南 ア ジア研 究 第19号(2007年) 『ヒ ン デ ィ ー 語=日 本 語 辞 典 』 古 賀 勝 郎 ・高 橋 明 〔編 〕 東 京=大 修 館 書 店 、xxix+1439頁 、2006年 、18,000円 、ISBN4-469-01275-0。 『ヒ ンデ ィー語=日 本 語辞 典 』が 、古 賀 勝郎 氏 と高橋 明氏(以 下 敬称 略) に よっ て編纂 され、 大修館 書 店 か ら出版 された 。 ヒ ンデ ィー語 の学 習者 ・ 研 究 者 に限 らず、様 々な分野 の南 アジ ア研 究者 がす で に使用 し、そ の恩 恵 に浴 して い る。 まず その構 成 を概 観 してみ よ う。 「は しが き」 に続 き、 初 めの 「概 説 ・凡例 」の25頁 に文字 表記 ・発音 ・文法 概 略 な どの解 説 が ある。 本文 は1頁65行2段 組 で1439頁 。正 確 な見 出 し語 数 は 明示 され てい ない が、 出版 元 の広告 で は約8万 語 とされ てい る。現 代 ヒ ンデ ィー語 の語 彙 の 中核 をなすサ ンス クリ ッ ト語 由来 の語 彙、 中世以 来 イ ン ド ・イス ラー ム文 化 を支 えて きた ア ラビア語 ・ペ ル シア語 ・トル コ語 な どか らの語彙 、西 欧 の南 ア ジ ア進 出後 に加 わ った英 語 を中心 と した西 欧語 か らの借 用語 彙 な ど が収 録 され てい る。各 見 出 し語 につ い ては、 範疇 に 区分 され た語義 が詳 細 に示 されて い る。特 定 の 品詞 で文法 上 の解 説 を要 す る語や 、人 名 ・地名 な どの固有 名詞 や専 門用 語 な ど百 科事 典 的解 説 を要 す る語 につ いて は、訳 語 に加 えてそ の詳 しい解 説 も記述 されて い る。 ア ラ ビア語 ・ペ ル シア語 な ど か らの語 彙 につ いて は ウル ドゥー文 字 に よる表記 、英 語 を中心 と した西 欧 語 か らの借用 語彙 につ い て はその原 綴 り、動 植物 につ い ては和 名 とと もに 学名 が示 されて い る。動詞 や名 詞 な どを中心 に、大多 数 の主要 な語 彙 に は、 そ の豊 富 な用 例 が 採録 され て い る。19世 紀 末 か ら現 在 に至 る まで の文 学 書 ・教養 書 ・教科 書 ・実用 書 ・新 聞 ・雑 誌 な ど様 々な分野 か ら蒐集 した資 料 に基づ くもの で、 イデ ィオ ム を含 め 、総数 は約13万 に及 ぶ。 つ ぎに、古 賀 ・高橋 の 辞 典 の 出版 以 前 、 日本 にお け る ヒ ンデ ィー語 の 学 習者 が 使 用 して きた主 な ヒ ンデ ィー語 辞 典 を概 観 して み よ う。18世 紀 末 に始 ま った ヒ ンデ ィー語 の 近現 代 の辞 書 編 纂 は、19世 紀 も英 国 人 た ち が 主 導 した。英 国人 の 手 に よ る ヒ ンデ ィー 語 関係 の辞 典 の うち、 プ ラ ッ ツJ.T.Plattsに よ り編 纂 され1884年 に出版 されたA Dictionary of Urdu, Classical Hindi, and English, Oxford:Oxford University Pressは 今 日で もなお利 用価 値 のあ る辞典 で あ る。ペ ル シア ・ア ラ ビア文 字 の配列 に よる この辞 典 は、そ の表題 中の 「古 典 ヒンデ ィー語 」が示 す ように、収 載語 彙 と表現 が古 い とい う難点 もあ った 。そ こで現 代 にお いて用 い られ てい る語 彙 を中心 とし、 ヒ ンデ ィー語 の表記 文字 で あ るデー ヴ ァナー ガ リー文字 の
