はじめに 平安時代に貴族たちが行なった、歌合わせをはじめとした物合わせは、『平安朝歌合大成』によると、四七五回にも及ぶ
注
注。内裏や摂関家で行なわれた盛大なものから小規模のものまで幅広く、物語にも物合わせを行なう様子が描かれた。
平安時代末期ごろに成立したとされる『堤中納言物語』は、一〇編の短編と一編の断章中、二編の短編が物合わせに関する作り物語である。母親を亡くした姫君が、北の方の姫君との貝合わせの準備に追われている様子を蔵人の少将が垣間見る「貝合」と、権中納言が、姉もしくは妹の中宮付きの女房たちから誘われた根合わせにて活躍するも、心はつれない姫宮に向けられ続ける「逢坂越えぬ権中納言」だ。物合わせの開催規模に幅があるとはいえ、短編における物合わせの描写が占める割合から考えるに、物語において重要な要素として物合わせは描かれているだろう。長編の作り物語である『源氏物語』でも、「絵合」巻で絵合わせの様子が描かれており、光源氏側の勝利によって光源氏が支える斎宮の女御が冷泉帝の寵愛を獲得すること へ繋がった。以上から、物語に描かれる物合わせは、単なる遊戯として登場するのではなく、左方・右方と二手に分かれて優劣を競い合う性質などを利用して、登場人物の人間関係の変化、および物語の展開を左右する仕掛けとして登場するのではないかと推察する。 本論稿では、『堤中納言物語』「逢坂越えぬ権中納言」に描かれる物合わせが、根合わせでなければならなかった理由について考えていく
注
注。
一 「逢坂越えぬ権中納言」
と根合わせ
先行研究では、根合わせである意味について、論がいくつか重ねられている。中でも、大倉比呂志氏は、根合わせの「ね」の音に着目して、「中納言は根合という公的なことでは成功したにもかかわらず、同音の寝合という私的なことでは失敗したことになる」と物語の展開との重なりとズレを表現するものと考える
注
注。「逢坂越えぬ権中納言」の「逢坂越えぬ」に、男女関係の一線を越えられないという意味が掛けられていることから、男女関係への示唆は認められ、根合わせに寝合わせが掛けられ
『 堤 中 納 言 物 語 』「 逢 坂 越 え ぬ 権 中 納 言 」 に 根 合 わ せ が 描 か れ て い る 意 味
──競べ馬と比較して──若狭祥子
た可能性は少なからずあるだろう。しかし、初めから男女関係の示唆を狙って、根合わせを設定したのだろうか、疑問である。
演出するのに物合わせは欠かせないものだと考えられる。 る。しかし、失敗で終わる。その展開のずれに対する面白さを 姫宮の獲得を、根合わせの勝利によって叶えられると期待させ いていた願いを成就させる。権中納言もまた、想ってやまない ように、対立構造下で勝利をすることによって、勝者は別に抱 てくる。先ほど挙げた『源氏物語』「絵合」巻での絵合わせの 根合わせにおける権中納言と三位の中将との対立構造が関わっ 「逢坂越えぬ権中納言」に物合わせが描かれる必要性には、
そして、根合わせである理由には、「逢坂越えぬ権中納言」の物語が提出された天喜三年(一〇五五)五月三日「六条斎院禖子内親王物語歌合」の五月三日という開催時期に合わせて設定したことが挙げられる。
根合わせに用いられる菖蒲は、五月ごろ青々と生える植物である。六世紀に中国の儒学者である宗懍が著わした『荊楚歳時記』において、邪気や疫病を払うものとして、悪月とする五月に菖蒲が扱われたことが見える
注
注。日本でも、五月に菖蒲を軒先に葺き、薬玉の材料として用いる様子が日記などに記されている。
