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不安の時代―1939年の『新領土』―

ドキュメント内 鮎川信夫と 『新領土』 (その3) (ページ 48-91)

新たな年、『新領土』1939年1月号。マイクル・ロバアツ「デイオニソス」197 の一節である。訳者は大塚正憲。

ああ、思考は行動だ――

黄昏が展がつて行く、魂の世界があるのだ――

肉體を失つた魂、ああ、肉體は時ときだ、

流れ行く時ときこそは行動だ。

光りは一つの世界に、樹木に、原子に、

夏の驟雨に變つて行く、ひとつのシンフォニイだ、

オーデンが、 秋の滅亡 の悪夢のさなかに 人間は靈魂たましひ198という声を 聴いたように、ロバアツも黄昏のなかに、なおも 魂 を信じ、光が 夏の 驟雨に變つて行く 世界を夢見る。ただし、1939年のヨーロッパは新たな戦 争への不安につつまれていた。日支事変のゆく末に展望を見いだせないわが 国も同じであった。

同じ1月号、「一九三九年の田園」に、村野四郎は農家の光景を唄う。その 後半部。

傳統は庭に干されて 豆と共に音をたてて撥ぜ 飛行機は歌ひ

頻繁に出入した まさに一九三九年

神たちは國旗のガウンを着て キラキラする果樹園の間を彷徨ひ 夜に窶れた寡婦もでて

枯木の道を歩いて行くあちら

地平の一角が缺けおち そこから い海が見えた

大きい海が見えるのであつた199

「近代修身」の詩人の サタイヤは莫迦々々しき企て 200と化していた。そ して、サタイアの痕跡をわずかに残しながら、 時勢 を歌う詩人となって ゆく。

『タイムズ文藝附録』(Times Literary Supplement) は、前年8月6日号から

Present Discontents と題する記事を連載した。成田成壽は、連載を組んだ

のは同誌としては 初めての試みであらう と注目し、すでに『英語 年』

で紹介201していた。『新領土』1月号もまた、岡本圭次郎「現代文學の不安」202 として紹介記事を載せ、翌2月号から三回にわたって、その詳細を伝えた203

エリオットが主宰する『クライテリオン』は、この1月をもって終刊とな った。さらに、『新領土』の情報源のひとつ『ロンドン・マーキュリー』は、

4月に終刊となる。そして、ニュー・カントリー派を受けつぐ『ニュー・ヴ ァース』の終刊は、5月である。スペインの戦争は、この3月、フランコ陣営 がマドリッドを陥落し、終わっていた。人民戦線陣営は敗北したのである。

海外の文学の不安は、同時に、わが国の不安でもあった。鮎川が、5月、

彼らの雑誌『荒地』第2輯の、マニュフェストともいうべき小評論を「不安 の貌」と題したのも、故なしとしない。鮎川は 現代文學の不安に關しては

「新領土」に二月號から續けて、ロンドンタイムズ[ マ マ ]に連載された論説が譯載 されてあり興味深いものがあるから一讀をお薦めする 204と記している。

1月4日、近衛内閣が辞職し、翌日、新たに平沼内閣が発足する。2月、「全 國ラヂヲ體操の会」が結成される。2月26日、深瀬基寛著『現代英文學の課 題』が刊行された。これは、当時の英文学、とりわけエリオットを志す学徒 にとっては必読の書となるであろう。そして、3月28日、軍事教練が大学の 必修科目とされた。鮎川が大学に進む1年前のことである。

『英語 年』3月1日号、「知識人と實踐」に寺西武夫はこう書いた。

二十年の昔に於ては知識人の實踐の問題が少しも人々の意識にのぼら

なかつた。否、知識人などといつた特殊層の存在すら人々の意識にはな かつた。然るに今日は何故にそれがこの様に取りあげられ、この様に問 題にされるのであらうか。一言にして云へば、社會的情勢の變化に依つ て、今日知識人の實踐が必要とされるからである。嘗てマルクス主義 が 年層の間に恐るべき勢を以て浸潤した時、マルクス主義は所謂イ ンテリの實踐力を渇望した。今日は國家が、國家の理想が知識人の實踐 力を必要としてゐる205

寺西はいう。 知識人はこの際一度枝を傳つて幹を降り、大地から根と共に 養分を吸収する仕事をやつて見てはどうであらうか。 たとえば、 將校が戰 地に於て兵達と苦樂を共にした如くに、自己の手足たるべき者と同じ麥飯を 食つて見たらどうであらうか と。 兵達 のうえに立つ 將校 には、依 然として、 知識人 あるいはエリートとしての役割が重ねあわされている。

大学進学者が少数の選ばれた者であった時代を思えばこの発想を一笑に付す ことはできない。

重要なことは、 今日は國家が 彼らの 實踐力 を求めているのである。

まさに、 一言にして云へば、社會的情勢の變化 のゆえであった。「全國ラ ヂオ體操の會」が銃後の国民の体力づくりを強力に推進したように、 國家 の理想が知識人の實踐力を必要としてゐる とすれば、大学の軍事教練は、

まさに、将来の 將校 育成のために不可欠であった。3月末に定められた 軍事教練の必修化は、新学期4月から適用される。大学における新たな 行 動主義 が 實踐 に移されたのである。この年、1939年4月に入学した学 生はこの扱いを受け、やがて、1941年10月16日付「大学・専門学校在学年限 短縮決定」を最初に適用されることになろう。

