一七九三年 の 人 間 お よ び 市 民 の 権 利 の 宣 一 一 一 一 口 も 、 政 府 の 行 為 を 監 督 す る こ と の 重 要 性 と そ の 有 効 性 と に つ い て 規 定 を 設 け て い る 。 そ れ ら の行為は、つねに社会的制度の目的によくかなっているかどうかを宣言にかかげた原則に照らして比較されなければならな いのであり、それが暴政による抑圧と障.落とから市民を守る保障となるのである。宣言は、人民と司法官と立法者とに対し て、各そのよるべき行為の準則を示すことによって、政治組織の存立事由を忘れないことを促しすすめているのである。 個人権の保護を国の法秩序のもっとも基本的な原則として憲法的の基礎づけをしている実定法の例は、他にも少な からず存在する。そのなかでいちじるしい例の一つとして p u E m m E宮 町 民 去 。 ロ ロ E25 吉 田 r z rロ
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言 。 r z E の基本経に ついての十九ケ条の規定をあげることができる。基本法の第一条は、﹁人間の都政はふれることができない。それを尊 ( 8 V 重しかっ保護することは、あらゆる国家権力の義務である﹂と規定している。基本法がその第一条の規定によって、 すべての国家権力の妥当根拠が、人間の尊厳とそれに対する尊重と保護とであることを宣言したのは、この基本的の法原則を実定法としてとりいれたいちじるしい例である。すべての国家権力は、自らを目的としてそれじしんにおい ゾン・ヂ I ト ル て存在するものではなく、その存立事由は、つねにそれを形成するひとりひとりの人問、その個人権の尊重のなかに ある。そうしてこの規定が、十八世紀の啓蒙主義哲学のなかに定着している人間の社会的の尊厳と、その自然的の平 等とについての信念に基礎をおいていることは疑うことができない。各の人間のうちには、 いかなる権力によっても あ っ て 、 ふれることのできない、生れながらの価値としての尊厳があることを確認したことは、事物の真実をみとめたことで いかなる学者または思想家の学説でもなく思想でもない。そうして、人間に内在する価値としてのふれるこ とのできないこの尊厳は、自然においての人間の平等と不可分の関係に立つ。社会的の尊厳が平等であることをみと めたこの規定とは、法的に考察して、法的のわれのもの
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去とが、平等の 原則にしたがって秩序の基底にあってその安全を形成していることを意味する。ふれることのできない価値をそのう ちにいだくものは、論理的の必然として、また他のなにものによってもそれを侵されることを許すことができない。 連邦共和国ドイツが口町巧皆骨骨間宮内ロm
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という命題をその基本法の冒頭にかかげたことは、人間 の自然権についての少くともスコラ以来の古い法思想を伝承したことであり、それは同時に権力の起源についての正 しい見解を示している。さらにその第二項において、 ﹁それゆえドイツ国民は、世界におけるすべての人間共同と平 和および正義の基礎として不可侵で不可譲な人間の権利が存在することを宣言する﹂と規定しているのは、文明国民 の法的確信をかれらに代って提唱したことであるともいえる。人間の不可侵で不可譲な自然権がみとめられないいか なるところにおいても真実の人間共同はありえない。したがってそこにはまた、国家も存在しえない。もしこの基礎 法 の 一 般 原 則 に つ い て の 試 論五{ ザ 15 、 v , 守 ・ 法 学 四 が失われるならば、真実に平和な人間共同はありえないし、個人の自由もありえないことになる。そこに存在するの は、少数の一部の人間が、多数の人聞を強力によって抑在する専制の支配だけである。不法の権力行使の行われる場 合 の 名 目 は 、 いつも、国家の利益を権力者が委任によって管理する人間の共同であるといわれる。けれども、人間の 尊厳と自由とが保障されない政治の体制は、 たとえそれが人民による自らの政治であると主張されるとしても、それ はけっきょく少数による多数の抑圧をかくす美名にすぎない。過去においての多くの民の憲法制定の歴史は、形式的 な法の支配のもとに、実質的には少数が多数を抑圧する最大の不法をどうしたならば防ぐことができるかについて の、人間の権利のための闘争の労苦にみちた記録にほかならない。権力は、その本質上、それを行使するにあたっ て、いつも正しい原則と限界とを侵しやすいものであることは、政治の歴史がこれを証明している。モンテスキュー によれば、政治的の自由は、節度のある政治のなかにだけ存在する。しかしそれは、節度のある国家のなかにいつも あるわけではない。自由が節度のある国家のうちにあるのは、 ひとが権力をらん用しない場合にだけかぎられている のである。げれど、権力をに、ぎるすべての人間が、それをらん用するようになるのは、 モンテスキューによれば、、水 遠の経験である。かれは、ぎりぎりの限界までそれを行うであろう。美徳でさえ、その限界が必要だとは、 ハ 9 ) れがいうことだろう!
