国家公務員法違反事件鑑定意見書
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(2) 横浜国際経済法学第 19 巻第1号(2010 年9月). する争点を多く抱えるものであるが、批判の多い猿払事件最高裁判決を簡単な 理由付けのみをもって踏襲し、日本国憲法の通説もしくは有力説群の解釈と 異なる結論を導いた本件一審の判断(東京地判平成 20 年 9 月 19 日判例集未登載) に危惧を覚えるものである。そこでここに、憲法学を専攻する一研究者(横浜 国立大学教授)の立場から、鑑定意見書を提出するものである。. 2.表現の自由とその司法審査 日本国憲法 21 条 1 項は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自 由は、これを保障する」として、表現の自由を保障する。表現の自由は、自由 で民主主義的な社会を支える最も基本的な人権、 「代表民主政の政治過程に不 可欠な権利」2)であるが、その分、規制がちらつかされるだけで萎縮的効果 3) も大きく、ひとたび侵害が生じれば、統治プロセスによる修復が困難であるデ リケートな権利である 4)。このため、これを侵害する法令や政府行為について は、政治部門任せでは足らず、多数派による少数意見の排除と自己の絶対化を 図る目的ではないかとの違憲の疑いをもった、慎重で厳密な司法審査が必要で ある 5)。また、表現活動は、政治的場面以外でも、その討議の中で、真理を発 見し、誤りを排除する効用を有するので、その自由は高い水準で保たれる必要 がある。なおかつ、その 13 条で「個人の尊重」を謳う日本国憲法は、各人が その個性を発揮し、それを外部に示すことに高い価値を認めるものと思われる。 日本国憲法が自由主義と個人主義を重要な価値とする意味からも、非政治的言 論であっても、重要な人権として厚い保護を受けるべきものと考えられる 6)。 そこで、有力な学説の殆どは、憲法 21 条に抵触する事案においては、当該 法令や政府行為が「やむにやまれぬ(非常に重要な)目的」を有し、それを達 成する「必要最小限度の手段」が法定されなければならず、そうであることを 権利侵害側が立証できなければ憲法違反と考えるべきであるという厳格審査基 準という司法審査基準 7)を採るべきであるとしてきた。このほか、表現の自 90.
(3) 国家公務員法違反事件鑑定意見書. 由侵害の場面では、煽動事例では「明白かつ現在の危険」基準、刑罰法規が適 用される場面では LRA の基準などの合憲性判断テストが用いられるべきこと が展開されたほか、 「事前抑制禁止の原則」 、 「曖昧漠然ゆえ無効の法理」 、 「過 度に広汎ゆえ無効の法理」の 3 つの文面審査の場面があることも指摘してきた のである。 但し、学説の中には、政治的表現と非政治的表現、あるいは非営利的表現と 営利的表現を分割し、以上の法理は前者にのみ適用できるとする者もある 8)。 非政治的表現もしくは営利的表現は、民主主義的価値を有しないので、表現と しての価値が低く、司法審査基準としても、 「重要な目的」とその目的と「実 質的関連性を有する手段」を合憲のために要求する中間審査基準(厳格な合理 性の基準)でよいとするのである。また、表現内容に中立的な、時・場所・態. 様規制(表現内容中立規制)についても、政府が特定の思想や表現類型を規制 する意図が薄いので、表現の自由の核心を侵害する危険が少ないと考え、中間 審査基準で十分とする見解もある 9)。 しかし、表現の価値は、民主主義との関係だけでなく、上述のように、真理 発見を「思想の自由市場」に委ねるべきとする自由主義、個性の発露を尊重す る個人主義にも支えられるものであり、純粋に学問的・芸術的あるいは全くの プライベートな表現であるからといって価値を貶めるものではなく、公権力が その価値の優劣を認定することが許されないものである。表現内容中立規制に よっても、規制されるのは表現行為そのものである以上、その規制が必要最小 限であるか否かは厳しく審査されるべきである。表現内容中立規制の姿をして も、実際には特定の思想や表現類型ばかりが規制されることはよくあることで あり、法律を執行する行政の側にその意図がなくても、少数者の言論に傾斜し て萎縮的効果を加える結果になることには注意すべきである 10)。よって、全 ての表現規制には厳格審査が及ぶとするのを適当とすべきであると考える。 だが、仮に、表現権規制の場面の一部に中間審査基準を妥当させようとする 学説を採ろうと、本件で問題となっている表現活動は、明らかに政治的言論で 91.
(4) 横浜国際経済法学第 19 巻第1号(2010 年9月). あるので、言論の性質・類型を理由として本件を中間審査基準の対象とするこ とはできない。また、本件は、政治的言論であるが故に、そして、その当事者 が公務員であるが故に規制されたものであるので、表現内容中立規制と呼べる ものではない 11)。よって、本法令、本件規制の合憲性は、厳格審査の下で審 査されるべきものと考えられる。厳格審査の下で検討されることを免れない。 そうでないということは、民主主義と自由主義と個人主義を否定するもので あって、到底認められないと言わざるを得ない。表現の自由や参政権が十分に 保障されている社会を自由で民主主義的な社会と呼ぶのであり、これが保障さ れないならば、日本は民主主義社会でないことになるからである。 加えて、意見者は、中間審査基準(厳格な合理性の基準)を加えて審査基準 を 3 つとする通説的見解には批判的である。実際、審査基準論を展開してきた アメリカ合衆国最高裁判所でも、中間審査基準は、性差別事例や非嫡出子差別 事例で言われた例外的なものであり、今日、両分野での用いられ方は、かなり 厳格審査に接近したものと言ってよく(逆に、厳格審査が「致命的」と言うほど ではなくなり、合理性の基準の下でも違憲判断が散見されるようになっている) 、当. 初と異なり、厳格度がかなり高まっている 12)。つまり、アメリカにおける中 間審査基準は、最早、 「中間」ではなく厳格審査に準ずる基準なのである。こ のように、司法審査基準とは、当該法令や政府の行為について、合憲性の推定 を及ぼすか否かを第一義とするものである。即ち、この点に関する立証責任が、 違憲の主張をする側にあるか、合憲の主張をする側にあるかが重要なのである。 ところが、日本での多くの学説が活用する中間審査基準はこの点を曖昧にして いるのであり、問題がある。立証責任を考慮しない訴訟理論はあり得ないと、 意見者は考えている 13)。また、民法 900 条四号但書の合憲性を例に、中間審 査基準では、現行の 6 カ月という再婚禁止期間は違憲となろうが、以前のドイ ツやフランスでみられた 300 日前後の再婚禁止期間を設けたら、子の父親の確 定という重要な目的に実質的関連性を有する手段であるので、これは違憲とは 言えないことになるであろうから、規制が厳しい方がかえって合憲となってし 92.
