研究ノート M. M. Postan, "The Medieval Economy
and Society"にみる「マナー起源論」――その所説
と1. 2の問題――
著者
原 征明
雑誌名
東北学院大学論集. 経済学
号
76
ページ
177-197
発行年
1978-03-30
URL
http://id.nii.ac.jp/1204/00024419/
研究ノート
M.M.Postan,"TheMedieval
EconomyandSociety"
にみる「マナー起源論」
−その所説と1. 2の問題一征明
原
目 次 はしがき 大陸におけるマナー所領の生成 インク・ランドにおけるマナー所領の生成 結びにかえて 1 2 3 4 1. はしがき 周知の通I] , ボスタン(M・M.Postan)はとりわけその専門とする中 世社会経済史に関する業績において,西洋経済史の研究・発展に多大な 影響を及ぼしてきた, イギリスを代表する最も著名な経済史家であるとい ってよい。因みに, 彼はイギリスの学術雑誌『経済史評捻I (Economic HistoryReview)の編集主幹をつとめる一方, 多数の論文を発表してき たが,私見によれば共著・編著は別として独立の著詳は比較的少なかった ようにも思われる。 ところで, そうした著名なる学者の手によって比較的最近公刊されてい た専門領域の単行非が首記のものであるが, この小槁ではその中の第5章 「マナーとその起源」 (TheMallor:Origins) を素材にし, ポスタンの見 −177− 1M.M,Postan,!#TheMedievalEconomyandSDciety''にみるマナー起源論 解を要説して教示を請い,且つまたそれに若干の論評を加えることを試み るものである。 もとより,独立の著書の一つの章を重点的に考察することば必らずしも 適切な方法ではないかも知れないし, それ以上に筆者自身がこの種の領域 にいまだ精通せぬ浅学の者であることを恐れるが, ともかくも著者ポスタ ンがその緒言において,本書が最も新しい知識を可能な限り盛り込んで簡 潔明瞭な説明を提示していると述べていることにひかれ,たまたま一見す る機会を得た当該箇所を,前述の目的で考察するものである。 因みに,全体で13章から構成されている本書の第1章から第4章までの ところに関しては,かつて田中正義教授が紹介された(『社会経済史学』第 39巻4号掲載) こともあるが, ここで扱うマナー起源論はその続章に相当 する部分なのである。
2.
大陸におけるマナー所領の生成
さて, ポスタンによる首記の著作中, 「マナー起源論」に関わる本章の 構成は,その特徴の一つとして,一方では大陸における荘園一イギリス のmanor−の生成を叙述し,且つまた他方では,いわばそれとの比較 史的な視点から, アンク.ロ・サクソン・インク.ランドの場合についても論 及されていることにある。 ところで, このマナーなるものは改めて言うまでもなく, それ自体中世 ヨーロッパ封建社会に最も特徴的な所領の存在形態に他ならないのだが, その十分に発達した形態においては, それが領主にとって第一義的,主要 な地代徴収所領を意味していたことは当然のことではあるが,先ず最初に そのことが指摘されている。即ち, マナーないし荘園にみるその経済的機 能は, そもそも所領の規模にあらわれたとし, ポスタンにあっては「例え ば'」、騎士にとって生計を支えるのにけっして十分ではない最'」、マナーでも 2 −178−M.M@Postan,$4TheMedievalEconomyamdSociety''にみるマナー起源論 その所領は富裕な農民達の保有地よりも大であった(1)。」という。因みに この文脈に引続き, そうしたマナーは, いわゆる領主直営地ならびに農奴 保有地へと二重分割(twOfOlddivision) されており,従ってまたその事 実こそが, マナー領主にとって収入の二重の源泉を基礎づけるということ が指摘されている。 しかしこの点に関しては, 一体ポスタンの叙述する
ごとき鵠,i、規樹のマナーにもそのことが妥当したと見倣しうるものか否
か,そこに疑問の余地が全くないわけではなL,。 なぜならば,彼自身このことを中世のどの時代のどの地域における歴史 的事実と関らわしめて論じているのか明白でないが, 例えば13世紀を最 盛期としたイギリス・マナーの場合にも, かつてコスミンスキー (E.A. Kosminsky) により指摘された通り, 中,l、規模の所領では, しばしば直営地経営さえも屈用労働に依存する傾向を有していた{2'からなのである。
これをふまえて別言するならば,大規模マナー所領は別として, とりわけ 下層領主(=knighthood) によって所有せられたと思える小規模マナー では, それ自体しかるべき農奴保有地を設け, その労働力再生産を可能な らしめて余りある程の所領規模を必らずしも有していなかった, とみるこ とが出来はしないだろうか。 ところで,典型的マナーを基調とする封建社会の主要な特質は,既述の こととの関連で, そこに居住する土地保有農たちの,領主に対する不自由 ないし半自由な隷属状態一いわゆる「農奴身分」規定一の存在に他な らない。即ちそれは,周知のごとき封建地代の支払義務をはじめとし,領 主の許可を要する移動・結婚の不自由性, さらにはまた,動産・不動産の 相続・売買,訴訟等に関わる諸制約などの具体的内容により,象徴的に示 (1)MM. Postan,TheMedieval EconOmyandSoCiety(1972)-An EconomicHIstoryofBritain intheMiddleAges-p, 73.(2) E A.Kosminsky│ !4ServiceandMoneyRents intheThirteenth