新 ・刊 ・紹・介
配 列 に よ る 辞 典 が 新 た に 編 纂 さ れ る こ と が 望 まれ る よ う に な っ た 。 20世 紀 に 入 り、 や っ と イ ン ド人 自 身 に よ っ て 本 格 的 な ヒ ン デ ィ ー 語 の 辞 書 編 纂 が 行 わ れ る よ う に な り、Hindi Sabd-Sagar『 ヒ ン デ ィ ー 語 辞 海 』 全11巻(Syamsundardds シ ヤ ー ム ス ン ダ ル ダ ー ス 他 編 、Varanasi,1910-29, 増 補 改 訂 版1965-75)とManak Hindi Kos『 標 準 ヒ ン デ ィ ー 語 辞 典 』 全 5巻(Ramcandra Varmaラ ー ム チ ャ ン ド ラ ・ ヴ ァ ル マ ー 編 、Prayag , 1963-66)が 出 版 さ れ た 。 小 中 規 模 の 辞 典 で は不 足 して い る語 彙 を 求 め る 場 合 、 ヒ ン デ ィ ー 語 の 中 級 以 上 の 学 習 者 ・研 究 者 が 常 用 す る ヒ ン デ ィ ー 語=ヒ ンデ ィー 語 の 代 表 的 な二 つ の 大 辞 典 で あ る 。 ま た 現 在 入 手 可 能 な1 巻 本 の 本 格 的 な ヒ ン デ ィ ー 語=ヒ ンデ ィ ー 語 辞 典 と し て は 、Brhat Hindi Kos enlarged edition『 ヒ ン デ ィ ー 語 大 辞 典 』 増 補 版(Kalika Prasadカ ー
リ カ ー ・プ ラ サ ー ド他 編 、Varanasi,1973)とPntmauik Hindi Kos『 規 範 ヒ ンデ ィー 語 辞 典 』(Ramcandra Varmaラ ー ム チ ャ ン ドラ ・ヴ ァル マ ー 編 、 Badrlnath Kapurバ ド リ ー ナ ー ト ・カ プ ー ル 増 補 ・改 訂Ilahabad ,1996)
が 有 用 で あ る 。 前 者 は 時 事 用 語 も 多 数 収 録 し見 出 し語 は13万8千 語 に 及 ぶ が 、 語 義 の 記 述 に 難 解 な 語 句 が 多 い 。 後 者 で は 語 義 が 比 較 的 平 明 な語 句
で 説 明 さ れ 、 前 者 よ り も使 い や す い もの に な っ て い る 。
1993年 に は 、 マ ク レ ガ ーR.S.McGregorに よ り 編 纂 さ れ たThe
Oxford Hindi-English Dictionary:Oxford University Pressが 出 版 さ れ た 。 100年 以 上 も前 の プ ラ ッ ツ の 辞 典 に依 拠 し な が ら も、 デ ー ヴ ァ ナ ー ガ リー 文 字 の 配 列 に よ る 新 た に整 備 さ れ た 『ヒ ン デ ィ ー 語=英 語 辞 典 』 の 編 纂 を 思 い 立 ち 、20世 紀 に な っ て イ ン ドで 出 版 さ れ た 上 記 の 各 種 辞 典 な どの 成 果 を も参 照 し、 ヒ ンデ ィ ー 語 教 育 ・研 究 の 集 大 成 と し て20年 以 上 もの 歳 月 を か け て 完 成 さ せ た 大 事 業 で あ っ た 。 マ ク レ ガ ー の 辞 典 は 、 英 語 を 中 心 と し た借 用 語 や 固 有 名 詞 の 収 録 な ど に は そ れ ほ ど力 点 を置 い て い な い が 、 収 録 語 彙 数 も多 く、 そ れ ま で の 辞 典 よ り語 義 分 析 に 詳 しい 。 