『荒地』第2輯が刊行された1939年5月、『新領土』5月号に、 澤茂訳 A・マックリーシユ「現代詩に就いて―公衆のことばと私のことば―」が掲 載された。モダニストを自覚する鮎川に、新らたな詩法が示されたのである。
アーチボルド・マックリーシユは 現代詩の眞の意義は、現代の詩が
「公衆のことばハ ゚ フ ゙ リ ッ ク ・ ス ヒ ゚ ー チ
」に返ると云ふ事實に見出さるべきである 156と断定する。
現代詩は「私のことば」からの脱却でなければならぬ。「私のことばフ ゚ ラ イ ヘ ゙ エ ト ・ ス ヒ ゚ ー チ
」とは、
形式化され、詩化された言葉のことで、或る特種の情緒を形式化し、詩
化して秘かに傳達する目的にのみ適し、又、この目的にのみ適した言葉 であるからして他のものを傳達することは不可能な言葉である157。
これは19世紀の方法であり、いわば 茶碗藝術 158のようなものである。こ のような芸術が支配するとき、 中部英國の溶鑛爐、炭坑、飢ゑに泣く子供 に同情の眼を向けたりする者は、詩人の資格は無いと考へられた 159のであ る。だが、
「公衆のことば」とは、これに反して、形式化されぬ人間の生々した、
自然な言葉のことで、一般民衆が誰でももつ經驗を傳へることの出來る 詩である。重大な事を傳へることの出來る詩である。それは行動として の詩である160。
行動 とは、 生きてゐる言葉を復活 させることであり、 實際經驗の世 界へ飛び出すことを怖れ ぬことである。たとえば、かつてギリシャやロー マ時代には、 政治組織及び經濟等のこと、戰爭、政策、戀愛(凡ての形に 現はれた戀愛)神(凡ゆる種類の神)死(種々の形で現はれた死) を書く ことによって 彼らの時代を表現した ことがあった。 彼らの詩は公共の 言葉であつた 161のだ。
「公衆のことば」を求めるマックリーシユの立場は、明らかに行動主義文 学の立場であった。ラジオでの朗読、そして、聴衆をまえにした朗読会は、
まさしく「私のことば」を「公衆のことば」へとを転化する試みであった。
それは、抒情詩、純粋詩、そしてサタイアを越えるべき 寓話によるファン タジィ とともに、新しい詩の領土を拓く詩法を示していたのである。
その翌月、『新領土』1939年6月号に、『荒地』第2部「將棋遊び」が、上田 保訳で登場する。
「私はなにをしたらよいのですか。一體なにをしたら。」
「外に飛び出し、髪毛をたらして街を歩いたらよいのですか。
明日になつたら、私たちは何をしたらよいのでせうか。
「私たちは永久に何をしたらよいのでせうか。」162
その翌月、7月、鮎川は、彼らの『荒地』第3輯の目次裏に、ただちに、この 四行を、そのまま、転載163した。
マクニイスがいうようにエリオットは 諷刺を通り越してその向ふまで 行つてしまっていた。もちろん、 寓話によるファンタジィ ではない。マ ックリーシユがいう 形式化されぬ人間の生々した、自然の言葉 がそこに ある。 公衆のことば といえなくもない。しかし、詩が、詩法をはるかに 越えて、読者を撃ったのである。『風と共に去る』のスカーレットは「明日 は別の日なのだ」ということができた。だが、エリオットの女には明日はな い。鮎川たちにとっても、 明日 は、 時勢 のなかで、切れ目なくつづい て行く時間であった。この月、日支事変事変後、2年が経過した。
そして私たちは將棋遊びをしながら、
眼瞼のない眼を抑へ、戸を叩く音を待つのです164。
不安の貌 165でなされる 將棋遊び は西洋将棋、すなわちチェスであり、
それは、ロバアツが描いたポーカー、さらには、のちに鮎川たちがはじめる 麻雀、花札、そして競馬と等価である。これらに向けられる 焦燥した賭博 者 166の眼差しは、時勢を語る 公衆のことば に抗うものであった。
1939年11月、森川は、鮎川たちの『荒地』第4輯に「勾配」を寄せた。
非望のきはみ 非望のいのち
「季節はすでに終りであつた」。しかし、森川はこう結ぶ。
だがみよ
きびしく勾配に根をささへ
ふとした流れの凹みから雜草のかげから
いくつも道ははじまつてゐるのだ167
季節 の終わりに、「だが」と、森川に記させたのは「この石地から生れ出 るものは何か」とエリオットが問いかけていたからである。「しっかりzん でいるその根は何か?」――森川は 酒場の会話などで、当意即妙にその問 いを、誰彼となく発していた 168と鮎川は記している。
鮎川にとって、森川の「勾配」は、 同時代の詩人の作品に心から動かさ れた ほとんどはじめての経験と169なった。 作品を読んだときの感動は、
いまでもはっきりと血の中に残っている 170と鮎川は記す。そこには、「し っかりzんでいるその根は何か?」という「荒地」的な問いに対する彼の見 事な回答 171があったのである。「いのち」の極まるところで、かろうじて、
明日へ、森川は姿勢を立てなおすのだ。「いくつも道ははじまつてゐる」と。
『荒地』は肉化されていた。
春山は、もちろん、『荒地』の翻訳が登場する以前にそれがどのような詩 であるかを弁えていた。題して「アルス・ポエチカ」すなわち「詩法」。こ れは『荒地』に先立ち、1937年8月、『新領土』に発表された。彼がエリオッ トにどのように応えたか、比較されたい。
