――目次――
1,
歪曲せられた無着の唯識哲学,鈴木宗忠,Sōchū SUZUKI,pp.1-28.
2,
信仰の神秘主義,佐野勝也,Katsuya SANO,pp.29-38.
3,
仏教伝来に関する説話とその背景(下),原田敏明,Toshiaki HARADA,pp.39-55.
4,
法称における結合の観察,金倉円照,Enshō KANAKURA,pp.56-76.
5,
獅子造像について,厭勝と護法,鈴木治,Osamu SUZUKI,pp.77-88.
6,
「山の神」信仰,機能的方法による神観念の研究,杉浦健一,Kenichi SUGIURA,pp.89-106.
7,
清浄道論を中心とする南伝阿毘達麿の教義について,舟橋一哉,Kazuya FUNABASHI,pp.107-126.
8,
唯識四分説における二の問題,富貴原章信,Shōshin FUKIHARA,pp.127-147.
9,
最近英米の宗教哲学界,田淵正範,Masanori TABUCHI,pp.148-151.
10,
新刊紹介,pp.151-159.
Posted in 1935
(昭和10)年
歪曲せられた無着の唯識哲学
鈴 木 宗 忠
無着の唯識哲嬰は、周知の如く、擁大乗論に依って、餞系的に表示せられて居ると考へられる。無論私もこれ に異議を挟むものではない。然しこの通産の考には、棒大衆論の性質に関しても、叉従って無着の唯識哲畢の内 容に閲しても、異った二極の解群が存するやうに思はれる。一は三乗家の見方とも云ふべきものでーそれに依る と、棒大莱諭の性質は、世親の唯識論に近いものとなり、従って無着の唯識哲畢は、その内容に於ては、殆ど支 部の法相宗と同一になる。これに反して、二は一乗家の見方と云ふべきもので、それに依ると、棟大乗論の性質 は、世親の十地経論に近いものとなり、従って無着の唯識哲畢は、その内容に於ては、殆ど支部の猿諭宗と同一 になり、ある意味に於ては、華厳宗に近いとも云へる。この二種の解繹は、古来支部や日本の唯識研究者の問に 行はれたものであるが、現今の学者の中でも、この二傾向が存在しないわけではないり一般に云へば、古い聾者 は、大鰐第一の解繹を採用して居るが、新しい単著は、第二の解繹に傾いて居るのではなからうか。私もその方 法の上から云へぼ、古い畢者を斥けて、新しい聾者に輿みするのは勿論のことである。然しその結果から云へば、 一見奇怪に考へられるかも知れぬが、毎ろ第二の解繹を離れて、第一の解樺に近くのを避けることが出来ない。 私見に依ると、一乗家の見方に従って、蹄大乗論の性質を解樺し、無着の唯識哲挙が持論宗と同一であるとする 歪曲せられた無着の唯読暫畢 月 .歪曲せられた雁⋮蔚の唯講背撃 二 のは、彼の哲畢を歪曲するものである。この歪曲せられた無着の唯識野畢を復形させて、その眞の姿に引き戻さ うとするのが、本論文の意固である。 + 無着の唯識哲学が殆ど港相宗と同一であるとする三乗家の見方は、おほまかに云へぼ、特大乗諭の思想が、板 耶妄識詮に基く有相の唯識哲畢であると云ふ意味になるやうに思はれる。旅大衆論の性質をかやうに解群するの は、恐らくは無性群論がその初であらう。柿大乗諭には既に印度に於て、世祝及び無性の二詫群が行はれて居た が、世親樺諭に就いては、後に述べることゝし、今は無性樺論に簡畢に偏れて置く。それは梵語で表すとMabpl y訝asa計grahOpanibandhaロa であらうが、原本は存在しない。蔵諸には九世紀頃のJina・mitra.恥︰endrbOdh・ ︵l︶ i−Ye訝ssdeの共謀したTheg・pa ChenpObsdus・pa官b恥邑sbyar︵掩大乗倉澤︶七巷があり、漢詳にはA.ロ. ︵2こ 芝伽に玄焚の諾した織大乗論絆十巻がある。この論繹は確に世親の唯識論の立場に立つて、粍大衆論を解押した もので.、咄識常襲の歴史に於ては、護法系の先駆をなしたものセはなからうかと恩ふ。護沈も緬大乗論に閲して は、無性と同一な立場に立つて居たものであらうが、然し現今に於ては、これを確定し得るの史料はない。現今 に於て、か1る立場を探つて居たことの確定し得られるものは、護法乃至城賢の相承穿と云はれる玄焚乃至慈思 である。茸にこの慈思が、云ふまでもなく、支那の唯諏哲撃である港相宗の初由である。尤も振大乗論は思想の 上では、唯識論と同一であると解繹せられるにしても、械耶妄識説に基く有相の鵬識繋挙が、この両論に於て、 全然同株た色彩で現れて居るわけではたい。この‖心想が敢も鮮明に州て居るのは、唯識論、殊に畔弛二十論頚㌢︻ JJJ
ば護法の皿用首中心として解繹した成唯識論である。これに比較すると、抽大東論に於ては、軌耶婁識誰 も、石 相の唯識思想も、その色彩が多少稀浦になつて居るのを見逃すことは出来ぬ。この鮎に於ては、二諭同一の立場 を探るものも、旅大衆論は唯識論の謂はば先駆者である位に考へて居たのであらう。 この立場に反して、無着の唯識哲学が経論完と同一であるとする一乗家の見方は、放大乗諭の思想が、唯識論 のやうに、輯耶妄識説に基く有相の唯識ではなくして、何れかと云へば、それは十地群論に近く、如来織挿識訟 に基く無相の唯識であると云ふのである。棒大粟諭の什質をかやうに解絆するのは、恐らくは眞諦諾の世親鐸論 がその初であらう。眞許諾世親鐸論は、眞諦謂とは云っても、後に述べるやうに、茸を云へばそれは眞諦繹であ る。故に持大乗諭に関する三乗豪の見方が、無性に始まると云へるならば、その一乗家の見方は、眞諦に始まる と云ふことが出来やう。然らばこの眞諦の思想は、何れに由来するかと云ふに、私見に依ると、それは弼勒の唯 ︵3︶ 識耕=単に塞くやうに思はれる。摘勤の唯諏空拳に就いては、私が他の横合に於て述べたやうに、その特色は、中 速分別論に依つて表示せられると考へるが、つゞめて云へば、如来銀将識説に基く無用の唯識である。眞諦はこ の思想に依つて持大衆論を解絆するが故に、それは私の所謂一乗家の見方となるわけである。尤も私が慣諦の摘 大衆論に関する解繹を一乗家の見方と稀するのは、支那仰教の思想史的関係に基くとも云へないことはない。 柿大衆論の棋譜は、眞諦の陳諾がその勧請ではなくして、その前に俳陀崩多の魂諾が存在した。陣繹の出たの はA.D.宗∽であり、魂諾の現れたのは、A.D.詔−であるから、後者の方が、前者よりも三十年徐も古いのである。 然し魂諾の棒大乗諭は、その昔時に行はれて居たと云ふ形跡はない。常時の支那俳教界を支配して居たものは、 歪勒せられた無斎の唯紙背準 ■ ..
