ピアジェ理論 における道徳性発達の論理
‑ 道徳性の発達 と社会形成のためのノー ト ‑
関口 昌秀
1. は じめに
ピアジェの道徳性発 達 の論 理 を把握 す る こ と,それが ここで私が しようとすることであ り, それ以上の ことを目指 している訳 ではない。た とえば, ピアジェを批判 した りピアジェ理論 を 発展 させ るこ とまで, ここで は考 えていない。
道徳性の発達 をとらえる ピアジェの概念的な枠 組 を理解す ることに本稿の 目標 は限定 されてい
る。
ピア ジ ェは子 ど もの道徳 性 の発 達研 究 を,
『子 どもの道徳判 断』 (Lejugementmoralchez l'enfant,1932)にまとめた。 ここでは同書, とく
にその最終章 「子 どもの2つの道徳 と社会関係 の類型」 を中心 として ピアジェの理論展 開 をみ てい くことにする。そ こで ピアジェは道徳性発 達の論理 をまとめているか らである。それ よ り 前の3つの章 は共 同研究者たち と実施 した道徳 性発達研 究の結果 をまとめた ものである。 もち ろんそれは単 なる観察結果の報告ではな く,発 達法則 を導 き出す にあたっての観察事実 に関す る解釈 も含 まれている。そこにおける ピアジェ の発達法則導出の方法が適正か否か とい う問題 はある。 しか し,本稿 はそれ を問題 には しない。
その レベルまで問題 にで きない とい うことであ る。 ここでは,あ くまで も, ピアジェが観察事 実か ら抽 出 した と主張す る道徳性発達の論理 を 理解す ることに限定 してお きたい。
先 に言 った ように, ピアジェは最終第 4章 に おいて彼独 自の道徳発達論 を構築 しようとして
いるのだが,よ り詳 しく言 えば,その章の最後,
「結論部」 が本 当の意味 での彼 の 「道徳性発 達 の論理」のまとめ とい うべ き叙述 となっている。
それ以前 の部分ではデュルケ‑ム以下の先行研 究批判 を行 っている。 この 「結論部」 はわずか 10ページほ ど,章全体 の7分 の 1であ り,本全 体 でみればわずか30分 の 1以下 にす ぎない。80 冊 にのぼるといわれるピアジェの著書全体か ら みれば,それは砂浜の砂粒 ほ どしかない一部分 である。本稿 はその ような きわめて限 られた部 分 を主 な対象 とす る。副題 をノー トとす るゆえ
んである。
副題の題名が 「道徳性の発達」ではな く 「道 徳性 の発達 と社会形成」 としてあるのは,問題 関心 とかかわっている。道徳性 の発達 に関心が あるな らば,難解 とされるピアジェを取 り上 げ るよ り,む しろ ピアジェの道徳発達 を発展 させ た といわれるコールバ ーグを取 り上 げた方が研 究の近道であるか もしれない。 また, よ り実践 的に道徳教育 を考 えようとす るな ら, コールバ ーグの理論 を実践 的に応用 しようとした 「モ ラ ル ・ジレンマ」の取 り組みな どを参照す るのが よ り近道 とい うべ きか もしれ ない。 た とえば, J.ライマ ‑ らの 『道徳性 を発達 させ る授業 の コ
ツ‑ ピ ア ジ ェ と コ ー ル バ ー グ の 到 達 点 』 (promotingMoralGrowth ;From Piagetto Kohlberg)1)には, コールバ ーグが序文 を寄せ,
「著者 た ちの研 究成果 と教 師の経験 に よって得 られた証拠 をもとに して, ピアジェの理論 と私 (コールバーグ)の理論 を統合 して,バ ランス よ
く書かれている」 2)と評 し同書 を推奨 している。
しか し, ここでの私の問題関心 は道徳教育の実 践 的関心 とはやや視 角 を異 に した ところにあ る。 コ ミュニケーシ ョン的理性のカテゴリー を 提起す るにあたって,ハーバーマスはそのカテ ゴ リー成立 の論 理的かつ歴 史的 な前提 と して,
「社会の歴史的合理化過程」 とそれ を支 える合 理的意識の生成 との相互補強的な関係 について 議論 している。彼がそ こで主 として依拠 したの が ピアジェの議論 であ った。3)社会 自体 の合理 的進化 と個 人意識 の合理性 の発達 との関係 は, ピ ア ジ ェ の 用 語 で 言 え ば 「平 行 関 係 」 (parallelisme)とい うことになる。副題の 「社会 形成」 はこの平行 関係 を含 んだ社会の合理化過 程 を意識 した ものである。ハーバ ーマスでい え ば,社会形成 とは 「コ ミュニケーシ ョン的理性 に もとづ く社会」 の形成 に他 な らない となるだ ろ う。 この ような対話的理性がつ くり出 してい く社会 を,ア‑ レン トは,民主主義がその本 質 として もつべ き 「政治的世界」 の特徴 と して強 調 した。4)その点 に関 して ここで触 れる ことは で きないが,ア‑ レン トに関 してはこれ まで何 度 もふれて きたので別稿 を参照 されたい。5)と もか く, ここで ピアジェを取 り上げるのは以上 の ような関心か らである。
2.
個人の発達 と社会の発展の平行性 ピア ジ ェ は い くつ か の レベ ル で 平 行 関係 (parallelisme)を指摘 している。その中で基本 と なるのが,ハ ーバ ーマスが取 り上 げた社会の歴 史的合理化 と個人の発達 における理性の獲得 と の 間にあ る平行 関係 であ る。社会 の合理化 (‑ 理性化)と個人の理性化 との間の平行性である。もっとも 「理性化」 とい う言葉 を使 うと,今 日 の教 育課題 は 「自然 の理性 化」 よ り 「む しろ
「理性 の 自然化」 だ とす る教育上 の主張 もあ る ので,問題 は必ず しも簡単でな く複雑 にな りも す るが, ここではその ような論点 にまで踏み込 むことはせず,子 どもが生 まれてか ら成長 して い く中で合理的な考 え方 を身につけてい くこと
を 「個 人の合理化」 と呼 んでお くこ とにす る。
そ うす れ ば 言 葉 の 上 か ら も, 個 人 の 発 達 (development)と社会の発展(development)の間 に平行性があることは見て取 りやす くなろう。
平行性 を考 える上 で,「個体発生 は系統発 生 を繰 り返す」 とい う生物学上のへ ツケルの学説 が,ピアジェの着想 になったことは間違いない。
事実 『発生的認識論序説』第3巻(1950)の中に は
,
「個体発生 と系統発生 と歴 史的社会発生 と の間にある 1対 1的 な平行 関係」6)とい う表現 もある。仝 3巻か らなるこの 『序説』 は,1973 年 に第1巻 と第2巻が初版 と同 じ内容 の まま再 版 されたのに対 し,第3巻 だけは再版 されなか った とい う日 くが あ る。7)この こ とを もって平 行 関係 の思想 に変化があったのか否か私 は詳 しく知 らないが,ただ先の引用か らピアジェの着 想 がヘ ツケルの学説の影響 を受 けたことだけは 示 されるだろ う。ヘ ツケルの学説 にはその後生 物学分野で多 くの批判が出 され,一時その影響 が退潮 し,20世紀 にまた新 しい形での研究の復 活が見 られる とい う。8)だが,その ような生物 学分野での動 向 とは全 く別 に
,
「個体発生 と系 統発生」 の間の生物学上の平行性 を 「歴史的社 会発生」 にまで社会心理学的 に拡張す るにあた っては考 えておかなければな らない ことが1つ ある。系統発生 とい う場合,魚類 ,両生類,爬 虫類 とい う進化 を問題 にす るわけだか ら,その進化 に要す る時 間は少 な くとも1億年程度 となる。
それに対 し 「歴史的社会発生」 とい うことで問 題 にす るのは,文明社会発生後であれば1万年 以下,未開社会 を想定 して も人類の誕生が数百 万年前 の ことだか ら,生物学的な進化の百分の 1か ら 1万分の 1の長 さに過 ぎない。 自然科学 の領域 での考 え方か らすれば,数値の オーダー (次数)が2桁以上離 れた ものは質の異 なる もの として単純 な比較の対象 とは しないのが普通で ある。 したが って,系統発生 と歴史的社会発生 との間で平行性 を語 る とすれば,大 きな疑問が 発生することになる。
