ビジネス リス ク
海外での失敗事例 か ら学ぶ もの ( 上)
橋 本 光 憲
は じめに
1.本研究の基本的スタンス 2.海外での失敗事例 の集約
分析の視点 について 3.ビジネス リスクの具体的事例
対象事例 について (その 1)一般産業
は じ め に
住友金属工業が米国での自動車鋼板 の生産か ら撤退すると,2002年7月16 日の 日本経済新聞は一面 トップ記事で紹介 している。住金 を含め 日本の鉄鋼 大手は米国企業 と共同で現地生産 して きた。多 くはパー トナーの業績不振で 提携戦略の再構築 を迫 られてお り, 日系の 自動車 メーカーなどに向けた鋼板 の安定供給 に影響する可能性 もあるとの報道である。
このような撤退報道が新聞の トップ記事で報 じられるのは,珍 らしいこと と言っていい。通産省 (現経産省)の統計で も海外進出企業 については多 く 語 られるが,撤退企業 について語 られることは稀であった。 ましてや企業の
1
部門レベルの撤退 などは,世間の 目をはばか り少 しで も目立たない ように消 えてゆ くのが大部分であった。だか ら,失敗の経験が生か されることも少 な
い 。
この報道 より少 し前の 7月8日,同 じ日経紙 は,畑村洋太郎工学院大学教 揺 (東京大学名誉教授)が提唱 して F失敗学会』の設立 に向けて動 き出 した ことを報 じている。失敗 を教訓 に して同 じ過ちを繰 り返 さない ように予防す る 「失敗学」の社会‑の浸透 と研究交流 を担 う組織 を設立す るとある。畑村 教授 は 「失敗 は起 きうる もの とい う前提 に立つ ことが大切」が持論 との こ
と。
た しかに,成功事例 は語 られ過 ぎる程語 られている。 しか し,失敗事例 に こそ多 くの教訓が潜 んでいる。本稿では中々目に触 れない失敗事例 の中で, 主 に日本企業の海外での失敗事例 を調べ,そこか ら学ぶ ものを探 るのが主眼 である。そ して,過去の失敗事例 を極力パ ター ン化 し,その教訓 を最近 (主 に1996年以降)の事例で検証することによって,観点 をより堅固なもの とし て現状の分析,将来への展望へ役立てることとしたい。
事例 としては,日本 との関係か ら言 って,米国での事例が中心 となろうが, その他 ヨーロッパ,アジア等の事例 にも必要に応 じ触れることにしよう。
1.本研究の基本的スタンス
ここでは今回の研究 を始めるに当っての論者の基本的な立場 を明 らかに し ておこう。それには代表的な先行文献 に触れなが ら語 るとい う方法 を取 るこ ととする。その点で,成功事例 ・失敗事例 とい う分け方 をす る前に 「国際 ビ ジネス」 とい う観点で問題 を考 えるのが良い と思われる。論者の目に触れた 中で,次のテキス トが
,
「国際 ビジネス」 を見 るために最 も適切であろう。(1)江夏健一 ・桑名義晴編著,IBI国際 ビジネス研究セ ンター著 F理論 とケ 1)
‑スで学ぶ国際 ビジネス』同文館,2001年。
本書の構成 は以下の ようになっている。
第 Ⅰ部 グローバル時代 の国際 ビジネス 第 Ⅱ部 変わる国際環境,変わる国際 ビジネス 第 Ⅲ部 国際戟略 とマネジメン トの新展 開 第Ⅳ部 国際 ビジネス :焦眉の課題 と将来展望
同書 は本文給ページ数357ページ, 4部22章構成 (執筆者総数33名)か ら なる標準 テキス トの決定版,2種類 の事例, レヴュー とデ ィスカ ッシ ョンな どを通 じて,理論 と実践 に強 くなる !と謳 っている。そ して,事例 (ケース) としては, [ベーシ ック ・ケース] として5例 が挙 げ られてお り,本書各部 の主要 な トピックス に関連す る問題 を現実の事例 によって紹介す る役割 を担 っている。
もう一つは [ア ドバ ンス ト ・ケース]であ り,合計7例 が各章の理論編 を 読み終 えた ら,次 にその学習か ら得 た知識の総 まとめ として配置 されている。
本論文では上記の11例 をタイム リーな事例 として参考 にす る。その標題 を以 下 に示そ う。
[ベーシック ・ケース]
1 国境の壁 を乗 り越 えるハ イネケ ン
2 激変する国際環境 に迅速 に対応す るソニー ;対応 に失敗 しリス クを被 っ たナイキ
3 グローバルなフレキシビリティが競争優位性 を創 り出す ネス レ
4 米国の消費者金融サー ビス会社 :ハ ウスホール ド ・イ ンターナシ ョナル の欧州進出
5 パ ン ドラの箱 を開けたデ ・ビアス [ア ドバ ンス ト ケース]
1 変化 し続けるフォー ド
ビジネス リスク‑ 海外での失敗事例か ら学ぶ もの(上) 3
2 国際汚染輸出 とグローカル倫理 3 ブ リヂス トンの新興市場戦略
4 デル ・ジャパ ンのサプライチェー ン ・マネジメン ト 5 LG電子 ジャパ ンの現地密着主義
6 サムス ン電子の企業家精神 とグローバル展開 7 ニチメンの国際メガ ・プロジェク ト
以上,成功事例が中心であるが,ここで注意 しなければならないのは,グ ローバ リセ‑シ ョンの下での企業の消長の激 しさである。「昨 日の優良企業 は今 日の優良企業 とは限 らない」 とい う目で企業 を観察 しなければならない という事実である。
2) この点で論者の米大学院同窓である山田修氏の意見 を同氏の著書 か ら引 用 しよう。
ところで,前著 『タフ ・ネゴシューターの 「人 を見抜 く技術
」
』 (講談 社)で,私 は1985年のベス トセラー Fェ クセ レン ト ・カンパニー』 (請 談社)が選抜,選定 した14社の 「その後」 を検証 してみた。世界最良, 最善の経営モデルを有 していると,当時,同書か らお墨つ きをもらった 14社 中,今 日まで比較的順調 にやって きたのはわずか3社 しかない, と い うのが私の分析結果だった。当時,ハ イテク企業で 「世界のエクセ レン ト・カンパニー」 とされた のが,IBM,DECそ してヒュー レッ ト・パ ッカー ドであった。
DECは ヒュー レッ ト ・パ ッカー ドに吸収 され,その ヒュー レッ ト・
パ ッカー ド自身およびIBMでさえも,一度は経営上の大スランプに襲わ れ
,
「あのエ クセ レン ト・カンパニーが ?」 と言 われる事態 を経過 してきているのだ。
マネジメン トの一寸先は闇である。その ヒュー レッ ト・パ ッカー ドが 今度 は,ハイテク企業 として一時は世界最良の財務状況 を誇 ったコンパ ックを吸収合併 してIBMを追撃す るとい う。 まこと
,
「永遠のエ クセ レン ト・カンパニーなど存在 しない」 とい う,私が右掲拙著で指摘 したテ ーゼの証明例の ような話ではないか。
ヒュー レッ ト・パ ッカー ドによるコンパ ックのテイク ・オーバーはメ ガ ・マージャーの広が りが業界 を問わないことを私 たちに示 して くれた と思 う。
後 に述べ るが, 日本の銀行の海外でのプレゼ ンスの低下 も上の事例 に洩れ ないだろう。終戦一 日本の敗戦 (1945年)時,中学2年生であった論者 と同 年代以上であった人は数少 な くなっているが,それで も 「なぜ 日本は戦いに 敗れたのか」 あるいは 「なぜ 日本 は敗れるような戟いを仕掛けたのか」 と自 問する人は多い。そのような思考 についての一つの古典 ともい うべ きものに
3)
『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(1984年)がある。防衛大学の教員 を 中心 に野中郁次郎一橋大学教授等6名の共著で,年長者で も昭和2桁生 まれ のメンバーである。
テーマは 「戟史にみる日本的組織の弱点 とは」であ り,同書の説明によれ ば
,
「大東亜戦争 における諸作戟の失敗 を,組織 としての 日本軍の失敗 とと らえ直 し,これを現代の組織一般 にとっての教訓あるいは反面教師 として活 用することをね らい とした本書 は,学際的な協 同作業 による,戦史の初の社 会科学的分析である」 としている。同 じような意味で 日本企業の海外進出の 失敗事例 を扱 った文献 は,論者の知 る限 り次の著書が唯一ではあるまいか。(2)飯 田健雄 『か くして巨額損失 は海外 で生 まれた 日本企業が陥 った 4)