(5) 国家公務員法違反事件鑑定意見書. まうというパラドクスを抱えているのである 14)。このような基準は、法的判 断の場において不適切である。 日本の主要な学説は、同じ条項で保障されている人権であっても、場面毎に 司法審査基準が異なるということを主張する傾向にある。しかし、区別は難し い。例えば、政治的言論と非政治的言論を区別しようとしても、メッセージを 伴う商品広告や、あるべき安保防衛政策を訴えるポルノ映画など、具体的には 区別困難な表現が溢れている。表現内容に向けられた規制と、表現内容中立規 制の区別は一見明らかのように思えるが、風致地区での看板の色規制や、背景 色を短時間に点滅させる手法(通称パカパカ)の制限、心理学的に計算し直し た「耳障りな」音の抑制など、果たして表現内容規制か内容中立規制か判断し かねる、判断者によって判断の分かれる事例は少なくない 15)。この点は、経 済的自由についての、内在的(自由国家的、警察的)規制と政策的(社会国家的、 外在的)規制との区別でも、後述の森林法違憲判決を見れば明らかなように、. 事情は同じなのである 16)。困難な区別を行わず、 「二重の基準」論 17)の原則に 立ち戻り、1 つの人権には 1 つの司法審査基準を対応させ、基本的には、厳格 審査基準か合理性の基準(目的・手段とも、何らかの合理性があれば合憲とする司 法審査基準。立証責任は違憲を主張する側にあり、そのためには全くの不合理であ ることを証明する必要がある)かの何れかを振り分ければよかったのである. 18). 。. にも拘わらず、多くの学説は、人権侵害に対する憲法判断の場面での司法審 査基準の多くで中間審査基準を活用している。表現の自由について、非政治的 表現、表現内容中立規制について活用するほか、社会権についてこの基準が妥 当するという主張は多く、更に、経済的自由の内在的規制についてこれが妥 当するとの見解は通説である 19)。憲法 14 条 1 項後段列挙事由のうち、 「性別」 や「社会的身分」による差別の事例では、この基準が適用されるべきだとする 見解もまだ有力に残っている 20)。だが、振り返ってみれば、学説が司法審査 基準論を展開してきたのは、何よりも、重要な人権について、民主主義国家に とって司法権に望まれる手厚い保護を求めることが目的であった筈である。し 93.
(6) 横浜国際経済法学第 19 巻第1号(2010 年9月). かし、多くの学説は、人権の重みよりも規制手段や事象の細かい違いに拘り、 権利の「性質、規制の目的・態様・程度などを総合的に考慮」21)するという 名の下に、審査基準を上下させ、その結果、大半の部分を「中間」領域に押し 込めたものである 22)。このため、およそ、 「二重の基準」論というネーミング とはかけ離れた学説ができ上がったのである。また、この「上げ下げ」は、原 則に沿えば、解釈者(あるいは裁判官)にとって不都合な結果が予測されるが 故に行われることを考えれば、経済的自由の内在的制約に用いられる中間審査 基準と、表現内容中立規制で用いられる中間審査基準とでは、実際の基準の程 度が逆転する矛盾を孕んでいる。これでは、司法審査基準で第一義的に考慮さ れているのは人権の種類や条文ではなく、規制手段なのである。中間審査基準 の下では、どのような目的が「重要」か、規制手段が「実質的関連性」を有し ていると言えるかについて、まさに実質的判断が解釈者に求められる。だが、 このことは、恣意的な解釈、時の多数者の「常識(気分)」に流されるものと なる危険が大きい 23)。そして、本来あるべき、重要な人権の保護は、とても 裁判所で図られることはなくなるであろう。このため、意見者は、問題の多い 中間審査基準は一般に用いるべきではなく、 「二重の基準」論の原則に立ち帰っ て、人権の種類・条文により厳格審査と合理性の基準の何れかを適用するのが 適切であると主張してきている 24)。言うまでもなく、表現の自由の規制につ いては、厳格審査が妥当すべきものである。 この点、一審判決は、 「表現の自由、とりわけ政治的意見表明の自由が、基 本的人権の中でも特に優越的地位に立つとしても、そのため、これを制約する 法律等の合憲性審査に際し、直ちに弁護人が主張するような厳格な審査基準が 採用されなければならないことにはならない」と判示した。しかし、一審判決 の 否定 し た 見解 は、高橋和之(明治大学教授、東京大学名誉教授、日本公法学会 理事長) 、佐々木弘通(東北大学教授)各氏のもので、有力説と言うべきもので. ある。高橋和之教授は、 上述の中間審査基準を「通常審査」と呼び、 従来の「二 重の基準」論とも一線を画し、厳格審査や合理性の基準が妥当する場面は例外 94.
(7) 国家公務員法違反事件鑑定意見書. であるとの論を展開し、意見者にとっては理論的に相容れない主張を展開して いる 25)。しかし、その高橋教授ですら、政治的表現の規制については、例外 的に厳格審査が妥当すると述べている 26)のであり、この点に異論を唱える憲 法学者は極めて稀であると断じてよい。佐々木弘通教授は、近時、表現の自由 の規制の事案において、 裁判所は、 「実践的には『適用上』憲法判断を重視せよ」 と述べている 27)。この立場は、表現の自由の規制において、文面審査が第一、 適用審査による法令違憲が第二で、適用違憲は例外とする意見者の立場と対立 するものであるが、その 3 段階のレベルの審査をクリアしなければ合憲(これ も、 後述の通り、 厳密には 「本件適用の限りでは違憲ではない」というべきものである). 判決はない 28)という点や、厳格審査の下での違憲判断が表現の自由の領域で こそ求められる 29)という点などで意見者と一致する。また、その主張が現在 の日本の判例状況を踏まえた、あくまでも実践的な主張とすれば、意見者にも 理解できる範囲のものである(だからこそ、本意見書も、文面違憲の主張にとど まらず、3 段階のレベルで議論を展開している) 。この点でも、学説はほぼ一致し. ていると考えられる。両教授のこれらの主張は、本件適用の限りで、憲法学界 ではごく当然の見解である。一審判決は、これら一般的な学問的成果を「傾聴 に値するものであることは否定できない」としながら、実際には、これらを一 顧だにせず、国家公務員の政治活動「のもたらす弊害の防止を目的として、規 制するにすぎないのであるから、表現の自由に対する抑制の効果も間接的、付 随的でその程度も軽い」として、本件の先例とは言えない戸別訪問全面禁止合 憲判決(最判昭和 56 年 6 月 15 日刑集 35 巻 4 号 205 頁)を 引用 し て、 「合理的関 連性の基準」が採用できると結論付けているのである。このような主張をする 有力な憲法学説を意見者は知らず、根拠が希薄である。表現の自由は民主主義 社会で最も重要な権利であるが、これに相応しい審査を裁判所に憲法が求める のは当然である。 また、一審判決は、本件規制を間接的・付随的規制と述べているが、これは 正当ではない。間接的・付随的規制とは、当該法令が表現の自由を規制する目 95.
(8) 横浜国際経済法学第 19 巻第1号(2010 年9月). 的で制定されているわけではないが、結果として表現行為を規制するような場 合を、一般的には指す。判決の当否は兎も角、器物損壊罪が象徴的表現にも及 ぶ と き(例 え ば、福岡高那覇支判平成 7 年 10 月 26 日判時 1555 号 140 頁)な ど が 該当しよう。しかし、国家公務員法 102 条は「公務員の中立性」維持の目的の ため、 「政治的行為」(勿論、ここには表現行為が入ることは理の当然であり、構成 要件上入らないとすれば、そもそも処罰はできない)を規制するものであり、直. 接的規制である。また、仮にこれが間接的・付随的規制であるとしても、こ れを根拠に司法審査基準や合憲性判断基準を緩める香城敏麿判事(当時)の主 張 30)は早々に斥けられている 31)。直接的か間接的・付随的かの区別が実際に は困難であり(恣意的な区別がなされる危険もある)、人権の側ではなく専ら規 制側の視点で理論構成されたものだ、などの批判がこれにはなされている。ま た、直接的か間接的・付随的かに拘わらず、当該規制が表現行為を規制する以 上、憲法の眼から見れば、それは表現の自由の制約にほかならず、間接的・付 随的規制であるが故に司法審査基準を緩和すべき等の主張は適当ではないであ ろう。 表現の自由など精神的自由は、参政権や憲法 14 条 1 項後段列挙事由による 差別を受けない権利と並んで、多数派により侵害されやすく、かつ、あるいは だからこそ、自由で民主的な社会にとって特に重要な人権であると思えるが、 これらの人権とも異なり、 一度それを規制する立法がなされ、 過剰なサンクショ ンが科されたとき、萎縮的効果が強く生じ、将来に向けても重大な人権抑圧状 況が発生するという弊害を有している。このため、学説は、このような点に着 目し、アメリカ合衆国最高裁判所の判例を紹介しつつ、表現の自由が修復し難 く侵害されている法令を裁判所が当該事件の中で発見したときは、当該事件の 当事者の憲法判断を求める当事者適格や、憲法判断を得ることによって得る法 的利益を超えて、当該法令を憲法違反と判断すること(文面審査)ができると 主張している 32)。このように、事件の事実関係を審査するまでもなく当該法 令に憲法判断を加えるということは、日本国憲法上の「司法」が、当該事件に 96.
