• 検索結果がありません。

佛教大學大學院研究紀要 21号(19930215) 051別府一道「『九巻伝』と『四十八巻伝』の関係について」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "佛教大學大學院研究紀要 21号(19930215) 051別府一道「『九巻伝』と『四十八巻伝』の関係について」"

Copied!
26
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

の関係について

は じ め 浄土宗の宗祖法然の伝記は数多くのものが伝わっているが、それらの中でももっとも新しい部類に属するとみられ て い る 通 称 ﹃ 九 巻 伝 ﹄ と し て 知 ら れ る ﹃ 法 然 上 人 伝 記 ﹄ と 、 ﹃ 法 然 上 人 行 状 絵 図 ﹄ ︵ ﹃ 四 十 八 巻 伝 ﹄ ︶ の 関 係 に つ い て は 、 古くから問題とされてきているところである。すでに宝暦九年︵一七五九︶に忍海によって、﹁九巻伝﹄は﹃四十八巻 伝﹄の草稿となったとする説が提示されているのをはじめとして、その後も幾人かの先学によってさまざまな見方が 提示されている。しかし、﹃九巻伝﹄が先行するとする説も、﹃四十八巻伝﹄が先行するとする説も、ともに定説とは なっていないのが現状である。 ﹃九巻伝﹄が﹃四十八巻伝﹄の草稿となった、あるいは﹃九巻伝﹂が﹃四十八巻伝﹄より先にあったとする説が、 江戸期から唱えられているのに対して、﹃九巻伝﹄は﹃四十八巻伝﹄の略本である、あるいは﹁九巻伝﹄よりも﹃四 十八巻伝﹄が先に成立したとする説は、比較的新しいものであると言える。この両本の関係が問題となってきたのは、 五

(2)

梯 教 大 事 大 皐 院 研 究 紀 要 通 巻 第 二 十 一 日 抗 五 ﹃四十八巻伝﹄と﹃九巻伝﹄は内容に共通点が多く、 どちらかがもう一方に依拠していると考えざるを得ないからで あ る 。 法 然 の 伝 記 は 、 一般的に言って成立年代が下るほど大部になる傾向がある。﹃九巻伝﹄を増補して﹃四十八巻伝﹄ こういった傾向から言えば容易に納得できることである。対して、﹁四十八巻伝﹄があ が 成 立 し た と 考 え る こ と は 、 まりにも大部であるから、その略本として﹃九巻伝﹄が成立したと考えることも、あるいは一理あることであるかも 知 れ な い 。 また、島田修二郎氏、野村恒道氏が指摘したように、﹁﹃九巻伝﹄の絵が、﹃四十八巻伝﹄制作の途次にバラバラに 解体され、新たに編集し直され、時に別の場面において転用された﹂ことは、ほぼ疑いないかろうと思われるが、現 在伝わる﹁九巻伝﹄の詞書について、﹁﹃四十八巻伝﹄の草稿となったものである﹂としてしまうことには問題がある と思う。現在伝わる﹁九巻伝﹄の詞書を、法然の滅後百年頃に成立したものであるとしてしまうのは危険ではないだ ろ う か 。 本 稿 で は 、 これらの説をふまえながら、﹃九巻伝﹄と﹃四十八巻伝﹄ の関係について若干の考察を試みてみようと 思 う 。

﹃四十八巻伝﹄先行﹃九巻伝﹄略本説について

﹃四十八巻伝﹄が﹃九巻伝﹂に先行するとする説をとった先駆的存在は、中津見明氏である。氏は、﹃四十八巻伝﹄

(3)

と﹁九巻伝﹄について次のように述べている。 ︵前略︶殆どその語句を同じくするもの多く、確に此両書の聯絡あることが認められるから、﹁九巻伝﹂は﹃四十 八巻伝﹄の稿本であるか、又はそれが﹃四十八巻伝﹄に依って後に作られたものか、とにかく此両書は同一系統 のものであることは疑いなきものである。そうして﹁九巻伝﹄は﹃四十八巻伝﹄の大部に比して、その記事が略 せられているけれども奇怪なる伝説は反って﹁九巻伝﹄の方が増加しているのである。それを今一一ここに比較 することは出来ないがその一二を比較せば︵中略︶ その伝説進歩の状態が認められるのである。 ︵ 中 略 ︶ 斯 様 に ﹁九巻伝﹄が﹃四十八巻伝﹄よりその伝説の進歩を示していることから考えても、﹁九巻伝﹂は﹃四十八巻伝﹄よ りも後に、聖光系統︵鎮西︶の人に依って作られたものとするべきであろう。 そ し て 前 者 が ﹃ 大 経 ﹄ の 四 十 八 願 の数によって巻を分けたから、後の略本とも見るべき﹃法然上人伝記﹂は﹃観経﹄の九品にならって九巻に分け た の で あ ろ う と 思 う 。 ︵ 下 略 ︶ ﹃四十八巻伝﹄先行説を取る先学が、﹁﹃四十八巻伝﹄が先に成立した﹂とした根拠は、 っきつめて行けば中津氏が 主張した範囲を出るものではない。 す な わ ち 、 ﹁ 九 巻 伝 ﹄ の 方 が 整 理 さ れ た 記 述 で あ っ た り 、 場合によっては増補された形跡が見られるから、 ﹃ 九 巻 伝﹄は﹃四十八巻伝﹄より後に成立したものであるとしているのである。ところが、﹃九巻伝﹄は﹃四十八巻伝﹄よ りも後に成立したという前提に立てば、﹃九巻伝﹄ の方が﹃四十八巻伝﹄よりも分量が少ないから、必然的に﹃九巻 伝﹄は﹃四十八巻伝﹄の略本であるとせざるを得ない。しかし、中津氏もすでに指摘しているように、﹃九巻伝﹄の 方が﹃四十八巻伝﹄よりも詳しい記事は決して少なくはない。ただし、その詳しい記事については、中津氏が言うよ ﹃ 九 巻 伝 ﹄ と ﹃ 四 十 八 巻 伝 ﹄ の 関 係 に つ い て 五

(4)