「失敗の本質」』 日本評論社,1998年。
著者は多摩大学教員,多国籍企業論専攻。同書 によれば
,
「なぜ海外で巨 額の損失 を繰 り返 して きたのか。 日本 を代表す る22の企業が海外で起 こした 経営危機 をケースス タディとして,国際経営戦略 を再構想する試み」とある。前に述べたが,海外か らの撤退事例が語 られることが稀 な中を,各種資料 を 渉猟 してこのような著書 をまとめ上げたのは貴重なことである。
ビジネス リス ク‑ 海外 での失敗事例 か ら学ぶ もの (上) 5
同書 に示 された22の失敗事例 とその発生時期 を掲げると,以下の ようにな る。 また,著者 はケースス タディを海外進出が本格化 した1970年代 まで遡及 しなが ら,それぞれの企業が危機 に至 った原因別 に分類 している。それは各 章の 目次 とい う形で示 されているので,併せ て略記 してお こう。
第 1章 大義 とい う毒
その1 IJPC‑ カン トリー リス クのバ イブルー (1968‑1989) その2 ヤオハ ンー熱情 と幻想 の間で‑ (1971‑1997)
第2章 知的財産権 とい う包囲網
その1 IBM産業スパ イ事件‑ プログラム された報復 (1982‑1983) その2 ミノルター忘れていた悪夢‑ (1987‑1992)
第3章 チェ ックなき組織体制
その1 安宅産業一与信管理の失敗‑ (1972‑1977) その2 大和銀行一名 目の国際化‑ (1995‑1996) 第 4章 異質社会の陥穿
その 1 伊藤忠商事 と住友商事一 日本流人事の ミス‑
1伊藤忠商事 (差別待遇,1975‑1982) 2 住友商事 (性差別,1977‑1982)
その2 ブ リヂス トンー労働組合 とい う伏兵‑ (1988‑1995)
その3 米 国三菱 自動 車 とセ クハ ラ問題一 撃破 され た心情倫 理 (1996‑
1998)
第5章 シナ ジー戦略 の逆襲
その1 コロンビア映画買収 とソニー一 人脈の晃一 (1989‑1994) その2 MCA買収 と松下電器一子会社 の反乱‑ (1990‑1996) その3 セゾングループ一文化 とい う国境‑ (1988‑1998) 第6章 バ ブルの波が崩れる時
その1 三菱地所一未熟 な買収劇 (1989‑1995)
その2 イ ・アイ ・イ ・インターナシ ョナルー華麗 なる犯罪 (1989‑1995) その3 京樽一事業拡大のツケー (1990‑1997)
第7章 経営環境の瓦解
その1 豪州 日産一産業政策の変更‑ (1976‑1992)
その2 大同コンクリー トー通貨危機 とい う異変‑ (1997‑1998) その3 日本航空一規制緩和 とい う黒船‑ (1992‑ )
第8章 国益 と企業
その1 東芝 ココム事件一骨で渡れば怖くない (1982‑1987)
その2 富士通のフェアチ ャイル ド社買収一政治的障壁 (1986‑1987)
この後,本書第9章では 「成功 とリスク」の標題の下で,以下の9項 目の 失敗防止のための 「教訓」 を掲げている。 これは上記ケースス タディの集約
と見てよかろう。
その 1 戦 う場所の戦略的ポジショニ ングを確認せ よ その2 パー トナーとの戦略的ずれに注意せ よ その3 しのびよる組織の腐食
その4 戦略的パ ターンの柔軟性 はあるか その5 生産 よりもマーケテイングが重要だ その6 本社 と子会社関係 を洗い直せ その7 戦略は時間的に変質する その8 戦略が戦術 に変わる時 その9 未来の国際経営危機 を考 える
これ等の諸点はいずれ参照することとなろう。
2.
海外 での失敗事例 の集約論者 は1980年代 の末期 ,年配の学生 として米大学院で学 んだが,国際経
ビジネス リスク‑ 海外での失敗事例か ら学ぶ もの(上) 7
営・異文化交渉関連で参考にした日本の書籍には次のようなものがあった。
D ・A.リックス著,佐々木尚人訳『海外ビジネス大失敗の研究』日本経済 新聞社, 1985年。
日経ビジネス編『敗軍の持,兵を語る j正,続 日本経済新聞社, 1978年,
1979年。
このうち,前者は国際ビジネスにおける異文化的側面からの失敗を語るも のであったが,後者は日本の事例を語るもので,参考になる点が多かった。
「敗軍の持,兵を語る jとは,元々中国の古典 I史記jの「敗軍の将 兵を 語らず
J
(戦いに負けた将軍は,兵法について語る資格がない)を逆説的に 使った言葉である。上記出版以降は本の形ではまとめられていないが,失敗 した経営者に自らを語らせ,弁明の機会を提供する切り口で,折に触れて『日経ビジネス j誌上を飾っている。「失敗学Jの観点からも貴重な資料と言 えよう。
本論文では,この「敗軍の持,兵を語る」の1996年以降の記事から日本の 企業の海外での失敗事例を拾って検討の主な対象とした次第である。ただし,
「敗軍の持Jに限らず 同誌その他で採り上げられた注目企業についても検 討の対象とした。
分析の視点について .・・別掲の個表を参照
I ビジネスリスクの具体的事例 対象事例とその特徴を示す。
時期発生の時期・期間を示す。
場所 主な発生の場所 (国・地域)を示す。
資料 1.第l項 (2 )注2書にて掲出分(該当する場合) 2.第l項 (1 )注1書にて掲出分 (該当する場合)
3.本第2項にて説明分 (,敗軍の持,兵を語るjの1996年以降の記
8 NO.24 2
∞
2事か ら)
その他の 『日経 ビジネス』掲載記事 を参照する場合 は,個別 にそ の旨示す。
4.その他参照記事 (明細 を示す) 事例 (ケース)
当該事例 を概括的に示す。
[概要] 事例の特徴 を集約する。
[経過] 発生の経過 を時系列的に示す。
業況 業況の推移 を関係情報か ら示す。
教訓 (レッス ン)
後掲のチ ェックポイン トか ら学ぶべ きものを示す。
以下,分析のチェックポイン トを経営学的観点か ら大 まかに次の ように分 類 して,チェックポイン トとして,該当する事項があればそれをコメン トと
して示す。
①経営戦略 ・組織管理 (狭義のマネジメン ト),マーケテイング
②生産 ・技術,法律 (経営環境)
③財務 ・金融 (ファイナ ンス)
④人事 ・労務 (人的資源管理)
⑤ その他
ただ し,詳述 を要 しない と思われる事例 については,上記 に拘 らず簡 略化 して示す。
Ⅰ 分析の手法
個別の事例 にうま くミー トす る とは限 らない と思 うが,主 に①企業統治 (コーポ レー ト・ガバナ ンス),⑦経営倫理 (ビジネス ・エ シックス),③企 業評価の三つの側面か ら分析 を進める。その背景 ・理由等 については以下 に 説明する。
ビジネス リスク‑ 海外での失敗事例から学ぶ もの(上) 9
企業統治 (コーポ レー ト・ガバナ ンス)
論者はかつて 「企業統治論 は,株式会社 はか くあるべ き, とい う 「べ き
」
論がほとんどで,その点で経営倫理論 に劣 っている。評者 (橋本)は企業統 治にも 「良い」
,
「並の」,
「悪い」ガバナンスがあって しかるべ きだ,と思 う」7) と述べたことがある。
企業統治 については欧米 ・日本で一定の学問的基準 を求めるのは困難 なよ 8)
うである。論者が 目に した最近の 日本の著述 では
,
「コーポ レー ト・ガバナ ンス」 とは,企業経営 を常時監視 しつつ,必要に応 じて経営体制の刷新 を行 い,それによって不良企業の発生 を防止 してい くためのメカニズムである」
としている。 これをコーポ レー ト・ガバナ ンスの定義 とするには疑問の余地 があ りそうだが,本論の ように失敗事例や注 目企業 をみるためには端的で分
りやすい物差 しと言 えるのではなかろうか。
一方,経営倫理 (ビジネス ・エシックス)か らはどの ような視点が もた ら されるだろうか。経営倫理の定義 もまた区々であるが,ここでは 日本経営倫
9)
理学会長である水谷雅一神奈川大学名誉教授 の以下の言葉 を参考 として示 しておこう。
「経営倫理の範囲は,企業経営の仝 ゆる活動 を通 じた幅広い分野につ いて,一般社会の善悪の判断基準 にもとづいた対処 と適応 を企業社会 に 求めるものである」