‑ 160‑
しか しこの ことは,個体発生 と歴史的社会発 生 との間での平行性 を考 えることの疑問 を意味 す るわけではない。い ま述べ たのは,系統発生 と社会発生 との間の ことであ って,個体発生 と 社会発生の関係 ではない。む しろ,個体発生 と 社会発生の間に平行 関係 を認 めることは,妥当 だ と私 は考 えている。そ もそ も個体発生 と系統 発生 を比較す ること自体が数値的次元 の比較 を 超 えた ものである
。
「1対 1的な平行 関係 があ る」 とい うピアジェの先 の引用 を真正直 に受 け 取 って しまうと,系統発生 と社会発生の間にま で平行 関係があることを認めることになって し まう。 しか しここで問題 にす るのは,そ うでは ない。実際, ピアジェが発達 に関 して問題 に し たのは,個 人の発達 と社会の発展の間にある平 行性である。少 な くともここで追求す る 「道徳 判断」 の発達 に関 しては,系統発生 を含めて論 じているわけではない。先の引用 は, ピアジェ の平行性 についての考 えが,ヘ ツケルの学説か ら着想 を得 た ことを示 してはい るが, しか し, ピアジェがそ こで述べ た ままに,系統発生 との 平行性 まで を含めて ここでは考 えることは しな い。 ここでは,ただ個人の発達 と社会の発展 と の平行性 とい う視点 にのみ注 目す るのであ る。この節 の冒頭で, ピアジェがい くつかの レベル で平行 関係 を問題 に している と述べ たが,それ は系統発生 と社会発生の関係 ではない。それが 指 しているのは,個 人の発達の中をさらに知的 発達 と道徳的発達 に区分 して考 えて,この両者, 認知能力の発達 と道徳判断の発達 との間にも平 行性があるとい う主張である。
3.
ピア ジ ェに お け る道徳 性 発 達 の論 理 F子 どもの道徳判 断』 の第4章 で ピアジェが 行 っていることは,先行する道徳学説 を批判 し て彼独 自の道徳性発達 に関す る理論 を構築す る ことである。先行研究 として位置づ けて られて いるのは,
「当時の社会学 と集団心理学」(260;477頁)9)である。具体的な研 究者 としては, ま ずデュルケ‑ムである。そ してその流れ に立つ
フ ォー コネ(Fauconnet),心 理 学者 の ボ ヴ ェ (Bovet),ボール ドウイン(Baldwin)。彼 らが主 要 な批判 の対象である。それぞれに 1節 を当て (デュルケ‑ムは例外 的に3節)その理論 を検討 している。最終節 では,パ リ大学での哲学の恩 師論理学者のブランシュウイック(Brunschvicg) や ララン ド(Lalande)10)の名前 も登場 し,その 方法論 について も批判 を加 えている。 と くにラ ラン ドについてはやや詳 しく検討 して,その ど こを捨 て どこを活かすか も論 じている。 ピアジ ェ理論 を理解す るにはそれ らの批判 と継受 をき ちん と跡付 けなければ不充分 であるが, ここで そこまではで きない。
(1)社会生活 と合理的意識の関係
以下 『子 どもの道徳判断』の最終章の結論部 を中心 と して ピアジェの論 理 を辿 ってみ よう。
最初 に取 り上げるのは,社会生活 と合理的意識 の関係 で あ る。 これ は ピア ジェの言 うよ うに
「大問題」(320;560頁)である。ハーバーマスの い う 「合理性問題」 もこれ と直結 している。合 理的意識 は どの ような性格 の社会 によって支 え られるか。逆 に社会 を合理化 してい くのは どの ような性格の意識 なのか。実 はこの答 はわか っ ている。合理的意識 を支 えるのは合理化 された 社会,脱神秘化 された社会である。社会 を合理 化 してい くのが合理的意識である。問いの答 は この ようになる筈 である。 もちろんこの答 は間 違 っていない。 しか し,それで問題が解 かれた ことになる訳 ではない。合理的意識が合理的 な 社会 において形成 される とい うのはよいであろ う。では,その場合,合理的意識 を形成す るそ の合理的 な社会 は どの ように形成 されたのか, とい う問題が残 る。逆 に,社会 を脱神秘化 し合 理化 していった ものが合理的意識 だ と答 える と き,その場合 には,非合理 な社会の中で どの よ うに して合理的な意識が形成 されたのか, とい う問 いが 出 され る こ とになるだ ろ う。 これ は
「鶏が先か,卵が先か」 とい う問題 に似 ている。
鶏がいなければ卵 は産み出 され ない。 しか し逆
に卵が なければ鶏 も存在す ることが ない。「鶏 = 卵」 問題 の場合 ,生物学 的な答 ははっ き りして い る。卵 が先であ る。生物学的 には鶏が先 にな ることはない。卵 か ら個体発生 して成鳥 として の鶏が形成 される。それが生物学的事実である。
そ七 で問題 は,種 としての鶏 は どの ように形成 されたか とい う系統発生 の問題へ と転 回 してい く。種 の進化 とい う問題 であ る。 ピアジェは生 物学 も収 めた。11)だか ら,その ような観点か ら
「合 理性 問題」 をおそ ら く眺 めたで あ ろ う。念 のため に言 えば,今述べ た個体発生が系統発生 の問題へ と転化 されてい くことと,個体発 生が 系統発 生 を繰 り返す とい う命題 とは,論理 的 に は別の事柄 である。
すで に見 た ように ピアジェは個体発生 と歴史 的社 会発生 との間 に平行 関係 をみてい く。 しか し,その こ とは, ピアジェが社 会発 生 の問題 を それ 自体 として扱 った とい うこ とで はない。 こ う言 う と直 ちに批判 が 出 され るか も しれ ない。
ピアジェが しようとした ことは個体発生 と社会 発生 を ともに扱 う 「発生的認識論」なのだか ら, その発言 は矛盾 してい るではないか と。 た しか に 『発生 的認識論序説』 は個体発生 と社会発生 の問題 を平行論 とい う形 で扱 ってい る。そ して ピアジェ最後 の著書 といわれる 『精神発生 と科 学史』12)は,物理学 を中心 とす る科学史 とピア ジェが得 た認識 の発達 の知見 とを織 り交ぜ た叙 述 の著書 である。 しか し, ピアジェが行 ったこ とは,あ くまで も個体発生 と社 会発生 の平行論 レベ ルの事柄であ り,社会発生 の問題 をそれ 自 体 として,つ ま りどの ように して社会の合理化 が な され,社会が脱神秘化 して行 ったか につい て論 じた とい うものではない。社会 に関す る合 理性 問題 をそれ 自体 として論 じたのは,や は り ハ ーバ ーマスが取 り上 げた社会学者 たちの方で あ る。 ウェーバ ーの 『プロテス タンテ ィズ ムの 倫理 と資本主義 の精神』 をその代表 とす る こと におそ ら く異論 はないだろ う。 その他ハ ーバ ー マスが取 り上 げるの は, ピアジェ も批判 の対象 とす るデュルケ‑ムな どである。 それ らに匹敵
す る研 究 をピアジェが先 に挙 げた著作 の中で行 ったか否 かは, ここで は残 された課題 とい うべ きか もしれ ない。 しか し, ピアジェが彼独 自の もの として行 った ことは,やは り個体発生 の方, 個人 の意識が どの ように して合理化 されてい く か, どの ように理性 を獲得 してい くか とい う発 達過程 の研 究であ った と言 うべ きであろ う。少 な くともここではそ うい う視点で見 てい く。
こ こで1つ述べ てお きたい こ とが あ る
。
「合 理的意識」(laconsciencerationnelle)とは,