悌 教 大 事 大 島主 竺 F-院 研m:r yし 紀 要 通 巻 第 十 披 五 四 うな﹁その記事が略せられているけれども奇怪なる伝説は反って﹃九巻伝﹄の方が増加してい﹂るというような一面 的なとらえ方をすることはとてもできないと思う。義山と円智による﹃園光大師行状画図翼賛﹄においても、﹃四十 ﹁九巻伝﹄が引用されている。﹁略本﹂という言い方は事実に即 八 巻 伝 ﹄ の事実関係にわたる記載を補うために緩々 していないのではないだろうか。 こ こ で 考 え て み た い の は 、 ﹃ 九 巻 伝 ﹄ の 記 事 が ﹁ 四 十 八 巻 伝 ﹄ のどこに載せられた記事に対応するかということで あ る 。 ﹃九巻伝﹄の各段が﹁四十八巻伝﹄のどの巻のどの段に対応するかを見ると、表︵ 1 ︶ の よ う に な る 。 およそ略本であると言うならば、全体にわたって記事が簡略化されていなければならないように思うのであるが、 その実態は、少なくとも例えば抜書と言うようなものではない。また、仮に記事の取捨選択を行なうことをもって略 本を作るとしても、順序まで入れ替えるということを果たしてするものか、という疑問が残る。 右の表を見ると、﹃九巻伝﹄が﹁四十八巻伝﹄を簡略化したものであるにしては、あまりにも脈絡がなく、 パラパ ラになっているように思える。もし﹃四十八巻伝﹄の略本として﹃九巻伝﹄が作られたのであれば、もう少し整然と 対 応 し て も よ い は ず で あ る 。 ﹃ 九 巻 伝 ﹄ は﹁四十八巻伝﹄に順序よく対応していない。むしろバラバラであって、全体を通しての対応関係が見 られない、ということは、実はこの一見似ているかのように見える両本の構成あるいは構造が異なるということであ る その構造の違いは偶然発生したというようなものではない。この両本は、 そもそもその編纂の方針を全く異にして

(5)

表 ︵ 1 ︶ 『 九 巻 伝 』 / 『 四 十 八 巻 伝 』 対 応 表 九 下1下1下1下1 下1下1 下

上:

絵詞 絵調絵詞絵詞絵詞絵詞絵調絵詞絵詞 巻 I I I I I I I I I I I I I I 7 6 5 4 3 2 5 4 3 2 1序 8 7 6 5 4 3 2 1序 伝 f、『 一一一一一一 十 ハ巻 伝 四

八 七 七 三 三 三 三 三 三 一 一 一 一 一 一一一一 一 一 一 一 一 I I I I I I I I I | | | | | | I I I I I I I I I I I 8 4 1 6 5 4 3 2 1 4 3 2 4 2 1 2 1 1 4 3 2 5 4 3 2 1 J 数字はそれぞれ巻数、段数を表す。 1 1 下 下 I I 9 8 下 10 下 11 2 上 ー ー 2 上 ー 2 2 上 1 3 2 上 ー 4 2 上 ー 5 2 上 6 2 上 ー 7 2 下 ー 1 2 下 12 2 下 l3 ﹃九巻伝﹄と﹃四十八巻伝﹄の関係について 七 ー 2 四 ー 2 四 ー 3 四 ー 4 四 5 五 ー 3 六 l2 六 14 四 ー ー 七 l5 七16 一 \ E 一 / − − 六 ー 3 一 二 ー ー

O

ー ー 三

O

ー ー 七 l3

O

ー 4 三

O

ー ー 三 013 三

O

ー 4 四 四 四 四 四 三 三 I I I I I I I 5 4 3 2 1 4 3

4

4

4

4 下3下3 下3下3 下3下3

3

3

3

3 下2下2下2下2下2 | | | | || || || | | | | | | | | 4 3 2 1 6 5 4 3 2 1 4 3 2 1 8 7 6 5 4 二 な 二三一六一六六四六四六四六四六回 八 八 八 七 七四七四七四七四一一二八 一 一 一 一 0六六し 三O九六O | | | I I I I I I I I I I I I I I I I I I | | | | | 1 7 6 2 4 2 5 4 3 2 1 3 4 2 6 3 4 2 1 4 1 1 5 3 8 4 五 五

(6)

上6上6上6 上6 上6 下5下5下5下5 上5.上5 上 上5上5 下 下4下4 下4 土4上4 | | | | | | | || || || || 5 4 3 2 4 3 2 1 5 4 3 2 1 4 3 2 6 5 一 一 一 一 一 一 一 一一一一一一一一一 一一一一四四 四一一一一一 一一一五四一一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 四 四 四 五 三 四 三 三 五 六 七 八 一 一 一 一 四六 四 八 八 七 七 0八 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | || 4 3 2 2 4 1 3 2 2 3 2 5 3 2 2 1 2 1 1 6 3 2 2 5 1 3 3 上8 下7下7下7下7 下7下7 上7上7上7上7上7上7上7 上7 下6下6下6 下6下6下6 | | | | || | | | | | | | I I I | | | 6 5 4 3 2 1 8 7 6 5 4 3 2 6 5 4 3 2 1 三八三八八三七五四三七三七三七三七 一 一 一 一 一 一 一 一一一 一一一一一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一一一一一一一 九 × 六 六 六 六 六 六 六 六 九 九 九 九 五 五 五 五 五 四 | | | | | | | | | I I I I I I I I | | | | | | | | | | 2 1 8 5 1 4 3 2 1 6 5 2 4 4 4 3 1 4 3 2 1 2 4 6 2 1 5 下9 下9下9下9 下9下9 上9上9上9上9上9上9 下8下8下8下8下8 上8上8上8上8上8上8 | | | || | | | | | | I I I I I | | | | | | 6 5 4 3 2 1 7 6 5 4 3 2 1 5 4 3 2 1 7 6 5 4 3 2 八四一四一四O四二八八四八四八四二四 二四四四四四四四二四二四二四二四二四 0 四0四一二二O三八 一一一一一一九 九 九 九 九 九一一一一一一 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | I I I I I I 8 3 1 2 3 4 3 1 7 6 5 4 3 5 4 3 2 1 3 1 4 2 3 7 6 5 4 3 2 イ 弗 教 大 事 大 座主 で F-院 研 司 恒 プL 紀 要 通 巻 第 十 競 五 六

(7)

い る と し か 思 え な い 。 ﹃ 四 十 八 巻 伝 ﹄ のような完成された伝記の ﹁略本﹂を作るとき、果たして全く編集方針を変えたものを作る必要が あったであろうか。﹃四十八巻伝﹄の略本を作るならば、﹃四十八巻伝﹄の記事・構成に従って全体的に簡略化すれば よ さ そ う な ’ も の で は な い だ ろ う か 。