塊諸姉諭よりも二十年ばかり前に、即ちA.D.筈00に出た十地経論であつたやうに思はれる。この十地経論は、十 地脛即ち華厳経の十地品に闊ナる世親の註繹であるが、その漢詩者は菩提流支及び勒都塵捷の二人であつた。 こゝに注意すべきは、貌謹持論の繹着である併陀崩多が、むの倖語者として、この魂諸に闊係して居たことであ る。十地経論から地論宗が起った。地論宗も、或る意味に於ては、法相宗と等しく、唯識哲畢ではあるが、然し その本識に関する思想は、彼のやうに、妄識詮ではなくして、浮識詮である。尤も地論宗は、興趣後間もなく、 南道北道の二派に分れ、北道地諭の方は、多少妄識詮に傾いたやうに思はれるが、然し地論完本釆の思想を云へ ば、勿論薄紙詮であつた。この意味に於ては、何虔までも浮試論を固守したと思はれる南道地論が地論宗の正統 ︵4︶ 聴であつて、後にこれから智健法赦の華厳宗が出て釆たのである。それは暫らく措き、棟大乗論は、眞諦の陳諾 が現れ、その世親群論、適切に云へぼ、眞諦繹論が出て、それから持論宗が起り、初めて支那の俳教界に於て、 十地経論、従って地論宗に封抗する勢力となり得たやうに思はれる。掩大乗諭は、その思想の上から云へば、元 来頼耶妄識詮であり 有相の唯識であるが故に、地論宗に封すると、それ自身では北道地諭に近く、南道地諭に 反するものであることは、推測するに難くはない。然しそれから出た挿論宗は、一方に於て、摘勘の申達分別論 に依る眞諦の思想に基き、他方に於て、地論宗の形響も全くなかつたとは考へられないから、それは後の法相宗 のやうに、棋耶妄識詮に基く有相の唯識ではなくして、寧ろ後の牽厳宗のやうに、如秀頼浮識詮に基く無相の唯 識であつたらうと思はれる。私が柿大乗論に関する眞諦の解繹を一乗家の見方と云ふのは、この意味も存するの である。眞諦以後彼の思想に基いて世親群論妄研究し、その託疏を造ったものも、相常に多く存したやうに思は 歪曲せられた無芳の唯識者翠 βββ
〓 そこでこの所謂一家粟の見方の根様に就いて考へると、私見に依れぼ、その根底には、その奉する棒大乗論の 眞諦本は、三乗家の奉する玄柴本とは、初めからその原本が異つて居たと云ふ考があるやうである。換言すれば 無着の極大衆論は、既に印度に於て、原味に欒化が行はれて居たと云ふのである。棒大衆論は、これを梵語で表 示すると、Mah晋錮nasa許graha掛捏.Straと云ふべきものであらうが、その原本は未だに襲見せられない。成澤に は、九世紀頃のlinamitra∴どendrabOdhi−及びY£esMdeの共謀したT訂g膏C訂n・召bsdu叩膏 ︵棒大 ︵l︶ 粟︶がある。漢諸には四木ある。最も古いものは、A.D●訟−に俳陀崩多の諾した撫大乗論一巻で、これは普 ︵2︶ ︵3︶ 通に魂繹と云はれる。次は浣00に眞諦の諾した撒大衆論三巻で、これは陳諾と云はれる。第三は警毎に達磨笈多 ︵4︶ 行矩等の諾したもので、これは隋繹と云はれる。最後のものは、芝Sに玄突の課した棒大粟論三巻で、これは唐 れるが、現存するものは二もない。今H戚諦謂世親柁諭の詫疏として、その全慨を説ふことの出来るものは、此 ︵6こ 較的近世の著作ではあるが、普寂の棒大衆論繹疏疏五巻だけである。然しこの蹄大乗論に関する二準東の見方と 云ふのは、果して正しいものであらうか。私はこれを疑ふのである。 ( ′ ̄ヽ ヰヽ ′■ ̄ヽ ′ ̄ヽ 5 4 3 2 1 ) \J しノ し′ ) 歪曲せられた無着の唯識哲畢 大正赦六八N〇.NN雷 拙著﹁原始宗教暫畢の研究﹂pU∴N−−の参照 刑鵜﹁弼勒の唯読替拳への新解樺﹂、﹁文化﹂第二巻第四渋 大正戒三一N〇.−∽霊 東北帝国大挙編、西薪大赦経線日銀N〇.会∽− 五 JJγ
● ︵6︶ 澤と云はれる。尤もこの中で、第三の隋澤は、本論だけ礪立したものではなく、その群論十巻の中に含まれて居 る。故に支那や日本では、古来本論三詳と栴せられるのである。普寂の踊大乗諭繹略疏第一に、 ≠栴三諭岡本異諸共。寂霜川⋮此非必岡本也。所以知者。前澤有之而後澤無之者。軍二五敷地。而共此有後無 者多。是従始入終之奇説旭。鳶印度巳有雨水流行而俸諾不同乎。 とある。こゝに南本と云ふのは、無論唐詩と陳諾とを指したものである。そして始は大乗始致のことであるから これは辟諸に現れた唯誠忠想が、法相完と同一であることを意味し、叉終は大乗終教のことであるから、それは 陳諸に現れた唯識思想が、梯諭宗と同一であることを意味するものであらう。約言すれば、無着の棒大粟論は、 既に印度に於て欒化を受け、一は大罪終教系の陳諸原本となり、二は大乗始教系の唐澤原本となつたと云ふので ある。私はこれに賛成することは出来ない。私見に依ると、これは眞諦詳と糾する≠親の特大乗諭特に迷はされ た錯覚に基くもので、振大乗諭そのもの1上に於ては、何れの澤を見ても、その原本は同一であつたと信ずるの である。 このことを明にする薦めに、私は先づ世親擁諭繹の諸澤を吟味しなければならぬ。世親の持論繹は、これを梵 語で表示するとMah晋ぎasa卦graha・bhか.顎aであらうが、その原本は現存しない。漢諸には、その本論と殆ど ︵7︶ 同時に課せられたものに、眞諦の陳諜、達磨笈多等の隋諜、玄英の店諜が存する。故にこれも本論と同様に、支 那や日本では、古来繹諭三諾と稀せられる。藤澤には、Dipa計kara賢jn抑na及びTshu−舟brims rgyaT訂の英 二汚︶
謂した The抑竜a CFen・苫bsdus・paE b叫reTpa ︵細大罪証︶がある。此等諸澤の輿川を考へると、尻諦の隙鐸
歪曲せられた無着の唯節暫撃
は、十冗協業くは十八態と稲せられるが、他諸とは非常に興り、内容も相違し、分最も増大して居る。これに反 し、他の諸諾は、玄英の唐詩も、達磨笈多隼の隋諾も、共に十巻であ少、赦諾は八巻であつて、大差はないと共 に、その内容も、大鰐に於て、同一であると云ってよい。或る意味に於ては、これは玄奨諾では十巻、赦諜では 七巷の無性群論にも近いのである。眞諦繹の世親擁諭繹に就いては、脛録を見ると、棒大乗論三巻の外に、繹論 とLて十二巻本と十五巻本とが奉げてある。慧恒の扱大乗論序に依ると、本論三巻、繹論十二審、義疏八巻、合 ︵9︺ l一十三巻とあるが、今養疏を除いて考へると、十二巻本は註繹のみのものを指し、十五巻本は本論と註繹とを併 せた現存のやうな繹論む指したとすれば、一往の説明はつくわけである。然し更に轟疏を入れて考へると、十五 巻本は現存の眞諦諾蹄大衆論繹十五巻であつて、これは世祝の詳繹に眞諦の義疏を加へたものではなからうか。 その理由を馨げると、第一、現存の諸本を見るに、本論のない繹諭は存在しないから、十二巻本は本論と≠辣持 とを併せた眞諦謂柚諭繹であつて、これに眞諦の義疏を加へたものが十五巻本であると考へることがH来る。尤 も十二巻本に童疏八巻を加へると、二十巻本になるべきであるが、義疏の中には本論も存したものであらうから、 養疏を群論に合株する際に、これを除き、一纏めにして十五巷としたものではたからうか。第二、その分且温から 見ると、1−ヒ親群論の諸本の中で、達摩笈多等の隋諾は十巻、大正戒経で六十一日、玄英の唐澤も十巻六十頁であ るのに、濁り眞諦の陳繹は十五巷百十八頁である。故に陳諾は巻数で些一十巻にはならないが、頁敷から云ふと、 他の二諾の約二倍にもなるから、それは世親持論をそのま1に諾したとは思はれない。これ私が現存の十五巻本 は、世親群論に眞諦自身の養疏を加へたものであると云ふ第二の理由である。第三、更にその内容から見ても、 許曲せられた無着の唯講暫拳 βJ伊