歌に見られないものでも、夏の季語を詠み込む和歌がもう一首 歌語である「あやめ草」が詠み込まれている。菖蒲を題にも和 名に「菖蒲(あやめ)」を含んでおり、和歌では五首、菖蒲の 和歌を見ていくと、物語歌合わせの九番一八首中、三首が物語 「六条斎院禖子内親王物語歌合」に提出された物語名および から以下のように続ける について同様の言及をし、さらには、主催の禖子内親王の立場 井上新子氏も、「六条斎院禖子内親王物語歌合」の開催時期 への意識をしていないとは否定できるものではないだろう。 いこともわかる。そうであっても、物語作者たちが、開催時期 物語歌合わせが、夏、あるいは菖蒲を題として指定されていな 春の季語を織り込む和歌も六首、秋が一首見られるため、この 見られ、合計八首は夏を舞台にしていることがわかる。ただし、
注
注。作中の根合の場面は、物語歌合の開催時期「五月三日」を巧みに生かした設定であり、歌合を伴う根合が斎院サロンあるいはその周辺で行なわれていたことから、人々の興味をそそりうけを狙ったものであると考えられる。また、高貴な姫宮への叶わぬ恋のモチーフは、恋愛の禁じられた斎院という空間、さらにはサロンの女主人禖子内親王の存在を意識したものだといえよう。
根合わせが実際に行なわれたとされる例は、『平安朝歌合大成』によると、「根合」と題されるものとしては、五例見られる。長徳三年─長保元年(九九七─九九九)五月五日の「左大将公季根合」、永承二年(一〇四七)五月五日の「前斎院馨子内親王根合」、永承六年(一〇五一)五月五日の「内裏根合」、寛治七年(一〇九三)五月五日の「郁芳門院媞子内親王根合」、康和二年(一一〇〇)五月五日の「備中守仲実女子根合」である。永承〔五年(一〇五〇)〕五月五日の「六条斎院禖子内親王歌合」も、『平安朝歌合大成』の編著者である萩谷朴氏は、「根合」と表記はしないものの、「史的研究・研究沿革」におい
て根合わせに伴って開催されたと記す。したがって、合計六例の根合わせが行なわれた。「六条斎院禖子内親王物語歌合」が催された天喜三年以前としては、「左大将公季根合」「前斎院馨子内親王根合」「六条斎院禖子内親王歌合」「内裏根合」の四例が見える。その四例のうち、「左大将公季根合」以外は一〇五〇年前後に集中しており、なおかつ六条斎院禖子内親王が主催として催した歌合も見られる。禖子内親王に親しみある物合わせとして根合わせを採用した可能性は十分にある。はたして、禖子内親王、および斎院サロンへの意識はあったのだろうか。
もし、「六条斎院禖子内親王物語歌合」の開催時期、五月に合わせたのだとしたら、女性が参加するものではないが、同じく五月に開催され、一対一で対戦し合う競べ馬や騎射でも、物語の展開上成立するのではないか。競べ馬や騎射は、厳密には物合わせとは異なる「競技」ではあるが、宮中や摂関家の邸などにおいて人気の行事である。「逢坂越えぬ権中納言」が競べ馬を用いなかった理由から、根合わせである意味と、禖子内親王への意識の有無を探ってみることとする。なお、現在行なわれている競馬(けいば)と区別するために、引用文以外は「競べ馬」と表記する。
二 五月の左右に分かれる競技──競べ馬を例にして──
競べ馬は、先ほど述べたとおり、左方・右方に分かれた乗尻(騎乗者)および馬が、一対一で競争し合う競技であり、基本的に五番以上組まれて行なわれる。『儀式年中行事事典』によると、競べ馬は、薬効のある植物や鹿の角を目当てに行なわれ る狩の行事、薬猟から派生したもので、十世紀半ばまでは五月五日の端午の節会を中心とした年中行事として行なわれたとされる
注
注。年中行事における競べ馬は、大内裏の武徳殿にて天皇御覧のもと、左右馬寮が引き連れる馬に、左右近衛府が乗尻となって騎乗し、それぞれ左方・右方として競争し合った。現在の競馬とは異なり、相手の馬に鞭を使って邪魔することが可能であり、落馬した場合は負けとされる、やや危険な競技であった。清少納言も、『枕草子』「胸つぶるるもの」の段にて、はらはらするものとして、競べ馬を見ることを最初に挙げている
注
