(arthakriyā,kāraka,kārya4))という語も非常に密接に関わっており,「効果をもたな いものを効果をもつものであると思い込む」という内容の例でも adhyavasāya は 用いられる5).この「効果」に関する adhyavasāya の例もまた自註の中で複数回見 られる.そして表現に多少の差異はあれど,自註では全ての用例がこの二つの例 のいずれかに当てはまると言える.また,「知における現れ」と「効果をもたない もの」,「外界対象」と「効果をもつもの」という関係は,ともに前者が後者の性 質をもつものと言えるため,二つの例自体も本質的に異なるものではない.この 二種類の用例の思い込みがさらに詳細に示される際には,言語表現(vyavahāra)と 潜在印象(vāsanā)の二語が用いられることがある.以下にそれぞれの例をあげる.
【用例 1】 PVSV 55,1–3: neyaṃ bhinnārthagrāhiṇy abhinnā pratibhāti tadudbhavā / atatpra-tibhāsiny apy adhyavasāyavibhramād vyavahārayati lokam /
この〔普遍を認識している知〕が,その〔相互に区別された対象から〕生じ,区別され た対象を把握するものである〔ならば,〕区別されない〔形象のものとして〕現れること はない.〔しかし〕それ(自相)が現れていなくても,〔そのような知自身に属する現れ を,対象であると〕思い込むという誤りにより(adhyavasāyavibhramād)世間の人に言語 表現させる.
【用例 2】PVSV 35,5–7: anapekṣitabāhyatattvo buddhipratibhāsavaśād eko anekavyāvṛttaḥ śabdair viṣayīkriyate tadanubhavāhitavāsanāprabodhajanmabhir vikalpair adhyavasitatadbhāvārthaiḥ / 外界の実在に依らず,知における現れの力によって,複数のものから区別された一つの もの(自相)が,それ(自相)の直接経験により積まれた潜在印象から引き起こされ生 じる分別知によってその〔外界の〕存在であると思い込まれたものを意味対象とする諸々 の語を介して対象とされる. このように【用例 1】においては,思い込みを契機としてまさに言語活動が行 われることが述べられている.【用例 2】では,語というものが「外界の実在」に 依拠したものではなく,「知における現れ」によるものであることが最初に述べら れる.次に分別知とは自相(svalakṣaṇa)の知覚により蓄積された潜在印象から生 じるものであると説かれており,その潜在印象から生じる分別知上に現れたもの を外界対象と思い込むのである.この二つの用例では,それぞれ言語表現や潜在 印象について言及されたが,adhyavasāya がこれらの語とともに使用される際も, その用例の中心意義は「知における現れを外界対象であると思い込む」ことであ ることが見てとれる.そして【用例 1】によって,思い込みが無いことには分別 知による言語活動は行われないことも示され6),このことからも adhyavasāya が分 別知における普遍的な働きであることが推測される. 『プラマーナ・ヴァールティカ』自註における adhyavasāya の位置づけ(秦 野)(123)
『プラマーナ・ヴァールティカ』自註における
adhyavasāya の位置づけ
秦 野 貴 生
1.はじめに
ダルマキールティ(Dharmakīrti, ca. 600–660)の用いる adhyavasāya という語につ いて,用例に基づいて,その機能を考察をする.本稿では adhyavasāya の用例の うち,彼の主著『プラマーナ・ヴァールティカ』(Pramāṇavārttika,略号 PV)第 1 章 に対する自註(Pramāṇavārttikasvavṛtti,略号 PVSV)での用例に考察対象を絞ること とする.adhyavasāya という語に初めて注目したのは Stcherbatsky(1932)であり, その後多くの先行研究において議論されてきたが1),ダルマキールティの用例に 即した adhyavasāya の研究は少なく,議論の余地がある.
