「日本におけるランバス・ファミリーの使命」 : その歴史と今日的意味を考える (第34回関西学院 史研究月例会)
著者 西垣 二一
雑誌名 関西学院史紀要
号 18
ページ 77‑88
発行年 2012‑03‑25
URL http://hdl.handle.net/10236/8950
ただいま神田先生から丁重なご紹介をいただきました西垣でございます︒ランバス先生について語るということでは︑山内先生が克明にいろいろな著作を出版しておられていますが︑私は学問的にはあまり調べたわけではありません︒ランバス先生が日本での四年間︑お父さんはもう少し長いですが︑ファミリーがお創りになった学校が五つありまして︑私はどういう巡り合わせか︑それら全部に関係してきたものですから︑ランバス先生のことについては︑なんとなく身近な先祖のような感じがしています︒
私は一九四七年に神戸栄光教会で洗礼を受けました︒ご存知のように神戸栄光教会は西日本の基地で︑関西学院を 生み出した教会でもあります︒それから教会に行ってしばらくしてパルモア学院を卒業しました︒パルモア学院は後で話しますが︑ランバス先生の住居からスタートした学校です︒そして関西学院学神学部で学んで︑神戸で二つの教会を牧会した後︑聖和大学で二十一年間働きました︒聖和も勿論ランバスの系列の学校で︑その間に啓明女学院で理事と評議員のお役をさせていただきました︒最後は七年間︑広島女学院で勤めました︒パルモア︑関西学院︑聖和︑啓明︑広島女学院とこの五つの学校がランバス・ファミリーによって始められた学校です︒この五校がリーグを結成しておりますが︑私はその全部で学んだりそこで仕事をした
﹁日本におけるランバス・ファミ リ ーの使命﹂
― その歴史と今日的意味を考える ―
西垣 二一 第
34回関西学院史研究月例会
︵二〇一一・一一・二五︶
りという関係がありますので︑実際面からランバス・ファミリーの後をたどったということになります︒その上にもう一つあります︒聖和大学の時代に一年間の留学の機会が与えられまして︑バンダビルト大学で学びました︒バンダビルト大学はご存知のように︑W・R・ランバス先生が神学・医学を学んだ大学で︑私は神学部で学位をいただいてまいりましたので︑その意味ではほんとうに近い先輩︑先祖というかそんな感じでおります︒そういう立場から気楽に︑事柄だけをとらえて︑山内先生の方で理論付けや︑ランバス先生の深い思想を紹介していただきますので︑表の事柄をなぞって行く形で少し話したいと思います︒
関西学院は︑W・R・ランバス先生が創設者でありますから非常に大切にしておりますが︑ランバス先生の位置付けというのは︑単に関西学院︑もう少し広げた瀬戸内地方だけではなくてアジア︑アフリカ︑南アメリカ︑ブラジルという辺りまで︑かなり広い視野を持って眺めることが︑ランバス先生の正当な評価につながるのではないかという意見を私は持っております︒
今日はその中の一つ︑広島女学院のケースを中心に紹介したいと思います︒広島女学院は関西学院より三つお姉さんです︒三年前の一八八六年に設立されています︒神戸 栄光教会と同年で︑今年一二五周年を迎えております︒神戸栄光教会は一八八六年の九月一七日を創立記念日としておりますが︑広島女学院はその年の一〇月一日を創立記念日としています︒パルモアは一八八六年一一月二六日を創立記念日としています︒関西学院はそれから三年後の一八八九年です︒ 先般一〇月に︑神戸栄光教会で音楽会をしました︒その時︑関西学院創立の発起人の一人としてランバス先生と名前を連ねておられます中村平三郎さんのお孫さんの中村健さんと曾孫の中村徹さんと︑親子でピアノ演奏をしていただいたのですが︑中村健さんがそのトークの中で半分冗談めいてこんな話をしておられました︒関西学院開設申請にあたり︑ランバス先生が県庁に設立願を持って行った時に︑当時︑外国人は日本の学校の校主になれないと言う規則があったそうです︒そこで一緒に行った中村さんが申請書にハンコを押したのです︒中村平三郎さんの捺印で申請書が受理されたそうです︒それで中村平三郎さんのご家庭では︑﹁関学はひょっとしたら中村家の所有になっていたのかもしれないなあ﹂︑という笑い話をなさっていました︒確かに関西学院の設立に際して︑設立者の一人として中村平三郎さんの名が書かれており︑ハンコも押しておられます︒
