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著者 越田 清和

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東京アイヌ史研究会編 「《東京・イチャルパ》への 道 : 明治初期における開拓使のアイヌ教育をめぐ って」

著者 越田 清和

雑誌名 PRIME = プライム

号 27

ページ 93‑96

発行年 2008‑03

URL http://hdl.handle.net/10723/683

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4年ほど前に、 「裸足の1,500マイル」 という映 画が公開され、 日本でもそこそこヒットした。 オー ストラリアのアボリジニ少女が親から強制的に隔 離され、 施設で白人に 「同化するための教育」 を 受けさせられるが、 そこから逃げ出して母の元に 帰るという実話に基づいた映画だった。 この映画 の原作者はアボリジニのドリス・ビルキングトン (アボリジニ名はヌギ・ガリマラ)。 1930年代に彼 女の母親が体験したことをもとにした話だ。 収容 施設から三人の少女が逃げ出し、 アボリジニの追 跡人をかわしながら、 砂漠と荒野を徒歩で1,500 マイル (2,400キロ) 逃げ続けたというストーリー である。

この映画を観た時に、 アイヌ民族にも同じこと があったことを思い出した。

一つは、 萱野茂さんの アイヌの碑 (朝日新 聞社) に出てくる、 萱野さんの祖父トッカラムの 話である。 有名な話だが、 簡単に紹介してみる。

1847年二風谷に生まれたトッカラムは、 かぞえ 12歳の時、 大人たちと一緒に350キロ離れた厚岸 の漁場に奴隷として連れて行かれた。 この時、 ニ プタニ、 ピパウシ、 カンカン (いずれも現在の平 取町) のコタンに住んでいたアイヌ116人のうち 男女を問わず43人が、 強制連行されている。 仕事 がつらく家に帰りたいトッカラムは、 指を切り落 とせば家に帰れると思い、 左手の人差し指を切り 落とす。 しかし、 親方は 「指の一本ぐらい。 塩を まぶしておけば、 二、 三日で治る」 と言い、 帰郷

を許さなかった。 そこで今度は、 河豚の胆汁を搾 り、 それを身体に塗って黄疸の症状が出たかのよ うにした。 それを見て、 親方は帰郷を許した (萱 野茂 「和人の奴隷だった祖父」、 アイヌの碑 よ り)。 萱野さんは書いていないが、 帰郷の旅も12 歳の子どもの足では大変なことだったろう。

オーストラリアでは 「裸足の1,500マイル」 が 映画になったのに、 なぜ日本では、 このトッカラ ムの話を映画にしようと動きがないのか。 もっと 言うと、 なぜ植民地主義によって起こったことを 明らかにしようとしないのだろうか、 と思ったの だ。

もう一つ思い出したのは、 「教育」 のために東 京へ連れて行かれたアイヌの青少年のことだ。

明治政府によって 「北海道」 開拓のために設置 された開拓使は、 1871年10月、 アイヌ民族の 「開 墾者に家屋・農具を与えること、 死亡者の居家の 自焼や転任の禁止、 女子の入墨・男子の耳環の禁 止、 日本語の勉強」 ( 新北海道史年表 ) を定め、

アイヌ民族の暮らしや文化を強制的に変えようと した。 この方針にしたがって、 日本語を学び、

「日本的な暮らしや文化」 を身につけたアイヌを 教育しようと考えたのである。

具体的には、 1) 1872年、 札幌・小樽・余市な どのアイヌ36名を東京の開拓使仮学校に 「送り」、

寮生活をさせて、 日本語や農業を学ばせようとし た、 2) 同じ頃、 開拓史の役人が石狩川上流の上 川に住むアイヌの子ども15名を札幌に連行し、 寺

東京アイヌ史研究会編

「 東京・イチャルパ への道―明治初期における開拓使のアイヌ教育をめぐって」

越 田 清 和

(さっぽろ自由学校 「遊」)

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子屋式の教育を行なおうとした、 という二つの計 画があった。 しかし、 開拓使が設置されたばかり の時期に思いつかれたこの計画は、 いずれも失敗 に終わる。 東京の開拓使仮学校での教育は2年ほ どで大半の者が帰郷を望んだため、 それきりとなっ た。 上川では、 アイヌの親たちが強く抵抗し、 役 人が説得しても子どもたちを浜に連れてこなかっ た、 と言う (小川正人 近代アイヌ教育制度史研 究 )。

とはいえ、 アイヌの青少年を家族と故郷から強 制的に隔離し、 気候や自然、 生活スタイルも全く 異なる都会で、 異民族に囲まれた中で 「教育」 を 受けさせようという事実があったことは、 アイヌ 民族に対する強制連行・奴隷制という視点からもっ と広く知られ、 検討される必要がある。 いま紹介 した二つの例は、 松前藩政下のでの商人と明治政 府、 労働と教育、 という違いはあるが、 生まれ育っ た家やコタンからアイヌを強制的に切り離し、 遠 く離れた場所 (東京の場合は津軽海峡を超えた別 の島) に連れて行った奴隷制の一つだと考えた方 が良いのではないか。