(9) 国家公務員法違反事件鑑定意見書. 法を適用し権利義務の存否を決する国家作用であるなどとされる原則を踏まえ れば、憲法解釈上生じる例外的なことと考えざるを得ない。このため、殆どの 学説は、文面審査ができる場面は、表現の自由について、事前抑制禁止の原則 33). ( 「検閲」の絶対的禁止を含む) 、過度に広汎ゆえ無効の法理、曖昧漠然ゆえ無. 効の法理の 3 つと考えているのである(以上のことを精神的自由一般に広げると しても、限られたケースに限定されることはやむを得ないところである) 。. ところで、本件の被告の行為は、ビラの運搬と配達にとどまり、日本国憲法 の保障する「表現」には該当しないのではないかとの異論もあり得るので、こ の点にも、若干ではあるが、言及したい。 表現の自由は、近代市民革命以来、その核心が、国王などの権力者を批判す る言論を行う自由の確保のためにあることは言うまでもない。しかし、 「秘密」 をその保障の核とする「通信」については、通常、受信者が特定少数(一般的 には 1 名)であるのと対照的に、 「自由」を要素とする「表現」の受信者は不. 特定多数であるものと考えられる 34)。そして、その情報の受領者は、情報受 領により知見を得て、更なる思考の高みを得るのである。このため、単に事実 を伝達する報道のような行為であっても、表現としての価値を有すると考える べきである。このように、表現の自由の保障は、情報発信のみならず、情報伝 達、情報受領の自由を含むと考えるのが今や一般的である 35)。 本件でも、ビラ配布 36)は、憲法 21 条の表現の自由により保護される行為で あり、その規制は上述の厳格審査などにより審査されねばならないものである。 加えて述べれば、ビラ配布は、現在でもなお、一般的な表現活動である。ビ ラ配布は、マス・メディアによって意見を発信できない市井の市民が、安価に できる表現手段と言える。インターネット時代においても、パソコンを所有せ ず、あるいはブログなどの意見公表の手法を獲得していない多くの者にとって は、なおも意見表明の手段としての有効性は失われていない。また、インター ネット上の意見は、読まれるためには積極的なアクセスを必要とするが、郵便 受けに配布されるビラは比較的受動的に目に留まるという違いがあり、イン 97.
(10) 横浜国際経済法学第 19 巻第1号(2010 年9月). ターネットによって代替できるものでもない。2009 年総選挙におけるマニフェ ストの配布は記憶に新しい。個人的な経験としても、 意見者の自宅のメールボッ ク ス(集合住宅 オート ロック 玄関横)に は、自民党、民主党、公明党、共産党、 社民党や諸派政党など、広い範囲のビラが数多く投入されていたものである。 確かに施設管理者の管理権や居住者のプライバシー権は重要であるが、居住者 の情報受領権を含む表現の自由との調整が必要である。猥褻的表現や暴力表現 などの場合は、 「囚われの聴衆」の保護が必要である 37)が、通常の政治的表現 の場合にこのような配慮は必要ない。自己の政治的主張に沿わない立看板を目 にし、同様なビラを処分する手間も、民主主義のコストと考えざるを得ない。 本件の場合、当該建物居住者が一致して全ての政党ビラを拒絶する意思を示し た形跡はなく、逆に、もしも「公務員の中立性」を厳格に解したとき、選挙に おいて投票先を決定する重要な要素として、政見放送、インターネットなどの 積極的にアクセスして得られる情報と並んで、配布ビラのような受動的に得ら れる情報は、一般人に比して重要な筈である。 なお、意見者は以前に、玄関がオートロックではなく、住居ドアに新聞受け がある形式の集合住宅に居住していたことがある。住居ドアの新聞受けには、 ときには政党ビラも少数あったが、何よりもいわゆるピンクビラや消費者金融 のビラが数多く投函され、宗教の勧誘がよくあったのを覚えている。これらの 行為者は、営業の自由や信教の自由を盾にしてか、検挙されたと聞かない。そ う考えると、本件は、政治的表現(最も保護されるべきか、表現の一類型として 勿論保護されるべきか、の何れか)狙い撃ちにした、まさに表現内容に基づく、. あるいは思想内容に基づく規制 38)であった疑いがある。同様のケースで、営 利的表現や宗教的表現が検挙されるのか、立証して戴きたいと思うものである。. 98.
(11) 国家公務員法違反事件鑑定意見書. 3.特別権力関係論もしくは特別な公法関係の理論に関して ところで、人権規制の場面で、公務員関係、国公立学生関係、在監関係、公 的な施設利用関係など、強制もしくは本人の意思(契約)により、一般的な、 国家と国民の関係とは異なる関係に入ったものについては、憲法の人権保障の 意味が変更されるという理論がある。特に、いわゆる特別権力関係理論の下で は、こういった関係に入った場合、人権の規制は通常より拡大が許容され、法 律の根拠が不要であり、事後の司法審査も必要ないとされた。これは、ドイツ 帝国憲法の理論が大日本帝国憲法の下で継受されたものであるが、基本的人権 尊重主義や法の支配に支えられた日本国憲法の立場とあまりにも相容れないも のである。 そこで、学説の中には、この理論を緩和し、現場の裁量や諸関係の自治を理 由に、一律に人権保障を排除するのではなく、類型毎にその緩和の内容と程度 を異ならせるという修正を施すべきであるという、一般に「特別な公法関係の 法理」と呼ばれる理論を提唱する者がある。しかし、何れにせよ、日本国憲法 の基本的人権保障を、法律上の関係から包括的に緩めるということは許されず、 そもそも、本人が同意すれば、天賦人権とも言われる基本的人権を放棄できる というのはおかしいという批判も有力である。この有力説によれば、特別権力 関係論的思考は、およそ日本国憲法の解釈として許されないこととなろう。東 京高等裁判所でも、このような法理論を採用できそうな場面で、これを用いず に判決を下した、東京都青年の家事件(東京高判平成 9 年 9 月 16 日判タ 986 号 206 頁)などがある. 39). 。. 公務員関係などについて、全く一般権力関係と同様に考えることは、例え ば、事務次官等のいわゆる高級官僚が職務時間中に政治活動を行うことの弊害 を考えても、無理がある。しかし、公務員関係や在学関係、在監関係、施設利 用関係など、公権力と特殊な関係に入る事情の異なるものを一括して「特別な 公法関係」と呼び、同一の法理を適用することもまた無理がある 40)。これら 99.