Century"inT鯉盈。"p""c"jsIDryRer"", vol.V・No. 2,April, 1935) 秦玄龍訳『イギリス封建地代の展開』(未来社・社会科学ゼミナール) 43∼44
頁, 50∼51頁参照。
M・M_Postan, $ITheMedievalEconomyandSociety''にみるマナー起源論 されているのだが, そもそも自由人ならば自ら主張しえたこれらの諸権利 の領主による掌握が, マナーをして特殊中世的な制度ならしめているわけ で, この点も指摘されている。
しからば, そうした意味でのマナー的所領の起源は一体どこに求められ
るべきなのか, ということが当面の主題であるのだが, それについてポス タンは先ず次のようにいう。いわく, 「””“それにもかかわらず, マナー の起源とその発達を考えるに際しては, その中世的な諸特質というものが 特殊中世的なものではないところの経済的根源に継木されているのだ, と いうことを心にとどめることが重要である。 というのは, それが人間の歴 史の他の時代や世界の別の地域でも見出されるからなのである。この根源 は,大規模所領のそれであった(3)。」 と。 このようにして] L、ま彼の所説をふまえれば, ともかくも 〔典型的〕マ ナーがそれ自体「大規模所領」 (large-estate)であったという視点から, その歴史的創始が先ず問題にされてL、るのであり, その限りでいえば本i味 にみるマナー起源論の考察は, その方法上,所領としての経済的側面と, それがマナー的に開花した時代の社会的・制度的側面一農奴身分規定・ 領主権力一の成立が, さしあたり区別して扱われているといえなくもな い。 ところで, そもそも土地それ自体が富の主要な形態であり,土地所有が 権力の主要な経済基盤であった時代には, 「大規模所領」がいうまでもな くそこにおける人的不平等関係の存在を表現しえた明白なる方途なのであ った。それゆえ, マナーの起源に関わるものとポスタンがみるところの大 規模所領一より直接的にはローマ社会にみられたそれ−が,移動・侵 入期にあるゲルマン人と一体いかなる関わりを有してL、たのか, というこ とが次に考察の対象となる。因みにこのことは, 当時のゲルマン人の社会 状態の把握の仕方如何の問題でもあるのだが, それにつ、、てのポスタンの (3) M.M. Postan. cメF. c"., pp、 74∼75.なお引用文中の傍点は飛者(原) による。 −180−M,M.Postan,'4TheMedievalEccncmyandSociety''にみるマナー起源論 解釈は以下の通りなのである。 即ち,①紀元後3∼4世紀頃までに, ゲルマン人達はシーザー(Ca-esar)が叙述し1417 且つまた19世紀初頭に時流を占めたドイツの歴史家達 により想定されたごとき状態(51, 即ちその本来的質朴の段階を彼らば既に 離脱していたということ。②つまり, 当時のケルマン人達は部族制的に でばあるが,既にその社会下に奴隷から貴族に至る階層の包含と,権力・ 財産の階級的序列を特徴とする複雑な政治制度を有していたこと。③そ の点,上層の社会的地位にある者達に物的な富の大なる蓄積があったこと を考古学的にも証拠づけられていること。④従って,旧来のローマ領土 に侵入しその土地を占拠したゲルマンの征服者達は, ローマ人達の「大規 模所領」を継承し, もしくはそれを所領に再度分割する方法で,既存の不 平等関係に適合しえたと主張して, ドープシュ (AlfonsDopsch)その他 の言及を傍証する(6)。 かくしてポスタンは, マナーに継木されるべき大規模所領として, ある ものはローマン・ヴィラが永続的に, またその他新規に創設されたものな どが,既に中世の曙の時代から存在していたのであって, その点において は研究上文献的証拠が使用可能となる8∼9世紀の段階での,所領化への 急速な変化を意識的に強調する必要はない, と見倣している。 とはいえこ のことは, 5∼10世紀にかけてのヨーロッパで大規模所領のなお一層の 拡延に都合の良い諸状況が生じなかったということではなく, メロヴィン (4) Caesar,Comment卍rii deBelloGallico. (5) 初期ゲルマン社会に側する原始共産制的解釈であるが, ポスタンはそれを 当時の民族主義杓政治イデオロギーに支えられ, それと調和した見解であっ たとし, 従ってそうした政治的胤潮の弱体化と共に, それは衰退を余轆鞍く されたと瀧釈を加える。 (6)
AIfonsDcpsch,WirtschaftlicheundsozialeGruhdlagendereuro-PanischenKulturentwicklung (1923), EnglisI1 trans, TIieE"虹・劾測C
EJJdS(Jrj"J /fUzf"ff"""〃。/"""""'z CJEJj/jzユ"。〃(1937)' chs. n. IV., S.
DillⅢ〃‘""α〃 、SOcjEryj"G[J灘〃M"zf]MfJrひげj"gj"'&Agg(1926),pp、 60∼63,
75, 218-23, 226∼a, JamesWestfallThompson, 7、内巴E上り虎。銅jE“”
SI)(Jjir////s"ry(J/、""J""/E"γppe(1928),pp,203∼208.