「理性 的 な良心」 とも解釈 で きる。 日本語 と同 じよう に英 語 で も 「意 識」(consciousness)と 「良心」(conscience)は言葉 として区別す る。 しか し仏語 で は 区別 しな い。 「意 識 」 も 「良心 」 も共 に
̀conscience'であ る。 とい うこ とは,英語や 日 本語 では 「合理的 な意識」(therationalconscious‑ ness)と 「非 合 理 的 な 良 心」(theirrational conscience)とい う考 えが矛 盾 な く成立す るが , 仏 語 の場合 そ うはいか ない とい うこ とで あ る。
「合理 的な意識」(1aconsciencerationnelle)はつね に 「理性 的 な良心」 で もあ り
,
「非合 理 的 な良 心」(1aconscienceirrationnelle)とは な らない。「非合理 的 な良心」 はつね に 「非合理 的 な意識」 と しか な らない。 ピアジェが どこまで 「意
識」
と 「良心」 を意味 的 に区別 していたか は不 明で ある。読 む側 に とって も区別 して読 むべ きか否 か に関 して判 断がつか ない ところがあ る。 しか し仏 語 を母語 とした ピア ジェにおい て
,
「社 会 生活 と合理的意識 の関係」 はつね に 「社 会生活 と理性 的 な良心 との関係」 の問題 で もあ った と い うこ とは,道徳意識 を考 える上 で は心 に留 め てお くべ く事 柄 で あ ろ う。 おそ ら くこの点 は, 認知 的能力 の発達 と道徳性 の発達 との平行性 をピアジェが主張す る上 で, 自然 な根拠 の1つ と なった と思 われ る。仏語 を母語 とす る者 に とっ ては,知性 の理性化 と道徳性 の理性化 とを平行 的な発達 と捉 えるのが 自然 な考 えなのだ。 日本 語 で は 「理性」 の評判 は必ず しも芳 しい とは言 えない
。
「智 に働 けば角 が立 つ」(軟石 『草枕』) とい うのが 日本 的 な和 の世界 であ る。 また 「良‑ 162‑
心」 とい う言葉 自体 も訳語 であ って,私 たちに
「馴 染 み の あ る」 日常 語 には末 だ な って ない。
理論 とは 日常世界 か らの抽象 とい うあ る種 の断 絶 行 為 を含 ん だ所 に成 立 す る もの で あ るが ,
「道徳」 とい う 日常世界 に馴 染 みの深 い領域 に おいて帰 るべ き場所 を もてない とすれば,それ が果 た して 「道徳」 の理論 と言 えるか とい う問 題 があ るこ とは間違 い ない。 とはい え, ここで その水準 の議論 をす ることは とて も望 み ようも ない ことである。
(2)強制 関係 と協 同 関係‑ 社 会 関係 の2類 型
ピアジェは 「社会」 とい うもの を 「社会 的諸 関係 の総体」(1'ensembledesrapportssociaux)と 考 える(320;560頁)。 これはマル クス と同 じで あ る(「フ ォイエ ルバ ッハ ・テーゼ」 13))。 しか し, この ことを もって ピアジェがマル クス主義 者 か否 か とい う問い を立 ててみて も益 す る もの はないだろ う。社会 とは 「社会 関係 の総体 の こ とだ」 とい うのは,今 日で は余 りに も当た り前 す ぎる真実 の ように思 えるか らだ。社会 は, 自 然 の ように, 目で見 た り直接手 で触 った りで き るような対象物 (物理的実在)ではない。それは, 自然 の ように視覚 ・聴覚 ・味覚 ・喚覚 ・触 覚 と い う五感 を通 して感 じられ る ものではない。で は,何 よって人は 「社会」 を感 じるのか と問 う と,それに答 えるのは難 しい。それ に答 える こ とはで きないが,社会 を自然 と同 じような実体 と考 えるのは無理があ る。 ピアジェの命題 はデ ュルケ‑ムの命題 に対置す る ものだった。 デュ ル ケ‑ ムは社 会 を実体化 す る傾 向が強 か った。
その点 を考慮 す る とピアジェの主張 の意味 も多 少見 えて くる。
ピアジェが 「社会 を社会的諸 関係 の総体」 と す る理 由は,社会 とは 1つの ものではないこと, 社 会 関係 の多様 性 を引 き出 したいか らであ る。
ピアジェに よれば,デュルケ‑ムは社会 を
「1
つの物」(choseunique)とす る(320;560頁)。第 4章第2節 の議論 を加味 して もう少 し丁寧 に言
えば
,
『道徳教育論』(L'6ducationmorale)に代 表 され る後期 デュルケ‑ムで は,初期 の 『社会分 業請』(Deladivisiondutravailsocial)で行 った「順応主義的な社会 における環節 的(segmentaire) 機械 的連帯」 と 「社 会 的分業 の もとに分化 した 社会 における有機 的連帯」 とい う社会類型 の区 分 を忘 れたかの ように
,
「社 会的事実 の一体性」(1'unitedesfaitssociaux)と 「道徳 的事実 の同一 性」(1'identitedesfaitsmoraux)を余 りに も強調す る(273‑274;493‑495頁 )。 デ ュルケ‑ム に と って,道徳 は社会が個 人 に向 って規定す る もの だか ら,社会 的事実 の一体性 か らは道徳 の 「質 的 同一」(homogene)が結 論 され る こ とに な る (320;560頁)。社会が1つの物 であ る以上,社 会が個 人 に向 って規定す る道徳 も当然1つ とな る訳 であ る。 ピアジェは,個 人 の道徳が外側 か ら社会 によって規定 され るこ とを否定す る訳 で は ない。 この点 はデ ュルケ ‑ム と同 じで あ る。
しか し,道徳 を同 じ 1つの質の もの と考 える点 につい て は批 判 す る。 「分化 した」 現代 社 会 に おいて,道徳 を質的 に同一 だ と考 えるこ とはお か しい。
そ して ピアジェは様 々な社会 関係 の集 ま りの 中か ら社会 関係 の典型 として2つの型 を取 り出 して くる
。
「強制関係」(lesrapportsdecontrainte) と 「協 同関係」(lesrapportsdecooperation)であ る。この2つは多様 な関係 の中か らその 「極端」(extreme)な場 合 を考 える こ とに よって出て く る。 「強制 関係 」 の本 質 的特徴 は,様 々 な義務 内容 の規則 を個 人の外部 か ら押 し付 ける ことで あ る。 「協 同関係 」 の本 質 は, あ らゆ る規則 を つ くりだす 「理想 的 な規範 意識 す なわ ち良心」
(1a consciencedenormesideales)を,個 々人の精 神 の内側 か ら生 み出す こ とであ る
。
「強制 関係」で は外部 か ら個 人 に規範が押 し付 け られ る。そ れ に対 し 「協 同関係」 で は個 々人の精神 の内部 か ら理想 的規範意識が形成 され る。 「強制 関係」
は ピアジェが デュルケ‑ムか ら引 き継 いだ考 え である。 それ に対 し 「協 同関係」 はカ ン トの道 徳学説 を個体発生 的 に説明す る もの と見 て よい
だろ う。
この個体発生 にかかわって,それぞれの関係 が どこか ら出て くるか とい う点 について, ピア ジェは次 の ように言 う
。
「強制 関係」 は 「権威」(1'autorite)による結 びつ き,つ ま り 「一方 向的 な尊敬」(1erespectunilateral)に よる結 びつ きか ら生 じる。権威 的な結 びつ きが どこにあ るか と 言 えば,容易 に想像 で きる ように,それは子 ど もとその周 りの大 人 との間の関係 の 中 にあ る。 子 どもと大 人の関係 を権威 関係 と捉 えることは 自然 な考 えであ る。 これ と異 な って
