「論理的構文論」の実際
-『資本論』冒頭を例に-
川 崎 誠
一 はじめに 批判哲学以後の学の要諦が論理的であること、したがって諸学のテキスト の読解もそこに叙される論理の把握がまず目標になること、これらについて 私は別稿「テキストに『論理を読む』ということ」(1)に説いた。 そして「論理を読む」上で有効なのがウィトゲンシュタインの「論理的構 文論(die logische Syntax)」である。それは次のように説かれる。からしてそれぞれの規定態を否定する規定態がそれぞれの規定態そのもの と同様に必然的である;直接的な諸規定態として[あるのだから]それぞ れの規定態には他の規定態が直接的に対立している。だからこれらのカテ ゴリーが命題[の形式]で把握されるならば、同様にして対立した諸命題 が現われてくる[ことになる];両者は等しい必然性をもって提示され、直 接的な主張として少なくも同等の権利をもっている。このことによって一 方の命題は他方の命題に対して証明を必要とするであろうし、こうしてこ れらの主張にはもはや思考の直接に真でありかつ争いがたい命題であると いう性格は帰せられえないであろう。(『大論理学』2 p.45)
三 「商品の二つの要因」節第1文読解 本節で『資本論』冒頭文の論理を、次節で第 2 文以降の論理を把握する。 両節とも、初めに『資本論』『大論理学』『確実性』「第 2 回講義」の順に四 テキストを掲げ、次いで読解する。使用したテキストは次である。 『資本論』全13 分冊(『資本論』翻訳委員会訳)新日本出版社[Das Kapital, Diez.]
『大論理学』1~3(寺沢恒信訳)以文社[Das Sein, Meiner. Wissenschaft der Logik I・II, Suhrkamp.]
Über Gewißheit, Suhrkamp.
Deuxième cours de linguistique générale, Pergamon.
だ。
A は奥雅博訳(ウィトゲンシュタイン『哲学的考察』)・B は小林英夫訳(ソシュー ル『一般言語学講義』)だが、
A’:Wenn man die Sätze als Vorschriften auffaßt, um Modelle zu bilden, wird ihre Bildhaftigkeit noch deutlicher.
Denn, damit das Wort meine Hand lenken kann, muß es die Mannigfaltigkeit der gewünschten Tätigkeit haben.
B’:Un autre résultat, c'est que moins l'écriture représente ce qu'elle doit représenter, plus se renforce la tendance à la prendre pour base;les grammairiens s'acharnent à attirer l'attention sur la forme écrite. Psychologiquement, la chose s'explique très bien, mais elle a des conséquences fâcheuses. L'emploi qu'on fait des mots "prononcer" et "prononciation" est une consécration de cet abus et renverse le rapport légitime et réel existant entre l'écriture et la langue. Quand on dit qu'il faut prononcer une lettre de telle ou telle façon, on prend l'image pour le modèle. 今度は一転、‘Modell’:‘modèle’という語の一致、および‘etw als etw auffassen’: ‘prendre qc pour qc’ と い う 構 文 の 対 応 - “man die Sätze als Vorschriften auffaßt”:“on prend l'image pour le modèle”-が容易に見てとれる。‘Vorschrift’は ‘um Modelle zu bilden’なのだから、A は「人は諸命題を(それがモデルであるための) 指図書と解する」であり、要するに「人は(指図書たる)諸命題をモデルと解する」 のである。これはB「人が映像をモデルと見なす」と変わるまい。その「映像(image; Bild)」はここでは‘l’écriture’(書)・‘la forme écrite’(書かれた形態)だから、 ‘Vor-schrift(>vor-schreiben)’に通じる。そこで A は「(指図書たる)命題の像的性格[形 象性](ihre Bildhaftigkeit)が一層明瞭となる」と説くのである。さらに‘Vorschrift’ が“il faut prononcer une lettre de telle ou telle façon”と指図することは、とりもなお さず“das Wort meine Hand lenken kann”ということである。つまり‘Vorschrift’は「基 礎(base)」である。等々。
で諒とされたい。
(1)-i
<資> 1 パラグラフ 第 1 文
資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は、「商品の巨大な集まり」 と し て 現 わ れ 、 個 々 の 商 品 は そ の 富 の 要 素 形 態 と し て 現 わ れ る 。Der Reichthum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine “ungeheure Warrensammlung”, die einzelne Waare als seine Elementarform.