唐詩は勿論のこと、隋諾も同様に、頼耶妄識詮に基く有相の唯識であつて、大礎に於て、それは本論の思想と一 致すると云つてよいが、これに反して眞諦の味澤は、如来赦浮識語に基く無相の唯識であつて、それは本論の思 想とは全く異るのである。而もこの如来銀将識詮に基く無相の唯識思想は、眞許諾の群論に於ては、多く他の二 諸にない部分に現れて居る。そして更に注意すべきは、この眞許諾も、他の二諾と共通する部分は、それだけで 見ると、他の二澤と同様に、頬耶妄識説に基く有相の唯識であることである。この理由に依つても、私は他の二 繹と異る眞諦諜の部分は、本来の世親繹諭ではなくして、眞諦の養疏であつたらうと考へるのである。 然るに拝大乗本論になると、その両極とも云ふべき眞許諾と玄葵諾とでは、全然同一であるとは云へないが、 大櫻に於ては、他の二諾と共に、この南澤も左程に相違して居るとは思はれない。精密に比較して行くと、その 相違が極めて僅少なものになるのである。普寂は前詩有之而後諾無之者。軍二五数也と云つて居るが、陳諾と唐 諾とを比較すると、畢に部課の相違ではなくして、眞に内容の相違であると認めらるべきものは、私の検査した 桝に依れば、唯四箇研存するのみである。 ︵川︶ 第一、唐詩研知相分第三の三性の異不具を論じた所に、陳諾では、
′′′エ
チエズルガエ ′ハ′ テリー︻ズル′′′ヲ 復有l和義可由二此一瓢可成こ一切種種識相貌ペ本識識所飴生起識種種相貌故。復困レ此相貌生故。 ︵11︶ とある。勿論この一節は、唐詩にはないが、最も古い魂諸にもない。陳繹の繹論を見ると、この一節は前に三性 の異を述べた閉を承けて、その不具を明にしたものであるとせられる。果してさうであるならば、三件の典不興 を明にするものとしては、この一節は必要で放くことの仰木ないものであるが故に、本論には初めから存在して 柳 歪曲せられた無藩の唯読替拳 八属たとしなければならぬ。然し私見に依ると、この一節は三性の不具を述べたものではないと同時に、その前の 一段で、三性の異と共にその不具も、既に明にせられて居るのである。何故なれば、前の一段を見ると、それは 倍化性に依って三性の立てられることを述べたものであつて、三性が何れも皆依他性に基くと云ふ鮎から考へる と.それは不興であり、別義に依つて依他性の上に三性の立てられる鮎から考へると、それは異であることを示 したものであるが、この一節は川中に非硯賛意識である本訊から、硯賛意識である生起識の生することを表したも のに過ぎないからである。この意味に於ては、この一節は三性の異不具に関するものとしては、全く不要なもの であるから、初めから本論にそれが存したと見ることは出来ない。尤も隔諸には、この一節は、 ′′一∵丁テ
′ハルJ′
ー一九′ノJト
. ノトスガ′ 何別道理。於二一識標霊鱒二切種種識憾相貌一也。阿契耶識識醍箪l彼徐生起識種種相貌叫應レ知琴痕緑相生 スト 一一 ︼。 ︵12︶ とあつて、殆ど陳諾と同様である。然しそれは陳繹から取つて釆たと解すべきであつて、初めからこの一節が本 論に存したと云ふ誇披にはならぬと思ふ。何故なれば、若⊥それが初めから本論に存して居たとすれば、隋諾の 世親群論にも、他の部分に於けると同様に、その註群が存しなければならぬ筈であるのに、この所望単に本文が 存するのみで、その詫繹は全くないからである。かやうに考へて、私はこの一節は眞諸本になつて附加せられた ものであるとするのである。 ︵14︶ ︵13︶ 第二、唐詩の同じく桝知相分第三の十分別む述べた研に、陳鐸では、般若経の文句が引用せられる。勿論この ︵16︶ 一節も、唐諸にはないが、塊諸にもない。但し隋諸には陳諾と殆ど同様な文句が存するが、私は第一の場合に於 歪曲せられた無活の唯識哲準 九 β4J歪曲せられた鮎川茹の唯舐哲畢 一〇 けると同一の理由に依って、これも初めから本論に存したものではなべして、眞諦本になつて附加せられたもの であぇと考へるのである。 ︵16︶ 第三、密謀被修差別分第六に、十地の安立を説いた結末として、三頒を奉げて居る桝があるが、陳繹はこれを l一朗に纏め、その後に 如此二侮依申達分別諭。應常了知。 ︵17︶ と断つて居る一。これは確に中速分別論陣‖⋮第二の中に在る偏頗である、尤もそこでは掩大乗諭の三木のやうに、 ︵18︶ それは三胡となつては居るが。然しこの断り書きは、他の三木にはないから、それは眞諦本の附加したものであ ることは明である。 ︵19︶︵少︶ 第四、牌諜の同じく被修茄分第六の十晋修する時間を述べ宗は、魂謹もも、共に五種の修行者が、 三阿櫓砥用に依って、これを成就するとなすのに、濁り陳諜のみは、その上に、或は七阿倍砥助、或は三十三阿 僧砥劫となし、 後攻云何七阿倍祀劫。地前坦二地。中有閑地。絹三者。一不定阿倍舐。二定阿倍畝。三授記阿倍舐。地中有 四者。一位茸諦阿幣紙。二依拾阿倍舐。三伏戚柿阿倍砥。四依智慧阿倍砥。復次云仰三十三阿幣紙。方便地 中有三阿僧砥。一信行阿僧祀。二精進拍阿倍減。三趣向行阿檜祀。於十地中。地地各三阿臍砥。謂入仕出。 如比阿倍砥修行十地正行閲満。 とムつるe十地修わの通説としては、その時冊は二阿机祀せあるから、この七阿僧純、三十二阿僧紙の説 3イブ
三
以上の円筒所を除くと、擁大乗諭の諸本は、その内容の上では、殆ど同一であると云つて差支ない。尤も翻諾
の上から云へば、その間に多少の相違の生するのは免れない所であるから、諾者の思想に依って、その内容にも
幾分の色彩が附醸するのは、常然のことであらう。この鮎から見て、玄英の唐諾は港相宗の臭味があり、虞諦の
陳諜は摘論完の臭味があると云へないことはない。然し防諜及び魂諾は、諜者に依つて影響せられた躁跡はなく、
原本を忠賞に聯じたやうに思はれる。尤も魂諜は品も切つてないのみならす、文章も甚だ生硬で、それだけでは
意味の通じない桝もある。これに比較すると、隋諜は文童は暢達であり、前に述べた如き、陳諸に影響せられた
は、情妹的な瀧であり、従つてそれは眞諦木の附加であると見なければならぬ。 ′ヽ ( ( ( ′‘ヽ ( √ヽ ( /′ヽ ′【\ ( 1110 9 8 7 6 5 4 3 2 】. ) \ノ ) \J \J ) \J \ノ ) ) \J 禿山せられたる無着の唯識哲学 閂減大赦雑終日鋒Z〇.会㌫ 大正赦三一NO、−Ⅵ治 N〇.−∽町∽ 同 m N〇.−∽Qの 買〇.−むluふ 六八、一二三。 大正就二一N〇.−∽浩.−諾∽.−∽電 東北葡由大軍編、西赦大正赦鮮総目録2〇.会岩 大正毅三l、一一三上。 大正減l三、一三九中−下。 同 一一九下。 ′ ̄\ ( ′一 ̄ヽ ′■■ヽ ( ( ( ′■ヽ ( ′■ヽ ( 2221201918171615141312 ) ) しノ \J し′ ) ) )・ ) ) しノ 大正叙三一、 大正蔽三一、 同 同 大正毅三一、 同 大正毅三一、 同 同 大正毅三一、 二八八上。 一門〇上。 一二〇上1中. 二八九上。 一四五下。 一二六上。 四五凹下。 一四六上−中。 l〇七中。 三〇四中。 一二六下。 凱㍑歪曲せられたる無着の唯読替孝
三
部分を除いては、原文に最も近いものであつたらうと推測することが拘束る。故に我々が極大粟論の虞の姿を知
らうとするには、隋繹を標準木となし、他の諸本をこれに参照すると云ふ夙にすべきであらう。かくして得られ
た擁大乗論木は、無着の唯普畢の眞の史料となるべきもので、その思想の内容票すと、額耶妄識詮に基く有
