南アジア研究第 21 号(2009 年)
228
228
三輪博樹論文を読む
中村平治
『南アジア研究』第20
号の特集「南アジア・日本・世界」では各専門領 域から問題提起がなされ、それは今後の研究の有りように対して大きな刺 激を与えた。三輪論文「グローバル化とインド国内政治─新たな共同研究 に向けて─」からは政治分析の方法の面で啓発を得たが、そこでの共同 研究の必要性の提案も適切なものであった。一方、その場で氏は私が執筆 者であり編者の1
人でもある『南アジアの歴史─複合的社会の歴史と文化 ─』(有斐閣、内藤雅雄氏と共編、2009
年〔2006
年〕)に関して、異例の 論評を加えた。ここでは氏以外の研究者にも及んでくる論点が出されてお り、現代史研究の立場から、氏への反論を含めた議論を試みたい。 本書では、私はその担当部分において独立インドの政治過程─ほぼ経済 過程の起伏に対応する─を3
段階に区分し、各段階の諸特徴を論じた後の 最終章でインドが直面する課題を要約した。私が異例とするのは、三輪氏 が私とほぼ同様な段階区分に依拠しながら、かつての私の所論1には言及 せず、それと関連する本書第11
章(インド型民主主義の継承へ─ファシ スト勢力対民主主義─)に批判を集中している点にある。その第9
章以降 において、私は政治過程の展開の契機としてインド型民主主義に焦点を 絞っている。つまり、この理念・体制と、ヒンドゥートヴァ(ヒンドゥー 国家主義)とその発現形態のコミュナル・ファシズムとの間における、政 教分離主義の舞台をめぐる、切り結びを政治過程認識の土台に据えている。 このファシズム概念は、アヨーディヤーとグジャラートの両事件とその前 後の息苦しい時期を体験した、インドの歴史家たちによって提起されたも のであり、ヒンドゥー集団による少数派ムスリムを狙いとする異宗教・異 文化抹殺のファシズムと断じている。ここでは以下の両課題、つまり独立 インドの政治過程論のあるべき規範とは何かが問われており、氏には私の 示した論点に対置する形での政治過程理解の理念とその適用の説明が求め られる。さらにファシズム論についても、氏が如何なるスタンスを持つか リジョインダーリジョインダー 三輪博樹論文を読む
229
に関心がある。参考までに、私はすでに別稿において植民地段階における インド型ファシズムの登場と、独立インドにおけるその継承と展開につい て批判的な考察を試みている2。 この問題は三輪氏も使用するヒンドゥー・ナショナリズムなる用語に関 連する。実はこのカタカナ表記のナショナリズム論は南アジア研究者の間 で通念化してきた。しかも発表された論文ではヒンドゥー・ナショナリズ ムに加えて、ヒンドゥー・ナショナリストなる表現さえ登場するに及んで、 この表記と同類の議論を張る、氏のみならず多くの研究者への私の疑問を 提起しておきたい3。そもそもナショナリズムは漢字表記を拒否する、あ るいは拒否すべき不可侵の概念領域を構成しているのだろうか。答えは否 である。さらに私たちの周辺には、こうしたカタカナ指向を補強するアー ネスト・ゲルナーやベネディクト・アンダースンらの諸説があり、それら は一種の権威を持って受容されてきた。しかしながら、ゲルナー説─その まともなナチズム批判は措くべきだとしても─に見られるナショナリズム の恣意的な政治・民族の措定と拮抗関係の現象的な説明と並んで、それを 「想像の共同体」とするアンダースン説に見られる民族・民衆運動史の視 点の欠落4は、共に反歴史的な議論として承服し難いものである。 残された道としては、インドの現場に立ち戻り、植民地的な近現代イン ドの火獄というべき溶鉱炉で鍛えられた、政治家ジャワーハルラール・ネ ルーの所論に注目したい。ネルーの問題提起はインドの独立直後の1950
年10
月、北インドのラクナウーで開かれた、太平洋問題調査会の第11
回 国際大会での開会演説を通じてであった5。そのネルーは自らの政治的な 実践と思想の双方を簡潔に総括して、ナショナリズムの両極性を指摘し、 それが正の極としての民族独立と、負の極としての拡張主義、つまり国家 主義という背反関係から構成されており、要は進歩と反動の両極から成る 自己矛盾体であると明示している。このナショナリズム観に立脚するなら ば、インド人民党主導のヒンドゥー・ナショナリズムは、文字通り負の極 としてのヒンドゥー国家主義に帰結するものであり、ヒンドゥー至上主義 も、これまた同一範疇のなかで用語の再規定が必要とされよう6。 三輪氏は行論で、2002
年2
月∼3
月に西部インドのグジャラート州で 起きた「反ムスリム暴動」に関心を向けている。しかし、当時のインドの メディアは、それは単なる暴動ではなくて、インド人民党のナレーンドラ・ モーディー州首相のもとで州政府が先頭に立って組織した、ヒンドゥー集南アジア研究第 21 号(2009 年)