<大> c 完全な根拠 6 パラグラフ 第 7 文
-こうして総体的な根拠関係は規定されて制約する媒介 ......
になっているの で あ る 。So hat sich die totale Grundbeziehung zur bedingenden Vermittlung bestimmt.
<確実性> 276
いわばわれわれはこの巨大な建物がそこにあることを信じ、いまや建物の この一角を・またあの一角を見る。Wir glauben, sozusagen, daß dieses große Gebäude da ist, und nun sehen wir einmal da ein Eckchen, einmal dort ein Eckchen.
<第2 回講義> 87-1(4)
『資本論』と『確実性』には直ちに語的な対応が認められる。 「商品の巨大な集まり」:巨大な建物
個々の商品:この一角・またあの一角
次に「第2 回講義」だが、ここで「対象」は「話されたものにおける言語 (la langue dans ce qui est parlé)」である。一つ前の文(86-15)に
かくして言語学において書かれたもの(書かれたものにおける言語)を 対象とみなすとき、それは、対象が何なのか分からないと言うに足る記号 だ。
(1)-ii
<資> 1 パラグラフ 第 2 文
そ れ ゆ え 、 わ れ わ れ の 研 究 は 、 商 品 の 分 析 か ら 始 ま る 。Unsere Untersuchung beginnt daher mit der Analyse der Waare.
<大> a 相対的に無制約的なもの 1 パラグラフ 第 1 文
一、根拠は直接的なものであり、そして根拠づけられたものは媒介された ものである。Der Grund ist das Unmittelbare und das Begründete das Vermittelte.
<確実性> 277
「私は……を信じざるをえない。Ich kann nicht umhin zu glauben ……」
<第2 回講義> 87-2
この欠陥について敷衍しても無駄である:例は無数にあろう。Inutile de s’étendre sur ce défaut:les exemples seraient sans nombre.
<参考> 分析は、概念を根底にもっているのであるから、本質的に概 念諸規定を、しかも実に直接的に .... 対象のなかに含まれて .... いる諸規定として の概念の諸規定を自分の所産としてもつ。(『大論理学』3 p.303) これを「客観のなかにすでに存在しているものの展開 .................... (Entwicklung; développement)」(同p.304)と見れば、「欠陥について敷衍する」ことは「分 析」である-‘étendre’は‘développer’の類語-。けれども「無数にある欠 陥」を分析しても「無駄である」だろう。 さて上述のように、87-2 は 87-1 の「~満足することができないのは明ら かだ」(この欠陥は明らかだ)を承けてのことだから、前文との繋がりは「そ れゆえ、この欠陥について~」である。するとその構文は『資本論』の「そ れゆえわれわれの研究(について)は~」と同一だから、後者においても「わ れわれの研究」は「根拠づけられたもの」・「媒介されたもの」である。そし て「分析的認識」とは「与えられた素材の論理的諸規定への転化」(『大論理 学』3 p.304)であるから、「分析がそれから始まる」ところの「商品」は、 「与えられた素材(der gegebene Stoff)」として「直接的なもの」・したがっ て「根拠」である。
(2)-i
<資> 2 パラグラフ 第 1 文
商品は、なによりもまず、その諸属性によってなんらかの種類の人間的欲 求を満たす一つの物、一つの外的対象、である。Die Waare ist zunächst ein äußerer Gegenstand, ein Ding, das durch seine Eigenschaften menschliche Bedürfnisse irgend einer Art befriedigt.