注。同時に、競べ馬を催すにあたっての準備や見物に、女性が参加していることがわかる。
五月五日が天皇関係者の忌日と重なり、端午の節会を催さない年が続くにつれ、競べ馬などは年中行事から外れるようになる。代わって、競べ馬を好んだ貴族たちが、私的に行なうために施設を私邸に設け、また天皇の行幸に合わせて、摂関家藤原氏が催した競べ馬が十一世紀ごろに盛んとなる。中でも、藤原道長とその息子たちが催したという記録は、多く残されている。
代表的なものとして、『栄花物語』巻第二三に「こまくらべの行幸」と題した、万寿元年(一〇二四)九月某日と一九日の競べ馬を挙げる
注
注。
はかなく九月にもなりぬ。関白殿、高陽院殿にて駒競せさせたまひて、行幸、行啓あるべき御いそぎあり。いとどしき殿の有様を、心ことに掃ひ磨かせたまふほど、いへばおろかにめでたし。この世には冷泉院、京極殿などをぞ人おもしろき所と思ひたるに、この高陽院殿の有様、この世
のことと見えず。(中略)東の対をやがて馬場の御殿にせさせたまひて、その前に北南ざまに馬場せさせたまへり。(中略)同じ月の十九日、駒競せさせたまふ。日ごろだにありつるを、今日はとりわきめでたし。
(『栄花物語』
「こまくらべの行幸」巻、四一七~四一九頁)
どちらの競べ馬も『小右記』に記されている
注
注、確証の高い催しである。九月 高陽院行幸被試練事 九日、甲午。今日先度関白第、卿相・雲上侍臣多会、有競馬、被試練也、(『小右記』略本「万寿元年九月」条、二九頁)
最初の競べ馬は、九月九日のことで、後者の後一条天皇の高陽院への行幸に合わせた競べ馬の予行練習として行なわれたことがわかる。高陽院は、桓武天皇の皇子、賀陽親王の邸宅であったものが、藤原氏の邸宅として所有され、藤原頼通により、寛仁二年から治安元年(一〇一九─一〇二一)にかけて、造営が行なわれた。「この高陽院殿の有様、この世のことと見えず」といった表現が『栄花物語』に見えるのは、その造営からまだ三年ほどであることにも関わりがあるだろう。
九日の競べ馬には、予行練習として本番に近い状態にするためか、公卿たちも参加したことが記されている。しかし、それ以上の詳細は描かれていない。その三日後、一四日に後一条天皇の母藤原彰子が高陽院へ行啓し、一九日の競べ馬本番には、『栄花物語』によれば、後一条天皇、後一条天皇の同母弟である敦良親王、彰子、そして、入道の道長という顔ぶれが揃うこととなる。 競馬十八番なり。なまよろしきをりのだに、乗人も馬もいみじういどみてとみにやは出づる。馬の心地も、いといみじう世にめでたしと思ひて、ともすれば出でてはひき入りひき入りするほど、いといみじう心もとなく見えたり。さてのみあるほども久しければ、「やや」とたびたび仰せらるれば、出で初めて、たびたびになりて、左右かたみに勝負するほどの乱声の音もはしたなげなるまでをかし。
(『栄花物語』
「こまくらべの行幸」巻、四二一~四二二頁)
一九日の競べ馬は、『栄花物語』では十八番組まれたと書かれている。しかし、『小右記』によると、一番、〈左府生清武、右将監扶宣、〉右被打籠、有兼案、二番、〈左府生惟国、右府生公忠、〉惟国乗之間三箇度落馬、太不足言、被打鼓、此番諸人所欝、而落馬、亦被打籠、供御酒肴、〈御台日本、螺鈿、関白所設、〉第五番、〈左府生武重、右番長貞安
注1
注、〉件番勝負不明、仍召標勅使問之、申云、右御馬頸勝者、所申無衆望、太為奇、被問勅使、依実申所不被用、未得其意、不可被用者更不可被問者也、人々所思可申持由歟、自余番々不記、(中略)到外記座結番進十番了、及黄昏左右籌指趨入勝負不慥、関白云、左勝者、(『小右記』略本「万寿元年九月」条、三三頁)
藤原実資は、六番以降の勝負を記さないことを示しつつも、「到外記座結番進十番了」(外記の座に到り番を結ぶ、十番を進め了んぬ)と、十番で勝負が終わったことを記している。『栄花物語』には、「なまよろしきをりのだに、乗人も馬もいみじういどみてとみにやは出づる」(ちょっとした晴れの日でさえ、