5 −181−
M.M,Pcstan,$1TheMedievalEconomyandSociety''にみるマナー起源論 グ・カロリンク'の両王朝時代には官吏や従者に対する報酬たる「封土」 (fief) とか,教会領が形成されたこと, さらにまた, マジャール人.北 欧人等の侵入と王室の権威の崩壊がヨーロッパの多くの地域でいわば無政 府状態をもたらした際の地方有力者に対する贈与等, いくつかの要因が暗 黒時代の終り頃までに大規模所領の網目を創出する方向に収数したことも 指摘する。 もっとも, ポスタンはそうした所領の生成と拡延それのみによ り, マナー秩序と考えられるものが確立したことを考えているのではな い。いわく, 「マナーとして機能し,且つまたそうしたものとして類別さ れるためには,中世の所領は他の時代の大規模所領が当然にしてもちあわ せていなかった一定の政治的・社会的特質を有しなければならなかった (7)。」のであると。それは, マナー所有者がいわゆる上級領主に対し義務づ けられていたところの,例えば戦争時や行政機能における一定の義務遂行 に本質が見出されるものではない。 もとより, ポスタンは支配者層におけ るこの関係が,所領の所有者をして土地領主たらしめ,彼らに土地領主権
に対するしかるく龍威を授けた点において, そこに意義のあったことを否
定しているのではない。けれども, ここでいま強調されるべき特質とは, 土地所有権に付与されたその権威にもとづいて,当該所領における多数の 農民を人格的に支配して,いわばその経済的表現として賦役・生産物もし くは貨幣地代の徴収を実現するという関係に他ならないわけである。 換言すれば, マナーに固有の政治的・社会的特質も, そうした意味での 「土地領主制」 (landlordship)が有した社会的・経済的重みとしてとら えられねばならない, とポスタンは指摘するのである。即ち「…“隷属的 耕作およびその背後にある領主権力は, この支配体制の特徴的なものなの であり, それ以外の非中世的な型の農村社会において見出されるのは稀で あるため, それらはマナー秩序の顕著な経済的・社会的特質,つまり真の 相違点(“ノアをγe""") として容認されねばならない喝I。」 と。 (7) M.M, PDstan, "p. c". , I]p. 78∼79 (8) M MP・stan, ib". , P.80、 −182− 6MMPostanⅢ ‘‘TheMedievalEconomyandSOciety”にみるマナー起源論 もっとも,彼はマナーそれ自体が現実の内容において一様かつ普遍的で あったとは考えておらず, いわば地域によって, あるいは村落により領主 に対する農民の諸義務・隷嶋の程度に差異が認められることを,ふまえて はいるのである。 しかし, そうした多様性ないし差異が存在したとするな らば, それが一体いかなる社会的・経済的背景あるL、は自然的要因の制約 をうけて生ずるのかという点にも, われわれの少なからざる関心があるの だが,本章ではそうした説明が明示されていない。 ところで, マナー秩序を含む封建制度の起源をめぐる歴史家達の論争で は, チュートン人の部族社会の状態ないしその解釈の問題が, さけがたく 関わっていたのである。因みに, その社会を原始的平等に立脚した社会状 態にあったものととらえてきた古典学説の歴史家達において(土,周知の通 り, ヨーロッパにおける封建制鹿の創始期を遅らせてすえることを余儀な 、 、 、 、 、 、 、 くされ, それゆえ同時にまた封建的形態での大規模所領(マナー)が広範 に存在するようになるのも「暗黒時代」 (DarkAges)の終りか, それ以 降のこととしてうけとめられてきたわけである。 ところがポスタンは, こ のこととの関連で, そもそもマナー起源論なL、し封建制度創始におけるこ 、 、 、 、 、 、 、 のいわば遅滞説は,一般に封建制の限定された概念一しかし, この概念 は中世法制史家たちによっては, しばしば強調されている−と調和した ものに他ならなかったのだ, と考えている。つまりこの立場にあっては, 封建制度の意味するものを, L 、わゆる軍役奉仕の遂行にもとづく 「封土」 の生成に限定した傾向にあり, それゆえヨーロ・ソパにおける封建制度の創 始の問題も,騎士階層の生成・発達の歴史として語られたにすぎなかった のである, と。因みにこの見解に従えば, と!〕わけ9∼10世紀ごろの絶え ざる戦闘状態が,従前のごとき部族制国家段階にみる自由人の召集(国民 軍)の歴史的役割を急速に消滅させ,いまや所与の事態に適合する重装備 の騎馬兵を新たな職業軍人階層として広範に登場せしめ, しかもまた, そ うした軍役奉仕の遂行がその経済的基盤たる所領の贈与を前提とし, それ と避けがたく結合して発達してきた, ということになるわけである。 −183− 7
M,M,Pcstan,$」TheMedievalEconomyandSociety''にみるマナー起源論 ところがこれに対してポスタンは, なるほど軍役奉仕にもとづく封土の 拡延が封建制鹿の発達における誘因ではあったし, いわばそうした役職遂 行条件に対応する条件付土地贈与の慣行が, メロヴィングないしカロリン グ王朝時代に高揚したのではあるとしながらも,軍役機能遂行それ自体を 封建制度と同一視し, あるいは本質においてそれとの排他的関連を求める ことについては, いささか懐疑的なのである'9'。 ともあれ, このように主 張する彼は右の諸状況に対して影響を及ぼしたところの二つの重要な点 を,当面の主題との関わりで次のように補足し強調する。 即ちその第一は,いわゆる暗黒時代の5世紀の間に行なわれた軍役奉仕 の見返りたる土地贈与の慣行が,やがてその条件付土地保有の性格を漸次
消失し,土地それ自体が永縦的かつ世襲的財産へと転換していくことであ