相の唯識であると云ふことが出来やう。
然らば如何してさうなるかと云ふに、原本の虞の姿に引き戻されたと考へらるべき挿大乗論に依れば、その思
想の全饉系は、依他性を中心とするからである。依他性を中心とするが故に、それは有相の唯識となり、従って 一
頼耶妄識語となるのである。迷界を轄換して、悟界に開入するのが、唯識哲単一般の全饉系であつて、それはこ
れを表示するのに、依他性、分別性、眞資性の所謂三性を以てすることは、周知の事茸である。そしてこ賢転
の中で、何れをその中心とするかに従って、唯識哲畢の内容が定まるわけである。私見に依ると、眞資性を以て
中心とする唯識折=畢は、無相の唯識とな少、如来銀将識詮の上に立つことになるが、これに反して依他性を以て中心とする唯哉哲畢は、有相の唯識となり、頬耶妄識語の上に立つことになる。摘勤の唯識哲畢は前者であり、
無着の唯識哲学は後者である。私は今無着の唯識哲畢の特色を明にする焉めに、先づそれが依他性を中心とする
が故に、有相の唯識となることを述べ、次にそれを無相の唯識である禰勒の唯識哲撃と比較し、終に錬着と等し
く有相の唯識である世親の唯識哲学に言及するであらう。
︵l︶ 撒大乗論に現れた無着の唯識哲挙が依他性を中心とすることは、その第三所知相分に三性の異同を論じた桝から見て明である。何故なれば、三性が同とせられるのは條他性を中心とするからであり、叉それが別轟の斯から
8っ臼異とせられるのも、慄他怯む中心とするからセある中華に同じく第三析知用品の飯他性と生死及び捏梨との紺係 掴 む論じた桝に、 テ ハテエハぎヲテ■一ハズヲ 此依他性由二分別二分成二生死叫由義軍一分成二壁警 ︵2︶ とある。この一句の意味は、・倍化性が中心であるが故に、それが分別性に支配せられる間は、生死の迷界が生す るが、この分別性の支配が解かれると、依他性の上に眞資性が現れ、悟界の浬架が展開すると云ふのである。依 他性を離れては、分別性もなく、眞資性もないから、依他性が三性の中心である。更に同じく第三桝知相分の三 法を説いた所に、 チシ ′一− ト ラシトヲスト 於二依他性中旬分別性撃染汚分旬眞茸性撃清浄分可依他性焉二染汚清浄分叫 ︵3︶ とある。これも依他性中心誼を述べたもので、依他性はそれ自身に染汚分もあれば、清浄分もあるから、それが 分別性の故に染汚となり、眞寛性の政に清浄とたると云ふのである。 赫大乗諭に現れた無着の唯識哲畢は、かやうに依他性を中心とするが故に、それは有相の唯隷となるのであ る。これを明にするには、依他性の性質から説いて行くことが通常であると思ふ。任地性とは、その語義から云 へば、自主自存のものではなく、他に依つて存するものであると云ふことになるが、この他に就いては後に述べ ・ることゝし、今はその内容の上から云ふと、それは分別を生ぜしめるもの、即ち能分別のこ 分別は、γ別と同義であり、了別は即ち識である。尤もこの場合の識は、識硬くijか抑naではなくして、識用 ≦j訝pti である、換言すれば、それは硯賛意識である。故に依他性は、硯賛意識を生ぜしめるものであり、依 歪曲せられた無斎の唯誠菅野
他性は現賛意識そのものである。称大乗諭はその第lニ桝知和分に依他性を定恭して、 ,ノスルチタト 唯有レ談義顕現依止名二倍他性可 ︵4︶ と云ひ、叉依他相を定義して、 ーt ノ セラレル ナサ カ レ ナル 何者是依他相。⋮⋮⋮ 虚妄分別桝レ蹄諸隷。 ︵5︶ と云つて居る。現賛意識を分析すると、唯その主観である能分別が存するに過ぎないと云ふのが、﹁唯有識﹂で あり、その客観である所分別の生死は、この分別から顕現するものであるから、分別を離れては外に存しないと 云ふのが、﹁義顕現﹂である。故にこの現賛意識の研依止が依他性となるわけである。更にその研依止でなく、 依他性の相、即ち硯賛意識そのものを考へると、それは虚妄分別に棒せられる所の諸識である。虚妄分別は、眈 述の如く了別であ少、識用てあるが、それが期現せられる薦めには、種々の傑作を必要とする。申達分別諭は、 ︵6︶ この傑作として、根境我を数へ、これに分別かち了別を加へて、四識とするのであるが、猿大乗論はこれを十一 識とした、それが虚妄分別に挿せられる桝の詔識若くは諸識の差別である。唯識堺畢の鰐系として、依他性若く は依他相が中心とせられる際に、分別せられたもの、了別せられたもの、換言すれば、生死の迷界は、勿論存在 するものではないが、分別そのもの、了別そのもの、換言すれば、硯賛意識は、それが主翫とせられる限りに於 て、存在するのである。この意味に於て、依他を中心とする唯識哲畢は、無刑の唯識ではなくして、有相の唯放 であると云はぬばならぬ。 進んでこのl有相の唯散は、その性質上雑耶妄識詮に其くべきものであると云ふことに就いて考へると、妬大難 歪曲せられた無前の唯菰野撃 ふ招
論に依れば、伏他州は阿頼耶諏を種予L﹂して起るとせられる。阿頼耶諏は、伏他州に取っては、即ち他である。 依他相はそれ自身に存在するものではなくして.阿根耶識を種子として、即ちこの他を因とし経として起るので ︵7︶ ある。擁大乗諭の第三桝知相分に、 何者是依他相。阿黎耶識焉種子。虚妄分別所持諸識。 とある。こゝで間置になるのは、倍化性の囚となり経となる阿械耶識が、妄放であるか、渾識であるかと云ふこ とである。私見に依ると、この間題を解決するの鍵となるものは、阿械耶識の識如のー吟味である。棒大粟諭に依 れば、その識相には三種があるとせられる。自椚、因州、北柏がそれである。阿頼耶識の白州に関しては、その 第二桝知債分に、 立自相者。依一切不浄晶法習気。鴬彼得生。捧持種子依器。是名目祁。 ︵8︶ とある。これは阿頼耶識の白相として、その政談であることを述べたものであらう。赦に些一の意味があるとせ られる。一は所蔵であり、二は能蔵である。こ1に依一切不洋品法習乗馬彼得生とあるは、桝戒の意味む示した もので、一切不浄品法は虚妄分別を本性とする特識即ち硯貴意誠を指したものであると解すべきであらう。さう すると非硯賛意識である阿頼耶誠が、硯賛意誠である特識の案習を受けて、初めて襲生し得る鮎から云ふと、そ れは韓識の中に蓄蔵せられるt考へても差支ないから、その意味に於ては、阿頼耶識は確に所蔵である。次に撤 特種子依器とあるは、能頼の意味を示したものであらう。さうすると阿舶耶識が、現賓意識を轄慶する種子を臓 持して、謂はゞその器となる斯から云ふと、それは相識左貯赦すると考へられるから、その意味に於ては、阿頼 歪曲せられた無音の唯舐暫撃 ごJ7
歪曲せられた無着の唯識哲孝 ヽ 一六 耶識は前の桝赦とは反封に明に能赦である。然し阿頼耶識の自相は、謂はゞその饅を示したもので、この研から はその識の性質、換言すれば阿根耶識は渾識であるか、又は妄識であるかを決定し得べき資料は得られないやう に思はれる。然らばこの間題を解決するの錐は何虚に伏在するかと云ふに、私見に依ると、それは謂はゞその義 を示したと考へられる阿頼耶識の因相兼相の中に在るのである。この因相果相は、自相の二要素とも云ふべき能 蔵所蔵を開いて、能蔵から因相を引き出し、所蔵から果相を引き出したものであらう。阿稿耶識の果相に関して は、称大乗諭の第二桝知債分に、 立典相者。此設問種種木渾品港無始習東方乃至生。是名兼相。 ︵9︶ とある。こゝから阿頼耶識は、果報識若くは異熟識と稲せられる。阿輯耶散が果報隷若くは異熟識と名づけられ る鮎から云へば、その性質は善でもなければ、不善でもなくして、無援無記であると考へられる。第二桝知債分 、 巾異熟兼無産板記。興善不善立木相沫。薄輿不善互相違故。若異熟鼎菩不善性。祁染退城應不得成。是政異 熱誠唯無産無記。 ︵10︶ とある。眈に阿粘耶識が無覆無記であるとすれば、無論それは妄識であるとは断言し得られないだらうが、然し 油極的に云へば、それが浮放でない事は疑はれない。そこで因相を吟味すると、これに関しては、糠大乗論にはー 立田相者っ此一切種子隷。焉生不浄品法恒起雷同。是名田相。 ︵11︶ とある。こゝから阿掩耶識は種ナ識し去はれる。阿柏耶識が虚妄分別を本作とする樽識を隼ずる郡から云へばー Jメタ