<大> a 相対的に無制約的なもの 1 パラグラフ 第 2 文
<確実性> 278
「それがかくあることに私は満足している。Ich bin beruhigt, daß es so ist.」
<第2 回講義> 87-3
7) 人が古い言語学に向ける非難のうち、それほど本質的でないものは次で ある:インドヨーロッパ語のほとんどすべての分枝の前で、最も古く知られ た分枝を、まるでそれがその言語群全体の適切な代表であるかのように・そ れをその言語群全体に置き換えうるかのように考え、それで充分だとみなす 傾向があった。Parmi les reproches qu’on peut adresser à l’ancienne linguistique dans ce qui est moins essentiel, il y aurait celui-ci:devant presque tous les rameaux de l’indo-européen il y avait une tendance à regarder comme suffisant de considérer le rameau le plus anciennement connu, comme si ce représentant était adéquat au groupe entier, comme si on pouvait le substituer au groupe entier.
「根拠」として人(言語学者)を満足せしめることを言う。以下『確実性』 に準ずる。
(2)-ii
<資> 2 パラグラフ 第 2 文
これらの欲求の性質、すなわち欲求がたとえば胃袋から生じるか想像から 生 じ る か と い う こ と は 、 事 態 を な ん ら 変 え な い 。Die Natur dieser Bedürfnisse, ob sie z.B. dem Magen oder der Phantasie entspringen, ändert nichts an der Sache.
<大> a 相対的に無制約的なもの 1 パラグラフ 第 3 文
定立的反省として自己を定立された存在とする、こうして根拠は前提的反 省であるals solche macht er sich zum Gesetztsein und ist voraussetzende Reflexion;
<確実性> 279
自動車が土の中から育ってこないことはまったく確実だ。Es ist ganz sicher, daß Automobile nicht aus der Erde wachsen.-もし誰かがその逆 を信じるようなことがあれば、それはわれわれが不可能だと宣することをす. べて
..
信じることができ、われわれが確実とみなすことすべてに反対すること ができるような人間だ、われわれはそう感じる。Wir fühlen, daß, wenn Einer das Gegenteil glauben könnte, er allem Glauben schenken könne, was wir für unmöglich erklären, und alles bestreiten könnte, was wir für sicher halten.
しかしこの一つの ...
この体系は人が観察と教育を通じて身につけるものである。Dies System ist etwas, was der Mensch durch Beobachtung und Unterricht aufnimmt. 私は意識的に「学ぶ」と言わない。Ich sage absichtlich nicht 'lernt'. <第2 回講義> 87-4
その諸属性によって想像 .. から生じる人間的欲求を満たす一つの物、一つの外 的対象、である」ということと「結びついている」。 (2)-iii <資> 2 パラグラフ 第 3 文 ここではまた、どのようにして物が人間的欲求を満たすか-直接に生活 手段として、すなわち享受の対象としてか、それとも、回り道をして、生産 手段としてか-ということも問題ではない。Es handelt sich hier auch nicht darum, wie die Sache das menschliche Bedürfniß befriedigt, ob unmittelbar als Lebensmittel, d.h. als Gegenstand des Genusses, oder auf einem Umweg, als Produktionsmittel.
<大> a 相対的に無制約的なもの 1 パラグラフ 第 4 文
それだから根拠は揚棄されたもの・直接的なものとしての自己へと関係し ているが、このことによって根拠はそれ自身が媒介されている。so bezieht er sich auf sich als auf ein Aufgehobenes, auf ein Unmittelbares, wodurch er selbst vermittelt ist.
<確実性> 280
かくかくのことを見、またしかじかのことを聞いた後では、彼はもう…… ということを疑うことができない。Nachdem er das und das gesehen und das und das gehört hat, ist er außerstande zu bezweifeln, daß …… <第2 回講義> 87-5
人はゴート語に、原型・他の諸方言の源泉という誤った地位を付与した。 on lui prêtait la fausse qualité de prototype, de source des autres dialectes.
「ここでは」:「欲求がたとえば胃袋から生じるか想像から生じるかと いうことは、事態をなんら変えない」(前文)ということを「確認した 後では」。 「問題ではない」:「人はもう……ということを疑うことができない」。 なお「……ということ」は、「商品が、その諸属性によってなんらかの 種類の人間的欲求を満たす一つの物、一つの外的対象、である」(前々 文)こと。 (3)-i <資> 3 パラグラフ 第 1 文 鉄、紙などの有用物は、どれも、二重の観点から、質および量の観点から、 考察されなければならない。Jedes nützliche Ding, wie Eisen, Papier u.s.w., ist unter doppeltem Gesichtspunkt zu betrachten, nach Qualität und Quantität.