る。因みに, そうした変化を生ぜしめ且つまた助長したところの主要な原 因は,周知の通り, カロリング王朝期における王室権力の不安定,及びその衰微に他ならなかったが,注目されるべき点は権力の絶頂期にあったシ
ャルルマーニ1帝(Charlemague,Karl) 自らが, その勅令により所領 の世襲化を制度的に植えつけ政治的に体系化した''0] ということなのであ る。従って, ポスタンは封建的秩序というものを, もしそれが軍役奉仕の ための経済的基盤としての所領,及びそこでの行政・司法化の統泊体系と してとらえられるにせよ, それは古典学説にみるごとく純粋に軍役遂行機 能からのみ発生したとは見倣さオ1ず,他方そうした意味での封建制の創始 期に関しても, それを暗黒時代以降のことに帰属せしy〕る必然的理由が存 在しないこと, というよりは, それをさらに時期をさかのぼらせて位置づ けることさえ可能であると考えるのである。 さて第二に, もともとポスタンは中世封建社会にみられる中心的な特質 を,既述の遡り, マナー的所領に固有な社会的・経済的特質の中に求めて M, Postan,"tf, pp. 80∼81@Bloch, ノ恥"(f!"/Sr'e/cij', English trans. (1961) . Chs. XI ' 刈, XXIV, XXVandthelntrOductionbyM.M.PDStan, (9) cf.M
OO) Marc XXI ,
M.MPostan,"TheMedievalEconomyandSociety''にみるマナー起源論 いたのである。別言すれば, いまみたような当該社会での支配者階層相互 での, いわば上級領主と下級領主間での土地保有関係もさることながら, それよりもいわゆる土地領主制それ自体が意味したところの社会的・経済 的重み,つまり領主権力下でとり行われた隷属者たる農民の土地耕作およ び地代支払諸義務の遂行こそ,むしろ中世封建社会の所領をして他の時代 、 、 Ⅵ 、 、 の大規模所領と区別せしめる真の相違点として強調されていたのであっ た。従って, このような視点から当面の課題たるマナーの起源に関する考 察がなさオ1ねばならないのは当然であるが, われわれにおいてはそれにつ いての本章の叙述が興味をよび, しかしてまたいささか議論の余地があり そうに思えるところなのである。因みに彼の結論を先取りするならば, ポ スタンはこの視点からも前記の古典学説と反対に,遥か以前からマナー秩 序の歴史的生成と発達がなされつつあったものと見倣しているわけである る。 さらにまた, このような結論との直接の関わりで彼は次のように述べ ている。以下いささか長文ではあるが, ここに引用してみよう。いわく, 「……ケルマン人侵入の直前には, ローマの農村社会はとりわけゴール地 方で, 中世農奴と明白な類似性をおびたところ②数多くの要素を含んでい た。存在していた奴隷のうt]. その多くがローマ時代の終りの頃の数世紀 のうちに個々の保有地に定着していたのであって, そのことにより彼らは 中世時代の隷属的村民達と類似し 〔そのように〕取扱われた。それに加え て,大多数のおそらく大抵の名目的に自由〔身分〕の耕作者達は, ゴロヌ ス (coIo") としてその土地を保有し耕作するようになったか, あるいは 彼らが禰々の貢租や義務を負担していたところの事実上の土地所有者の, 小作農として土地を耕作していたのである'Ⅱ'。」 と。 またこれとの関連でポスタンは, ローマ11寺代におけるその他の通常の自 由身分の市民達の側でさえにも, しばしば貴族的土地所有者を保護者(パ トロン) としてあおぎ, その権威の下に投托する傾向にあったことを指摘 (II) M.M.Pcstam, f]/).c".,pp.81∼82 −185− 9
M,M,Postan,$'TheMedievalEconomyandsOciety''にみるマナー起源論 し, そうした保謹と被保護の人的関係が,いずれにせよ既に後期ローマ帝 国の段階で広範に存在し,いわば社会的優位と劣弱の関係を形成していた と述べている。他方,移動・侵入期前後のケルマン社会に関しても, そこ にはローマの'1、屋住奴隷(s?γノ'icIzsα〃)ないし中世の隷属民と類似せる 状態の奴隷が土地を保有し,加えて身分的には自由の人間も有力者にある 種の隷屈をしてL、たことをあげているわけで,侵入者たるゲルマン人が既 にローマ領域で隷属的耕作と何ら矛盾せぬ慣習・制度を導入した, という のが彼の解釈なのである。 以上のような所説により, マナーの起源ないし生成に関する彼の見解 が,いわゆるローマン学派(RomanSchool)に帰属することが, ここで いよいよ明白化しているが,因みにこの立場を嗽術するならば,学説史上 では例えばドープシュ等によって主張された様な,古代世界と中世世界と に緊密なる文化的諸関連を求める, かの「連続発展説」がその根底にすえ られていると見倣しうる。 即ち周知のごとくドープシュ'瞳'は, ケルマン人の侵入が必らずしもロー マ文化の断絶を意味するものでないことを, ローマ側住民との間における 移住,所領関係,手工業技術等にみる連続的継承の視点で強調したのであ る。たしかに他の研究者の一部指摘する様に''勘Ⅲ とりわけローマ国填地域 では大移動前のケルマン人が流入を容認され,外国人赫兵(mercenaries) として, あるL、は土着人の労働力補充を目的に誘引されるなど, そこにゲ ルマン社会とローマ社会とのある種の接触なL、し融合が事実として存在し たのかも知れなL、。 けれども,先の引用で留意されるべき点ば, いわゆるローマ的奴隷の末 窟たるコロヌスをケルマン的奴隷と同質に扱うことにより, それらの隷層 者層と中世マナー的農奴階層の形成を直接に関連づけて論じることが,一
(E) AIfonsDopsh, [JP. 『I/‘ .
03) cf.HerbertHeaton. EconomicHisoryofEllrope, rel・ isededitiOn
(1964), p. 66.