論者 も企業統治 と経営倫理 について,金融業 とのか らみで意見 をまとめる 10)
機会があった ので,参照願いたい。同論文では,最後 に 「金融業 における ビジネス リス クと企業評価 の問題」 に言及 して
,
「企業評価 の基準 として, 果 してビジネス リスクを持 って きていいのか」 と問い掛けた上で,第三の道として 「ビジネス リスク」 に着 目し,今後の課題 とすることを述べ た。
11)
さらに,次 の論文 で 「一般企業 ・金融業 における企業評価 に向けて」模 12)
索 した。その中で,大倉雄次郎教授 の考 え方 を紹介 した。同教授 は企業評 価 について次の二つのアプローチの混合形態 を採用することとした と述べて
いる。
① 企業評価 を財務諸表分析の立場か ら論ず るもの
② 企業評価 を経営の視点か ら捉 える もので,経営戦略がいかに企業活動 に反映 されているかを経営分析で検証 しようとするもの
論者は主 として第2のアプローチを採用 したい と考 える。前記論文では最 後 に 「良い企業」の解釈基準 に触れた。本論文はこの考 え方の延長線上 に立 つ ものであ り,海外での失敗事例 を中心 にビジネス リスクの分析 を進める。
以上,分析の手法 として①企業統治,②経営倫理,③企業評価の三つの側 面か ら分析 を進める背景 ・理由等 について説明 した次第である。
3.ビジネスリスクの具体的事例
くその 1)一般産業 対象事例 について
以下に一般企業 と金融関係 に2大別 して対象事例 と特徴,発生事期 (期 間), 発生 した主な場所 を項 目として示す。なお,これ らは問題事例ではあって も, 必 Lも失敗事例 とは限 らないことをお断 りしてお きたい。
Ⅰ 一般産業 (1)ブリヂス トン
① ファイアス トンの買収 と労働争議 (1988‑1995)米国
(ヨタイヤ事故 と大量 リコール (2000‑2002)米国
(2)三菱 自動車
米国三菱 自動車製造 (MMMA)のセクハ ラ問題 (1996‑1998)米国
ビジネス リスク‑ 海外での失敗事例か ら学ぶ もの(上) 11
(3)ヤオハ ン
世界戦略の夢,破 れる (1971‑1997)中国,他 (4)ソニー
コロンビア映画買収,高 くついた買 い物 とその教訓 (1989‑1994)米 国
(5)松 下電器
1600億 円, ドブに捨 てた授業料 (MCAの売却) (1990‑1996)米 国
(6)住友商事
一部長の独断 による鋼先物取引で3000億 円の損失 (1995‑1996)ロ ン ドン,他
(7)三 田工業
同族経営 の甘 さか倒 産 に,京 セラの完全子会社へ (1998‑2000)香港,他
(8)その他
アラビア石油,味 の素 ,新西工業,聴漬館
ビジネス リスクの具体的事例‑ Ⅰ (1) ブ リヂス トン
(ヨファイアス トンの買収 と労働争議
② タイヤ事故 問題 と大量 リコール 時期 (91988‑1995 (参2000‑2002
場所 米 国 米 国
資料 1
.
Fか くして巨額損失 は海外で生 まれた』1998年「ブ リヂス トンー 労働組合 とい う伏兵」(89‑96ペ ージ) 2.F国際 ビジネスj2001年
12 No.24 2002
ブ リヂス トンの新興市場戦略 (228‑233ページ) 3.F日経 ビジネス』
(1) 「裏 目に出 た権 限委 譲 ブ リヂ ス トンの言 わ ざる聞 か ざる」
2000年10月2日号 (36‑40ページ)
(2) 「米 ブ リヂス トン ・フ ァイアス トン どん底 か ら再 出発 も苦境 続 く」2000年12月18・25日号 (58‑64ページ)
4.『日本経済新聞』
(1) 2001.10.6 最悪のシナ リオは回避 (2) 2001.10.1 ブリヂス トン関係修復へ (3) 2002.2.23 ブ リヂス トン米事業復調 (4) 2002.4.9 ファイアス トン復活 に手応 え (5) 2002.8.9 ブ リヂス トン世界12工場増産
事例 (ケース)(ヨ
ファイアス トンの買収 と労働争議 [概要]
買収
ブ リヂス トンが アメ リカに タイヤ生産 のため に工場 を買収 したのは 1983年であった。買収 された工場 は,ファイアス トンのテネシー工場で, わずか数年で業績 は好転 し優良工場 になった。 ブ リヂス トンは 日本国内 では市場で圧倒 的優位 にあるガリバー企業であったが,アメ リカでは10 位 にも達 しない業績のため,経営陣はアメ リカでのマーケ ッ ト・シェア 拡大 を模索 していた。1988年の5月,ブ リヂス トンはアメ リカの大手 タ イヤメーカー, ファイアス トンを26億 ドル (当時の円換算 で3300億)で
TOB(株式公 開買 い付 け) を試 み買収 に成功 した。買収資金 はブ リヂ ス トンの経常利益 のお よそ8年分 といわれた。当時,ブ リヂス トンが社 運 をかけた買収 には,多 くの経済誌が高す ぎる買収 としてブ リヂス トン
ビジネスリスク‑ 海外での失敗事例か ら学ぶ もの(上) 13
経営 陣 を批判 した。
ファイアス トンは,1978年 に欠陥 タイヤ を市場 に出 して以来, リコー ル問題 に直面 し業績が低迷 し,1985年 には純利益 がゼ ロの状態 になった。
その後, ファイアス トンの業績 は回復 し,買収直前 まで には,売上高 は 45億 ドル,純利益 で も1.5億 ドル まで上昇 していた。
買収 によ りブ リヂス トンは北米5工場 ,欧州6工場 ,中南米5工場 の 合計13ヶ国の19工場 を手 中にお さめ,一気 に経営 のグローバル化が進 ん だ。アメ リカでの新会社 の名前 はBSF(ブ リヂス トン ・ファイアス トン) と決 まった。
(資料 1) [経過]
労働組合 との問題
ブ リヂス トンは,アメ リカの経営土壌 では,日本流 の経営方式 は捨 て, アメ リカ的流儀 を通 した。そのための布石 としてBFS首脳 陣 は労働協約 の改定 を持 ち出 したのである。具体 的 な改定の内容 は,(1)物価 ス ライ ド による 自動昇給制 の廃止,(2)工場 の操業 を1日8時間週 5日制か らフル 稼働 の1日12時間7日制 にす ること,(3)医療保険の従業員負担 を増 やす
とい う3大項 目であった。
しか し, この労働協約 の改定 に対 して,組合員 の反発 によ り交渉 は決 裂 し1994年7月12日に5つの タイヤ工場でス トライキが は じまった。ス トライキは長期化 の様相 を深 め操業 に支障がでて きた こ とを考慮 して, BFSは1995の1月 に代 替 要員 と して2300人 を正規従 業員 と して採用 し
た。
政府 の介入
1995年1月13日にク リン トン大統領 は,BFSのス トライキについて経 営陣 を批判 し
,
「我 々の伝統 に背いてお り, 目に余 る」 とコメ ン トした。さらに,労働省 の ライシュ労働長官 は, ク リン トン大統領 の意 向 をうけ
てBFSの小野正敏社長 と労働省 で会談 し,非組合員労働者の正規採用 を 撤 回するように要請 した。
逆境 からの反転
1994年の7月には じまったス トライキは1995年の5月末 日に終息 し た。1995年5月23日にBFSの3工場の組合支部が無条件で職場復帰する との声明をだ した
。
F日本経済新聞』 は,BFSの完全勝利 と宣言 し,餐 本の論理 を貫いたと論評 した (1995年5月24日付 け, 日刊)0(資料 1) 教訓 (レッス ン)①
ブ リヂス トンの買収か ら得 られる教訓 とはなんであろうか。それは, 逆境の中での不退転の決意 に支 えられた事業貫徹 であろう。特 に,買収 直後,収益が悪化 した時期 とBFSのス トライキの時期 には,ブリヂス ト
ンのマネジメン ト層 には大 きな逆風が吹いたことは確かである。ブリヂ ス トンにとって,前者は,収益 との戦い,後者は,アメリカ社会の中で の市民権 を得 る戟い ともいえた。 しか し,政府 をも巻 き込 んだス トライ キに対 して,ブリヂス トンが見せた ような毅然 とした態度 は必要であろ う。そ こには
,