(12) 横浜国際経済法学第 19 巻第1号(2010 年9月). は、人権制約の目的・根拠として憲法上妥当な限りで、個別的検討において正 当化すべきものであろう。即ち、 「公務員の中立性」が何らの意味でも正当な 人権制約目的とならないわけではないが、当該人権制約の目的として、例えば 当該「公務員の中立性」が合憲的であり、これを達成するための合憲的手段が 法定されているかを、審査すればよいことになるのである。これにより、 「人 権総論」の一部として項目を立てて論じられてきた「特別な公法関係」の理論 は、当該人権を規制するにあたり、 「公務員の中立性」や「施設内の秩序」な どの目的が合憲であるか、また、そのために採られている手段が合憲であるか を、当該人権に適用される司法審査基準の下で検証すればよいことになるので あるから、 「二重の基準」論もしくは司法審査基準論に解消されるものである だけと考えられるのである 41)。 補足すれば、近年、規制緩和により、行政に属していたものが多く民営化さ れた。郵政事業は公社化の後に民営化され、再びそれが凍結されようとしてい る。これらのことは、 「公」と「私」の境界が曖昧であることを人々に認識さ せた 42)。同様の事業を継続しながら、公務員か民間団体の職員・従業員かと いうだけで、法規制の態様が異なることは一般に不合理であるとの意識を芽生 えさせた(典型的には、同じ列車の運行に携わりながら、日本国有鉄道の職員に争 議権がなかったが、民営化後の JR 各社の従業員にあるのは何故か、という疑問であ る) 。職務や裁量、当該行為のもたらす法益侵害の程度などにより、規制が合. 理化されればよいと考えられるようになっている。本件被告の職務が民営化可 能かどうかはさておき、専ら考えられるべきは、本件被告の当該行為が、いか なる意味で具体的にどのような法益を侵害しているか、そして、それを規制す ることが憲法上どこまで求められ、どこからが禁じられないか、であろう。 「公 務員の中立性」が一切規制理由にならないとは思えないが、そのような抽象的 観念による網羅的包括的な規制は正当化できない、というのは、今日の学説の ほぼ到達点であろう 43)。 このように考えると、 「特別な公法関係」は、上記、司法審査基準と合憲性 100.
(13) 国家公務員法違反事件鑑定意見書. 判断テストの枠組みの中に解消して考えるべきである。同じく「公務員の中立 性」を目的とする規制であっても、当該人権を規制すべき重要度をもっていな ければならないものである。このため、精神的自由の規制を伴うときは、 「公 務員の中立性」の目的が、具体的に、かつ、やむにやまれぬ程度まで高まって いなければならない。また、規制も、必要最小限度でなければならず、立法目 的から考えられる手段と、実際の法令の規制手段が一致していないときは違憲 と判断されなければならない。法令の一般的適用場面を考え、また、実際の事 案での適用がどうであったかを考え、それぞれに合憲性を検討せねばならない ものである。. 4.国家公務員法・人事院規則及びその本件への適用の合憲性の検証 (1)憲法判断の原則 日本国憲法下で司法権を担う裁判所は、裁判所は、当該事件の解決の限りで 法の適用を行うものである 44)。国内法体系は憲法を最上位として成立してい るため、 「上位法は下位法を破る」の公理により、憲法に反する法令及び法令 解釈を無効として、合憲的な法のみを適用して、事件の解決を行う、つまり適 用審査を原則とするものである 45)。事件の解決に必要でなければ、憲法判断 は行わないことが原則である。また、一般には、まず民主的に成立した法令の 合憲性を信用し、当該当事者を救済するのに必要な限りで、適用違憲あるいは 合憲限定解釈 46)を施し、いかなる適用事例を考えても、また、合理的に選択 できる解釈の全てが法文全体の合憲性を支えられない場合にのみ、法令を違憲 とすべきものでもある 47)。一般論としては、裁判所が事件を取り上げて裁く のに必要な事件争訟性の要件は、憲法判断を行う段階でも必要であり、憲法判 断を行うに足る当事者適格、訴えの利益、終局性を有していないときには、裁 判所は憲法判断をするべきではない 48)。 しかし、先に述べたように、表現の自由など精神的自由の侵害の場面では、 当該法令には合憲性の推定は及ばず、萎縮的な法文の排除が必要となるため、 101.
(14) 横浜国際経済法学第 19 巻第1号(2010 年9月). まず文面審査を行い、文面上合憲であるとしても、当該事案への適用審査の中 で、規制がおよそ広汎であるとか処罰が重いとか文言の解釈がほぼ一律になさ れ得ないなどの理由で、法令違憲の判断を行い得る 49)。そして、法文そのも のは合憲であるとしても、当該事案に適用することが、やむにやまれぬ目的を 有しないか最小限度の手段を超えているときには、適用違憲の判断を行うべき である(適用上も違憲ではないときは「本件適用の限りでは違憲ではない」と判示 すべきであり、憲法裁判所ではない司法裁判所が「合憲」の判断を下すことはでき 50). ない) 。このため、 換言すれば、 裁判所はこの場面での憲法判断回避はできず、. 憲法判断に踏み込むことが必須となるのである 51)。 憲法判断として法令審査、特に合憲との判断をもって当該事案も合憲の適用 がなされたと判示する傾向にあるが、憲法裁判所ではない、日本国憲法下で司 法権を担う裁判所は、当該事件の解決の限りで憲法判断を含む法の適用を行う ものであるため、仮に法令審査の結果、当該法令が法令としては憲法違反では ないとされても、適用審査を必要とするものである 52)。この点は、一般論で あるから、表現の自由が争点となっている事件でも同様である。 本件一審判決は、国家公務員法を合憲とした後、適用違憲の主張を十分に検 討していない。確かに、我が国の最高裁判所は、法令の適用を違憲とする判断 をまず行ってこなかった。一審判決も、このことを踏襲しているものと推測で きる。しかし、上述のように、 「司法権」であるならば、表現の自由や参政権 などの規制においては最後に、経済的自由の規制の場面では最初に、適用違憲 の可能性が、事件事実に即して検討されなければならない。日本の裁判所の違 憲審査権は「司法権」の一部として行使されるものであり、ドイツなどの憲法 裁判所のそれとは異なるのである 53)。この点、裁判所にも誤解があり、憲法 研究者側も強調が足りなかった面もあるので、ここで強調するものである。 なお、違憲審査権とは、 「司法権」の行使の中で、 「上位法は下位法を破る」 という公理を示す一つであるから、例えば、国内法化された条約も、国内法の 効力としては憲法に敗れ、 また、 法律は国内法化された条約に敗れる関係にあっ 102.