乗人も馬もたいそう高揚してすぐには走り出さないというのに、今回の競べ馬ではなおさらである)と、一九日の高陽院での催しの盛大さを描写していることから、番数を大目に描いた疑いがある。
乗尻たちは、『小右記』によると、左方が左近衛府、右方が右近衛府と分かれており、年中行事に合わせたと考えられる。
この競べ馬は、最終的に左方が勝利したとするが、勝敗を数える籌 かず指 さし(籌刺)が走り去ってしまったことにより実資自身は見逃し、頼通から尋ね聞いた情報であることも『小右記』には見える。この後も、騎射や宴が行なわれ、『栄花物語』の、年中行事に準ずる藤原氏摂関家主催の競べ馬として描く姿勢が見られる。
へりき。(『栄花物語』「暮まつほし」巻、三一八頁) 女房などいみじう装束きて、それ過ぎて内裏に入らせたま 殿の駒競とて行幸ありき。女院も渡らせたまふ。殿の宮の 『栄花物語』巻第三四「暮まつほし」に描かれている。 は、後朱雀天皇が、頼通の競べ馬に合わせて行幸した時の話で、 河院にて行なわれたものが見える。特に、長久三年九月二一日 同年九月二一日に高陽院にて、永承六年(一〇五一)九月に白 『史料綜覧』から探るに、長久三年(一〇四二)五月二七日と で(一〇四〇─一〇五五)に、競べ馬は行なわれたのだろうか。 禖子内親王が見聞きした可能性のある長久年間から天喜三年ま にして養女にあたる。「六条斎院禖子内親王物語歌合」以前で、 「六条斎院禖子内親王物語歌合」の禖子内親王は、頼通の孫
「殿の宮の女房など」と、祐子内親王、および禖子内親王のの条件から、競べ馬が描かれる物語として、『うつほ物語』の また、「逢坂越えぬ権中納言」以前の作り物語とする。これら なうために、比較的話の長いものとして作り物語に限定する。 べ馬を描写したことによる、展開の変化が見られるか判断を行 では、物語における競べ馬ではどうだろうか。ここでは、競 響から濃いものではなかった可能性がある。 れて競い合うとはいえ、対立構造という意識は、そういった影 ものとしての役割が大きいことが挙げられる。左右方人で分か せて行なった競べ馬であるため、天皇や親王たちを楽しませる さらに、万寿元年九月一九日の例で言えば、行幸・行啓に合わ 基本的に、近衛府の六位以下の官人たちが乗尻を担当している。 一つには、競べ馬における方人、乗尻の身分が挙げられる。 ろうか。 的に描写をしている。なぜ、競べ馬の様子は重視されないのだ である。『栄花物語』でも、高陽院のすばらしさについて重点 一九日の競べ馬を記した『小右記』における記述は、顕著な例 なかったことによる影響が大きい。先ほど見た、万寿元年九月 れは、書き記した者が重要だと思うものが、競べ馬の様子では 公卿たちの儀式的な準備・入場の方に重きが置かれている。こ 記録における競べ馬の描写は、競べ馬を行なうまでの天皇や えよう。 王と競べ馬との関係は、頼通を通じて比較的身近なものだと言 四歳で、記憶に残っているとは言いがたい。しかし、禖子内親 物した可能性は高い。とはいうものの、当時禖子内親王はまだ 女房たちが着飾ったと記されていることから、禖子内親王が見
「祭の使」が、唯一挙げられる。
る 見るのに合わせて、同じことならばと競べ馬を行なうことにな として正頼が息子たちや婿たちを招き、所有している馬の脚を の邸の隆盛が描かれる巻の一つである。五月五日、端午の節会 春宮をはじめとした男性たちが求婚を行なっているなど、正頼 『うつほ物語』「祭の使」は、源正頼の娘、あて宮を巡って、
