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著者 吉田 和男

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(1)

中英語詩Pearlにおける「慰め」について

著者 吉田 和男

雑誌名 主流

号 41

ページ 20‑38

発行年 1980‑03‑20

権利 同志社大学英文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014932

(2)

20 

中英語詩 P e a r l における「慰め」について

和 男

中英語詩 Pearlの冒頭p 登場人物「私」は深い悲しみに陥っている.

大切にしていた類まれな真珠, 王侯の心をも喜ばすほどの見事な真珠

〈Per1e,plesaunte to  prynces paye" [1J)1を,ある花園で失ってしま ったのである.真珠に対する luf‑daungere" (11)のために「私」の心 は乱れるばかりで,心の平和は「私」から全く消え失せてしまっている.

何物にも換え難いほど貴重な宝石真珠に象徴されるp 娘と覚しき最愛の女 児と死別した男の嘆き悲しむ姿がp まずはじめに提示されるのである.乱 れた心のまま,

r

私Jは激しい眠気( slepyng‑slajte" [59J)におそわ れ夢を見る.夢の中で一人の乙女( mayden" [162J)に出会った「私」

p この乙女こそ自分のなくした真珠だと思い,再会に狂喜する.心の平 安の基であったものが,今自分の自の前にある. ところが,乙女から返っ てきた言葉は,

r

私」とともに再会を喜ぶものではなかった.乙女は強く 諌める口調で言う.

. . if tou schal lose 

ty ioy  for  a gemme tat te watj lef

, 

Me tynk te put in a mad porpose

, 

And busyej te aboute a raysoun bref;  For tat tou lestej watj bot a rose  tat flowred and fayled as kyehyt gef. 

(3)

中英語詩Pearlにおける「慰めJについて Now tuq kynde of 

T

kyst tathyt con close  To a perle of prys hit  is  put in pref. 

21 

(265‑272) 

すなわちp そなたが心を労しているのは束の間の( bref")  ものp 咲い ては枯れるパラの花のようなものであった しかし,それは今「価高い真 珠」になっているのだp と言うのである. じかしp 頑冥な「私Jにはこの 乙女の言葉の真意が理解できない.それどころかp 失ったと思っていた真 珠を再び見出した喜びのあまりp 川を渡り乙女とともに住みたいと言い出 す (cf. 282‑288).そこで乙女はこの迷妄に陥っている「私」を正しい霊 的生活に導くためにp 説教を行うのである.本稿の目的は,夢の中に現わ れる乙女によって提供される霊魂の救済についての説教の内容を検討し,

更にこの説教の聴、き手となる登場人物「私」の霊的遍歴の過程に光を当て ることによりp 中英語詩 Pearlの性格を明らかにすることである.

乙女の説教は「私」の犯している間違いの指摘からはじまる.間違いは 三つあるとして,乙女はそれらをならべあげるのだが,その第ーのものは 次のように指摘される.

ρv

︐ ︑ 色

AU

向 し

v

m m  

p n   n p  

I v d  

m出

v d  

匂w

w Y  

3 a E  

U m  

hy

m m a    u c   o v d  

paB 

(295‑296) 

乙女はまず, 自に見えるものしか信じない「私」の態度を非難する.人間 の五官が味わい楽しむのは,まるでひと雫の露のように脆い地上的P 現世 的なものでありp そのような移ろい易いものに執着するのは3 愛 徳 (char‑ ity)と真向から対立する貧欲の罪 (avarice)にほかならないからである.

(4)

22  中英語詩rlにおける「慰め」について

貧欲とはこの世の事物に対する「度はずれた欲求と愛好J(inordinate  desire and love") 2であり,例えばチョーサー (GeoffreyChaucer)の

『カンタベリ物語』に登場する司祭 (Parson)はp その七大罪源と霊魂の 救済についての説教の中で,この貧欲の罪について次のように説明してい る.

. . . Avarice and . . . Coveitise

, 

of which synne seith Seint Paul that  the roote of  alle  harmes is  Coveitise."  Ad Thimotheum Sexto. /  . . . whan the herte of  a man is  confounded in itself and troubled

, 

and than the soule hath lost the confort of God

, 

thanne seketh he  an ydel solas of  worldly thynges. 