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R 司 、i v , 中 心 l v 中 れ それゆえ、このような権力による不法を防ぐために、言論の自由があり、その正しい発動に よって、権力が怒怠におちいり、民の権利をさんだっする危険を阻む手段が有効なものとなるのである。 は、長いとう争によってアメリカの独立と本命とをたたかいとった独立戦争の父たちが、身に体して信じていたとこ こ の こ と ろである。何よりも先ず、真実が氏の所有とならなければならない。なぜならば、誤謬から生まれる不法と悲惨とは、いつも無知をその母とするからである。権力がしばしば犯すあやまちは、 かくされることなく、正しく民に知ら されなければならない。ジェプアソンは、真理こそあやまちに対する適切で充分な敵手であると強く主張している。 これは、すべての公共の不幸と政府の腐敗とが、人間の椛利についての無知、その忘却あるいは蔑視を唯一の原因と するとのべているフランスの人権宣言と同じ思訟の系譜に由来する考えかたである。かれはさらに、次のようにのベ ている:::﹁私は人民の良識予め唱え閉めロ問。。ご﹃宮 c Z 巾がいつも故良の軍隊とみとめられることを確信している。 ガベナ l ズ まもなくじぶんでじぷんを正す。人民こそ、かれらの治者た かれらをして、その制度の真実の諸原則を守らせる かれらは、しばらくは分散させられるかもしれないが、 ちの唯一の検閲官である。そうして、 かれらのあやまちでさえ、 ように仕むけるであろう。それらのあやまちを、あまりにきびしく罰することは、公共の自由の唯一の保障宮内
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町 宮 。 1 0 のなかに浸透するような工夫をすることである。わたしたちの政府の基礎は、人民の世論なのであるから、ま ず第一の目標は、それハ世論﹀を正しく保つことにあるべきである。そうして、もしも私たちが新聞のない一の政府 をもつべきであるか、それとも政府がなくて新聞があるべきかをきめることが私にまかされるとするならば、私は後 ( 叩 ﹀ 者をえらびとることを一瞬もちゅうちょしないであろう﹂。この思想と文章とのなかには、 して全世界に拡がろうとしたあの力強い自由の精神の息づかいが、 一七八九年のフランスに発 はっきりききとれる感がする。ジェファソンが何 にもまして守りたかったのは、民主的な政治の基礎になければならない言論の自由であった。そうしてそれがない、 法の一般原則についての試論 一 五東 洋 法 学 一 六 い た る と こ ろ に お い て 、 そ の 政 治 と 政 府 と が 何 で あ る か を 、 私 た ち は 一 九 二
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年 い ご の イ タ リ ア と 、 一九三O
年 い ご の ドイツと、 一九四O
年 い ご の ソ ヴ ィ エ ト と の 政 治 の 現 実 の な か に み い だ す こ と が で き る 。 一 一 一 口 論 の 自 由 が あ ら ゆ る 政 治 の 基 礎 で あ る こ と は 、 そ れ な し に は 思 想 の 自 由 は け っ き ょ く 空 し い こ と ば に す 、 ぎ な く な る こ と を 考 え れ ば 、 明 ら か で あ る 。 そ う し て 、 思 想 の 存 在 し な い と こ ろ に は 人 間 は 存 在 し な い こ と を 、 私 た ち は い ま パ ス カ ル と と も に 、 も う い ち ど 根 本 的 に 考 え て み な け れ ば な ら な い 必 要 を ほ ね 身 に し み て 感 じ さ せ ら れ る 政 治 の 時 点 に 立 た さ れ て い る の で あ る 。 ( 8 ) ﹀ ユ -Q -H ﹀口一ω巧骨骨骨印冨 gRZ コ E E ︼ ロ E E F R -m -2 Z 2 n E 2 5 ι N Z 問 。 -H E N S E L -o ︿ 21 一 一 。 r E ロ ∞ ロ = 2 三自己正月ロ白内君。日門・人間に内在する本源的の価値としてまたなにびとによってもふれることのできない価値として、人間の 尊厳があるとの認識は、それから派生する他の権利の性質をしる上において、きわめて重要なな義をもっ。