そわ恍托は確に婁識であると云はぬばならぬ。尤も輔大寒論には、阿川耶抽が挿子織として妄識であると、明に は述べてないやうに思ふ。然しこゝに注意すべきは、該諭が阿税耶識と染汚厨とを同一甜しし染汚意に関してそ の第二所知依分に、 此意染汚故。有覆無記。輿四煩悩常共相應。 ︵12︶ と述べてあることである。この鮎から見て、私は依他性を小心とする撫大衆論の唯識哲畢は、その梶原を尋ねる と∵損耶妄識詮であると考へるのである。 ︵1︶ 原本に引き床された帝大衆論内の品の切り方は、玄突本に■従ふのが通常であると考へ、懲らくこれに依ることゝ した。大正耕三一、一三九中。 ′■ヽ ( ( ′、 /′‘ヽ /一ヽ ′ ̄ヽ /′■ヽ ′‘■ヽ ( ( 121110 9 8 7 6 5 4 3 2 ) \J \J し′ \J \J ) ) ) \J ) 四 歪曲せられた無策の唯誠哲単 大正薪三一、 同 大正戒三一、 大正耕三一、 大正麻三一、 大正戒三一、 大正戒三一、 同 大正戒三一、 大正赦三一、 大正蕨三一、 一二一上。 一ニー上。 二八七叩。 二八四下。 四五一中。 二八凹下。 一一五上。 一一五上。 一三七下。 一一五上。 一三四上。 この庭は便宜の褒めに陳課に依った。 この虞も陳詳に依った。 隋詳。 珊稿﹁禰勤の唯舐哲準への新佃粗﹂文化第二年第四班参照。 陪詳。 この鹿は便宜の蕾めに陳諸に依った。 この鹿も陳詳に依った。 この鹿は便宜の馬めに倍繹に依った。 この虚は白粕果粕の場合と同株k陳諸に依った。 この度は便宜の広めに唐澤に依った。 3必
とあるので明である。尤もこれはその第二句を見ると、﹁その中に二はない﹂とあり、第三句も﹁然しその中に
賽什がある﹂とあつて、大に蛋を誰いて居るやうに思はれるが、第一句に﹁虚妄分別はある﹂とあつて有に始ま
り、苑内句に﹁その中﹁賽性﹂にも亦彼︵分別︶はあ去﹂とあ■つて有に終って居る。故に弼勒の唯識粁撃は、その惜系としては、有の哲学であると云はぬばならぬ。然しそれは有の曹撃であるとは云つても、無着の唯静哲撃
と比較すると、意味に可上止りな相沌がぁる。無詔〃右〃川端昔、両虎宣こ∴りっで・1有で弟∴ニしLを上狛たいが輔勒のそれには布から無への轄移がある。小姓分別諭の第一刑品の郡三緋後年に、
詰問せられた撫着の唯紙背拳
一入
棒大薬諭に現れた無着の唯識腎撃の特色が石和の喉識であることは、これむ中速分別諭に現れた禰勤の無用あ
唯識説と比較することに依つて、一骨明になるのである。唯識哲畢の初組としての弼勤の唯識説の特色が申達分
別諭に依つて来示せられることは、眈に述べた通りであるが、それ竺言で嘉すと、無相の唯識である。勿論大
乗沸教竹重五大別して有の常撃と無の常撃との二とするならば、龍樹の中観軒挙が墨の哲畢であるのに封して、
捕勒の唯識許撃は、無意の唯識常撃と同様に、布の哲学であるには逮ひない。このことはその総柄であり綱要と
旦耳ふべき中速分別諭の第一相品の初甥に、
Abh巴a parik巴pc貰dくaya−P ta︷ra naまdyate−
Sロコya︷抑<idyate t<a︷ra tasy師m ap−Saまdyate II 酪料吟彗苑餅か. 舟㊦せ符〓芹抒∫. 漢﹁舟㊦モ百聞序碧野か. 舟8モ︵併存︶肴伊勢喪︵坤警︶昂餅か0 .ヲ.つ
くij印ぎa訃n川sti cPl薫腎昏as 諸声伊かま.舟ふ七藩窟こげく一 tadab試急t・tadapyasat I︼ ヒ[ま打丁チ㌣貫か打丁.
と宮る。こゝに王∵㌫鱒は非硯賛意識としての阿頼耶識であ少、項は硯貴意識としての特識であり、分別である。
故にこの餅の意味は、前に肯定した分別を否定して、一たびはその主観である阿械耶識を肯定したが、更に前者
の否定から、後者をも否定して、有から無への柑移を示したものと解す六きであらう。この瓢に於ても、弼勒の
唯識轡撃は、無請のそれのやうに、有州の唯識でないことが判る。
然し調って考へると、無着の唯識幣単にも、無を説いた仰がないわけではない。無着の唯隷新車が條他性を中
心として三性を説いたこと、換言すれば、倍化性の上に、一方では染汚分を開き、他方では清浄分を開いたこと
は、眈に述べた通りである。即ちこれに依ると、権化性の木質は分別で、その顕現した何分別の上に、染汚分の
分別性が立てられる。依他性は無論有であるが、分別性も、それが依他性の展川である限りに於ては、希である。
この研に至るまでは、無着の唯識新参は全然有利の唯識であると云はぬばならぬ。けれどもそれは依他作が染汚
分む離れた所に、精薄分の眞資性聖止てる。この眞寛性は、それに染汚分の存在しない限りに於ては、撫である
と云つてよからう。私が無蓋の唯識哲撃も無を説いて居ると云ふのは、この意味である。尤もこゝに説かれた眞
資性は、依他性を離れては、外に存するものではないから、その薔然の韓結として、布と離れては無はない。然
るに弼勒の唯識幣単に於ける無は、これとは大に異るものがある。尤も摘勤も既に三性を立てた。依他性と分別
性を石とし、眞葦性む無とする鮎に於ては、摘勤も無弟と川一であ去。けれども軸勒の無とする所は、無道のそ
、一1■ ・1り=り上れ︼﹁勲′山肌畔り.⋮宮川十 ■J.;J二〇 歪曲せられた無籍の唯議暫孝 れとは異って居る。無着は依他性を中心として、その上に眞貴性を立てるのに封して、摘勒は眞葺性を中心とし てその上に依他性を立てる。換言すれば、前者が有の上に無を立てるのに封して、後者は無の上に有を立てる。 従って等しく無を立てるにしても、両者の間に相違の生ずるのを避けることが出来ぬ。無着は有を本とし、無を 末としたのに封して、禰勤は無を本とし、有を末とした。前者に於ては、有と無との問に交渉はないが、後者に 於ては、有は無から起るとした。前者は染汚と清浄を依他性の差別であるとしたが、後者は眞葺性即ち眞如の差 別として、雛染と清浄が起ると考へたのである。中速分別諭の第一相品第十六頒に、 とある。元来眞如は清浄なものであるが、分位の別に由つて難染となる。即ちそれに垢の附い挺研が雑染であり、 この垢の取れた研が元の清浄である。これが第一句及び第二何の意味である。さうすると眞如は前には垢と相臆 し、後には垢を出離することになるから、それは欒輿無常なもあとなり、眞如常任の性質と相違するではないか と云ふ疑問が起る。この疑問に答へたものが第三句及び軍閥句である。それに依ると、眞如は或は難染となり、 或は清浄となるからと云つて、攣異性を有するものでもなければ、無常性を有するものでもない、それは飽くま でも常任である。桝へげ、水界とか、金とか、容とかの如きものである。水界は将であるが、これに塵がかゝる Sa訃Eis箭caま晋ddh抑ca S副samal抑nirma−抑ca I Abdb警ukanak抑k思a・
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杏き昇剖茹什簿茹什d餅か.