(Canterbury Tales

, 

X[IJ 739740)3 

すなわちp 貧欲の罪によって人の魂は神の慰めを喪失し,この世のむなし い慰めを求めることになるのである.乙女が開口一番指摘するように,

「私」の失った真珠はその美しさで自を楽しませはするが,季節が移り行 けばやがて枯れ,朽ち果ててしまうパラの花( arose / pat flowred and  fayled as kynde hyt gef"  [269‑270J)の よ う な も の な の で あ る そ の

ようなものに束の間の幸福( ioy"[266J)の基を求めp 更にこれを失っ てしまったからといっていたずらに嘆き悲しみp 自分の幸福は消え失せて しまったと言う「私」はp まさしくこの責欲の罪に陥っているのである.

乙女は「全く気違い沙汰というものです」 Somadde ~e be!" (290)と 厳しく叱責する.

r

私」の信じた幸福は偽りのものであり,キリスト教徒 として真の幸福は天国における永遠の生命にこそ求めるべきだからである.

「私」の犯している過ちは貧欲の罪だけではない.眠りにおちる直前,

真珠の喪失を嘆きながら「私」は

pa~ kynde of Kryst me comfort kenned

, 

(5)

中英語詩Pearlにおける「慰め」について My wreched wylle in wo ay wra3te. 

(55‑56) 

23 

とため息をつく. ここには kyndeof Kryst"と mywreched wylle" 

との際立つた対比が見られる. この kyndeof Kryst "の意味は, M.V. 

Hillmannが示唆するように thatby the example of His life on earth  Christ

, 

the  Divine  Exemplar

, 

taught fortItude in tribulation and pa‑ tient acceptance of God's will " 5 ということであろう. もし「私jがよ

きキリスト教徒ならば,真珠を失うことになったのは神の御心によるもの としてp この神の御業を忍従をもって受けいれなければならない. ところ が「私」は自分の wylle"が納得せずp 悲しみに痛みを覚えるばかりだ と言う. I私」の wyll巴"は神の御心にたてついているのである.更に,

一体誰が自分の真珠を取り上げてこんなにも悲しい思いをさせるのかp と 言い出すしまつである (cf.249‑250).乙女はこの頑冥な wylle"の徒

「私」のうちに散慢の罪 (pride)を見出し,次のように言う.

And tat is  a poynt sorquydrY3e (=pride)

, 

tat vche god mon may euel byseme

, 

leue no tale  be true to  trY3e  Bot tat hys one skyl may dem. 

(309‑312) 

god mon",すなわち天国に真の幸福を求めるべきよきキリスト教徒は,

散慢であってはならない. 乙女が Maysterfulmod and hY3e pryde, /  1 hete te, arn heterly hated here," (401‑402)と言うようにp 倣慢は天 国では忌み嫌われるものだからである.

貧欲, そして倣糧一一ーこれらの罪で自分の魂が曇るがままにしている

「私Jは,霊的生活において重大な危機に直面している.真珠の喪失とい

(6)

24  中英語詩Pearlにおける「慰めJについて

う事件で動揺したまま,いまや「私」は正しい信仰の道を踏み外し,神か ら遠ざかろうとしている.地上的な幸福に執着するあまり「私」の魂は暗 闇のうちに沈み,神のなされた事に異をとなえるという混乱した状態に陥 っているのである.すなわち, I私」は神を信じ切れず御心に逆らうこと により,天国における幸福への道を自ら閉ざそうとしている.キリスト教 徒が各自の霊魂の救済を思いながら日々の生活を送るための礎となるべき 内心の喜びと平和,神における霊的な慰めを喪失した状態にあるのであ る.

乙女は「私」の第二,第三の間違いを次のように指摘する.

Anoter tou says

, 

in  tys countr

tyseH schal won wyth me r)明 here; te trydde

, 

to  passe tys water fre

(297‑299) 

乙女は運命( wyrde"[273J) ,すなわち神の御心によってバラの花のよ うにか弱く移ろい易い真珠,すなわち「価値なきものJ(n03t" [274J)  から「価値あるものJ(o3t" [274J),すなわち perle of prys" 272)  になっている.それ故, I私Jが目の前の流れを渡り向う岸で乙女ととも に住むためにはp それなりの条件を満す必要があるのである.

tou sayt3 tou schal won in tis bayly; 

Me tynk te burde fyrst aske leue

, 

And 3et of graunt tou my3te3 fayle.  tou wy1ne3 ouer tys water to  weue; 

Er moste tou ceuer to  oter counsayle:  ty corse in  clot mot calder keue.  For hit wat3 forgarte at  Paradys greue; 

(7)

中英語詩Pearlにおける「慰めjについて Oure jorefader hit con myssejeme. 

tUrj drwry deth bO

  3 :

vch man dreue

, 

Er ouer tys dam hym Dryjtyn deme. 