,
「協 同関 係 」 は 「平等」(1'egalite)と 「相 互 の尊 敬」(1e respectmutuel)によって特徴 づ け られる。そ してそれは静 的な状態 とい うよ り,む しろ 「極 限 的 な平衡」(equilibrelimite)であ る。 この 「極 限 的 な平 衡 」 とい う表 現 に込 め られ た意 味 は,
「極 限」 と 「平衡」 とい う言葉 の数学 的 ない し 物理学 的 な意味 か ら来ている と思 われる。数学 的 に 「極 限」 と言 えば,ある数値 に向か って近 づ いてい くことであ る。直線 的 に近づ くだけで な く,揺 れなが ら近づ くことも含 まれる。 おそ ら くピアジュの イメージで は揺 れなが ら近づ く とい うこ との方 だろ う。 その方が 「平衡」 とい う意味 に も合 う。物理学で 「平衡」状態 とい え ば,それはある点の周 りを小 さ く揺 れ動 きなが らその平衡 点か らは遠 く離 れ ない こ とで あ る。
「極 限」 も 「平衡」 もどち らも, そ こには時 間 的 な運動 とい うイメージがついて くる。 「極 限」
とい うのは,原理的 にはその点 に到達す るこ と はない。 ただ計算上 ,計算者である人間が無 限 に続 く永 遠 の時 間の果 に神 の よ うに位 置 して,
「極 限点 の数値」 を計算式 に代 入 して しまうと い う操作 をす る。 ピアジェが ここで イメー ジす るのは
,
「極 限値」 の方で はな く,
「極 限値 に至 る無 限の運動」 の方 だ。 ピアジェは 「理想」 を「事実」 で はな く 「権利」 である とも言 う
。
「理 想」 は 「極 限値」 の ように,人 間が そ こを目指 してい くべ き到達点 であ るが,われ われがそ こ に到達す ることはない。 わた したちが行 うべ き は, そ れ を 目指 した無 限 に続 く運 動 な の だ。「理想」 と しての 「平衡」 状 態 は
,
「協 同関係 」 の中で 目指 される ものだか ら,それは静 的 な も の として存在 す るこ とはで きない。 「協 同関係」は対等 な他者 を含 んだ関係 だか ら,それ は絶 え ず揺 れ動 きつつ,その中でバ ラ ンス を取 ってい
くものである。
この関係 か ら知的発達 お よび道徳 的発達 の両 面 においてい くつかの性 質が導かれ るこ とにな る。前 もって道徳面 に関 してだけ述べ れば, ど アジェが考 える ところでは
,
「強制」 は 「義務」(ledevoir)と 「他律」(1'h昌teronomie)の源泉 とな る。 しか し 「強制」 か らは 「善」(lebien)や 「自 律 的 な合理性」(1arationaliteautonome)は生み出 され ない。 それ らを生 み だす の は 「協 同関係 」 にお ける 「相互性」(1areciprocite)なのだ と言 う (320;560‑561頁)。
この ように して,社会 関係 の極端 な形 を取 っ て,その典型 として 「強制関係」 と 「協 同関係」
の2類型 を設定す る と, それぞれの側 にある性 質や要素が2元 的 に並 び立 って位置づ け られ る こ ととなる。 「強制 関係」 の側 には
,
「権威」 や「一 方 向 的 な尊敬 」,大 人子 ど も関係 , そ して
「義務」 や 「他律」 が並 ぶ。 「協 同関係」 の方 に は
,
「平等」 と 「相互 的 な尊敬」,
「道徳 的 な善」や 「自律性」
,
「合 理性」, そ して 「相 互性」 が 並 ぶ。 ところで,
「一方 向的 な尊敬」 と 「権威」が大人子 ども関係 の特色 であ るの はわか りやす い。 で は
,
「平等」 と 「相互 的 な尊敬 」 に よっ て特徴づ け られ る 「相互性」 は具体 的 には どこ に存在す るのだろ うか。 それ は,子 どもの 「友 人関係」の中にある。本書第1章 「遊 びの規則」で ピアジェが追求 したのは,男 の子 た ちが行 う
「ビー玉遊 び (マ ーブル遊 び)」(lejeudebilles;
thegameofmarbles)であ る。一般 に人 間の人格 発達 を親子 関係 と友人関係 の視点,あ るい は広 く大人子 ども関係 と同年輩者 関係 とい う2つの 視点か ら捉 えるのは,決 して ピアジェの専売特 許で はない。 た とえば笠原嘉 は,精神分析学 の 立場 か ら,人 間の発達 を親子 関係 と友人関係 の 2つの視点か ら捉 えてい る。 そ こで は,友人関
‑ 164‑
係 は,青年が親か ら自立 してい く上での 「受 け 皿」として,決定的に重要なもの とされている。
14)ただ, ここでの ピアジェの観点 は,青年の 自 立 を中心 に して考 える とい うよ り,道徳的な関 係 の質の起源 として捉 えている。その点,笠原
とは異 なっている。
この基本 的な2つの関係 を歴史的に どうみる か。予想 されるように,歴史的な進化 の過程 は
「社会の分化」(1adiff6renciationsociale)の過程で あ り,それは基本的に 「権威」 的な関係 か ら平 等 な関係‑ の移行 であ る。 「社会が分化す れば す るほ ど,諸個人はその能力 に したが って周 囲 の状況 を変 えてい くこ とがで きる ようにな り, 知的論理的側面で も道徳的側面 において も協 同 関係 が好 まれ るようになる」(321;562頁)。か くして進化過程 において,道徳規範 は,社会 に よって外部か ら強制 された他律 的な順応主義か ら,人格的に解放 された対等 な者 同士 の相互性 の道徳へ とそのあ り方 を変化 させ てい く。古 い 社会の権威関係 においては 「内容 を同 じくす る 共通規則」(lesreglescommunesenleurcontenu mime)が各人 に強制 されたが,現代 に近づ けば
「自律 的な良心の道徳」(lamoraledQlaconscience autonome)が現 れる(322;562頁)。 この ように
して,道徳意識の進化 とい う歴史的な社会発生 が,個体発生つ ま り個 人における道徳意識の発 達 と平行 な関係 にあることが見て取れる。
ところで
,
「自律 的 な良心 の道徳」 に関 して ピアジェは次の ように言 う。それは,各人 をた だ他者 との関係性 の中に 「自らきちん と位置づ ける」(sesituer;placethemselves)ように仕向け るだけである。 この他者 との相互性か らは確か に様 々な 「ものの見方」(perspectives)の共通法 則 とい うべ きもの も出て くる。 しか しその ことによって 「各人固有の ものの見方」(lespointsde vueparticuliers)が抑圧 されて しまうことはない, と(322;562頁)。 この意味 はおそ らくこうい う ことだろう。対等 な他者同士の間における相互 性 の中に自らを位置づ けて人間関係 をつ くって い くことは重要であ り,その ように人間関係 を
つ くることを 「良心」 は各人 に課す る。人間関 係 をつ くらず孤立 してロビンソン ・クルーソー の ように存在す るのでは,そ もそ も道徳性が成 立す る余地が ない。他者関係 のない ところに道 徳 は存在 しないか らだ。そ して他者 との対等者 同士 としての相互性 か ら,その相互行為 を行 う 中で 「おのず か ら
」