<大> a 相対的に無制約的なもの 1 パラグラフ 第 5 文
この媒介は、直接的なものから根拠への前進運動として、外的反省ではな く、[さきに]明らかにされたように、根拠の固有の行いであり、あるいは、 同じことであるが、根拠関係は自己との同一性への反省であるとともに、同 じくまた 本質 的に自己 を外 化する反 省で ある。Diese Vermittlung, als Fortgehen vom Unmittelbaren zum Grunde, ist nicht eine äußere Reflexion, sondern, wie sich ergeben, das eigene Tun des Grundes, oder, was dasselbe ist, die Grundbeziehung ist als Reflexion in die Identität mit sich ebenso wesentlich sich entäußernde Reflexion.
<確実性> 281
友人は身体あるいは頭に鋸屑を詰め込んでいない、ということを私 .
L.W は 信ずる・確信する、そのための感覚的な直接の証拠はもっていないにしても。
oder im Kopf hat, obwohl ich dafür keine direkte Evidenz der Sinne habe. 私に語られたこと・私が本で読んだこと・そして私の経験、それらを根拠に 私は確信する。Ich bin sicher, auf Grund dessen, was mir gesagt wurde, was ich gelesen habe, und meiner Erfahrungen. それらについて疑うこと は私には気違い沙汰に思われる、もちろんこれもまた他の人びととの一致に おいてのことである Daran zu zweifeln erscheint mir als Wahnsinn, freilich wieder in Übereinstimmung mit Anderen;しかし私.が彼らと一致 するのだ。aber ich stimme mit ihnen überein.
<第2 回講義> 87-6
スラヴ語にしても、10 世紀に知られているスラヴォニア語(スラヴ古語) で満足していた、これに対して他の諸語は年代がさがる。Pour le slave on se contentait du slavon (paléo-slave), connu au 10e siècle, tandis que les autres sont de date plus basse.
『資本論』も『確実性』に準えられる-「鉄、紙などは有用物である、 と私 . K.M は信ずる・確信する、そのための直接の証拠はもたないにしても」。 そして「2 パラグラフ第 2 文に明らかにされた」ことがある、「どのようにし て物が人間的欲求を満たすか-直接に生活手段として、すなわち享受の対 象としてか、それとも、回り道をして、生産手段としてか-ということは 問題でない」、これである-「どの有用物も(jedes nützliche Ding)……」 と説かれるゆえん-。つまり「私に語られたこと・私が本で読んだこと・ そして私の経験、それら(全体)を根拠に私K.M は確信する」のである。そ の上で『資本論』は「二重の観点」・「質および量の観点」に言及する。これ は「質および量」について次のように説かれるからである。 <参考> 規定態は質としては、自己との単一な関係のうちにある存在 的な規定態であるべきであった;だがそれは量としては、ただ揚棄された・ 外的な・自己のうちにではなく他者のうちにある規定態としてある。(『大 論理学』1 p.195) 「根拠関係が自己との同一性への反省である」とき、根拠の規定態は「自 己との単一な関係のうちにある存在的な規定態(eine seiende, in einfacher Beziehung mit sich stehende Bestimmtheit)」・すなわち「質」としてあり、 また「根拠関係が本質的に自己を外化する反省である」とき、それは「ただ 揚棄された・外的な・自己のうちにではなく他者のうちにある規定態(die nur aufgehobene, äußerliche, nicht in sich, sondern im Anderen seiende Bestimmtheit)」・すなわち「量」としてある。なお『確実性』との関連に触 れておけば、‘Wahn’は‘falsche Vorstellung, die sich bei jmdm festgesetzt hat’であるから‘Wahnsinn’において人は「自己との単一な関係のうちに」な い。また「私
.