2.adhyavasāya
の分布
まずダルマキールティの PV と,PV(I) に対してのみ存在する自註における adhyavasāya の使用回数をまとめる.adhyavasāya,及び adhyavasāya と同じ語根を とる語(adhyavasyati,adhyavasita など)の使用回数は,PV 全体と自註で計 18 回で あり,そのうち 16 回が自註でのものである.残りの 2 回はいずれも第 3 章で用い られるものであるため2),PV(I) の偈で adhyavasāya が使われることはない.また 自註で使用される 16 回のうち 14 回は,アポーハ論を議論する kk. 40–185 に対す る註釈で使用されている.これゆえダルマキールティに関しては adhyavasāya と いう語が,語とその対象についての考察に深く関わりがあることがわかる.3.adhyavasāya
の用例
自註での adhyavasāya の用例のうち,「意識内の分別知における現れ(pratibhāsa) を外界の対象(bāhyārtha)であると思いこむ(adhyavasāya)」という内容で用いられ る場合が最も多く見られる3).また,adhyavasāya が用いられる際には「効果」 (122) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 1 号 平成 28 年 12 月 ─ 403 ─(arthakriyā,kāraka,kārya4))という語も非常に密接に関わっており,「効果をもたな いものを効果をもつものであると思い込む」という内容の例でも adhyavasāya は 用いられる5).この「効果」に関する adhyavasāya の例もまた自註の中で複数回見 られる.そして表現に多少の差異はあれど,自註では全ての用例がこの二つの例 のいずれかに当てはまると言える.また,「知における現れ」と「効果をもたない もの」,「外界対象」と「効果をもつもの」という関係は,ともに前者が後者の性 質をもつものと言えるため,二つの例自体も本質的に異なるものではない.この 二種類の用例の思い込みがさらに詳細に示される際には,言語表現(vyavahāra)と 潜在印象(vāsanā)の二語が用いられることがある.以下にそれぞれの例をあげる. 【用例 1】 PVSV 55,1–3: neyaṃ bhinnārthagrāhiṇy abhinnā pratibhāti tadudbhavā /
atatpra-tibhāsiny apy adhyavasāyavibhramād vyavahārayati lokam /
この〔普遍を認識している知〕が,その〔相互に区別された対象から〕生じ,区別され た対象を把握するものである〔ならば,〕区別されない〔形象のものとして〕現れること はない.〔しかし〕それ(自相)が現れていなくても,〔そのような知自身に属する現れ を,対象であると〕思い込むという誤りにより(adhyavasāyavibhramād)世間の人に言語 表現させる.
【用例 2】PVSV 35,5–7: anapekṣitabāhyatattvo buddhipratibhāsavaśād eko anekavyāvṛttaḥ śabdair viṣayīkriyate tadanubhavāhitavāsanāprabodhajanmabhir vikalpair adhyavasitatadbhāvārthaiḥ / 外界の実在に依らず,知における現れの力によって,複数のものから区別された一つの もの(自相)が,それ(自相)の直接経験により積まれた潜在印象から引き起こされ生 じる分別知によってその〔外界の〕存在であると思い込まれたものを意味対象とする諸々 の語を介して対象とされる. このように【用例 1】においては,思い込みを契機としてまさに言語活動が行 われることが述べられている.【用例 2】では,語というものが「外界の実在」に 依拠したものではなく,「知における現れ」によるものであることが最初に述べら れる.次に分別知とは自相(svalakṣaṇa)の知覚により蓄積された潜在印象から生 じるものであると説かれており,その潜在印象から生じる分別知上に現れたもの を外界対象と思い込むのである.この二つの用例では,それぞれ言語表現や潜在 印象について言及されたが,adhyavasāya がこれらの語とともに使用される際も, その用例の中心意義は「知における現れを外界対象であると思い込む」ことであ ることが見てとれる.そして【用例 1】によって,思い込みが無いことには分別 知による言語活動は行われないことも示され6),このことからも adhyavasāya が分 別知における普遍的な働きであることが推測される. 『プラマーナ・ヴァールティカ』自註における adhyavasāya の位置づけ(秦 野)(123)
『プラマーナ・ヴァールティカ』自註における
adhyavasāya の位置づけ
秦 野 貴 生
1.はじめに
ダルマキールティ(Dharmakīrti, ca. 600–660)の用いる adhyavasāya という語につ いて,用例に基づいて,その機能を考察をする.本稿では adhyavasāya の用例の うち,彼の主著『プラマーナ・ヴァールティカ』(Pramāṇavārttika,略号 PV)第 1 章 に対する自註(Pramāṇavārttikasvavṛtti,略号 PVSV)での用例に考察対象を絞ること とする.adhyavasāya という語に初めて注目したのは Stcherbatsky(1932)であり, その後多くの先行研究において議論されてきたが1),ダルマキールティの用例に 即した adhyavasāya の研究は少なく,議論の余地がある.