「自然 と」 ある種 の共通 な 道徳的な見方 とい うものが生 まれて くる。 しか しそれは古 い社会 におけるような 「規則 の内容 が共通 で あ る」 道徳 で は ない。 またそ うい う「共通 内容 の規則」 が各人 に向か って外 か らそ の順守 を求め る とい うもので もない。 だか らこ こでは各人固有の ものの見方や立場 の 自由が保 障 されるのだ。 この ように ピアジェは言いたい のだろ う。 これに対 して,規則 内容ではない法 則 としての共通性が生 まれ,道徳秩序が保 たれ る根拠 を問 うことはあ って よい。 しか しこれに 答 えるのは道徳哲学の課題 であ り, ピアジェの 課題ではない。 ピアジェはおそ らくカン トの道 徳学説 に期待 した と思 われる。 この点 について
ここでは課題 として残 してお くほかない。
(3)道徳発達 と知的発達 との平行関係
ピアジェは,個体発生 を知的発達 と道徳発達 に分 け,個体発生の内部 における 「道徳的発達 と知的発達 との平行 関係」(1aparallelismeentre ledeveloppementmoralet
l
'evolutionintel16ctuelle) を主張す る(322;563頁)。 これは個体発生 と歴 史的社会発生の平行 関係 の論理的帰結 と考 えて よい。 なぜ な ら,社会進化 の過程 を基本的に合 理化過程 と捉 えるか らだ。社会的 な合理化 とい う場合,認識面 においてだけ合理化があ り道徳 的規範意識の面 において合理化が ない とは,ふ つ う考 えない。 ピアジェが批判す る後期 デュル ケ‑ムは ともか くとして,少 な くともピアジェ は社会意識 の合理化 をそ うい う全面的な もの と して考 えた。 したが って,社会意識 の歴史的進 化過程 と個人の発達過程 において平行性がある 以上,個人の発達 は認知の面 において も,道徳 意識面 において も合理化 される とい うことになる。
しか しピアジェは論理的帰結 として,そ う述 べ るだけではない。認知発達 と道徳的規範意識 の発達が相即的 に発達 してい くことを,彼 の実 験 と観察の結果 として導 き出 した。
ところで
,
「道徳 的 な規範 と論理 的 な規範 の 間に存在す る類似性」(laparentequiexisteentre lesnormesmoralesetlesnormslogiques)に関 しては,すべ ての思想傾 向が認め るところだ とピア ジェは言 う。類似性 はた とえば次の ような形で 表現 される。「論理が思考の規範(morale)である と同様 ,道徳(morale)は行 動 の論 理 で あ る
」
(322;563頁)
。
「すべ ての思想傾 向」 の中で ピ アジェが特 に意識 しているのは, カン トの先験 請 (apriorisme)と道徳的価値 と知識 を扱 ったデ ュルケ‑ム派の社会学である。すで に述べ たよ うにピアジェは,デュルケ‑ムに関 しては第4 章の前半でその 「権威」 の考 え方 を中心 に批判 検討 を加 えている。 カン トについては名前が出 て くるだけ‑ それ も 「カン ト派」 とい う形で (272;492頁)出て くるだけで,デュルケ‑ムほ ど本格的 に検討 していない。 ここではデュルケ‑ムについて もカン トに関 して も触 れず,ただ ピアジェの発達理解 だけを見 てい く。
まず,論理的な規範 も道徳 的な規範 もどち ら も,生得 的に意識の中にある ものではない。た だ し,子 どもが言葉 を話 し出す前 か ら
,
「合理 性 と道徳性のすべ て要素」(tousleselementsdela rationaliteetdelamoralite)は観察で きる, とピアジェは主張する(322;563頁)。言語活動がは じ まる前 か ら
,
「感覚一運動 的知能」(1'intelligence sensori‑motrice)が 「同化」(assimilation)と 「構成」 (construction)とい う 「操作」(Operations)を し, それ らの操作 の 中に 「分類 の論 理」(1alogique desclasses)や 「関係づけの論理」(1alogiquedes relations)と同 じ働 きをす る 「機能的等価物」
(1'6quivalentfonctionnel)を発見で きる とい う。15)
同様 に,他者 に対す る子 どもの行動 の中に,そ のは じめか ら 「同情」(sympathie)や 「感情 的反 応」(reactionaffective)が見 られ,そ こにその後
の道徳的行動 となる もののすべての素材が発見 で きる とい う。 ただ し,知 的活動 が 「論 理的」
である称す ることがで き,感情的特質が固有の 意味 で 「道徳 的」 だ と言 える ようになるのは, それ らの 「素材」 に1つの 「構造」がで きてか らであ る。道徳 の場合
,
「釣 り合 い を取 る平衡 の規則」(lesr痩lesd'equilibre)がで きてか らであ る。(3221323;5631564頁)ここで注意 してお くべ き1つは, ピアジェの 用 語 と して 「論 理
」
(lalogique)と 「知 能」(1'intelligence)とは同 じではない, とい うことで ある。 ピアジェによれば,論理 とい うのは,知 能が 自ら働 きだす ときに使用す る 「統制規則
」
(lesrとglesdecontr6le)の総体 を指す。そ して道 徳 は, この論 理 と似 た役割 を感情面 で はたす。
したが って,感情が 自らを統制す る規則 の全体 が道徳 とい うことになる。その ような統制規則 は,論理的な もの も道徳 的な もの も,言語活動 が は じまる前 にはない。それ らは社会的行動 を す る中で出現 して くる。生 まれたばか りの初期 の知能が真理真実 を求める活動 をす る とい うこ とはない。16)同様 に道徳規範の起源 も外部 にあ る。子 ど もの基 本 的 な感情 に方 向づ け をす る (canaliser)のは,外部 の人 間たちである。初期 の基本的な感情が内部か ら自己 を規制す る とい うことはない。(323;564頁)
では, どの ように して道徳感情,道徳 的規範 が出来 て くるのか。すで に述べ た ように,道徳 的規範 も論理的規範 も生得的ではないが,道徳 的規範 の素材 はすで にあ った。 だか ら,その素 材が どの ように して道徳規範 になるのか, とい うことである。 ところで, この 「素材」 につい て ピアジェは
,
「構造」(structure)の ような もの ではな く,
「機能」(fonctionnement)だ と説明す る。ピアジェが ここで考 えている 「構造」 とい うの は
,
「意識の内容 を形づ くってい く(Organiser)ち の」 であ る。 それ に対 して 「機 能」 は,
「釣 り合 い (平衡)を求めて働 く法則」(lo主fonctionnelle d'equilibre)と して 「一貫性 や体系性 を求めてい
く働 き」(recherchedecoherenceetd'organisation)
‑ 166‑
と してイメージされている(323;564‑565頁)0 事物の無秩序の中に 「一貫性」 を求め,ひ とつ の 「秩序 を形づ くるこ と」(organisation)が,請 理の働 きである。秩序形成 といえば, また道徳 の働 きで もある。 ピアジェの考 えでは,道徳の 場合 の秩序 は 「釣 り合 い」 を取 る ことであ る。
知能面 と感情面 を含 めて初期 の活動 の 中には, この ような 「秩序へ の体系化」(organisation)を 求めてい く 「働 き」(fonctionnement)の 「等価物」 (1'equivalent)がすでにある, とい うのが ピアジ ェが発見 したことである。
で は,その 「働 き
」
「機能」 か らどの ように して,本来の意味での 「道徳規範」が生 まれる のか。それ に対 して ピアジェは,その 「働 き」を働 きとして意識 すれば よい とい う。 「意識す る」(prendreconscience;prisedeconscience)とは,