MM.Postan, @!TheMedievalEccnOmyandSociety!'にみるマナー起源漁 体可能なものかと'うかとL、うことだろう。 もとより浅学なる筆者には,いまこの問題を詳細に検討する準備をもた ないが,少なくとも封建制の経済的基盤たるマナー攻るものを, その地域 的差異はあるものの,新たな農耕生産力一重蛍有輪殖,耕区制,三閲制 一を前提した村落共同体関係をも含めて理解されるべきものとするなら ば, これがいわば単なる人的支配=隷属関係の早期的存在の事実からのみ では到底説明しえないのではないか, とするところから生ずる素朴な疑問 なのである。 ともあれポスタンは,彼が先に述べていたような意味での支配=隷属関 係が,既にケルマン人による侵入が終息する以前の段階でさえ, インフォ ーマルな形で存在し,やがて暗黒時代を経過するうちにそれが多くの自由 人に拡延されていったのであるとみる。 しかも, とりわけ暗黒時代の終り の局面における当時の政治的不安定さが,人間及び土地に対して拡大せら れた有力者の権威の下に,いわば自発的服従たる投托としてであれ, ある L、はまた, 有力者側からの力づくによる自由人の隷属化(強制された服 従)を意味するものであれ, そうしたI 、わばロードとマンの主従関係を発 達せしめ, その定着を助長する社会的諸条件が準備されたのである, と。 かくして, このようなロードとマンなる関係の生成・発達を, 当面の課 題たるマナー的所領との具体的関わ'〕でみるならば, その制度化された定 着が示された証拠は, 8世紀の段階でシヤルルマーニュ自身によって発せ られた種々の法令集(C"""!αγ2)であるとし, そこにみられるところの封 建領主に対する通常の人々の隷属の正当化, および土地保有農による貢租 支払と諸義務の規定の存在をあげている卿。 そしてポスタンは, これらに おいて既にみられる−と彼がL、う−土地領主制(マナー秩序)のその他 の特徴に関しても,後の11∼12世紀のマナー所領において十分発達せしめ られたものが, それ以前から存在していたことを示唆しているのである。 卿 M.M.Postan,". c〃. ! p, 82, −187− 11
M.M.Postan,」$TheMedievalEconomyandScciety''にみるマナー起源論 以上われわれは, これまで中世ヨーロッパの,大陸におけるマナーの生 成ないし起源に関するポスタンの所説を,若干の問題点と共に大略あとづ けてきた。 ところで,本稿の冒頭で既に指摘した通り, そもそも彼のマナ 起源論は,大陸における以上のこととの関わりでイギリスの場合に関して 言及されるという構成になっている。そこで以下われわれは,大陸におけ る状況との比較史的関連で彼がイギリス・マナーの生成をいかに説明して いるのかについて.検討してみることにしよう。 3. イングランドにおけるマナー所領の生成 さて前節での考察と同様,封建社会におけるマナー所領をして, それが 当時の支配者階層相互間での土地保有関係を示すものであったという視点 から, さしあたりとらえておくとするならば, この関係の確立上イングラ ンドの歴史では, いわゆる「ノルマン征服」 (TheNormanConquest) がもたらした社会的影響を無視できなL、。即ちこの政治的事件を契機と し,征服されたイングランドの土地は,周知のごとくすべての上級所有権 が究極において征服王ウイリアム (WilliamtheConqueror) に帰属せ しめられることとなり,以後ノルマン人の支配が開始される数十年閲のう ちに, 王領地以外が順次「首位受封地」 (tenancies-in-chief)及び準受 封地として規定されることとなり,かくして大所領地ないし保有地の網目 がこの国の地表にすえられることになったからである。 しかもまた, そう した土地保有の関係は一定の義務負担, とりわけ騎士軍役の遂行を条件と した,いわゆる「封土」を意味するものであったわけである115)o ところが, この過程に関するポスタンの解釈によれば, ノルマン人が行 なったところのことは「・ ・ ・ ・ ・ ・この〔土地保有関係の〕網目が構築される保 有の原則(tenurialprinciple)を整然と,且つまた一様なものならしめ, Q5) もっとも, この騎士軍役の負担が現実のものとして機能しえたのは‘ ノマ ルン王朝期の一世紀で.以後いわゆる「班役代納金j (sc""gf, Es[""gi', s"!-"g"")制度と傭兵の出現により漸次消滅するにいたった。 この点に間する 邦菩としては, 例えば矢口孝次郎『イギリス封建社会経済史』 131頁参照。 12 −188−
M.M.Postan,!4TheMedfevalEconomyandSociety''にみるマナー起源論 大部分のアングロ・サクソン人土地所有者達を彼ら(=ノルマン人)従者 とその役人達によって土地保有階級の人々へと獄きかえることなのであっ た⑬。」 と。 このようにして, そもそも彼の見解ではノルマン征服を軽視 するもので厳いにせよ, その歴史的意義をめ<・る錨争との関わ[〕でいうな らば, イギリス封建制の成立をめぐる「導入説|なL、し「断絶説、」とい うよりは, むしろ「継続説間」的立場にあることが強調されている。つま り彼にあっては, アングロ・サクソン時代においてさえ王国の行政・司法 上の諸機能さらにまた軍役奉仕を遂行した階層が,既にビショップやセイ ン(thegns)なる名称で存在し, そうした者達が当時の支配階層として, その義務遂行のいわば経済基盤たる所領の分割鰡与をうけていたとみるわ けである。 というよりも, ポスタンにおいては封建秩序の発達をその本質 において軍事的側面(騎士軍役)に限定すること自体に対して基本的に反 対なのであり, そもそも統治ならびに政治権力の一つの体系たる封建秩序 の始まりやその基盤なるものは,純然たる軍事的説明が許容する以上に広 範であるという主張幟を, 一貫して堅持し続けている点に最初から留意し なければならないだろう。 