(315‑324) 

25 

ここで川を渡るための条件として述べられているのが,実は霊魂の救済に あずかるための条件であることは明らかである.そこから二つのことが知 れる.一つはp 生身の人間である「私」の今ここで川を渡りたいという願 いが理不尽なものであること, そしていま一つはp 向う岸にあり自らを perle of prys"と呼ぶ乙女はy 霊魂の救済にあず、かり天国にいれられた 福者 (theBlessed)にほかならないということである.乙女は「私」が地 上に生きる京れにも弱い人間p つまりは車芥( mol"[392J)にすぎない ことを思いおこさせると同時にp 自分が正当な資格をもって「私」の魂の 教導を行う者であることを示した上で3 人聞が霊魂の救済にあずかりp 永 遠の生命を享受するのに必要な資格についての説教を行うのである。

乙女の説教のテーマは innocentia' (harmlessness)であると言ってよ かろう. 13世紀初頭に書かれたと推定される Vicesand Virtues中の Of vneilindnesse"の項がこの ,innocentiα'の徳についてp 次のよう に説明している.

INNOCENCIA Is  an odderhali mihte

, 

tat is

, 

uneilind[nessJe.  He is iwis innocens, tat is, uneilinde, te nauerjete him seluen  ne eilede ne nan odδer.  tat  nas nan widuten  Criste.  Da}叫i children de waren jemartired for Criste

, 

hie bied mid rihticlep ed innocentes

, 

for  δan hie ne eileden naueqiete  ne gode ne  manne

, 

ne a toutes ne a wordes.  For ti hie bi~ð eadi.

悪を全く行わず, それ故に無罪であるのはキリストと罪なきみどり児

(8)

26  中英語詩Pearlにおける「慰め」について

(The Holy Innocents)だけであるとこのように指摘したあと,人聞は悔 い改めなければこの徳を得ることはできずp 神を喜ばせることはかなわな い,と作者はこの項をしめくくっている.乙女の説教はききわけな〈反問 する「私Jにじゅんじゅんと説ききかせる体をなしており, 257行から864 行までを占めている.生まれてから一度も罪を犯すことなく死んだ者が

innocentia 'の徳によって天国にいれられた事情を,乙女は『マテオによ る聖福音書.JI20章 1‑16節のぶどう畑の労働者のたとえを剖話 (exem‑

plum)として提供しこれに対する乙女自身の釈義を開陳しながら説明し てみせp 更にそこからひとつの教訓(lesson)を引き出すのである. まず この説教の骨組を見,次いでそこにもられている霊魂の救済についての教 義を中心に内容の検証をしてみたい.

乙女は例話として用いるぶどう畑の労働者のたとえで最後にぶどう畑に 入り働きが最も少い者が他の者たちと同じ額の賃金,ーデナリオを誰より も先に支払われている点に注目して,このたとえについて次のような釈義 を示す.

Of more and lasse in Gode3 ryche

, 

• •   , .

lys no joparde

, 

For ter is  vch mon payed inlyche

, 

Wheter lyttel  oter much be hys rewarde.  (601‑604) 

すなわちP 神の国には多少についての不安はな〈し,それ故「功徳の評価」

(r白巴ward由e

うのである.そして乙女は,たとえの中の最後にぶどう畑に入った者と自 分とを重ね合わせながら,自らの天国にいれられた次第,およびその正当 なることを説いて行〈のである.この世に生まれて二年とたたぬうち,主 語文も使徒信経も覚える間もなくこの世を去った真珠 (cf. 843‑485)は

(9)

中英語詩 Pωrlにおける「慰め」について 27  すぐに天国にいれられた.決して「しわんぼうJ(chyche" [605J)では ない恵み深い主が,真珠の「働きJ(labour" [634J)を認めてくださっ たからなのだ.