ま た 、 伝 統 的 な 生 活 様 式 や 日常 生 活 に つ い て の慣 用 表 現 な どの 収 載 に 、 自 身 の研 究 分 野 で の 成 果 を 反 映 させ て い る。 「辞 典 」 で あ る こ と に徹 し、 「事 典 」 的 性 格 を 避 け る 傾 向 に あ る イ ギ リス の伝 統 的 な辞 書 編 纂 法 に基 づ き な が ら も、 ヒ ン デ ィ ー 語 地 域 の 文 化 を背 景 と し た特 有 の 語 彙 に つ い て の 「事 典 」 的 な記 述 も一 定 程 度 含 む有 用 な 辞 典 で あ る 。 日本 国 内 で は 、 土 井 久 弥 編 『ヒ ンデ ィ ー 語 小 辞 典 』(大 学 書 林 、1975) が 出 版 され て い る 。 ヒ ン デ ィ ー 語=日 本 語 辞 典 を 主 体 と し、 さ ら に 日本 語 207
南 ア ジア研 究 第19号(2007年) =ヒ ンデ ィー語 辞典 を も巻末 に加 えた、 当時 としては画 期 的 な辞 典 であ っ た。現 在 で も、 ヒ ンデ ィー語=ヒ ンデ ィー語辞 典 を使 用 す る までの レベ ル に至 って い ない学習 者が 、英 語 を介 す るこ とな く使 用す るこ とが で きる中 規 模 の辞典 と して有 用 であ る。本 格 的 な 日本語=ヒ ンデ ィー語辞 典 として は、 『日本語=ヒ ンデ ィー語 辞 典 』(古 賀勝 郎 編 、1996年 、 私家 版)が 刊 行 されて い る。 古賀 ・高橋 の辞典 は、マ ク レガー の辞典 に集 大成 され るまで の伝統 的 な 方式 の利 点 も探 りつつ 、使用 者 の立場 に重 点 を置 いた新 た な編纂 法 も採 り 入 れ た大辞 典 であ る。使 用者 の視 点 か ら、既存 の辞 典 と比較 して気づ い た い くつか の点 につ い て記 す 。 まず 、見 出 し語 を見 て み よ う。 一 定 の規 模 を有 す る1巻 本 の辞 典 の う ちマ ク レガ ーの辞 典やBrhat Hindi Kosな どは、複 合語 ・派生 語 を大見 出 しの 下 に一括 す る方式 を採用 して いるが 、 この辞典 はすべ て別個 の見 出 し 語 として表示 してい る。編者 が 「学 習者 の便 宜 のた め」 とそ の理 由 を明記 してい る ように、 この方式 の採用 は文字体 系 と見 出 し語 の 配列 の知 識 だけ で使 用者 は確 実 に 目標 とす る語 に た ど り着 ける こ とを優 先 した結果 で あ る。 また同語 源 ・同義 語 の異綴 りを可能 な 限 り多 く見 出 し語 の 位置 に加 え てい る。 知 りた い単語 の綴 りが見 出 し語 と して見 つ け られるか 否か が使 用者 に とって の出発 点 であ る とい う配慮 が窺 える。 つ ぎに、見 出 し語 とな る語 の品詞 分類 につ い て、丁 寧 な枠 組 み作 りと詳 しい分析 が な されて い るこ とが 大 きな特徴 であ る。複雑 な性 格 を兼 ね備 え た語 彙 の多 い ヒ ンデ ィー語 で は、 これ まで統 語論 や語 形論 な どに基 づ く視 点 が場 当 り的 に選 択 され、 結 果 と して 一 貫性 の ない 品詞 分 類 が な され て きた。 この よ うな環境 にお い て は、 既 存 の辞 典 の枠 組 み を鵜 呑 み に しな い 、辞書 編纂 者 としての主 体 的な考 えに よる独 自の枠 組 み作 りは重 要 であ る。一例 を挙 げ る と、古賀 ・高橋 の辞典 で は、動 詞が 本動 詞 としてで は な く、複 合 動 詞 の一 部 を成 す 助 動 詞 と して 用 い られ る場合 に は、独 立 した 別 の品詞(こ の場 合 は助動 詞)の 見 出 し語 とされて い る。