不可佼性は、す べての権利についてみとめられなければならないことであるが、それは各のものの社会的な尊厳についての尊重の原則がみ とめられるからである。﹁各のものにかれのものを帰属せしめよ﹂の法原則は各にかれのものとしての人格の尊厳が帰属す ることが自然の法別である真理からきている。侵すニとのできない権利は、人間に内在するその平等性と尊肢とについての 自然権にもとづくものである。そうしてこの法の一般原則が、多くの国の窓法のなかに突定法としてとりいれられたこと は、その国際法においての法源としての性質を認識する上において、きわめて主要な役割をもっといわなければならない。 ここでは平行的な国内立法の過程を通して、国際法の法涼が普遍的な法的確信となり、その基礎の上に法の一般原則が成立 し確認する態様が明らかにされているのである。 ( 9 ) 富 。 ロ 円 何 回 官 庁 F ロ 巾 τ 開 閉 沼 町 一 円 L E F o u -F -2 m v p 岳 山 号 -H ぐ・かれが永述の、または恒久的の経験であるとのべていること は、法服穴放としてのモンテスキューの政治の思想がむしろ保守的でさえあることと考えあわせると、非常に示唆にとんだ ことだといえる。 ( 叩 ) 巧 己 一 一 ロ E 0 ・ ロ 。 ロ ∞ - 5 ・吋 r o H N 一m
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-匂・己・ダグラス判事がアメリカの裁判官のなかにあってどのような思想的の系譜の上に立つかの事実とはしばらくはなれて、かれがアメリカ革命の父たち、ことにジエフア l ソ ン の 一 一 一 口 論 の 自由についてのほとんど宗教的の信念といってもいい確信に対して深い共感をもっていると思われる点は、注意されていい で あ ろ う 。 人間共同のもっとも深くかっ強い基礎が、各人の自然にうけた尊厳にあることをみとめた法的確信は、 ま た 同 時 に、世界に平和と正義との行われる基本的の条件が人間の尊厳にあることを宣言しているのである。そうしてこのこ とは、国家権力の存在の原理と、その行使の法的限界がどこに求められなければならないかを明らかに示すものであ る。アメリカの独立初期を特色づけるもののひとつに、言論についてのこの自由の基本的な信念あるいは法確信のあ ることを、わたしたちはこんにちの時点において決して忘れてはならない。これは政府の専横と恋意とが法律の名に よって、あるいは公共の福祉を理由にして偽装される危険から、人民の基本的な権利を守るについて、きわめて重要 なことである。アメリカの連邦最高裁判所にあってこの問題に関してすぐれた見解を卒直にひれきしているダグラス 判事の文章を、もう少し分析して問題の核心をつかむことにつとめてみよう。言論の自由の憲法による保障は、その 性質上もともと宣言的のものであって、法律によってはじめてつくられる創設的のものではない。 一 七 九 一 年 一 二 月 の憲法修正条項の規定は、この点をはっきり示している。それは次のように表現されており、憲法のなかに突定法と ︿ U ) してその法原則の普遍性が宣言されていることに注意すべきである。 ﹀ 3EE 古 山 内 E E C ロ 円 C W E 己 ﹀ 5 0 ロ 門 ] 吉 の E C ﹃己 v c m U 2 ︼ 肌 門 戸 三 宮 口 C 子 己 V O C E Z ι 竪 2 2 C { ﹀ ER 片 F ℃ 円 C ℃ c ι
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円にもとずいて、主権者である人民が自らのためにその飲する内容の政治体制としての定法をはじ めて創定する場合のように、そのことのために特別の立窓会議を形成してその自発的な活動を通して自由に基本法た る憲法を確定する方法をとってはいない。改正または修正の場合はそうではなくして、窓法によって杭成された法的 の制度としての機関 c 昂2
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ロ丘町忌によって、この場合にはすでに成立している窓法上の立法機関としてのめg m
月白 コ Y グ レ ス の第五条に基き合衆国議会によって発議 によって、行われるのである。すなわち、原憲法吋 Z C 1 E E -のg