(3)-ii
<資> 3 パラグラフ 第 2 文
このような物はどれも、多くの属性からなる一つの全体であり、それゆえ、 さまざまな面で有用でありうる。Jedes solches Ding ist ein Ganzes vieler Eigenschaften und kann daher nach verschiedenen Seiten nützlich sein. <大> a 相対的に無制約的なもの 1 パラグラフ 第 6 文
根拠は自分の本質的な前提としての直接的なものへと関係しているが、こ の直接的なものは制約
..
であるDas Unmittelbare, auf das der Grund sich als auf seine wesentliche Voraussetzung bezieht, ist die Bedingung; <確実性> 282
猫は木から生えてこない・あるいは私に父と母がいた、こうした見解によ い根拠があると言うことはできない。Ich kann nicht sagen, daß ich gute Gründe habe zur Ansicht, daß Katzen nicht auf Bäumen wachsen oder daß ich einen Vater und eine Mutter gehabt habe.
誰かがそれを疑うなら-そんなことがどうして起こるのか。Wenn Einer daran zweifelt - wie soll es geschehen sein? 自分に両親がいると彼はは じめから信じなかったのか。Soll er von Anfang an nie gelaubt haben, er habe Eltern gehabt? しかし人がそのことを教えたのでないなら、そういう ことが考えられるか。Aber ist denn das denkbar, es sei denn, daß man ihn dies gelehrt hat?
<第2 回講義> 87-7
結局のところ、これはインドヨーロッパ語に対する関係によってサンスク リットに与えられた誤った位置の、個々における・小規模な反復であった。 Au fond c’était la répétition en détail, en petit, de la fausse position donnée au sanscrit par rapport à l’indo-européen.
これは反語でなく、「どうして起こるのか」と「疑い」の「根拠」を考えるの である。あるいは「自分に両親がいると彼ははじめから信じなかったのか」。 だが「根拠は自分の本質的な前提としての直接的なものへと関係している」 のだから、ここでも「本質的な前提としての直接的なもの」が考えられるは ずである。そこで、「人がそのことを教えたのでないなら、そういうことが考 えられるか」、これは反語であり「考えられない」。つまり「人がそのことを 教えた」のであり、「この直接的なものは制約..である」。そこで『確実性』は 「第2 回講義」に準えて次のように書き換えられる:「結局のところ、『猫は 木から生えてこない』等への疑いは人が教えたこと[人が教えた疑い]の、 個々における・小規模な反復である」。 (3)-iii <資> 3 パラグラフ 第 3 文 これらのさまざまな面と、それゆえ物のいろいろな使用の仕方とを発見す ることは、歴史的な行為である。Diese verschiedenen Seiten und daher die mannigfachen Gebrauchsweisen der Dinge zu entdecken, ist geschichtliche That.
<大> a 相対的に無制約的なもの 1 パラグラフ 第 7 文
それだから実在的根拠は本質的に制約されている。der reale Grund ist daher wesentlich bedingt.
<確実性> 283
<第2 回講義> 87-8 誤解が広く行きわたり世間 よのなか でそれを正すのがとても困難な定式を、そうい うものとしてあえて明言することには価値がある:実は、あいつぐ年代にお いて書によって固定された二つの言語形態が、両者の関係によって言語学的 に垂直線上にあることは、きわめてまれである。Il vaut la peine de préciser la formule où l’erreur est très répandue et où il est très difficile de corriger dans le public:en fait il est infiniment rare que deux formes de langue fixées par l’écriture à des dates successives se trouvent linguistiquement dans la verticale par rapport l’une à l’autre.
<大> a 相対的に無制約的なもの 1 パラグラフ 第 8 文
実在的根拠が含んでいる規定態は実在的根拠自身の他在である。Die Bestimmtheit, die er enthält, ist das Anderssein seiner selbst.
<確実性> 284
人間は大昔から動物を殺し、毛皮や骨等々を一定の目的のために使用して きたDie Menschen haben seit den ältesten Zeiten Tiere getötet, ihr Fell, ihre Knochen etc. etc. zu gewissen Zwecken gebraucht;どの似た動物にも 似 た も の が 見 出 さ れ る と 、 彼 ら は 断 然 予 期 し て い た 。sie haben mit Bestimmtheit drauf gerechnet, in jedem ähnlichen Tier ähnliche Teile zu finden.