﹁四十八巻伝﹄と﹃九巻伝﹄の構成を比べたとき、その最も顕著な違いは、﹃四十八巻伝﹄が、例えば十三巻から十 七巻において他宗の僧侶の帰依を受けたとする記事を載せ、四十三巻から四十八巻までは弟子伝を載せるなど、整理 された構成をとり、結果として本文中に登場する年次がかなり前後し、編年体とはとても言えない形態になっている のに対して、﹃九巻伝﹂は基本的には忠実に年次を追った編年体であることにある。 ここで参考までに﹃四十八巻伝﹄がどのような構成になっているかの概略を記してみると、表︵ 2 ︶ の よ う に な る 。 こ れ を 見 れ ば 明 ら か な よ う に 、 一 巻 か ら 六 巻 ︵ 誕 生 か ら 浄 土 門 帰 入 ︶ ま で は 、 だ い た い 時 間 経 過 に 従 っ て 、 そ れ を 意 識して編纂されているのであるが、浄土門帰入後は、帰依者の多いことを示すためか、巻を分かって皇族・公家・僧 侶・関東の武者たちをあげている。皇族、公家などのそれぞれの事蹟は、原則として巻・段など一箇所にまとめられ ており、往生までを記す列伝形式となっているため、前述したように本文中に現れる年次は、かなり前後してしまっ て い る 。 ﹃九巻伝﹄と﹃四十八巻伝﹄の関係について 五 七

(8)

表 ︵ 2 ︶ 二 二 二 二 二 十 十 十 十 十 十 十 十 十 十 九 八 七 六 五 四 三 二 一 十 十 十 十 十 九 八 七 六 五 四 三 二 一 四 三 二 一 { 弗 教 大 事 大 事 院 研 '*' プ"L 紀 要 通 巻 第 十 競 ﹃ 四 十 八 巻 伝 ﹄ の 構 成 誕生 j 時国逝去 定 明

i

入洛 登叡山

i

師事叡空 戒体論争

i

南都 後白河院 高倉院ほか 九条兼実 静厳ほか 顕真・大原談義 慈鎮ほか 明遍 聖覚 月輪殿北政所 天野四郎・作仏房 上人常 上人或人 或人往生 上人念仏

. . . . . . . . . . . . ...... ......

. . . . . . . . . . . . ...... ......

. . . . . . . . . . . . ......

. . . . . . . . . . . . ...... ......

. . . . . . . . . . . . ...... ......

. . . . . . . . . . . . ......

. . . . . .

幼 少 修 学 浄土門帰入 種々霊験 皇族帰依 公家帰依 僧侶帰依 選択集 法語・消息 が 四 四 四 四 四 四 四 四 四 三 三 三 三 三 三 三 三 三 三 二 二 二 二 二 十 十 十 十 十 十 十 十 十 十 十 十 十 十 十 十 十 十 十 十 十 十 十 十 八 七 六 五 四 三 二 一 九 八 七 六 五 四 三 二 一 九 八 七 六 五 鎌倉二位禅尼ほか 宇都宮ほか 熊谷直実 津戸三郎 幸西・光明房状 東大寺再建 七箇条制誠 登山状 住蓮・安楽 配流 配流・讃岐 上人免罪・帰洛 上人臨終 諸人夢想 上人中陰 公 胤 ・ 明 慧 ・ 静 遍 明禅 嘉禄法難 信空ほか 隆寛 源智ほか 聖光 証空 その他

. . . . . . . . . . . . ......

. . . . . . . . . . . . ...... ......

. . . . . . . . . . . . ...... ......

. . . . . . . . . . . . ...... ......

. . . . . . . . . . . . ...... ......

. . . . . . . . . . . . ...... ......

. . . . . .

八 関東帰依者 一念義停止 東大寺 念仏弾圧 流 罪 帰 洛 臨 終 滅 後 弟子伝

(9)

三十一巻から四十二巻までは、ふたたび時間経過に従っているが、四十三巻から四十八巻までは前述のとおり弟子 伝 で あ り 、 列 伝 形 式 と な っ て い る 。 全体の流れとしては、誕生、出家、修学、浄土開宗、教化と帰依、弾圧、流罪、往生、滅後の法難、滅後の流布を 担 っ た 弟 子 、 と い う 順 で 記 さ れ て お り 、 一見年次の経過に忠実に従っているかのようにも見えるのであるが、 ﹃ 四 十 八 巻 伝 ﹂ は 、 実 は 編 年 体 で − 記 さ れ て は い な い 。

島田修二郎氏の﹃九巻伝﹄先行説について

島 田 修 二 郎 氏 は 、 ﹁ 四 十 八 巻 伝 ﹄ の 絵 図 の 作 者 に 注 目 し て 、 おもだった八人のうち、氏が便宜的に分類した A と B にあたる作者の絵が著しく改変を加えられていることを指摘して、 その二絵師の絵は ﹃ 四 十 八 巻 伝 ﹄ の 詞 書 よ り も ﹁九巻伝﹄のそれに合致するという見解を示した。さらに、﹁四十八巻伝﹄上では、まったくバラバラに配置されてい るこの二絵師の絵は、﹁九巻伝﹄上に置き換えたとき、整然と並ぷことを指摘して、在禅が暗に示していた﹁﹃四十八 巻伝﹄は、﹁九巻伝﹄の絵を流用して成立したのである﹂という説が、合理的に説明できることを示した。この島田 氏の論考は、﹃九巻伝﹄研究史上画期的なものであり、﹃九巻伝﹄が﹃四十八巻伝﹄に先行するという説の強力な根拠 と な っ て い る と 言 え よ う 。 最近、野村恒道氏が小松茂美氏による画師の判定と対照した上でこの考えの妥当性を検証され、島田氏が A 、 B と した画師は小松氏の分類による第二筆、第六筆とほぼ重なることを確認された上で、﹁九巻伝﹄の絵が﹃四十八巻伝﹄ ﹃ 九 巻 伝 ﹄ と ﹃ 四 十 八 巻 伝 ﹄ の 関 係 に つ い て 五 九

(10)