「意識 の中に取 り込 む」 ことである。「意識 の中 に取 り込 む」 とは,つねに意識の 「構造」の中 に取 り込むことである。このことをピアジェは,
「 (
働 き ・機能 を)適切 に意識す ることによって 構造 を形成する」(constituerdesstructuresparle moyend'uneprisedeconscienceadequate)と言 う(324;565頁)。ただ し,この 「意識化」 は
「1
回だけの操作」(uneoperationsimple)とい う訳 に はいかない。 む しろそれは,長期 にわたる もの である。 だか らここで 「意識す る」 とい うのは 比倫 に近い ものがある。いやむ しろ逆で,何 ご とも意識の中に取 り込 むことには,長 い時間を 要す る とい うのが本 当なのか もしれない。私 た ちの普段 の生活 を反省 してみて も,他 人に言 わ れて もそ う簡単 に意識 で きない ことは多い。で は 「意識 に取 り込 んでい く」 ための この期 間が どの くらいになるのか。 ピアジェはその長 さに ついて明言 してい ないが
,
「学校生活」 で は ま だ合理的な道徳規範が完成 していない と考 えて いる(326;568頁)。 また,認知能力の発達 との 平行性 とい う点か ら見 て も,一応形式 的操作能 力の完成の時期,15歳前後 くらい とい うことに なると言 ってよいのではないだろ うか。17)ピアジェは この完 成時期 まで の発 達 の論 理
を,ここでは3段階に分 けて説明 している。
まず 「自己中心性」(egocentrisme)である。 こ の名称 は誤解 を与 えやすい。すで に 「自己」が 形成 されているような印象 を受 けるが,そ うで はない。 この時期 に 「自己意識」(laconscience desoi)は まだ形 成 され て ない。 自己意識 には
「自己」 と 「他者」 の区別が含 まれている。「自 分」 と 「他人」 の区別がで きて,初 めて 「自己 意識」 とい うものが成立す る。 しか し, ピアジ ェがい う 「自己中心性」 は, 自分 と周 りの世界 との区別がつかず に,それ を混 同 している。 自 分の もの と他人の もの との区別 もつかず,主観 と客観 の区別 もない。周 りにあ る ものがすべ て 自分 を通 して 自分 の もの と意識 され るので あ る。論理面 を見ればそれは 「前論理」(alogisme) であ り,道徳面 を見 れば 「アノ ミー」(anomie) である。 アノ ミー(anomie)を語源的 に見 ればそ れは<a‑nomos>の ことだか ら
,
「前秩序」の ことである(324‑325;566‑567頁)。子 どもは心 に浮かぶ考 えを真実,本物 と信 じて しまう。心 に浮かんだ ものが これか らその真偽 を検証すべ きもの とはな らない。心 に浮かんだ感情 も同様 に,それだけで価値 あ る もの と信 じて しまう。
これか ら別の人間たちによって道徳的に評価 さ れる もの とは考 えない。 この ように知的面で も 道徳感情面 で も無秩序 なアノ ミー状態 にあ る。
これが 自己中心性 の状態である。 これが秩序 を もった状態へ と変換 してい くのは,社会関係 の なかで他者の評価 と判断 に接す ることによって である。
子 どもは,社会関係 のなかで 自己中心性 か ら 抜 け出 してい く。 ピアジェは社会関係 として, 大人 との関係 と しての 「強制 関係」 と対等 な友 人同士の 「協 同関係」の2類型 を想定 していた か ら, 自己中心性 の 「脱 中心化」 もこの2種類 の関係性の中でなされることになる。子 どもは 家族の中に生 まれるか ら,最初 に触 れるのは親 子 関係である。そ こにおける 「権威 関係」 の中 で子 どもの 自己中心性 が一定程度解放 され る。
次 に友人同士 を中心 とす る 「協 同関係」が くる。
その中で真 の道徳意識が形成 される とピアジェ は言 う。真 の道徳意識は内面化 された理想 的な 良心 であ り,合理的な意識で もある。知的側面 ではそれは合理性の論理である。
大人子 ども関係 における 「一方向的 な尊敬
」
と 「強制」 によって,論理的な統制 と道徳的な 統制の 「第 1の型」(unpremiertypedecontr61e logiqueetmoral)が形成 される(325;567頁)。大 人へ の尊敬 を通 して,子 どもは他者の意見 を聞 き,それに合 わせ るようになる。そ して 自分の 気 に入 っていた こ とを主張す る ことをやめ る。
我 を通す ことが な くなる。それは知的側面でみ れば,本 当のこととうその ことを区別す るよう になるこ とであ る。道徳的 にみれば
,
「強制 的道徳」の成立である。「大人の言 うことを聞 く」
とい うのは 「基本 的 な義務意識」(laconscience elementairedudevoir)の成立 とみてよい.それは
「第1の規範的統制」(lepremiercontr61enom atif) である(326;569頁)。 しか しこれは他律 的な道 徳であって真の道徳 ではない。 また 自己中心性 も残 ってい る。学校 生活(laviescolaire)には, この大人 による強制 と自己中心性の結 び合 わさ れた結果(leseffetscombinesdecellecontrainteet de
l
'egocentrisme)が見 られる とピアジェは指摘している(326;568頁)。 ここか ら脱 してい くた めに,友人関係 における 「協 同」 が意味 をもっ て くる。
「協 同のみが (子 どもを)自律性へ と向けてい く」(lacooperationseulemane
a
1'autonomie)。協同関係 の中で批判が は じま り,論議 を通 した中 での 「相互的な統制」(1acontr61emutuel)によっ て 自己中心的な思い込みが壊 されてい く。そ し てまた大人への妄信 的な思い込み も壊 されてい く。 そ して反省 と客観的 な真理検証が生 まれだ して い く。 こ こ に 「形 式 的論 理 の原 理」(les principesdelalogiqueformelle)が認め られるよう
になる。 この ような論理面認知面での変化 と平 行 して,道徳面で も変化が起 こる。協 同関係 の 中で,各 々の意向やや り方の規則 を相互 に比較 す る ことによって(parlacomparaisonmutuelle
desintentionsintimesetdesreglesadopteespar chacun),大人 を含 めた他 人 の言 うこ とや遣 る ことを客観的に判断す る(jugerobjectivementdes actesetdesconsignesd'autrui)ようになる。か く
して (規範的な)規則の内面化(interiorisationdes r占gles)が成立す る。協 同性 の中にある相互性 の 規範 を受 け入れる結果 として 自律性が成立す る (1'autonomieresultedel'acceptationdesnormesde reciprocite)ことになるのである。(327;570頁)
(4) 自治 と教 育関係‑ 心理 的知見 の教育場 面への応用 にかかわって
ピアジェは最後 に彼が得 た発達の知見 と教育 実践 の関係 について述べ てい る。 「知能 と良心 の両方の進歩」(ledoubleprogresdelaconscience etdel'intelligence)か ら見て
,
「大人は子 どもの支 配 者(maitre)で あ っ て は な らず 、 協 力 者 (collaborateur)であるべ きである」
。そ して ピア ジェが得 た心理学的結果 に最適 の教育組織 は,「自治」(self‑government)である と言 う(328;571 頁)。論理 的規範 の発達 も道徳規範 の発達 もと