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己 O ロ され、各州の州議会で批准されたアメリカ合衆国定法の増補ならびに修正条項として、その修正が成立しているので ある。そうして、この第一の修正条項によって、国家の権力ことに立法権が法律の形式において規定しうることが決 して無制限ではなく、そこには事物の本質から出てくる可能の限界がおのずからあることによって、法律の名による 不法と権力のさん奪とをふせごうとしているのである。基本的な人間の自由について第一の修正条項の第一条は、次 のように規定している。 ﹁合衆国議会は、国教を定立しようとしたり、または宗教の自由な礼拝を禁止するようない かなる法律をも、制定してはならない。また言論や出版の自由を制限し、あるいは人民が平総に集会する権利や、苦 ハ ロ ) 痛の救済を求めるために政府に対して請願する権利を制限するような法作を制定してはならない﹂。ここでは、修正条 項の規定は消極的である。法律をもってしでも制限することのできない性穴の、自然的で先国家的の価値があること、その価値については法は従わなげればならず、 またこのことから明らかであるように、すべての人間がもっ自然 松は、立法権を規定するところの法的の原理であり、それをみとめることは、立法権をふくめて、すべての総力が従 わなければならない法の一般原別であることが、この定法の第一修正条項の第一条によって確認され立言されること になったのである。法の一般原則の認識の歴史の上において、この修正条項のもつ意義には、まことに大きいものが あるといわなければならない。なぜならば、この条項のなかに表現されている思想と原則とが、のちに他の多くの同 家の憲法のなかにもみとめられ、平行的な立法として法の確信を形成するにいたり、慣習法とはことなる法形式をも って、法の一般原則としての法源性を獲得するようになったからである。そのいちじるしい例として、先にのベたド イツの基本法の第一条の第三項をあげることができる。同項は、次にのベる基本権は、立法と行政と司法とを直接に ( 日 ﹀ 拘束する現行法官一
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河内己戸円であると規定している。基本法の体系のなかに人間の基本経が立法権と行政杭と司法 権とに上位して、それらを直接に拘束する5
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ところの法価値であることを確認し宣言したことは、政 治するものと政治の利益をうけるものとのあいだに存在しなければならない法の基本的な原則を定法的の規範とし て、実定法化したことに外ならない。これは、仲裁裁判所などの実践によって法の一般原則が国際法の法源としてみ と め ら れ 、 かっ適用されてきた歴史的の事実とともに、二重に意味が深い。そのひとつは、国内法ことに怒法の体系 のなかにある法の原則がとりいれられ、それと同じような内容の法の原則、が他の国の定法体系のなかにおいて安定法 化するという国内法の平行立法の過程を通して、法の一般原則が国際法として成立するにいたったことである o 他 の ひとつは、国際裁判の突践を過して、法の一般原則が国際法の法源性を獲得した過程である。それゆえわたしたち 法 の 一 般 原 則 に つ い て の 試 論 九京 洋 法 学 二
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は、その各において、国際法として定着した法の一般原則を、どうして園内法の原則または国際法の原則と限定しな ければならないのか、その理由を見いだすのに困難である。たとえば、﹁なにびとも自らの事件において裁判官である ことはできない﹂ことを宣言する法の一般原則は、いったい国内法のみとめる原別であるのか、それとも国際法のみ とめるそれであるのか? あるいは、双方の法体系にわたって共通にみとめられる法形式であるのか? 国内裁判所 でこの原則が援用されたという形式的な、歴史的な事実をただひとつの論拠として、それを国内法秩序だけがみとめ る法の一般原則であると、だれにいいきれるか?またたとえば、﹁後法は前法を廃す﹂の法原則について先にのベた ところを考察すれば、この法の原則は、たんにある特定の国家の法体系のうちにだけみとめられているのにとどまら ず、こんにち文明国とよばれるほどの国家であるならば、そのことはすべての民の法確信として定着しており、 い ず こにおいてもこのことについて普遍的に妥当している法の原則があることは、とうてい否定することができない。