注注 注。かくて、御前近く、四町通りて、馬場、池のほとりにあり。御厩、西、東として、別当・預かり・寄人ども多くて、御馬ども、十づつ立てて飼はせ給ふ。「今日は、脚御覧ぜむ」とて、職事より始めて、乗尻、装束して、御馬、左、右と引かせて参りたり。おとど、「男ども、這ひ乗りて試みよ」とのたまふ。御婿ども、数のごとおはします。君達聞こえ給ふ、「この御馬ども、同じくは、手番にして比べばや」とのたまひて、一番に、式部卿の宮・右のおとど比べ給ふ。おとど勝ち給ふ。二番に、中務の親王・あるじのおとど、おとど勝ち給ふ。(中略)六番に、六の皇子、左大弁に勝ち給ふ。七番に、兵衛督・左衛門佐の君、督の君勝ち給ふ。八番に、兵衛佐・兵部少輔、佐勝つ。九番に、式部丞・侍従、侍従勝ち給ふ。十番に、大夫の君、右衛門尉に、君勝つ。(『うつほ物語』「祭の使」二〇七頁)
正頼の邸の馬場は、四町の中央を貫くような形で設けられている。馬場での催し物を意識したかのような設定であり、経済的な豊かさ、および正頼の趣味人の面も感じとれる。
左右に十頭ずつ用意された馬がいることと、十番までの勝負 結果が見えることから、十番勝負の競べ馬だとわかる。また、乗尻は、正頼の娘の婿たち、正頼本人、正頼の孫の皇子たち、正頼の息子たちという順でおおよそ組まれている。番数と名前、勝敗が書かれているものの、左右どちらの方人かは明確ではない。六番目と十番目に至っては、「誰が誰に勝つ」という形式で書かれており、左右の判別が難しい。競べ馬の後に、勝ち負けの舞などが見られない点から、正頼の発言通り、馬の脚と、正頼の親戚の騎乗能力を見るための競い合いだった可能性がある。加えて、このような人々が競べ馬に参加したということを具体的に示す、語り手の狙いも考えられるだろう。 この五月五日は、正頼の親戚たちによる競べ馬だけではなく、正頼の邸近くにある馬場から、真手番のために集まっていた左近衛府たちが合流したことにより、宵のころ、左近衛府と右近衛府による競べ馬が行なわれる。かくて、左、右の馬寮の御馬、左、右大将、頭にておはします、上達部・親王たち、方分きて比べ給ふ。左の乗尻は、左近将監より始めて、物の節まで、逸物を選び、右の乗尻は、右近将監まで選び、西、東、幄を打ちて、馬寮着き並みたり。御前松燈したること、埒より南に、御前に向きて、馬出しより馬とどめまで、隙なく、褐の衣着たる男ども燈したり。(中略)皆、乗り連ねて、埒より上る。札結ひて、皆引き立てて、左、右乱声して、勝ち負けに、楽の舞す。兵部丞、飾り馬に乗りて、埒に向きて、馬の毛申し給へり。こはてはなかつきて、右勝つ。乱声して、舞す。三つに出づる御馬、左勝つ。四つに、右勝つ。五つ、左勝つ。六つ、
右勝つ。七つ、左勝つ。八つ、右勝つ。九つ、左勝つ。勝ち負けして、数さし、後のことわりに、左にはまつりごと人近正、右には同じき松方、さる御馬どもに、ただ今の上手乗りて出で来、頭より始めて、大願を立て給ふ。御前までは等しく見えしを、右のとううちこめられて、左負け給ひぬ。(『うつほ物語』「祭の使」巻、二一〇~二一一頁)
こちらも、十番勝負ではあるが、先ほどの正頼の親族などによる競べ馬と比べて、勝ち負けの舞を行ない、馬の毛色を挙げるなど作法が細かく描かれている。公卿や殿上人たちを前にした左右近衛府、および馬寮が、本格的な競べ馬を披露しようと意識して行なったか、指示があった可能性も考えられる。
ただし、一番目と二番目の勝負が具体的に示されていないため、兵部丞の勝負が何番目かは不明だが、勝負結果が分かっている八組全体では左右引き分けであることがわかる。十番目の勝負は、トリとして最も詳細に描かれており、左右ともに馬乗りの上手が組まれたことが見える。方人たちが勝利の大願を立てていることから、九番まで左右引き分けであり、この勝負結果にかかっていると読めるだろうか。あるいは、左右どちらかが優勢であっても、馬乗りの上手同士として勝負をする描写とも考えられ、全体的な勝敗については判断がつかない。