Bot innoghe of grace hatj innocent.  As sone as  tay arn borne

, 

by lyne  In te water of babtem tay dyssente:  ten arne tay borojt into  te vyne.  Anon te day

, 

wyth derk endente

, 

te niyjt of deth dotj to  enclyne: 

tat wrojt neuer w四 時 ertenne tay wente

, 

te gentyle Lorde tenne payej hys hyne.  tay dyden hys heste, tay wεrn tereine;  Why schulde he not her labour alow

, 

3ys

, 

and pay hem at  te fyrst  fyne? 

For te grace of God is  gret innoghe.  (625‑636) 

乙 女 は 自 分 の こ と を 「 何 ひ と つ 罪 を 犯 さ な か っ たJ (wrojt  neuer  wrang ")働き人だと言う.そういう事実こそ自分の「働き」だと言うの である.

更に,乙女は innocent"である真珠が正当な資格によって霊魂の救済 にあずかったことを裏づけるために,

r

手の清く,心の純な者p 魂が悪に ひかれなかった者...・かれはp 主の祝福を受けp その救いの神からむく いをうけるJ (W詩篇~ 24 [23J, 4)8 (Peαrl, 681‑683), あるいは,

r

どものように神の国をうけないと, そこにははいれないJ (Wルカによる 聖福音書~ 18章, 14節その他)(P.ωrl, 718‑719), その他の聖書の言葉を 引用しながら, しだいに te innocent  is  ay saf  by ryjt"  (720)と

(10)

28  中英語詩Pearlにおける「慰め」について

いうこの説教のテーマを明らかにし行くのである.次にこのテーマを敷市 した,

Harmle3, trwe, and vndefylde, 

vVythouten mote oter mascle of sulpande synne

, 

Quen such ter cnoken on te bylde

, 

Tyt schal hem men te 3ate vnpynne. 

(725‑728) 

という言葉がっつ、き,霊魂の救済にあずかるために必要な資格が明解に示 される.そして最後にこの説教の教訓が提示される.説教の聴きー手である

「私」に示される教訓は wマテオによる聖福音書.lI13章, 45‑46節 の 価 高き真珠のたとえをふまえた次のようなものである.

This makelle3 perle

, 

tat b03t is  dere

, 

te joueler gef fore al1e hys god

, 

1s  lyke te reme of heuenesse clere: 

For hit is  wemlej, clene, and clere,  And endele3 rounde

, 

and blyte of mode

, 

And commune to  alle tat rntwys were. 

1 rede te forsake te worlde wode  And porchace ty per le mask~lles.

(733‑744) 

乙女による説教は以上のような構成をとっている.次にこの説教を裏打し ている教義に注意しながら,内容を検討してみよう.

乙女は teinnocent is  ay saf by r

Y 3

t" (720)と説き, その理由を

(11)

中英語詩Pωrlにおける「慰め」について 29  幼な児の labour" (634)のおかげであると言う. しかしp 舌もろくに まわらない幼児の「働ぎ」とはどのようなものなのだろうか.人間が霊魂 の救済にあずかるためにはp その魂は無罪の状態でなければ怠らない.ア ダムによって人聞に背負わされた罪を洗い流す必要がある.そして人間は その始源的状態p すなわち前出の Vices and Virtuesにも指摘されてい るキリストp あるいは罪なきみどり児に見られる無罪の状態を回復するこ とでp はじめて天国に入ることを許されるのである. この無罪の状謹は3 聖トマス (St.Thomas Aquinas)が「霊的再生J(spiritual regeneration)9 

と呼ぶ洗礼 (baptism)を受けることによりはじめて獲得される. この教 義をふまえた上で乙女はp この洗礼によって得られる無罪性こそが自分の

「働きJであり3 その功徳のおかげで天国に昇ることを許されたのだと説明 する.魂の浄化がなされた後,罪で汚れる間もなく「無理の幼児J(harm‑

lej  hatel"  [676J)のままこの世を去ったからである. 乙 女 は 'inno centia'の徳によって霊魂の救済にあずかることを得た自分の例をp 例話

として採用したぶどう畑のたとえに見られる「働き」と「支払し¥jの事情 を手掛りにして解説し自分が正しい手続きによって今天国にあることを 主張するとともにp 一歩進んで問題を一般化しp 罪の汚れひとつ無い清ら かな魂のみが天国にいれられ,永遠の生命を享受する資格を持つという霊 魂の救済にかかわる根本問題の再確認を,登場人物である「私」に促そう

とするのである.