1939年5月号、4月12日付「不安の貌」を掲載した『荒地』第2輯に引用さ れたのが、「死者の埋葬」の一節であった。「しつかりzんでゐるその根は何 か。この石地から生まれでるものは何か。」とエリオットは問いかけた。そ れは、寺西がいう 大地から根と共に養分を吸収する仕事 とは、まったく 異なるものであった。

『英語 年』5月1日号に寄せた福原麟太郎「現代英文學研究の意味」は、

新学期を迎えた大学生への提言でもあった。ここで福原は、 現代文學研究 者の實踐に關する指導的責務という點に於て、現代文學の同時的研究法 が 史的研究法に高められなければならない 206とした。その指針となった のが、エリオットの「宗教と文學」であった。福原はそのテクストに注釈を 加えて、この年12月から同誌に6回にわたって連載207することになる。寺西 の「知識人と實踐」を掲載した『英語 年』は、4月以降、さまざまに、将 来を担う英文学徒への提言、いわゆる青年論を展開した。さらに1941年10月 から英文学者たちによる連載「研究の問題と方法」がはじまる208。新たな 實踐 のまえに、行動主義文学はもちろんのこと、英文学研究もまた、知 的遊戯を許されないのである。

『英語 年』で「英米文學新聲」欄を担当していたのが成田であった。

1939年3月15日号に記すように、最新の情報に詳しい成田でさえ、『タイムズ 文藝附録』1月7日号を手にして、『クライテリオン』が終刊になったことを、

やっと知ったのである。船便の時代である。情報には遅れが生じる。そして、

このとき、終刊号はまだ成田の手にとどいていなかった209。終刊号を手にし た上田保は『セルパン』5月号に、「ヨオロツパ精神の危機」210と題し、その 廃刊の辭より、ヨオロツパ精神の危機に關する部分 を訳出した。上田に よれば、 エリオツトの動向は、イギリス知識階級の暗澹たる心情を暗示す るものとして見逃しがたい からであった。

このような展開を知らぬまま、『新領土』2月号に、上田保訳 T・S・エ リオット「風の夜の狂詩」が登場する。

十二時。

(七行略)

俺の通り過ぎる街燈はすべて 絶望的な太鼓のように鳴る。

暗い空間を通して 眞夜中は記憶をゆすぶる 狂人が枯れた西洋葵セ ゙ ラ ニ ュ ム

を振るように。

その、最終部である。

電燈は云つた。

「四時、

これが君の扉だ。

記憶よ!

君はその鍵を持つてゐる。

小さい電燈は階段の上に指環を擴げてゐる 登れ。

寝臺は空だ。齒ブラシは壁にかかつてゐる

君の靴を戸口に脱げ。そして眠つて人生に備へよ。」

ナイフの最後の一捩り211

「風の夜の狂詩」は、ただちに鮎川を揺さぶった。その3月20日付、「カタ ストロフ」がそれである。

街燈は光をナイフのやうに操つて 沈黙した化石に傷をつける212

直後、3月25日付で、散文形式で書かれた「睡眠」の終わりは、こうだ。

寝床に散らばつた怠惰な骨の中から 陰鬱な眼球は 記憶に固執する時 計には花々が飾られてゐるのだなと見凝めてゐる213

これら3月の日付を持つ二つの作品が掲載されたのは、『新領土』5月号であ る。しかしながら、掲載までの経過、たとえば、原稿がいつ編輯者に送付さ れたのか、さらに、編輯担当がそのとき、上田なのか永田助太郎であったか、

定かではない。

創刊号以来、上田が編輯者であった。そして、1年後、1938年5月号に村野

が記すように、 上田氏の仕事が今月から益〃多忙になつたので、それを緩 和するために、永田氏が助手を演ずることになつた のである。この 新し い機關士は極めて獰猛で勇敢である 214と村野はいう。さらに、この年、

1939年の3月号から、永田が 編輯の一半 を上田と 分擔 することにな り、 同人の原稿はすべて 215永田に送付されることになった。奥付は編輯 者名は一貫して上田名であるが、永田はもはや助手ではなく、実質的な編輯 者となったのである。上田は『セルパン』の 海外文化情報の翻訳編集スタ ッフ として 海外の政治、文化情報の紹介、解説 216をしており、『新領 土』の編輯が負担になったのかも知れない。しかしながら、編輯方針に若干 の齟齬があったのではないか。

1939年2月号、永田との分担編輯を告げる上田は、その直前に、このよう に記している。

詩のエステティックがあまり主觀的に狭隘になることは、屡〃價値の 低下を伴ふことを忘れてはならない。時代は詩に對してもより廣い建設 的な視野を要求してゐる217

上田のいう より廣い建設的な視野 とは、3月号に明かにされる。

新時代の詩人達が、往々、日本に於ける詩の傳統を等閑に附してゐる 事實は、我々もまたこれを是認することができないが、しかし、近代詩 の世界に於いて、彼等が開拓して來た感性と知性の 史的な價値を、あ まりに過少評價する態度も、新しい世界的な視野の下に將來を展望し始 めた日本の近代詩にとつて、正しい態度ではないやうに考へられる。

藝術が國運の鏡であるとすれば、國運の進展は藝術にとつて大きな未 來を約束するものでなければならない218

傳統 は、上田に、微妙な姿をあらわしている。「できないが、しかし」と いう語り口に見られる、否定を含んだ立場をあらためて否定するという回り くどい論理は、彼の立場の揺らぎをとどめている。だが、行を改めたとき、

ドキュメント内 鮎川信夫と 『新領土』 (その3) (ページ 48-91)

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