ここで紹介する 「 東京・イチャルパ への道―

明治初期における開拓使のアイヌ教育をめぐって」

は、 先に紹介したアイヌに対する 「隔離教育」 の うち、 東京の 「開拓使仮学校附属北海道土人教育 所」 と 「開拓使官園」 に連れてこられたアイヌの 人たちをテーマにしたものだ。 これまで、 この問 題についてのまとまった研究は私たちが目にしづ らい研究論文などでしかなかったので、 今回、 こ うした本としてまとまったのは、 うれしいことだ。

そのうえ、 連れて行かれたアイヌの写真4枚や年 表もついている。

この写真のうち、 開拓使仮学校で撮られた男性 写真は、 これまで石狩の対雁 (ついしかり) に強 制移住させられた樺太アイヌの写真とされてきた ものだ。 私の手元にある 対雁の碑―樺太アイヌ

強制移住の歴史 (北海道出版企画センター) の カバー裏写真にも、 それが使われている。 だから、

この写真を東京に連れて行かれたアイヌの写真だ と特定したことも、 この本の重要な成果だ。

この本は二部構成になっている。 第一部は、 こ の本を編集した東京アイヌ史研究会の長谷川修が 書いた 「シンリッモシリ・コイチャルパへの道」、

第二部は、 この問題について研究してきた二人の 研究者、 狩野雄一・広瀬健一郎による 「開拓史に よる東京でのアイヌ教育」。 この第一部と第二部 の間の温度差というか、 視点や表現の違いが、

「面白い」 というか、 いろいろと考えさせられた。

長谷川修の書いた第一部は、 本のタイトルにあ る《東京・イチャルパ》をなぜ実施するようになっ たかについて、 長谷川の想いが率直に書かれてい る。 東京では、 2003年から開拓使仮学校のあった 芝公園内で首都圏に住むアイヌによるイチャルパ (先祖供養) が行なわれている。 開拓使仮学校に 連れてこられたアイヌがいたこと、 その中に病死 した人や逃亡した人もいたことを知った長谷川が イチャルパを計画し、 何年もかけて準備し、 つい に実現したものだ。

長谷川は、 たんに東京でイチャルパを行なおう と決めただけではない。 130年ほど前に東京に連 れてこられたアイヌの姿に、 何らかの理由で北海 道を離れ、 東京で暮らし死んでいった多くのアイ ヌの姿を重ね、 イチャルパを計画した。 私は、 そ こに心うたれた。 イチャルパを実施する目的の一 つを長谷川はこう書いている。 「 北海道土人教育 所 に連行強制就学を強いられ、 東京で死んだア イヌのイチャルパを行なう。 同時に、 アイヌモシ リを離れ、 帰れずに死んだアイヌウタリのことも 供養する」 (19ページ)。

たしかに、 アイヌモシリを離れ、 東京で暮らし、

そこで死んでいったアイヌは多い。 しかし、 その 人たちがはたしてアイヌとして供養されてきたか。

東京の 北海道土人教育所 に連れてこられ、 数

「 東京・イチャルパ への道―明治初期における開拓使のアイヌ教育をめぐって」

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ヶ月で 「病死」 したアイヌ女性ハモテの埋葬され た場所を探し、 港区愛宕下のお寺を歩いた時の気 持ちを、 長谷川はこう書いている。

「アイヌの考えに、 肉体を持たずに (生まれ変 わらずに) 魂だけこの世にもどってくることがあ るといわれます。 例えば、 お椀がなくてカムイの 国で不自由だから取りに戻ってくる。 しかし、 祖 先のカムイからもどってもよいと言われたのでな いから、 再びこの世で生活できる当てがない。 そ の霊はあてどころなくさまよい、 人に逆恨みし、

悪さをすると。 私はその後、 何度も愛宕山のトン ネルの夢を見ます。 ハモテはどうしているのだろ う。 そしてアフンテクル (夕張安次郎) は、 イコ リキナ (古川伊吾) は。

アイヌの苦痛を解決したい。 私にとってこの地 域、 場所は大切なところなのです」 (28ページ)

この気持ちが、 長谷川をイチャルパの実現へ向 けて動かした。 カムイノミ (神への祈り) もイナ ウ (木幣) のつくり方も知らない首都圏の若いア イヌが、 一つ一つを学びながらイチャルパを行な い、 今も続けている。 長谷川の文章は、 「北海道」