イ 弗 教 大 事 大 事 院 研 '*' プL 紀 要 通 巻 第 十 競 六

O

に流用されたことはほぼ間違い無いとされているが、ここで、この島田|野村説を受容した場合、次のような仮説を 設けることが可能なのではないか。 すなわち、﹃四十八巻伝﹄の段・または項目のうち、﹃九巻伝﹄の段・項目と同じ事件を扱ったものには、野村氏の いう二| A ・ 六 | B 両絵師どちらかの手になる絵が付されているはずである。 で あ る に も 関 わ ら ず 、 ﹁ 九 巻 伝 ﹄ と 共 通 の 事 件 を 扱 い な が ら 、 一 一 ー ー A ・ 六

l

B

両絵師以外の絵師の手になる絵が付 されている段が存在する。なぜ、二| A ・ 六 | B 以外の絵師による絵が﹁四十八巻伝﹄で使われているのであろうか。 これらの段は、成立当初の、あるいは﹃四十八巻伝﹄編纂時に存在した﹃九巻伝﹄には、依用すべき段、または項 目が存在していなかったものであるという可能性がある。もちろん、存在はしていたが、損傷等によって使用されな かった可能性、他の段に流用された可能性なども考慮に入れねばならないだろうが、 一考の価値はあるように思われ る ﹃九巻伝﹄先行説は、島田修二郎氏の説が提示されるまでは、﹁法然上人伝記﹂︵九巻伝︶と同じものであるかどうか 疑わしい﹁九巻伝﹄巻頭に付されている﹁法然上人絵詞﹂にある﹁上人の滅後百年﹂という言葉を、ほとんど唯一の 根拠としていた。したがって、この﹁九巻伝﹄先行説を取る先学は、﹁法然上人絵詞﹂と﹁法然上人伝記﹂は、 ん ど 同 じ 本 で あ る と す る 。 ほ と 対して﹃四十八巻伝﹄先行説をとる場合は、必然的に﹁法然上人伝記﹂と﹁法然上人絵詞﹂は別のものであるとせ ざ る を 得 な か っ た 。 ﹁ 法 然 上 人 絵 詞 ﹂ と ﹁ 法 然 上 人 伝 記 ﹂ の関係については、稿を改めて述べる必要があろうかと考えているが、現存

(11)

す る ﹃ 九 巻 伝 ﹄ を 、 ﹁ 法 然 上 人 絵 詞 ﹂ 啓 真 氏 が 指 摘 し た よ う な 、 ﹃ 九 巻 伝 ﹄ が の序にあるように法然の滅後百年の三三二年頃の成立としてしまうと、戸松 の誤謬を正したとしか思えない諸点が存在することを説明す ﹃ 四 十 八 巻 伝 ﹄ る こ と は 難 し い と 思 う 。 島田氏・野村氏が言った﹁﹃四十八巻伝﹄に絵を流用された﹃九巻伝﹄﹂と、現在伝わっているいわゆる﹃九巻伝﹂ を、全く同じものであるとすることには問題がある。﹁四十八巻伝﹄編纂時には、現在伝わる﹃九巻伝﹄とは違う、 その祖本ともいうべき﹁九巻伝﹄ が存在しており、﹃四十八巻伝﹄に絵を流用されたのはその祖本であると考えた方 がよいのでは無いだろうか。そして、 その祖本と現在伝わる本との違いはかなり大きいのではないかと思われるので あ る 。 ﹃ 九 巻 伝 ﹄ 構 成 の 特 質 と 問 題 点 ﹃ 四 十 八 巻 伝 ﹄ が紀伝体で記されているということに対して ﹃ 九 巻 伝 ﹄ は、原則として年次に忠実な編年体で記さ れているということができる。 これを明らかにするために、以下に表を掲げる。 この表は、﹁九巻伝﹄本文中に現れ る年号に注目して、各段ごとに全て抜き出したものである。 た だ し 、 括 弧 ︵ [ ]︶をつけて記してあるものは、本文 中には年が記されていないが、月日などが記されており、文中から明かにその年のことであると解るものである。ま た、﹁四十八巻伝﹄の対応記事に付けられている絵について、島田、小松両氏の見解を合せて添えてある。 表を見ても明らかなように、﹃九巻伝﹄は原則として年次に忠実に記されている。 ﹃ 九 巻 伝 ﹄ と ﹃ 四 十 八 巻 伝 ﹄ の 関 係 に つ い て ----'--.. /\

(12)

T 上T T 上 上 上 上 上

。。

5 4 3 2

8 7 童 児 入 事 洛 章

観善業主

い最主

師にとてfりこ 仕 事るし 年 久 安3 年久安3 × ×

年 × × 久 安 年3 , ..1、『 /ー1、、 ,...、、 1 1 1 4 4 3 4 7 7 3 7ーノ 長 承 A A A A A A A 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 T

。。。。

6 5 4 3 為 登 母 乞

山 登三提寺事室 終臨 夜 の 事 久 安 年3 年周 保延年7 /ー1\ ,..1、町 1 4 4 4 7 \、1.,/ 」1./ A A A 一 一 一 一 T T

。。。

2

序 誕人

× × A A 一 一 巻 数

項目 標 目

中 最 後 の現れに 事 件 の年次る のの の もちう 年号登場他そ白の 氏 島田 の 分 類 松 氏 の 分 類 悌 教 大 事 大 皐 院 研 '2tr プじ 紀 要 通 巻 第 十 競 一−−'−−−・ /\

(13)

と T

. .

T T

下 T 2 2 2 2 上 2 2 下 下 1 下 下 下 下 下 下 上 上 上 上 上 巻 下 巻 第 7 6 5 4 3 2 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 上 一 下 衡 卿 事 重

骨 入 叡 空 人

年 年同 安 年 承日 久寿年3 久安年6 年同 久安年3 1 〆ーl、、 /戸1、、 1 1 8 7 7 5 5 4 4 ,4ーノ 、\5./、5ーノ 6

、7ーノ 7 治 承 年周 4 A A A A A A A A A A E A 一/一~ 十 四 十四 一 五 五 五 ー

t

,

、-一五 一 一 一 一 五 一、 十 一 ﹃ 九 巻 伝 ﹄ ﹃四十八巻伝﹄の関係について ム ハ 一

(14)