もに友人関係 における 「協同の所産」(leproduit delacooperation)だか らだ。 ただ し, ピアジェ は 「教育学 は心理学 の単 なる応用ではない」 と 言 い,教育学が心理学 とは独立 してあることを 認 めてい る
。
「自治」 の取 り組 み も,それが道 徳的効果 をもつか否かは,実験教育学が これか ら研究 してい くべ き課題 とす る。(329‑330;573 頁)学校 において,子 どもは友人関係 の中におか れるだけでな く,何 よ りも授業 を中心 として教 師 との関係の中におかれる。学校 における 「自 治」 も教師 との関係 を抜 きに しては考 え られな い。 だか ら合理的 な規範の形式が主 として友人 関係 における協 同の結果だ として も,教師生徒 関係 へ の着 眼 な くして教 育組織 は考 え られ な い。ここでの ピアジェの答 は,教師 も 「協力者」
(collaborateur)であれ, とい うこ とになる。 こ れ までの ような 「支配者」(maitre)としての教 師 ではな く
,
「協力者」 としての教 師であ る。 し‑ 168‑
か し一体 「協力者」 とは, どの ような者の こと を言 うのか。基本的 には子 ども同士 の 「協 同関 係」(lesrapportsdecooperation)の 中に教 師 も
「協力者」 と して入 るこ とである。 しか し教 師 が子 どもと同 じ立場 になれるはず はない。子 ど もと立場 を異 にす る 「協力者」 とは どの ような ものか。その ような問いが出 されねばならない。
これ は当時 の新教 育 の課題 であ っただ けで な く,現在で も実践的な教育学の課題である。
学校 における教育関係 の問題 としては, もう 1つ述べ てお きたい。 ピアジェは社会関係一般 を 「強制関係」 と 「協 同関係」 に区別 した。 そ れ は また権威 的関係 と平等 な関係 で もあ った。
社会関係 の一般的な区分 として, この ような2 区分ではた してよいか とい う問題である。
た とえば,丸 山真男 は一般 的 な従属 関係 を,
「支配関係」 と 「権威 関係」 とい う2つの カテ ゴリーに区分 したことがある。18)「支配関係」の 典型 はギ リシアの奴隷制 に見 られたような 「主 人一奴 隷 関係」 で あ る。 「権威 関係」 の典 型 は
「教 師一生徒 関係」 に求めた。 「生徒 は多かれ少 なかれ教 師の影響力(influence)の下 に立 ち,教 師は生徒 に対 し一定の権威(authority)をもって いる。生徒が教師の精神 的価値 (知識 ・人格等) の優越性 を認 める ところには じめて教育機能は 成立 す るか らであ る
。
」19)丸 山は 「支 配 関係」と 「権威 関係」 を両端の2極 とす る座標軸 の中 で現 実 の社 会 的従 属 を捉 え よう と した。彼 が
「支配 関係」 と 「権威 関係」 の指標 と したのは
「利益志向の同一性 と対立性」 であ る。奴隷 は 主人の使役か ら逃れ ようとす る。 この主人 と奴 隷の ように 「支配関係」 においては,利益志向 が対立 してい る。 しか し 「教 師 と生徒 は同 じ方 向 を向いてい る。生徒 の成績 の向上 は同時 に教 師の成功 を意味 し,生徒 の失敗 はまた教 師の失 敗 である。教師にとっては,生徒があ らゆる精 神 的水準 において 自分 に近づ き,遂 には自分 を も超 えるのが教育 の理想 であ る
。
」20)この よう に利益志向 を同 じくするのが 「権威 関係」 だ とした。
人間関係 の2類型 を,1つの座標軸の両端 と イメージす る点で丸 山 とピアジェは似 ている。
しか し,その両端 は異 なる。 ピアジェが問題 と したのは,社会関係一般 である。丸山が問題 に したのは従属 関係 の問題 であ って,そこにはは じめか ら平等 な関係 が ない。 ここにア‑ レン ト を挟 む と,両者の違 いが よ くわか る。 ア‑ レン トは政治的な関係 を 「暴力」 と 「権威」 と 「議 論」 の3つか ら理解 してい る。21)じつはア‑ レ
ン トが論 じているのは,現代 人は 「権威」 とい う もの を理解 で きな くなってお り
,
「権威 とは 何 か」 とい うことの方である。 ここではその間 題 は脇 において, この3者の関係 を見 よう。す る と,ア‑ レン トのい う 「暴力」 と 「権威」が 丸山のい う 「支配関係」 と 「権威関係」 に対応 す る。そ して 「権威」 と 「議論」が ピアジェの い う 「強制関係」 と 「協 同関係」 に対応す るこ とがわか る。つ ま り, ピアジェの考 えた関係 に は,
「暴力」 ‑
「支配関係」 に対応 す る ものが な いのである。逆 に言 えば丸山は対等 な関係 とし て教 育 関係 を発想 してい ない とい うこ とで あ る。「生徒 が教 師の精神 的価値 (知識 ・人格等)の 優越性 を認 める ところには じめて教育機能は成 立す る」 とい う丸 山の見方 は,誤 っているだろ うか。私 はそ うは思 わない。 む しろそれは教育 関係 の本質 を言い当てている。 ただ しこれは道 徳教育の問題 とい うよ り,む しろ知的教育 に出 て くる問題である。丸 山が言 うように,故師の 精神 的価値の優越性 は,人格面 だけでな く知識 の面で も認め られる。学校 はその本来の成 り立 ちか らいって も,まずは知識の伝達機関である。
生徒 の側 が教 師の もつ知識 に精神 的価値 を認め ない ところで授業 は成立す るか とい う問題があ る。 もし,それ を認めるな ら,教 師生徒 関係 は 授業の場で 「権威関係」 として存在す る とい う ことになる筈である。丸山はさらに 「権力関係
」
(powerrelation)の存在 も認 めていた。 「教 師は 生徒 に対 して一定の義務 (学習義務)の履行 を命 じ,あるいは一定の行為 を禁止 し,そ うした義
務 の僻 怠 も し くは禁 止 の違 反 に対 して一 定 の制 戟 (進 級 の 停 止 , 退 学 ・ ・(中略 )・ ・)を課 す る。 そ う した制 裁 の行 使 が教 育 の常 態 に な る こ とは教 育 の 自殺 に は か な らな い が , この よ う な権 力 関係 の存 在 自体 が ア プ リオ リに教 育 目的 に 矛 盾 す る わ け で は な い
。
」22)こ れ は 「権 威 」 が 「暴 力 」 に よる 「強 制 」 につ なが る とい う指 摘 で もあ る 。 「制 裁 」 は一 定 の 手 続 きの 下 , 覗 代 の教 育 にお い て も行 わ れ て い る。 ピア ジ ェ も 学 校 に お け る 「自治 」 を論 じる 中で , フ ェ ル ス タ ー(Foerster)の 「購 罪 的 制 裁」(sanction expiatoire)の考 え を批 判 して い る。 しか し, こ の 真 意 は,
「協 力 者 」 と して の教 師 の 中 身 を理 解 す る こ と と同様 , こ こで は不 明 の ま ま と言 う は か な い 。 む しろ そ れ は, 現代 にお け る制 裁 問 題 とい う別 の課 題 と考 え るべ き こ とか も しれ ない 。
注
1)J.ラ イマ ‑,D.P.パ オ リ ッ ト,R.Hノ、‑ シ ュ (荒 木 紀幸 監 訳
)
『道 徳性 を発 達 させ る授 業 の コ ツ‑ ピア ジ ェ とコー ルバ ー グの到 達 点』北 大 路 書 房,2004年,JosephReimer,Diana PritchardPaolitto&RichardH.Hersh,Promoting MoralGrowth;From PtagettoKohlberg(1983), SecondEdition,WavelandPress,1990.