さて広島女学院創設の歴史の中には︑ランバスという名前はほとんど表には出てこないのです︒しかし広島女学院が開設された裏には︑ランバス先生のお働きがなければとうてい学校として存続できなかったであろうと思われる節々が︑沢山あります︒
広島女学院では︑砂本貞吉という日本人が創設者・第一代校長として学院の歴史に名前が残っています︒砂本は一八五六年生れでランバス先生の二つ下ですが︑彼は広島生まれの船乗りで︑欧米航路の船長になりたい︑大きな船に乗って世界を一周したいという思いをもって︑一八七四年︑当時やっと開けたばかりの函館にまいりまして︑そこからアメリカ行きの船に潜り込んだというか乗せてもらって︑働きながらアメリカに渡ったわけです︒広島から函館までどうして行ったのか知りませんが︑函館に来たアメリカ行きの船に潜り込んで︑ロンドンまで行って航海術を学んでくるというのが︑彼の野望でありましたが︑太平洋を航海している間に︑言葉の問題やら風習の違いやらいろいろあったのでしょう︑船中でトラブルを起こしまして︑船がサンフランシスコに着いた時に下船させられてしまったのです︒再び乗船することを禁止されて︑放り出されてしまったのです︒それでこれからサンフランシスコでどうし
広島女学院上流川町校地最初の校舎 1890(明治 23)年
ていくかと思案していた時に︑当時サンフランシスコの下町で救世軍に通っていた伊達某に誘われて救世軍の教会に行くようになりました︒やがて当時サンフランシスコの下町で伝道していた︑オーティス・ギブソンというアメリカ人牧師から誘われて︑彼から洗礼を受けました︒ギブソンは砂本貞吉に見どころがあると思ったのでしょうか︑彼の援助で砂本は学校に行くことができるようになり︑その末に神学校に行き︑そこを卒業して南メソヂズト教会の牧師になりました︒そのあたりの年月や歴史は資料が無く︑よく分りませんが︑彼は父が早く亡くなり︑広島にお母さんと弟たちがおりまして︑この者たちにどうしてもキリストのよき知らせを伝えたいという思いが大変強かったものですから︑教会に一年間休暇を申し出て︑一度日本に帰ることになりました︒一八八六年︑横浜に着くとすぐに︑当時横浜におりましたR・S・マクレーという宣教師に︑﹁自分は広島の出だけれども故郷に母や弟妹たちがいる︑帰ってぜひ彼らに伝道したい﹂ということを言いますと︑﹁ごく最近に西日本の神戸に南メソヂズト教会の基地ができた︒横浜よりもむしろ神戸に寄ってランバス先生にお願いしてみろ﹂ということになって︑マクレーから紹介状をもらって神戸に来たわけです︒マクレーは後に青山学院院長 になった人です︒ 一八八六年九月神戸では︑ランバス︵J・W・︶が一緒に来たO・A・デュークスと共に宣教方針を考えていたところでした︒神戸を中心にして南メソヂズト教会はどちらの方面に伝道するのかということを考えている時に︑砂本が横浜のマクレーの紹介状を持ってやって来て︑彼は広島に帰るというのです︒これは大変好都合だというので広島に伝道するということが決定されたのでした︒その決定に関する砂本の思い出として︑﹃広島女学院百拾年史﹄には︑次のように書かれています︒ちょっと読ませていただきます︒ ﹁神戸の居留地四十二番に住んで居られたランバス先生を訪ねて︑私は母を救ふために︑氏の援助を切に願ひました︒始めて会ふ日本人の信者︑而も英語を話すと云ふので大変喜んで会つてくださつたランバス先生は︑此処に於て︑﹁之はマケドニアン・コール︵マケドニア人の招き︶である﹂との霊感を受け︑自分の事を﹁あなたはパイロット︵水先案内︶だ﹂と呼ばれました︒既にその前︑青山学院長のマクレーさんがランバス先生に問題を提供して居られたのです︒即ち︑新伝道の開拓に﹁北︵北陸地方︶へ行くか︑瀬戸内へ行くか﹂との事でした︒ところが今︑自分の此の申