(15) 国家公務員法違反事件鑑定意見書. て、裁判所はこれを宣言せねばならないことになる 54)。このため、本件でも、 国家公務員法が国際人権規約に反しないか、そもそも国際人権規約が憲法に反 しないかについて、国内法的効力については判示すべきである。一審判決はこ れを適切に認めるものであるが、その検討は十分ではない。しかし、本件で結 論を左右するものは憲法と法律の関係であるので、意見書は深追いしない。. (2)文面違憲の疑い 表現の自由の侵害が問題となっている本件では、裁判所は、よって、まず、 当該法令が文面違憲であるかどうか、次に、当該法令を当該事案に適用してみ たとき、およそ法令違憲とならないかどうか、そして、適用審査の中で本件適 用については違憲ではないか、の判断を順次示すべきこととなろう。 まず、国家公務員法 102 条は、公務員の中立性を規制目的とするものと斟酌 できるが、規制手段としては、この目的のために、基本的に全ての公務員につ いて、およそ全ての政治活動を禁じたものである。このことだけでも、憲法 21 条の要請に反する、過度に広汎な規制であるとの疑いが濃い 55)。 多少具体的に思慮してみても、国家公務員には様々な者があり、行政の範囲 が広範であるのに伴って様々な職種がある。規制法益が、表現の自由である以 上、規制対象者、規制行為、規制の時・場所・態様などについて法令は細かく 定め、しかもそれが合憲的目的を達成するために必要最小限のものでなければ ならない筈である。同様の条件にあるべき者や行為などが、一方は免責され、 一方は処罰されるような規定であってもならないのである。この種の欠陥が、 法令の文面を読むだけで明らかであるならば、裁判所は、文面違憲を宣言し、 当該法令を無効とし、当該事件に適用しない判断を行わなければならない。 これに対し、文面上規制が過度に広汎でありながら、運用により緩和すると いう方法もあるという反論もあろうが、このような運用は恣意的な結果を産む 危険が大きく、表現の自由の規制であってはならない萎縮的効果を最大限にす るものであるから、全く妥当ではない。本規制についても、官公労系労組の活 103.
(16) 横浜国際経済法学第 19 巻第1号(2010 年9月). 動を取り締まる一方、高級官僚の在職中の立候補に向けての活動を見逃す効用 を有していたことは、よく知られたことであった 56)。時代の空気や政権交代 により、これが逆転する恐れもある。これらは、政治的優勢の側が劣勢の側の 表現活動を理不尽に奪うものであって、到底見逃すことはできない。現実には、 特定の思想信条そのものの規制となりかねないのである。だが、この是正を政 治プロセスに全て委ねることは、だからこそ難しいのである。言論規制立法の 文言が、目的・手段共に厳密に最小限の規制にとどまっていることを審査する ことは、非民主的機関とも表現される裁判所のまさに民主的役割であろう。ま ずは、本法文を違憲であると宣言すべきだと考えるものである 57)。. (3)適用審査における法令違憲の疑い だが、仮に、本法文は、文面違憲と言うほどの曖昧さや過度な広汎性は有し ていない、文面違憲の判断は法文の規制が明らかに広汎・曖昧であるときに限 られるべきである、との反論もあると思われるので、適用審査についても検討 する。まず、本事案への適用をして、改めて、本法条そのものが憲法違反なの ではないかという疑問が生じる。 日本政治について官僚支配が言われた頃は、本省の課長が実質的な政策を 練っているような印象もないではなかったが、1960 年代中頃には国家予算の 作成についても自民党幹部主導が強まる 58)など、既に政治主導は始まってい たと考えられる。その後、これは強まり、現在では、事務次官会議が廃止され、 事務次官が廃止されるか事務方のトップとしての意味を失うかが議論される段 階まで進んでいるのである。まして、管理職でない公務員が一定の政治的見解 を官庁内部で主張しても、行政組織が上命下達の組織である以上、大いなる限 界があるほか、外部にこれを主張しても、それが当該省庁の揺るがない見解で あると信じ、これに反対する意見や投票における意思の表示を国民が控えるよ うな状況には、今やないのである。一審判決は、 「被告人が厚生労働省本省の 総括課長補佐として管理職に準ずる地位にあったこと、職務内容も政策の企画 104.
(17) 国家公務員法違反事件鑑定意見書. 立案の基礎資料を収集するなどといったものであった」との事実認定を行って いるが、仮にこれを前提としても、どのようにしてその地位を利用して政治的 影響力を行使できるのか不明である。意見者は、国立大学の教員であるが、事 務職の相当上位の者しか大学の運営に影響力を行使しうる立場にないことが実 感であるし、裁判所、検察庁に置き換えてもそれが実感ではないかと思われる。 まして、一審判決は、被告を「管理職に準ずる地位」としており、管理職とも 認識していない。その政治的権力行使は、数多の管理職によって管理・制約さ れる立場にあり、一審認定の前提すら危ういものである。 「公務員の中立性」がやむにやまれぬ目的であり、1948 年の国家公務員法制 定当初は、エリートであった国家公務員の、政治的に未熟であった国民に対す る政治的影響力を畏れて、同法がこのような規制を国家公務員に施すことに合 理性があったとしても、今日では規制手段として必要最小限度を超えており、 違憲と考えるべきである。もしも、今なお、政策決定に深く関与できる身分の 者があるという反論があっても、それは少なくとも課長補佐程度ではないこと は明らかである。本件で問題となっている法令が表現の自由の規制立法である ため、これを法令違憲と判示するべきであると考えられる。 一審判決は、 「公務員の具体的な職種・職務権限等に応じて規制の在り方に 差異を設けるべきとの主張については、公務員の職種等が複雑で多岐にわたっ ていることを勘案すれば、立法技術上多大な困難が伴う」と指摘する。しかし なお、表現権を規制する立法には、憲法上、そのような厳格な区分を求めざる を得ない。また、もしも、このような立法がおよそ不可能なのであれば、公務 員のプライベートな時間帯での公務を伴わない政治活動を禁止しなければ済む のである。 この点、 前述の猿払事件最高裁判決多数意見は、 「公務員の中立性」について、 官僚組織一体となった一糸乱れぬ中立性を求めたかに読める。また、いわゆ る 寺西判事補事件最高裁決定(最大決平成 10 年 12 月 1 日民集 52 巻 9 号 1761 頁) 多数意見も、裁判官組織に同様の要求を行ったものと理解される。しかし、何 105.
(18) 横浜国際経済法学第 19 巻第1号(2010 年9月). れにも複数の裁判官による反対意見があり、憲法学説の多くは何れの多数意見 にも批判的である。 公務員が政治的に中立でならなければならないのは、民主主義国家において、 国民の信託を受けた国会等の政治部門が、国の基本的な政策決定を行い、非選 出部門の行政各部は、究極的には国会の指名により構成される内閣の指揮命令 に服し、民主的に決定された政策を効果的に実施するためである。公務員も、 一国民として、思想良心の自由を有しながらも、一度公務に就いた以上は、国 家機関の一部として、以上の任務に邁進することが求められるからである。こ のことは、日本国憲法 99 条が、国民一般ではなく、公務員に憲法尊重擁護義 務を課していることと表裏一体のものである。 「公務員の中立性」が必要なの は、ひとえに公務においては中立で、個人的な信条を滑り込ませてはならない ことを言うものであり、プライベートな部分での意見表明を制限する必要はな い。一見プライベートな生活にも当該公務員の裁量的職権をのぞかせ、市民・ 経済生活等に圧力をかける者があるとすれば、これを処罰の対象とすれば十分 である。実際に刑法の収賄罪などは、同様の考え方によっていると思われる。 また、猿払事件最高裁判決多数意見が構想し、本件一審判決が「有機体的統 一体」と呼ぶ、官僚組織一体となった一糸乱れぬ中立性は、非現実的で非民主 的なものである 59)。仮に、このような状態を出現させねばならないとすれば、 官僚組織は、誰かの命令により、異論を挟むことは許されぬ形で運営されなけ ればならないことになる。このような組織は、先進的な自由民主主義社会で現 実に想定することはできないか、またあるとすれば許されるものではない。中 立性とは、様々な意見を有するものが意見を出し、議論を経て結論を引き出す、 多元的価値観を保障する中で生まれるべきものである。その意味では、寺西判 事補事件最高裁決定での少数意見の側に見るべきものがある。もし仮に、公務 員組織に一糸乱れぬ上命下達のシステム化がなされているのだとすれば、非政 治部門の全員もしくは 1 名(或いはせいぜい数名の合議体。これらは本来、政治 任用であるべきであり、政権交代によってその地位を退くように制度設計されるこ 106.