そ うしてこのことは、司法権による法の保護の問題とも、内的に深い関連をもっ重要な点である。裁判官は、自己の前 に提出された権利についての争いを、そのことがらについて直接に規定している法律が存在していないという理由だ けで訴訟の受理を拒否することは許されない。裁判官は、問題となっている事件について法が存在しないことを理由 にしてその審理から手を放ち、その法的の争いを当事者の実力にゆだねることを許されてはいない法の一般原則に拘 束されるからである。したがってその場合には、何が法であるかが明らかでないことを理由にして、訴訟を却下する ことは、法的には許されていない。これがロ o 三一宮内門の法理である。ことに国際法秩序の平和と安全とを保障する国 際裁判の本質と機能を考えるにあたって、このことは重要な怠義をもっといわなければならない。すでに国際連合の窓章においても、世界の平和を保障するについての総会と安全保障理事会とに対してみとめられた重大な権能につい ては明らかに規定を設けている。すなわち憲章の第一一条によって、総会は国際の平和と安全の維持とについての協 力に関する一般原則を、軍備縮少および軍仙規制を律する原則をもふくめて審議し、かっこのような原則について加 ハ M V 盟国もしくは安全保障理事会または両者に対して勧告することができることになってレる。この一般原則は、国際法 の秩序において紛争を解決するにあたっては、紛争の当事者はつねに、あらかじめ可能なすべての平和的な手段に訴 えなければならない義務があることを規定したものである。いいかえれば、この規定によって紛争の解決方法として 自救手段に訴えることを禁じたものであり、この原則は、さきにのベた Z 2 5 y r M E m o E m E g c m ω の原則の系をな すものである。国際連合の安全保障理事会の任務も、世甲引における平和と安全との保障をそのもっとも重要なものと することにおいて、紛争についての基本的な原則を示したものである。紛争は、それが圏内法の秩序の内部におきた ものであっても、国際法の秩序の内部におきたものであっても、その解決の原則と方法とについては、ともに共通の 法理念のもとに立っているし、また立たなければならない。すなわち、なにびとも自らがその紛争の当事者である事 件におい℃は、当事者であるとともに同時にその紛争解決の審判者であることは許されてはならないのが、法の基本 原別である。そうしてこのことは、事物そのものの性質から出てくる自然の道理であり、それを条理の名をもってよ ぶこともできる一般的の法原別である。それゆえ、国際連合の憲章のなかでこの原則が条文化したことは、条約と慣 習とのほかに法の一般原則が法源としてみとめられたことを論証する重要な事実であるといわなければならない。 法の一般原則についての試論
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2SR 巴・この第 一条の自由についての規定には、ある国の憲法にみられるような、法律による制限の規定は存在しない。その思想的の系譜 としては、おそらくヴァ l ジニア権利章典のなかに示されているものが考えられるのではないか?同章典は、その一二 の項で﹁出版の自由は、自由を守る重要なとりでの一つであり、これを制限するものは専制政治にほかならない﹂とのべて いる(大沢章編﹁世界の憲法﹂一八頁以下参照)。 (ロ)これは、立法権の限界を消極的に規定した画期的な条文である。法律をもっても制限を規定したり、権力が行うことので きない正しい椛力の限界があることを定めたことは、ある国においても、具体的の場合に何が公共の福祉であるかをきめる ものが、法的にはいつも立法権または行政権あるいは司法権にほかならないことを考えると、この条文は非常に主要な志一誌 をもっ規定であるというべきである。究極においては、国家権力がいつも公共の福祉とは何であるかを一方的にきめうると いうことは、ヴァ l ジニア権利章典の表現に従えば、﹁出版の自由は自由を守る重要なとりでの一つであり、これを制限す るものは専制政治にほかならない﹂ことを否定すると同じになるからである。そうしてこの点においては、それを第二次世 界大戦ののちに成立しまたは独立した多くの国家の憲法の自由権の規定と比較して研究することは、きわめて重要であり、 有意義である。