出を聞かれ︑之こそ使徒パウロの幻に等しきものだ︑﹁マケドニア人の招き﹂である︵註・使徒行伝十六章︶︒パウロがギリシヤに渡らうとして居た時︑夢にマケドニア人が現はれ︑⁝⁝云々﹂と︵﹃広島女学院百拾年史﹄八頁︶︒
こういうことでランバス老先生︵J・W・︶はとても喜びました︒この時に砂本は︑広島に帰ってすぐに親兄弟親戚を集めて用意ができたからすぐ来て欲しいとランバス先生に連絡して︑ランバス先生は広島にやって来られました︒そこで設立されたのが﹁広島流川教会﹂です︒広島流川教会はこういう形で発足した︑と広島女学院の歴史に書かれております︒それは一〇月です︒その後一一月二四日にランバス若先生︵W・R・︶が中国から神戸にやってきました︒神戸に着いたランバス先生は︑さっそく家を開放して図書室を開き︑それが先ほど言いましたようにパルモア学院になるわけです︒その開設式に砂本は招かれて﹁米国の観察﹂という話をしています︒砂本は︑もともと伝道をしたいと思って帰って来たわけで︑学校にはあまり興味がなかったようです︒それに加えて広島では既に学校らしき塾が二つあったのです︒一つは木原適処という人が始めた学校で︑もう一つは大阪のミッションスクール︵梅花女学校︶を出て広島に帰った女性︑杉江田鶴が始めた塾でした︒ 砂本がアメリカから帰って来て学校を始め︑しかもそこにアメリカ人が来るというので︑ぜひ自分たちも一緒にやろうじゃないかというかたちで︑この二つが広島女学院に入って来たのです︒ところが学校を創った砂本自身は︑学校教育でなく伝道がしたいのであって︑ランバス先生にこの学校を継ぐ人を探してもらいたいと願いました︒そこでランバス先生はアメリカの南メソヂズトの機関紙︵﹁アドボケイト﹂だと思いますが︶に︑早速手紙を書いて﹁日本で日本人の学校の責任者になる人を求めている︑ぜひ来て欲しい﹂という広告を出したのです︒なかなか反応がなかったのですが︑そのうちにナニー・B・ゲーンズが︑私のようなものでもよかったら使ってくださいと申し出たのです︒ 実はナニー・B・ゲーンズがランバス先生の呼びかけに応える元になった秘話があります︒それはゲーンズがまだケンタッキーの高等学校の頃︑自分のクラスの友達が︑ある結婚式に招かれて大変感銘を受けた話をゲーンズにしました︒その花嫁は大学を卒業してすぐに結婚しました︒その相手がなんと中国へ行く宣教師で︑結婚式の後すぐに中国に向って出発したのだと言うのです︒この話を学校で聞いたナニー・ゲーンスは﹁ああ︑そんな決心をする方もいるのか﹂と思ったでしょうが︑その話は間もなく忘れてし
まいました︒でもランバス先生が日本で宣教師を求めているということ知った時︑﹁そうだ! ランバス先生の奥さんになったデイジー・ケリーさん︑それが自分のクラスメイトが話していたその当人だった﹂ということ思い出して︑彼女は決心してランバス先生﹁こんな私でもお役にたつでしょうか?﹂と宣教師応募の手紙を書き︑夏休みの途中でしたが︑﹁すぐに日本に﹂という電報をシカゴで受け取って︑家にも帰らずにそのままサンフランシスコに向かい︑日本にやって来たのです︒そして一八八七年九月に神戸に着きますと︑神戸ではランバス一家とその他の宣教師たちが会議をしていたのを中止して︑神戸の波止場まで彼女を出迎えに行き︑その会議が終わるやすぐに広島に向って出発したのです︒ランバス先生は家族を連れてゲーンズに付き添って広島へ行きました︒