(19) 国家公務員法違反事件鑑定意見書. とが合理的である)を除く全員が機械的業務に従事するべき者となる筈であり、. その意見表明に何らの影響力も与えさせない筈であるから、公務員の職種等の 区別なく、これらの大半の公務員に政治的中立を求める意味はなく、国家公務 員法 102 条は基本的な目的を失い、違憲となるべきものである 60)。 「公務員の中立性」のためには、中立的な業務の遂行が保たれることが肝要 である。プライベートな時間帯では一切政治活動は行わなくとも、職務上の決 定にその政治的主張を滑り込ませることこそが法益の侵害である。しかし、国 家公務員法の規制はほぼ逆になっているのであり、不合理の誹りを免れまい。 以上のように、具体的事案を踏まえて考えると、国家公務員法 102 条には規制 目的と規制手段の間には齟齬がある。また、 「公務員の中立性」に関する何れ の想定に従うにせよにせよ、同条は相当の限定を付して立法せねばならなかっ たものであり、憲法 21 条の表現の自由の保障に照らして規制があまりに広汎 であるのであるから、法令違憲と言わざるを得ないものである。 以上のことは、あえて、一審判決の述べる「合理的関連性の基準」に従うと しても、妥当することである(なお念のためであるが、表現の自由の規制立法に この基準が妥当するとする有力学説は皆無である) 。最高裁判所は、財産権規制に. ついてすら、当該法令の合理性を実質的に審査し、共有林の持ち分が 50% ず つの場合に分割が実は不可能であった森林法について、立法事実や具体的適用 場面まで検討して、その不合理さを指摘し、違憲と判示するなどしている(最 大判昭和 62 年 4 月 22 日民集 41 巻 3 号 408 頁)のであり、ましてや表現の自由の. 侵害の場面でも、法令の目的が重要であるか、手段が目的との間に実質的関連 性を有しているかの検討が必要である筈である。本件について考えた場合、こ の基準によっても、目的に伴う手段が用意されているとは思われず、上述の通 り、本件法令、もしくはその適用は合理的関連性が欠けると思われる。一審判 決は、 「公務員の政治的行為を自由に放任した場合」 、 「結局は行政の能率的で 安定した運営が阻害されるおそれが生じるというのも、合理的な因果の流れと して具体的に想定できる」としているが、これは、公務員が組織をあげて、民 107.
(20) 横浜国際経済法学第 19 巻第1号(2010 年9月). 主的コントロールに反する抵抗を行うような場面を指すものであり、本件事案 とは大きく異なる。また、単なる「おそれ」を理由に表現の自由を規制するこ とは、まさに萎縮的効果を表現の自由に与えることにほかならず、学説の否定 するところである。一審判決は「その公務員の職種・職務権限、勤務時間の内 外、国の施設の利用等の事情は、 」 「国公法 102 条 1 項の目的を害する点で差異 をもたらすものではない」と断じているが、最高裁判所の言う「合理的関連性 の基準」は、このような一刀両断的なものではない。より具体的に、事案に即 して、規制が合理的かを審査するものである筈である。 加えて、同条項違反は同法 110 条 1 項により、 「3 年以下の懲役又は百万円 以下の罰金」が予定されている。 表現行為が違法であるとしても、これまで述べてきたような「表現の自由の 優越的地位」のため、それに与えられる処罰の程度は、処罰によって当該行 為を抑止できる最低限度でなければならない。一般に「より制限的でない他に 選択し得る手段」があるときは、それを選択せねばならないものとして法理と なっている(LRA の基準)61)。この点は、 経済的自由を法益とする法令において、 これを保護するために行政罰か刑罰かが、基本的に立法裁量に委ねられている こととも異なるのである。一審判決は、 「行政の中立的運営」という「国民全 体の共同利益を損なう行為に出る公務員に対する制裁として刑罰を用いるか否 かは、この共同利益を擁護する見地からの立法政策の問題」だとしているが、 その主張は一般的には妥当であっても、表現の自由の規制の局面では不適当で ある。この LRA の基準によれば、ある違法な政治的表現があるとしても、公 務員が政治的表現を踏みとどまるのに、懲戒処分で全く十分であるときに、刑 罰をもって臨むことは過剰な処罰を予定しているものであり、憲法違反である と言わざるを得ないのである。刑罰と行政罰は次元が異なるとしても、一般に 公務員の公務時間外の政治活動が懲役刑や、高額の罰金を予定せねばならない 程度の犯罪とはおよそ考えられない 62)。加えて、もし同様の行為が同様の違法 性を有するなら、地方公務員法が罰則を置いていないことは不合理である 63)。 108.
(21) 国家公務員法違反事件鑑定意見書. このこともまた、本条項本号の合憲性を疑わしくするものである。これらの点 で、国家公務員法 110 条 1 項十九号の規定は違憲無効と考えられるべきである。 以上の何れかが適当であれば、被告を処罰する法令はなくなり、罪刑法定主義 の見地から、端的に無罪と判示されるべきものである。. (4)適用違憲の疑い しかし、国家公務員法 102 条を法令違憲とすることには疑問があるとの見解 もないではないと思われる。特に、本条を法令違憲とすれば、公務員のうちい わゆる高級官僚の政治活動までも自由にし 64)、あるいは公務員組合が勤務時 間中に職場で公然と組織的で威圧的な政治活動を繰り返すことなどを黙認し、 結果、民主的に選挙されていない者が事実上広汎な職務権限や影響力を行使し、 まさに「公務員の中立性」が求められる核心部分が融解してしまうことが今な お懸念される、というものであろう。このため、法令そのものは違憲とはせず、 法令の適用の合憲性のみを問題にすべきとの主張も考えられなくはない。 前述したように、官僚のトップについても、今日では果たして政治的影響力 があるかは疑問であり、ほぼ全ての公務員にほぼ一切の政治的表現を禁止する 国家公務員法は法令違憲との判断を免れないと思われるが、仮に、以上のよう な懸念を踏まえたとしても、本件で本法条違反が問われた被告は、厚生労働省 の課長補佐であり、事実上の政策決定に関与できないものであり、プライベー トな時間に公務員身分を公示することなく、即ち公務員としての威力や特権を 何ら行使しないで活動していたものである。そして、その主張が一般的にいか に影響力ある主張であったとしても、その主張を公務に反映できない状況にあ る。疑問の多い一審判決すら、 「統計調査の業務には、担当者の主観的判断が 入ることは比較的少ない」と述べるのなら、なおさらである。このため、たと え国家公務員法 102 条が法文としては違憲ではないとしても、本件被告に対す る適用は違憲と言うべきであると考えられる。表現の自由の規制場面であるか ら、もしも厚生労働省課長補佐には広汎な裁量があり、当該公務員の政治的主 109.