巻第二下 下 2 下 ー 2

2 下 13 2 下 ー 4 2 下 ー 5 2 下 l6 2 下 ー 7 2 下 ー 8 巻三上 悌 教 大 事 大 盟主 -r -院 研 ’,tr プし 紀 要 通 巻 第 十 競 於清水寺説戒念仏勧進事 古年童出家往生事 顕真座主上人論談事 六時礼讃之事 善導御影事 東大寺棟木之事 浄土憂陀羅事 聖護院宮之事 建久 1 年︵ 1190 ︶ 建久 3 年︵ 1192 ︶ 寿永 2 文治 6 建久 3 年︵ 1192 ︶ 建久 2 年 A A 承安 3 G 六 四 !\ -1... F¥ V3 上 11 巻三下

3 下 ー ー 上人三昧発得事 元久 3 年︵ 1206 ︶ A A A B E 建久 9 正治 1 正治 2 元久 1 元久 2 ー」ー・ /\ 五

(15)

巻四上 4 上 ー ー V4 上 ー 2 4 上 l3 4 上 ー 4 4 上 l5

4 上 ー 6 巻四下 霊山寺念仏時勢至菩薩 立列給事 羅城門礎事 浄土宗興行事 信寂房事 教阿弥陀仏事 女人往生願之事 作仏房往生事付神明和光事 津戸三郎被召将軍御所事 尼妙真往生事 A H 正治 2 年 ︵ 1200 ︶ × × B 五 A B 十|六|六 B C [ 建 永 2 年 ︵ 1207 ︶ ] I B 十 四 、 六 建 永 1 十

/¥ 十 ﹃ 九 巻 伝 ﹄ と ﹃ 四 十 八 巻 伝 ﹄ の 関 係 に つ い て 六 五

(16)

!

下6 下6 巻 r 下

上6 上6 上6 上6 巻 上 下 下 2 1 5 4 3 2 4 3

高砂浦事

量自

年 建 永2 年建永2 永年建2 建永年2 年建永2 永年建2 建永年2 1 2 2 2 2 2 2 2

。。 。。。。。

7 7 7 7 7 7 7 去 年

B B B B B B B B B /¥ /¥ /', ・− /¥/', ・ー 十 五 五十 /¥ /¥ /¥ 下' 下5 下 巻 五 上5 上5 2 5 4

頭光現事出 七 ケ 条

事 年 周 同 「−--, 年 y 久; 年フ久1 巴 年 1

1

2 2 2 2

。。 。。

5 5 4 4./ B B B 一/」"' 五 /¥ /¥

.

.

上5 3 2 蜂

フ 久 年1 乙 ヌ年久1 じ /ー1

2 2

。。

4_, 4 B B /¥ 上5 建 仁 年3 2

3 B /', ・ー 巻 五 上 梯 教 大 事 大 事 院 研 '7't:t プu 紀 要 通 巻 第 十 披 ム ハ ム ハ

(17)

6 下 13 6 下 ー 4 6 下 15

6 下 ー 6 巻 七 上 V7 上l1 7 上 ー 2 V7 上 ー 3 V7 上 14 V7上17 7 上 i8 巻 七 下

7 下 11

7 下 l2

7 下 ー 3

7 下 ー 4 V7 下 ー 5 善通寺参詣事 津戸三郎就進状返状事 在国之間念仏弘通事 一念義停止之事 帰京宣下到来即上人 立国進発事 被着勝尾寺事 8 一切経施入事 聖覚法印一切経讃歎事 承元 3 年 ︵ 1209 ︶ 承 元 1 年 ︵ 1207 ︶ 建 暦 2 年 ︵ 1212 ︶ [ 建 暦 2 年 ︵ 1212 ︶ ︺ [ 建 暦 2 年 ︵ 1212 ︶] [ 建 麿 2 年 ︵ 1212 ︶ ︺ [ 建 暦 2 年 ︵ 1212 ︶ ] ﹃ 九 巻 伝 ﹄ と ﹃ 四 十 八 巻 伝 ﹄ の 関 係 に つ い て 被着大谷禅坊事 上人参内時雲客夢事 老病之事 高声念仏被勧事 円形紫雲垂布事 章提希夫人問答事 御往生事 B B B A A A A A × J J J K A 十 四 十 /\ 十 六 十 六 ×

六 七

(18)

上' T 上9 上9 巻 九 上 下8 下8 下 下8 4 3 2 1 5 4 3 2

事 静

都往事

年 嘉禄年3 応貞年3 建保年4 建保年2 / ー1、

1

〆ー1\ ー/I、、 ー/1、

i

"

、『

i

"

、町 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 1 1 、ノ7ー 、7ノー 』、7,.,、ノ7ー 4 6 4 L一一」 B B B B B B B 一/」~ -A一I一~ -A -A十 一I一~ 下8 巻 / 下¥ 上8 上8 上8 上8 1 7 6 5 4 七 七 七四 々 日 日 日 日

年 建暦年2 暦年建2 建暦年2 / ー1\ 2 2 2 2 2 1 1 2 、2.,/ 2 2 2 B B B B B 一

t

,

・− 一1\」・− 一/」\・ー

t

,

・ー

t

,

・ー 上8 上8 3 2 一 七 七 日 日 建 暦 年2 建暦年2 2 2 2 、、2,/. B B 目/\ -A 上8 上 巻 J¥ 初七 事 追 善日 建 暦 年2 2 2 B

t

,

・ー 下 6

建 暦 年2 2 、 、2.,/ B 五 五十 ー/\ 梯 教 大 皐 大 声豆 で F-院 研 rn:r プ1. 紀 要 通 巻 第 十 競 L \ 守 、 、 一 / , /

(19)

9 上 ー 7 巻 九 下 9 下 V9 下 2 9 下 ー 3

9 下 ー 4 9 下 15 9 下 ー 6 於粟生奉茶毘事 嵯峨釈迦堂上人廟塔事 空阿弥陀仏往生事 津戸入道往生事 明恵上人託事 明禅法印往生事 上人徳行惣結事 翌 年 ︵1228 ︶ 天 元 6 寛和 2 永 延 1 建保 7 仁治 3 B B B H B × 一-1.... /\ 一ーL・ /'¥ 十 四 十 十 四 、 六 × ﹃四十八巻伝﹄が、ある人物について記すときに、巻ごと、、段ごとにまとめて記す傾向があるのと対照的に、例え 仁|安 治|貞 4 I 2 年|年 f「Ir'-. 1 I 1 2 I 2 4 I 2 3 I 8 、ーノ I \ーノ 仁治 3 年 ︵ 1242 ︶ ば津戸三郎に関係する記事について見ると、 3 上

l

l

︵ 二 九 五 ︶ 、 4下|

3

2

O

六 ︶ 、 6 下

1 4 、

9下| 3

︵ 一 一 一

四三︶と、同一人物に関する記事でありながら、年次に従ってバラバラに載せられていることがわかる。このことか らも、﹃九巻伝﹄が編年体で編まれようとしたということが伺われると思う。 ところが、表中にあって、順序よく並んでいる年次の進行に目だって不規則な箇所︵大きく年次の飛ぶ場所︶が何箇 所 か あ る 。 ︵ 表 中 に お い て は 網 を か け て 示 し た ︶ そ れ は 、 3 上| 3