ところで

r

私」もその一人である常人が乙女と同じ形でp すなわち洗 礼によって授けられる聖寵を死の来る時まで失わずに霊魂の救済にあずか ることは不可能である.乙女も指摘するように,生きるうちに罪を犯すこ とのない人間などいるはずがないからである.

もiVherewystej tou euer any bourne abate

, 

Euer so holy in hys prayere

, 

(12)

30  中英語詩Pearlにおける「慰め」について tat he ne forfeted by sumkyn gate 

te mede sumtyme of heuenej clere?  And ay te ofter

, 

te alder tay were

tay laften ry3t and wrojten woghe. 

(617‑622) 

そして,洗礼を受けた後に魂が罪で汚れてしまえば,たちまちその効力は 失われてしまう.では,なにかにつけ罪に走りがちな常人はy 霊魂の救済 にあずかるためにはどのような道をとればよいのであろうか,乙女は「私」

の霊的生活の問題について, どのような指針を与えているのであろうか.

乙女は無罪の幼な児が harmle3hatel" (676)として「確実にp 間違 いなくJ, しかも「当然、のこととしてJ(hardyly, wythoute  peryle, / 

. . by rJ>t" [695‑696J)天国に入ることを許されると強調しながらも,

一 方 rJ>twysman" (675)  も神の御顔を見ることを許されると付け加 えることを忘れない.すでに長い時をこの世で過して来た「私」が霊魂の 救済にあずかり,神の御顔を拝することを得るには,

r

義化された人」た らんことをめざすしかない.つまり功徳を積んで行くことで,天国に入る 資格を獲得しなければならないのである.そして,霊的生活における功徳 は聖寵のうちにおいてはじめてその効力を持つものである故,なによりも まず魂の浄化に努め,聖寵の回復を行わなければならない.乙女は罪を犯 した者の魂の浄化の問題について,次のように言う.

Grace innogh te mon may ha~e

tat synnej tenne new

ョ ,

ifhym repente 

Bot wyth sorj and syt he mot hit craue,  And byde te payne terto is  bent. 

te gyltyf may contryssyoun hente 

(13)

中英語詩Pea:rlにおける「慰め」について And be þur~ mercy to  grace trnt. 

(661‑670) 

31 

罪人も悔い改めれば聖寵を回復することができるとするこの言葉は,痛悔 ( contrition)をその第一段階とする告解 (penance)の効力を説くもので あろう.告解とは,聖トマスが「霊的治療J(spirituaI  heaIing)lOと呼ん でいることからも明らかなようにp 一度しか受けることが許されない洗礼 とは異り,罪を犯すたびに幾度でも受けることができp そのつど洗礼によ って与えられた聖寵,無罪の状態を回復することができるのである.乙女 による告解の効力についてのこの説明は,

r

新たに繁を犯す者J(te mon 

. . / tat synnej tenne new" [661‑662J)である「私」に霊的生活の上 でとるべき道を示唆したものと言えるであろう.

乙女は,霊魂の救済にあずかるための資格を説く説教を,

1 rede te forsake te worlde wode  And porchace ty per1e maskelles. 

(743‑744) 

という言葉でしめくくるのだが,この二行に魂の教導者である乙女は説教 全体を凝集し教訓として「私」に与えているのである.要点は二つ.ま ず、との引用二行前半の,

r

この馬鹿げた世の中を捨てよ」という忠告は,

説教冒頭に見られる「私Jの陥っている罪の指摘に対応する すなわち,

たとえ王侯の心に適うほどの見事な真珠でもp しょせん地上の宝.そのよ うな脆い土台の上に幸福を築こうという誤った希望は捨てp 真の幸福を天 国に求めるべきであるとし,

r

私」に正しい信仰の道に立ち戻るように諭 す乙女の意図が,この一行に凝集されているのである.更に後半の,

r

汚 れ な き 真 珠 を 買 い 求 め よ 」 と い う 忠 告 は 義 化 さ れ た 人 す べ て に 属 す る」く communeto  alle  tat  ryjtwys  were"  [739J)真珠,

r

平和のし

(14)