(22) 横浜国際経済法学第 19 巻第1号(2010 年9月). 張を盛り込むことが簡単にできる、というのであれば、本法上の合憲的適用に より被告有罪を主張する側にその立証責任があるものと言わざるを得ない。だ が、国の行う統計調査に担当者の主観が大いに紛れ込むということは前提とで きないし、あるとすれば、そのような行為を行政罰などの手法によって禁ずれ ば済むだけのものであるから、その立証は困難であろうと思われる。 ところで、国家公務員法 102 条違反事件として有名な猿払事件の被告は、村 落共同体内部では顔と身分が知られた存在であり、それを承知で、同村内で政 治活動を行い、政治的影響力を行使しようとしたと捉えられなくはない。しか し、本事件の被告は、自らが公務員であることを明示して表現活動を行ってい るものではなく、かつ、当人が公務員であることを知られている地域で表現活 動を行ったものでもない。即ち、当該表現活動に公務員であることを利用した 形跡が、一審判決の事実認定からは発見できないのである。これは、その概念 を相当拡張してみても、公務員の地位の利用や、公務員としての政治的主張に は該当しない。国家公務員法 102 条は、一律に政治活動を禁じている以上、そ の合憲限定解釈が困難であるとすれば、本件のような行為に本条を適用するこ とが違憲であると言うべきものである。 補足すれば、一審判決は、 「国民が行政の中立的運営に対して疑念、不信を 抱くなど、行政の中立的運営に対する国民の信頼が失われる事態に陥れば、行 政の能率的で安定した運営にも支障が生じる」などとして、 「公務員の中立性」 の要請を「国民の信頼」に置き換えて論じるが、疑問が多い。あくまでも、民 選でない公務員による公務が、国民代表によるコントロールの下にあることが 憲法の要請であって、公務員が一国民として憲法上の権利を平穏に行使するこ とは何ら問題のないことは前述の通りである。もし仮に、 「国民の信頼」が保 護法益だとしても、本件被告の行為が、いかなる意味で「国民の信頼」を傷つ けるものかは不明である。延いては、国民多数の意見と異なる見解を有する者 が公務員であることは許されないのと同等の結論を引き出すものであれば、そ れは憲法 19 条が思想良心の自由を保障するのに反する立場であり、採り得な 110.
(23) 国家公務員法違反事件鑑定意見書. いものである。 前述の LRA の基準は、法の適用の段階にも当然、及ぶものである。仮に、 公務員による違法な政治活動があるのだとしても、被告の行為は、プライベー トな時間における、公務員身分を公示することのない、ビラ配布であり、違法 性が高いとは思えない。このことはまず、刑罰を科すレベルの違法性に達して いるかすら疑問に思えるものである。表現の自由の規制である以上、被告の行 為を抑止する「より制限的でない他に選択し得る手段」が選択されねばならず、 行政罰で十分なときは、これを選択すべきものである。仮に憲法論に踏み込ま ずとも、刑罰法規の謙抑性に反する同条項は、極めて抑止的に適用されるべき だと言える。換言すれば、可罰的違法性があるかどうか微妙な事案であると思 われるのである。. 5.刑罰規定としての明確性など なお、国家公務員法 110 条 1 項十九号の規定は、表現行為規制立法であるの で、上述のように、曖昧・漠然な規定であれば文面違憲である 65)。また、刑 罰法規であるので、その条文は、通常の法令に比して、明確でなければならな いなどの要請がある。これは、刑法学が罪刑法定主義の要請として主張して きたことであるが、憲法の見地から見ても、憲法 31 条は、刑事手続法の法定 と適正のみならず、刑事実体法の法定と適正を要求するものとされている 66)。 人権を制限し、義務を付与する法令が、明確性を有すべきことは一般的である が、その中でも、人権制限として最大級のものであり、その中には生命すら奪 うものが含まれる刑罰法規については、特段の明確性等の要請があるのであり、 この意味で、憲法 31 条は刑事法に関する一般原則を定めたとするのが適切だ と思われる 67)。 何れにせよ、刑罰法規は、通常の法令に求められる以上の明確性等が要請さ れる。しかし、国家公務員法 110 条 1 項十九号の指示する同法 102 条 1 項は、 111.
(24) 横浜国際経済法学第 19 巻第1号(2010 年9月). その違反行為の内容を「人事院規則で定める政治的行為」とし、同法によって は内容が明確とはならない。また、委任立法のうち白紙(白地)委任のレベル に至っている疑いも濃い。刑罰の内容は、法律、もしくは同様に住民の民主的 代表による地方議会で制定された条例によって定めるべきものであり、構成要 件の核心部分を命令や規則に委任することは合憲性が疑わしいのである。何が 犯罪に該当するか、民主的代表の合議体がおよそ明示的な結論を示していない のである。 確かに、学説も、委任立法については、白紙委任では許されないが、それに 至らない程度は許容してきた感がないではなかった。しかし、農業委員会委員 が含まれているため町議会議員解職請求自体を無効とする決定を覆した昨年 の大法廷判決(最大判平成 21 年 11 月 18 日裁時 1496 号 1 頁)は、 「地自法 85 条 1 項は、専ら解職の投票に関する規定であり、これに基づき政令で定めることが できるのもその範囲に限られるものであって、解職の請求についてまで政令で 規定することを許容するものということはできない」のであるとした上で、 「本 件各規定は、地自法 85 条 1 項に基づき公選法 89 条 1 項本文を議員の解職請求 代表者の資格について準用し、公務員について解職請求代表者となることを禁 止している。これは,既に説示したとおり、地自法 85 条 1 項に基づく政令の 定めとして許される範囲を超えたものであって、その資格制限が請求手続にま で及ぼされる限りで無効」として、最高裁判所が委任立法の範囲を厳格に解す る姿勢を示している。委任された命令が、本体の法律の目的や予定される手段 を超えたとき、その部分は無効であるとしたものである。国家公務員法から人 事院規則への委任についても、憲法上許容される同法の目的を超えて、同規則 が細目を定めている感が否めない。上述の通り、刑罰法規であれば、その委任 の範囲の中で、合憲的に許容され、通常の法律解釈から当然に読み込める構成 要件の専門技術的に微妙な部分を定めるのが、命令や規則の限界であろう。そ の限界を超越した、人事院規則への委任という点でも、これに基づく処罰は、 法の支配の原則に反し、許されるものではない。ましてや、表現行為の規制で 112.
(25) 国家公務員法違反事件鑑定意見書. あることからも、許されるものとは考え難い。. 6.先例拘束性等について 本件一審判決は、 「下級審裁判所である当裁判所としては、公平性、法秩序 の安定性等の観点からも」として、猿払事件最高裁判決を引用し、被告有罪の 判断を導いているが、この引用には疑問がある 68)。そこで、裁判所による先 例の導き方について、若干、議論したい。 日本国憲法 76 条 3 項は、 「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職 権を行」うものとしているため、裁判官は、現在、目の前にある事案のみを無 垢な心で判断すればよいとするような見解もないではない。しかし、その結 果、全国の裁判所では、同様な事案でありながら結論が大きく異なるという、 合成の誤謬が発生し、法の適用の公平性が損なわれる結果になる 69)。そこで、 法を解釈適用する裁判官は、先例を尊重し、過去の同様な事案と比べて公平 な判断を行うことが要請され、一般に先例拘束性があるとされるものである 70). (doctrine of stare decisis). 。日本国憲法 76 条 1 項が司法権につき、最高裁判. 所の設置と、これを頂点とする下級裁判所組織の法定を求めるものであるから、 下級裁判所相互間の判決のずれは、最終的には最高裁判所によって統一する方 向で調整されることは、暗に予定されているものと考えられる。実際、裁判所 法 10 条三号は、最高裁判所が大法廷を開かなければならない場合の一つとし て、 「憲法その他の法令の解釈適用について、意見が前に最高裁判所のした裁 判に反するとき」を挙げている。この規定が憲法違反だとする見解は特に見当 たらない。先例の変更は、最高裁判所の一部の裁判官が小法廷ですることすら 許されていないのである。最高裁判所の先例が、最高裁判所を含む裁判所の、 同様の事件の判断に拘束力を有することは確かである。 しかし、先例拘束性とは、もともと英米法で誕生したものである(このため、 先例拘束性とは英米法特有の議論であり、大陸法的伝統を有する日本の裁判所には 113.