「郷 に入れば,郷 に従 え」 の通 り,中途半端 な意志決定 ではな く,アメリカ流で大胆 に行 えば成功するとい う事例 を示唆 して く れている。(資料 1) 事例 (ケース)(ヨ
タイヤ事故問題 と大量 リコール [概要]
ブリヂス トンが全額出資す る米国子会社 ブリヂス トン ・ファイアス ト ン (BFS)の欠陥 タイヤ疑惑。米高速道路交通安全局 (NHTSA)が今 年8月, ファイアス トン製 タイヤ を装着 した米 フ ォー ド ・モー ターの RV車 「エクスプローラー」の横転事故 などに関連 して62人 (後 に103人
ビジネス リスク‑ 海外での失敗事例か ら学ぶ もの(上) 15
に修正)が死亡 した可能性が高い と公表すると,BFSの責任 を追及する 声は僚原の火のごとく全米 に燃 え広がった。事件の徹底究明に乗 り出 し た米議会の最大の関心の1つは,BFSが 「いつか ら問題 を把握 していた か」 だ。
[経過]
◎ブリヂス トン ・ファイアス トンのタイヤ事故問題の経緯
1996年6月 米 ヒュース トンで地元テ レビ局が フォー ド・モーター
2000年2月
の 「エ クスプローラー」でファイアス トン製 タイヤが 破損 して死者が出た と報道
米 メデ ィアがフォー ド 「エ クスプローラー」で フアイ アス トン製 タイヤが破損 して多数死者が出たと報追
5月8日 米高速道路交通安全局 (NHTSA)が ファイアス トン 製 タイヤ3種類の調査 を開始
8月 4日 フォー ド,ファイアス トンの米デイケ一夕一工場が製 造 したタイヤが問題 と公表
9日 ファイアス トンが 「ATX」 な ど3種類 の タイヤ650万 本 を自主回収すると発表
15日 NHTSAが ファイアス トン製 タイヤ装着の 「エ クスプ ローラー」のせいで62人が死亡 した可能性あ りと発表 (9月に103人 と修正)
22日 ブリヂス トンが国内工場で タイヤを緊急増産 し,米国 での 自主回収後のタイヤ供給 に備 えると発表
31日 フォー ドのジャック ・ナ ッサー社長が会見で 「問題 は タイヤにある」 と言明
9月6日 米上下院で欠陥 タイヤ問題 に関す る公聴会。 ファイア ス トンとフォー ド両社首脳 らが証言。
11日 ブリヂス トンの海崎洋一郎社長が タイヤ事故問題 に関 16 No.24 2002
して東京で初会見
12日 米上下院で欠陥 タイヤ問題 に関す る2回 目の公聴会 (資料3.(1)) 教訓 (レッス ン)(令
78年 に今 回の650万本 を上 回る700万本超 の リコール を出 し,ほ とん ど 死 に体 になったファイアス トン。 ブ リヂス トンはそれを88年 に26億 ドル で買収 し,米 国事業拡大の足掛 か りとした。当時 は
,「1
日に 1億 円の 赤字 を垂れ流す」 ほ どだったが, この状況 に終止符 を打 ったのが,91年 か ら93年 までBFSのCEOを務めた海崎その人だった。クリン トン米大統領 の憂慮 を表明す るほ ど激烈 な リス トラに剛腕 を振 るった海崎 は,BFSを99年 に営業利益5億4000万 ドルを生 むほ どの企業 に再生 した。米国か ら凱旋 して93年 にブ リヂス トンの社長 に就任 した後 も,国内外 で徹底 したコス ト削減や リス トラを実施,磐石の収益体質 を 築いた。
海崎は 「ソニーや松下電器産業で も失敗 した海外 での買収 を成功 させ たエ クセ レン トな経営者」 として時の人 となる。一方で,栄光 を手 に し た経営者の常か
,
「周 囲が諌言 を呈 しに くい "帝王" となって しまった」
との声 も出始める。
(資料3.(1))
チェックポイン ト コメン ト
経営戦略 ・組織管理 (マネジメン ト),マーケテ イング [経営戦略 ・マーケテ イング]
ブ リヂス トンの世界市場での戦略は,各地域市場で1位 あるいは存在 感のある強い2位 になる とい うものである。 1位 のアジア,2位 の北米 はこの 目標達成が視野 に入 っているが, シェア10%台で2位 グループの 一員 に過 ぎない欧州 においては, フォー ミュラ ・ワン参戦 を前面 に拡販
ビジネス リス ク‑ 海外 での失敗事例か ら学ぶ もの (上) 17
を回っている。
(資料2)
[組織管理]
中近東 (サ ウジアラビア)や米国の事故情報が当時の本社社長 (元米 国CEO,交代済み)に上 っていなかった (資料31(1)‑特別 イ ンタビュ ー海崎洋一郎氏 [ブリヂス トン社長]本当に事実 を知 らなかった フォ ー ドには断固反論する。)
訴訟動向 も同様で,組織管理の欠陥が露呈 されている。
生産 ・技術,法律 (経営環境) [生産]
フォー ドとの取引再開視野 ランペ会長に聞 く
‑米ゼネラル ・モーターズ (GM)に2000年8月の リコール問題以来初 めてファイアス トンブラン ドの新車向けタイヤを年間250万本供給す る 契約 を結 んだ。
一昨年5月に取引 を解消 したフォー ド・モーター との関係は。
「フォー ドは経営陣が刷新 され, フォー ド一族のウイリアム ・フォー ド氏がCEOに就任 した。当社 に対する姿勢が大 き く変わった。互いの 信頼 と尊重が ビジネスの前提だが,フォー ドの前経営陣にはそれが存在 しない と感 じ取引 を打 ち切 った。現在 はいろいろなレベルで話 し合いを 続けてお り,信頼 と尊重が回復する手応 えを感 じる」
(資料4.(4)) [技術]
ファイアス トンタイヤの表面剥離の原因 (サ ウジアラビア) を,砂漠 で走 りやす くするために, タイヤの空気圧 を低 くしたまま一般道 を高速 で走 ったか らと結論づ けた。 (資料3.(1)) フォー ドのエクスプローラ ーはタイヤに26ポ ン ドとい う低い空気圧 を設定 している。米ゼネラル ・ モーターズの同 じような車では35ポン ド。
(資料3.(1)) [法律]
リコール関連 の訴訟 について 前期 まで に累計 で10億5000万 ドルの訴 訟費用引当金 を特損 として計上。訴訟費用 の総額 は 「ほぼ引当金 の範 囲 内 に収 まる見通 し」 (財務本部)で,今期 に リコール に関す る追加損失 が生 じる可能性 は小 さい。現時点です で に600件 弱 の和解 が成立 した と
いつ。
(資料4.(3 財務 ・金融 (ファイナ ンス)
2001年12月期 の連結売上高 は前 の期比6%増 の2兆1338億 円だ った。
競争激化 で販売単価が下落 しているほか,米 同時 テ ロ以降の米景気 の冷 え, さらに,財務体質の強化 を狙 い,ブ リヂス トンは ファイアス トンに 対 して1月 に約1700億 円 を追加 出資 した。 ファイアス トンは この資金 を 有利子負債 の返済 に充ててお り,今期 は支払利息 を5000万 ドル削減で き
る。
(資料4.(3)) 人事 ・労務 (人的資源管理)
米 ブ リヂ ス トン ・ファイアス トン
タイヤ破損 で死者 と損害 を出 して経営危機 に陥 り,経営 陣 を刷新。
米 国人 の新CEOは, ブ リヂ ス トンか らの派遣 幹部 と信 頼 回復 狙 う。
(詳細省略)
(資料3.(2)) 労働争議 関連 については,事例 (ケース)(∋を参照
結 論
ブ リヂス トンの対 米進 出は, 「日本企業 に よる唯一 の米 国企業買収 の 成功例」 とい う称賛 を受 けたの もつかの間, タイヤ破損事件 で信用 はす っか り地 に落 ちた。
ビジネス リスク‑ 海外での失敗事例か ら学ぶ もの(上) 19
(資料 3.(2)) ファイアス トンは,1978年に欠陥 タイヤを市場 に出 して以来, リコー ル問題 に直面 し業績が低迷 し,1985年 には純利益がゼロの状態 になった。
(事例 (ケース)(∋を参照)それなのに, また リコール問題 を起 こ して しまった。その教訓が生 きていないのである。
この成功企業 を襲 った新 たな トラブルを 「不運」 と呼ぶべ きか
,
「不 用意」 と見 るべ きか。海外での失敗事例が多いだけに, この世界的企業 の成 り行 きが注 目されるところだ。ビジネス リスクの具体的事例‑Ⅰ (2) 三菱 自動車
米国三菱 自動車製造 (MMMA)のセクハ ラ問題 時期 1996‑1998
場所 米国 (イリノイ州)
資料 1
.