問題は、憲法または法律をもってしでも制限することのできない権利としての基本経の存在が確認されたこ とと、法秩序のなかにおいてそれらが占める地位と価値とについてどのように考えなければならないかということである ο ( 日 ﹀ ﹀ ユ ・ ﹁ ( リ 。 ロ ∞ ﹃ 何 回 日 間 } 回 ロ = 自 己 お ロ O ] 句 者 H m m 七 日 己 ロ m E M E Z 口 出 r E m H ︼ 円 。 ﹃ B Z E o p 。 ﹃ 勺 s r F F E m F o p m o m v A O R r o 己 百 円 向 。 ﹃ U 。 円 ロ ゲ ユ 門 } ∞ E m 子 。 ﹃ 自 主 。 ヨ 広 告 の め の -f o H 。 ﹃ 子 。 ぢ 円 g m U 2 己 戸 0 1 m z o ﹃ 子 。 句 。 。 ℃ 一 の 宮 R g z u 、 円 。 ロ 日 目 。 E Z P S L Z 宮 門 戸 吉 田 ︼ 子 の の 。 ︿ 2 ロ gg 円 問 。 ﹃ ロ 月 円 山 門 何 回 問 。 町 mユ 2 ・ 2 2 目 ・ ( ﹀ ヨ O凹 ﹄ ・ 司 g m F 0 ・ (UG ロ 日 円 吉 田 C C 5 0 ﹃ Z 巳 古 口 問 噂 ︿ 。 一 -H 回 目 ・ ℃-S
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( U ﹀国際述合窓立第一一条 I ( 大沢章編﹁世界の憲法﹂二O
六頁参照)。国際辿合がその基本目的としているところは、普良な 隣人として互に平和に生活し、国際の平和および安全を維持することであり、その究版の受益者はひとりひとりの人間であ る。これらの目的を述成するための同際組織またはその機関が何でかの問題と、その利益の侃同すべき主体が何であるかの 問題とを混同してはならない。人間の尊厳を保護することがその究極の目的であることを無視しては、組織とその機能との問 題 は 其 尖 の 立 味 を 理 解 す る こ と は で き な い か ら で あ る 。 法 源 の 玉虫 三人. ñ~iJ 国際法の法一政が何であるかについては、すでに専問の学者のあいだにおいても多くの論議がなされており、学説もこ んにちにいたるまで、 ほぼある点については二致していたともいえる。それはけっきよく、条約と慣習とが、国際法 の唯一の法源であるということにつきる。そうして多くの国の定法も、間際法と同内法との閃係について、明文の規定 を設けている。わが日本国定法が円以古川法規の章の第九八条の二項で、﹁日本国が締結した条約及び確立された国際法規 は、これを誠実に遵守することを必要とする﹂と規定
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ているのはその一例である。その内容をどのように定めるか についての学説は別として、国際法については二つの法形式がわが国の法体系の一部を構成するものとして窓法によ ってその法的妥当性が確認され、最高法規のなかに法的規範性が宣言されたことは、なにびとも疑うことができない。 ただわが定法のとっている表現が、誠実に遵守することを必要とするというような、ややその法的の性格がはっきりし ない感をあたえる点において、国際法と国内法との関係を法的にはっきり定めている国の怠法とはちがっているだけ ハ 同 じ で、それらが国内法の秩序を構成する要素として実定法の体系のなかにとりいれられている法的の事実は全く明らか である。このように、国際法の法源、が、同時に国内法の法源となって法的に拘束するという法的事実において、 そ れは多くの同の窓法と共通のものを示している。それゆえ、このような立法の過程をとおして、国際法の国内法への 法 の 一 般 原 則 に つ い て の 試 論一
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東 洋 法 A主ゐ ヲー 二 四 包括己訟が行われたとみることができる。国際法の規範は、それらが国内法秩序のなかにとりいれられることによっ て 、 一方においては従来の国際法の体系を構成する要素としての地位を保持しつ守つけるとともに、国内法の秩序のな かにとりいれられた部分は、同時に国内法としての性格をそのCE官民の過程をとおして獲得することになる。この ように二つの法秩序は、ある学者が主張するようにそれぞれ他を疎外して互に関係なく独立して存在しているのでは なく、統一的な法秩序のなかにおいて、上位と下位との法段階をつくりながら段階的に統合されているのである。 (日)たとえば、イタリア共和国の憲法の o m 門