それゆえ彼は, アングロ・サクソン時代の終り頃までに教会所領がイン グランドの相当大なる部分を猫得していたことを指摘する一方,同時にま たそうした宗教施設や有力者達への土地贈与に関わる特許状(charter) が, しばしば奉仕の義務について言及していたこと, さもなければ贈与の 徳行により, そうした護務を課していたという事実にも意味をもたせてい ⑱M.M.Postan, pp. f、""p. 78 ⑰周知の通り. この見解ク〕代表拘な漁者は古くはラウンド (C. H. RCund) およびステン│、ン(F.M・ Stenton)にさかのぼる。 C.H.Round,Feudal England(1895), F、M.Stenton、TheFirstrCenturyofEnglishFeudal-ism, 1066-1166(1931). (13 メイトランド(F.W・Maitland)などが, アンク.p ・サクソン時代におけ る私的裁判権(”c方)の発達,軍事的奉仕と関わる土地保有, 自由民の没蒋・ 隷属化など, 封建化の特徴を古くより指摘していたことも周知の通りである。 F.W.Maitland,DomesdayBookandBeyond(1897) (I, cf.M.M.Postan,。β、 c"、 , p.81、 -189- 13
M・M.Postan, &!TheMedievalEconomyandSociety''にみるマナー起源崎 るわけである、。 さらに‘ 「ノルマン征服」を契機に明確化されたとし, これを通説が強調するところの軍役奉仕を条件とする「封土」的土地保有 関係は,既述の通り−注(15)参照一「軍役代納金制」の導入とそれに基 づく傭兵によって置きかえられていくのだが, そもそもそのこと自体, 騎士報酬というものが確立せられた軍役制鹿の一部ではあるにせよ, それ は社会の軍事的要求に照応する唯一の手段を常に提供する必要がなかった ことを明示するものであるとし, いわば旧来よりの学説を批判して次のよ うにも述べている。即ち, 「用役地贈与以外の方法で報酬を与えられた常 雇鮒職業軍人の使用は,必らずしも封土衰退の徴候ではなかった〔が, そ れは〕軍役制が封建軍隊についての紋切型の理論よりも, もっと多様かつ 弾力的なものであったということの証拠なのである剛。」 と。 いずれにせよ, イギリス封建社会のマナー的所領をさしあたり支配者階 層の土地保有としてみるならば, この関係の生成に対するポスタンの解釈 が,以上の点で「ノルマン征服」に先んじ既にアングロ・サクソン時代に 十分発達していたととらえていることを知るものである。 さて次に,前節での考察と同様,封建社会におけるマナーなるものを, 当該所領における領主権力を背景に, その下で人格的支配をうける農民達 の隷属的耕作, およびその経済的表現たる地代支払義務をともなうところ の, 「土地領主制」 (landlordship)のいわば実存形態であるとするなら ば, イングランドにおけるそうした関係の発達(=マナー的所領の生成) をポスタンはどのようにみているのであろうか。先ずこの点に関して注目 されるべきことは,既述の通り彼によると大陸にあっては中世マナーに継 木されるべきものとしての「大規模所領」が, そもそもあるものはローマ ン・ヴィラから連続的に, またその他新規に創設された所領も既に中世の "cf.M・M.Postan,jbid., p.78- また, いわく 「所賦に付随する司法. 行政上の諸権利をともなった奉仕的所領('service. estate)は, 」1L<にアン グロ.サクソンの土地特許状に反映されていることが見出されるだろう。」と。 jbid. ,p85. (2DM.M.Postan, j"‘. , p. 86, なお,傍点は引用者による。
[email protected],"'TheMedievalEconomyandSociety''にみるマナー起源論 曙の時代から存在していたということであったが, この基本的解釈が当面 の対象たるイングランドに対しても適用されていることなのである。即ち ポスタンは, アングロ・サクソン人が大陸から移動してきた段階で,既に 彼らの中に富や社会的地位の格差が存在していたことをあらかじめ議論の 前提として, そうした者達はローマン・ブリテンの農村の不平等性に適合 することが困難でなかったこと, またその意味で当時のヴィラおよびそれ に類似せる所領を継承したものと見微しているわけである。従って, この 視点からするならばインク.ランドにおけるアンク‐ロ・サクソン社会は,最 初からその経済構造に差別化をもたらし, ないしそれを惹起する人的不平 等関係が存在していたということになる。 もっともこの場合, われわれはポスタンがいかなる根拠によってその主 張を説得的ならしめようとするのかという点に説明を期待するのだが,そ れについて多くは語られてない。おそらくこれは,本書の第1章「ローマ の遺産」 (RomanHeritage)において, 最近までのいわゆる補助諸科学 分野での研究成果をふまえることにより, その経済生活の物的基盤や農業 的定住の立地点をはじめとするローマン・プリテンとアンク.ロ ・サクソ ン・ イングランドとの間の「人的・社会的な連続関係」 (humanandso-CialContinuity)を結論しているからでもあろう。 ともかくも,本章での 彼の叙述によるならば, 「歴史家達に役立つ考古学的遺物や数少ない文献・ 記録史料は,富の著るい、差別化を証拠だてている。それゆえアンク.ロ・ サクソン・イングランドにおいては,大陸でと同様に大規模所領が, まさ しくその発端から政治的・社会的体制の避けがたい特徴なのであった四・」 というのである。 しからば, この引用中で彼も認めている通り, たしかに早期アングロ・ サクソン時代に関わる証拠が乏い、のではあるが, それにもかかわらず何 ゆえ彼は, この段階における階層分化や大規模所領の存在が, それ自体い "M.M.POstan,鰯α,, p. 77 −191− 15