『か くして巨額損失 は海外で生 まれたj1998年「米国三菱 自動車 とセクハ ラ問題一撃破 された心情倫理‑ (97‑
105ページ) 2.F日経 ビジネス
』
(1) 「敗軍の牌,兵 を語 る」大井上恒男氏 [米国三菱 自動車製造会 長]「認識甘かったセクハ ラ 組織硬直化 にも気付かず」1996年
7月1日号 (95‑98ページ)
(2)特集 会社が壊 れる 「リス ク不感症 三菱 自動車の諦め と馴 れ 合い」2000年10月2日号 (28‑30ページ)
(3)特 集 会社 が壊れる 久保利英明氏 「危機意識 なき トップが会 社 を滅 ぼす 現場 を支える中間層の能力 ア ップ急げ」2000年10 月2日号 (56‑59ページ)
3.Fェ コノミス ト
』
「主要11業界総力決算分析」2002年6月11日号 20 No.24 20024.『週刊 東洋経 済
』
「自動車 エ クロー ト氏 が仰 天 人事」2002年 6月15日号事例 (ケース) [概要]
セ ク シュ アル ・ハ ラス メ ン ト問題 で窮 地 に立 った米 三菱 自工 の責任 者。 「初動」 の ミス を反省 ,三菱 自工全体 の組織上 の問題 をに じませ る。
リス ク管理 にかけ る コス トは必要経費 ,米市場‑ の 「入場税」 と振 り返 る。
提訴 の発 端 は4年前 にさかのぼ る
◎MMMAのセクハ ラ問題 の経緯
92年11月 MMMAの29人 の従 業員 や元従 業員 が , セ クハ ラや昇 進昇
〜93年8月 格 での女性差別 を理 由 に米 ・雇用機会均等委員会 (EEOC)
に申 し立 て
94年5月 EEOCがMMMAに質問状送付
12月 29人,連邦地裁 ペ オ リア支部 (イ リノイ州)‑提訴 95年8月 EEOC,MMMAに13項 目の勧告。MMMAは従業員 の解雇
権 な どに関す る2項 目を除 き受 け入 れ
96年4月 EEOC,連邦 地裁 ペ オ リア支部 にMMMAを米公 民権 法違 反 の提訴
MMMAの従 業員 約2700人が , シカ ゴ市 内 のEEOCの前 で 大規模 な抗議 活動 (デモ) を展 開,提訴取 り下 げ を求 め る 抗議文 を提 出
民主党女性議員パ トリシア ・シュロ‑ ダー氏が斉藤駐米大 使 に,MMMAを批判す る書簡 を送 る
5月 黒 人指 導 者 ジ ェ シー ・ジ ャ ク ソ ン師率 い る 「虹 の連 合 」, 全 米女性機構 (NOW), オペ レー シ ョンPUSHの人権擁護
3団体 が ,全米 の三菱 自工 デ ィー ラーへ の抗議行動 を開始 ビジネス リス ク‑ 海外での失敗事例か ら学ぶ もの (上) 21
リン ・マーチ ン前労働長官,MMMAが社 内制度改革のため 新設 した社外調査団の団長 に就任
(資料2.(1)) [背景]
訴訟社会の現実
外国に進出 した企業が労務政策で失敗する場合,人種差別 としてはね かえ り,告訴 されるケースが多い。代表的な例 は,1975年2月に起 こっ たアメ リカ伊藤忠での雇用差別事件,1977年のアメリカ住友商事事件で ある。 これ らの事件 は20年以上前 になるが, 日系海外企業の労務対策で のよき教訓 となる。 また,最近のケースはアメリカ三菱 自動車雇用差別 事件がある。雇用差別事件 は,事件のスキャンダラス性か らみてマス コ ミの格好の攻撃対象 とな りやすい。 日本の土壌 と違 って,アメリカでは 人権団体や法律事務所 によって事件 は増幅 されやすい。職場 における男 尊女卑 とい う性差別 も時 として,政治的パ フォーマ ンスによって針小棒 大 に取 り扱 われる傾 向 もあ り,裁判によっては多額の罰金を課される可能 性 も大 きい。
1991年,アメリカで新公民権法が成立 した。この法律の制定 によって, 日系企業は人権 とい う観点で従業員 に訴訟 を起 こされる機会が多 くなっ たことを意味 した。特 に, 日系 アメリカ企業内部で 日本人駐在員が, 日 本的価値観の態度の もと,人種的マイノリティ ・グループやアメリカ女 性 に接する時は きわめて危険な行為 に転化する。 日本では許容範囲 とさ れる言動が,アメリカでは, きわめて不愉快 なもの として,セクハ ラの 対象 とされるか らである。
(資料1) [経過]
正 しい戦略へ
MMMAの早期対応のまず さ,企業 イメージの失墜 は決定的であった。
22 No.24 2002
しか し,MMMAもEEOCに対 してアメ リカ流 の正攻法 を しかけ,抗議 運動 に対 して適切 な戦術 に転換 してい く。
それは,著名 な有識者の意見 を もってEEOCに打撃 を与 える とい うも のであった。特 に,EEOCに対 して政治的に優位 に立つため に, この有 識者 グループの リー ダーにブ ッシュ大統領時代 の労働 長官 であ った リ ン ・マーチ ンを担 ぎだ したことである。 リン ・マーチ ンが,第三者的な 社外調査 団の団長 になって以来,抗議運動 は以前 ほ どは盛 り上が りを欠 くようになって くる。 これによ り,対立 は リン ・マーチ ン社外調査 団対 人権団体 の構図 となったか らである。特 に,その大 きな転回点 は,7月 にMMMAが リン ・マーチ ン率 いる社外調査 団の勧告 を受 け入れ,社 内 のセクハ ラ防止の対策 を強化す る職場改善声明にあった。
この後,MMMAは,一連 のセ クハ ラに対 す る抗議運動 に大 き く煽 ら れることな く,メデ ィアに対 して も大 きな牽制球 を投 げたのであった。
教訓 (レッス ン)
雇用差別 をおこさないために も,現地雇用の習慣 を知 るだけではな く, 十分 な法律 的フレーム ・ワークを組織 にカバー してお くため,弁護士事 務所 との連携 も必須 であろ う。特 に,現地化の度合いが低 く, 日本企業 文化の飛 び地 ともいえる銀行や商社 は要注意であろ う。 日本人社員の比 率 (平均 で現地社員5:日本社員5)が高い商社 では,意図せ ざるとも,
日本的人事慣行が まか りとお り,現地社員の労働意識や勤務態度 を侮辱 して しまうケースが多い とみ られる。
また人事 は トップを除いて,現地のス タッフに任せ るべ きである。 日 本人が現地の人事 に極端 に介入す ることは,現地での社会習慣 を犯す可 能性 もあ り危険である。 また,労使紛争がお こった とき,心情 に訴 える お涙頂戴型の解決 に固執する方式 は,アメ リカでは逆 に裁判 に持 ち込 ま れ敗訴す る可能性がある。
(資料1)
ビジネス リスク‑ 海外での失敗事例か ら学ぶ もの (上) 23
三菱 自動車 はダイムラーの傘下で再建が進 め られている。 この企業 を 観察す る と,北米 の子会社 のセ クハ ラ事件 に問題 は留 まっていない との 感が深 い。その後表面化 した リコールの隠蔽事件 に見 る企業風土 ,社長 の度重 なる交代 な ど,企業統治の欠如 を思 わせ る ものが多過 ぎる。 これ が会社再建 の足 を引 っ張 る要素 とな らなければ と懸念 される。
チ ェックポイン ト コメン ト
経営戟略 ・組織管理 (マネジメ ン ト),マーケテ イング
「組織管理」
海の向 こ うで小 田原評定 経営現地化 の未熟 さ露呈
巷 間
,
「人 の三井」 に対 して 「組織 の三菱」 といわれ るが,今 回 これ が裏 目に出て しまった。肝心の組織が硬直化 し,機敏 な対応が とれなか った。三菱 は組織 で動 くといわれなが ら,実態 は各組織 の長 に権 限 を委 譲 していない こ とが,図 らず も露呈 して しまった。EEOCが提訴 した直後 ,大井上会長が来 日した こ とが,その辺 の事情 を如実 に物語 っている。大将が戦場 にお らず,海の向 こうの東京 で小 田 原評定 に参加 していては,適切 な処置が とれるはず もない。塚原董久社 長が病気 だったこ とがそれに輪 をかけた。