以外の地に住むアイヌがアイヌを取り戻す、 短い けれど重要な記録になっている。

首都圏で暮らすアイヌは、 現在5,000人ほどい ると言われているが、 その人たちの声をまとめた ものは少ない。 小笠原信之 しょっぱい河―東京 に生きるアイヌたち (記録社、 1990年) やイフ ンケの会編 イフンケ (子守唄) ―あるアイヌの 死 (彩流社、 1991年)、 レラの会 レラ・チセへ の道―こうして東京にアイヌ料理店ができた (現代企画室、 1997年) くらいだろうか。 この本 は、 そこに新たな1ページを加えた。

第2部は、 開拓使仮学校に設置された北海道土 人教育所についての、 きわめて実証的な研究論文 である。 1東京行き前夜、 2東京でのアイヌ教育 の計画と実施、 3 「開拓使仮学校附属北海道土人 教育所」 と 「開拓使官園」、 4天皇・皇族との関

わり、 5罹病と病死、 6 「北海道土人教育所」 の 閉鎖と官園の生徒たち、 7帰郷した生徒たちのそ の後、 という構成になっている。

この論文では、 これまでの研究では36人とされ ていた東京に連れてこられたアイヌの人数を、 大 方のアイヌが帰郷した1874年に開拓使官園に農業 実習のために連れてこられた択捉島出身の2人を 加えて38人と特定した。 また、 連れてこられたア イヌの出身地は開拓使による支配が強かった石狩・

札幌・小樽・高島などの地域だったこと、 東京に 来たアイヌも松前藩時代から 「役土人」 (漁場で 働くアイヌの代表) として日本人と接触の多い人 やその家族だったこと、 を明らかにしている。 同 時に、 働き盛りの若者が連れ去られることによっ て、 残された家族やコタンは大きな犠牲を強いら れたのではないかとも推測している。

長谷川の言う 「アイヌの苦痛」 (供養されてい ない 「殺された」 アイヌ) のことについては、 東 京に来てから数ヶ月のうちに、 小樽出身のハモテ が死亡し、 その後ラウシ、 アフンテルが東京で死 亡、 イコリキナが函館で死亡したこと、 板東きち の出産した子が死産したことを明らかにした。 2 年足らずのうちに36人中4人のアイヌが死亡して いる。

長谷川は 「殺された」 と書いているが、 狩野と 広瀬は 「病死」 とし、 4人を診断した病院 (ハモ テを診察したのはお雇い外国人) の書いた容態書 をもとに病因を食事の変化による脚気ではないか と 「分析」 している。 この 「分析」 は、 私には納 得いかないものだった。 ここは 「殺された」 とい う長谷川の直感を受け止め、 強制連行下での生活 がもたらしたストレスによる孤独死あるいは気候 と食生活など環境の急激な変化による 「間接的な 殺人」 という仮説をたててもよかったのではない か。 アイヌが 「近代医学」 とは無縁の暮らしをし ていたことを前提に、 病院での 「診察」 を考察す ることができないのだろうか。

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ハモテの葬儀は神葬式で行なわれたが、 親族は 出席していない。 死亡がいつ親族に伝えられたか もはっきりしない、 とこの論文は書いている。 そ れ以外の三人については、 資料もないようだ。 た だ、 その分析が 「病死者の遺族への対応としてあ まりに不誠実です」 というのは、 あまりにも一般 的ではないだろうか。 「不誠実」 という心情レベ ルの問題ではなく、 強制連行による犠牲者という 視点で考えてほしかった。

いくつか注文もつけたが、 この本は、 アイヌ民 族に対する植民地主義は北海道という島だけに限 るのではなく、 総体としての日本に関わる問題で あること、 増上寺という東京の中心地にも関係あ ることを強烈に印象づける。

最後にもう一度、 「裸足の1,500マイル」 に戻ろ う。 オーストラリアでは、 この映画の主人公たち のように家族から強制的に引き離されたアボリジ ニの子どもたちを 「奪われた世代」 とし、 その公 的調査を行ない、 報告書を出した。 その報告書は 政府への非難とその責任を明記し、 被害者に対す る政府の公式謝罪と補償を求めたものだが、 オー ストラリア政府がこの勧告を拒否したことで、

「奪われた世代」 の問題はオーストラリア中で広 く議論されるようになった、 と言う (テッサ・モー リス=スズキ 「ミノ・ホカリとの対話」、 保苅実 ラディカル・オーラル・ヒストリー―オースト ラリア先住民アボリジニの歴史実践 )。

私も、 この本をきっかけに、 日本の植民地主義 とその犠牲者に対する謝罪と補償の和解について の議論が広がっていくことを強く望む。

東京・イチャルパ への道―明治初期におけ る開拓使のアイヌ教育をめぐって (現代企画室 発行、 2008年、 定価1,500円プラス税)

「 東京・イチャルパ への道―明治初期における開拓使のアイヌ教育をめぐって」

参照

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