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と規定している。そうしてここにいう一般的に承認された国際法の規範が、ただ条約と的自とだけに かぎられるとの証拠は、どこにも存在してはいない(大沢草編﹁世界の定法﹂国元書房刊六六瓦以下参照)。 (日﹀大沢章﹁国際法秩序論﹂岩波書応刊。こんちにおいては、突証的な国際的の事実の証明するとこ心から日比て、国際法秩序 と国内法秩序とのあいだに法的の相互疎外が存在することを主張する見解は、とうてい支持しがないものになっている。こ の点だけから考えても、ケルゼンの先駆者的な業績は、高く評価されなければならない。 法源のことばがどのような芯設をもつかについては、国際法の基本的な理論においても、また法学の一般理論にお いても、こんにちまで長く論ぜられてきたし、その内容が何であるかの点についての学説にも、根本的には決して一 致したものがあるとはいえなかった。ただ国際政治の実際においては、条約と慣習とがその主要な形式的な法源とし てみとめられ適用されてきたこととあいまって、その理論的の探究はもっぱら専門的な学説にゆだねられて、深く問題とはされなかった傾きがある。これは国際法の他の基本的な問題につレても、 ほぼ同しようなことがいえると思う。 たとえば、国際法の主体が何であるかについての問題が、そのいちじるしい例証である。けれども国際法の法源につ いてただ条約と仙沼とだけをみとめ、それ以外の形式の法的規範には法源としての価値をみとめまいとする主張は、 方法論の上から見て独断というほかはない。その主体であるもののあいだに共通の法的確信を生ぜしめる法形式は、 たとえそれが条約でもなく、また慣習でもないとしても、なお一般的の法原則として国際法の休系のなかに自らの地 位をもつことのできる法価値であるとみとめなければならない。たとえば一日
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宮 町 二 P20 は、たんに国内法だけで はなく、国際法においてもまたその体系のなかにとりいれられ、定着している法の一般原別である。その適用にあた って遡及効をみとめではならないことを規定するこの原則はまた、たんに刑事法規についてだけみとめられている原 則でもない。不利益は推定を許されないのが法の原別であるし、 また不利益が遡及して生ずることを許す法は、正義 に 反 し 、 したがって法の理念に反する法である。もしも犯罪と刑罰とについて一2
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丘 町 p n g が権力によって自由 につくられるならば、その力は法的にはもはや権力であることをやめて、 たんなる5
ロ 円 ℃ 三 一 。 に変質するとみとめる ほかはない。人間共同のあらゆる場と時点とにおいて、何が行うことができることがらであるか、何が行うことが禁 止されていることがらであるかがあらかじめはっきり定っている場合に、 またその場合にかぎって、社会に平和と安 全が存在しうることは、あらゆる形態の人間共同の長い経験とその歴史とが、これを-証明して疑えない其突である。 ことに刑事法規についての不遡及の原則は、人間の長い経験を通してその正当性と合理性とが実証された法の一般原 則にもとずくものであって、その形式は条約でもなければ慣習でもなく、法治国家とその民との意識のなかに広くま 法 の 一 般 原 則 に つ い て の 試 論 二 五耳E 洋 法 学 一 一 六 た深くきざみこまれた法的確信に淵源している。したがってこの法的確信が表現される法形式が条約でもなく、 償 習でもないとしたところで、それが人間共同の関係を法的に規制する力となりえないと断言する理由はなにも存在し ない。それらの原則がいままでとはちがった新しい発現の形態をもって成立してきたという歴史的の事実だけを理由 として、それらを国際法の法源の系列からのぞこうとする主張は、全く法の実証的な事実にそわない見解である。た ( 口 ) とえば、この点についてケルゼン、がのべているところは、その代表的なもののひとつということができる。