そ こで は助動 詞 と して の意 味論 的 な分 析 に基づ い た語義 の記 述分 類 が な され 、各語 義 につ い ての 豊富 な用例 が収 録 され てい る。全 体 を俯瞰 しての こ う した枠 組 み作 りは、 入 門者 向 け に編 纂 され た 『ヒ ンデ ィー 語語 彙 集』(古 賀勝 郎 編、 大 阪外 国語大 学 、1971)の 時 点にお いてす で に確 立 してい た。語 彙 集 で は、 品詞 の 略号 と して、AI複 合 動詞(不 定 詞+動 詞)、AP複 合 動 詞(現 在 分 208
新 ・刊 ・紹 ・介 詞+動 詞)、AR複 合 動 詞(語 根+動 詞)、AT複 合 動 詞(過 去分 詞+動 詞) が、VI自 動 詞 、VT他 動 詞 とは別 に示 されて い る。 上述 の マ ク レガーの辞 典 は、事 典 的 な記 述 も含 むが 、採 り上 げ る分 野 に 偏 りが あ り、 固有名 詞 の収載 に はあ ま り熱 心 で はない。 また英語 を中心 と した借用 語 も、 古 い時代 に定着 した語 彙 に限 られ、 すで に実 際 に使 われ る よ うにな った新 た な語 彙に乏 しい。古 賀 ・高橋 の辞典 で は、 ヒ ンデ ィー語 学 習者 ・研 究者 が増補 を望 む これ らの 部分が 悉 く埋 め尽 くされ た と言 っ て も過言 で は ない。 これ まで数種 の辞 典 を併 用せ ざる を えなか った 学習 者 ・ 研 究者 の誰 もが 、古賀 ・高橋 の辞典 以後 は、 この1巻 です べ て事足 りる と 感 じて い るはず であ る。 発 音表 記 の扱 い を見 て み よ う。例 えばパ ンジャー ビー語 の よ うに、潜 在 母音 の有 無が か な り不 規則 で、 さ らに語 中 の アクセ ン トが 出現 す る よ うな 言語 で は、英 語 な どの言語 と同様 に、各 見 出 し語 につ い ての発 音表 記 は不 可欠 で ある。 ヒ ンデ ィー語 で は、概 説の ペ ー ジで潜 在 母音 の有無 の 規則 や 表記 と発 音の ずれ な どを詳 し く解 説 し、 その知 識 があ れ ば綴 りのみ で十分 導 き出せ る とい う判 断 か らか、 この辞 典 で は各 見 出 し語 に発音 表 記 はつ け てい ない 。膨大 な数で はあ るが 、各見 出 し語 に発音 表記 が あれ ば、使 用者 は発音 情報 の確 認 がで き、 さらに至 れ り尽 くせ りの内容 とな るこ とは確 か であ る。 また、専 門語 略号 の 〔地名 〕 の うち都 市 名 につ いて 品詞が示 され てい な い こ とは、 学習 者 に とって は不 便 で ある。Dilli,Mumbal,Lakhnauな どが 男性 名 詞 であ るのか 女性 名詞 で あるの か は、 これ らの語 を修飾 す る形 容詞 の語 尾 変化 の決 定 な どの た めに は不 可 欠の情 報 であ る。 最 後 に若 干 の要 望 を記 したが 、 この辞 典 が 質 ・量 と もに世 界最 高水 準 の ヒ ンデ ィー語 →外 国語辞 典 であ る こ とに変 わ りはない 。 日本 国 内の ヒン デ ィー語 の学 習者 や諸 分 野の南 アジ ア研 究者 が使 用す るに と どま らず 、 イ ン ドや 欧米 の ヒ ンデ ィー語 学教 育者 や言 語学 者が 、 この辞 典 を範 として地 道 な研 究 の蓄 積 を進 め、 さ らに学習 環 境 を整 備 して くれ る こ とを望 み たい。 (岡口典 雄) 209