32  中英語詩Pearlにおける「慰めJfこついて

るしJ(token of pes" [742J)である真珠を求めよ, という勧めととも にp すでに検討したところから明らかなように,キリストに,そして罪な ぎみどり児に見られる innocenti〆,すなわち乙女がこれを保持していた が故に霊魂の救済にあずかることのできた無罪の状態を獲得するように努 めることを勧めるものなのである.この忠告は常人である「私」について は,告解を繰り返し受け日々魂の浄化に努めよp という意味を持つことは 言うまでもない.登場人物「私J, そしてその背後に意識されているはず の聴衆にとって,告解こそ魂の平和,真の幸福を得るための鍵なのであるき

乙女は天国に住む「すべてを知るJ (tur30utly  hauen  cnawyng" 

[859J)者としてp 霊魂の救済のための資格の問題を中心にした説教宏行 い,それをミサ( mes"[862J)のたびの告解の勧めでしめくくる. (cf.  862‑864). 

r

私J;vこ鍵が示されたのである.しかし皮肉なことに「私」は

この告解という鍵の大切なこと,その有効性をすでによく知っていたので ある.そこから,この乙女の説教が「私」に対してアイロニカルな面を持 つことになる.

そもそも乙女が説教のテーマである霊魂の救済のための資格について説 きはじめるきっかけは,

r

私」の次のような問いなのである.

tyself in hel 

To 1mlalζete quen tatwa9so30g巴.

What more honour mo吟3tehe achue tathade endured in wor1de stro唱 。

And lyued in penaunce hys lyue3 longe  Wyth bodyly bale hym blysse to  byye? 

(473‑478) 

(15)

中英語詩Pearlにおける「慰め」について 33  このよラに言う 「私」が, 自分と「一生の間告解のうちに日を送ってき たJ(lyued in penaunce hys lyue

  3 :

longe" [477J)者とを意識的に重 ね合わせていることはp 疑いの余地がない.

r

私」には型どおり洗礼を受 け,その後も告解を繰り返し受けて来たとし、う霊的生活の履歴があるであ ろう.自分は功徳を積んで来たと L、う意識が強くあることも間違いない.

おまけに,神学の知識も多少あるらしし天国には位階がありそれは人間 がこの世で積んだ功徳の多少によって決定されるp などという伝統的な教 会の教えも知っている.だからこそ「私Jは得々と3 自分の受けて来た告 解の有効性を主張するのである.

ところが,この「私」こそ誰よりもまず告解を受ける必要のある魂の状 態にあったのである.すなわちすでに見たとおり,

r

私」の魂は貧欲の罪,

散慢の罪で曇りを生じ,神を見失おうとする霊的生活上きわめて危険な状 態に陥っていたのだった. このような「私」の口から出る告解という言葉 はy 信仰の裏づけを欠いた単なる言葉にすぎない.知識だけに基づく空し い言葉にすぎないのである11 乙女が厳しく諌めたのは,ほかならぬ「私」

のこのような有様だったのではなかったか.

Stynt of ty strot  and fyne to  flyte

, 

And sech hys blyte ful  swefte and swyte. 

(353‑354) 

いさかいや争いをやめて神の恵み( blyteうを求めよというこの言葉に よりp 魂の教導者としての乙女は「私jに対する姿勢の基調を明らかにし,

それは神の無謬性を説〈言葉, al  Is  trawte tat he dresse, 

And he  may do notynk bot ry>t"  (495‑496)により裏打される. そして乙女は

「すべてを知る」者として,

r

私」の発した告解という言葉に真の意味内 容を説教の中で回復させp 改めてそれを「私Jに投げ返したのである.言 い出しっぺが結局その同じ言葉で打たれるという

r

私」にとっては皮肉

(16)

34  中英語詩Pearlにおける「慰め」について

な展開をこの説教は持っているのである.自身の迷妄,愚かしさを悟るこ となし自分は霊魂の救済に至る道,その教義を心得ているという思い上 りが益々魂の曇りを増し,神から遠い者になろうとしている「私Jの姿がp

再び浮き彫りにされることになるのである.