M.M.Postan,,fTheMedievalEconomyandSociety''にみるマナー起源輪 わゆる土地領主制ないしマナー的所領の生成・発達と関連するような属性 を既にそなえていると見倣すのであろうか。次にそれを少し<整理してお かねばなるまい。先ずそれは, 6世紀のケント諸法(KentishLaws)及 び7世紀のイネ法典(Lawsoflne)のごとき早期アンク’ロ・サクソン法 令集の中に,通常の自由人と区別される最下層の者達が「奴隷」ないしは それに近い階層として包含され,当時の社会構成上しかるべき経済的・社 会的序列を規定されていることが事実存在するからであるとみる。 しかも また,そうした者達のかつての村落であることを推定せしめる考古学的証 拠,地名を含めた卜ポグラフィカルな証拠もあるからであるという。これ らの状況をふまえるポスタンは,他方においてそれを中世農奴階層の歴史 的生成に関する一つの解釈,即ち農奴がその保有地にしばしばポンドマン (bondman)なる名称で定着していた従前の奴隷から一部補充された(奴 隷解放→農奴化) とみることと関連づけてとらえているわけである。 ところで,以上の点で先ずばアングロ・サクソン・イングランドの最早 期の時代から既に奴隷ないしそれと類似の階層が存在していたことを認め るとしても,問題の性質上われわれはそもそも当時の社会の中核たるアン グロ・サクソン人それ自身の中に,後の土地領主制と結びつく支配=隷属 の関係が一体存在したのか否か, さらにまたそれが当該社会の歴史におい て,いかなる要因に媒介されて発達していくのか, ということを問わねば ならないだろうと思われる。 ところが彼はこの点においても, 自由人の没 落およびその結果としての有力者の権威に対する服従とL,う形で,かの投 托(commendation)が既にアングロ・サクソン時代の早期の局面にその 存在を跡づけることが可能であるとみている。即ち, たしかにそのことを 支持する証拠ないし文献は大陸の場合と同様けっして多くはないが,投托 を含む土地贈与が一つの社会的慣習として存在していたということは, い わゆる特許状(charter)にその形跡を残しているからである, と。ただ し, そうした意味での証拠の存在を6世紀間にわたるアングロ・サクソン 史の全体について比較検討すれば, この形跡が後の段階に至って強まって 16 −192−
M.M.P・stan, 4fTheMedievalEcOnomyandSociety''にみるマナー起源論 くると見倣していることは,改めて指摘されるまでもない。因みに,既述 のごとき視点から, いわゆるロードとマンなる社会的階層分化がどれ程に まで進展していたのかを示す重要な証拠としてポスタンが掲げる文書は, 後期サクソン・イングランドの史料たるIIR""j"鰯"EsSi"g"J”"獅鹿一 γso邦αγ"蝿”燭なのである。 この文書の示すところによれば, アングロ・サクソン社会に穂々の階層 序列が存在していたこと,且つまたそうした状況をふまえた諸権利・義務 が確かに存在してし、たことが実証されることは周知の通りであるが,彼は この事実を基礎として当該社会のイメージが十分にマナー化された封建的 なものであるように見倣される, と述べている。 もっとも, ポスタンは極めて慎重に次のようにもいう。即ち, 「マナー 、 、 可 、 可 、 、 、 、 、 化された所領に妥当するような社会秩序の出現と発展は,所領それ自体が 〔既に〕マナー化されたということ,つまり封建的権威の種々なる属性が 猿得されていたということを意味するものではない“。」 と。 ところが彼 は, このことに次のような解決を見出している。それは,多くの研究者が 指摘するごとく,マナー的所領における隷属者に対する権力(power) と 権威(authority)が, そもそも土地所有制に付随した行政・司法上の機 能から発生したとされている所説をとらえることにより, これをいわば逆 に援用し, それがもし正しいとすればアングロ・サクソン社会におけるマ ナー的所領の存在を正当化しうることになるだろう, と。 これに加え,マナー的所領の形成につながるところのアングロ・サクソ ン社会史上のいま一つの重要な事件について,彼は指摘を行っているので 最後にとりあげておくことにする。即ちそれは, 9世紀のディーン人との 戦争(DaniShWars)によってもたらされた社会的・経済的影響に他な 燭この文書史料に関する年代考証, 及びその邦訳と解釈について, わが国で の先駆的研究は周知の通り田中正義教授によって行われた。 田中正義『イン グランド封建制の形成』(昭和34年)202-244頁所収,RectitudineSSingula= rumPersonarum'雑考を,参照のこと。 "M.M.POStan, D"". , p、 84.傍点は引用者による。 17 −193−
M.M.Postan,'4TheMedievalEconDmyandSociety''にみるマナー起源論 らない。ポスタンは, この時期が一方では重装備の職業戦士に対する新た な軍事的要求を発生せしめ,他方その同じ原因が従前の自由人による軍事 機能遂行の可能性を消失させ,従って彼らの自由土地保有農たる独立をも ゆるがされ,いずれにせよ侵略による社会的・経済的不安とその現実の圧 迫が,有力者への投托を刺激したであろうとみる。 かくして彼の結論は, アングロ・サクソン・イングランドにおけるマナー 化への指向が既に早期の段階から始まっていて連続的に発達していくが, いわば外的要因としてのディーン人の侵入がそれに最後の拍車をかけるこ ととなり,不自由身分層の膨張を助長していった四, ということになるの である。 4. 結びにかえて 以上の通り,本稿では私なりの視角からポスタンの著作にみる「マナー 起源論」についてその所説の検討・整理を行ってきたのだが,最後に本節 では彼の所説の特徴を概括し,併せて若干の問題点の指摘を試みて結びに かえることにする。 先ず,彼のマナー起源論にみる特徴ないしユニークな点についていうな らば, もちろん彼自身いわゆるローマン学派的立場からではあるのだが, 大陸におけるマナー的所領の歴史的生成過程とイングランドのそれとを, いわば比較史的にしかも一貫した形で説明しようとしていることであろう う。 即ちポスタンの場合,極めて大づかみにいえば中世封建社会下のマナー なるものを,先ずさしあたり農民的土地保有とは区別せられるところの大 規模所領として把握し,基本的にはその根源を古代ローマ時代の社会にみ られたヴィラに求めようとする。そして, 中世ヨーロッパ形成の担い手た るケルマン諸族が移動期頃には既に階層分化をなしていたこと, 且つま "cf.M.M.Postan, ibjj. , p. 86. 18 −194−