また、始められた時刻が遅かったために、松明を褐の衣を着たる男ども(兵部の男たち)によって隙間なく灯す様子も見られる。実際に行われた競べ馬で見た、万寿元年九月一九日の競べ馬では、競べ馬の後に騎射が行われる予定だったが、日が暮 れてしまったため、中止とする指示が出されている。騎射は、馬に騎乗しながら的を射る競技であるため、馬に騎乗して馬場を走ることに比べると、照らす範囲や競技の鑑賞のしやすさに違いがあるのだろう。ただ、隙間なく灯すためには、それ相応の人数が必要となるため、灯りで浮かび上がる競べ馬の様子は、現実的とは言いがたい。それこそ、正頼の邸に人々が集まっていることを印象づける描写の可能性がある。 競べ馬の後に開かれた酒宴にて、正頼は、兄にあたる左大臣源季明から、季明の息子実忠をあて宮の婿候補に入れて欲しいという相談を受けて、五月五日のおおよその一連が終わる。実忠は、五月五日の間では一度も登場をしない。季明は、内裏にて正頼の邸での賑わいを耳にした朱雀帝に許可をもらって合流した客人であり、特に競べ馬の勝敗には関係しない立場である。そのほかに、競べ馬における勝者が、物語の展開に有利に働くということも見られない。以上の点から、『うつほ物語』における競べ馬は、勝敗を重視したものでも、勝敗による物語の展開を期待されたものでもないと考えられる。 あて宮を巡る様子を、賀茂の祭、端午の節会というように季節と絡めて描くために、競べ馬を用いた可能性もある。しかし、いるべきはずの殿上人や蔵人たちが内裏に一人もおらず、帝が臨席してもおかしくないほど賑やかな催しが行なわれた正頼の邸の描写から、正頼の邸に人々が集まることを印象的に演出するために、競べ馬が用いられたと言えないだろうか。朱雀帝が行幸しないのは、向かうために必要な殿上人たちの人数が足りないということだけに留まらず、この場面における中心的な存
在を、正頼と示すためでもあるだろう。
馬は、移動手段であり、日常生活という場に限らず、戦など軍事的な場面でも用いられるものである。競べ馬に用いられた二〇頭以上が、すべて正頼の邸の馬とは限らないが、持ちうる経済力・権威・人徳などを表現するのに、二つの競べ馬は描かれたのではないだろうか。
三 五
月の左右に分かれる競技
──「逢坂越えぬ権中納言」の根合わせ──
五月における、左右に分かれる競技として競べ馬を見てきたが、改めて「逢坂越えぬ権中納言」の根合わせと比較をしていきたい。
まず、「逢坂越えぬ権中納言」の成立に深い関係があると思われる開催時期について見ていく。競べ馬は、端午の節会の行事の一つとして、根合わせと同様五月に関係あるものと書いた。しかし、天皇の行幸に合わせて開催するなど、決して五月とは限らないものであった。
比べて、根合わせは、用いられる菖蒲により五月の印象がほぼ定まっていると言える。例えば、端午の節会に関連することとして、菖蒲を軒先に葺く慣習がある。『蜻蛉日記』では、この慣習について、五月五日に間に合うよう、夜の内に葺くことが良いとする考えが見られる
注1
注。明くれば、五日のあかつきに、せうとなる人、ほかより来て、「いづら、今日の菖蒲は、などかおそうはつかうまつる。夜しつるこそよけれ」など言ふに、おどろきて、菖蒲 ふくなれば、みな人も起きて、格子放ちなどすれば「しばし格子はなまゐりそ。たゆくかまへてせむ。御覧ぜむにもとてなりけり」など言へど、みな起きはてぬれば、事行ひてふかす。昨日の雲かへす風うち吹きたれば、あやめの香、はやうかがえて、いとをかし。(『蜻蛉日記』下巻「天延二年五月」条、三四三~三四四頁)
昼間に葺くのではなく、夜葺くことを勧められているのは、菖蒲を葺く作業風景を他人に見せないためだと考えられる。
また、「逢坂越えぬ権中納言」では、根合わせの翌日、想いを寄せる姫宮に文を送るため、菖蒲色もしくは菖蒲襲の色の紙を用いる場面がある。又の日、あやめもひきすぎぬれど、名残にや、さうぶの紙あまたひきかさねて、