結局,

r

私」は夢の中で迷妄から完全に脱け出すことはできない.たし かに乙女の説教の効果は現われはする.自分が mokkeand mul among " 

(905)にすぎないことを悟る「私Jは,謙遜の心を取り戻している.自分 を正確に見つめることができるようになった今,向う岸の乙女は手元から 消え去った mypriuy perle"。のではもはやなし聖寵のおかげで、永 遠に、咲きつづける soryche a reken rose"  (90めであることをはっき りと認識するのである. ところが

r

私」の魂lこ巣くう迷妄は簡単には退 却しない.

説教をど拝聴してから「私」は乙女のとりなしによりIiヨハネの黙示 録』に記されたとおりの新しいイエルザレムのまぼろしを見ることを許さ れる. この時,小羊の花嫁の中に乙女真珠の姿を見出すや, たちまち

「私」の魂の目はかすみ,五官の快楽に心は奪われてしまうのである.

Delyt me drof in yje and ere

, 

M y  manej mynde to  maddyng malte.  (1153‑1154) 

説教の冒頭で乙女により指摘を受けた+迷妄が, 乙女真珠が my lyttel  quene" (1147)であると見て「私」の心に luf‑Iongyng"(1152)が起

ったとたん再び吹き出るのである.乱れた心のまま生身の人聞には渡れる はずのない流れに飛び込み,そこで「私」は夢から覚める. 失った my priuy perle" (24)に対する Iuf‑daungere"(11)のために深い悲しみ に落ち気絶するように夢に入った「私」は, inylytteI  quene" (1147)  に対する Iuf‑Iongyng"(1152)の故に喜びのあまり狂気に駆られ,その

(17)

中英語詩Pearlにおける「慰め」について 35  結果夢からはじき出されてしまうのである.

r

私」の愚かしさを叱責する 乙女の言葉p So madde je be!" (290)は夢の前p そして夢の中にお ける「私」の姿を正確に言い当てているわけで、ある.

夢から覚め地上の世界に戻ってからp はじめて「私」は迷妄に囚われた 自分の暗愚を心の底から悟るのである.

Lorde

, 

mad hit arn tat agayn te stryuen

, 

Oter proferen te Ojt agayn ty paye.  (1199‑1200) 

すべてを神の街1[心にまかせるほかないことをここに知るのである.

r

私」 はこうして創造主なる神において魂の静けさを得p 神への愛はいやまし,

ひとたびは失いかけた正しい信仰心を回復する.天上のことに希望を見出 した今,聖寵の大いさを信じ自らの霊魂の救済を思いつつ,この世に生き る限り身を持して行くべきことを悟るのである.すなわち,

r

私」は god

Krystyin" (1202)として内心の平和と喜び7こ満たされ,霊的な慰めを得 るのである.

慰めを得た「私Jの魂にはもはや貧欲,倣慢,そのほかさまざまな形の 迷妄が入り込む余地はない.

r

私」が今求めるのはこの世の宝を象徴する Per1e, plesaunte to  prynces paye" (りではもはやない .Pearlの最 終回行において「私」が,

I v d

a

yz.n3i  w d Y 1 2   ι h S 1  

d

a

1 y L U A

廿

1 I C E d

2

d v a

即日︑

A J L μ v l

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d m h

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e a e k b P  

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ω u t x  

I i v s

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u c   h a

v m t m d p  

g h M e e m  

p

p

H

A

 

(18)

36  中英語詩Pearlにおける「慰め」について と祈る時p 聴衆は,

1 rede te forsake te worlde wode  And porchace ty perle maskelles. 

(743‑744) 

という夢の中の乙女の提供した霊魂の救済についての説教の教訓が,

r

私J のうちに成就したことを知るのである. と同時にp 聴衆はこの祈りの中で

「私」が一人称代名詞を捨て,一人称複数の vus"(1210, 1211)を使 っている事実に気づくはずである.

