近世山陵図抄(?)
著者 網干 善教
雑誌名 阡陵 : 関西大学博物館彙報
巻 31
ページ 4‑5
発行年 1995‑09‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/00024174
近世山 陵図抄
(I)江戸中期から幕末にかけて史跡をめぐる旅が 流行し、同時に皇陵墓の見聞記や絵図の書写が 行われた。ただ、描写された皇陵墓と現在宮内 庁治定の皇陵墓の間に相違するものもあるが、
その真偽は別として、記録や絵図から、それら の古墳の当時の様相を知るという意味で資料的 価値はあろう。
関西大学文学部考古学研究室にも『大和國山 陵圏」と題する皇陵絵図がある。これは写本と 思われるが「第一代神武天皇」からはじまって、
「第九十五代後醍醐天皇」及び 「末考」 4基と
「奈保山御陵碑考證」(元明陵函石)に至る彩色 の絵団が収められている。ここではそのうちの 若干を抄出して紹介したい。
(第六代 孝安天皇〕の陵として描かれてい るものは、現在、御所市所在の史跡宮山古墳(室 大墓)である。その特徴は東に「八幡」「拝殿」
があり、西向きの前方後円墳で、後円部の墳頂 に方形の垣躊が周らされ、その中央に方形の石 状のものがある。これは恐らく現在、後円部頂 上北側に露出する石材であろうか。「山頂上平、
東西十六間 (28.8m)、南北十八間 (32.7m)」と ある。そして後円部の高さは「山高9間1尺5 寸 (11.4m)」とある。地籍については「大和國 葛上郡室村、高八百八石四斗二、御領私領入組」
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車安陵として記載された室大墓
網 干 善 教
と記す。なお、注目すべきものに、この古墳の 後円部墳上近くに溝がめぐっていたらしい。絵 図に「此堀切廻五十一間、幅ー間、又二間深サ 二尺ヨリ五尺」とある。現状ではこの溝状のも のはみられないが、墳頂部の南側でやや段状に なった部分がある。
以上の如く、宮山古墳(室大墓)にはかつて 孝安天皇陵の伝承のあったことを知る。①
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仲哀陵として描かれた神功陵
(第十代 仲哀天皇〕として絵図には「神功 皇后御陵」の固を挙げている。そして地籍は「大 和國添下郡超昇寺村」とあるから、現在、宮内 庁治定の奈良市山陵町字宮ノ谷の「神功皇后狭 城盾列池上陵」を指すものと思われる。絵図に は北側に後円部が描かれ、墳頂を囲ん で垣をめぐらし、鳥居を建て北側に石 燈籠を置き「本ノママ 神功皇后御陵」
と記している。南側の山状の絵は前方 部を表わすものであろう。そして前方 部の南側と東西両側に周濠が描かれて いる。また、西側の周濠内には「島」
が があるとされる。
注目すべきは後円部頂で鳥居を配し た円形の垣購内に、長方形のものが主 軸にそって3ケ所描かれ、「石棺九尺
(約2.73m)」「横竺尺(約0.91m)」と 注記されている。これは石棺が 3基亜 んでいるのだろうか、それとも天井石、
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成務陵として描かれた古墳 若しくは蓋、身のようなものの存在を示してい
るのだろうか。
〔第十三代成務天皇〕として「大和國添下 郡西畑村、御代官大柴清右衛門支配下」「御陵高 石塚」が描かれているのは現在治定の「成務天 皇狭城盾列池後陵」であろうか。ただ絵医に「超 昇寺」とあり、茶色の線で曲尺のように直角に 曲る道路を示す線がある。『聖跡圏志
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の「添 下郡佐貴郷諸陵図」によると超昇寺から南に向 って道路があり、途中西に折れて、西畑村に至 る。そこの十字の交叉点に「弘法井」「二条茶店」とあるから、成務陵までの間にかなりの距離が ある。その間に「山上村」があるから位置的に 疑問はある。
それはともかく、
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この陵は明確に前方後円墳
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として描かれ、後円部頂上に「石棺」
が記されている。若し成務陵である とすると[扶桑略記jの康平6年
(1063) 5月13日条に「発遣山陵使。
是依去三月盗人撥池後山陵(成務)
掠奪賓物也。」とするのに該当するで あろう。なお「皇陵史稿
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によると 弘化元年 (1844) 9月に再度盗掘に あった際石棺の蓋石に亀甲文のあっ たことを指摘しているという。⑥そ うするとこの石棺は組合せ式長持形 石棺で、大阪津堂城山古墳や奈良御 所宮山古墳の石棺と同様に蓋石に彫 刻のあることを示唆する。〔第廿四代 顕宗天皇〕とする山陵絵図には
「大和國葛下郡平野村、本田能登守領地」と記 し、[御陵字石上」とする。絵函及び注記からみ ると、これは現在、香芝市平野にある塚穴山古 墳である。
・ 「奥行一丈五尺 (4.5m)、幅四尺八寸 (1.45 m)、高五尺七寸(1.73m)、石厚二尺五寸(0.76 m)、蓋石厚三尺(約0.91m)」とある。発掘調査 報告書の計測値は石櫛全長4.47m、玄室幅1.5 m、高さ1.762mとあるから、この寸法に近い。
顕宗陵を平野塚穴山古墳と想定した記述は元 禄12年(1699)刊の『山陵絵岡』や明治26年(1893) 刊の野渕竜潜『大和國古墳取調書」その他、「陵 之記」(年代不詳)などにもみられる。(未完)
(註)①
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秋山日出雄、網干善教『室大墓j奈良 県史跡天然記念物調査報告第18輯、昭
和34年
津久井清彰 「聖跡圏跡
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嘉永7年(安政元年)、遠藤鎮雄訳編
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史料天皇陵』昭和49年
藤井利章『天皇陵と御陵を知る事 典」平成2年
奈良県立橿原考古学研究所編[竜 田御坊古墳、付平野塚穴山古墳
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奈良県史跡名勝天然記念物調査報 告第32冊、昭和52年
② ③ ④
顕宗陵として措かれた平野塚穴山古墳
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