230
団による少数派ムスリム集団を対象のポグロムであると報道していた。こ の点に関しては、それから10
年前の1992
年に発生した北インドはウッタ ル・プラデーシ州のアヨーディヤー事件の場合と同様、私たちはインド人 研究者による卓越した研究や資料を手にしている。氏はインド人民党のイ デオロギー、その表面的な主張や特定の事件だけに関心を集中すべきでは ないと主張する。しかしこの3
点を研究上の関心対象から除外した、また は消去した人民党研究とは一体何を指し、何を目指しているかを提示して 頂きたい。また氏の指摘する「表面的でない主張」の意味するところは、 にわかに理解できないが、それでは内在的な分析と説明を含んだ反証とな る事例研究を得たいものである。この問題に関連して氏はさらにインド人 民党に対する中立的な見方の必要性を説くが、これまた不可解な事柄であ る。なぜならば、人が「中立的な立場」をとること自体が、認識行為の面 で必ずしも客観性の確保に連動せず、逆に何らかの政治的な意味や役割を 不可避的に持ち、また持たされるのが一般的である。言い換えれば、一個 人の行動や認識の面における選択肢の如何を問わず、幸か不幸か、私たち は日常的に政治化状況の網の目から脱出不可能な時代を生きるべき課題を 背負っている。 末尾で若干の提言を試みたい。本来常識論に属するのであろうが、近時、 日印関係を振り返る上でも、必要不可欠な観点であると思料する問題があ る。端的には「進んだインドと遅れた日本」という視座の導入・確立が、 この国の研究者と教育者の間で切迫した課題となっている。具体的には、 日本との対比においてインド国民の政治参加の面での進展には決定的な落 差がある、という自己認識の有無に関わる。周知のように、インドは第9
回総選挙(1989
年)の際に、第1
回総選挙(1951
~
52
年)時からの男女 有権者年齢21
歳から、新しく18
歳に引き下げた。同じ南アジアの一角に あり、2006
年に240
年間に及ぶ王政に終止符を打ったネパールでも、そ の制憲議会議員選挙(2008
年)では、インドの場合と同様に18
歳以上の 男女有権者が投票に参加した。三輪氏は行論で民主主義や総選挙に言及し ている事情もあり、この問題の重要性を重ねて指摘すべきであろう。また 私たちはインドのメディアの持つ高度の水準についても充分な注意を向け るべきである。氏の引用文献から洩れているものとして、インドの人文・ 社会科学系のメディア史で不動の立場を構築してきたEconomic & Political
リジョインダー 三輪博樹論文を読む
231
がある。なおインドの人名や地名に関しては、可能な限り正確さを伝える 記述方法が要求されている。氏の論考(182
頁)で、人名Kohli
はコーホリー と記述するのが妥当であろう。 1 中村、1998、「独立後50年の民主主義と政治過程」、古賀正則・内藤雅雄・中村(共編)『現 代インドの展望』、岩波書店、3-26頁。 2 中村、2008、「インド−国民国家建設の周辺三題−」、久留島浩・趙景達(共編)『アジアの国 民国家構想』、青木書店、243-265頁。 3 堀本武功・広瀬崇子(共編)、2002、「民主主義へのとりくみ」、『現代南アジア3』、東京大学 出版会所収の関連する諸論文を参照。4 歴史家イルファーン・ハビーブによるアンダースン批判として(Irfan Habib, 2008, Colonialism,
Modernization and the Asian Identity(英文解説・近藤治)、『文学部論集』、佛教大学、92、63
-80頁。なお長島弘氏による同論文の抄訳2008、「植民地主義、近代化とアジアのアイデンティ ティ」、『日本の科学者』、日本科学者会議、43-10参照。
5 ネルー、1951、「アジアの理解のために」、日本太平洋問題調査会(訳編)『アジアの民族主
義−ラクノウ会議の成果と課題−』、岩波書店、3-13頁。同演説の原文はOpening Address by Jawaharlal Nehru, 1973(1953), Asian Nationalism and the West, edited by William L. Holland, Octagon Books, New York, pp. 349-356参照。なお、大会報告集の刊行は日本語版 が英語版に先行していた事情があり、各発表年の相違はこうした理由による。
6 論者の数だけナショナリズム論は存在すると云われるが、多くのナショナリズム論のなかで、ネ
ルーの問題提起を最重視する立場から、中村、2009、「ナショナリズム=自己矛盾体論−南ア ジア近現代史研究の場から−」、『歴史評論』、716、82-92頁。