2.adhyavasāya
の分布
まずダルマキールティの PV と,PV(I) に対してのみ存在する自註における adhyavasāya の使用回数をまとめる.adhyavasāya,及び adhyavasāya と同じ語根を とる語(adhyavasyati,adhyavasita など)の使用回数は,PV 全体と自註で計 18 回で あり,そのうち 16 回が自註でのものである.残りの 2 回はいずれも第 3 章で用い られるものであるため2),PV(I) の偈で adhyavasāya が使われることはない.また 自註で使用される 16 回のうち 14 回は,アポーハ論を議論する kk. 40–185 に対す る註釈で使用されている.これゆえダルマキールティに関しては adhyavasāya と いう語が,語とその対象についての考察に深く関わりがあることがわかる.3.adhyavasāya
の用例
自註での adhyavasāya の用例のうち,「意識内の分別知における現れ(pratibhāsa) を外界の対象(bāhyārtha)であると思いこむ(adhyavasāya)」という内容で用いられ る場合が最も多く見られる3).また,adhyavasāya が用いられる際には「効果」 (122) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 1 号 平成 28 年 12 月 ─ 402 ─分別知における普遍的な働きであることも示された.
1)これまでの adhyavasāya の研究は中須賀(2014)においてまとめられている. 2)PV(III) での adhyavasāya の使用は,異読によっては 2 回ではなく 3 回であるともさ
れる.戸崎(1979, 385)参照.
3)PVSV 40,6–7: jñānasya rūpaṃ katham arthānāṃ sāmānyam / tasya teṣv abhāvāt / tadbhā-vādhyavasāyāt tathābhrāntyā vyavahāra.
4)arthakriyā,kāraka,kārya などの語を同義とすべきかどうかは議論の余地があるだろ うが,本稿で扱う箇所においては同義として差し支えないとし,それらの語を「効果」 と訳すこととする.
5)PVSV 64,23–25: saṃsṛṣṭabāhyādhyātmikabhedā buddhiḥ svam evābhāsaṃ vyavahāravi-ṣayam arthakriyāyogyam adhyavasāya śabdārtham upanayati /
6)同内容のことは PVSV 42,18–20 においても述べられている.
7)PVSV 106,2–4: sa tu vikalpaḥ sadasadubhayapratyayāhitavāsanāprabhava iti tatpratibhāsyākā-rādhyavasāyavaśena / ca bhāvābhāvobhayadharma ity ucyate /
8)Cf. PVSV 76,9–13. 9)思い込みが実在と整合性(avisaṃvāda)をもつか否かは,その思い込みのもととなっ ている分別知が実在との間に結合(pratibandha)を有しているかどうかによる.思い込 みそれ自体は錯誤したものであるが,それが果たして整合性をもつかどうかという点 は他の条件のもと決定されるのである.福田(1999, 94)参照. 〈略号〉
PV(I) Pramāṇavārttika, chapter 1 of Dharmakīrti. See PVSV.
PV(III) Pramāṇavārttika, chapter 3 of Dharmakīrti. See 戸崎(1979).
PVSV The Pramāṇavārttikam of Dharmakīrti: The First Chapter with the Autocommentary.
Ed. Raniero Gnoli. Roma: Istituto Italiano per il Medio ed Estremo Oriente, 1960. 〈参考文献〉 桂紹隆 1989「知覚判断・擬似知覚・世俗知」『藤田宏達博士還暦記念論集 インド哲学と 仏教』平楽寺書店,533–553. 戸崎宏正 1979『仏教認識論の研究』上巻,大東出版社. 中須賀美幸 2014「ダルマキールティの 「付託の排除」 論―― adhyavasāya,niścaya,知覚 判断の関係をめぐって――」『南アジア古典学』9: 397–418. 福田洋一 1999「ダルマキルールティにおける adhyavasāya について」『印度学仏教学研究』 47 (2): 91–96.