作中,

r

私」は過ちを犯しながら聴衆の前にその

1

郎、面を十分に晒して きた,そういう「私」が例えば激情に駆られて川を渡ろうとする時,聴衆 はある距離をおいてこの登場人物の姿を見ることができたはずである. し かし結局,聴衆が川のこちら側にある者とL寸条件を,

r

私」と共有して いることも確かである.故に聴衆が「私」を笑うことができるのは,

r

私J がこの条件を忘:/1."これを逸脱しようとする時なのである. ところがいま や迷いの晴れた「私」がその場の聴衆を包み込もうとするかのように vus を畳みかけて発する時,聴衆は「私」との距離が急速に失われて 行くことに気づくであろう.すなわちこの世に住む者,

r

教会以外に救い はないJ(Extra Ecclesiam nulla  salus勺という教えに従って霊魂の 救済にあずかりあの川を渡ることを願うべき者として,

r

私」と聴衆は重 り合って行くのである.これは詩人の巧妙な仕掛けである.乙女対「私」

の関係を見る位置にいた聴衆は,作品の終りに来て乙女に代表される世界 対「われらJ(r私」と聴衆〕とL、う関係の中に引きずり込まれてしまうの である.ここにきて「私」が何時過ちを犯してしまうか分らない常人,聴 衆を含む常人の身代りとして夢を体験し魂の遍歴を行うことにより,常人 の限界を示しつつキリスト教徒が日々に求めるべき貴重なものが何かp そ してこれに至る道はどこにあるかを改めて明確にする者として作中に登場

(19)

中英語詩Pearlにおける「慰め」について 37  したことを,聴衆は知るのである.そして聴衆自身「迷妄に陥った『私dlJ に何時でもなる可能性を持っていることに気づく時,夢の中の乙女の教導 が一人「私」のみ1J:らず,聴衆一人一人に向けてなされたものでもあるこ

とを央日るのである.

1 Pearlからの引用はすべて, E. V. Gordon (ed.), P.ωrl (Oxford: Clarendon  Pre回, 1953)による.

2 5t.  Thomas Aquinas, Summa Contra Gentiles, Bk. III, Pt.  1, trans.  Ver‑

non J. Bourl (Notre  Dame, Indiana:  University  of  Notre  Dam Press,  1975), p.  208. 

F. N.  Robinson  (ed.), The日Torksof Geoffrey Chaucer, 2nd ed.  (Lon don: Oxford University Prss1957), p.  251. 

バラの花が移ろい易い地上の宝を象徴する例は中世の作品にはよく見られる昭 次のようにはじまる14世紀の野情詩はその一例である.

NOu skr<y)nket rose 

lylieour tat whilen brtat suete sauour  in somer tat suete tyde; 

ne Is  no quene so stark ne stour,  ne no leuedy so bryht in bour 

tat ded ne shal byglyde.  whose wol fleysh lust forgon 

heuene blis abyde, 

on ihesu be is  toht anon,  tat terled was ys side. 

(Carleton  Brown [ed.], Relなious Lyrics  of the  XIVth  Century [Oxford: 

Clarendon Press, 1924 ,]pp. 1112.) 

5 Sister Mary Vincent  Hillmann (ed.), The Pearl (Notre  Dame, Indiana:  University of Notre Dame Press, 1961), p.  81. 

6 F. Holthausen (edふ 切cesand Virtues Bei: A Soul's 

c o

fesszoZof its  Sins, with Reason's  Description  of the Virtues, Part 1 (E. E. T. S.  O. S. 

89)  (London: Oxford University Press, 1888), p.  133. 

7 Rewarde"の解釈は E.V. Gordonwhat is  due as  recognition  of 

(20)

38  中英語詩.Pearlにおける「慰め」について

merit"による."(E. V. Gordon, op. cit., p.  66.)なおこの reward巴"につい ての諸学者の解釈については,生地竹郎If十四世紀の英文学IJ(東京:文理,

昭和51年λ197‑198頁参照.

8 日本語訳聖書からの引用は, γ・ボスコ社のカトリック訳による.

9 S前 附 加 白ntraGentiles, Bk. IV, trans.  Charles J.  O'Ne, !ip.  277.  10  Loc. cit. 

11  A. C. Spearingの次のような指摘はこのような「私」の態度を正確に捉えて いると言えよう. . . . the Dreamer in Pearl sees himself not onJy as a hero  but also, more absurdly, as a scholar.  He is  aJways ready to bandy arguments  and texts  against  the 1iden's explanations  of  her situation  and his, for.  getting that she is  one of  those  who  thurghoutJy  haven cnawyng' (859).  In consequence, the Dreamer, like Jonah, becomes a comicgure,struggJing  in vain to dominate a world which is  not his and which he dosnot under.  stand."  (The Gawain.Poet:  A Critical  Study  [Cambridge:  Cambridge  University Press, 1970J, p.  106.) 

参照

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