一八八〇年代頃の広島は︑太田川のデルタの上に築かれた町で︑健康上︑あるいは天候上︑住む場所としてはいろいろな不便や危険がありました︒その当時の広島市史を読みますと︑一八〇〇年代の後半は︑ほとんど毎年のように太田川流域でコレラが発生しています︒コレラが発生してこの村は閉鎖とか︑あの村は全部立ち退きとか︑次の年にはデルタの下流の方で流行るとか︑そういう記録が広島市 史に書かれています︒そこへアメリカから来た若い二十七歳の女性が独りで住むわけですから︑ランバス先生たちは非常に心配したのでしょう︒ですからランバス先生は奥さんと子供を連れて広島へ一緒に行ったのです︒そして広島での生活を見届けてからランバス先生は神戸に戻ってきました︒ ゲーンズが広島で学校を運営し始めたのですが︑先にも言いましたように︑その学校は砂本が始めた時は︑純粋なミッションスクールではなくて︑地元の有力者たちが創っていた塾との寄り合い所帯でした︒そこへ二十七歳の日本語も分らない女性が来て校長になってもうまくいく筈がありません︒案の定︑彼女は次の年の三月︑学校を閉鎖してしまいました︒立ち行かなくなり︑一緒にやっていた人が辞めて教師も集まらないし︑もちろん生徒も集まらない︒それで学校を翌年の三月に閉鎖してしまいました︒そして彼女は︑恐らく非常に深い悲しみと失敗と挫折感に苛まれて︑神戸に来てランバス先生の家で︑四月から九月まで五ヶ月間過ごしています︒その間に彼女は何をしていたのでしょうか? ここから先は私の推測ですけれど︑その頃神戸に︑アメリカ人女性の教育家で︑アニー・ハウが︑頌栄保姆伝習所
を創設していました︒ハウはご存知のように︑日本にフレーベル教育を導入した第一人者です︒ゲーンズは一八八七年九月に神戸に到着しましたが︑ハウはその次の船で十二月に来ました︒ゲーンズが広島を引き上げて神戸でランバス先生の宅で休息していた同じ頃︑同じ居留地の一角に︑ハウも住んでいたのでした︒この五ヶ月の間に︑二人の若いアメリカ人女性宣教師同士の間に︑交流がなかったとは絶対に思えません︒何らかの接触があり︑そしてお互いに日本でこれからどう働くかといった話もあったであろうと推測するのは極めて自然なことではないでしょうか? この接触に関する文献や資料を一生懸命探すのですが︑どうも私の力が足らないのか︑まだ見付けていません︒しかしこの推測を裏付ける有力な歴史的事実があります︒
その年の九月︑ゲーンズは力を回復して広島へ帰ります︒そして再び広島女学院の門を開けたのです︒それから︑年表に書いていますように︑一八八九年に幼稚園を始めました︒ところがその園舎が台風で倒れ︑再建した園舎が再び一〇月には不審火で燃えました︒学校は再開しても次々と困難が降りかかるのですが︑それを乗り越えて彼女は幼稚園を軌道に乗せ頌栄保姆伝習所の助手であった甲賀フジと︑第一回卒業生の松浦しなを広島に招いて︑一八九一年に 広島女学院保母師範科を開設し︑幼児教育に大きな力を注いで行きました︒彼女は広島で働いている間︑六つの幼稚園を開設しました︒その六つとも今は立派な教会になっているのです︒現在関西学院中学部の宗教主事をしておられる福島旭先生は広島南部教会の牧師でしたが︑そこは﹁フレーザー幼稚園﹂というゲーンズが開設した立派な幼稚園があります︒神学部を卒業して広島に行ったきり腰を据えて伝道しておられる山根眞三牧師は広島西部教会の牧師ですが︑ここにも立派な幼稚園があります︒こういうかたちで︑ゲーンズのその後の働きは︑広島女学院を中心としてあちこちに幼稚園を創設して︑それらが全部教会になっています︒この基本的な変化が︑実は挫折して神戸で五ヶ月過している間に彼女の中に起った大きな変化であり︑そしてその変化の転換点はおそらくハウとの交流ではないかと私は思っております︒ ゲーンズの後を継いだのはマーガレット・M・クックです︒ここにも実はランバス先生が影の立役者です︒クックは宣教師志願の前に︑ランバス先生と盛んに文通しています︒クックが広島にやって来てゲーンズを助けます︒ハウが︑他の婦人宣教師と協力して日本で初めて幼稚園連合会︵J・K・U・︶を組織し︑その初代会長に就任した時︑
ハウを助けて書記をしたのがクックです︒後にそのクックが︑三代目の会長になります︒ところがメソジスト教会のボードの決定で︑広島女学院の保母師範科が︑大阪にあったランバス伝道女学校︵現在の聖和大学︶と合併することになり︑クックは学生を連れて広島から大阪へ移って来たわけです︒
