特集 前田英樹教授を送る
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があるが、どうせその道に進むのであれば、そこで出会う障害と格闘し、そしてまた新たな障碍と格闘していく歩みのほうが、厄介で大変だけど楽しいのではな いのか。この本は、ベルクソンという人物が真摯に歩んだ、そうした厄介だけ ど、おそらくは楽しくもあっただろう道のりを描いたものと言える。だから、映 像や身体の問題に興味がある学生はもちろん、ダンスや演劇、映像制作に興味の ある学生、どのような学生でも一度はこの本をゆっくりと時間をかけて読んでほ しいと思う。この本を読むということは、学者、作家、どのような道にも共通し ているだろう、障碍と格闘し続けるということ、その態度に触れることに他なら ないからだ。
ところで、ベルクソンは自身の最後の著書で、宗教の成立後のさらなる進化の プロセスの果てに、聖パウロや聖テレサといった「神秘家」が現れると考えたそ うだ。神秘家は、その端的な行動によって、熱を人々へ伝えていく。そしてその ことが社会の変革につながっていくような、そうした存在である。しかし、そう した生の在り方は、宗教の領域、神秘家に限られるのだろうか。一人の人間の真 摯な仕事は、多くの人を揺り動かし、また後世の人々の仕事や生き方に大なり小 なり影響を与えることを我々は知っている。そして、そうした人は、実は普段見 慣れた街にもいたりするものである。この学科からも、その行動の持つ熱によっ て人々を揺り動かしていくような、そうした人が出てくるといいな、と思う。
解題|
前田英樹『小津安二郎の家 持続と浸透』
書肆山田、1993三宅 隆司
みやけ たかし 立教大学大学院 現代心理学研究科映像身体学専攻博士課程後期課程 映像身体学
「『晩春』の紀子、あるいは『秋刀魚の味』の路子が嫁いでいったあとの無人の 部屋のショットは、そこに暮らした娘たちの現在における不在を表象する記号で
立教映像身体学研究
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はいささかもない。部屋は娘たちの会話、微笑み、歩行よりもはるかに多くの過 去によって運動しており、娘たちはその過去の現存する一部分となってそこに ある」(
131
頁)。これほどまでに、『晩春』、あるいは『秋刀魚の味』のあの部屋の ショットの正鵠を射た文章を、筆者は知らない。疑いなく、あれらのショット は、こうしたイマージュとして存在している。そう直観せずにいられない何かが ある。しかし、その直観を思考し抜こうとするとき、そこには新たな哲学の創造 までもが必要とされるのではないか。彫刻家ロダンの、写真における運動に対す る告発から説き起こしつつ、主として『晩春』以降の小津映画を論じ上げること で、この本が果たしているのは、その哲学への、あるいは、その或る存在論への 飛躍なのだ。時として、著しい思考の緊張を読者に要求するこの本の性質は、そ こに由来している。だが、まさにその困難は、他ならぬ機械映像の誕生そのもの に強いられたものだ。その乗り越えを試みることが、真っ直ぐに映像を思考する 者に担わされた課題であり、そして、映像身体学の位置するところなのだ。その思考領域のモチーフの一つである、〈機械による知覚〉の概念は、この本に おいて胚胎されている(本の中では「非中枢的知覚」と表現されているものだ)。
その概念によって切り拓かれた、「小津が開き、そして誰も受け継ぐことのでき なかったひとつの巨大な方向」(
98
頁)が存在する。その方向は、やがて人の思 考を果てしなく遠い場所へと導いてゆくことだろう。だが、その最果てから人が 還ってくるのは、必ず私たちが生きているこの世界、この身体である。その方向 を開いた、「小津のイマージュは、いまも私たちの知覚のまえにありつづけてい る」(132
頁)のだ。「実際、私たちには、ひとりの人間があることのすべての意味(…)を、現実の会話その他の接触によってではなく、その人間が使用した事物 のふとした顕われをとおしていっきに、決定的に了解する隠された無数の瞬間が ある」(
132
頁)。この本の思考は、この身体経験に根ざしてほか成立しえなかっ た。そして、その身体の事実の根底を明らかにする好機が、他ならぬ機械映像に 存在するということこそ、この本が看破していることなのである。それの歩んだ 道のりを共に生き直すことは、必ずや人を映像身体学の思考の戸口へと向かわせ るだろう。身体の存在と、映像の存在抜きにしては決して創造され得なかった、紛れも無い映像身体学の実践が、ここにはあるからだ。