﹃ 九 巻 伝 ﹄ と ﹃ 四 十 八 巻 伝 ﹄ の 関 係 に つ い て 4 の 証 空 の 段 、 3 下| 4 の 聖 光 の 段 、 六 九 4下| 2 の禅

(20)

イ 弗 教 大 事 大 撃 院 研 '7't:t プし 紀 要 通 巻 第 十 競 七

勝 房 の 段 、 7 上| 5 の 宇 津 宮 弥 三 郎 の 段 、 9 上

i

6

の 隆 寛 の 段 で あ る 。 一方、絵師に着目してみた場合、島田氏が A 、 B としたものと、小松氏が第二筆、第六筆にあたるとしたもののど ちらにも当てはまらない段については、表中では頭に.印をつけて表した。先に述べたように、これらの段について は﹃四十八巻伝﹄編纂当時に存在していた﹃九巻伝﹄には無かったものである可能性がある。また、 A B または、第 二筆、第六筆とどちらかがしていて、両氏の見解が一致しないものについては、頭に

V

印をつけて表した。それらの 段を見てみると、年次の含まれていない法然以外の余人の伝記と称してよい記事が見られることは指摘しておきたい。 ここで、先に指摘した年次の経過が不自然である段で、なおかつ﹃四十八巻伝﹄の対応する段の絵が﹃九巻伝﹄か ら流用されたと考えられる絵では無いと考えられる段についてみていくことにする。 の も の で あ

2

に + コて

る ぞ

8

あ ー コ た ﹃ 九 巻 伝 ﹄ 三回全信氏など鎮西流の系譜に属するものの手になるとする説と、井川定慶氏など西山流 これは、聖光については、﹃選択集﹄を授与されたなど、法流を継ぐものであると いう記述が見られること、証空については大幅に紙数が割かれていることから主張されてきたのであるが、証空につ ﹃九巻伝﹄中における年次の経過からみても、後から加筆されたものであるという疑 いを消すことができない。同様のことは禅勝房の段、宇津宮弥三郎の段についても言える。 いては、絵師についてみても、 さて、聖光の段には両氏の一致した見解で A |二の絵が、隆寛の段については小松氏は異見であるが島田氏の説に よ れ ば 、 B の 絵 が 使 わ れ て い る 。 では、聖光の段と隆覧の段は﹁﹃四十八巻伝﹄に絵を流用された﹃九巻伝﹄﹂にも存 在したということができるかと言えば、若干の問題があると言わざるを得ない。 ﹃ 四 十 八 巻 伝 ﹄ の聖光の段︵四十六巻一段︶の絵は、島田氏自身が聖光入門の段の絵ではなく、法然の眼から光明が

(21)

出て経巻を照らす奇瑞があったとする段の絵であるとしている。 ま た 、 隆 寛 の 段 に つ い て は 、 ﹃ 九 巻 伝 ﹄ の隆寛の段︵ 9 上

1

6

︶ を 見 る と 、 文 永 元 年 ︵ 一 二 六 四 ︶ の朝直朝臣の往生 を 記 し て い る に も 関 わ ら ず 、 そ の 直 後 に ﹁ 周 年 ﹂ と し て 嘉 禄 三 年 ︵ 改 元 安 貞 元 年 ・ 一 二 二 七 ︶ の隆寛の往生を記し、ま た 次 の 9 上

1

7

段には、﹁翌年﹂として安貞二年︵一二二八︶の粟生における法然の茶毘について記している。少なく とも隆寛の段のうち、嘉禄三年より後の記述については、後の加筆であることは、疑いがないように思われる。 さ て 、 以 上 の 五 名 六 段 の う ち 、 いささか特殊な事情を持つのは、隆寛の段である。証空・禅勝房・聖光・弥三郎に ついては、今問題にしている段以外には記述が全く見られないが、隆寛に関しては、他の段にも記述が見られるので あ る 。 そ れ は 5 上| 2 段 の ﹁ 隆 寛 律 師 給 選 択 事 ﹂ で 、 ﹃ 四 十 八 巻 伝 ﹄ のこの段に対応する段には、絵師 B の 絵 が 付 け ら れ て い る ︵ 小 松 氏 異 見 ︶ 。 9 上 ! 6 段のうち、嘉禄三年より後の記述については加筆であろう、として部分的にはも とからあった段である可能性を残したのは、 こういったことによる。嘉禄三年までの記述は、 ﹁ 九 巻 伝 ﹄ の持つ年次 の 流 れ に 従 っ て い る し 、 9 上| 6 段以外にも事蹟が記されていることを考えると、形が現在伝わっているものと違う としても、隆寛に関する記述は、﹁﹃四十八巻伝﹄に絵を流用された﹃九巻伝﹄﹂にも存在したとしてもよいように思 わ れ る の で あ る 。 仮 説 に 過 ぎ な い が 、 以 上 見 て き た よ う に 、 証 空 ・ 聖 光 に 関 す る 記 述 が 、 寸 ﹃ 四 十 八 巻 伝 ﹄ に 絵 を 流 用 さ れ た ﹃ 九 巻 伝﹄﹂に存在したことが疑わしいということになると、 そ の ﹁ 九 巻 伝 ﹄ の祖本において法然の弟子で肯定的、積極的 に 評 価 さ れ て い る の は 、 選択集を授与されたとされる隆寛と、所謂一枚消息︵一枚起請文︶を授与されたとされる源 智だけであるということになる。 このことは、忍海が﹁九巻伝﹄について、﹁隆寛律師の門葉より記録せしと古伝に ﹃ 九 巻 伝 ﹄ と ﹃ 四 十 八 巻 伝 ﹄ の 関 係 に つ い て 七

(22)