今の聖和には三つのルーツがあります︒一つは組合教会が創設しました神戸女子神学校です︒これはお隣の神戸女学院から枝別れした学校ですが︑これが一番古いので聖和大学はその創設を年号として採っています︒そこへランバス先生のお母さんが創ったランバス伝道女学校と広島女学院の保母師範科が合併して︑この三つが聖和になっているわけです︒そして現在︑関西学院の教育学部になっています幼児教育の根は︑クックが広島でゲーンズの仕事を助けていた時にできた大きな幹の一つであります︒そういうようなことで︑ゲーンズとクック︑二人の背後にあるのがランバス先生です︒そういう関係をご理解いただければ︑広島との関係のあるものとしては大変嬉しいことです︒
当時のミッションボードというのは︑男性の働きを重んじましたけれども︑女性の働きはあまり省みられなかったようです︒ゲーンズが広島で六つの幼稚園をスタートさせ ているのに︑それに対するボードの金銭的援助はゼロでした︒広島女学院で働いた女性宣教師たちは︑自分たちのサラリーを貯めて︑それを注ぎだして幼稚園を創っていったのです︒やっとそれらがルートに乗るようになって︑ミッションボード︑つまり男性支配のボードがそれを自分たちの支配下に治めるようになったのです︒しかしながら︑メソヂズト教会の関係で見ますと︑婦人部︵ウイメンズ・ディビジョン︶というのは非常に強力です︒財布を握っているのは女性の方が多かったのでしょうか? 私が広島で働き始めてしばらくしてから︑世界でメソヂズト・ウイメンズ・ディビジョンのサポートで設立された学校による女性高等教育の会議が︑アリゾナ州のフェニックスで開かれました︒私も広島から参加したのですが︑世界の七ヶ国から十校が参加しました︒韓国︑中国︑フィリッピン︑インド︑パキスタン︑ブラジル︑日本で︑ブラジルからは三校が参加して︑フィリピンが二校でした︒日本からは広島だけでしたが︑女性の高等教育の重要性を中心にした︑とても意味のある会議でした︒そういう会議をメソヂズト・ウイメンズ・ディビジョンは継続してやっているということも︑ここで報告しておきたいことです︒
ゲーンズは︑日本政府から公的な表彰を三回受けていま
す︒広島では政府の表彰で天皇盃を戴いているのです︒大正の頃ですからこれは大変な名誉です︒ゲーンズは四十五年間広島で働きましたが︑その間母国に帰ったのはたった三回だけです︒一回は妹さんが怪我をしたのでその手当てに帰りました︒そして彼女は︑夏季休暇で宣教師がよく集まる野尻には︑殆ど出かけませんでした︒ひたすら広島で︑広島の人たちの教育のために働きました︒ですから彼女が亡くなった時には︑広島の人たちは非常に悲しんで︑当時は外国人の墓地は西日本には神戸にしかなかったのですが︑市の特別な許可で︑今では街の真ん中になっている比治山墓地という立派な墓地に葬ることが許可されたのです︒その比治山墓地には︑畳半畳ぐらいのお墓が沢山ある中に︑ゲーンズのお墓は︑この部屋の半分ぐらい︑十坪から十五坪程の広さがあるのです︒山の一角で市内を見下ろす展望の良い所に︑それだけの広い墓地を与えられているということは︑いかに広島でゲーンズが人々から尊敬されていたかということが︑よく分る証拠です︒広島女学院では︑毎年四月に新入生が入学して来るとその代表者たちを連れて墓参し︑そして卒業生代表者たちが二月の先生の命日に墓参することを続けております︒