芽串静借e
童d轡か普︵符覇d餅か叶鞘佃きか0
と染となる。企も浮であ■るが、これに垢が附くと、染となる。同様に貧も渾であるが、雲がこれを援ふと、穿と
なる。それと等しく、眞如は元来満挿なものであるが、一時炊偶の焉ゎに改姓れるだけ一であつて、性質が欒具す
るのではなく、性質としてはそれは何虞までも清浮であると云ふのである。かやうに考へて、私は無着の唯識哲
挙が有用の唯識であるのに封し、捕勒のをれは無相の唯識であるとするのである。
有相の唯識である無岩の唯識哲学の本論詮が、前に述べたやうに、根耶妄識説であるのに対して、無相の唯識
である禰勒のそれは、私見に依ると、清浄心性誰、換言すれば如来赦浮識説であるやうに思はれる。本来清浄な
眞如が、有垢の分位に難染となることは、既に述べた通りである。然らばこの有垢の分位は如何して起るかと云
ふに、この鮎に関する申達分別論の思想は明瞭でないが、郁つて解樺すれば、眞如には二養がある。一は所縁の
境としての眞如であり、二は能経の識としての清浄心性である。そこで眞如が清浄心性として、換言すれば如来
赦浮識として、一たび動き出すと、輯耶妄識となり、頼耶妄識が煩悩に染められて、そこに耗染を展開すると見
らるべきではなからうか。申達分別諭の第一相品第二十二麟に、
とある。こゝに清浄心性︵Cttasyaprak叫tiprabh訝くara︶と云ふのは、所謂如来赦浮識であると見て美文なか Na Ei浩抑n首i c抑Ei警抑 瞥ddb訟uddh師nas抑p亡nahI Prak呵ty巴くa prabh訝召rat晶t tacc抑gantukak−e計n軋k−i警抑Il 歪曲せられた蘇芳の唯誠暫皐 薄d伊抒︵■単Å遠雪q伊抒く. 付き︵諦割ら藤︶荷担覇d伊刊覇d伊拝す0 畠﹁︵轟覇8序㊦薄荷一 仲0哨添諒㊦池昏市浮作付か0 β占β歪曲せられた無着の唯読替撃
二二
らう。それは組封主観とも稲すべきもの.で、それ自身としては、染でもなければ、浮でもなく、無垢識であり、本見である。無染であり、無射であると云ふ鮎では、それは静寂であるから、その意味に於ては、絶封無と云つ
てもよからう。けれどもこの梅封無は、静寂であるが焉めに、機縁に遇ふと運き附すのである。響へば静寂な深
淵の水が、風に遇うて動き糾すが如きものである。清掃心性としての如来赦浮識の動き出した研が、妄識として
の阿耶放ではなからうか。主臥としては、如来蔵浮識も輯耶妄識も、同一であらう。けれども如来戒浮識は絶封
主観であつて、その封境は虞如である。然るに頼耶妄識は相封主観とも稀すべきもので、その封境は雑染である。
然らば絶封幸観である如来成澤識は、如何して動き糾して相封黄観であぇ頼耶妄語となるかと云ふに、それは煩
悩に染められるが焉めである。煩悩に染められるが故に、如釆蔵浮識は頼耶妄識となり、迷界としての難染を展
開するのである。前に奉げた質喩で云ふと、水が風の焉めに波を起し、披から諸種の現象を生するが如きもので
ぁらうかやうに考へて、私は無黄の唯識幣嬰は、有相の唯識であ▼るが故に、その本識詮は根耶妄識説であるとな
し、無相の唯識であるが故に、如来赦論識説である禰勒の唯識哲撃とは異るとするのである。
五
眈に称大乗諭に現れた無着の唯識抑壷が有柵の唯放であり、従つてそれは錬相の唯諏を特色とする中速分別諭
に硯れた獅勒の唯識哲畢に異るとすれば、棒大薬諭、従つて無芸あ唯識哲畢に関する一乗家の見方の正常でない
ことは自ら定まるわけである。何故なれば、所謂一乗家の見方は、砕大乗諭に依つて鰐系的に表示せられた無着
〃唯識析[嬰の特色を以て無相の唯識であるとするもので、これげ中速分別諭り無の唯誠に準推して、称大乗論の ∂古4有の唯識を解絆するに外ならぬからである。然し有の一昨識は、何腱までも有の唯放として見なければならぬ。こ の鮎に於ては、赫大乗諭従って無着の唯識折=畢に関する三乗家の見方は、一乗家のそれよりも、造に優れて居る と云ふべきである。何故なれば、桝謂三乗豪の見方は、掠大束論を解絆するのに、唯識論に準接するとは云つて も、唯識論は中速分別論とは興り、それは無の唯誠ではなく、蹄大束諭と同様に、有の唯放であるからである。 そこで私は最後に、唯識論に現れた≠挽の唯識哲墜に一瞥を輿へ、それを従衆論述した無着の唯識哲畢に比較し て、この論文の結末としようと思ふ。 世親の唯識論には周知の如く、唯誠二十論と唯識三十論煤の二極がある。然し二十論の方は、諸種の外難に答 へて、唯識無境の赤を説いたものであるから、≠初の唯識哲畢から見ると、謂はゞ消極的方面である。彼の唯改 野撃を積極的に論じたものは、唯識三十論頒である。これに依ると、世親は雉着と等しく、依他性を中心として 三性を説いた。依他性は何であるかと云へば、擁大衆論に於ては、それは分別に擁せられる諸識であるとせられ たが、唯識論に於ても、大櫻岡楼である。唯識三十論飼の第二十一餌前年にこれを定義して、 Paratan雷sくabh腎as・tu 溝﹁譲壷恵元 くika−paすpratyayOdbhaく各− 坤警d伊ア蒔粁d餅か0 と云つて居る。依他性は他である阿税耶識を経として生するものであるが故に、その鮎に於ては、縁生であるが、 その本質を云へば、分別の外の何物でもない。この依他性を中心として、一方には分別性が説かれ、他方には眞 肺拭性が説かれる。如何して分別性が依他性から起るかと云ふに、依他性の本質である分別に依ってヾ分別せられ 鶏曲せられた強請の唯講暫革 、−・;∂
第二十二頒に、
、−ノ、−ノ
Ata eくa Sa na・eya・anyO
これで見ても、唯識論が分別性を依他性から引き出して釆たことは、多く諭ずるまでもなからう。この鮎に於て、
それは糠大衆論と軌を一にすると云ふべきである。然し依他性と分別性との関係に就いては、唯識論は糠大乗論
と興る研がないのみでなく、中退分別論とむそれ程の相違はないのである。旅大乗論が中速分別論と異り、そし
て唯識論と同一である鮎は、葦に楳他性と眞資性との関係に存する。唯識論もー挿大衆論と共に、眞資性を以て、
依他性の本質である分別の本性となし、依他性から分別性のなくなつた研が眞賓性であるとした。唯識三十給頒
の第二十一項の後年に、
とあ去のがそれである。故に眞資性と依仙性との問には、不一不興の関係が出て来るのである。唯識三十諭頚の 霊的せられた加藤の唯菰野蟄 二四 た朗分別の性質が分別性である。同じく畔誠三十諭媒の第二十餌に、分別性を説いて、次のやうに云つ七居る。 NispaロnaS・taSya p常くeロaSad抑sahitat抑tu y抑ⅠⅠ Sくabh晋OnaSa≦.dyateI: P雪ika−pita eくa・aSau Ya牟yadくaStu≦.kalpyate H Yena yenaくika首ena
誓言付か坤空荷濡Jバ 誓言付か青票坤望ヰ伊きバ伊. 舟㊦坤望ヰpき浄甲序再 伸き拓哉前﹁抒∫0 跨一rl付き︵詞囲詩︶弄清春け 諦符蟄軸︵坤望誇︶野津き符伊Od餅か0 舟㊦海瀬︵陶湘南︶斉 βββ
かやうに唯識論は、癖大乗論と等しく、依他性を中心として三性を説くが故に、世親の唯識哲畢は、無着のそれ
と共に、その牌系としては、有相の唯識である。何故なれば、唯識論に於て、依他性を中心とすることは、分別
を中心とすることであるが、分別を中心としては、有相の唯識を立てる外に途がないからである。尤もこ1では三自性に依つて、三無性が立てられる。けれどもこの三無性は、少しく吟味して見ると、これは有であつて、決
して無ではない。第一の相無性とは、分別性は分別に依つて分別せられた閉分別の相の上に名けられたもので、
この相は分別を離れては外に存するものではないから、相の上から無性と云ふのである。然しその基礎になる分