悌教大事大事院研究紀要通巻第二十一瞬 は云伝えたり﹂と記していることとも符合する。こういった伝承があったことについては、今まであまり顧みられて 七 い な か っ た と 思 う が 、 いま一度検討し直される必要があるのではないかと思う。 近年宇高良哲氏によって紹介された隆寛作と伝えられる法然上人の伝記は、 宇 高 氏 に よ っ て 、 ﹃ 九 巻 伝 ﹄ と の 記 事 の共通性が指摘されている。この﹁隆寛本﹂は、ほぼ﹃九巻伝﹄の第七巻上下の部分にあたる残欠本であることはす でに宇高氏の指摘するとおりであるが、﹁九巻伝﹄にあって﹁隆寛本﹂に無い記事を見れば、それは宇津宮弥三郎の 記事であり、法然往生直前に配された各段である。この往生直前の各段に対応する﹃四十八巻伝﹄の記事の絵を描い た絵師の島田、小松両氏による判定は表に示した通りである。 むすびにかえて 従来、﹃九巻伝﹄と﹃四十八巻伝﹄の関係を考えるとき、主として詞書の上から、﹁略本﹂であるとか﹁草稿本﹂で あるという議論が行なわれてきた。本稿では、﹁四十八巻伝﹄と﹃九巻伝﹂の構成の違いに着目して、﹁略本﹂とする には問題があることを指摘したつもりである。 ま た 、 ﹃九巻伝﹂が原則として年次に忠実に記されているにも関わら ず、その原則に従わない部分が有り、それは聖光や証空の段であるという興味深い事実を指摘した。 二郎氏、野村恒道氏が指摘するように、﹁九巻伝﹄の絵が、﹃四十八巻伝﹄制作の途次にバラバラに解体され、新たに 編集し直され、時に別の場面において転用された﹂という説を受容した場合、﹃九巻伝﹄にある記事でありながら、 一 方 で 、 島 田 修 ﹃四十八巻伝﹄の該当する段において、﹁もと﹃九巻伝﹄の絵であった﹂と考えられる絵が使われていない段について

(23)

は、﹁絵を流用された﹃九巻伝﹄﹂にはその記事が無かった可能性を考える必要があるのではないかということを指摘 し た 。 野村恒道氏は、﹁いずれにしても、二人の画師が描いた﹃九巻伝﹄の画が解体され、﹁四十八巻伝﹄に組み込まれて いったことは間違いないものとみられよう。そのことは、絵のない絵伝である﹃九巻伝﹄あるいは﹃法然上人絵詞﹄ が存在することの理由を明らかにするものでもある。 そして、﹃九巻伝﹄は﹃四十八巻伝﹂ にまた抜粋であるかの問題をなんなく退けることでもある﹂とされているが、現在伝わる﹁九巻伝﹄が、その﹁解体 された﹃九巻伝﹄﹂そのままであるとすることには問題がある。﹁四十八巻伝﹂に使われている絵が、果たして現在伝 の草稿本であるとか、逆 わる﹁九巻、伝﹄の詞書に合うのか、そういった検証も無いままに、現在伝わる﹃九巻伝﹄の詞書を法然の滅後百年頃 に成立したものであるとしてしまうのは危険であろう。本稿で見てきたように、現在伝わる﹃九巻伝﹄は、後世の増 補なしに成立したものであるとは考えにくい。 従来、﹁九巻伝﹄が﹁四十八巻伝﹂に先行するとする説に対する反論の根拠として取り上げられてきた記事は、多 くは、特定の個人の列伝とも呼ぶべき記事か、あるいは特定の個人に対して宛てた消息などの記事であった。﹁﹁四十 八巻伝﹄に絵を流用された﹃九巻伝﹄﹂は、﹁隆寛本﹂の姿に近い、あまりこういった記事のないものではなかったか と 思 わ れ る 。 また、﹁九巻伝﹄巻頭に付されている、﹁法然上人絵詞﹂と題されるものは、果たしてどのようなものであったのか ということも明らかにされていく必要がある。﹃九巻伝﹄の写本に、﹁法然上人絵詞﹂という内題を持つ残欠本がある が、この本と巻頭に付けられている﹁法然上人絵調﹂が同じ本であるとするのは若干問題がある。同様に、﹁九巻伝﹄ ﹃ 九 巻 伝 ﹄ と ﹃ 四 十 八 巻 伝 ﹄ の 関 係 に つ い て 七

(24)

{弗 教 大 声王 で「 大 事 院 研 m:r プu 紀 要 通 巻 第 十 競 七 四 巻頭にある﹁法然上人絵詞﹂と、﹁いわゆる﹃九巻伝﹄﹂である﹁法然上人伝記﹂とが同じ本であるとすることにも問 題 が あ る と 言 え る 。 この点についてはいずれ機会を改めて考察してみたいが、 い ず れ に し て も 、 現在伝わる ﹃ 九 巻 伝﹄は、江戸期以降の写本しか存在せず、内容に関しても﹃四十八巻伝﹄に先行するものであるとしてしまうには、 問題が多い伝記であるということは言える。 今後は、﹃九巻伝﹄の記事を詳細に﹃四十八巻伝﹄や先行の伝記などと照し合せながら、﹃絵詞﹄と﹃伝記﹄の関係 を明らかにするとともに、どのような意図で今日伝わるような形にまとめられたのかということも考察していきたい。 注 ︵ 1 ︶﹃九巻伝﹄については、現存する書写年代の確定できる写本としてはもっとも古い法然院の蔵本によった。 ︵ 2 ︶﹃四十八巻伝﹄については、中央公論社刊﹃法然上人絵巻﹄の写真版によった。 ︵3︶宝暦九年の忍海による﹃九巻伝﹄の奥書に、﹁故に舜昌法印録せる勅修御伝四十八巻も。この九巻伝を基とせり﹂とある。 浄土宗全書一七巻二四

O

頁 上 段 参 照 。 ︵ 4 ︶また、﹃四十八巻伝﹄が、舜昌法印が作っていた伝記を勅によって作り直したものであるとする﹃園光大師行状画図翼賛﹄ の序が、忍海や在禅などにこういった考えを抱かせたのではないかとも思われる。 ︵ 5 ︶島田氏稿﹁知思院本法然上人行状槍圃﹂︵新修日本絵巻物全集凶巻﹃法然上人繕停﹄︵昭和五二年・角川書店︶所収︶・野 村 氏 稿 ﹁ ﹃ 四 十 八 巻 伝 ﹄ に 組 み 込 ま れ た ﹃ 九 巻 伝 ﹄ の 原 形 に つ い て ﹂ ︵ ﹃ 法 然 上 人 研 究 ﹄ 創 刊 号 所 収 ︶ 参 照 。 ︵ 6 ︶野村氏前掲論文参照。 ︵ 7 ︶同氏著﹃真宗源流史論﹄︵昭和二六年・法蔵館︶九