(26) 横浜国際経済法学第 19 巻第1号(2010 年9月). 相応しくないとの議論は確かにある。しかし、そうだとすれば、本件裁判所がそも そも猿払事件最高裁判決などに拘束される必要はなく、端的に違憲判断を行えばよ いものと思われる)が、単に、ある事件と何らかの関連を有する後の事件で、. 先の事件の上級裁判所の判断の大枠から一歩も踏み出してはならないという厳 しい法理ではない。イギリスでは、過去に、19 世紀中ごろから 1966 年に至る まで、上級裁判所の判例が下級のそれを絶対的に拘束するという、厳密な先例 拘束性が求められていた時代もあった 71)が、今日、このような意味での厳密 な先例拘束性は、アメリカでは採用されたことはなく 72)、現在では英米法国 の何れでも採用されてはいない。 判例として尊重されるのは、その判決の対象となった具体的な事件の解決 に必要かつ十分な範囲での法律問題の判断(ratio decidendi)であって、それ以 外の傍論部分ではないが、何を先例とするかは、後の裁判所の解釈によるも のである。イギリスで厳格な先例拘束性が認められていた時代でも、判例法が 硬直化していたわけではない。具体的紛争の解決に不可欠の法律問題のみが判 例として拘束力を有するということから、裁判所が、先例の基礎となった事実 関係と、今、現に直面している事件の事実関係とは同一ではないとする「区別 (distinguishing) 」により、判例法を発展させてきたのである. 73). 。アメリカでは、. 上級の裁判所の判例が変更される可能性がかなりあると考えて、下級の裁判所 が上級裁判所の判例と異なる判決を下すこともある 74)。何よりも、英米法で は司法権が具体的事件の解決に関わるものである以上、先例拘束力も、事件の 処理を本来的課題とするものでなければならないのである 75)。 以上のようなことを踏まえれば、本件裁判所が、猿払事件最高裁判決多数意 見に過剰に縛られる必要はない。まず、先例拘束性の法理は、誤った判例でも 変更してはならないという、厳密な先例拘束性の観念は最早含んではいない。 十分な理由を示すことにより、判例の誤りを指摘して、これに従わないことを 裁判所が宣言することは、裁判官が上級の裁判所ではなく、まず憲法と合憲的 法律に従うものであることから、むしろ当然である。猿払事件最高裁判決につ 114.
(27) 国家公務員法違反事件鑑定意見書. いては、その憲法判断に誤りがあったとするのが、憲法解釈の専門家集団の有 力な見解の大半を占めており、本件は、そこに踏み込んで、先例の誤りを指摘 すべき事案とも思える。 第二に、前述のように、本件と猿払事件では、事案を異にする。被告は、公 務員であることが通常知られていない地域で、公務員であることを公示するこ となく政治活動を行っており、公務員身分を利用していない。また、既に時代 が変わり、一般の公務員に政策的決定を行う裁量権は殆どなくなり、国家公務 員法 102 条の目的が色あせてきているのである。そこで、猿払事件最高裁判決 を誤りであると明言せずとも、 「区別」により、違憲の判断を行うことは十分 可能であり、勿論、そのことは法の解釈・執行の上で誤りではない 76)。 第三に、現在の最高裁判所は、精神的自由の分野でも、判例変更とまでは言 えないが、かなり判決の傾向を変えてきており、公務員の政治活動の自由の分 野の先例が、揺るぎないものであるかどうかは相当疑わしくなっている。公立 図書館職員によってその蔵書を廃棄された者が、憲法 19 条・21 条の利益を侵 害されたとして、慰謝料と国家賠償を求めた船橋市西図書館事件(最判平成 17 年 7 月 14 日民集 59 巻 6 号 1569 頁)でも、 「当該図書の著作者の上記人格的利益. を侵害するもの」として国家賠償請求を認める判断を行っている。また、男性 器などを含む写真集の再輸入の際に、関税定率法の定める輸入禁制品に当たる という通知の取消しを争った、第二次メイプルソープ写真集事件(最判平成 20 年 2 月 19 日民集 62 巻 2 号 445 頁)でも、最高裁判所は、写真集が写真家メイプ. ルソープの「写真芸術の全体像を概観するという芸術的観点から編集し、構成 したもの」であり、問題の写真も全 384 頁中 19 頁に過ぎないなどとして、通 知処分を違法とする判断を行った。何れの判決も、憲法判断に踏み込んだもの ではないが、憲法上の権利としての精神的自由の保障に配慮した判決である。 逆の判断は憲法上許されないであろうことを考えれば、合憲限定解釈か適用違 憲を判示したのと同じ効果を当事者及び法曹界に与えたものである。そして、 特に最近、大法廷は、公有地を宗教団体に無償で貸与し続けていることの合憲 115.
(28) 横浜国際経済法学第 19 巻第1号(2010 年9月). 性が争われた空知太訴訟(最大判平成 22 年 1 月 20 日裁時 1500 号1頁)で、端的 に憲法違反と判示している。精神的自由を軽視してきた判例を見直すことは、 現在の最高裁判所の意思であると思えるものである。 このほか、公立小学校の音楽専科の教諭が入学式の国歌斉唱の際のピアノ伴 奏を求める校長の職務命令に従わなかったことで戒告処分を受けたので、その 処分の取消しを求めた、 「君が代」ピアノ伴奏拒否事件(最判平成 19 年 2 月 27 日民集 61 巻 1 号 291 頁)でも、 「公的儀式の場で、公的機関が、参加者にその. 意思に反してでも一律に行動すべく強制すること」が憲法の保障する思想良心 の自由を侵害するので、伴奏の強制は憲法違反とならないかを検討すべきだと する反対意見が付された。また、暴走族構成員が広島市の管理する広場におい て無許可で集会を行い、中止・退去命令にも従わなかったために起訴された、 広島市暴走族追放条例事件(最判平成 19 年 9 月 18 日民集 61 巻 6 号 601 頁)でも、 条例を合憲限定解釈することなく、集会の自由を規制する文言の曖昧さなどか ら条例そのものを違憲無効とする反対意見が付されている。これらは、最高裁 判所が判例を変えたものではないが、精神的自由の分野の判例での近い将来の 変更を予測させる動きである。少なくとも、これまでのこの分野での先例が磐 石でないことは明らかである。 そして、選挙管理委員会が町議会議員解職請求者署名簿の代表者に農業委員 会委員が含まれているため、請求自体を無効とする決定に関して、これを覆 して判例変更をした、前述した昨年(平成 21 年)の大法廷判決は、注目に値す る。地方自治法 85 条 1 項は、公職選挙法 89 条 1 項本文所定の公務員は「普通 地方公共団体の議会の議員の解職請求代表者」となれないとしており、これを 受けて、農業委員会委員を名簿に含む村長及び村議会議員解職請求は無効とす る判例(最判昭和 29 年 5 月 28 日民集 8 巻 5 号 1014 頁)もあった。しかし、平成 21 年判決は、 「地自法は、議員の解職請求について、解職の請求と解職の投票 という二つの段階に区分して規定しているところ、同法 85 条 1 項は、公選法 中の普通地方公共団体の選挙に関する規定(以下「選挙関係規定」という。)を 116.
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いてもらう権利﹂に関するものである︒また︑多数意見は本件の争点を歪曲した︒というのは︑第一に︑多数意見は
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