関西学院大学の神学部の卒業生で︑現聖ルカ国際病院理 事長日野原重明先生のお父様である日野原善輔先生が︑大正一三年に神戸栄光教会で大きな赤レンガ造りの教会を建てた後︑昭和五年に広島女学院に院長として赴任されました︒当時のメソヂズト教会は監督制でしたから︑監督会議で決められて年会で発表されたらその通り動くわけですが︑その転任の背後には︑こういうストーリーもありました︒ゲーンズ先生を継いで砂本からいえば三代目の校長をしていたS・A・スチュワートという宣教師は︑とても優れた人格と知識をお持ちの方でしたが︑この方の奥様が病気になられ︑彼はその看病のために仕事を続けられなくなり︑広島女学院を辞めなければならなくなった時に︑自分の後は是非日野原先生に継いで欲しいと言われたのです︒というのもスチュワート先生は若かりし頃︑デューク大学の神学部をご卒業になっています︒スチュアート先生はデューク大学で︑日野原先生と同学年だったのです︒ですからスチュアート先生が辞める時に︑ぜひ日野原先生に継いで欲しいということで︑日野原先生は神戸での仕事を一つ完成した後だったので︑広島へ移られたのでした︒デューク大学というのは︑ここにおられる山内先生も留学なさってよくご存知ですが︑キャンパスの美しさはアメリカ中でも非常に有名な大学です︒日野原先生がデューク大学のことを
思い出して︑広島女学院を街の真ん中にあるところから郊外の立派なキャンパスに移そうと考え︑今では市内になっている廿日市という所に広大な土地を購入されました︒契約も成り立っていよいよ移転という時になって︑海軍から横槍が入りました︒というのは︑ご存知のように広島の丘陵地帯から海を見渡すと軍港のあった呉の港に入る船が全部丸見えです︒江田島に海軍兵学校があって︑其の向かいに呉の軍港があり︑それらを遠望できる広島の高台の上に︑耶蘇の学校が建つというのはけしからんということで︑契約も完了しているのに軍部の横槍でご破算になったのです︒それで日野原先生は非常に苦しまれて︑現在の広島女学院大学が存在する土地を買われたのです︒しかし︑その土地は昔に火葬場のあった所で︑広島の人たちはあんな所に大学ができて︑誰が娘をやるかという声もあったのですが︑そういう反対の声も全部聞いた上で︑日野原先生は決断して土地を購入し︑山の道場を建てられました︒原爆で広島の町は全滅しましたが︑山の校舎は大丈夫でしたから︑広島女学院は九月一日から︑戦後の広島で最初に学校を開くことができたのです︒何が神様の摂理で御心であるかは人間には良くわかりませんけれど︑このようなことが重なっているのが広島女学院であり︑その広島女学院を裏から支 えておられたのがランバス先生であるということを︑ここでご記憶いただければと幸いです︒
私はアメリカに行く機会がある度に︑引退されてピルグリム・プレイスに居られるブレイ先生やその他の先生方を訪問致しますが︑そのために車の便を提供して下さる私の親しい友達がいます︒その方の主な関心はアフリカのナイジェリアの教会です︒メソヂズト教会はナイジェリアでも多くの教会を設立しました︒その方の車で行く途中︑クレアモント神学校に寄って行きます︒クレアモントの神学校にアフリカ系の学生がたくさん学んでいることに驚きました︒これもランバス先生のアフリカ伝道に際して︑アフリカの土地の人を助手や牧師にして︑コンゴを始め︑あちこちに伝道された足跡の影響が︑今も残っている証拠だと私は受け取っております︒数年前︑ブラジルのサンパウロで世界メソヂズト大会が開かれ︑私は北村宗次先生と一緒に行きました︒サンパウロをはじめブラジル全体に︑メソヂズト教会は大きな力を持っています︒ですから︑世界のメソヂズト大会を開く力があるのです︒あれもこれもジョン・ウエスレーの墓碑にあるようにWorld is my parish﹁世界は私の教区である﹂という大きな伝道の精神の上で︑その精神を引継いでいるランバスの精神というのが︑この
関西学院のなかにも流れているということを確認しながら前進していくことが︑二一世紀の私たちランバス・ファミリーの使命ではないかと思います︒駆け足で雑駁な話でしたが︑時間がありませんので︑あと山内先生に補って頂ければ幸いです︒ご静聴ありがとうございました︒
1840年 中国アヘン戦争︒1853年 黒船来航︒1854年 日米和親条約締結︒1857年 下田条約︒1860年 リンカーン大統領に当選︒1861年 4月