Stcherbatsky, Th. (1932) 1944. Buddhist Logic. Vol. 1. Reprint, Delhi: Motilal Banarsidass. 〈キーワード〉 adhyavasāya,知覚判断,ダルマキールティ,『プラマーナ・ヴァールティカ』 (大谷大学大学院) 『プラマーナ・ヴァールティカ』自註における adhyavasāya の位置づけ(秦 野)(125) さて,潜在印象から生じる分別知上に現れたものを外界対象と思い込むのであ るが,では知における現れのもととなる潜在印象はどのような存在からも蓄積さ れうるのか.その観点から adhyavasāya のはたらきの普遍性を検討していく.ダ ルマキールティは分別知を生じさせる潜在印象は存在するもの・存在しないもの・ その両者により蓄積されたものであるとする7).
【用例 3】PVSV 38,2–5: svargādiśravaṇe ’pi tadanubhāvinām iva pratibhāsābheda prasaṅgāt / tasmād ayam apratipadyamāno ’pi bhāvasvabhāvaṃ tathābhūta eva vikalpapratibimbe tadadhya-vasāyī saṃtuṣyati / tathābhūtatvād eva śabdārthapratipattes.
天界など〔という語を〕耳にする場合も,それ(天界など)を直接経験するかのような 〔諸々の知が〕,現れに区別がないという誤りに陥るから.それゆえ,この〔聞き手は〕, 存在の自性を理解することもなく,そのような〔存在の自性が混合しないもの〕に他な らぬ分別知〔に現れている〕像に対し,それ(自相)であると思い込み,〔まさに自相を 私は理解した,と〕満足する.語の対象を理解することは,まさにそのような〔自相を 捉えていないにもかかわず,自相であると思い込む〕ものであるから. ここでは天界(svarga)という語を交えて説かれており,実際に対象としている ものは分別知における像であるにもかかわらず,あたかも天界の自性を知覚して いると錯誤して思い込んでいるのである.また,この【用例 3】と同様の内容で, サーンキヤ学派の認める根本原質(pradhāna)や,自在神(īśvara)といった語にお いても adhyavasāya は用いられている8).つまり根本原質という仏教徒が認めない 存在しない対象についても潜在印象が蓄積されることとなり,その潜在印象から 生じる分別知上の現れに対し思い込みは行われるため,どのような対象であって も思い込みは成り立つと言えよう.そしてこのことから,思い込みが分別知にお ける普遍的な働きであるということが示された9).
4.結論
以上 adhyavasāya,及び adhyavasāya と同じ語根をとる語の用例を PV 第 1 章に 対する自註の中から抜粋し,大きく分類するとともに「効果」,「言語表現」,「潜 在印象」といった語に着目しながら考察を行った.adhyavasāya の用例の大部分が 「知における現れを外界対象であると思い込む」という内容が示されたものである ことが明らかとなった.また,「効果のないもの・効果のあるもの」という語で言 い換えられることもあったが,その意義はいずれも同じであり,例外も見られな い.adhyavasāya は,根本原質など認められていない存在においても使用されるこ とから,いかなる存在に対しても用いられることがわかり,人間の言語表現一般, (124)『プラマーナ・ヴァールティカ』自註における adhyavasāya の位置づけ(秦 野) ─ 401 ─分別知における普遍的な働きであることも示された.
1)これまでの adhyavasāya の研究は中須賀(2014)においてまとめられている. 2)PV(III) での adhyavasāya の使用は,異読によっては 2 回ではなく 3 回であるともさ
れる.戸崎(1979, 385)参照.
3)PVSV 40,6–7: jñānasya rūpaṃ katham arthānāṃ sāmānyam / tasya teṣv abhāvāt / tadbhā-vādhyavasāyāt tathābhrāntyā vyavahāra.
4)arthakriyā,kāraka,kārya などの語を同義とすべきかどうかは議論の余地があるだろ うが,本稿で扱う箇所においては同義として差し支えないとし,それらの語を「効果」 と訳すこととする.
5)PVSV 64,23–25: saṃsṛṣṭabāhyādhyātmikabhedā buddhiḥ svam evābhāsaṃ vyavahāravi-ṣayam arthakriyāyogyam adhyavasāya śabdārtham upanayati /
6)同内容のことは PVSV 42,18–20 においても述べられている.