かれはま ず 、 ﹁文明国によってみとめられた法の一般原則﹂などというものがいったいあるのかどうかということを問題にし ている。政治と経済との現実から見れば、こんにち文明国とよばれている国をあるいは束と西に、あるいは北と南と に分っているき裂は、きわめて深刻である。それは、またたんに政治と経済との領域だけにとどまるものではない。 法や文化についての思想にも、深い対立と相刻とがあることは、自由または民主主義ということばと思想と実際におい てどのようにとりあっかわれているかを見ればきわめて明らかである。法の一般原則についても、それらがすべての 文明国によってみとめられていなければならないのであるか、それともすべての文明国によってみとめられているの もしそうであるとすれば、どれだけの数の国が、それらの法原則をみとめればいいのか? でなくてもいいのか? ケルゼンは、これらの問題については、 かなり懐疑的である。私はここに国際法団体の本質ことにその法主体が何で あるかについての非常に主要な、しかもいままで比較的かんたんにとりあっかわれてきた国際法の京本的な問題があ ハ
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ると思う。そうして法涼の型的は、それらと内面的には深いつながりをもっているのであり、法の木穴のはあくについ て、ひとりの学者が実証主義者であるか、それともマルキストであるかの世界観の問題とも、全く無関係ではない。︿ 円 ﹀ マルクスにとっては、すべての法は、けっきよく階級の法
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にほかならないからである。いま世界を多元 に分類化して鋭く対立する諸国家の重大な政治的もしくは経済的な国際問題が、同時にこの法の解釈の問題であるこ とを考えるとき、すべての国際紛争の平和的な解決にあたる法主体が何であるかを明らかにする必要についての基本 的な問題がそこにふくまれ、ひそんでいることを、忘れてはならない。非常に重要で大きな展望をもっている国際連合 が、こんにちまでに人類がもつことのできたもっとも大きな、そうしてもっとも有効な国際組俄であることは、なに びともみとめなければならない。しかし平和と安全との保障についてのその機能には、その定立の規定から見て、明 らかに客観的の限界がある。国際迎合は、法的には諸国家その他の国家述合(主として辿邦﹀によって組織される国家結 合である。前文が示しているように、その基本目的が究極においては、ひとりひとりの人間の幸福に向けられている ことは明らかであるが、その目的を達成するための手段としては、連合はつねに国家の活動を媒介としなければならな い。ここにこの国際組織に内在する重大な支障と限界とがある。たとえば、人間の生涯において二度もことばにつくし がたい悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救いたいという国際連合の念願も、この国際組織に加ってい る国家の行動をとおして実現されなければならないのであり、個人が直接に国際法秩序を構成する成只として平和の 建設にたずさわることは、国際連合の憲章の上ではみとめられていない。けれど、人間が集団の成只としてだけでは なく、個人として、すなわち独立の個体としての人間宮g
月 r o r 開 E N O Z 2 2 が国際法に直接に帰属することによっ てはじめて、窓章のかかげている高い基本目的が有効に達成されるのであって、国家結合としての国際組織だけによ っては、充分な効果をあげることは困難である。人間の権利の保護についてのパリの世界宣言も、この点から見て、 法 の 一 般 原 則 に つ い て の 試 論 二 七東 洋 法 戸ι づー 二 八 同じ批判の対象となる。そこでのべられている人間の諸権利が、たんなることばだけでないことは、宣言がそれらの 存在と尊重と保護とを明らかに規定していることからもとうてい否定することはできない。人間に固有である諸権利 の存在を世界宣言によって確認し、これらの権利と自由との尊重に努力すべきことが義務として国際連合の成員に課 せられたことは、ことばをかえていえば、個人の国際法においての主体性が確認されたことを意味する。このように 宣言が、すべての人民とすべての国とに対して、その達成すべき共通の基準で広三