エリオツトのチエスは純粹に知的な遊戯で
スペングラが理知は文化を滅ぼすといつた言葉を思ひださせる ジイドも理知が嫌ひである
沙漠の蝶を追つかけた
ピンクと白のチエツクの寝臺で
「黄金の枝」を讀んでみる ライラツクが匂つてくるな172
エリオットの文明観は『西欧の没落』のシュペングラーがいう、知の崩壊と 一緒だな。西欧は沙漠だ。ジイドが書いたのは『コンゴ紀行』だが、砂漠に も行ったのかな。チェスの盤のような市松模様の壁紙の部屋で、『荒地』の 注にあるフレーザーの本を読んでいると、詩人が冒頭に歌ったあの花の香り
がするような気持ちになるね。――詩行は、すべて『荒地』に関する知識と その連想で構成されている。まさに、 純粹に知的な遊戯 にすぎない。春 山の脳髄は、この 蝶 のように運動しているのである。この詩法をどう呼 ぶべきか。 寓話によるファンタジィ でも サタイア でもない。春山独 自の世界である。彼は饒正太郎のように、 教訓詩 に接近する危険を冒す ことはありえない。 環境を改造し、修正 するのではなく、 主知の規律を 選んで、環境の撰擇と適應を發見 することにすべてがあるからだ。他方、
サタイアに仕上げるには、彼の知識はあまりにも常識的にすぎる。知識は 理知 あるいは 主知的活動 ではないからだ。
注目すべきは、上の詩行に接続詞がないことだ。それぞれのフレーズは連 想によって結ばれている。連想が詩を構成している。詩人の立場は必ずしも 必要ではない。その立場が連想そのものであるからだ。意識の流れの詩法と いってもいい。永田にも、同じように、接続詞はなかった。それでは、「こ とば」を繋ぐものはなにか。連想の痕跡を追ってもすべてを繋ぐことができ ない。「ことば」が「物」となっているからだ。それを切りとる詩人の立場 を想定しなければならない。つまり、主題は何かと問わざるをえないのであ る。アーチボルド・マクニイスによれば、断片からなる『荒地』の 形式上 の風變りさ は、エリオットが 主題を有つてゐたから その形式となった のである。主題は、 時間 であり 空間 であり、それが同時代だ、とい うことはできよう。しかしながら、同時代を見る詩人の立場は主題とはなり えない。そのスタイルだけが、詩人の存在を刻印しているだけなのだ。
永田の難解さは春山のような 純粹に知的な遊戯 のためでは、けっして ない。それは、村野のいう 時代的、 社會的、觀察 173そのものである。
だが、永田の 不可思議な輕蔑の文學 は、村野のサタイアの地平を逸脱し ている。なぜなら、詩人がなにものかを歌いかつ語ろうとしていることが明 かであるからだ。詩に接続詞を求めるべきではない。だが、「ことば」の断 片が 意味 をもつためには、それを繋ぐ、論理あるいは明確な主題が必要 なのだ。 同時代 という主題は、おそらく、その同時代の読者あるいは朗 読を聞く聴衆によって意味を与えられるであろう。同時代とは 時勢 ある いは 時節 にほかならないからである。ただし、同時代は時間にすぎず、
そこには論理はない。
鮎川はのちに、『荒地』に 当時の四季派の詩、モダニストの詩、その他 の詩などとはまるでちがった、暗くて、皮肉で、思索的なあるものが直観的 に感得された 174という。この回想は、最初の出会いの衝撃を伝えたものと していい。やがて、鮎川たちは『荒地』第5章の翻訳にとりかかる。その作 業は、その細部を語りあう175機会を与え、直観的に感得されたものの実体を 確認することになる。彼らの眼に 文明の頽廃に真向うから挑む真摯な詩人 の姿が、ようやく偉大な存在として映るようになってきた 176のである。そ して、その過程で、明確な、モダニストの詩にたいする鮎川の批評精神が確 立された。それが、『LE BAL』第22輯、1940年4月号に掲載された「近代詩 について(1)」である。そして、『荒地』第5輯、5月号に、「森川義信へ」と 献辞をつけた、彼らの翻訳「雷の言つたこと」が登場する。
1940年2月9日、鮎川は「近代詩について(1)」を書きあげた。翌日、4月か ら鮎川が進むことになる大学の、津田左右吉の著書『古事記及日本書紀の研 究』が発禁処分となる。11日は、紀元2600年を画す紀元節であった。彼が20 歳になろうとする冬である。
その冒頭。
黄ろい菫が咲く頃の昔、西脇順三郎と署名された詩集<Ambarvalia>
と、又同じ著者による<超現實主義詩論>とは、スタルンベルガア湖の 上に突然襲つてきた驟雨のやうに、退屈してゐたわれわれを驚かせた。
詩は單なる混濁した主情の嘆きや叫びなどの薄明の世界から解放され、
主知の覺醒によつて新しい詩の可能性への領域が開かれた。方法と技術、
これは近代詩人の重大な關心事となつてきた177。
鮎川が1940年にあってもなおモダニストであることは疑う余地はない。だだ し、モダニストを自覚した1938年の 黄ろい菫が咲く頃 178から数えてわず か2年、すでに 昔 である。その間、 方法と技術 の新しい戦略が『新領 土』誌上に展開されたのである。