01

九 一 頁 。 ︵ 8 ︶﹃翼賛﹄にみられる﹁九巻伝云﹂という引用については、平成四年九月、浄土宗総合学術大会で発表した。 は ﹁ 悌 教 論 叢 ﹂ 誌 に 発 表 の 予 定 で あ る 。 その発表要旨

(25)

︵ 9 ︶﹃四十八巻伝﹄から見たこのような表はすでにいくつか知られているが、﹃九巻伝﹄から見てみないことには確たることは 言 え な い の で 、 あ え て 作 成 し た 。 ︵叩︶浄土宗全書一七巻二四

O

頁下段に収録されている在禅による﹃九巻伝﹄の奥書に、﹁此伝の詞はよく画図と符合し見得す べし。勅修詞書は画図に合せざる慮ま﹀これあり。知るべし﹂とある。 ︵ 日 ︶ 同 氏 前 掲 論 文 。 ︵ ロ ︶ 同 氏 前 掲 論 文 。 ︵日︶島田氏、だけは、﹁絵調﹂と﹁伝記﹂は別のものとしておられる。ただし、その理由などについての詳しい言及はされてい な し 。 ︵ H ︶同氏稿﹁浄土宗典籍研究﹂︵ヨ戸松教授古稀記念浄土教論集﹄︵昭和六二年・大東出版社︶所収︶参照。同書八三頁以下に 展開される﹁大胡消息﹂に着目した論考は極めて示唆に富むものである。 ︵日︶島田氏の見解については、同氏前掲論文十三

i

十五頁の表を、小松氏の見解については、同氏稿﹁法然上人絵伝総観﹂ ︵ ﹃ 法 然 上 人 絵 巻 下 ﹄ 昭 和 五 六 年 ・ 中 央 公 論 社 所 収 ︶ の 書 風 画 風 一 覧 ︵ 一 五 八

1

一 五 九 頁 ︶ に よ っ た 。 ︵時︶この段は、島田氏が前掲論文十八頁で、本来大原問答の絵であったであろうとされている。 ︵口︶筆者には絵師を鑑定する能力も実物を閲覧する機会もないので、両氏の見解を同等に尊重するべきではないかとも思うが、 本 稿 は 、 基 本 的 に は 島 田 氏 の 説 に 従 っ て い る 。 ︵ 問 ︶ 同 氏 著 ﹃ 成 立 史 的 法 然 上 人 諸 停 の 研 究 ﹄ ︵ 昭 和 四 一 年 ・ 光 念 寺 出 版 部 ︶ 参 照 。 ︵悶︶同氏著﹃法然上人繕停の研究﹄昭和三六年・法然上人伝全集刊行会︶参照。 ︵却︶弥三郎の段については、小松氏は第六筆としておられる。 ︵幻︶この説には、若干の異論がある。これはむしろもと法然が叡空の室に入ったときの絵であると見た方がよいのではないか ル ︸ 田 ? っ 。 ︵幻︶前掲の忍海による﹃九巻伝﹄の奥書にこの記述がみえる。 ︵お︶同氏稿﹁新出の隆寛作﹁法然上人伝 L に つ い て ﹂ ︵ ﹃ 大 正 大 学 研 究 紀 要 ﹄ 六 九 所 収 ︶ 参 照 。 ︵斜︶﹃九巻伝﹄第六巻上下の大部分にあたる配流の途次の記事が﹁隆寛本﹂では欠落しているのは前掲論文で宇高氏の指摘す る通りである。これなどは、伝記の発展を考える上ではなはだ興味深い事実であると言える。 ﹃ 九 巻 伝 ﹄ と ﹃ 四 十 八 巻 伝 ﹄ の 関 係 に つ い て 七 五

(26)

{ 弗 教 大 事 大 事 院 研 '*' ブ1; 紀 要 通 巻 第 十 競 七 六 ︵ お ︶ 野 村 氏 前 掲 論 文 参 照 。 ︵ お ︶ 同 氏 前 掲 論 文 。 ︵ 訂 ︶ 戸 松 啓 真 氏 の 前 掲 論 文 、 三 谷 光 順 氏 稿 ﹁ 金 沢 文 庫 新 出 ﹁ 念 悌 往 生 伝 ﹂ ︵ 仮 題 ︶ に 就 い て ﹂ ︵ ﹃ 専 修 学 報 ﹄ 二 ︶ 参 照 。 ︵お︶この知思院宗学研究所蔵の﹁法然上人絵詞﹂については、﹃法然学会論叢﹄誌に翻刻と合せて若干の考察を発表する予定 で あ る 。 ︵却︶たとえば、巻頭の﹁法然上人絵詞﹂は、知恩院浄土宗学研究所蔵の﹁法然上人絵詞﹂や、いわゆる﹃九巻伝﹄である﹁法 然上人伝記﹂のように、一巻を上下には分けていないように思われる。宗学研究所の本は、巻頭の﹁絵詞﹂と﹁伝記﹂を繋 ぐ 中 間 的 な も の で は な い だ ろ う か 。

参照

関連したドキュメント

専攻の枠を越えて自由な教育と研究を行える よう,教官は自然科学研究科棟に居住して学

 第二節 運動速度ノ温度ニコル影響  第三節 名菌松ノ平均逃度

例えば「今昔物語集』本朝部・巻二十四は、各種技術讃を扱う中に、〈文学説話〉を収めている。1段~笏段は各種技術説

大学教員養成プログラム(PFFP)に関する動向として、名古屋大学では、高等教育研究センターの

   ︵大阪讐學會雑誌第十五巻第七號︶

〔追記〕  校正の段階で、山﨑俊恵「刑事訴訟法判例研究」

︵人 事︶ ﹁第二十一巻 第十號  三四九 第百二十九號 一九.. ︵會 皆︶ ︵震 告︶

︵原著及實鹸︶ 第ご 十巻   第⊥T一號   ご一山ハ一ご 第百十入號 一七.. ︵原著及三三︶