別の存在は、これを否定することは出来左㌫。この意味に於て、相無性は、無ではなくして有である。第二の生
無性とは、依他性は紋所生のもので、自然性はないから、生の上から無性と云ふのである。然し縁所生の分別は
存在する。この意味に於て、生無性は有であつて、決して撫ではない。第三の眞茸無性とは、眞資性が研分別の
相を離れた研から、眞茸の上から無性と云ふのである。然し依他分別の本性としての眞資性は、恒に存在して滅
する庵のではないと考へられるから、それは茸有である。かやうに吟味して来ると、唯識論が三無性を立てるの
は、決して世親の唯識哲挙が無の唯識であることを表示するものではなくして、却つてそれが有の唯識であるこ
とを許明するに役立つと云ふべきであらう。
唯識論に現れた世親の唯識哲学が有の唯識であると云ふには、二の意味がある。一は相の唯識であり、二は性
︶ na・ananyaすparatan︷rataF I とある。 歪曲せられた無着の唯識哲革 御d伊抒︵■ u﹁潜d﹂置抒∫0 β占7とある。この頒の意味は複雑であつて、これを明にするには厳密に攻究しなlナれぼならぬが、その中心思想が迷 界の分別の困として、換言すれば種子識として、阿械耶識を認めた瓢に存することは疑はれない。然らばこの阿 輯耶識は、浮識であるか、又は妄識であるかと云ふに、唯識三十論餌の第川朗に、 aniくrtぎy詳呵taきca tat H 付き︵軍蔚苫詳︶斉落潮常叫Pd沙か0 とある。この表現の仕方は、中速分別論の心性掃浮説とは全く興り、前に奉げた駄犬粟諭の来示そのま1である。 尤も棒大乗論では、阿頼耶識の異名として染汚意を奉げ、それを有覆無記となす桝から、私は無着の唯識哲嬰に 於ける阿頼耶識が妄識であることを諭詳したが、唯識論に於ては染汚意を嘱立の第七末郵識となし、これと阿頼 耶放とは、・少くとも用の上からは、別種のものとなつて居るから、私は今こ1で前と同様の論法に依って、阿頼 耶識の妄識であること整止許することは出来ない。けれども唯識論が阿頬耶識の性質を表現する仕方は、棒大乗 諭のそれをそのま1根承したと見ることが〓来るから、この瓢から考へて、私は世親の唯識軒畢に於ける本訊誰 歪曲せられた無斎の唯読替拳 二六 の唯放である。相の唯隷とは、迷界は分別を離れては、外に存在するものではないと云ふのであつて、こ1から 税耶妄識詮が生するのである。唯識三十論餅の第十八頭に、 Sarくabごa争hi5Jnaロa払− ●●■l▲−− pariや抑mas・tatb抑tath抑I y翌i・anyOnya<a笛d yena5.ka−paすsasa j晋ate Il 詳付し嘗萌什﹁バ柵市. 昂櫻ヤ伸御母誉︵禅8誉︵. 蓋回0︺﹂符浣Jバ隙か. 醇符坤警碧南全、∩蹄ヰか0 β占一ヾ
とある。若し相の唯識が現象であると云はれることが出来るならば、性の唯識は確に葦在である。然しこ1に注 意すべきは、唯識論に於ける相と性との関係は、普通に考へられるやうな硯象と鞍右とのそれとは興ると云ふこ とである。普通に考へられる所では、現象は貰布から畿現する。然るに唯識論に於ては、相と性との悶に交渉は ない。故にこ1では現象である相が、阿頼耶識に依つて賛現せられる.際に、賓在である性も、同時に欒現せられ るとするのであらう。この鮎から見ると、相の唯識が有の哲撃であると同様に、性の唯識も亦有の哲畢であると 云はねばならぬ。従って唯識論に現れた世親の唯識哲堕は、唯識性に関しても、唯訪朝の場合に於けると同様に、 棒大莱論に現れた無着の哲畢を相承したものであると云ふべきである。 は、無籍の場合に於けると同様に、椀耶婁講説であると付するのである。 次に唯識論の性の唯誠に就いて鶉へると、利い畔批が分別を中心とすろ∴に判し∵.性〃唯識は尻加を指した ものである。祁の唯識は迷界で、それを諸法とすれば、性の唯識である眞如は、その本性で、従って諸法の眞諦 を意味することになる。唯識三十諭頚の第二十五頚に、 Dharmぷ.期首param腎thaサca sa yntas・tath首i saサー Sarくak巴am tath脚bh抑く抑t Sピル<P﹂3.jかaptim巴rat師ⅠⅠ 作曲せられた強者の唯読智塾 対ヤハ∩きま謎駐0知識d瞥か■ 詩香付き芹国旗誉d餅か. 1撃鼻声誉得d轡か碧醇符■ 布き■eサやゑ蒜彗鱒月餅拍0 βぷク
歪曲せられた無着の唯誠哲肇
二八
以上に於て私は、眞の姿に引き戻された無着の唯識哲畢の特色を明にし得たと考へる。それは如来蔵渾識詮に
基く無相の唯識では苦して、顆耶妄慧に基く有相の唯識である。この意味に於て、それは所謂一乗家の見方
を離れ、所謂三乗家の見方に近づくとすべきであらう。
二〇、四、一五︶ ヲβ信 仰 の 紳 秘 宝 義
勝 也
佐 野
∵
使徒。ハウロの紳轡王韮は、主イエス・キリストに対する信仰の神秘主義である。然らば、。ハウロが信じ虎キリ
ストとは、如何なる内容を布するであらうか。彼のキリスト観の内容は、必ずしも一定してはゐない。然し乍ら
今は彼のキリスト観の内容全般に亘って述べる必要は無い。只、信仰と脚聯したキリスト凱に就いて述べること
1する。それは、彼が屠したシリアのアンテオケ致命において著しかつたと思はれる主キリストに封する信仰である。
。ハウロにとつて、主なるイエス・キリストは、貢であつた︵コリント後筆二二七、同前書一五・四五︶。そのことは eIlpneumati︵重において︶なる。ハウPの表現法とen Christ01 ︵キリストにおいて︶なる表現法とを比較して見れば、更に明らかになるであらう。
ダイズマンに依れば、enpneumati︵婁において︶なる語句は、パウロの書物中に十九虎視はれて来・るが、こ ︵l︶ れ等各の場合において﹁重において﹂は﹁キリストにおいて﹂と同一な結兼を訝らすものと考へられて居る。即 ち、キリストに在ること1、霊において在ること1は、共に義を訝らし︵コリント後五・三、三二四・一七︶義 倍仰の神秘童義 3βJ信仰の神秘車義 三〇 とされこれ ︵ガラチャ二二七、コリント前六・一こ に依って立つことが出来 ︵どリピ凹二、ビリビ丁二七︶ 歓喜 ︵ビリビ三二、ロマ二?一七︶思惑︵ロマ六二二ニ、コリント前一二元︶愛︵ロマ八・三九、コロサイ一・八︶平和︵ビリビ 甲七、ロマ一四・一七︶を得、聖化され︵コリント前丁二、三二五・一六︶割櫓を受けヽコロサイ二・二、ロマニ・ニ九︶ てゐる。すべて以上のことは、キリストに在る者と室において在る者とが、等しく受けるところのものである。 斯くの如くであるから﹁蛋において﹂と﹁キリストにおいて﹂とは、屡々同一意義を弔するものとして使用さ れてゐる。即ち﹁キリストにおいて在る﹂︵コリント前丁三〇、コリント後五・l七、ロマ八二一、一六・一一︶に封し ﹁笠において在る﹂︵ロマ八・九︶があり、﹁キリストにおいて語る﹂︵コリント後二二七︶に封して、﹁蚤において語 る﹂︵。リント前一二・三︶があり、更に又﹁キリストにおいて﹂が﹁肉においてに﹂封立する如く︵ビリビ三二二し﹁霞 において﹂は﹁肉において﹂ に封立する︵:入・九︶。又﹁キリストにおいて﹂と﹁箋において﹂とが同一意味 ヽヽヽヽヽヽ ヽヽヽ を有するものとして相ならんで使用されてゐることもある。即ち。ハウロは、﹁我キリストに︵eロChris訂︶在りて ヽヽヽヽヽヽ 眞をいひ虚惰を言はす、我に大なる憂ひあること1心に絶えざる痛みあることむ我が良心も聖富にょりて︵en pnenmatihagiO︶節す︶︵。マ九二、二︶と云つて居る。更に又.﹁イエス・キリストの交はり﹂︵コリン斗竺・九︶ は﹁現霹石交はり﹂︹。リン . る︵ガラチャー丁ニ○︶と云ふと同時に、貢が我うちに仕む︵ロマ八九・コリント前三二六、六二九︶と云ふ。 〓 然らばパ、ウ。において、婁とは、如何太る忠昧を有するであらうか。パウbむ蚤を人佃の心疲的軍楽として理 βββ l