彼らはつねに経験から学んだ、そして人は、彼らが或る種のことを断然信 じていることを、その信念が口にされるか否かはともあれ、彼らの行動を通 して見て取ることができる。Sie haben immer aus der Erfahrung gelernt, und aus ihren Handlungen kann man ersehen, daß sie Gewisses mit Bestimmtheit glauben, ob sie diesen Glauben aussprechen oder nicht. 私 はもちろん、人間がそのように行動すべきだ
....
とは言わない、そうではなくて そのように行動するとだけ言う。Damit will ich natürlich nicht sagen, daß der Mensch so handeln solle, sondern nur, daß er so handelt.
<第2 回講義> 87-9
これは即自的に可能である、しかし実際には次のことが理解されよう、す なわちその線が二つの異なる時代を交わらせると同時に、たがいに言語的継 続をなさない二個の異なる方言を交わらせる[ことが理解されよう]。C’est possible en soi, mais en fait on verra que la ligne se trouvait intersecter deux dialectes différents qui ne sont pas la suite l’un de l’autre linguistiquement, en même temps que deux époques différentes.
ということに気がつかないあいだは、それらはお人よしにも前述のような ものと認められているのである。(『大論理学』2 p.119)
「愚直な信念(ehrlicher Glauben)」は「ありのままの信念」であり、つ ま り 「 信 念 」 の 即 自 存 在 で あ る 。 そ の 場 合 に は 分 子 等 は 「 思 い な し (Meinung)」・「むしろ、それらが根拠づけるとされているものから推理し て引き出された諸規定(aus dem, was sie begründen sollen, geschlossene Bestimmungen)であり・[だからそれらを最初の根拠とするのは]無批判 的な反省によって導き出された仮説と仮構(Hypothesen und Erdichtungen) である」。そうであれば反対の愚直でない「信念」が含んでいる規定態は「行 為における(in der Tat)」こと・「現実性(Wirklichkeiten)」、すなわち実際 の「人間の行動(ihre Handlungen)」である-‘Tat’と‘Handlung’は類語 -。それは「実在的根拠(信念)自身の他在」であり、このように「行動 すべきだ .... とは言わない」ことで「実在的根拠自身の他在」に目が向けられる。 『資本論』が別の具体例を供する。「有用物の量」は「定量(Quantum)」(17) であり、それと「尺度(Maß)」(度量)との関係は次のように説かれる。 <参考> 度量は定量の自己への単一な関係であり、定量の固有の規定 態そのものである。(『大論理学』1 p.317)
「度量が定量の固有の規定態そのもの(seine eigene Bestimmtheit an sich selbst)である」なら、「実在的根拠が含んでいる規定態が実在的根拠自 身の他在である」ことに準えて:「定量が含んでいる規定態は定量自身の他在 (度量)である」。例えば「30.48cm」は「それ自身としては(für sich)任 意的である定量」だが、「外的集合数に対しては本来的に規定された ......... 単位(die
とは、「人間がそのように行動する」ところの「歴史的な行為(geschichtliche That)である」。 「第2 回講義」が「これは即自的に可能である、しかし実際には次のこと が理解されよう」と説くとき、それは『確実性』の「人間がそのように行動 すべきだ .... とは言わず、人間がそのように行動するとだけ言う」と同じ論理で ある。まず、ここにおいても即自存在と向他存在とに言及される。「これ」は 前文「あいつぐ年代において書によって固定された二つの言語形態が、両者 の関係によって言語学的に垂直線上にある」ことだが、すると「二つの言語 形態」は「垂直線上」という「制限としての自己への関係(Beziehung auf sich als Schranke)」にある「両者」である。したがって「即自的に(en soi)可 能である」ところの「これ」は、「両者の関係における規定の即自存在」であ る。そして「しかし実際には(en fait)次のことが理解される」と続くのだ から-‘en fait’は独語‘in der Tat’に対当-、ここでも「人間の行動」を通 しての理解・したがって「実在的根拠自身の他在」に目が向けられる。