7)PVSV 106,2–4: sa tu vikalpaḥ sadasadubhayapratyayāhitavāsanāprabhava iti tatpratibhāsyākā-rādhyavasāyavaśena / ca bhāvābhāvobhayadharma ity ucyate /
8)Cf. PVSV 76,9–13. 9)思い込みが実在と整合性(avisaṃvāda)をもつか否かは,その思い込みのもととなっ ている分別知が実在との間に結合(pratibandha)を有しているかどうかによる.思い込 みそれ自体は錯誤したものであるが,それが果たして整合性をもつかどうかという点 は他の条件のもと決定されるのである.福田(1999, 94)参照. 〈略号〉
PV(I) Pramāṇavārttika, chapter 1 of Dharmakīrti. See PVSV.
PV(III) Pramāṇavārttika, chapter 3 of Dharmakīrti. See 戸崎(1979).
PVSV The Pramāṇavārttikam of Dharmakīrti: The First Chapter with the Autocommentary.
Ed. Raniero Gnoli. Roma: Istituto Italiano per il Medio ed Estremo Oriente, 1960. 〈参考文献〉 桂紹隆 1989「知覚判断・擬似知覚・世俗知」『藤田宏達博士還暦記念論集 インド哲学と 仏教』平楽寺書店,533–553. 戸崎宏正 1979『仏教認識論の研究』上巻,大東出版社. 中須賀美幸 2014「ダルマキールティの 「付託の排除」 論―― adhyavasāya,niścaya,知覚 判断の関係をめぐって――」『南アジア古典学』9: 397–418. 福田洋一 1999「ダルマキルールティにおける adhyavasāya について」『印度学仏教学研究』 47 (2): 91–96.
Stcherbatsky, Th. (1932) 1944. Buddhist Logic. Vol. 1. Reprint, Delhi: Motilal Banarsidass. 〈キーワード〉 adhyavasāya,知覚判断,ダルマキールティ,『プラマーナ・ヴァールティカ』 (大谷大学大学院) 『プラマーナ・ヴァールティカ』自註における adhyavasāya の位置づけ(秦 野)(125) さて,潜在印象から生じる分別知上に現れたものを外界対象と思い込むのであ るが,では知における現れのもととなる潜在印象はどのような存在からも蓄積さ れうるのか.その観点から adhyavasāya のはたらきの普遍性を検討していく.ダ ルマキールティは分別知を生じさせる潜在印象は存在するもの・存在しないもの・ その両者により蓄積されたものであるとする7).
【用例 3】PVSV 38,2–5: svargādiśravaṇe ’pi tadanubhāvinām iva pratibhāsābheda prasaṅgāt / tasmād ayam apratipadyamāno ’pi bhāvasvabhāvaṃ tathābhūta eva vikalpapratibimbe tadadhya-vasāyī saṃtuṣyati / tathābhūtatvād eva śabdārthapratipattes.
天界など〔という語を〕耳にする場合も,それ(天界など)を直接経験するかのような 〔諸々の知が〕,現れに区別がないという誤りに陥るから.それゆえ,この〔聞き手は〕, 存在の自性を理解することもなく,そのような〔存在の自性が混合しないもの〕に他な らぬ分別知〔に現れている〕像に対し,それ(自相)であると思い込み,〔まさに自相を 私は理解した,と〕満足する.語の対象を理解することは,まさにそのような〔自相を 捉えていないにもかかわず,自相であると思い込む〕ものであるから. ここでは天界(svarga)という語を交えて説かれており,実際に対象としている ものは分別知における像であるにもかかわらず,あたかも天界の自性を知覚して いると錯誤して思い込んでいるのである.また,この【用例 3】と同様の内容で, サーンキヤ学派の認める根本原質(pradhāna)や,自在神(īśvara)といった語にお いても adhyavasāya は用いられている8).つまり根本原質という仏教徒が認めない 存在しない対象についても潜在印象が蓄積されることとなり,その潜在印象から 生じる分別知上の現れに対し思い込みは行われるため,どのような対象であって も思い込みは成り立つと言えよう.そしてこのことから,思い込みが分別知にお ける普遍的な働きであるということが示された9).