︵8︶ 解することは、眞に彼の董の観念な把捉する途では無いとのブツセ∵トの詮は正しい。パウロの璽にかくの如き へ4︶ 慮味が全然仔#しないわけでは無いが、か1る心理的埋嘉としての累は、被にとつて薫警・はものでは無かつた。 彼にとつて貢要なのは、霧の有する超自然的、超越的性質である。・かゝる意味での婁は、人間とは猫立に存在す るところのものであり、それ自らの醍︵s≒.a︶を有するもので偽る︵コリント前一五・四凹︶。それは、肉餞とは異 なつて、光り輝く天上的牒である。それは朽ちることの無い光柴の櫻である。かくの如く、人間の心理現象とは 別仰の存在たる釜には、華にして聖なる買と、恵の基とがある。悪の蔓は、稲青書に屡々現はれて乗るところの ものと同じく、種々たる病気の原因となる。即ち悪鬼︵demOn︶である。キリストは、此の意重を迫ひ排ふこと に依って病気む誓ヰすと考へられてゐた。即ち苫代人に一般に行き亘ってゐるところの animistic な考へ方を パウ。も、依然、有してゐた︵コリント前二・完︶。只然しながら、パウロにおいて最も重要なのは、云ふまでも 無く薯の重、聖霞である。パウロは、これを﹁潔き冨﹂︵pne亡mahagi。Syn認.−ロマ一・巴と云ひ、又は﹁生命の琴﹂ ︵pn。。mat認、N卦・こマ八二一︶とも云ふ。か1る買は肉と封立する。即ち﹁肉の望むところは御貢にさからひ、御 重の望むところは肉にさからひて互に相戊る﹂。肉の行焉はさまざまなる罪悪をもたらすに封し、蔓の行焉は﹁愛 喜悦、平和、冤糞仁慈、学良、忠信、柔和、節制﹂とむ訝らす︵ガラチャ五・一六以下︶。従って、肉の念は死であ り、藁の念は生命であり、平安である︵ロマ八∴ハ︶。 以上は、震の有するところの道徳的、賓践的力である。然るに靂は、更に此の外に、宇宙の奥養に参輿し、紳 の神秘を究むるところの云はゞ認識的、若しくは形而上的力をも有すると考へられてゐる。即ち﹁婁はすべての 信仰の神秘主義 ββぷ
信仰の神秘主義
三二
審と、紳の深き囲まで究める﹂︵コⅦ′ソト前二・一〇︶。それはT隠れたるもので、神秘の中にある紳の智慧﹂︵コ,ソ ト前二・七︶であり、知識︵gn針s︶ であ少、信仰︵pistis︶ であり、病を瞥す賜物であり、力ある業を鴬し、預 言し、嘉を斯別し、異言を語り、叉輝く力である︵コリント前一二・入以下、ロマ二主三︶。以上述べたように、婁は、一方においては、宗教的、道徳的原動力であり、他方においては、一痙の物理的力
でもあり、更にまた他方においては、一佃の認識能力でもある。即ち、霞は、云は三種の神秘力であると云ふ
ことができよう。さすれば、主イエス・キリストは婁であると云ふのは、主キリストが、か1る神秘的力であるとの意味でなければならない。即ち﹁最後のアダムは生かす霞﹂でなければならない。
三
然しながら、か1る主張には、なほ補充的説明を必要とする。キリストの本性は、たしかに軍であり、キリストの中には紳の婁が宿してゐる。内的本質において見た場合、キリストと重とは同一であるが、これを形式上か
ら見れば、両者の問には差異がある。重はキリストの人格的力であ少、キリストを成立せしめてゐるところの要
素であり、樟几鰐である。従って、キリストは、釜を醍現したものであり、紳の貰自身が人格的姿において硯はれ
たものである。婁はキリストの所有するところのものにして、且つ叉我々に主が輿へ給ふところの賜物であり、
キリストは、此の重を所有し、且つ人々へ輿へるところの人格である。
然しながら、以上は只概念的区別に過ぎないのであつて、。ハウロにおいては、重た有しない人格は舛く、叉憺
を有しない黙も者へられない∩地上生活を迭〓しゐた場合のキリストむ整が醗を有したと同じように、天上にあ
8けJげられて後のキリストの霞も叉天上的概を有してゐる︵コリント竺五二孟以下︶。かくの如くであるから︰ハウ
けにとつては、天上にあげられたところの起越的帥的イエスと、地上に生活した歴史上のイエスとが、別個の存
在では無い。むしろそれは同一存在者の両方面と見らるべきである。天にあげられたキリストは、地上生活者と
してのイエスが有した歴史性を離脱してはゐない、十字架上の死は、イエスにおいて、硯草生活から超越的生活
を切りはなすものでは無い。それはm叫に罪ある人問に代ったと云ふだけである。。ハウロは、イエスの内的生活を 我ら人間と等しい意味での内的生活とは思惟してゐない。か1る意時にて、イエスの人間は、充分なる意味での 人間性では無かつた。パウロは﹁己の子を非ある肉の形にて︵enhOmOi〇.matisarkOShamartias︶罪のために 造はし﹂︵ロマ八・三︺とは云つてゐるが﹁罪ある肉において﹂︵ensarkihamartias︶とは云ってゐない。従って ︵5︶ 地上生活をなせるイエスの本質と、天上にあるキリストの本質とには、本質的差異はあり得ない。即ち歴史的イエスの有した人格的要素は、天上のキリストも依然保有してゐる。天上のキリストは、歴史上のイエスの有する
︵6︶ 特性を保有しながら、然もそれ以上に天上の存在者として有する茸在者を推得してゐる。従ってパウロのキリス ト睨の中心には、なやみ苦しみ十字架につけられ、紳に従順なりし者︵ビリピ二・八︶とか、毒しき者 ︵ロマ五・一 入︶罪を知らぬ者︵。リント後五二二︶とか、自己整骨ばすことをしなかつた者︵ロマ一五・三︶とか、柔和にして 寛容なる者︵。リント竺〇二︺とか、自己を放棄し給ひし者︵ガラチャニ・二〇︶とか云ふことが存在してゐる。而して、それは、パウロがイエスの地上生活に封して充分なる関心を有し、且つ叉、そのことに関して熟知して
居つた許墟である。勿論天サロは、ペテロが歴・史上のイエスに就いて知って居つたほど良くは知らなかつたであ
信仰の神秘童義 ββ占︵7︺ らう。然しながら、それだからとて、。ハウロにとつて歴史上のイエスが重要で無かつたとは云へない。 。ハウロの霞の概念は、ヱントラントやライツェンシュタインなどが云ふように、ヘレニズム世界に行はれたと ころの蜜儀宗教の婁の概念に形響され、それなしには考へられないであらう。私はそのことに少しも異議は無い 然しながら、そのことは、パウロにおけるイエス・キリストの歴史性を否定するものであつてはならない。なる ほど、パウロのキリストは、畢に地上生活を営んで十字架につけられて死んだ人格的存在者としての歴史上のイ エスでは稚かつた。それは又墓としてのキリストであつた。然しながら、すでに述べたように、パウロの墨の概 念は、プラトーンその他のギリシア哲聾者のそれとは異なつて、決して非形牌的なものでは無かつた。それは飽 くまでも閻を有するものであつた。従つて、すでに述べたように、人格的存在者としての婁と、地上生活を離れ た超越的存在者としての墓とが切断されてはゐなかつた。。ハウロのキリストなる概念の中には、異教の軸々簑有 するところの概念内容の多くが存在したであらう。然しながら、それが焉に、地上に生活したイエスの歴史性を ︵8︶ 排除するものでは無かつた。こ1に。ハウロの神秘主養の特殊性がある。 四 以上の如く:ハウロにとつて主キリストは露であり、霞は神秘的な力であり、要素であるところから、か1る ﹁主旨信仰の封象とするところの。ハウロの信仰なる概念には、特殊の内容が加へ㌧れる。空洞パウロにも、普通 一般の信仰なる観念内容が存在しないわけでは無い。即ちパウロにとつても、信仰とは、党づ第一或革む眞理と して受納れることである。例へば﹁そこで借仰は聞くことから、抑くことはキリストの言粟に依る﹂ ︵︰二〇・ 信仰の神秘主義 βββ