その「次のこと」は「その線が二つの異なる時代を交わらせると同時に、 たがいに言語的継続をなさない二個の異なる方言を交わらせる」ということ だが、その具体例を『講義』から挙げる。
<参考> [ラテン語の]cathedraはchaireとchaiseとを生じはしな かったか、二つとも正真正銘のフランス語なのに? じつは、chaiseは方 言形なのである。パリ弁は母音間のrをzにかえた;それは、たとえばpère、
mèreをpèse、mèseといった;フランス文学語はこうした地方的発音を二 例しか残していない:chaiseとbésicles(bérylからきたbériclesの双生 語)。この事例は、かのピカルディー語のrescapéが、フランス共通語のな かに入り、それ以後réchappé と対比されるにいたったばあいと、まさに 比べうるものである。(p.218)
フランス共通語(le français commun)のbériclesは古代フランス語bericle
が母音間のrをzにかえた」ことを経て分かりにくい。ただしbésiclesはフ ランス文学語(le français littéraire)がこれを残したので「書によって固定 され」、いまやフランス語はbériclesとbésiclesを「双生語(doublet)」と してもっている。この双生語の存在こそは「[あいつぐ年代の変遷を示す]線 が二つの異なる時代[古代と現代]を交わらせると同時に、たがいに言語的 継続をなさない二個の異なる方言[共通語とパリ弁]を交わらせる」ことの 具体例である。そして「フランス文学語はこうした地方的発音を二例しか残 していない」、つまり双生語の存在は「フランス文学語が残した」という「人 間の行動」を通して理解されることである。 かくして『資本論』・『確実性』・「第2 回講義」いずれにおいても、実在的 根拠関係には「人間の行動」が関わる。しかもそれは「私が他の人びとと一 致する」、そうした行動である(本稿(3)-i)。 (3)-v <資> 3 パラグラフ 第 5 文 諸商品尺度の相違は、一部は、はかられる対象の相違から生じ、一部は、 習慣から生じる。Die Verschiedenheit der Waarenmaße entspringt theils aus der verschidenen Natur der zu messenden Gegenstände, theils aus Konvention.
<大> a 相対的に無制約的なもの 2 パラグラフ 第 1 文
したがって制約は第一に...直接的な・多様な定在である。Die Bedingung ist also erstens ein unmittelbares, mannigfaltiges Dasein.
<確実性> 285
<第2 回講義> 87-10
例外は原則ある証拠。L’exception confirme la règle.
(p.307)
をすべて呼びおこすことができる。」(『講義』p.176) 「しゃべる-しゃべれる」は 活用による連合、「食べる-食べれる」は類推による連合。なおそれが「前提」をもつ ことにおいて・換言して「類推現象の一部は、新形が出現するのをみる前に、そっく り完成している」ことにおいて、類推的創造については「何が或ることの確実な根拠 であるのか、それは私が決定するのではない」(『確実性』271 節)と言われるであろ う。「精神が連合する」ということも、あくまでこの意味においてのことである。 (8)「私は知っている=私にとって確実なこととして知られている」(Ich weiß = Es ist mir als gewiß bekannt.)は『確実性』272 節に説かれる。
(17)「定量は実在的な量である、定在が実在的な存在であるように。」(『大論理学』1 p.220) つまりそれは「自己をこえ出てゆき・自己自身を否定する規定態である」。 (同p.196) (18)「度量は、質的に規定された存在と量的に規定された存在というそれの両契機の 区別がそれ自身のもとに[顕在的に]存在しているその限りで本来的に規定されて.........い る。」(『大論理学』1 p.315) テキスト以外の文献 井上忠『哲学の現場-アリストテレスよ 語れ』 勁草書房
Wittgenstein, L., Notebooks 1914~1916, The University of Chicago Press. 川崎誠「テキストに『論理を読む』ということ」 『理想』704 号 理想社 ソシュール・小林英夫訳『一般言語学講義』 岩波書店