対応が遅れたのは経営 の現地化 とも無縁 ではない。経営 の現地化 とは, 決 して現地 の人 を トップに据 えるこ とで はない。問題 が発生 した場合 , 即座 に対応 で きる経営組織 にす ることだ。
(資料2.(1〉一本誌編集部)
「企業統治
」
非常識 な社長人事 とセクハ ラ事件
風通 しは悪 い。で も社 内の碇 に従 っていれば 自分 の立場 は守れ る。上 か ら下 まで,事 なかれ主義のぬるま湯 に漬 か り始 めていた。会社全体 を 24 国際経営論 集 No.24 2∝)2
包み込 む, リス ク とい う炎 に無警戒 だった。
そ んな企 業体 質 を決定づ けたの は,河漆 の3代 前 の社 長 , 中村裕 一 (現相談役)であ る。
相次 ぐヒッ ト車 を飛 ば した実績 を楯 に権力 を握 った中村 は95午,誰 も が次期社長 レースの本命 だ と思 っていた常務 ,鈴木元雄 を後継者 として 指名せず
,
「子飼 い」 の塩原薫久 を後任 に据 えた。塚原 は,長年工場 で 生産管理 を中心 に担 当 して きた,いわば裏方 だ。そんな時,米 国三菱 自動車製造で 「セ クハ ラ事件」が起 き,米 国の消 費者か ら猛反発 を受 けた。対応 を誤 った塚原 は社長業 の重圧 に耐 え きれ ず,病 に倒 れ,わずか 1年で降板 して しまう。塚原 を 「強行指名」 した 中村へ の風 当た りは当然強 まった。 だが 中村 は, また も当時副社長 にな っていた鈴木 をはず し,腹心 の木村雄宗 を社長 に した。
その木村 も 1年 で中村 とともに総会屋へ の利益供与事件 で退陣,河漆 に後 を託す こ とになる。 3年で 3人の社長が誕生す るとい う異常事態 と なったが,社 内 に動揺が走 ったか といえばそ うで もない。
(資料2.(2)) 生産 ・技術 ,法律 (経営環境)
セ クハ ラ問題 は,1997年の8月 に三菱 自動車工業が原告 と和解 した。
さらに,EEOCとも1998年6月 に和解が成立 した。三菱 自動車工業が支 払 う損害賠償額 は, アメ リカのセ クハ ラ訴訟 史上 で最大 の3400万 ドル
(48億 円) とい う金額 になった。
(資料1)
人事 ・労務 (人的資源管理) 本件 の経緯 を参照
ビジネス リスク‑ 海外での失敗事例か ら学ぶ もの(上) 25
結論
三菱 自動車の 「リコール隠蔽問題」の発覚
‑ "悪い"情報 を遮断する体質
三菱 自動車社員の運輸省への告発 によって7月18日に明るみに出たク レーム隠 しの問題 は,その後,62万台の リコール,運輸省 による行政処 分,社長の河添克彦 の辞任表明につ なが る大事件 に発展 した。三菱 自動 車 は1996年 に米国でセクシュアル ・ハ ラスメ ン ト (性的嫌が らせ)問題, 97年 には総会屋利益供与事件 を引 き起 こ している。
(資料2.(2)) 危機意識 なき トップが会社 を滅ぼす
三菱 自動車 も,セ クシュアル ・ハ ラスメ ン ト (性 的嫌が らせ),総会 屋事件 と2つあったわけです。 この時, トップが 「ス リース トライクが 来た ら潰れる」と思 ったか どうか。多分,潰れない と考 えたので しょう。
だか ら,体質変革がで きなかった。覚悟 の度合いがだいぶ違 った。
実は,前の法律事務所 にいた時,僕 は三菱 自動車の顧 問弁護士 だった んです。講演で 「我が事務所の顧客企業 は,1社 た りとも総会屋へ利益 供与 してい ませ ん」 と胸 を張 っていたのに,それが発覚 した。総会運営 を指導 して きた顧問弁護士 に対 して,これ以上の裏切 りはないで しょう。
僕 の方か ら契約 を切 りま した。
弁護士 久保利英明氏 (資料2.(3))
ビジネス リスクの具体的事例‑Ⅰ (3) ヤオハン
世界戦略の夢 ,硬 れる 時期 1971‑1997 場所 中国,他
資料 1
.
Fか くして巨額損失 は海外で生 まれたj1998年「ヤオハ ンー熱情 と幻想の間で
‑
」 (25‑37ページ) 2.F日経 ビジネス』(1) 「敗軍の将,兵 を語 る」和 田光正氏 [ヤオハ ンジ ャパ ン社長]
売 り上げ至上主義は誤 り 「静岡の八百屋」 に戻 る 1997年4月7日号 (113‑116ページ)
(2)フォーカス ひ と 和 田一夫氏 [国際流通 グループヤオハ ン代 表]「華僑 の手のひらで踊 った中国事業 イエスマ ン集めた 「裸 の王様」の悲劇」田中信彦,1997年11月10日号 (76‑79ページ) 3.和 田一夫 r大失敗か らの ビジネス学j角川書店,2002年
事例 (ケース) [概要]
八倍伴 グループ (本部 ・上海市)の中核企業であるヤオハ ンジャパ ン は今年2月に,数々の リス トラ策 を発表 しました。内容 は,国内の新規 出店 をしば らく控 えることや,膨れ上がった有利子負債の削減などです。
拡大一辺倒で きた経営 を見直 して,収益体質 を強めるのが 目的です。
八伯伴 グループは1990年 に本部 を香港 に移 し,グループ代表の和 田一 夫がそこに移 り住 んで経営戦略 を練 って きました。本部 を海外の置いた のは,成長が著 しいアジア市場 に力点 を置 くためです。具体的には香港 や中国などアジアでの店舗展 開 と,本業の小売業だけでな く卸売業へ事 業 を拡大 しようとい う狙いがあ りました。小売 りと卸 という2つの那門
を持つ ことで,経営の安定 を図るのが 目的で した。
当時,ヤオハ ンジャパ ンの副社長だった私 も,シンガポールに移 り住 み,国際卸売 り流通 セ ンター 「IMM」 の立 ち上 げに励 み ま した。八伯 伴 グループは, 日本 と香港,シンガポール,そ して中国 とい う4つの市 場に根 を下ろ して,21世紀への基盤 を固め ようとしたわけです。
しか し,それか ら7年が過 ぎま したが,当初の狙いは必ず しも成功 し
ビジネス リスク‑ 海外での失敗事例 か ら学ぶ もの(上) 27
てい ませ ん。ヤオハ ンジャパ ンと,それを含 めた八伯伴 グループの有利 子負債 は,96年3月期末でそれぞれ1018億 円,1646億 円まで膨 らみ,財 務 内容 は厳 しい状況 になってい ます。積極 的に海外投資 を進めて きたに
もかかわ らず,利益が出ていないのが現状です。
和 田 光正氏 (資料2.(1)) 日本の百貨店事業が行 き詰 ま り,中国事業の継続 も困難 に。強烈 な海 外志向が急成長 をもた らしたが,ブ レーキが利かなかった。華僑 との連 携,中国の歓迎ぶ りが 自らを過大評価 させてい く。耳 に痛い話 を遠 ざけ, 社員 を顧 みない姿勢 は 「裸 の王様」 その もの。宗教的な信念 に由来す る 楽観主義がつ まず きの底 を流れる。
(資料2.(2)) [経過]
ヤオハ ンの海外展開の軌跡
ヤ オハ ンは熱 海 の八百屋 か ら出発 したス ーパ ーマ ーケ ッ トであ り, 1930年が創業の年 にあたる。その後,約40年間は静岡県 を基盤 とする地 元有力スーパーマーケ ッ トにお さまっていた。
ヤオハ ンは1971年9月にブラジルに進出を始める。ヤオハ ンも日本全 国への展 開を狙 っていたが,イ トー ヨーカ堂や ダイエー といった大型資 本 によって,利益 の うま味が 日本 には もはや存在 しない と実質的創業者 である和 田一夫が判断 したため といわれている。1974年 にはシンガポー ルに出店 した。 しか し,ブラジル店 はブラジルの悪性 インフレによ り財 務状態が悪化 したため1977年 に撤退 した。その後,1981年 にコス タリカ とアメ リカ,1984年 に香港,1987年 にブルネイ,マ レーシア と継続 して 出店 していった。1990年 には,本格的中国進出の戦略の要 として本社 を 香港 に移転 した。1996年の時点では 日本 を除いて15カ国で150店舗 ,従 業員1万5000人 を数 えるまでに急増 した。