きのふこそひきわびにしかあやめ草ふかきこひぢにお
りたちしまにと聞こえ給へれど、例のかひなさをおぼしなげくほどに、はかなく五月もすぎぬ。
(『堤中納言物語』「逢坂越えぬ権中納言」四四~四五頁)
語り手は、菖蒲の紙を用いたことについて、昨日の根合わせの名残ではないかと考えている。ただ、「あやめもひきすぎぬれど」に、菖蒲の根を引くことを菖蒲の日が過ぎてしまったことに掛けて、五月六日に菖蒲の紙を用いることへの例外性を表わしている。植物であることによる季節の限定以上に、当時の人々は、菖蒲と五月五日との結びつきをこだわったことがわかる。
次に、方人について見ていく。競べ馬の場合、天皇が主催、および行幸などにて臨席する際は、左右近衛府が乗尻(方人)を務める。『うつほ物語』の正頼の親戚たちによる競べ馬のように、私的な競べ馬の際は定まっていないと考えられる。そのほかの条件として、男性であることも挙げられる。
根合わせの場合、蔵人の頭が方人の頭、リーダーを務める様子が、永承六年五月五日の「内裏根合」と寛治七年五月五日の「郁芳門院媞子内親王根合」に見られる。どちらも天皇や上皇などが主催、および臨席する根合わせではあるが、決まりがあったかは明確ではない。
も、そういった点が関係しているのだろう。 きるのではないだろうか。内親王主催の根合わせが見られるの ため、御簾や几帳越しに方人として女性でも参加することがで す役割を、各番に組まれている方人が担うというわけではない 確に判断はできない。根合わせは、競べ合う菖蒲の根を差し出 ただし、方人であったのか、方人を応援する念人であったか明 さらに彼らを引き入れた、中宮付きの女房たちも可能性がある。 に参加したのは、権中納言や三位の中将といった人たちであり、 からして、私的で小規模な催しだったと考えられる。根合わせ あるが、天皇が臨席せず、開催二日前に方人を探している様子 「逢坂越えぬ権中納言」における根合わせは、中宮主催では
対立構造についてはどうだろうか。冒頭で書いたとおり、一対一で組まれた勝負を積み重ね、最終的に総合的な勝敗を見る遊戯および競技として、根合わせも競べ馬も共通している。
しかしながら、競べ馬は、対立し合う乗尻に着目するという よりも、『栄花物語』の藤原氏や『うつほ物語』の正頼といった主催者に着目する傾向が見られた。競べ馬を催すためには、馬場・馬・乗尻などの確保が欠かせない。それらの確保のためには、並大抵の人ではなく、経済力・地位・人徳を兼ね備えた存在である必要があったため、自ずと主催者を着目したのではないだろうか。 また、「逢坂越えぬ権中納言」において、一対一の対立構造下での、勝敗による人間関係、および物語の展開が見られるとするのは、『源氏物語』「絵合」巻の絵合わせの影響があってのこととも考えられる。一対一の勝負であるから対立構造が見込めるとは、一概には言えないことが、競べ馬を通してわかる。 以上の点から、「逢坂越えぬ権中納言」の根合わせが、競べ馬に置き換えられるとは言いがたい。しかし、禖子内親王と競べ馬がかけ離れた存在ではなかったため、競べ馬が選ばれる可能性はゼロではなかっただろう。 競べ馬では、天皇、および主催者の存在が印象的であっただけに、「逢坂越えぬ権中納言」の根合わせにおいて主催者中宮が、天皇に根合わせの開催を伝えなかったのか、疑問が浮上する。天皇がやってきたのは、権中納言と三位の中将が対戦する根合わせを耳にし、興味を抱いたためである。もしかすると、『源氏物語』「絵合」巻での冷泉帝と斎宮女御の関係のように、天皇にはもう一人妻がいて、寵愛を中宮に向けるために催されたのではないだろうか。 権中納言と三位の中将を引き入れたのは、中宮付きの女房たちである。