2)同書,i頁。
3)ハ ーバ ーマス 『コ ミュニケ イ シ ョン的行 為の 理論 (上)』 未 来社,1985年,38頁,106頁 以 下。
4)ア‑ レン トが考 える 「政治 的世界 」 の特徴 に つ い て は, ア ‑ レ ン トの 『過 去 と未 束 の 間』
(みす ず書 房,1994年 )
,
『人 間の条 件 』(ち く ま学芸文庫,1994年)参照。5)拙 稿 「普通教 育概 念 の 問題 (1)〜 (3)」,神 奈川大 学 F心理 ・教 育研 究論 集』 第18号 〜第 20号,1999年〜2001年 。拙稿 「実践 と判 断力 の カテ ゴ リーの ための覚書‑ ベ イナ ‑の ア
‑ レ ン ト解釈 の 問題 点」,神 奈 川 大 学 経 営 学 部 『国際経営論 集』第27号,2004年。
6)Piaget,Introduction
a
l'dPiste'mologiegdndtique, tome3,PressesUniversitairesdeFrance,1950, p.196.ピア ジェ (田辺振 太郎 ・島雄元訳)
『発 生 的 認 識 論 序 説 第3巻 』 三 省 堂,1980年 , 247頁。7)「訳者 序」, 同書,i頁 。訳 者 に よれ ば,第3 巻 の 再 版 が 不 要 と ピア ジ ェが 判 断 した理 由 は,第3巻 の 内容 (第3部 「生物 学思想 」,第 4部 「心 理学 思想 ・社 会学思想 ・論 理 学」)が その後 ピア ジェが著 した著作 の 中 に受 け継 が れたか らだ とい う。
8) 『岩波 生 物 学 辞 典 第 2版 』,1977年,「系 統発 生」 の項。
9)piaget,Lejugementmoralchezl'e'nfant(1932), PressesUniversitairesdeFrance,1992,p.260.大 伴 茂 訳 『児 童 道 徳 判 断 の 発 達 』 同 文 書 院 , 1957年,477頁 。 す なわ ち (260;477頁 ) は 仏 語260ペ ー ジ,邦訳477ペ ー ジ を指 す。以下 同様 で あ る。批 判 の対 象 と した一群 の研 究 を どの よ うな名称 で呼 ぶ か, つ ま りどん な研 究 分 野 と して位 置 づ け るか に関 して, ピア ジェ は揺 れ てい る。 そ れ は第4章 の初 め の段 落 を 見 る とわ か る。 「現 代 (当 時 )の社 会 学 と集 団 心理学」(lasociologieetlapsychologiecollective contemporaines)とい う表現 は最初 (ll.3‑4)に登 場 す る。ll.ll‑13に は 「今 日の道 徳 社 会 学 や 道 徳 心 理 学 が 提 起 す る命 題」(thesesdela sociologleOudelapsychologlemOralesd'aujOurd' hui)とい う言葉 が 出て くる。1.15で は 「社 会心 理 学 的 な理 論」(1estheoriespsycho‑sociologi‑ ques)と表現す る。 これ らの理論 に含 まれてい る とピア ジ ェが考 えて い たの は, デ ュルケ‑
ム, フ ォー コネ, ボー ル ドウ イ ン, ボ ヴェで あ る。英訳(TheMoralJudgmentoftheChild, MarjorieGabain汎 FreePressPaperback(1965 年)版 )は 「集 団心理学」(psychologiecollective) を 「社 会心 理学」(socialpsychology)と訳 して い る (英訳p.327)。 これ は 1つの見識 と認 め る が,「道徳社 会学 や道徳 心理 学 の命 題」(theses delasociologieoudelapsychologiemorales)を
「社 会学 的で道徳 心理学 的 な理論」(thesociol0‑ gicalandethico‑psychologicaltheories)と,「道 徳」 を 「心理 学」 だけ を修 飾 す る もの とみ た の は文法 的 に誤 りであ る。仏 語 で は ̀morales'
と女 性 複 数 形 容 詞 が使 わ れ て い る。 だか ら,
̀morales'は ̀sociologle'と ̀psychologie' の2つ に係 る とみ なけれ ば な らない。 そ れ は 内 容 面 か ら 見 て も 正 し い だ ろ う 。̀la sociologieoulapsychologiemorales'を 「道徳 社 会学 や道徳心 理 学」 と先 には訳 したが , こ れ はあ ま りに直訳 調 で あ り,内容 を汲 み取 っ て訳 す とす れ ば 「道徳 に関 わ る議 論 を展 開 し てい る社 会学 や心 理学」 とす るのが よい。 そ れが こ こで ピア ジェが言 お うと した意味 を表
‑ 170‑
していると思 う。その内容 を簡潔 に表現 した のが ̀morales'の一語である。 ここで ピアジ ェが 「道徳心理学」 とい う学問分野がある と 考 えていた とは思 えない。今指摘 した問題点 にもかかわ らず, ピアジェを理解す るに当た って英訳 は大いに参考 になった。仏語原文の 理解 に困った とき英訳の解釈 には大いに助 け られた。ただ し,英訳 だけでは ピアジェの思 考の流れを辿れない というの も事実である。
10)滝沢武久 『ワロン ・ピアジェの発達理論』明 治図書,1975年,86頁。
ll)同上,81頁以下。
12)JeanPiaget&RolandoGarcia,Psychogendseet histoiredessciences,Flammarion,1983.ジャン ・
ピア ジェ, ロラ ン ド ・ガル シア (藤 野邦夫 , 杉原望訳
)
『精神発生 と科学史‑ 知の形成 と 科学史の比較研究』新評論,1996年。13)マル クス,エ ンゲルス (広桧 渉編訳 ,小林 昌 人補訳
)
『新編輯版 ドイツ ・イデオロギー』岩波文庫,2002年,237頁。
14)笠原嘉 『アパ シー ・シン ドローム』岩波現代 文庫,2002年,29‑30頁。
15)この箇所 の英訳 は誤訳である。̀operationsof assimilationandconstmction,inwhichitishard toseethefunctionalequlValentofthelogicOf classesandofrelations'(英訳p.398)となってい るが, これでは 「分類や関係づけの論理の機 能的等価物が,同化 や構成の操作の中に発見 で きない」 ことになって しまう。仏語原文 は
̀desoperationsd'assimilationetdeconstruction danslesquellesiln'estpasdifficilederetrouverl' equlValentfonctionneldelaloglquedesclasseset decellesdesrelations'(pp.322‑323)とあ り,本 文 に示 した よ うに 「発 見 で きる」 で あ る。
̀not'が ないだけの誤植 と思 える程の ものだ が,内容的には大 きな違い となる。誤植 とい うことで考 えると,私の使用 している仏語版 は1992年の第7版 なので,む しろ誤植 は仏語 版 にあった とも考 え られる。<n'>の欠落の 可能性 はある。 しか し内容的に見て正 しいの は現行の仏語版であることは明 らかである。
16)ここも英訳 は誤 まっている。英訳では,̀the initialintellec山alactivitydoesactivelyseekfor truth'となっているが,これだ と 「初期の知 能は きわめて積極的に真理 を求める活動 をす る」 となる。 しか し仏語原文では, ̀etnonl' activiteintellectuelleinitiatequirecherche activementlevrai'である。 これだと 「初期の 知能 は真理 を積極 的 に求め る活動 を しない」
となる。仏語 にあ る全否定の<non>が,な ぜか英訳では肯定文 を強調す る<does>に変 換 されて しまっている。
17)ここの年齢 は,子安増生の ピアジェ理解 によ る。子安増生 「発達過程 の心理学」(同編 『教 育心理学』有斐 閣,1992年),同 「認知の発 達」(大村彰道編 『教育心理学 Ⅰ』東京大学出 版会,1996年),参照。
18)丸山美男 「支配 と服従」
,
『(増補版)現代政治 の思想 と行動』未来社,1964年,412‑422頁。19)同上,412‑413頁。
20)同上,415頁。
21)ア‑ レン ト 『過去 と未来 の間』(前掲 ),125 頁。
22)丸山 413頁。