(資料1)
そ して倒産
ヤオハ ンの倒産 は,1996年11月1日にヤオハ ン創業40周年記念パーテ ィを帝国ホテルで大 々的に挙行 してか ら1年 ももたなかった。1997年9 月18日にヤオハ ンは静 岡地裁 に会社更生法の適用 を申請 した。倒産直前 のエ ピソー ドとして,和 田一夫 は華僑系友人か ら200億 円の融資が可能 になった と記者会見で発表 したが真剣 に とりあ う銀行 ・取引関係者 はい なか った。倒産 による給負債額 は1600億 円であった。和 田一夫会長 と和 田光正社長 は経営責任 をとり辞任 した。なお,金融機関のヤオハ ンに対 す る貸 出債権額 は東海銀行 の100億 円を筆頭 に全体 で452億 円であった。
ヤオハ ンが発行 した転換社債で償還 に応 じられなかった分 は戟後初の債 務不履行 となった。
ヤオハ ンは,会社更生法 申請後の翌月にジャス コの再建支援で破産 は 免れた ものの和 田一族のヤオハ ン支配は事実上終蔦 した といえる。
(資料 1) 教訓 (レッス ン)
社内の意志疎通欠けていた 金融機関 との付 き合 い方 も反省
4つの市場 を柱 に努力 して きたのに, どうしてこうなって しまったの か。振 り返 って反省点 を挙 げてみたい と思い ます。
1つは,各拠点の間のコ ミュニケーシ ョン不足 です。私 自身はシンガ ポールや タイでの事業展開に必死で した。 しか し今思 うと,それぞれに 夢 中になっているうち,グループ全体の把握が遅れて しまい ま した。 グ ループの事業 をもっと精査 して,理解 を深 めていれば, もっ と早 く現状 を的確 につかめた と思い ます。
2つ 目は,売 り上 げ至上主義 に走 って しまったことです。 これは当社 だけでな く, 日本企業全体 に言 えることで しょうが,売上高や経常利益 が増 えれば,その中身はあ ま り問わない とい う雰囲気が社内にあ りま し た。規模 の拡大だけに目を奪 われたのです。 もっと,貸借対照表やキヤ
ビジネス リスク‑ 海外での失敗事例か ら学ぶ もの(上) 29
ッシュフロー といった点 にも気 を配るべ きで したが,バ ランス感覚 に欠 けていました。
3つ 目は,金融機関 との関係 をきちんと築いていなかった点です。八 伯伴 グループはこれまで,株式市場か ら直接,資金 を調達 して拡大路線 を歩んで きました。市場か ら簡単 におカネが入るので, どうして も金融 機関 との十分 な関係 をつ くれなかったのです。
それが結果的に,金融機関か ら
,
「八伯伴全体が よ く分か らない」 と か 「我 々の言 うことを聞かない」 といった声が出る原 因にな りました0 さらに当社が リス トラを始めた時には,「今 まで 自分勝手 にやっていた のに,困った時だけ助けを求めるなんて, とんで もない」 とい う反応 に なって しまったのです。皆 さんに申 し訳 ない気持 ちでいっぱいです。和 田光正氏 (資料2.(1))
チ ェックポイン ト コメン ト
経営戦略 ・組織管理 (マネジメン ト),マーケテイング [経営戦略]
中華経済圏での見果てぬ夢
「我々 も香港,台湾,中国のグレータ‑チ ャイナで成功 し,流通業で のソニーにな りたい
。
」 (『日経 ビジネス』1994年4月11日号)。 これが和 田一夫, 自らの事業 を中核 とす る中華経済圏への思い入れであった。特 に,和 田にとっては,中国の経済発展 にともなう爆発的購買力の拡大の 中に,創業者利益 と事業 ロマ ンを兄いだ したに違いない。和 田一夫は中 国人 口1%顧客獲得説 を力説 していた。人口1%の客で も,中国では 1000万人以上 となる。その具体的行動が中国経済のゲー トウェイである 香港への本社移転であ り,2000年 までに中国での売上10億 ドル,さらに, 2010年 までに実現 させると標模 した中国全土1000店舗構想であった。(資料1)
[組織管理]
華僑的 コ‑ポ レー ト・ガバナ ンス
ヤオハ ンの企業組織 は国際流通 コングロマ リッ トを指 向 ・形成す る点 でお よそ 日本的なコーポ レー ト ・ガバナ ンス として特徴づ け られる もの ではなかった。ヤオハ ンはヤオハ ン ・イ ンターナシ ョナル ・ホールデ ィ ングス (株式非公 開 ・中国展 開ベ ース),ヤオハ ン ・ジャパ ン (日本ベ ース),IMM (中国以外 の海外 部 門統轄) の主 要3部 門か らなってい る。
ヤオハ ン ・グループの経営構造 は非常 に複雑で分か りに くい。ヤオハ ン ・グループの株持 ち合い構造 の頂点 には,ヤオハ ン ・イ ンターナシ ョ ナルを構成 している和 田家が君臨 している。ヤオハ ン ・グループは純然 たる和 田家の会社 である印象 はぬ ぐい きれない。 しか も,ヤオハ ン ・イ ンターナシ ョナルは株式非公 開であ り,経営のデ ィス クロージャーはほ とんどなされていない。 この点で,経営 の支配構造 は財務管理が家族 ・ 血縁 によって握 られ資金の流れが不透明である華僑資本 の企業 と酷似 し ていた。
(資料1) [マーケテ イング]
決定的蹟 き
和 田一夫の予想 に反 し,ネクステージ上海の1996年度の売 り上 げは当 初見込みの2分の 1弱の約100億 円に とどまった。多 くの上海市民が開 店直後 にネクステージ上海 につめかけたが,実際の ところ大部分が販売 に結 びつかない物見遊 山の客であった。彼 も述懐 しているように,ネク ステージ上海 は価格 の絞 り込み を読み違 えていた。開店後,6カ月の間 も購買層 の需要 と価格帯が ミスマ ッチ し,商品が売れ残 る状態 は,明 ら かにマーケテ ィング戦略の失敗であ り,事前調査 の怠 りではなかったろ うか。
ビジネス リスク‑ 海外での失敗事例か ら学ぶ もの(上) 31
(資料1) 生産 ・技術 ・法律 (経営環境)
[法律]
ヤオハ ンの醜聞は倒産劇で も終 らなかった。1998年10月9日,和 田一 夫会長 をは じめ とする旧経営陣は粉飾決算 による違法配当によ り告訴 さ れた。 (資料1)
1989年,還暦 を迎 えた和田一夫代表は代表取締役社長の座 を次弟 に譲 り,会長 に退いた (翌1990年,香港 に移住,1996年 には上海 に移住)。
1995年,ヤオハ ンジャパ ンは,1986年東証一部上場後初めての連結赤字 に陥る。
◎
「粉飾決済」が生 まれて しまった理由1996年の黒字決算は,利益 を水増 しするための操作があった 「粉飾決 算」 だった。1997年 になってか ら,ついに次弟 を辞任 させ,私が現場責 任者 として営業本部長 に就任す るとともに,新社長 には四弟 (論者注, 和 田正光氏,≡弟 は初期 に失敗 したブラジルに残留) を就任 させたが, この人事 を断行 した時点で も粉飾決算があった事実 を知 らなかった。そ して,このことが 「再建」 を不可能にさせて しまった。
この粉飾決算 については,当然 なが ら,のちに社会的に罪 を問われる ことになった。 (中略)
また,話は少 し先のことになるが,ヤオハ ン倒産か ら半年以上の時間 がたった1994年4月,次弟のあ とを継いで社長 に就任 していた四弟が急 死 している。 (中略)
私の身代 わ りのように先立たせて しまったことを悔やむとともに,そ の死 を決 してムダに してはいけない とい う気持 ちも強 くした ものであ る。「四弟の分 までや り残 しのない人生 を送 らなければな らない」 と考 えたことも,この直後 に私が再起の第一歩 を踏み出 した理由のひとつに なっている。
(和 田一夫,資料3,177‑186ページ) 財務 ・金融 (ファイナ ンス)