1863年 1862年リンカーンによる奴隷解放宣言︒ 12日南北戦争勃発︒ 11月 1865年4月 1865年4月9日南北戦争終結︒ 19 日ゲッテイスバーグ演説︒
()1868年神戸他の5港と開港︒ 14日リンカーン暗殺︒ ⅠJ・W・ランバス︵1830〜1892︶同時代のア
メリカ 1854年 中国伝道へ︒
11月 1869年W・R・ランバス︑眼病と喉の治療のため単身アメリ 1864年一家四人再び中国へ︒ 1863年妹ジャネット召天︑妹ノラ誕生︒ 1861年両親と一緒にパールリバーに帰国︒ 1859年母メアリー︑妹ジャネット︑アメリカへ帰国︒ 1857年妹ジャネット誕生︒ 10 日W・R・ランバス誕生︒
カへ向かう︒激しい船酔いのため横浜で下船︒約1ケ 月半の休養後︑テネシー州レバノン・ハイスクール入学︒1872年 バージニア州エモリー・アンド・ヘンリーカレッジ入学︒1875年 バンダビルト大学入学︑神学及び医学を修める︒1876年 南メソジスト監督教会テネッシィー年会所属︑ウッド
バイン教会初代牧師に任命さる︒1877年 バンダビルト大学卒業︒デイジー・ケリーと結婚︑中 国へ︒1879年 長男デヴィッド誕生︒1880年 デイジー夫人健康悪化のため︑ウォルターの両親と共 に帰国︒1882年 MDの学位を取得後︑ロンドン・エヂンバラなどで医 学研修︒1883年 デイジー夫人と長男の健康回復のため長崎で静養︒1884年 長男の病状悪化︒蘇州より北京へ移住︒病院開設に尽力︒1885年 長女メアリー誕生︒父と連名で辞任願い出を提出︒1886年 米国南メソジスト教会日本宣教部開設︑総理に任命さ る︒7月
25日老ランバス到着︒
11月 24日若ランバス神 戸に到着︒居留地
1887年山2番館へ転居︒老ランバス︑ゲーンズを助け広島女 42番館にて活動開始︒
学院の基礎固め︒ Ⅱ 献身とその活動
1856年︵安3︶ 砂本貞吉広島に生まれる︒1858年︵安5︶ 日米修好通商条約締結︒1870年︵明3︶ 築地のA6番女学校︑横浜のギダー塾開設︒1871年︵明4︶ 岩倉使節団訪欧米︒1872年︵明5︶ 学制公布︒小学校就学率男子
40%︑女子
1874年︵明7︶砂本貞吉︑航海術学習を意図してロンドンに 1873年︵明6︶キリスト教解禁︒ 15%︒ 向かう︒船中のトラブルが元でサンフランシ スコで下船︒伊達某に連れられて救世軍の集 会へ出席︒1881年︵明
14 ︶5月7日砂本貞吉︑オーティス・ギブソンか ら受洗︒3年間神学校に通い南メソジスト教 会牧師となる︵正確な年月不詳)︒1886年︵明
19 ︶9月砂本貞吉帰国︒横浜でマクレー︵後の青 山学院院長︶訪問︒ランバスへの紹介状をも らい神戸のランバスを訪問︒広島応援を依頼︒ 9月
17日南メソジスト教会日本宣教部開所︑ 神戸中央教会︵現神戸栄光教会︶創立︒老ラ ンバス︑鈴木惣太広島訪問︒
10月1日広島女学会創設︒校長・砂本貞吉︒
11月
24日若ランバス神戸到着︒読書館開館︒ 開館式で砂本講話︒
11月
26日パルモア学院創設︒砂本貞吉︑伝道 に集中したいために学校の責任者を米国から 招くことをランバスに要請︒ランバスはその 要求に応えて南メソジスト教会の機関紙に日 本の女子学校で働く教師の募集を掲載︒それ
を読んでナニー・ゲーンズが応募︒ Ⅲ 広島女学院開設の歴史
学生時代にランバス夫人の結婚式の話を聞い ていた︒1887年︵明
20 ︶9月ゲーンズ神戸に到着︒すぐ広島へ︒若ラ ンバス一家広島へ同道︒私立広島高等女学校 設立認可︒1889年︵明
22 ︶4月ゲーンズ︑神戸に引き上げる︒ 9月ゲーンズ広島に戻り校長に就任︒1891年︵明
24 ︶9月台風のため校舎倒壊︒直ちに再建︒
1892年︵明 10月不審火にて全焼︑直ちに再建着手︒ 1904年︵明 25 ︶幼稚園認可︒翌年小学校認可 37 ︶マーガレット・クック着任︑順調な発展︒ 以後︑広島女学院は幼稚園・保育所を6校創 設︒保母師範科はランバス女学院に吸収合併︒ クックも聖和へ移籍︒