MM.Postan,!4TheMedievalEconomyandScciety''にみるマナー起源論 た彼らがローマ社会と多かれ少なかれ接触していたことを歴史的前提とし て, ローマン・ヴィラがゲルマン侵入によって破壊されるのではなく,む しろ継承され,かくしてそうした大規模所領がそれ自体新規に創設された ものと共に中世の曙から存在していたことを意識的に強調する。あるいは また, そうした意味での古代と中世の融合ないしは連続的な関係の存在を 主張するものである。 とはいえ,大規模所領をして真に「マナー的所領」 たらしめるところの諸特質は, その後における歴史的発展の所産であると 見倣されている。即ちそれは,土地所有者たる領主と農民の支配=隷属関 係,およびその経済的表現たる地代支払義務であるが, もちろん彼によれ ばそれも始源的には一部がローマ的奴隷の末窟たるコロヌスの出現に求め られるにせよ,基本的にそれは中世暗黒時代一インク・ランドにあってば アングロ・サクソン期一の,政治的・社会的情勢がもたらした投托と没 落により,人間および土地に拡大せられた有力者の権威の強化とそれへの 服従の過程を経て生ぜしめられたのだ, と述べられている。同時にまた, この暗黒時代が必要とした軍役遂行に対する見返りとしての所領の創設 も, こうした社会秩序の歴史的生成を助長したことは, ポスタンも否定し ない。 いずれにせよ,彼はこのように主張しているが, それを当面の課題であ ったマナー生成との関連でL、えば, しばしば通説のいう様な大陸にあって 暗黒時代の終り−インク.ランドでばノルマン征服期一にというのでは なく,むしろそれ以前に既に形成され存在していたことを結論づけている ことになるだろう。 以上がポスタンの所説の骨子であったと思われるのだが,既に本文中で も若干の指摘をしてきた通り, そこには全く問題がないわけではない。 先ずその第一は,彼にそってケルマン人が特に古代ウーマの国境地域で 当該社会と接触し, その遺産をある程度まで継承したことが事実あったと するにせよ,ばたしてそれが, より発展的な段階を意味する封建社会の経 済的基盤たるマナー所領の形成に, どれ程の影響を及ぼしえたと見倣しう −195− 19
M.M_Postan,,4TheMedievalEconomyandSociety''にみるマーナーー起源猫 るのか, ということなのである。 というのは, そもそもマナーなるものが 少なくとも彼の指摘するごとく大規模所領においてその典型的特質を有し たとするならば, まさにそれこそが, かのゲルマン的重量有輪塑・耕区 制・三圃制をふまえたところの, より高度で新たな農耕生産力を前提に存 在するものとして説明されねば芯らないと考えられるからである。 もっと もアングロ・サクソン社会に関しては農耕技術の発達を本書のマナー起源 論においてではなく, 前章の「土地利用と技術」 (LandUseandTe-chnology)で述べているようである。 しかしそれでは, こうした意味でマナーが封建社会の基礎であったとい うなら,大陸における封建社会の発達のいわば先進地帯をなしたのが, し ばしば言われてL、る通り北部ガリアのセーヌ川からライン川に至る地域, 即ち古代ローマから離れた辺境地帯であったという点を, どのように説明 したらよいのであろうかということである。 加えて, そもそもマナー的所領なるものはおそらく密築村落においてこ そ集中的に発達したと思われるのであるが, この点では当時の生産技術を 前提としたところの合理的・妥当な生産組織たる「村落共同体」を無視す ることができないだろう。因みに, ポスタンは本書のマナー起源論の最初 で次のようにも述べている。即ち,封建社会にみられる諸制度のうち「マ ナーと村落共同体は,最も強力で最も普遍的なものであり,同時にまた中 世の経済と社会の最も特徴的なものとして,一般に正当に提起されるので ある田。」 と。 それにもかかわらず, とりわけ典型的マナーが開花する大規模所領で特 徴的とみられるこの村落共同体の問題を,彼はマナー的所領生成との関わ りで言及されていないのであるが, これはL、ささか奇異な印象達与えるも のでなかろうか。あるいは少しく言葉をかえていうならば, そもそもマナ ー制度は確かに系譜的には自由な生産者の軍事的支配者階層への隷属的結 Pcstan,"f/. , p. 73.傍点は引用者による。 鰯M、M 20 −196−
M,M.Postan,4dTheMedievalEconomyandSociety''にみるマナー起源論 果として発生してきたことも認められるにせよ, しかしまた他方では, そ うした支配者によって所有せられたマナーの領主権力が,旧来から発達し ていたと思える村落共同体に対して徐々に支配権を行使した結果として獲 得せられた師とみる説もあながち無視されてならないだろう。筆者は冒頭 でおことわりしていた通り, この領域の問題について浅学の者であり, そ の意味では本書のマナー起源論から少なからず教示をうけたが,あえてあ げればこれらの諸点を素朴な疑問として試みに提示するものである。 *本稿では, 当初の予定として首記の「マナー起源論」と共に, 同書の第l1章 商業と工業」 (Tradeandlndustry)のうち特に中世商業起源論に関わる ところも考察するために, その革備を重ねていたが, これは今回都合により 省略L,他にその機会を求めることにしたい。 ㈱cf・ P.Vinogradoff,TheGrowthof theManor(1968)p 235 21 −197−