直接金融の買
ヤオハ ンが資金 を調達する上で銀行か らの ファイナ ンス を受けるよ り 直接金融 にアクセス したのはバ ブル経済時代 の高金利 を反面教 師 とした か らであろう。その時期 は,ヤオハ ンが国際事業展 開 を積極 的に進めて い く時期 と軌 を一 に している。それゆえ,ヤオハ ンに とって強力 なメイ
ン ・バ ンクは存在 しなかった。
ヤオハ ン ・ジャパ ンは,1990年以降 に転換社債, ワラン ト債 で600億 円調達 している。 さらに,ヤオハ ンは もう一つの直接金融 による財務戦 略 をあみだ した。す なわち,香港 でM&Aをお こないつつ,買収 した企 業 を香港で上場 させ,得 られた資金で さらに企業 を買収 してい くバ イ ・ バ イ ・ゲームである。ヤオハ ンはこの買収方式 によ り
,
「香港 ヤオハ ンデパー ト」
,
「ヤオハ ン国際飲食」,
「ヤオハ ン食品製造貿易」 を上場 させ た。ところが中国での積極 的展 開は期待 されていた以上 の ものではな く, バ ブル経済の崩壊か らくる株価 の低迷 によ り,転換社債 の償還 に苦 しむ
ことになる。転換社債発行時 にはヤオハ ンは資金的に潤沢 になった。 し か し,償還期限は株価低迷の時期 と重 な り,株式 に転換す る社債所有者 は皆無であ り,全額償還 に伴 う資金操 りの悪化 は目に見 えていた。ヤオ ハ ンは,1996年12月の ワラ ン ト債117億 円の資金操 りに窮 して財務悪化 が公表 された。その後の転換社債 の償還スケジュールは,ヤオハ ンの体 力 を削 ぎ落 とす ような ものであった。1997年5月 (96億430万円),1998 年 (87億750万 円),1999年5月 (88億390万円),2001年 (198億2800万 円),全体では5年 間に約600億 円の償還金額 に達 した。結局,償還 に応 じられたのは,1996年12月分 と1997年5月分 の2件 であ り,それ も金融 機関か らの援助 に頼 らなければな らなかった。
ビジネス リスク‑ 海外での失敗事例か ら学ぶ もの(上) 33
中国事業縮小
1994年6月,ヤオハ ン ・イ ンターナ シ ョナル本社 がはい ってい る香港 コンベ ンシ ョン ・セ ンターの トップフロアを売却 した。1990年購 入か ら 約 4年 で手放 したことになる。 この本社 ビル売却 はヤオハ ンの資金操 り の悪 さを世 間に公表 した形 となった。
(資料1) 国内での競争激化
ヤオハ ンは大手資本 のスーパ ー との競争 を意識 して1990年 か ら1996年 まで発行 された転換社債 の うち240億 円 をネクステージ知立 (180億 円), ネクステージ半 田 (80億 円) につ ぎ込 んだ。 この時期,ヤオハ ンの資金 返済能力 をはるか に上 回る拡張路線 は銀行 か ら猛烈 な反対 があった とい う。 こう して,ヤオハ ンは銀行 との関係 を極度 に悪化 させ てい く。1997 年 の2月 には,財務 内容の悪化 か ら愛知県 を中心 とす る ドル箱 的存在 の ス ーパ ー16店舗 を330億 円で ダイエ ーに売却 した。 これ ら売却 した店舗 がヤオハ ンの強力 なライバルになったのは当然 である。ヤオハ ンにすれ ば売却代金 はすべ て運転資金 に使用 したか ったが, この うち,28億 円は 債権保全 のため に銀行 か ら引 き出す ことはで きなか った。 こうして,つ いに 日本 ・中国本土 ・香港 という3正面作戦の最後 の牙城 ともいえるヤ オハ ン ・ジャパ ンも解体 の方 向 をむかえることになる。
(資料 1) 人事 ・労務 (人的資源管理)
(前略)1995年12月,総投資額220億 円で上海 ・浦東 に誕生 したアジ ア最大級 の シ ョッピングセ ンター 「ネクステージ上海」 ‑
その後 ,和 田が 中国事業 に投入 した資金 は300億 円に達す る。 なか に は順調 な事業 もあるが,短期 間での リター ンを期待 す るには中国の市場 はあ ま りに未成熟 だった。例 えば中国最大 の流通企業である上海第一百 貨商店 です ら,その95年 の売上高 は300億 円 に満 たず,売上高一兆 円超
の流通業がひ しめ く日本 とは比較 にもならない。
そ こに一時期 は上海だけで 日本 か ら160人 もの社員 を送 り込 んだ。国 内事業 を支 えて きた第一線の人材 の多 くが中国に振 り向け られ,ヤオハ ン ・ジャパ ン崩壊 を早めた。眼前 の 「夢」 の大 きさに現実 を忘れ, グル ープの屋台骨 をおろそかに した和 田の責任 は重い。
(田中信彦 資料2.(2))
ヤオハ ンは,以前 ブラジルでの経営 に失敗 している。それは同国の為 替事情 の悪化 など不運 な面があったことは間違いない。 しか し,その後 の経緯 を見 ると,その ような失敗 の教訓があ ま り生か されている とは思 えない。
カリスマ的経営者の下で,再度の失敗が どの ような原 因に基づ くもの であったかは,当事者の口か ら明 らかにされているが,和 田代表 は今で
も 「元気」 なようである。
結論
ビジネス リスクの具体的事例‑Ⅰ (4) ソニー
コロンビア映画買収,高 くついた買物 とその教訓 時期 1989‑1994
場所 米国
資料 1
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『か くして巨額損失 は海外 で生 まれた』1998年「コロンビア映画買収 とソニーー 人脈 の毘‑ (109‑117ページ) 2.F国際 ビジネス』2001年
「激変す る国際環境 に迅速 に対応す るソニー」 (53‑55ページ) 3.F日経 ビジネス』
編集長 イ ンタビュー 出井仲 之氏 [ソニー社長兼最高経営責任者 (CEO)]
ビジネス リスク‑ 海外での失敗事例か ら学ぶ もの(上) 35
「手本 ない Heガバ ンナ ンス"構築 に全力 変化嫌 う社員 の心 を動 かそ うと行脚」2000年1月10日号 (126‑129ペ ージ)
4.F週刊朝 日
』
「カ リスマ経営者 も受難時代」 (江 畠俊彦)2002.8.2 (22‑25ペ ージ)5.立石泰則 Fソニー革命』 プ レジデ ン ト社,2002年
事例 (ケース) [概要]
ソフ ト事業への本格進 出
1989年, ソニーが コロ ンビア ・ピクチ ャーズ を50億 ドル (6440億 円‑
買収価格 は当時 の円換算率 ) で買 収 した。買収後 の名前 は, コロ ンビ ア ・ピクチ ャーズ ・エ ンタテイ ンメ ン トと改称 された。
そ して, コロ ンビア ・ピクチ ャーズ ・エ ンタテイ ンメ ン トは1991年8
月 にソニー ・ピクチ ャーズ ・エ ンタテイ ンメ ン ト(SPE)に改称 された。
また,CBSソニー もソニー ・ミュージ ック ・エ ンタテイ ンメ ン トと改称 された。 こう して, この2つの事業 はハ ー ドとソフ トの シナジー効果 を 狙 うソニーに とって,未来の ソニー発展 を担 う車 の両輪 として位置づ け
られてい くのであ る。
なお,1996年6月か らソニー ・ピクチ ャーズ ・エ ンタテインメ ン トと ソニー ・ミュージ ック ・エ ンタテイ ンメ ン トはカ ンパニー制の もとに組
織統合 された。 (資料1)
そ して,1999年3月か らは100%子会社化 した。
[経過]
ソニーが コロ ンビア映画 を買収 したのは, コロンビア映画の持つ巨大 な時間軸 に沿 って行 われていた ようだ。す なわち,過去 か らみれば,咲 画作 品2700本,TV作 品2万3000本 の ソフ ト化へ の蓄積 であ り,現在 で は, ビデオ化権 と放映権 であ り, さらには興行作 品の ライセ ンス収入で